中論 巻第一
無人亦無處,佛亦無所說。」
人なくまた処なし。仏もまた説く所なし。」
一切法、一切時、一切種,從眾緣生故,畢竟空故無自性。如是法中,何者是有邊,誰為有邊?何者是無邊,亦有邊亦無邊,非有邊非無邊。誰為非有邊非無邊?何者是常,誰為是常?何者是無常,常無常非常非無常,誰為非常非無常?何者身即是神,何者身異於神?如是等六十二邪見,於畢竟空中皆不可得。諸有所得皆息、戲論皆滅。戲論滅故,通達諸法實相得安隱道。從〈因緣品〉來,分別推求諸法,有亦無、無亦無、有無亦無、非有非無亦無,是名諸法實相,亦名如,法性,實際,涅槃。是故如來無時無處為人說涅槃定相,是故說諸有所得皆息、戲論皆滅。
一切法・一切時・一切種は衆縁に随って生ず。ゆえに畢竟空なり。ゆえに自性なし。このような法の中に、何をか有辺と為し、誰をか有辺と為さんか。何をか無辺と為し、又有辺又無辺・非有辺非無辺、誰をか非有辺非無辺と為さんか。何をか常と為し、誰をか常と為さんか。何をか無常と為し、又常又無常・非常非無常、誰をか非常非無常と為さんか。何をか身はすなわち神と為し、何をか身は神に異なりと為さんか。このように六十二の邪見は、畢竟空の中に皆求めて得られない。諸の所得有るは皆止息し、戯論は皆滅す。戯論滅せば、諸法の実相に通達して、安隱の道を得る。〈因縁品〉よりこのかた、諸法を分別推求するに、有もまたなし、無もまたなし、又有又無もまたなし、非有非無もまたなし。これをこそ諸法の実相と名づけ、また如・法性・実際・涅槃と名づく。ゆえに如来は時なく・処なく人のために涅槃の定相を説かず。ゆえに諸の所得有るは皆止息し、戯論は皆滅すと説く。
中論觀十二因緣品第二十六(九偈)
《中論》観十二因縁品第二十六(九首の偈)
問曰:汝以摩訶衍說第一義道,我今欲聞說聲聞法入第一義道。
問う者曰く、あなたは摩訶衍を用いて第一義道を説いた。いま声聞法を用いて第一義道に入るを聞かんと欲す。
答曰:
答える者曰く、
「眾生痴所覆,為後起三行,
「衆生は癡の覆う所となりて、後有のために三行を起こす。
以起是行故,隨行墮六趣。
これらの行を起こすに因って、行に随って六趣に堕す。
以諸行因緣,識受六道身,
諸行の因縁に因って、識は六道の身を受取る。
以有識著故,增長於名色。
識の執著有るに因って、名色に増長す。
名色增長故,因而生六入,
名色が増長して、因って六入を生出す。
情塵識和合,而生於六觸。
根・塵・識が和合して、六触を生出す。
因於六觸故,即生於三受,
六触に因って、すなわち三受を生出す。
以因三受故,而生於渴愛。
三受に因って、渇愛を生出す。
因愛有四取,因取故有有,
愛に因って四取有り、取に因って有有り。
若取者不取,則解脫無有。
もし取る人が取らざれば、すなわち解脱して有なし。
從有而有生,從生有老死,
有に随って生有り、生に随って老死在り。
從老死故有,憂悲諸苦惱。
老死に随ってゆえに憂悲の諸の苦悩有り。
如是等諸事,皆從生而有,
このように種種の事は、皆生に随って有り。
但以是因緣,而集大苦陰。
ただこれらの因縁に因って、大苦陰を集起す。
是謂為生死,諸行之根本,
これをこそ生死・諸行の根本と名づく。
無明者所造,智者所不為。
是れ無明の人の造る所にして、智者の為さざる所なり。
以是事滅故,是事則不生,
この事滅するに因って、この事はすなわち生ぜず。
但是苦陰聚,如是而正滅。」
ただ苦陰の聚にして、かくのごとくにこそ正滅す。」
凡夫為無明所盲故,以身口意業,為後身起六趣諸行。隨所起行有上中下,識入六趣隨行受身。以識著因緣故名色集,名色集故有六入,六入因緣故有六觸,六觸因緣故有三受,三受因緣故生渴愛,渴愛因緣故有四取,四取取時以身口意業起罪福,令後三有相續。從有而有生,從生而有老死,從老死有憂悲苦惱種種眾患,但有大苦陰集。是故知凡夫無智,起此生死諸行根本。智者所不起,以如實見故,則無明滅。無明滅故諸行亦滅,以因滅故果亦滅,如是修習觀十二因緣生滅智故是事滅,是事滅故乃至生老死憂悲大苦陰皆如實正滅,正滅者畢竟滅。是十二因緣生滅義,如阿毘曇、修多羅中廣說。
凡夫は無明の盲う所なれば、身口意業を用いて後身のために六趣の諸行を起こす。起こす所の行に随って上・中・下有り、識は六趣に入りて行に随って身を受く。識が執著する因縁に因って、名色集起す。名色集起せば、ゆえに六入有り。六入の因縁に因って、ゆえに六触有り。六触の因縁に因って、ゆえに三受有り。三受の因縁に因って、ゆえに渇愛を生出す。渇愛の因縁に因って、ゆえに四取有り。四取は取する時に身口意業を用いて罪福を起こし、後の三有を相続せしむ。有に随って生有り、生に随って老死在り、老死に随って憂悲苦悩の種種の衆患有り。ただ大苦陰集起するのみ。ゆえに凡夫は無智にして、この生死諸行の根本を生起すと知る。智者は生起せざる所なり。如実に見るに因って、無明すなわち滅す。無明滅せば、諸行もまた滅す。因滅するに因って、果もまた滅す。このように修習して十二因縁の生滅を観ずるの智は、この事を滅す。この事滅せば、乃至生・老死・憂悲・大苦陰も皆如実に正滅す。いわゆる正滅とは、畢竟滅である。この十二因縁生滅の義理は、阿毘曇・修多羅の中の広く説くが如し。
中論觀邪見品第二十七(三十一偈)
《中論》観邪見品第二十七(三十一首の偈)
問曰:已聞大乘法破邪見,今欲聞聲聞法破邪見。
問う者曰く、すでに大乘法にて邪見を破るを聞き了われり。いま声聞法を用いて邪見を破るを聞かんと欲す。
答曰:
答える者曰く、
「我於過去世,為有為是無?
「我は過去世に、有るか無か。
世間常等見,皆依過去世。
世間の常等の見は、皆過去世に依る。
我於未來世,為作為不作?
我は未来世に、作するか作さざるか。
有邊等諸見,皆依未來世。」
有辺等の諸の見は、皆未来世に依る。」
我於過去世,為有、為無、為有無、為非有非無?是名常等諸見依過去世。我於未來世,為作、為不作、為作不作、為非作非不作?是名邊無邊等諸見依未來世。如是等諸邪見,何因緣故名為邪見?是事今當說。
我は過去世に、有るか・無か・又有又無か・非有非無か。これをこそ常等の諸見と名づけ、過去世に依る。我は未来世に、作するか・作さざるか・又作又不作か・非作非不作か。これをこそ辺・無辺等の諸見と名づけ、未来世に依る。このように種種の邪見は、何の因縁を以てか邪見と名づくか。この事をいま説くべきである。
「過去世有我,是事不可得,
「過去世に我有るは、この事は求めて得られず。
過去世中我,不作今世我。
過去世の中の我は、並びに今世の我を作さず。
若謂我即是,而身有異相,
もし我がすなわちかれと言うに、身に同じからぬ相有るは、
若當離於身,何處別有我?
もし身を離るべければ、どうしてなお別に我有らんか。
離身無有我,是事為已成,
身を離れて我なきは、この事はすでに成立せり。
若謂身即我,若都無有我。
もし身がすなわち我と言わば、あるいは皆我なからんか。
但身不為我,身相生滅故,
ただ身は並びに我にあらず。身の相は生滅するがゆえに。
云何當以受,而作於受者?
どうして受を用いて受者を作り成さんか。
若離身有我,是事則不然,
もし身を離れて我有れば、この事は当らず。
無受而有我,而實不可得。
受なきのに我有るは、実に求めて得られず。
今我不離受,亦不即是受,
いま我は受を離れず、またすなわち受でもなく、
非無受非無,此即決定義。」
無受でもなく、無でもなし。これはすなわち決定の義理なり。」
我於過去世有者,是事不然。何以故?先世中我不即作今我,有常過故。若常則有無量過。何以故?如人修福因緣故作天而後作人,若先世我即是今我者,天即是人。又人以罪業因緣故作旃陀羅,後作婆羅門。若先世我即是今我者,旃陀羅即是婆羅門。譬如舍衛國婆羅門名提婆達,到王舍城亦名提婆達,不以至王舍城故為異。若先作天後作人,則天即是人,旃陀羅即是婆羅門。但是事不然。何以故?天不即是人,旃陀羅不即是婆羅門,有此等常過故。若謂先世我不作今我,如人浣衣時名為浣者,刈時名為刈者,而浣者與刈者雖不異,而浣者不即是刈者。如是我受天身名為天,我受人身名為人,我不異而身有異者,是事不然。何以故?若即是者,不應言天作人。今浣者於刈者,為異為不異?若不異,浣者應即是刈者,如是先世天即是人,旃陀羅即是婆羅門,我亦有常過。若異者,浣者即不作刈者,如是天不作人,我亦無常,無常則無我相。是故不得言即是。
我は過去世に有るは、この事は当らない。なぜか。先世の中の我は並びにいまの我ではない。常の過失有るがゆえである。もし常なれば無量の過失有る。なぜか。人が福を修する因縁によりて天を作し、しかる後人を作すが如く、もし先世の我がすなわちいまの我なれば、天はすなわち人である。また人が罪業の因縁によりて旃陀羅を作し、後に婆羅門を作す。もし先世の我がすなわちいまの我なれば、旃陀羅はすなわち婆羅門である。たとえば舎衛国に一の婆羅門ありて提婆達と名づき、王舎城に至りてもまた提婆達と名づく。王舎城に至るに因って別の者となることなし。もし先前に天を作して後に人を作せば、天はすなわち人であり、旃陀羅はすなわち婆羅門である。しかるにこの事は当らない。なぜか。天は並びに人ではなく、旃陀羅は並びに婆羅門ではない。かくのごとき常の過失有るがゆえである。もし先世の我は並びにいまの我を作さずと言うならば、人が衣を浣する時に浣衣人と名づけ、草を刈る時に刈草人と名づくが如く、浣衣人と刈草人は別ではないといえども、浣衣人は並びに刈草人ではない。このように我は天身を受けて天と名づけ、我は人身を受けて人と名づく。我に差異なくして身に差異有り。この事は当らない。なぜか。もしすなわちかれなれば、天が人を作すと説くべきではない。いま浣衣人は刈草人に対して、異なるか異ならざるか。もし異ならざれば、浣衣人はすなわち刈草人であるべきである。これにようては先世の天はすなわち人であり、旃陀羅はすなわち婆羅門であり、我もまた常の過失有る。もし異なれば、浣衣人は刈草人を作さず。これにようては天は人を作さず、我もまた無常である。無常なればすなわち我の相なし。ゆえにすなわちかれとは言うこと能わず。
問曰:我即是,但因受故分別是天是人,受名五陰身,以業因緣故分別是天是人、是旃陀羅是婆羅門,而我實非天非人、非旃陀羅非婆羅門。是故無如是過。
問う者曰く、我はすなわちかれなり。ただ受に因ってこそ天・人と分別する。受とは五陰身と名づく。業の因縁に因って天・人と分別し、旃陀羅・婆羅門と分別するが、我は実に天ではなく人でもなく、旃陀羅でもなく婆羅門でもない。ゆえにかくのごとき過失なし。
答曰:是事不然。何以故?若身作天作人,作旃陀羅作婆羅門,非是我者,則離身別有我。今罪福生死往來,皆是身非是我。罪因緣故墮三惡道,福因緣故生三善道,若苦樂瞋喜憂怖等,皆是身非我者,何用我為?如治俗人罪,不豫出家人。五陰因緣相續罪福不失故有解脫,若皆是身非我者,何用我為?
答える者曰く、この事は当らない。なぜか。もし身が天を作し人を作し、旃陀羅を作し婆羅門を作すに、並びに我でなければ、すなわち身を離れて別に我有ることとなる。いま罪福・生死往来は皆身であって我ではない。罪の因縁に因って三悪道に堕し、福の因縁に因って三善道に生ず。もし苦楽・瞋喜・憂怖等が皆身であって我でなければ、なお我を用いて何をせんか。俗人の罪を治するに出家人に及ばざるが如し。五陰は因縁相続して罪福失せざるがゆえに解脱有る。もし皆身であって我でなければ、なお我を用いて何をせんか。
問曰:罪福等依止於我,我有所知、身無所知故,知者應是我。起業因緣罪福是作法,當知應有作者。作者是我,身是我所用,亦是我所住處。譬如舍主以草木泥塈等治舍,自為身故隨所用治舍有好惡。我亦如是,隨作善惡等得好醜身,六道生死皆我所作,是故罪福之身皆屬於我。譬如舍但屬舍主不屬他人。
問う者曰く、罪福等は我に依止す。我は知る所有り、身は知る所なし。ゆえに能く知る者は我であるべきである。業を起こす因縁・罪福は作法なれば、作者有るべきと知るべきである。作者は我であり、身は我の用いる所にして、また我の住する処なり。たとえば房主が草木・泥灰等を用いて屋舎を修するが如く、自らの身のために、用いる所に随って屋舎を修して好醜有り。我もまたこのようで、善悪等を作すに随って好醜の身を得。六道の生死は皆我の作す所なり。ゆえに罪福の身は皆我に属す。屋舎がただ房主に属して他人に属せざるが如し。
答曰:是喻不然。何以故?舍主有形,有觸有力,故能治舍。汝所說我,無形無觸故無作力,自無作力亦不能使他作。若世間有一法無形無觸能有所作者,則可信受知有作者。但是事不然。若我是作者,則不應自作苦事。若是念者,可貪樂事不應忘失。若我不作苦而苦強生者,餘一切皆亦自生,非我所作。若見者是我,眼能見色眼應是我。若眼見而非我,則違先言見者是我。若見者是我,我則不應得聞聲等諸塵。何以故?眼是見者,不能得聞聲等塵故。是故我是見者,是事不然。若謂如刈者用鎌刈草,我亦如是以手等能有所作者,是事不然。何以故?今離鎌別有刈者,而離身心諸根無別作者。若謂作者雖非眼耳等所得亦有作者,則石女兒能有所作,如是一切諸根皆應無我。若謂右眼見物而左眼識,當知別有見者。是事不然。今右手習作左手不能,是故無別有作者。若別有作者,右手所習左手亦應能,而實不能,是故更無作者。復次有我者言,見他食果口中涎出,是為我相。是事不然。何以故?是念力故,非是我力。又亦即是破我因緣。人在眾中愧於涎出,而涎強出不得自在,當知無我。復次又有顛倒過罪。先世是父今世為子,是父子我一,但身有異。如從一舍至一舍,父故是父,不以入異舍故便有異。若有我,是二應一,如是則有大過。若謂無我五陰相續中亦有是過。是事不然。何以故?五陰雖相續,或時有用、或時無用,如蒲桃漿持戒者應飲,蒲桃酒不應飲,若變為苦酒還復應飲。五陰相續亦如是,有用有不用,若始終一我,有如是過。五陰相續無如是過,但五陰和合故假名為我,無有決定。如梁椽和合有舍,離梁椽無別舍。如是五陰和合故有我,若離五陰實無別我,是故我但有假名無有定實。汝先說離受別有受者,以受分別受者是天是人,是皆不然。當知但有受無別受者,若謂離受別有我,是事不然。
答える者曰く、この譬喩は当らない。なぜか。房主に形有り、触有り・力有るがゆえに、能く屋舎を修す。あなたの説く所の我は、形なく触なし。ゆえに造作の力なし。自ら造作の力なければ、また他をして作さしむることもできず。もし世間に一法有りて形なく触なくして能く作為有らば、すなわち信受して作者有ると知るべきである。しかるにこの事は当らない。もし我が作者なれば、自ら苦事を作すべきではない。もし能く念ずる者なれば、貪すべき楽すべきの事は忘失すべきではない。もし我が苦を作さざるに苦が生じ出れば、その余の一切もまた皆自ら生ずべきで、我の作す所ではない。もし見者が我なれば、眼が色を見る能くすれば、眼はすなわち我であるべきである。もし眼が見るのに我でなければ、先に見者は我と説いたに違背す。もし見者が我なれば、我は声等の諸塵を聞くことを得るべきではない。なぜか。眼は見者にして、声等の塵を聞くことを得ざるがゆえである。ゆえに我は見者とは、この事は当らない。もし刈草人が鎌を用いて草を刈るが如く、我もまたこのようで手等を用いて作為有ると言うならば、この事は当らない。なぜか。いま鎌を離れて別に刈草人有るが、身心の諸根を離れて別の作者なきがゆえである。もし作者は眼耳等の得る所にあらざるも作者有ると言うならば、すなわち石女の女児もまた作為有るべきである。これにようては一切の諸根は皆我無かるべきである。もし右眼は物を見て左眼は識知すると言うならば、別に見者有ると知るべきである。この事は当らない。いま右手の習する所の事を左手は能くせざれば、別の作者なし。もし別に作者有れば、右手の習する所を左手もまた能くすべきである。しかるに実に能くせざれば、さらに作者なし。さらにいえば、我有ると主張する人は説く。人の果を食するを見て、口より涎水を流すを見る。これは我の相なり、と。この事は当らない。なぜか。これは念力にして、我の力にあらず。このまた我を破る因縁なり。人が衆人の中に於いて涎の出るを羞ぢるに、涎は強いられて流出れて自在を得ず。知るべし、我なきことを。さらにいえば、また顛倒の過失有り。前世は父にして今世は子なり。この父子の我は一にして、ただ身に差異有るのみ。一の房舎より一の房舎に至るが如く、父はなお父にして、別の房舎に入るに因って差異有ることなし。もし我有れば、この両人はすなわち一であるべきである。これにようては大きな過失有る。もし我なしと言うに五陰相続の中にもまたこの過失有りと言うならば、この事は当らない。なぜか。五陰は相続するといえども、あるいは用有りあるいは用なし。葡萄漿は持戒の人は飲むべきに、葡萄酒は飲むべからず。もし醋と変ればなお飲むべきが如し。五陰相続もまたこのようで、用有り用なし。もし始終一の我なれば、かくのごとき過失有る。五陰相続にはかくのごとき過失なし。ただ五陰和合してこそ仮名に我と名づき、決定なし。梁椽和合してこそ房舎有るが如く、梁椽を離れて別の房舎なし。このように五陰和合してこそ我有り。もし五陰を離れて実に別の我なし。ゆえに我はただ仮名のみにして定実なし。あなたは先前に受を離れて別に受者有りて、受を用いて受者が天か人かを分別すと説いた。これら皆当らない。知るべし、ただ受有るのみにして別の受者なし。もし受を離れて別に我有ると説くは、この事は当らない。
若離受有我,云何可得說是我相?若無相可說,則離受無我。若謂離身無我但身是我,是亦不然。何以故?身有生滅相,我則不爾。復次云何以受即名受者?若謂離受有受者,是亦不然。若不受五陰而有受者,應離五陰別有受者。眼等根可得,而實不可得,是故我不離受、不即是受,亦非無受、亦復非無,此是定義。是故當知,過去世有我者,是事不然。何以故?
もし受を離れて我有れば、どうしてこれは我の相と言うことができようか。もし説くべき相なければ、すなわち受を離れて我なし。もし身を離れて我なく、ただ身が我と言うならば、これも当らない。なぜか。身に生滅の相有るに、我はしかくはなきがゆえである。さらにいえば、どうして受をこそ受者と言うことができようか。もし受を離れて受者有ると言うならば、これも当らない。もし五陰を受けずして受者有れば、五陰を離れて別に受者有るべきである。眼等根は得べきであるが、実に求めて得られない。ゆえに我は受を離れず、すなわち受でもなく、また無受でもなく、無でもなし。これは定の義理である。ゆえに知るべし、過去世に我有るは、この事は当らないと。なぜか。
「過去我不作,是事則不然;
「過去の我は並びに作さずとは、この事は当らず。
過去世中我,異今亦不然。
過去世の中の我が、いまに異なるも当らず。
若謂有異者,離彼應有今,
もし差異有ると言うならば、かれを離れていま有るべきに、
我住過去世,而今我自生。
我は過去世に住して、しかるにいまの我は自ら生ず。
如是則斷滅,失於業果報,
このようであればすなわち断滅にして、業の果報を失せん。
彼作而此受,有如是等過。
かの人が作して、この人が受くる。かくのごとき種種の過失有り。
先無而今有,此中亦有過,
先前になくしていま有るは、この中にもまた過失有り。
我則是作法,亦為是無因。」
我はすなわち所作の法と成りて、また無因と成らん。」
過去世中我不作今我,是事不然。何以故?過去世中我與今我不異。若今我與過去世我異者,應離彼我而有今我,又過去世我亦應住彼,此身自更生。若爾者,即墮斷邊,失諸業果報。又彼人作罪,此人受報。有如是等無量過。又是我應先無而今有,是亦有過。我則是作法,亦是無因生。是故過去我不作今我,是事不然。復次:
過去世の中の我は並びにいまの我を作さずとは、この事は当らない。なぜか。過去世の中の我といまの我とに差異なきがゆえである。もしいまの我が過去世の我に差異有れば、かの我を離れていまの我有るべきであり、また過去世の我もまたかの辺に住すべきで、この身は自らさらに生ず。もしこのようであれば、すなわち断辺に堕し、諸の業果報を失せん。またかの人が罪を作して、この人が報を受く。かくのごとき無量の過失有る。またこの我が先前になくしていま有るも、これにも過失有る。我はすなわち所作の法と成り、また無因の生なり。ゆえに過去の我は並びにいまの我を作さずとは、この事は当らない。さらにいえば、
「如過去世中,有我無我見,
「過去世の中の有我・無我の見の如く、
