中論 巻第一
若共若不共,是事皆不然。」
あるいは共なりあるいは不共なり。これらの事は皆当らず。」
如是推求過去世中邪見有、無、亦有亦無、非有非無,是諸邪見,先說因緣過故,是皆不然。
このように過去世の中の邪見の有・無・又有又無・非有非無を推し求めれば、これらの邪見は、先前に因縁の過失を説いたがゆえに、これらは皆当らない。
「我於未來世,為作為不作?
「我は未来世に、作するか作さざるか。
如是之見者,皆同過去世。」
かくのごとき見は、皆過去世と同じ。」
我於未來世中,為作為不作?如是四句,如過去世中過咎,應在此中說。復次:
我は未来世の中に、作するか作さざるか。かくのごとき四句は、過去世の中の過失の如く、ここに説くべきである。さらにいえば、
「若天即是人,則墮於常邊;
「もし天がすなわち人なれば、すなわち常辺に堕せん。
天則為無生,常法不生故。」
天はすなわち無生と成らん。常法は生ぜざるがゆえに。」
若天即是人,是則為常。若天不生人中,云何名為人?常法不生故。常亦不然。復次:
もし天がすなわち人なれば、これはすなわち常と成る。もし天が人中に生ぜざれば、どうして人と名づけんか。常法は生ぜざるがゆえである。常もまた当らない。さらにいえば、
「若天異於人,是即為無常;
「もし天が人に異なれば、これはすなわち無常なり。
若天異人者,是則無相續。」
もし天が人に異なれば、これはすなわち相続なし。」
若天與人異則為無常,無常則為斷滅等過,如先說過。若天與人異則無相續,若有相續不得言異。復次:
もし天が人に異なればすなわち無常と成る。無常なればすなわち断滅等の過失有る。先前に説いた過失の如し。もし天が人に異なればすなわち相続なし。もし相続有れば、異なりと言うこと能わず。さらにいえば、
「若半天半人,則墮於二邊,
「もし半ばは天半ばは人なれば、すなわち両辺に堕せん。
常及於無常,是事則不然。」
常および無常に、この事は当らず。」
若眾生半身是天、半身是人,若爾則有常無常。半天是常、半人是無常,但是事不然。何以故?一身有二相過故。復次:
もし衆生の半身が天にして半身が人なれば、もしこのようであれば、すなわち常・無常有る。半ばの天は常、半ばの人は無常である。しかるにこの事は当らない。なぜか。一身に二種の相有るの過失あればがゆえである。さらにいえば、
「若常及無常,是二俱成者,
「もし常および無常の二様が皆能く成立せば、
如是則應成,非常非無常。」
このようであればこそ非常非無常を成立すべきである。」
若常無常二俱成者,然後成非常非無常,與常無常相違故。今實常無常不成,是故非常非無常亦不成。復次今生死無始,是亦不然。何以故?
もし常・無常の二様が皆能く成立して、しかる後にこそ非常非無常を成立すべきである。常・無常に相い違するがゆえである。いま実に常・無常ともに成立せざれば、ゆえに非常非無常もまた成立せず。さらにいえば、いま生死は無始と説くに、これも当らない。なぜか。
「法若定有來,及定有去者,
「法がもし決定して来有り、および決定して去有れば、
生死則無始,而實無此事。」
生死にすなわち始なかるべきであるが、実にこの事はなし。」
法若決定有所從來、有所從去者,生死則應無始。是法以智慧推求,不得有所從來、有所從去。是故生死無始,是事不然。復次:
法がもし決定して来る所有り・去る所有れば、生死にすなわち始なかるべきである。この法を智慧を用いて推し求めて、来る所・去る所有るを求めて得られない。ゆえに生死は無始とは、この事は当らない。さらにいえば、
「今若無有常,云何有無常,
「いまもし常なければ、どうしてなお無常有らんか、
亦常亦無常,非常非無常?」
又常又無常・非常非無常があらんか。」
若爾者,以智慧推求,無法可得常者,誰當有無常?因常有無常故。若二俱無者,云何有亦有常亦無常?若無有常無常,云何有非有常非無常?因亦有常亦無常故,有非有常非無常。是故依止過去世,常等四句不可得。有邊無邊等四句,依止未來世,是事不可得,今當說。何以故?
もしこのようであれば、智慧を用いて推し求めて、常を得べき法なし。誰がなお無常有らんか。常に依ってこそ無常有るがゆえである。もし二様ともになければ、どうしてなお又有常又無常があらんか。もし有常・無常なければ、どうしてなお非有常非無常があらんか。又有常又無常に依ってこそ非有常非無常有るがゆえである。ゆえに過去世に依止する常等の四句は求めて得られない。有辺・無辺等の四句は未来世に依止するに於いて、この事は求めて得られず。いま説くべきである。なぜか。
「若世間有邊,云何有後世?
「もし世間に辺有れば、どうしてなお後世有らんか。
若世間無邊,云何有後世?」
もし世間に辺なければ、どうしてなお後世有らんか。」
若世間有邊,不應有後世,而今實有後世,是故世間有邊不然。若世間無邊,亦不應有後世,而實有後世,是故世間無邊亦不然。復次是二邊不可得。何以故?
もし世間に辺有れば、後世有るべきではない。しかるにいま実に後世有るがゆえに、世間に辺有るは当らない。もし世間に辺なければ、また後世有るべきではない。しかるに実に後世有るがゆえに、世間に辺なしもまた当らない。さらにいえば、この両辺は求めて得られない。なぜか。
「五陰常相續,猶如燈火炎;
「五陰は常に相続す。灯火の焔に譬ゆるが如し。
以是故世間,不應邊無邊。」
この義理に因って、世間は辺・無辺と説くべきではない。」
從五陰復生五陰,是五陰次第相續,如眾緣和合有燈炎。若眾緣不盡,燈則不滅,若盡則滅。是故不得說世間有邊無邊。復次:
五陰に随ってさらに五陰を生じ、これらの五陰は次第相続す。衆縁和合してこそ灯焔有るが如し。もし衆縁尽きざれば、灯は滅せず。もし尽きれば滅す。ゆえに世間は辺有り・辺なしと言うこと能わず。さらにいえば、
「若先五陰壞,不因是五陰,
「もし先前の五陰が壊れて、これらの五陰に因らずして、
更生後五陰,世間則有邊。
さらに後の五陰を生ぜば、世間にすなわち辺有らん。
若先陰不壞,亦不因是陰,
もし先前の陰が壊れずして、またこれらの陰に因らずして、
而生後五陰,世間則無邊。」
しかる後に五陰を生ぜば、世間にすなわち辺なからん。」
若先五陰壞,不因是五陰更生後五陰,如是則世間有邊。若先五陰滅已,更不生餘五陰,是名為邊,邊名末後身。若先五陰不壞,不因是五陰而生後五陰,世間則無邊,是則為常。而實不爾,是故世間無邊。是事不然。世間有二種:國土世間、眾生世間。此是眾生世間。復次如四百觀中說:
もし先前の五陰が壊れて、これらの五陰に因らずしてさらに後の五陰を生ぜば、このようであればすなわち世間に辺有る。もし先前の五陰が滅して、さらにその余の五陰を生ぜざれば、これを辺と名づく。辺とは最後身と名づく。もし先前の五陰が壊れずして、これらの五陰に因らずして後の五陰を生ぜば、世間にすなわち辺なし。これはすなわち常と成る。しかるに実にそうではない。ゆえに世間に辺なしは、この事は当らない。世間に二種有る。国土世間・衆生世間。ここに説く所は衆生世間である。さらにいえば、《四百観》の中に説くが如く、
「真法及說者,聽者難得故,
「真法および説く人・聞く人は得難し。
如是則生死,非有邊無邊。」
このようであればすなわち生死は辺有り辺なしにあらず。」
不得真法因緣故,生死往來無有邊。或時得聞真法得道故,不得言無邊。今當更破亦有邊亦無邊。
真法の因縁を得ざれば、ゆえに生死往来に辺なし。あるいは真法を聞くことを得て道を得る時有れば、ゆえに辺なしと言うこと能わず。いまさらに又有辺又無辺を破るべきである。
「若世半有邊,世間半無邊;
「もし世間の半ばに辺有り、世間の半ばに辺なければ、
是則亦有邊,亦無邊不然。」
これはすなわち又有辺又無辺なり。当らず。」
若世間半有邊半無邊,則應是亦有邊亦無邊。若爾者,則一法二相,是事不然。何以故?
もし世間の半ばに辺有り半ばに辺なければ、すなわち又有辺又無辺であるべきである。もしこのようであれば、すなわち一法に二種の相有り。この事は当らない。なぜか。
「彼受五陰者,云何一分破?
「かの五陰を受くる者は、どうして一分に破れて、
一分而不破,是事則不然。
一分には破れざらんか。この事は当らず。
受亦復如是,云何一分破?
受もまたこのようで、どうして一分に破れて、
一分而不破,是事亦不然。」
一分には破れざらんか。この事もまた当らず。」
受五陰者,云何一分破、一分不破?一事不得亦常亦無常。受亦如是,云何一分破、一分不破?常無常二相過故。是故世間亦有邊亦無邊則不然。今當破非有邊非無邊見。
五陰を受くる者は、どうして一分に破れて一分には破れざらんか。一つの事はまた常また無常なること能わず。受もまたこのようで、どうして一分に破れて一分には破れざらんか。常・無常の二種の相の過失あればがゆえである。ゆえに世間は又有辺又無辺とは当らない。いま非有辺非無辺の見を破るべきである。
「若亦有無邊,是二得成者,
「もし又有辺又無辺の二様が能く成立せば、
非有非無邊,是則亦應成。」
非有辺非無辺もまた成立すべきである。」
與有邊相違故有無邊,如長相違有短。與有無相違,則有亦有亦無。與亦有亦無相違故,則有非有非無。若亦有邊亦無邊定成者,應有非有邊非無邊。何以故?因相待故。上已破亦有邊亦無邊第三句,今云何當有非有邊非無邊?以無相待故。如是推求,依止未來世有邊等四見皆不可得。復次:
有辺に相い違するがゆえに無辺有る。長に相い違してこそ短有るが如し。有・無に相い違すれば、又有又無有る。又有又無に相い違すれば、非有非無有る。もし又有辺又無辺が決定して成立せば、すなわち非有辺非無辺有るべきである。なぜか。相対待有るがゆえである。上にすでに又有辺又無辺のこの第三句を破った。いまどうしてなお非有辺非無辺があらんか。相対待なきがゆえである。このように推し求めれば、未来世に依止する有辺等の四見は皆求めて得られない。さらにいえば、
「一切法空故,世間常等見,
「一切法空なれば、世間の常等の見は、
何處於何時,誰起是諸見?」
どの処に在り・何の時に、誰がこれらの見を生起せんか。」
上以聲聞法破諸見,今此大乘法中說。諸法從本以來畢竟空性,如是空性法中無人無法,不應生邪見正見。處名土地,時名日月歲數,誰名為人?是名諸見體。若有常無常等決定見者,應當有人出生此見;破我故無人生是見。應有處所色法現見尚可破,何況時方!若有諸見者應有定實,若定則不應破。上來以種種因緣破,是故當知見無定體,云何得生?如偈說「何處於何時,誰起是諸見?」
上に声聞法を用いて諸の見を破り了わり、いまこの大乘法の中に説く。諸法は本よりこのかた畢竟の空性なり。このような空性の法の中に人なく法なし。邪見・正見を生出すべきではない。処とは土地と名づき、時とは日月歳数と名づき、誰とは人と名づく。これをこそ諸見の体と名づく。もし常・無常等の決定の見有れば、すなわち人有りてこの見を生出すべきである。我を破れば、ゆえに人有りてこの見を生出すことなし。処所有るべきとは、色法は現前に見るべきすらなお破るべきに、いわんや時・方をや。もし諸の見有れば、すなわち定実有るべきである。もし定なれば破るべきではない。上に種種の因縁を用いて破った。ゆえに知るべし、見に定体なく、どうして生じ得んか。偈の説く所の如く、「どの処に在り・何の時に、誰がこれらの見を生起せんか」と。
「瞿曇大聖主,憐愍說是法,
「瞿曇の大聖主は、憐愍してこの法を説き、
悉斷一切見,我今稽首禮。」
悉く一切の見を断ぜしむ。我いま稽首礼拝す。」
一切見者,略說則五見,廣說則六十二見,為斷是諸見故說法。大聖主瞿曇,是無量無邊不可思議智慧者,是故我稽首禮。
いわゆる一切見とは、略して説けばすなわち五見、広く説けばすなわち六十二見。これらの見を断ぜんがためにこそ法を説く。大聖主瞿曇は、無量無辺・不可思議の智慧の人なり。ゆえに我は稽首礼拝す。
