Libo

侄夔の跋

清 · 程树勋 · 第1巻 / 4

作盤ガイド: 大六壬起課, 金口訣起課

自記の縁起:随筆を以て記事珠に当つ

大六壬典籍

まず起課と三伝を発する機械的な流れを確実にしてから、課体と神煞に入る。起課を飛ばして断語だけ読んでも、書中の例を自分で再現できない。

唐時功令,以奇門、雷公、六壬為三式,雷公即太乙,所謂太乙雷公式是也。唐時禁奇門、雷公不傳,惟六壬便於民用,不涉兵事,故不之禁,傳其歧多,精者獨鮮。

唐代の法令は奇門・雷公・六壬の三門の術数を併せて「三式」と称す。ここに言う「雷公」はすなわち「太乙」、古書の所謂「太乙雷公式」が指すは正にそれなり。唐代の朝廷は奇門と雷公の両式の外伝を明令して禁ず、これら両門が皆軍国の用兵の事に牽渉するを以てなり。ただ六壬のみ百姓が日常に事を問うに便く、兵機に渉らず、ゆえに査禁の列に在らず。また正に禁絶なきを以て、六壬の流伝する支派は殊のほか繁雑にして、各家の師承は雑出し、真に精通する人はかえって稀少なり。

叔父承偉堂族祖之傳,肆習有年,占驗輒中。猶憶庚申之亂,里黨為墟,叔父之灼見機先,寓書親友,謂八月有凶,聞者疑信參半,至期果應,遂群服無閒言。以偉堂族曾祖手錄秘秩甚夥,曾為刊《大六壬一字訣玉連環》,今又復刊《畢法集覽》《壬學瑣記》兩種,而《瑣記》一書昭示後學尤切。剞劂甫竟,見示全冊,命綴數語於後。夔不諳數學,何敢漫言?爰舉夙昔所聞推驗之一端,抑以驗同志,抑以見藝術亦有分途,而法守必宗正軌,則技也進於道已。

我が叔父は族祖・偉堂公の伝授を継ぎ、多年用功して研習し、占断は往々にして応験す。未だ庚申年のあの兵乱を記憶す、郷里は焼かれて一片の廃墟と為る、叔父は事の先に苗頭を看出し、信を書して親友に告知し、八月の裏に凶险ありと言う。聞く者は半信半疑、あの月に到り果して応験し、是に於て衆は皆心服口服、さらに閑話なし。族曾祖・偉堂公の手ずから抄録したる秘本は多し、叔父は先前すでに《大六壬一字訣玉連環》を刊行せり、如今重ねて《畢法集覧》と《壬学瑣記》の両種を刊刻す、その中《瑣記》の一书は後学への指点が殊に切要なり。雕版は剛に完工し、叔父は便ち全書を拿て我に看せ、書の後に数句を写さんことを要す。我は並べて術数の学を通暁せず、どうして敢えて随に口に議論せんや。ただ平日聴き来りし一椿の推験の事を挙げて後に附するのみ。一には同好に求证せんがため、二にはまた技芸は門類は各別なるといえども、法度を持守するは必ず正路を遵循せねばならぬを説明せんと欲す――この一步を能くすれば、技芸もまた上昇して「道」と為すなり。

光緒七年歲次辛巳立夏後五日,侄夔謹跋。

光緒七年、干支の紀年は辛巳(公元一八八一年)、立夏の後の第五日、侄児の程夔、恭んでこの跋語を書す。

六壬瑣記

自記の縁起:随筆を以て記事珠に当つ

予資拙而多健忘,凡有見聞及屢試屢驗者,隨筆記之,不能分其門類,聊當懷中記事珠云爾。

我は天資が愚鈍にしてまた健忘、およそ平日の見聞の得る所、および自己が反復して試用し屡々応験せる心得は、皆手に随い記録し、精力なくしてさらに門類に拠りて編排整斉する能わず、姑くこれらの札記を以て古人の懐中に揣えたるあの顆の「記事珠」に当て、用いて自己の事を記するを助くるのみ。

六壬の源起:諸家の説は皆猜度に属す

六壬不知始於何時。《雲笈七籖》云:上皇三年七月二十九日壬子,太真皇人下授黃帝六壬式圖、六甲三元、遁甲造式之法,法威天下,流傳子孫。黃梨洲《易學篆數總論》以《國語》中伶州鳩之論七律即是六壬之法;馬端臨《文獻通考》六壬出於秦;張鋐《說約》則據《漢書·律曆志》注“大橈作甲子,占斗罡所建,探五行之精”,是六壬當始於大橈,成於隸首;焦裡堂先生獨云:徐嶽《術數記遺》所謂“周公掯悶”“孔子三不能”“西老成子四維”等數即六壬之天地盤,大端皆猜度之言。

六壬は何の時代に起こるや、すでに査考する由なし。《雲笈七籤》に記す:上皇三年七月二十九日壬子のあの日、太真皇人が下降し、「六壬式図」および六甲・三元・遁甲造式の法を黄帝に伝授す、この法は威が天下に行われ、世代に子孫に流伝す。黄宗羲(号は梨洲)は《易学象数総論》(底本は「象」を「篆」と訛す)の中に於て、《国語》の裏の伶州鳩が七律を討論するあの段の話は、講ずるはすなわち六壬の法なりと認む。馬端臨の《文献通考》は則ち六壬は秦代に出ると言う。張鋐の《説約》は《漢書・律暦志》の注文「大撓が甲子を創制し、北斗の斗柄の指す処を観測し、五行の精微を探究す」の一句に依拠し、六壬はあたうべく大撓に創始し隷首の手に完成すと主張す。焦循(号は里堂)先生の看法はまた同じからず、彼は徐岳の《術数記遺》の裏に提到する「周公掯悶」「孔子三不能」「西老成子四維」のこの数種の数術は、すなわち六壬の天盤と地盤なりと言う。以上の諸説は、大体の上に皆推測・揣度の詞に属し、誰も確証を拿出する能わず。

然讀《吳越春秋》《越絕書》子胥、少伯諸占,與今時六壬無異,則其來久矣,吳越已。觀於《春秋傳》,左氏好言卜筮,何以不及六壬?然則《吳越春秋》《越絕書》所載亦難必其真確。而著此二書者為趙煜、袁康,二者皆後漢時人,可知後漢時始有六壬矣。今見《天官壬學》一書,內有《端木夫子十二字經》《顓孫夫子二十七字經》,豈因子貢億則屢中、子張才高藝廣,有十世可知之問,故依記而成此二篇歟!何其寥寥數語,初無異人處也。

ただし《呉越春秋》と《越絶書》の裏の伍子胥・范蠡(字は少伯)らの占例を読めば、その推法は今天の六壬と毫も二致なし、以て見るべしこの門の術数は由來すでに久しく、早くも呉越の争覇するの時にすでにこれ有りき(「呉越已」の三字は底本に脱誤有るに似たり、姑く文意に依りてこの句と読む)。しかし反対に《春秋左氏伝》を看れば、左丘明は最も卜筮の事を記載するを愛す、なぜ偏に六壬を提げずや。こう言えば、《呉越春秋》《越絶書》の記する所のあの些の占例も、また断じ難し便ち真実にして可靠なりと。いわんやこの両部の書を編写する趙煜(趙曄と作るべし)と袁康とは皆後漢の時の人、これに由りて推断すれば、六壬は大概して後漢に至りて始めて出現す。近来我はまた一部の《天官壬学》を見、書の裏に《端木夫子十二字経》と《顓孫夫子二十七字経》を収む。端木賜はすなわち子貢、孔子は彼を「億すれば則ち屢々中る」と称す、事を揣度して常常に言い中つ。顓孫師はすなわち子張、才は高く技芸は博通し、かつて孔子に向かって「十世は知るべし」の疑問を提出せり――大概に後人はすなわちこの両椿の故実に附会し、名を托して編成するはこの両篇ならん。実は内容は不過寥寥の数語、圧根に何の過人の処有るを看出す能わず。

三式出世の先後:六壬が最も先、奇門はそれに次ぎ、太乙が最も晩し

太乙、奇門、六壬,古稱三式。愚以為六壬最先出,奇門次出,太乙晚出。何以明之?觀六壬純用干支神將推演,並不用九星、八門、文昌、計都等項,以是知其先出。奇門所用天三門、地四戶、天馬方則採用六壬矣。太乙所用九星、八門、五符等類,則採用奇門、六壬矣,以是知二書皆在六壬之後也。三式雖以太乙為尊,但其積算推至一千萬年以上,荒渺無稽,況天運循環、國祚修短,何敢予知?固不若六壬之切於日用而又不干例禁也。

太乙・奇門・六壬の三門、古人は合せて「三式」と称す。我は以てその中で六壬の出現するが最も早く、奇門はその次、太乙は最も晩し。何を以てかく言うや。六壬の推演を看るに、全部ただ天干・地支と十二天将とを用うるのみ、並べて九星・八門・文昌・計都のこれらの名目を掺入せず、以て見るべしそれは前に出現せり。奇門の用いる所の「天三門」「地四戸」「天馬方」は、明に拝するに六壬の裏より取り来れるもの。太乙の用いる所の九星・八門・五符の一類は、則ち奇門と六壬の両家のものを皆取れるもの。これに由りて知るべし、奇門・太乙の両家の書は皆六壬の後に成れり。三式の中は太乙を以て地位は最も尊しといえども、しかしその積年の推算は動もすれば一千万年以上に上遡し、渺茫として稽考する由なし。いわんや天道の循環・国運の長短のこの種の事、凡人はどうして敢えて予め断言せんや。ゆえに太乙は終に六壬のごとく日用に貼近日せず、また朝廷の禁令を触犯せざるに如かず。

六壬の得名:宋人・祝泌・《未悟書》・張江村の諸説

六壬之名,說者不一。有云水生於一、成於六,故名六壬者,宋人也。有云《周易》以乾卦為首,乾內卦納甲,故奇門稱遁甲;外卦納六壬,故稱六壬者,祝泌也。有云天一生水,天五生土,合而成六壬,字上一撇象水之朝東,下一畫重者像地之厚載,中一畫長者,縱則為天地,橫則為宇宙,六壬與天地宇宙同用,加以水土生育之功,有厚載之至德,故云六壬者,《未悟書》中語也。有云乾為天屬金,壬承天屬水,壬得天之氣,即洩天之機,故云六壬者,張江村也。至《六壬廛談》則云:本旬有壬將主事,當於排天地盤時,默祝曰“本旬壬某神將護我”,判籤則自然響應,於壬將本日拜之,則壬將默助,有斷即靈,是又以六壬為神祗矣。

「六壬」のこの名称の來歴は、各家の説は不一なり。ある人は言う、水は五行の生成数の裏に「一に生じ六に成る」、ゆえに六壬と叫ぶ、これは宋人の講法なり。ある人は言う、《周易》は乾卦を以て首に居り、乾卦の内卦は甲を納す、ゆえに奇門は「遁甲」と叫ぶ。乾卦の外卦は壬を納す、ゆえにこの門は「六壬」と叫ぶ、これは祝泌の講法なり。ある人は言う、「天一は水を生じ天五は土を生ず」、一と五と相合して六と成る、ゆえに六壬と名づく。さらに「壬」の字の字形を拆解す。上の一撇は水の東へ流れ去るに象り、下の一横は厚く写して大地の承載に象り、中の一横は最も長し。竪に看れば天地、横に看れば宇宙なり――六壬は天地・宇宙と同一の功用、さらに水土の万物を生育するの功・厚徳に物を載するの至徳を加う、ゆえに六壬と称す、これは《未悟書》の裏の話なり。ある人は言う、乾は天にして五行は金に属し、壬は天を承けて水に属す、壬はすでに天の気を得、また能く天の機を泄露す、ゆえに六壬と叫ぶ、これは張江村の講法なり。《六壬廛談》に至っては、説法はいっそう玄なり。それは講ず、毎一旬の中に皆一位の「壬将」あって値して主事し、天盤・地盤を排布する時はあたうべく默默と祝告して「本旬の壬某神将が我を護佑せん」と、このように簽象を判断すれば自ずから霊応す。その壬将の日を値するのあの日に彼を礼拝すれば、壬将は便ち暗中に相助け、何を断ずとも何も霊なり――これはすでに六壬を以て神祇と為して供奉するなり。

《金旨占論》:壬を以て一旬の最も重き神と為す

《金旨占論》則曰:“旬內之壬各有主,如甲子旬壬申,丙寅日以申為財,即不求財,亦有意外之得;乙丑日以申為官,即不求官,亦有得名之事,否則口舌官非。”是又以壬為最重之神,故以六壬立名矣。諸說紛紛,未知誰是,姑集於此,請教高明。

《金旨占論》はまた言う。「毎一旬の裏の『壬』は各々主る所有り。たとえば甲子のこの一旬、壬は申に落つ、それならば丙寅日は申を以て『財』と為す、たとい求財を問い来たるにあらざるとも、また意外の進項有らん。乙丑日は申を以て『官』と為す、たとい功名を問い来たるにあらざるとも、また名声を博するの事有らん、然らざれば則ち口舌の官司を閙さん。」これはまた「壬」を看作して一旬の中の最も緊要のあの位の神と為し、因りて「六壬」を用いて命名す。以上の諸説は紛々として不一、我もまたどの家が対なるかを知らず、姑くそれらをここに彙集して、高明の士に請教す。

楓天棗地:式盤の制と四課・三伝

《景祜神定經》云:壬式楓天棗地,朝向東,暮向西。董說《詩》云:“藜杖讖圖文訂楓天神,式將移壬。”蓋古人以楓木規為天盤,棗木規為地盤,向太陽旋而用之,以觀上下相加,發四課與三傳也。

《景祐神定経》(底本は「祐」を「祜」と作る)に言う。六壬の式盤は楓木を以て天盤と作り、棗木を以て地盤と作る、早朝は東に朝り、傍晚は西に朝る。董説の詩句「藜杖に讖図文を訂し楓天の神、式将は壬を移さん」、言う所は正にこの事なり。もとは古人は楓木を旋じて円盤と為して「天盤」と作り、棗木を旋じて円盤と為して「地盤」と作り、使用する時は太陽の方向に朝って天盤を転動し、さらに天盤と地盤とが上下に相畳したる後の各宮の対応関係を看、これに拠って「四課」と「三伝」とを起出す。所謂る「四課」は、日干・日支が各々両重の神を配出して成るの四組、全課の根柢と為る。「三伝」は則ち初伝・中伝・末伝、分別に一件の事の起頭・中段と結局とを代表す。

月将はすなわち太陽

月將即是太陽,以太陽加正時,順布十二宮,則與天上星宿所臨方位相符,故陰陽動盡天人感應。唐朝王遠知引其師陶宏景之言曰:“六壬精髓,其一為月將,天上太陽隨月而異宮,其光普照四方,故萬事皆見。月將為誤,然後凡事不誤。”此語最為明顯,宋人邵彥和論次客曰:“古次客之法,因數人同時來占,乃用前五後三,換將不換時之例,試之每不驗。蓋燭照禍福,全賴太陽之光明,故以正將正時為最,其次則換時不換將耳。餘則不換將,亦不換時,惟以各人年命為主,課雖同而理則異。區別懸殊,十不失一。”是亦月將即太陽之明證。乃《銀河棹》則曰:“錯認日躔為月將”,而張松源之注,又惑於俗本奇門超神接氣之法,以交接之後據河圖生成數而定月將,殊屬無謂。

「月将」はすなわち太陽が当月に在る所の宮位なり。月将を課を起こすの「正時」の上に加え、十二宮に順い依次に排布すれば、天盤の各宮は便ち天上の星宿の実際に臨む所の方位と相合し、是に於て陰陽の消長は尽くその中に収め、天人は以て感応を得。唐代の王遠知が彼の師・陶弘景の話を転述して言う。「六壬の精髓は、頭の一条はすなわち月将なり。天上の太陽は月份に随いて宮位を更換し、その光は普く四方を照らす、ゆえに万事は皆照見し得。月将錯らざれば、然る後に凡事もまた錯らず。」(底本のここは「不誤」を「為誤」と訛す。)この句は道理を説くこと最も透徹なり。宋人の邵彦和は「次客」――すなわち几位の客人が同時に占いを求めればどう区分すべきか――を討論する時に言う。「旧時の次客の法は、数人が同時に来りて占うに遇えば、則ち『前五後三』、月将を換えて時辰を換えざるの成例を用う、我は試し下すに常常に験あらず。須らく知るべし、能く禍福を照見するは全く太陽の光明に頼る、ゆえになお以て本人の正将・正時に課を起こすを最上と為す。一歩退けば、またただ時辰を換えて月将を換えざるのみ。さらに下へ往けば、便ち将と時とも換えず、単に各人の行年・本命を以て主と為す――課は同じなるといえども、しかし理路は人に因りて各々異なり、判じ出せば差別は悬殊にして、十次も錯るは一次に及ばず。」これはまた月将がすなわち太陽の明証なり。しかし《銀河棹》はしかし言う「太陽の躔する所の度数を錯って月将と為すこと勿れ」と。しかして張松源が注を作る時、また通俗本の奇門の「超神接気」の算法に迷えて、節気の交接の後に《河図》の生成数に依りて月将を定むべしと主張す、実在に毫も道理なし。

月将を交るの法:恒気と定気との別

交月將之法,古書間有異同,然總在中氣之後,或一日二日,或三日五日不等。故人所用者恆氣,每年二十四氣勻派,而太陽行度有盈縮,未必恰於交中氣之日時過宮。況其過宮,又限定於某宿某度,是以有一日二日、三日五日之殊。今時憲書則以定氣為主,故太陽即於交中氣日時過宮,便換月將,此正合天之妙。張松源之注《銀河棹》以月將並非太陽,宜其另生一法而交月將。及陳耕山作《三才發秘》,誤解“步戌成歲”一語,以為正月太陽在戌宮,更可笑也。

月将を更換するの具体の日期は、古書の記載は互いに出入あり、しかし総じて「中気」の後に在り――二十四節気の中に排して後の一半なる雨水・春分・穀雨の類を中気と言い、旧法は中気を以て将を換るの界線と為す――あるは一二日を差し、あるは三五日を差す。これは旧時の用いる所は「恒気」、一年の二十四気を平均して分派するを以てなり。しかして太陽の実際の運行は快あり慢あり、未だ必ずしも恰好に中気を交るのあの日の時辰に宮を過ぐるを得ず。いわんや宮を過ぐるはなお限定して某宿・某度の上に在り、ゆえにこそ一二日・三五日の参差あり。如今の《時憲書》は改めて「定気」を用い、太陽は便ち中気を交るの日時に宮を過ぎ、随い即ち月将を更換す、これこそ真に天行の妙に合す。張松源が《銀河棹》に注するは、もとより月将は太陽にあらずと認定せり、彼が別に一套の交将の法を立てんことを怪しむに足らず。陳耕山が《三才発秘》を写すに至っては、「歩戌成歳」のこの句の話を理解するを錯り、竟に以て正月の太陽は戌宮に在りと為す、それはいっそう笑うべきなり。

月将誤るといえども大事はなお験するの故

“月將不誤,然後凡事不誤。”此至言也。乃《指南占驗》嘗有誤用月將而大事仍驗者何也?蓋無心之錯,機即隨之,故能符合相應。若有意標奇示異,恐未必然也。

「月将錯らざれば、然る後に凡事もまた錯らず」、これは至理の名言なり。しかし《六壬指南》の載する所の占験の中にも、月将を用うるを錯りて大事が照様に応験するの例あり、これは何の故ぞや。大概それは無心の失、天機はこの無心に随いて動くを以て、ゆえに仍旧に事実と吻合し得。倘しこれ有らん意に標新立異して、故に錯りを用いて奇を炫わんとせば、恐らくは便ち未だ必ずしも霊験ならざらん。

《銀河棹》の両種およびその偽りて姚広孝に托するの疑

《銀河棹》有兩種,一種不言遁干,不知誰人所輯,乃雜採諸書而成,為書六卷,惜選擇不精,又多訛錯。一種專用遁干,七言詩僅十六句,又擇以四言數十句,以為出於姚廣孝。寧波張松源詳註《馬松源自序》云:“姚少師得此書而藏之內府,正統中土木之變,蓉城孫南葉先生於燕臺曾門室中得之,未有師傳也,後從史道鄰兵憲於安慶,始遇異人指授,遂精其學。餘懇求再四,僅以經文相授。”按正統土木之變,距史公在安慶約為一百八十餘年,竊恐南華先生未必有此高壽。彼松源者,焉從執贄而求之哉?其用遁干,雖本《中黃經》,而又分出天地人三遁,已為節外生枝,至於月將貴人起例,一切與他書迥異。若依此推斷,則唐宋以來諸書咸不可信矣。況廣孝初見成祖,懷中出太平錢五枚,並非六壬也哉!

《銀河棹》には両箇の本子あり。一種は「遁干」を講ぜず、誰が編成したるかを知らず、ただ雑に各家を抄して成るのみ、共に六巻、惜しむべし取材は精ならず、また訛誤多し。もう一種は専ら遁干を講ず、七言の歌訣はただ十六句のみ、別に数十句の四言を選配し、姚広孝の手に出ずと言う。寧波人の張松源がそれに詳注を作り、自序の中に言う。「姚少師(姚広孝は官は少師に至る)がこの書を得て後、内府に蔵す。正統年間に土木堡の変が発生し、蓉城の孫南葉先生は燕台の曽門の室中に於てそれを得、しかし師承の指点なし。後に彼は安慶に到り兵備道の史道隣に追随し、こそ異人に遇い当面して指授せられ、是に於て此学に精通す。我再三懇求すれども、彼もまたただ経文を我に伝授するを肯んずるのみ。」按す。正統の土木の変より史可法の安慶に任職せるまで、中間におよそ百八十有余年、おそらく孫南葉は未だ必ずしもこの様の高寿あるべからず(底本は前文は「南葉」と作り、ここは「南華」と作る、当に一人に係るべし)。それならば張松源はまた誰に向かって礼を執りて教えを求め得んや。彼の遁干を使用するは、言うに《中黄経》に本ずといえども、また分かちて天遁・地遁・人遁の三種を出す、すでに節外に枝を生ず。月将・貴人の起例に至っては、いっそう一概に別家と迥然として同じからず。もし彼のこの一套に依りて推断せば、唐宋以来の六壬の諸書は便ち全く信ずべからざらん。いわんや姚広孝の初めて明の成祖に謁見する時、懐中より五枚の太平銭を掏出して以て占卜す、用いるは根本より六壬にあらざるをや。

《銀河棹》の陰陽貴人が自相矛盾す

《銀河棹》以子至巳為陽,用陰貴人;午至亥為陰,用陽貴人;復有責陰神。假如例一課,戊戌日寅時戌將,明明寅是陽時,當用陰貴人,乃作陰時而用陽貴人丑,何也?以子之矛,攻子之盾,張氏窮矣。

《銀河棹》に規定す。子時より巳時に至るは陽に属し、陰貴人を用うべし。午時より亥時に至るは陰に属し、陽貴人を用うべし。このほかまた別に一箇の「陰神を責む」の名目を立つ。しかしそれ自身の書中に挙ぐる所の一箇の例課、戊戌日・寅時・戌将、寅は明らかに陽時、それの定むる所の規矩に拠れば則ちあたうべく陰貴人を用うべきに、それはしかし陰時と作して陽貴人の丑を取る、これは何の道理ぞや。彼自身の矛を拿て彼自身の盾を戳さば、張氏は便ち言う可き無し。

貴人を起こすの法:先天・後天の坤上に甲を起こす

起貴人法,論理當從先天後天坤上起甲,先天坤在子,故在子上起甲,順布十干,不加魁罡,不加子所沖午;取其干合為陽貴人。後天坤在申上起甲,逆布十二,不臨魁罡,不臨申所沖之寅,取其干合為陰貴人。嘗讀《吳越春秋》七月辛亥日平旦大吉為白虎而臨辛,功曹為太常而臨亥,則知辛日陰貴果在午,三月甲日陽貴果在丑。《晉書戴洋傳》十月丁亥夜半,從魁為貴人加丁,則知丁日陰貴果在酉,是皆起貴人之明證。而《六壬元女經》,其第一繫天乙所在,甲戊庚日旦大吉,夕小吉;乙己晝神后,夜傳送;丙丁日旦登明,暮從魁;辛日晝勝光,夜功曹;壬癸日晝太乙,夜太沖。此書出於隋朝,厥後徐道覆、凌福之、元軫、劉日新、苗公達等咸遵之,則相沿已久矣。

「天乙貴人」を起こすの方法は、理に拠ればあたうべく先天・後天の両箇の坤位の上より甲を起こすべし。先天の坤位は子に在り、ゆえに子の上より甲を起こし、十二宮に順いて十干を排布し、「魁罡」(辰・戌の二宮)に遇えば加えず、子と相冲する午もまた加えず、本日の日干と相合するあの一位を取りて「陽貴人」と作す。後天の坤位は申に在り、便ち申の上より甲を起こし、逆に十二宮を排布し、同じく魁罡に落ちず、また申と相冲する寅にも落ちず、日干と相合する者を取りて「陰貴人」と作す。我曾《呉越春秋》を読む、その中の七月辛亥日平旦の一課、大吉(丑)は白虎と為りて辛に臨み、功曹(寅)は太常と為りて亥に臨む、これに由りて知るべし、辛日の陰貴は果して午に在り、三月甲日の陽貴は果して丑に在り。《晋書・戴洋伝》の載する所の十月丁亥日・夜半の一課、従魁(酉)は貴人と為りて丁に加わる、これに由りて知るべし、丁日の陰貴は果して酉に在り――これらは皆貴人を起こすの法の明証なり。しかして《六壬元女経》は巻を開く第一条に便ち天乙貴人の所在を列出す。甲・戊・庚日は昼は大吉(丑)を用い、夜は小吉(未)を用う。乙・己日は昼は神后(子)を用い、夜は伝送(申)を用う。丙・丁日は昼は登明(亥)を用い、夜は従魁(酉)を用う。辛日は昼は勝光(午)を用い、夜は功曹(寅)を用う。壬・癸日は昼は太乙(巳)を用い、夜は太冲(卯)を用う。この書は隋代に出ず、その後の徐道覆・凌福之・元軫・劉日新・苗公達らの人は皆それを遵用す、以て見るべしこの一套は沿袭すでに久しきを。

貴人の旦暮を治むる:太陽の出入を以て準と為す

貴人治旦暮,或以日出為旦,用陽貴;日入為暮,用陰貴。或以卯至申時用陽貴,酉至寅時用陰貴。《六壬心鏡注》云:“用晝夜長短分旦暮”,則以太陽出入為準可知矣。

貴人は白天と夜晚とを分管す、一体何を以て界と為すか、両種の講法あり。一種は日の出を以て「旦」と為して陽貴人を用い、日の落つるを「暮」と為して陰貴人を用う。もう一種は則ち一律に卯時より申時に至るを以て陽貴を用い、酉時より寅時に至るを以て陰貴を用う。《六壬心鏡注》に言う「昼夜の長短に按して旦暮を划分す」、以て見るべしそれの主張する所は太陽の実際の出没を以て準と為すにして、固守して固定の時辰の界線に死せざるなり。

丙日の陰貴は亥に在り:維揚の水路に険に遇うの験案

予以甲戌年閏二月丙子日戌將戌時,卜往維揚,見鬼臨三四,水路有災。幸末傳有長生可求,即於次日啟行。戊寅日三更,舟為巨石碰傷,大水冒入而受大驚。是子鬼乘蛇之故,然則丙日陰貴在亥矣。若以酉為貴人,則子鬼乘元武,當主盜賊矣。

甲戌年・閏二月・丙子日、戌将・戌時、我は自己の揚州に前往するを一課占し、「鬼臨三四」を見る――官鬼は第三・第四課の上に落つ――主として水路に災あり。幸いに末伝は「長生」を帯び、なお指望すべきの処あり、便ち第二天に啓程す。戊寅日の三更に到り、船は巨石に撞えて壊れ、大水は艙に灌ぎ入る、着実に一场の大驚を受く。これは正に子水の官鬼が螣蛇を乗するの応ずる所なり。これに由りて反証す。丙日の陰貴人は確かに亥に在り。倘若ももう一種の説法に照らして酉を以て丙日の貴人と作さば、それならば子鬼の乗る所は玄武と成る(底本は「元武」と作る、避諱の為に改めしなり)、断じ出せばあたうべく盗賊の災なるべし、実情と便ち対せざらん。

三経は過簡なり、《中黄経》の遁干を出すは六壬の一変

《金匱》、《玉門》、《曾門》三經,似覺太簡。蓋作書之初,斷法未備,後則踵事增華,又未免稍有穿鑿。《中黃經》出遁干,則又六壬之一變。

《金匱》《玉門》《曽門》のこの三部の経は、読み来って総じて以て簡略に過ぐると為す。大概に書の成るの初は、断法はもとより斉備せざりき。後世は踵む事に華を増し、いよいよ補いていよいよ細密と為る、また不免に些か穿鑿附会あり。《中黄経》に到りて「遁干」の法を提出するに至りては、それはさらに六壬の一次の大変なり。

《中黄経》の抄本と初建・復建の遁干

《中黃經》之名,見於焦竑《經籍志》,然不知誰人所著。是書各家抄本錯漏遺誤最多,難以較正。家惠蒼小阮得一本於淮陰,其註明白直捷,雖用遁干而不專憑,遁干待散。何為初建?日干五子元遁是也。何為復建?時干五子元遁是也。以建干多寡逐情而變,不執本支五行。由是觀之,生中有鬼,財中有克,窮在建干變化也。

《中黄経》のこの書名は焦竑の《経籍志》に見ゆ、しかし作者が誰なるかを知らず。この書は各家の抄本は錯漏最も多く、校正し難し。我が家の恵蒼の賢侄は淮陰に於て一箇の本子を得、注文は明白にして直截、遁干を用うるといえども、並べて一味に遁干を依頼せず。遁干の用法はなお疏通を待たん。何をか「初建」と言う。すなわち日干に拠って「五子元遁」を起こす――日干を以て子時に配して遁を起こし、順推して各時の干を推す――得る所のあの天干なり。何をか「復建」と言う。すなわち占時の干に拠って五子元遁を起こして得る所の天干なり。得る所の建干の多寡に依拠し、事情に随いて霊活に変通し、死守して本位の地支の五行に死せず。こう看れば、相生の中には暗に官鬼を蔵すること有るべく、財爻の中には暗に剋害を蔵すること有るべし、その中の曲折は全く建干の変化の上に在り。

朱恒の論ずる所の吉凶を断ずるは遁干に憑らず

朱恆又曰:“若取來情,當以聚散鬼救論。若斷休咎,只用日干為主,與正時三傳生克論始終平安,不必用變求奇。古人有云,求奇反不奇也。”愚按:朱恆此言最為明顯,歷觀徐道符、元軫、苗公達、劉日新、邵彥和諸公占案內,何嘗憑遁干斷吉凶耶?朱恆,元末明初之松江府人,見於《一字訣玉連環跋》,又見《五要權衡跋》。

朱恒はまた言う。「もし来人の心の裏の占む所は何の事かを推測せば、あたうべく課体の聚散・鬼爻と救神とより判断すべし。もし吉凶・禍福を断ぜば、ただ日干を以て主と為し、正時と三伝の生剋とを配合し、事情の自始至終に平安なるか否かを論断す、必ずしも花様を翻新して奇を求むるに靠らず。古人に一句の話ありて善く言う。刻意に奇を求めれば、かえって奇ならず。」我が按ず。朱恒のこの段の話は講ずること最も透徹なり。遍く徐道符・元軫・苗公達・劉日新・邵彦和の諸位の前輩の留下せる占案を看るに、どの一条が遁干に憑って吉凶を断じたるか。朱恒は元末明初の松江府の人、その人は《一字訣玉連環》の跋に見え、また《五要権衡》の跋に見ゆ。

《五悪》の章の験案:己卯日に天時を占す

《中黃經》中《五惡》章予試之,己酉年六月二十五日占天時,戌時午將得己卯日,干上卯虎,三傳未卯亥木局傷干,貴占天門,斷其即有風暴,屋倒驚塌之驚。果至次日未時,迅雷暴雨從西南而起,仰見一紅黑二云,或高或下,各處牆屋斜倒,人以為龍吼相鬥雲。

《中黄経》の裏の《五悪》の一章は、我は試用せり。己酉年・六月二十五日に天気を占し、戌時・午将、己卯日の課を得。日干の上は卯木が白虎を乗り、三伝の未・卯・亥は合して木局を成して来て日干を傷り、貴人はまた「天門」の亥位に占住す。我は断じて馬上に風暴あり、屋塌れ墻倒るるの驚険を出すと為す。果して第二天の未時、迅雷・暴雨は西南方より圧して来る、頭を抬げて一紅・一黒の両片の雲を見、忽ち高く忽ち低く翻巻し、各処の墻屋は紛々として歪み倒れ、人は皆龍の吼叫して相闘うと言う。

《一字訣玉連環》は最も占時を重んず

《一字訣玉連環》最重占時,予嘗試之,果驗,不第占來意用之,凡占時與初傳相沖,或與類神相戰,或於正課有礙,便多不利,縱課傳全吉,亦主阻滯。

《一字訣玉連環》は最も「占時」を看重す、我は試せり、果して応験し、しかもただそれを用いて来人の本意を推測するに止まらず。およそ占時と初伝と相冲するか、あるいは問う所の事の「類神」――その類の事物を代表するあの地支あるいは天将――と相戦するか、あるいは正課に対して妨げ有るは、多半不利なり。たとい課体と三伝とが全然に吉利なるとも、また事の遅滞して受阻するを主す。

六壬は最も正時を重んず:時を報ずるは須らく口に随いて出るべし

六壬最重正時,正時者,吾心忽於此時發動,自與天機感應也。其次則以雷擊棗木制盒搖時,拈門抽籤等法,尤不及報時之準。但報時必須隨口,若稍遲迴,則天機不在。或云,壬將靜則在位,動則周遊天上人間,凡事皆知,故一旬之中各有本旬神將主事,即不占之時,壬將亦在,不在一身之左右,即在書盒之左右,故凡置盒之處,皆須潔淨,則神將敬服,有斷即靈。

六壬は最も「正時」を看重す。所謂る正時は、我のこの顆の心が忽然としてこの一刻に発動し、自ずから天機と相感応するを指す。その次こそ雷撃の棗木を以て制成したる盒子を用いて時辰を摇取し、鬮を拈り籤を抽くの一類の办法、これらは皆求占者の口に随い報出する時辰に准するに如かず。しかし時を報ずるは必ず脱りて口より出ずべし、稍や一たび遅疑し回旋すれば、天機は便ち上に附せず。また一種の説法あり。壬将は静止する時は本位に守り、一たび動き起これば便ち天上・人間を周游し、知らざる事なし。ゆえに一旬の中に各々本旬の神将ありて当値して主事し、たとい課を起こさざるの時も、壬将はまた在り――人身の左右に在らざれば、便ち書盒の左右に在り。これに因りておよそ式盒を安放する所の地方は必ず潔浄ならしめよ、神将はこそ敬服を肯んじ、一断すれば便ち霊なり。

棗木の盒と十二弹の盤に投じて時を取るの法

雷擊棗木盒,以赤珊瑚為珠,此古法也。近見《兵帳賦》氏蒙矢路執示投注云:式者,六壬式也。以擊盤畫十二宮(按擊盤二字不可解,內必有錯誤。)內寫十二神辰,用雷擊棗木或檀木竹十二彈,每彈上刻一辰,十二彈刻十二辰為十二月將,遇昏蒙各按月將取其彈投於盤中,蓋覆搖動,待定啟視,其彈落於何宮,即作正時占之。愚按:比棗制更妙,故錄之。

雷撃の棗木を用いて盒を作り、赤珊瑚を以て珠と作るは、これ古法なり。近来我は《兵帳賦》(原書のここは「氏蒙矢路執示投注」の数字は文義通ぜず、脱訛有らんと疑う)を見て言う。所謂る「式」は、すなわち六壬の式盤なり。円盤の上に十二宮を画き(作者の自注:「撃盤」の二字は講じ通ぜず、内中に必ず錯字あり)、宮内に十二神の辰を写し、さらに雷撃の棗木あるいは檀木・竹料を用いて十二枚の弾丸を做成し、毎枚の上に一箇の地支を刻み、十二枚は合せて十二辰を刻み、すなわち十二月将を代表す。昏昧にして決し難きの事に遇えば、便ち当月の月将に按して相応の弾丸を取出して盤の中に投げ入れ、盤の蓋を蓋えて摇動し、それの停定するを待ちて掲開して看れば、弾丸がどの一宮に落つるか、便ちあの一宮を取りて正時と作して課を起こす。我が按ず。これは棗木盒に時を摇るの老办法よりいっそう妙なり、ゆえにそれを記録す。

虎の遁鬼を乗ずるは未だ必ずしも大凶ならず、ただ干鬼を乗り丁に遁るのみ最も速し

虎乘遁鬼,《畢法》言其極凶,予占恆得之,未見大凶處,惟虎乘干鬼而遁旬丁者,凶動最速。如己巳日干乘丁卯,夜貴作虎星也。

白虎が遁干の現ずる所の官鬼を乗するは、《畢法賦》はこれを極凶の象と言う。しかし我が課を占うに常常にこの種の格局に遇うに、並べて多大の凶险を見出せず。ただ白虎が日干を剋するの官鬼を乗り、しかして遁干がまた恰好に本旬の「丁神」――十干の中に動摇・変化を主るあの一位――なるのみ、凶事の発動はこそ最も速し。たとえば己巳日、日干の上は丁卯を乗り、夜貴の時にまた白虎の星に当たるに輪る、すなわちこの種の情形なり。

《畢法賦》「難を避け生を逃るるは須らく旧を棄つべし」の注が誤って他格に入る

郭氏所刊《畢法賦》內有錯誤一條,今拈出之,“避難逃生須棄舊”注:乙酉日干上亥,辛丑日干上未,比舍益就損格。蓋乙酉日舍去干上亥水之長生而就酉支之鬼克。辛丑日舍去干上未土之生而就丑支之墓,所謂舍益就損也。乃錯列於舍就皆不可格內。

郭氏の刊行せる《畢法賦》の裏に一条の錯誤あり、今それを拈出す。「難を避け生を逃るるは須らく旧を棄つべし」の一条の注文は例を挙げて言う。乙酉日は日干の上は亥、辛丑日は日干の上は未、この両例は「益を舎て損に就く」の格に属す。もとは乙酉日は日干の上の亥水のこの長生の地を舎棄し、転じて日支の酉金の鬼剋に遷就す。辛丑日は日干の上の未土の生扶を舎棄し、転じて日支の丑土の墓庫に遷就す――これこそ有益なるを舎ち、損有るに就くと言う。しかし郭本はしかしこの両箇の例子を錯誤して「舎すも就くも皆不可」の一格の裏に帰れり。

舎すも就くも皆不可の格の正例、兼ねて《大全》の課式の訛を正す

舍就皆不可格,惟有庚子日干上辰,生我者既空,而庚加子支,又脫我氣;庚午日干上戌,生我者既空,而庚加午支,又為日鬼也。己日卯加巳,夜將乘虎而克干,其上所載之課式亦加巳,三傳卯亥未。而《大全》則錯作卯加乙,其上所載之課云亦是卯加巳,三傳丑亥酉。

真正に「舎すも就くも皆不可」の格に属するは、ただ両種のみ。庚子日は日干の上に辰を見、我を生ずるの辰土はすでに空に落ち、しかして庚金は子支に加臨してまた我の気を泄す。庚午日は日干の上に戌を見、我を生ずるの戌土はすでに空に落ち、しかして庚金は午支に加臨してまた日干の官鬼と成る。この両例は取るも是ならず舎てるも是ならず、こそ舎すも就くも皆不可と言う。己日の卯の巳に加わり、夜将が白虎を乗りて日干を剋するのこの一課に至っては、原書の附する所の課式もまた卯の巳に加わると作し、三伝は卯・亥・未。《六壬大全》はしかし錯って「卯の乙に加わる」と刻し、しかしてそれ自身の載する所の課語はなお卯の巳に加わると写し、三伝はまた変じて丑・亥・酉と成る、前後は自ら相抵牾す。

蛇乗丁格の原刻の眉批は《大全》に失わる

又《大全》少刻眉批一則:蛇乘丁格,原本眉批云:白虎屬金,故止六甲日忌遁旬內之庚,螣蛇屬火,故止六辛日遁旬內之丁。此批甚為明暢,乃《大全》失之,可惜也!

また、《大全》はなお一条の眉批を漏刻せり。「蛇乗丁格」の下、原刻本の眉批は言う。白虎は五行は金に属す、ゆえにただ六箇の甲日のみこそ本旬の内の庚を遁出するを忌む。螣蛇は五行は火に属す、ゆえにただ六箇の辛日のみこそ本旬の内の丁を遁出するを忌む。この条の批語は所以然を講じて十分に明快・通暢なり、《大全》は偏偏としてそれを丢けり、実に惜しむべし。

郭氏の初刻六巻本と十三巻の《大全》

下博郭御青先生,因梓人徐振南之請刻《畢法賦》二卷,《課經集》四卷,共六卷,每卷首頁則有“徐振南梓”數字,是知為初刻原本,後不知何時復益以七卷,共十三卷,名曰《大全》。原本中《占驗存略》一篇,兵占六課刪去。嘗讀《明史藝文志》有袁祥六壬三十三卷,後觀《蘇州府志》,知袁祥為元和縣人,有《六壬大全》三十六卷。此書必有可觀,惜遍求而不得,若郭氏所較輯者,雖曰“大全”,實多缺略,況較讎未盡善歟?

下博の人・郭御青先生は、書を刻する匠・徐振南の請に応じ、《畢法賦》二巻・《課経集》四巻を刊刻し、合計六巻、毎巻の首頁は皆「徐振南梓」の几字を刻す、これに由りて知るべしそれは初刻の原本なり。後に何時か知らずまた七巻を添え入れ、凑りて十三巻と成し、改めて《六壬大全》と題す。原本の中の《占験存略》の一篇の裏の兵占の六課は、刪去せらるを被れり。我曾《明史・芸文志》を読み、袁祥の六壬書の三十三巻を著録せるを見、後に《蘇州府志》を査し、こそ袁祥は元和県の人、《六壬大全》三十六巻を撰せりと知る。彼のあの部の書は必ず観るべきの処有らん、惜しむべし到る処尋訪して皆得る能わず。郭氏の校輯せる所のこの一部に至っては、号称は「大全」といえども、実は缺漏は甚だ多し、いわんや校勘はまた精審を做し足らざるをや。

凌福之《畢法賦》の自相矛盾する処

凌福之《畢法賦》,因用邵彥和斷案而作,而復參以心得,故其書從考驗中得來,非揣摩五行之比,然亦有矛盾處。如“干乘墓虎無占病”注說既云“辛酉日丑為空墓,猶可畏矣。”,至“受虎克神為病症”注又曰“辛酉日丑作空亡,容易治療”是也。予嘗為人占病,得此課者,毫無一生,縱二月占,丑是生氣,亦不能解。惟年命在辰,則未沖丑墓(以下脫漏十九字)邵氏《斷案》惟有乙巳日干上卯,三傳不用卯寅丑而用辰卯寅,疑《畢法》因此一課而推演者也。

凌福之の《畢法賦》は、邵彦和の断案を取りて骨干と為して写し成し、また自己の心得を参入す、ゆえにこの部の書は実際の考験の中より得て来れり、凭空に五行を揣摩するのあの一類の著作と同じからず。ただし書の中にもまた前後に打架する処あり。たとえば「干が墓虎を乗れば病を占する無かれ」の条の注の裏にすでに言う「辛酉日の丑は空墓、仍旧に畏るべし」、到りて「虎に剋されし神を病症と為す」の条の注の裏に、しかしまた言う「辛酉日の丑は空亡に落つ、医治し易し」、両処は正に相抵触す。我曾人に代わって病を占し、およそこの種の課を得るは、活き得る一箇もなし。たとい二月の裏に占して丑は正に生気の時に当たるとも、また化解する能わず。ただ求占者の年命が辰位に落つる時のみこそ別に論ずべし――底本の続きはただ「未は丑墓を冲す」の四字のみ残り、此下は十九字を脱漏し、文義はすでに不完整、敢えて臆補せず。邵氏の《断案》の中にはただ乙巳日の干上の卯の一課のみ、三伝は卯・寅・丑を取らずして辰・卯・寅を取る、我は《畢法》は正にこの一課に就いて推演出したるを疑う。

陰陽の比と五行の比

有陰陽之比,有五行之比。比用課取初傳,陰陽之比也。《畢法》於甲辰日干上戌,不取戌加甲為用,亦取子加辰,以為戌土畏甲木而不比,是拉入五行之比矣,亦似可商。

「比」には両種の講法あり。一種は陰陽の比、一種は五行の比。所謂る「比用課」が初伝を取るは、憑るは陰陽の属性の相同じきか否か、これは陰陽の比に属す。しかし《畢法》が甲辰日の日干の上に戌を見るに講じて、戌の甲に加わるを用神と取らず、かえって子の辰に加わるを取る、その理由は戌土が甲木を畏懼し、因りて甲と相成らずと曰う――これは便ち五行の生剋の比を拉扯し入れしめたり、おそらくなお商榷するに値せん。

《畢法》は活看すべし 其一:元正が終身の財福を占す

《畢法》一書,最為純正,亦宜融通活法看之,不可拘泥。予憶五十七年正月初十日,族人元正先生占終身財福,其時未交春,尚是丑建,庚辰日子將未時,丑墓並月建加干,根土太固,恐非中傳之未所能沖去。況寅是本命,落於空克之地,休囚無氣,末傳子水螣蛇又脫日干,安可以求財大獲格斷?後果蹇滯。

《畢法》のこの部の書は最も純正、しかしまたあたうべく融会・変通して看るべし、死守して条文に死すべからず。我は乾隆五十七年正月初十日を記憶す、族人の元正先生が来りて一生の財福を占し。当時はまだ立春を交えず、月建はなお丑月、庚辰日・子将・未時の課を得。丑の墓は月建を連ねて一倂に日干の上に加わり、土の根基は太く厚く固し、おそらく中伝のあの未土の冲し開く能くする所にあらざらん。いわんや寅は彼の本命、しかしすでに空亡しまた剋を受くるの位置に落ち、休囚にして気なし。末伝の子水は螣蛇を乗り、また日干の気を泄せり。この様の課、どうして「財を求めて大いに獲る」の格に照らして断ぜんや。後に果して処々に困頓・蹇滞せり。

《畢法》は活看すべし 其二:蘇允文が口岸の財利を占す

又嘉慶十四年三月庚辰日酉將辰時,蘇允文乙丑命占將來就何處口舉,財利若何。得求財大獲格,予見天羅自裹,命上虎鬼,象最凶。況寅馬落空,非特難動,須防災病。後果未往岸店,次年正月暴亡。

また、嘉慶十四年三月庚辰日・酉将・辰時、蘇允文(乙丑年生)は来りて将来どの口岸に到りて事を謀るべきか・財利は如何を占し、起出すもまた「財を求めて大いに獲る」の格なり。しかし我は天羅が自身を纏裹するを見、本命の上にまた白虎が坐して官鬼を帯び、象は最も凶险なり。いわんや寅木の駅馬は空に落ち、ただ動身し難きのみならず、また災病を提防せねばならず。後に彼は果して岸上の店舗に去り成さず、第二年の正月に便ち暴病に身を亡ぼせり。

《畢法》は活看すべし 其三:汪応璧が流年を占す

又十九年正月十八,汪應璧先生丙申命占漢年,此課予亦不以財福斷,支上、行年上見酉為日刃也,為病符,被勾陳夾住,主舊事纏繞不清;財空主財不聚,難望如意。後果如占。二月患外症甚危。蓋丑墓帶血支、血忌,陰神虎鬼,支上病符。占流年以行年為主,行年上亦是病符故耳。其先予未斷出。其危而獲安者,猶賴未沖丑墓,行年上既見比劫,財福定不相宜。

また、嘉慶十九年正月十八日、汪応璧先生(丙申年生)は来りて流年を占す(底本は「流」を「漢」と訛す)。この一課は我は同じく財福に按して断ぜず。日支の上と行年の上とに皆酉を見、酉は本日の「日刃」、また「病符」を充当し、また勾陳に両頭より挟まれ、主として旧事が糾纏して清からず。財爻は空に落ち、主として銭財は聚まらず、称心し難し。後に果して応験し、二月の裏に彼は便ち外科の重症を生じ、十分に危険なり。もとは丑の墓は血支・血忌の両煞を帯び、陰神はまた白虎の官鬼、日支の上にまた病符を坐す。流年を占うは本に応に行年を以て主と為すべきに、しかして行年の上もまた正に病符なり――この一層は我は起初は並べて断じ出せず。彼の危にして復た安なる所以は、なお未土の丑墓を冲し開くを靠れるなり。行年の上にすでに比肩・劫財の来て分奪するを見れば、財と福との両項は便ち注定して順遂せざるなり。

論ずるに年に交生日・未交生日の別あり

今人論年,有交生日、未交生日之殊,此法蓋本之邵氏。然觀其斷案內,止有三課如此,其餘不然。

今人の流年を推论するに、「すでに生日を過ぐる」と「いまだ生日を過ぐらず」との分别あり、この办法は大概に邵彦和に源出す。しかし彼の断案を通観すれば、ただ三箇の課のみこの様に処理す、其余は皆此に照らして办せず、以て見るべし並べて通例にあらずと。

長生の十二位は当に五行に従い順布すべし

長生至胎養十二位,宜從五行論長生,以次順布為是。今人亦有以十干分陰陽順布逆布者,蓋因所傳之書非人,無折中之故也。又以日祿臨官,合而為一,勢不能不分出陰陽順布逆布,則日祿即是臨官,殊不知臨官與日祿本不相蒙。

「長生」より一直に「胎」「養」に到るまでのこの十二箇の位次は、あたうべく五行に按して長生を論じ、然る後に依次に順排してこそ対なり。今人にもまた十天干に按して陰陽を分かち、陽干は順布し陰干は逆布する者あり、それは書を彼に伝えし人がもとより明白の人にあらず、折中・取舍する由なきの故なり。彼らはまた「日禄」と「臨官」とを併せて一回事と成す、此の如くすれば勢い必ず陰陽の順逆を分かち出さん、是に於て日禄は便ち臨官に等同す。殊に知らず、臨官と日禄とはもとより両码の事、彼此は並びて相干らず。

旺禄の身に臨むはただ陰干のみこれ有り

故《畢法》“旺祿臨身”之法,謂日之旺神,又作日之祿神,此惟陰干有之。如乙日祿在卯,而乙木長生在亥,亦旺於卯;丁日祿在午,而丁火長生在寅,亦旺於午;辛日祿在酉,而辛金長生在巳,亦旺於酉;癸日祿在子,而癸水長生在申,亦旺於子。惟己日不能相兼,故注云“己酉、巳亥、己巳,干上午雖不是己之旺神,亦可用也。”

ゆえに《畢法》に「旺禄臨身」の一法あり、講ずるは日干の旺神が同時にまた日干の禄神を充当する、この種の情形はただ陰干のみこそ出現せん。たとえば乙日は禄は卯に在り、しかして乙木は長生は亥に在り、また正に卯に旺す。丁日は禄は午に在り、しかして丁火は長生は寅に在り、また正に午に旺す。辛日は禄は酉に在り、しかして辛金は長生は巳に在り、また正に酉に旺す。癸日は禄は子に在り、しかして癸水は長生は申に在り、また正に子に旺す。ただ己日のみ両者を兼ね得る法なし、ゆえに注文に言う。「己酉・己亥・己巳のこれらの日は、日干の上の午はたとい己土の旺神と算えざるとも、同じく以て取用すべし。」(底本は「己亥」を「巳亥」と訛す。)

長生の験:辛日は丑、己日は酉、乙日は亥

且予嘗征之占驗,如辛日干上丑,無未相沖,占病不救 ,日墓故也。若辛金長生在子,則丑是養神,當不至於此之之凶。己日干上酉占事脫賺,占人貪慾,日敗故也。若己土長生在酉,當不至若是之咎。乙日干上亥,六處無土剋制,占病沉痾獲起,占事利益恆多,長生故也。若乙木死於亥,則死神臨日,當不至於若是之吉,此皆屢試而屢驗者,其餘不能枚舉。然則習六壬者,何必惑於他歧,反滋疑而莫能斷耶?

しかも我曾実際の占験を拿てこの一点を印証せり。たとえば辛日は日干の上に丑を見、また未の来て冲し開くなく、病を占せば必ず救う无し、これは丑が正に辛金の墓なるを以てなり。假如真に某些の人の言うがごとく辛金の長生は子に在らば、それならば丑はあたうべく「養」の神なるべし、断じて凶がこの地步に到るに至らざらん。己日は日干の上に酉を見、事を占せば必ず欺瞒・亏蚀を遭い、人を占せば必ず貪婪なり、これは酉が正に己土の敗地なるを以てなり。假如己土の長生は酉に在らば、またこの様の過咎有るに至らざらん。乙日は日干の上に亥を見、四課・三伝の六処にまた土の来て克制するなく、病を占せば則ち沉疴は愈を得、事を占せば則ち利を獲ること常に多し、これは亥が正に乙木の長生なるを以てなり。假如「乙木は亥に死す」の説法に照らせば、それはすなわち死神の日に臨む、断じて吉がこの地步に到るに至らざらん。以上は皆屡試に屡験するなり、其余の例子は多くして数え尽くす能わず。すでに此の如し、六壬を学ぶ人はまた何の必ずしもあの些の旁門・歧説に搅されて糊涂せられ、かえって疑惑を平添し、決断する由なからんや。

日干の墓に投ずるは、病を占するに最も忌む:辛未日に戌命の人の病を占す

日干投墓,占病更忌。即日年命上有沖墓之神,無益也。《心鏡》六般入墓列於第四,不過次序如此,非其凶氣輕於三項也。巳年申月辛未日午將酉時,占戌命人病,日干臨丑墓,三傳亥未未,土重埋金,皆非吉象,況未是三丘,丑為五墓,行年上太陽為鬼,迴光返照,能有幾時?即斷此病不起,果七十有九日而死,己丑日辰,仍是日墓。干上未,中末未,命上未,並不見其能沖丑墓,是亥水為初而而遭群土之克,恐其凶尚不止此,奈何?

日干が墓庫に投入するは、病を占するに尤も忌諱す。たとい日辰あるいは年命の上に能く墓庫を冲し開くの神有るとも、また事を済すに济ならず。《心鏡》は「六般の墓に入る」を第四条に排す、それはただ叙述の次序が此の如くなるのみ、並べてその凶気が前三項より軽しと言うにあらず。有一年の巳年・申月・辛未日、午将・酉時、一位の戌年生の人に代わって病を占す。日干の辛金は丑墓の上に臨み、三伝は亥・未・未、土は層層に堆曡して金を埋住し、一処の吉象なし。いわんや未は「三丘」、丑は「五墓」、行年の上に太陽はまた官鬼を充当し、回光返照のごとく、また能く几時を支撑せんや。我は当に即ちこの病は起たずと断じ、結果は七十九天の後に果して亡故せり。己丑日に死す、日辰は仍旧に日干の墓なり。この課は日干の上は未、中伝・末伝もまた未、本命の上もまた未、しかし並べてそれらの能く丑墓を冲し開くを見ず。亥水は身は初伝に居り、かえって群土の囲剋を遭う。ただ凶险はなおこれに止まらざるを恐る、また能く如何せんや。

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