《天元五歌》 明 蔣大鴻 著
天地が未だ分かれざる先は、ただ一團の渾浩たる「元氣」があるのみで、その中にはすでに天・地・人の三種の物象が含かくされている。混沌がひとたび開…
風水堪輿典籍
まず読む書が形勢か理気かを見極めてから条文に入るのがよい。派を跨いだ術語の混用が、この門で最もありがちな誤読の源である。
第一:大義を論ず
一元浩氣含三象,混混分開氣升降。天清地濁成兩儀,陰陽互根氣來往。山川土石象中氣,日月星辰氣中象。二氣相抱不相離,濁陰本是清陽象。
天地が未だ分かれざる先は、ただ一團の渾浩たる「元氣」があるのみで、その中にはすでに天・地・人の三種の物象が含かくされている。混沌がひとたび開けば、氣は昇と降に分かれる。清くして上升するものは凝って天とであり、濁りて下沉するものは凝って地とであり、ここにおいて「兩儀」がある。天地は分かれたとはいえ、陰陽は互いに根柢となって、氣機の往來はかつて斷絶しない。山川土石は有形の「象」で、象の裏に無形の氣を含んでいる。日月星辰は流行する「氣」で、氣の裏に見えるべき象を顯す。陰陽の二氣は相抱いて相離れず、見て沈濁なる陰質は、本來清陽の氣が凝結して出た形象である。地理の一道が看るのは正にこの一團の氣で、形勢を看るのはただ氣を看るためである。
唯有人為萬物靈,品配乾坤號有兩。一人自具一天地,卓立三才不相讓。元陽本是天中來,形從大地產根陔。至人父天而母地,此是生成妙化裁。
萬物の中で人のみが最も靈で、その品格は乾坤と相配することを得、ゆえに天地と並んで「三才」と稱す。一人ひとりの身にはみな一副の小天地が具足して卓然と自立し、絲毫も天地に遜らない。人身の元陽の氣は本來天上より稟受して降りたもので、形骸血肉は大地が生養し土壤に根ざしたものである。ゆえに修養の極ところに至った「至人」は天をもって父となし地をもって母となす。これ正に天地が人身を生成した一段の精妙なる裁剪である。地理の術が人の禍福を改換しうる所以は、人身と天地とが本來同一の氣機に屬するに在る。
天元降在地元中,猶如父母媾成胎。十月嬰胎非父職,三年乳哺母之懷。人生本天而親地,地靈原是天靈栽。
天上の元氣が地中の元氣の内に降り入るは、譬えば父母が交媾して胎孕を結ぶがのようである。胎兒の十月の懷養はすでに父親の職分ではなく、出生後三年の哺乳は更に全く母親の懷抱に靠る。人の性命の本源は天に出で、養育は地に親附する。ゆえに大地の靈氣は、根に追ればすなわち天上の星氣の栽種し貫注した所である。地を看るには必ず天を兼ね看るを要し、「形」と「氣」は本來一件の事である。これもまた全書が「天元」をもって名を立つ所以である。
生時衣食居廈屋,萬寶地產名天祿。由來宅相福生人,帝室皇居壯京國。死時理骨歸於土,反本還原義反覆。還從地氣吸天光,變化蒸噓露金玉。
人が生きている間、着る所食う所、住む高屋大廈、および萬種の寶貨物產は、一つとして地より生ぜないのはない。これを「天祿」と呼ぶ。古來住宅の善し惡しは活人に福澤をもたらし、帝王の宮室・京師の氣象は、正に一方の地氣に依って壯大となったものである。人が死して後、骸骨を收斂して土に歸葬するは、本に返り元に還り循環往復の道理である。骸骨は地下に在ってなお地氣に憑藉して天光を吸取し、蒸騰して嘘化し、年深く日久しければ金玉のように温潤にして光を生ず。この一段は先ず陰宅と陽宅とが同じく一源に出ずる大義を立定する。
煉陰仙客解沖虛,凡骨猶能化百族。吉成龍鳳眾靈奇,凶作蟲蟻諸惡毒。精魂苦樂人不知,但見子孫生禍福。
形を煉り陰を煉る仙家は沖擧虚化の道理を懂するも、凡人の骸骨も地氣の中に在って同じく種種の物類に變化しうる。吉地に葬れば、骨殖の化する所は龍鳳の一類の靈奇の象とであり、凶地に葬れば、化する所は蟲蟻の一類の惡毒の物となる。地下の精魂の苦か樂かは活人の知る由もなく、見ることを得るはただ子孫の身上に應じ出ずる禍福のみである。蔣氏はこの數句を用いて點明す。葬法の驗するや否やは、全て骸骨の受くる氣が「生氣」か「死氣」かを看る。
聖賢仙佛亦難逃,帝王將相莫自豪。各有山川來蔭應,今來古往不相饒。最小千金傭販子,亦沾微潤樂陶淘。不然無祿並絕世,墓宅不爽爭秋毫。
聖賢仙佛を連ねてもこの一層の感應を逃れることできない。帝王將相は更に命の大なるを自誇するを要せず。上は天子より下は庶人に至るまで、各自一方の山川ありて暗中に蔭應し、古より今に至る誰も寬假せられたことなし。たとえ本錢千金の小販傭工のみにても、墳宅がやや合宜せば、一點の潤澤に沾て安樂自足することを得。もし墳宅合しなければ、祿なく食み絶嗣するに至る。墓と宅の應驗は分毫も差なく、秋毫の末をも計較するがよい。
所以聖人重此道,遷幽卜洛何焦勞。後來名賢朱蔡輩,煌煌書冊議最高。無奈豎儒識見偏,諱言求福雲達天。世上惜財薄葬者,附會此說以文慳。
正にこの故に、古代の聖人は極めて地理の道を重んじた。公劉が豳に遷居し、周公が洛邑に宅を卜したるは、なんらの辛勞愼重か。後世の名賢、朱熹・蔡元定の輩のようなは、彼らの煌煌たる著述の裏に相地擇葬を議論すること最も精到である。無奈であり、見識偏狹の小儒は「福を求む」の二字を忌諱し、動もすれば吉凶はただ天の命に聽くべきというく。世上の錢財を吝惜して草草として薄葬する人は、すなわちこの種のいう法に附會してもって己の慳吝を文飾す。
一日偷安拋父骨,世代凋零百不全。直使子孫貧夭絕,不孝莫大豈為賢。覆槨翻棺並腐骨,父母魄魂更堪憐。
一日の省事を圖りて父母の骸骨を草草として抛置するは、結果は世代凋零し百事周全することできない、子孫の貧困・夭亡・絶嗣に至るまでして止む。不孝はこれより大なるはなく、どうして尚賢德と算することをるのか。棺槨傾覆し尸骨朽爛し、父母の魂魄は地下ににおいて更加に可憐である。この數句は「福を求むるを要せず」の名を借りて薄葬の實を行う人を痛斥する。
世間萬事半荒唐,惟有陰陽不可當。不笑不言三尺土,掌握禍福急如火。笑人不重祖父墳,只望花開不看根。僧道乳母且相應,繼子外甥如嫡親。
世上の事は多半荒唐にして憑信に足らず、唯獨陰陽地理の理は抵あたすることなし。あの言わず笑わざる三尺の黃土は、一家の禍福を掌管すること烈火のように急である。可笑しきことに世人は祖父の墳塋を看重することを肯じず、ただ枝頭の花の開くを盼むも、却って樹根を看ることなし。氣機の感應は骨肉に限らざるを知るべきである。僧人・道士・乳母も尚その居し葬る所の地と相感應することを得、過繼の子・外甥の受蔭も親生の嫡子と一般二致なし。
墓宅吉凶較量看,新墳舊墓亦相參。墓宅兩興宜鼎盛,宅墓兩廢斷人煙。宅凶墓吉兒孫慶,墓凶宅吉眼前歡。祖父新阡沾殺氣,高曾福廕他房去。
一家の興衰を斷ずるには、陰宅と陽宅を一ところに置きて比較權衡し、新葬の墳と舊有の墓も彼この參看するがよい。墳と宅の兩邊共に氣を得れば、家道は自然に鼎盛し、兩邊共に氣を失えば、人煙を斷絶しよう。陽宅凶にして陰宅吉ならば、應期は緩しとといえどもも、兒孫終に慶づべき日あり。陰宅凶にして陽宅吉ならば、不過眼前一時の歡喜のみ。もし祖父新葬の地が「殺氣」に沾染せば、高祖・曾祖の原有の福蔭は別房に轉じて、本房は反ってその禍を受く。
寒林忽發一枝榮,若非新宅必新瑩。吉少凶多福來短,吉多凶少禍來輕。更看尸骸寒與暖,歲久骨枯取效緩。惡山惡水倘曾埋,銷盡陰霾氣方轉。
一片衰敗の寒林の裏に忽然として一枝繁茂するあれば、この一房の驟然の發達は、新遷の陽宅の氣を得たるにあらなければ、必ず新葬の墳塋の氣を得たるである(底本「莹」の字はあたに「茔」と作るべき、なお照錄して改めず)。諸ところの中に吉少なく凶多ければ、福澤は短く、吉多く凶少なければ、禍患は輕し。還た骸骨の寒と暖を察看するがよい。年久しく骨枯れたるは、氣を受くること遲鈍にして、效を取ること自然に緩慢である。もし先前かつて惡山惡水の地に葬りしあれば、必ずあの一段の陰霾死氣の銷盡するを待ちて、地氣すなわち轉ずるを肯ずるである。
初喪新骨天靈完,葬乘生氣朝花鮮。更遇嫩山並嫩水,一紀之內錦衣旋。並將宅氣來相輔,卑田院裡出官班。
剛に去世したる新骨は、先天の靈氣なお完足し、一葬すればすなわち「生氣」を承乘することを得て、應驗の速やかなること清晨初めて放つ花のように鮮明である。もし更に「嫩山嫩水」に遇わば、すなわちあた運初交・氣機まさに新なる山水なれば、十二年の内に衣錦して故鄕に還ることを得。更に陽宅の氣ありて旁より輔助せば、縱い貧病孤老を收容する卑田院の内にても、仕宦一班の人物を出すことを得。
莫說生來命數奇,地元一得天星移。此是至人造命訣,二十八宿掌中齊。莫說窮通有骨相,騰蛇變作雙龍樣。此是仙家換骨方,死骨不滅生骨壯。
人の命數は生まれながら注定したというくこと莫れ。地下の元氣一旦法を得れば、天上の星辰もも我がために移轉するを隨う。これすなわち至人の「造命」の口訣にして、二十八宿の吉凶は全て掌握の中に在り。窮通榮枯はただ骨相に憑るのみというくこと莫れ。騰蛇のような賤格も變じて雙龍の貴象と成ることを得。これすなわち仙家換骨の方子にして、死者の骸骨は消えず滅せず、生者の骨相はすなわち之に隨って强壯である。この兩層の意思は正に第五篇《造命》のために張本を張る。
勸君大地勿誤求,大形大局少根由。縱有千山並萬水,與他穴氣不相投。一枝一泡山龍真,一鉤一曲水龍神。肉眼只嫌結局小,箇中生意滿乾坤。
人を勸めて一味に所謂「大地」を錯求すること莫れ。形勢浩大・局面闊綽の地方は、往々にして眞正の來歷根由なし。縱い千山萬水を羅列するも、穴中の氣と相投合しなければ、も枉然である。山龍はただ一枝の落脈・一ところの泡突あれば、すなわち眞結である。水龍はただ一鈎一曲の環抱あれば、すなわち眞神である。肉眼に看てそのの結局の太小きを嫌うも、その中の生機は天地に充塞す。この數句は先ず形勢一派の大を貪り闊を喜ぶ積弊を破る。
恨殺時師不識真,常將假局賺他人。謀占靈壇並舊墓,壞人心術少安寧。豈知吉地方方有,只在眉頭眼下尋。
最も恨むべきはあた時の庸師が眞結を識らず、常に假局を拿て主家を哄騙し、はなはだだしきは人の神坛と舊墓を圖謀侵奪し、心術を敗壞し、自身も安寧を得ないである。彼らあに吉地はところところにありて、ただ眉頭眼下のこれ平常の地まさに細心に尋取するに在るのみを知らんや。
蔣生二十慈親喪,幾度拜人求吉葬。家破多因買地差,身衰半為尋師浪。幸遇真人無極子,授我玉函法眼藏。十年冥悟徹元微,萬里探奇走煙瘴。
蔣大鴻自ら來歷を敘す。我二十歲の上に母親去世し、幾度か登門して人に求めて亡親のために一吉地を擇んで安葬せんとす。家道の敗落は多半地を買い錯えたるがため、身體の衰弱は一半師を訪て奔走虛耗せるがためである。幸いにして後に眞人「無極子」に遇い、《玉函》一派の法眼眞傳を我に授けらる。この後十年潛心して冥悟し、玄妙の根本を參透し、また走りて萬里・深入りて烟瘴の鄉に奇蹤を印證す。
識得天元造化根,花前月下天機放。此書不是術家書,河洛龜龍太極圖。羲文周孔心相契,夏禹殷箕義不磨。管郭遺文多偽託,楊曾口訣世間無。
「天元」造化の根本を識得するに至りて、すなわち敢て花前月下に天機を放膽してか出す。この部の書は尋常術士の書にあらず、そのの根柢は《河圖》《洛書》・龍馬神龜と太極の圖である。伏羲・文王・周公・孔子の心法と相契合し、夏禹の治水・箕子の《洪範》九疇を陳べき義理と一樣に磨滅すべきでない。管輅・郭璞に托名せる遺文は多半是僞造にして、楊筠松・曾文辿の眞口訣は世間早くすでに失傳した。
若不傳心並傳眼,青囊萬卷總摸糊。天涯倘遇知音客,留取雲陽醉後歌。
地理の一道、もし師門傳心の法訣と親授の眼力なければ、縱い《青囊》一類の著述萬卷あるも、よみて總て模模糊糊である。他日天涯にもし眞正の知音に遇わば、我が雲陽子の醉後に唱えるこのの五篇の歌訣を留めて彼に與えん。
第二:山龍篇
昔日華山陳處士,演成太極傳當世。推原天地未分時,只有坎離水火氣。二氣盤亙不相離,清者為天濁者地。
あた年華山の隱士陳搏は《太極圖》を推演して世に流傳した。彼は天地未分の先を推究して、宇宙間に坎水・離火の兩種の氣あるのみとす。この兩種の氣は盤繞交錯して相離れず、その中の清輕なるは上升して天と為り、重濁なるは下沉して地となる。山龍の一篇はここよりいうき起こす。山の骨相は水火二氣の煎凝に出づるを人に明白ならしめ、山を看るには必ず氣の上より看るを要し、死形のみを認むべきでない。
坎離一交成乾坤,製造大國如冶鑄。黃輿乃是治中灰,水火煎烹積滓翳。山情剛燥火所凝,骨骼支撐為砥柱。
坎離水火一經交媾すれば、すなわち化して乾天坤地と成り、造化經營してこのの一片の大國土を出すこと、冶煉して器を鑄るがのようである。大地のこのの一片の黃輿は、不過冶爐の中の剩したる灰燼のみ。水火反復煎熬烹煉し、渣滓積聚凝結し、おいて是山川あり。ゆえに山の性情は剛勁燥烈にして、火氣の凝結せる所である。山の骨骼支撐起來して、すなわち大地の砥柱となる。
崑崙高頂九霄中,此是中天泰帝宮。海外三山幾萬里,總與此山脈絡通。陽脈東南來震旦,如人正面向離風。篤生聖哲臨夷夏,迥與肩背不相同。
崑崙山頂は高く九霄に入り、相傳えて中天太帝の宮闕とし、天下衆山みなそれを奉じて祖とする。海外の蓬萊・方丈・瀛洲の三山は幾萬里を遠隔すとといえどもも、脈絡も總て崑崙と相通ず。その陽脈は西北より東南に向かて發出し、來りて「震旦」すなわち中國のこのの一片の地まさに至るは、人體の端端正正として南方の離位に面向して風氣を受くるがのようである。ゆえにここは篤實に聖哲を生出して、華夏に君臨することを得、背脊肩胛のたいする所の邊遠の地と大不相同である。
大干三條分主輔,三條各有帝王龍。帝穴龍神五百里,若然百里作王公。但有特龍來數里,亦許功名鑄鼎鍾。
崑崙より發出する大干龍は共に三條ありて、主あり輔あり、北干・中干・南干各自みな帝王の龍を結出することを得。帝王大穴を結ばんには、龍身は須らく五百里を行くべくして分量に足る。もしただ百里を行くに止まれば、應ずる所は王公一級である。すなわちただ一條の特起の小龍數里を行來するのみにても、眞結たりさえすれば、人に功名顯達・勳名を鐘鼎に鑄るを許すべきである。この數句は龍身の長短遠近をもって貴賤等級を定む。
欲識龍行先識起,龍若起時勢無比。高山萬仞削芙蓉,千里層巒皆俯視。此龍多生木火形,放下群枝行入際。一枝一葉有龍神,正龍端向中央去。
龍の行度を認めんには、先ずその「起」すなわち起祖起頂のところを認むべきである。眞龍の勢を起す時、氣象は倫比なし。高山萬仞は刀削り出したる芙蓉のように、四圍千里の層巒はみなその脚下ににおいて俯首す。かかる祖山は多く木星・火星のような尖聳の形體にして、それより衆多の枝脚を放下し、各自分行して出ず。毎一枝一葉の上に龍神尋るべきありて、正干の龍は必ず端端正正として中央に朝して去り、偏側を肯ぜず。
只把江南大勢看,南龍起頂是黃山。左翼九華開內府,右翼天目廠東藩。正龍句曲神仙府,直到金陵龍虎蟠。
すなわち江南一帶の大勢を拿て印證す。南干龍の起頂のところは黃山である。その左邊一翼は九華山に落下して、內府を開設するがように、右邊一翼は天目山に落下して、張開して東南の屏藩とする。正干の龍はすなわち句曲山を結成して、すなわち道家の稱する神仙洞府である。再び一路奔りて金陵に至り、「虎踞龍蟠」の帝都氣象を成なおす。
山形一起一龍分,數起數分龍益尊。龍神分去無非穴,正幹偏枝力不均。看龍看起復看斷,凡屬真龍斷復斷。斷時百里失真蹤,穿江渡海情無限。山根委曲地中行,不是仙人誰著眼。
山形は頂を起す毎に、すなわち一支の龍を分出す。起すこと愈多ければ分すること愈多く、主龍は反って愈發尊貴である。分去したる龍神はところところみな結穴することを得、ただ正干と偏枝の力量厚薄の同からざるのみ。龍を看るには既にその「起」を看るを要し、もその「斷」を看るがよい。凡そ眞龍は、再三跌斷しないはなし。斷ずる時は百里を連ねて蹤跡を見ず、はなはだだしきは江を穿ち海を渡るも氣脈は絶えず、情意は窮りなし。山の根脚は地中に委曲潛行して、眼力仙のようなにあらなければ、誰か着眼して看出すことをる。
識得斷龍方識結,結穴元微最難說。世人求穴近大山,且要案山龍虎夾。豈知大山龍未歇,縱有窩藏反走洩。
「斷龍」を認出することできて、すなわち「結穴」を認むるを談ず。結穴の玄微のところは最も言語をもっていう明し難し。世人は穴を尋ぬるに總て大山に緊靠するを愛し、また必ず案山と左右龍虎砂の夾護有らんことしてすなわち放心す。彼らは緊靠大山のところは龍氣尚未だ止歇せず、縱いその裏に窩かくの形あるも、生氣は旁より走泄するを知らず。
真龍偏結曠野中,踴躍奔騰不伯風。饒他落在深巖裡,也要平坡萬象空。好龍勇猛向前奔,從龍不及過關門。譬若神駒日千里,難將凡馬望其塵。
眞龍は偏偏常に曠野の中に結して、氣勢踊躍奔騰し、風吹を怕れず(底本「伯」の字はあたに「怕」と作るべき、今照錄して改めず)。すなわちそれが深山岩谷の内に落つるも、穴前に一片の平坡・萬象空闊有らんことしてすなわち眞と算す。好龍は一往直前に奔驅し、護送の從龍は追趕せず、關門を過ぐることを得ない。これ日に千里を行く神駒のように、尋常の馬匹はそのの揚げる塵土をも望見することできない。
亦以三春抽嫩筍,從龍如籜抱其身。一朝雷雨千宵長,節高籜落不相親。時師只怪無龍虎,真龍真虎穴中鎖。會得天然龍虎時,浪打風吹皆樂土。
また譬えば三春の時節に抽出したる嫩筍のように、護送の從龍は筍籜のようにそのの身を裹抱し、一旦雷雨驟至すれば、一夜の間に抽長すること許多、節節高起して、筍籜は自然に脫落し、相依せず。庸師は穴旁に龍虎砂ないを見てすなわち眞穴にあらずと疑心す。その實眞龍は自ら眞虎あり、關鎖はすなわち穴中に在り。もし天然生成の龍虎を識得せば、縱い浪打風吹のところに在るもみな安樂の土である。
龍神節節顧祖宗,如子戀母遠相從。若不祖山為正案,另求特案配雌雄。百里真龍百里案,賓主威嚴真匹配。莫言作案便非龍,但是高峰都不賤。
龍神は一節一節祖山を回顧して、孩子の母親に戀するがように、遙遙に相隨う。結穴のところもし祖山をもって正案と為さなければ、別に一座の特起の峰を尋ねて案とし、穴星と配して一たいの雌雄を成さんことがよい。百里を行きたる眞龍は、すなわち百里相稱の案山を配するを要し、賓與主みな威嚴匹敵して、すなわち眞配と算す。凡そ案山と作りたるはすなわち龍にあらずと以するること莫れ。ただ是特起の高峰たりさえすれば、みな賤格にあらず。
穴落脈を辨ず
辨穴先須辨落脈,落脈乃是穴消息。頂上生峰脈頭角,兩旁開帳脈羽翼。粗枝出細好花房,老蛙生珠光滴滴。
穴を辨ずるには先ず「落脈」を辨ずべきである。落脈は正に穴情の消息の在る所である。頂上に再生せる小峰は、脈の頭角である。兩旁に展開したる帳幕は、脈の羽翼である。粗大の枝脚の上に細嫩の一段を抽出するは、すなわち好花房である。老蚌の珠を生ずるがように、光澤滴滴可愛である(底本「老蛙」と作るは、あたに「老蚌」の訛であり、今照錄して改めず)。
也有好龍無脈看,高岡平阜只粗頑。彼處祖宗多脫卸,數節之前骨相完。大率真脈有二種,連脈飛脈精神迥。連脈真蹤在本山,飛脈他山復一湧。本山定是結垂頭,他山半作拋珠弄。
も好龍ありて一時落脈を看出せず、ただ高岡平阜一片粗頑を見るのみ。これ祖宗山がここに至りてすでに層層脫卸したればである。須らく數節の前に退回去して看るべくして、骨相すなわち完整にして辨むべきである。大略にいうけば眞脈は兩種あり。一は「連脈」と叫び、一は「飛脈」と叫ぶ。兩者の精神迥然として同からず。連脈の眞蹤はすなわち本山の内に在り。飛脈はすなわち別の一座の山上に到りて再び一頂を涌起しよう。本山に落つるは必ず垂頭の穴を結成し、他山に起つるは、多半弄珠のような弄脈を作す。
也有飛脈遠數里,起伏愈多龍愈美。時師只道餘氣長,或說羅星水口當。豈識真龍饒變化,草蛇滅線最難詳。教君到此須求盡,真龍大盡貴非常。
も飛脈の數里の外に遠出するあり。起伏愈多ければ、龍はすなわち愈美である。庸師は見てただ是余氣の拖ること長しというき、或いはその不過水口のところの羅星のみというく。彼らあに眞龍の最も變化に富みて、草中の蛇・滅沒の線のように、最も看分明し難きを知らんや。かかる地まさに到れば、務めてそのの盡頭に追尋せよ。眞龍の大盡のところに行きて結ぶ所の穴は、貴不可言である。
近山飛脈不嫌土,遠山飛脈石中數。若無真土盡浮泥,恐是人工難證取。與君細論石中機,石是山精骨髓滋。時師只怪石無穴,誰道真龍石始奇。
飛脈の近山に落つるは、穴中の土なるも妨げず。飛脈の他山に遠出するは、すなわち石の中に到りて數尋せんがよい。もし通身一點の眞土なくして、ただ一層の浮泥のみあれば、その多半是人工堆填にして、取信し難し。ここに再び石中の機竅を細論す。石は山の精華にして、骨髓の滋結して成れる所である。庸師は一見石頭を見ればすなわち結穴することできないというく。殊に知らず、眞龍は正に石あるしてすなわち奇特を見る。
真鉗真窩石內藏,真龍真虎石兩旁。識得枕棺龍口石,千山玉乳灌心香。結穴之石此中摧,行龍之石脈胚胎。不審其中元竅理,滿山頑石豈堪裁?
眞正の鉗形・窩形は往々石中にかくし、眞正の左右龍虎砂も常に是穴旁の兩塊の石である。もし棺後に枕せるその一塊の「龍口石」を識得せば、千山的玉乳の一齊に來りて灌注するに同じく、芬芳心に滿つ。結穴の石はここににおいて摧折收束し、行龍の石はすなわち龍脈の胚胎である。もしその中の玄竅の理を審察しなければ、滿山の頑石、またどの一塊か堪えて穴と裁作しよう。
試言結穴有二品,石穴土穴貴相準。石穴端的是窩鉗,慎莫鑿傷龍骨髓。土穴太極暈中抱,內象分明外象隱。鉗窩土穴不須論,太極重輪仔細尋。
試みにいうく。結穴は共に兩個の品類あり。石穴と土穴と、貴賤は彼この相準して論ずべきである。石穴の形體確定は窩形と鉗形とにして、開鑿の時務めて謹愼にして、龍の骨髓を傷ること不可である。土穴はすなわち「太極暈」の圓抱の中に在り、內一層形象分明、外一層形象隱約である。鉗形窩形の土穴は還お辨認し易し。最も要緊なるは層層重輪の太極暈の上ににおいて仔細に尋取するに在り。
真土原來石變化,不同凡土五華文。世人鑿穴但求土,若逢凡土枉勞神。穴星圓暈真金穴,此是陽精形神別。亦有穴象兼四星,不離金體是真結。
眞土は本來石より變化して成り、尋常の泥土と同じからず。それ五色相雜の華彩紋理あり。世人は壙を開きてただ土を見んことを求む。もし碰上る所が尋常の泥土なれば、一場の精神を白費す。穴星圓にして暈を帶ぶるは、「金」形の穴に屬し、これ陽精凝聚にして、形神は別の星體と判然として別あり。も穴象の木・火・水・土四星を兼帶するあるも、ただ金體の圓暈を離れなければ、すなわち眞結である。
龍不起頂非真龍,穴不起頂非真穴。傍枝傍脈有來情,只要穴後生一突。緊粘突下作穴星,此法名為接氣訣。
龍もし頂を起さなければ、眞龍にあらず。穴もし頂を起さなければ、も眞穴にあらず。旁枝旁脈に至りては、ただそのの來ること情ありさえして、穴後に再生して一個の突泡生出せば、すなわち取用すべきである。この突泡の下に緊貼して穴星と立作し、このの法門を「接氣訣」と呼ばん。是れ眞龍眞穴を求め得ない時の一種の變通である。
亦有真龍向前行,腰間脊上直二停。湊著龍身下一穴,此作騎龍斬氣名。真龍餘氣本非穴,撞背來時氣未絕。亦有真龍一脈垂,是號流神皆可發。世人見弗識真結,豈意龍領掛明月?
も眞龍ありて一直向前に行去して、そのの腰間脊背の上に恰も平直停蓄の一段あるを。龍身になおきてここに一穴を下す。名づけて「騎龍斬氣」と曰う。眞龍の余氣は本來正穴と算せずとといえどもも、氣の背後より撞來する時、生氣尚未だ斷絶せず、なお乘取すべきである。も龍旁より一脈を垂下するありて、「流神」と叫ぶ。同じく發福することできる。世人はただそのの發福するを見て眞結の在る所を識らず。あにそのが不過龍頷の下に掛著したる一輪の明月のみなるを想到するのか。
問君下穴有何法?正龍正下是真訣。時師只說沖腦門,每向龍旁尋倚穴。精華走失發不全,左右偏枯房分絕。也有真龍偏側走,龍是側來穴是正。此是龍身一轉頭,結頂垂頭巧相稱。
穴を下すになんの法度あるを問わば、正龍になおきて端端正正に下す。これすなわち眞口訣である。庸師は却って正たい來脈の「腦門を冲する」を怕れて、動もすれば龍の旁邊に到りて一個の倚靠の穴を尋む。こののようにすれば穴中の精華走泄して、發福周全することできない、左右偏枯して、某一房はすなわち絶嗣しよう。も眞龍の偏側にして行來するありて、龍は側面より來りて穴はなお正を取る。その是龍身のここに一轉頭して、結頂と垂頭と恰好相稱するが故に、依然として正下と算す。
語君結頂是真決,披肝露膽向君說。龍不起頂非真龍,穴不起頂非真穴。結頂名為真穴星,穴星圓暈產真金。世間萬寶金為貴,此是真陽露妙形。
汝に告ぐ、「結頂」すなわち眞正の訣竅である。このは披肝瀝膽にして汝に直いうす(底本「决」の字はあたに「訣」と作るべき、今照錄して改めず)。龍頂を起さなければすなわち眞龍にあらず、穴頂を起さなければも眞穴にあらず。結ぶ所の頂はすなわち眞穴星と叫び、穴星圓潤にして暈光あれば、すなわち眞金の象を產出す。世間萬寶は金をもって最も貴しとする。正に金は眞陽の氣の顯露し出したる妙形なるが故に。
真龍大地皆同體,遇著真金莫放行。亦有穴星兼四曜,不離金體是真精。無極天元無別說,只曉真龍並真穴。識得真龍與真穴,天機造化任我奪。
天下の眞龍大地の道理は一個である。一旦圓淨の眞金穴星に遇えば、すなわち再び前に往きて尋ぬること莫れ。も穴星の木火水土四曜を兼帶するあるも、ただ金體の圓暈を離れなければ、すなわち眞精の結ぶ所である。無極子の傳へる「天元」一派は別の話頭なくして、ただ眞龍と眞穴の兩件の事を講ずるのみ。眞龍眞穴を識得せば、天地造化の機權はすなわち我に憑りて奪取される。
不得真龍與真穴,我師更有方便法。旁枝旁脈有來情,只要穴後生一突。緊粘突下做穴星,此法名為接氣訣。人丁財祿兩豐盈,亦堪眾子登黃甲。君看當令富貴墳,大都接氣非真結。
萬一眞龍眞穴を求め得なければ、我が師門別に一種の方便の法あり。旁枝旁脈はただ來ること情ありさえして、穴後に再生して一個の突泡生出せば、突下に緊貼して穴星と立作し、このの法門を「接氣訣」と叫ばん。それを用いて一樣に人丁と財祿と兩旺たらしめ、はなはだ至幾個の兒子みな科第に登らしむ。汝看よ、その些の正あた運にして富を發し貴を發する墳は、大半みな接氣の致す所にして、並に眞結にあらず。
亦有真龍向前行,腰間脊上有三停。湊著龍身下一穴,此做騎龍斬氣名。真龍餘氣本非穴,撞背來時氣未絕。亦有龍旁一脈垂,是號流神皆可發。世人見發說穴真,豈意龍頷剩明月。
も眞龍ありて一路向前に行去して、腰間脊背の上に三ところの停蓄の所あるを。龍身になおきてここに一穴を下す。名づけて「騎龍斬氣」と曰う。眞龍の余氣は本來正穴にあらずと算すとといえどもも、氣の背後より撞來する時、生氣尚未だ斷絶せず、依然として用うべきである。も龍旁より一脈を垂下するありて、「流神」と叫ぶ。同じく發福することできる。世人はそのの發するを見てすなわち穴眞なりというく。あにそのただ是龍頷の下に剩したる一輪の明月のみなるを想到するのか。以上の數句は前文の論ずる所と大略相同にして字句小異である。底本重出す。今一併に存錄して刪らず。
