Libo

饒亮彩と呉稼雲とは各々秘書を奉ず

清 · 程树勋 · 第3巻 / 4

作盤ガイド: 大六壬起課, 金口訣起課

饒公亮彩以《心鏡》為秘書,吳公稼雲以《未悟》及《管子神書》為秘書。二公談論六壬常意見不合,然透《心鏡》者,占驗較多,予見吳公占驗,占驗惟甲子年八月十二日丙子占歙縣中舉幾人,得伏吟課,吳公曰:“當中五人!”予與饒公竟莫測其課理,叩問吳公,公大笑而不言,迨榜發竟應。

饒亮彩公は《心鏡》を奉じて秘本と為し、呉稼雲公は則ち《未悟》と《管子神書》とを奉じて秘本と為す。両位の先生は六壬を談ずる時に常に意見は合わず、不過は《心鏡》を読み通せしあの一位は、占験は多少多し。我の親見する所の呉公の占験は、ただ甲子年八月十二日・丙子日に歙県のこの一科に能く几箇の挙人に中たるかを占せしあの一回のみ。起得するは伏吟課、呉公は言う「あたうべく五人に中るべし。」我と饒公とは皆彼の課理を揣摩し出す能わず、呉公に就きて教を請うに、彼はただ大笑して答作せず。放榜するに到りて、竟に分毫も差ならず。

江名九の郷試の一課:青竜の内戦・朱雀の空亡の辨

是科江名九先生銘中式第二十名,先是六月甲子日未將辰時,江象坤兄為其占鄉試,斷其必中,予與饒公嫌青龍內戰,朱雀空亡,俱未敢許。迨榜發,報雲。饒公來問予,曰:“此粗心斷課之過也。夫青龍是官星相氣,朱雀”(以下脫漏十九字)加年命之下,末見太陽,不以幕貴為墓論,予以為深服饒公之好學,所謂因敗而成者其勢進。

あの一科に江名九先生(名は銘)は第二十名に考中せり。これより前の六月甲子日・未将・辰時に、江象坤兄は彼に代わって郷試を占し、必ず中ると断ず。我と饒公とは課中の青竜の内戦・朱雀の空亡に落つるを嫌い、皆敢えて附和せず。放榜するに到りて、報ずるは中式なり。饒公は来りて我に問う、我は言う。「これは我らが課を断ずるに粗心なるの過失なり。青竜はもとより官星の相気、朱雀は……」(此の下は底本は十九字を脱漏す。)……年命の下に加わり、末伝にまた太陽を見れば、便ち能く「幕貴が墓に入る」に按して論ずべからず。この一段の脱文はたとい多しとも、大意はなお推し知るべし。青竜はたとい内戦すとも、それ本身はなお官星の相気なり。朱雀はたとい空亡に落つとも、ただ年命の下に加わり、末伝にまた太陽の照臨するを見れば、便ちさらに「幕貴が墓に入る」のあの一条に照らして論断すべからず。我はこれに因りて深く饒公の好学に佩服す――所謂る失敗の中よりかえって成有るの人は、その勢頭は正に長進の裏に在り。

斬関課もまた師を行るに利あり

斬關課,諸書惟言利於隱遁、逃亡、出行、厭禱、合藥、書符等事,殊不知亦利於行師。

斬関課は、各家の書はただそれが隠遁・逃亡・出行・厭勝・祈祷・配薬・画符のこれらの事に利なるを講ず、しかしそれが同様に行軍・作戦に利なるを知らず。

《五代史・賀瓌伝》の斬関して師を行るの例

《五代史賀環傳》云:事鄆州朱宣為都指揮使,梁太祖攻朱瑾於兗州,先遣環與賀懷割、柳存等,以兵萬一人攻兗州,環趨待賓館,欲絕梁餉道。太祖略地至中州,得降卒,言環等兵趨待賓館矣。以六壬占之,得斬關,以為吉,乃選精兵疾馳百里,期先至待賓館以逆環,而原黑夜失道,且至鉅野東,過環兵,擊之,環兵大敗,梁兵急追之,環顧路窮,登冢大呼曰:“我賀環也,可弗殺我。”太祖馳騎取之。

《五代史・賀瓌伝》(底本は「瓌」を併せて「環」と作る)は記載す。賀瓌は鄆州に於て朱宣に事奉し、官は都指揮使に任ず。梁の太祖・朱温は兗州に到りて朱瑾を攻打し、朱宣は先に賀瓌と賀懐割・柳存などの人を派して一万千の兵馬を率いて兗州を攻めしめ、賀瓌は軍を進めて待賓館に至り、打算して梁軍の粮道を截断せんとす。梁の太祖は地を略して中州に到り、投降の士卒を抓得して、賀瓌の部隊のすでに待賓館に開往せるを知得す、便ち六壬を用いて課を起こし、斬関課を得、以て大吉と為し、是に於て精兵を挑選して疾馳すること一百里、先んじて待賓館に趕到して賀瓌を迎撃せんと指望す。しかして賀瓌の部隊は黒夜の裏に路に迷い、巨野の東辺に走り到るを等すに、恰好に梁軍の近旁より経過す、梁軍は勢いに趁りて掩殺し、賀瓌の全軍は大敗せり。梁兵は急追して捨てず、賀瓌は眼看に走投するに路無し、一座の墳頭に登りて大喊して言う。「我は即ち賀瓌なり、我を殺すなかれ。」梁の太祖は馬を策して前に上りて彼を生擒せり。

独足課は最も不吉:耗財と廃岸との二験

獨足課最不吉,邵公為人占買賣得此為獨足,宜舟行不利陸行,舟行必加倍獲利,是說也,予未嘗試,未敢以為必然。往日理中有為眾事而執用己財者,因向予占向公家肯認還否,得獨足課,予曰:“重重脫氣,玩一獨字,是爾一人耗財,公家不肯認還也。”又六安張序東翁辛未年占代辦六霍口岸,得獨足課,予曰:“獨足難行,重重脫敗,定不如意。支為店業,既乘敗神,已為廢岸。三傳再敗,無可挽回矣。”二傳俱驗。

独足課は最も不吉利なり。邵彦和は人に代わって買売を占してこの課を得、独足課は水路に宜しくして陸路に利あらず、水路を走れば必ず倍して利を獲ると言う。この説法は我は試さず、敢えて必ず此の如しと断定せず。从前に郷里に人有りて公衆の事の為に自己の銭を垫用し、来りて我に公家が肯んじて賬を認めて偿还するか否かを占う、独足課を起得す。我は言う。「課中に重重に気を泄し、さらにこの『独』の字を玩味すれば、すなわち你が一人で財を破る、公家は認め還さざるなり。」また、六安の張序東翁は辛未年に六安・霍山の両処の口岸の生意を代办するを占し、また独足課を得。我は言う。「独足は行き難く、また重重に気を泄し敗落す、一定に能く如意せざるなり。日支は店業を代表す、すでに敗神を乗れば、あれはすでに一箇の廃棄せる口岸なり。三伝はさらに敗地に逢う、いっそう挽回する可きなし。」この両箇の課は後に皆応験せり。

独足課は子息を傷るを主す(底本は脱文多し)

獨足課主傷子息。庚申年三月一人占門樓倒塌主何吉凶,(此處脫漏十餘字)……(此處脫漏十餘字)家病者五人,是日交立夏,疊疊死氣作六合,凶危極矣。

独足課はまた子嗣を損傷するを主す。庚申年三月、人有りて門楼の倒塌するは何の吉凶を主るかを占す(此の処は底本は十余字を脱漏す)……(此の下は底本はまた十余字を脱漏す)……家中に五人の病倒せる有り。あの一日は正に立夏を交え、課中には重重に死気ありまた六合を乗る、凶险は極点に到れり。この条は前後に脱文は頗る多し、課を起こせし日辰・時将は皆已に考知する由なし、ただ残存の文句に就きて照録し、敢えて臆補せず。

二煩課は未だ必ずしも大凶ならず:月宿は須らく実躔を査すべし

二煩課諸書極言其凶,予為人占升遷,之未見有甚大凶處。因思日宿即太陽,人所易知。月宿乃太陰,太陰有遲疾,其躔度過宮,人所難曉。古法正月朔起室,二月朔起奎云云,而天上太陰躔度六合諸書,以訛承訛,所云某月某日月宿在某宮者,又何嘗在宮也,乃紛紛言其大凶,知其並非欲驗,不過相沿舊說而矣,大抵二煩課,從三交課中來,凡得三交課,須查七政時曆書,此日此時太陰躔度果在子午卯酉宮而發用者,方不錯。

二煩課は、各家の書は皆極言してその凶なるを言う、しかし我は人に代わって升迁を占する時に之に遇う、並べて多大の凶险を見出さざりき。我はこれに因りて想い到る。日宿は即ち太陽の所在、人人は容易に知る。月宿は太陰、も即是れ月亮の所在、しかして月亮の行度は快有り慢有り、それが躔度して宮を過ぐるの時刻は一般人は推し算し清めること甚だ難し。古法は講じて正月の初一は室宿に起こり、二月の初一は奎宿に起こると云々、しかして各書の載する所の天上の太陰の躔度はまた輾転して訛を以て訛を伝う、所謂る某月某日の月宿は某宮に在るとは、其の実は何曽ぞ真にあの一宮に在らんや。大家はしかし紛紛として断言してそれを大凶と為す、以て見るべしこれらの説法はもとより験を求むるの意なく、不過は旧説を沿袭するのみ。大体に言えば、二煩課は三交課の中より衍生して出ず。およそ三交課を起得せば、必ず《七政時歴書》を査対して、この一日のこの一時に太陰の躔度が果して子・午・卯・酉の四宮に落ちて発用するを看れば、これはこそ断ち錯れざるを算えざるなり。

天寇卦もまたあたうべく時憲書の躔度を以て準と為すべし

其天寇卦,月宿加離辰死,其卦月宿在天罡,皆以七政時憲書中躔度為準,不可草率。

「天寇卦」に至っては――月宿が離の位に加臨して辰が死す――および月宿が天罡(辰の位)に落つるあの一卦は、同様に皆あたうべく《七政時憲書》の載する所の実際の躔度を以て準と為して核対すべし、草率に断を下すべからず。

此を占して彼に現ず:余梅波が会試を卜して夭亡に応ず

占此現彼,壬課最多。憶戊午科七月,予在杭州,德安孝廉餘梅波先生卜來年會試,得丙子日返吟,死神加干,死氣入傳,皆為日鬼,常作德絕,予曰:“此課會試而應人口夭亡。”先生驚問:“何人?”予不便直言,答以兄弟等輩。惟私謂予友鄭體功先生、吳友陶先生曰:“梅波先生不能過十日矣。”十日果殃於場田竹谿寺。

甲の事を占問して乙の事に応験する、この種の情形は六壬課の裏に最も多し。記憶す、戊午科の七月、我は杭州に在り、徳安の挙人・余梅波先生は次年の会試を占す、丙子日の返吟課を得。死神は日干の上に加わり、死気は三伝に進入し、二者は皆日干の官鬼を充当し、日徳はまた絶の地に落つ。我は言う。「この一課の問う所は会試、応験する所はしかし家中の人口の夭亡なり。」先生は吃惊して追問するは誰なるか、我は直説するに便せず、ただ兄弟の一輩の人を以て答す。私下にはしかし朋友の鄭体功先生と呉友陶先生とに対して言う。「梅波先生は十天を活け過ぐる能わざるなり。」十天の後に彼は果して考場に死す、竹溪寺に於て殡葬せり。

族兄の宰伝が専官を占す:返吟は徳を喪し禄を絶つ

又乙庚申年十二月予客儀徵,族兄宰傳占來年專官,得壬戌日返吟課,德喪祿絕,鬼臨三四,且死神死氣各在干支,是大凶象。觀其捐官且緩,急宜照應人口,保重自家,蓋本命壬申加寅,為入反斗,而辰鬼……恐婦人……(以下脫漏十餘字)惟憶其妻之母向來周到,次年夏月無故自經,及回煞……身……不可見,大驚失色,越六日即云“異哉!”。

また、庚申年十二月に我は儀徴に客居す、族兄の宰伝は次年に実缺の官職を謀補せんことを占す、壬戌日の返吟課を得。日徳は喪失し禄神は断絶し、官鬼は第三・第四課の上に落ち、しかも死神・死気は分別して日干と日支との上に圧す、是大凶の象なり。我は彼を勧めて官を捐するの事は妨げずに緩め一緩めよ、眼下は急ぎ家中の人口を照応し自身を保重せねばならず、彼の本命の壬申は寅に加臨して「入反斗」を構成するを以てなり。しかして辰の上の官鬼は……ただ婦人の身上に応せんことを怕る……(此の下は底本は十余字を脱漏す)。我はただ彼の妻子の母の向来に人を待すること周到なるを記憶す、第二年の夏天にしかし無縁無故に上弔して自尽し、回煞のあの天に到りては……身……看るに忍びず、衆人は大いに驚き色を失う、六天を過ぎてただ一句の「異なるかな」を留めるのみ――底本の此処は文句は残缺し、事情の結局は已に確知するべからず。

事が緊迫に関れば、神は未だ問わざるの事を報ず

大抵事關緊迫,則神明不報所問之事而報未問之事也。猶神告人曰:“大限已終,何必求名?”

大体の上に言えば、およそ事情が緊迫して関頭に到れば、神明は便ち你の問う所のあの一件を回答せず、かえって你の問わざる所のあの一件を報出す。好く比すれば神明がこの人に告げて在るがごとし。你の大限はすでに到れり、なお何の功名を求めんや。

一課の中に事事問うべく事事断ずべし

不獨占此現彼,又有來人心懷數事,欲占類事,殊不知神將於第一課中俱報者,不可不察。此即王遠知所“人止問我一事,殊不知此課事事可問,事事可斷。蓋世人來,已將他通身逐件包括在課中。”之意。

ただ「此を占して彼に現ず」のこの一層有るのみならず、また一種の情形あり。来人の心の裏には好き几桩の事を装ひ、ただその中の同類の一桩を占せんと打算す、しかし神将はすでに第一課の裏に各桩の事を一併に報出せるを知らず、この一点は留意せざるべからず。これは正に王遠知の言う所なり。「人はただ我に一件事を問う、殊に知らずこの一課は件件に皆問うべく件件に皆断ずべし――世人は一に門を入れば、早く已に彼の渾身の上下の事を逐件に課の裏に包括せりを以て。」

柳書旂の子時の一課:青竜の水に戯るは父の安康を断ず

戊午年八月浙江鄉闈之後,蘭谿柳書旂先生於十九日庚戌先報子時占乃尊己酉命在家安否,再報未時占自身丙子命今科中否。予見子時第一課干為尊長上得青龍戲水,初傳丑上是父母,中傳申是其長生,末傳子是其帝旺,定主安康。命上丑墓遁丁神,不過癭大為患耳。

戊午年八月に浙江の郷試の後、蘭渓の柳書旂先生は十九日の庚戌のこの日に、先ず子時を報し、彼の父(己酉年生)が家に於て平安か否かを占す。接いでまた未時を報し、自己(丙子年生)の本科に能く中式するか否かを占す。我は子時のあの第一課を看る。日干は尊長を代表し、上には青竜の水に戯るを得。初伝の丑の上は父母の爻、中伝の申は父母の爻の長生、末伝の子は父母の爻の帝旺、これに因りて必ず安康ならんと断定す。ただ本命の上の丑はすでに墓と為り、また丁神を遁出す、不過は癭瘤の類の小毛病を生ずるのみ。

青竜の水に戯ると子孫の水局と、兼ねて本人の高中に応ず

又因青龍戲水,主東事,子水為子孫是因子孫而有東事也。子是書旅先生本命乘龍,由是行年為日祿,年命與辰土旬首結一子孫水局,更主因子命子孫而有耋事,而致東也。朱雀雖不現,卻乘月建加長生,緣子時第一課即應高中,不必推第二課而知矣。是科果中,其父病痰火而年安。

また青竜の水に戯るは喜慶の事を主るを以て(底本は「東事」と作す、「東」は疑わしくは「喜」の訛、下同)、子水は子孫の爻、以て見るべしこれは子孫に因りて起こるの喜事なり。子は正に書旂先生の本命、また青竜を乗る。これに由りて推し去れば、彼の行年は恰好に日禄、年命と辰土のこの旬首とは結びて一箇の子孫の水局を成す、いっそう説明す、これは児子のこの一輩の子孫に因りて喜事有るなり(底本は「耋事」もまたあたうべく「喜事」と作るべし)、かつこれに由りて牽動して出づ。朱雀はたとい課の上に出現せずとも、しかし月建を乗りてまた長生に加臨す。子時のこの第一課に憑りてすでに高中に応ぜり、必ずしもさらに第二課を推せずともまた知る能くするなり。この一科に彼は果して中式し、彼の父は則ち痰火の症を害す、しかして一年の内は平安にして事なし。

病を占して祭祷の習を言うは尽く非とすべからず

吾徽賣卜者占病不言吉凶,而壽言祭禱,此實向來陋習,然《周易》有“用史巫之辭”,則亦未可盡非。

我らが徽州の一帯の卜を売る人は、病を占して従来吉凶を言わず、一味にただ祭祀・祷告するを要すを講ず、これは実に歴来の陋習なり。不過は《周易》の裏に原に「史巫の辞を用いる」の話有り、以て見るべし祝史・巫祝の言辞を借重して以て病家を安抚するも、また一概に抹殺する能わざるなり。

庚申日に兄の病を占す:東南方に孝服の婦人を見て疾を得たり

壬子年未月庚申未將辰時有占兄丙寅病者,予曰:“日干加巳,而巳復加寅命,並丁馬克干,於是往東南方得病,巳為婦,乘太常為孝服,八專主淫佚,丑墓發用,縱有淫佚之心,而無淫佚之實,得毋往東南方見孝服婦人而動心,故得病乎?”巳為生氣非鬼,而干支乘死氣巳火,為巳火之夫,既來疊疊脫干,是其乃夫之鬼不依也。

壬子年・未月・庚申日、未将・辰時、人有りて来りて彼の哥哥(丙寅年生)の病を占す。我は言う。「日干は巳に加臨し、しかして巳はまた彼の本命の寅の上に加わり、さらに丁神と駅馬とを加えて来て日干を剋す、以て見るべしこれは東南方に往きてこそ病を得たり。巳は以て婦人を代表すべく、また太常を乗る、太常は孝服を主る。八専課はもとより淫佚の事を主る、しかし丑の墓が発用せば、たとい淫邪の念頭を動かせしとも、しかし並べて淫邪の実事はあらず。莫非れや東南方に到りて一位の孝服を穿るの婦人に遇うて心を動かし、これに因りて病を得たるか。」巳は生気にして官鬼にあらず、しかし日干・日支の乗る所の死気は正にこの巳火、も即是れあの位の婦人の已故の丈夫の象なり。死気は重重に日干の気を泄し去る、説明す、これは彼女の丈夫の鬼魂が肯んじて依従せざるなり。

夫鬼の病は憂なし:祭祷に兼ねて補剤を服して愈ゆ

然究竟夫鬼病無憂,太常須祭禱,脫多宜補劑自愈。此人因由郡中回家,行至洲沙橋,見一孝服之婦,而評價甚褻,到家即病,日漸昏沉。其家問予,問之不答,乃訪所同行者,始得其詳。次日病人忽作囈語,似嫠婦之夫憑身,責其出褻言者也。其家祭禱方安,兼服芪術而愈。

不過は根に帰り柢に帰るに、亡夫の鬼の祟を作すこの種の病は並べて憂うるに足らず。太常が権を当れば便ち祭祀・祷告を得、気を泄すること過多なれば則ち補薬を服するに宜しく、自ずから好けん。此人は郡城より家に回り、洲沙橋に走り到る時に一位の孝服を穿るの婦人を看見し、几句の十分に軽薄なる品評を説き、一に家に到れば便ち病倒し、一天より一天に昏沉せり。彼の家裏の人は来りて我に問う、病人は自己に問えばしかし肯んじて言わず。後に同行の人に到りて打听して、こそ原委を知れり。第二天に病人は忽然と胡話を説き起こす、好似るあの寡婦の丈夫の彼の身上に附し、彼を斥责して言を出すこと軽薄なりと。彼の家は祭祷を挙行して後にこそ安定し下り、さらに黄耆・白朮の一類の補薬を配し、病は便ち痊愈せり。

丙申日に女祟の身に纏るを占す:蛇が墓を乗りて支に加わり天目を帯ぶ

又是年七月壬辰命人從武陵得疾與婦者,其侄來占之。午將辰時得丙申日,三傳子亥戌,予因蛇墓加支帶天目,天后為鬼,既從墓上發傳,主有女祟纏身,所以昏沉不醒。干上小吉,可以制鬼,中傳功曹長生,末傳天罡雖空,卻是本命,可以沖去戌墓,又向三陽格,皆主無慮。

また、同一の年の七月、ある壬辰年生の人は武陵より回り、婦人と相干るの病を得、彼の侄児は前来して占を求む。午将・辰時、丙申日の課を得、三伝は子・亥・戌。我は螣蛇が墓を乗りて日支の上に加わりまた天目煞を帯び、天后はまた官鬼を充当し、しかも正に墓の上より発用して伝を起こすを見るを以て、便ち女鬼の祟を作して身に纏る有らんと断定す、ゆえに昏沉して醒めざるなり。好在るは日干の上は小吉(未)、能く官鬼を制伏す。中伝の功曹(寅)は長生と為る。末伝の天罡(辰)はたとい空に落つとも、しかし正に彼の本命、能く戌墓を冲し開く。課はまた「向三陽」の格を成す――これらの几項は皆憂うる必ずしも要らざるを主す。

西湖の花神廟に痴情を動かして疾を致す

然未為祭祀,須用史巫送之,此人因遊西湖花神廟,見塑容端麗,竟動痴情,由是得疾沉重。後乃祭送而安。可見天間實有鬼神,吾人一言一動,不可不慎也。

不過はまだ祭祀を挙行せざる、須らく祝史・巫祝を請いてそれを送り去らしめよ。此人はもとより西湖の花神廟を游ぶ時に、塑像の容貌の端麗なるを看見し、竟に痴情を動かし、これより病は沉重を得たり。後に祭送を做してこそ平安せり。以て見るべし天地の間は確実に鬼神有り、我らの一言・一動は、謹慎せざるべからざるなり。

怪異は課伝に現ずれば告げざるべからず:鄭姓が何年に子を得るかを占す

怪為聖人所不語,然既現於課傳,不能不告之,使其趨避,辛酉年五月有鄭姓占宅中何年得子,予見天目煞臨干帶丁神克子息,斷其家中有怪,難為子息。鄭云去年往九華進香,誰知帶一怪而回,擾鬧不已,夫婦同床則鬧尤甚。予曰:“中末空亡,不久自去,去後方能得子。果應。

怪異の事は聖人の肯んじて談論せざる所なり、しかしすでに課伝の上に顕現せれば、便ち求占の人に告げざるべからず、彼をして吉に趨き凶を避けしめんが為なり。辛酉年五月、ある姓鄭の人は来りて家の裏にどの年に児子を得る能くするかを占す。我は天目煞が日干の上に臨みまた丁神を帯びて子息の爻を剋するを見、便ち彼の家中に怪有り、子有ること難しと断定す。郑某は言う。去年に九華山に到りて進香せしに、誰か知らん一箇の怪を帯びて回り来れり、鬧騰して休まず、夫婦が床に同する時に鬧ること尤も厲し。我は言う。「中伝・末伝は皆空亡に落つ、この怪は久しからずして自行して離去せん、去りて後にこそ子を得る能くせん。」後に果して応験せり。

蘭渓の藍姓が宅を占す:狐怪が火光を放つ

又乙丑年九月,予客蘭谿,有三五秀才占宅,內一藍姓者,占得天目加支,又帶火怪、光影等煞,斷其家有狐怪放火光,眾人佩服,求禳解之法,予勸其行德以壓之,今不知若何矣。此二課惜失記日時。

また、乙丑年九月、我は蘭渓に客居す、三五人の秀才有りて来りて宅を占す、その中の一位の姓藍の者は、占えば天目煞が日支の上に加わり、また火怪・光影の一類の凶煞を帯びるを得、我は彼の家に狐怪有りて火光を放つと断定す。衆人は皆甚だ佩服し、我に一箇の禳解の法子を教えんことを求む、我は彼に勧めて多く善事を行い、徳行を以てそれを圧住せよと言う。如今は後に如何なりしを知らず。この両箇の課は可惜し皆日辰・時刻を記し下さざりき。

天目の支に臨むもまた応ぜざるの例有り

然天目臨支,亦有未見應者。

不過は天目煞が日支の上に臨むも、また並べて応験を見ざるの例子有り、一概に論ずるべからず。

希賢が宅を占す:白虎が天目を乗るは伏尸を主す

丙辰年四月乙未日,族人有名希賢者,庚午年生,占宅得伏吟課,白虎乘天目墓庫加支發用,主有伏尸為患。課傳純財,克去行年上子水印綬,斷不可居。希賢於袖中出一課,繫十年前羅日亭先生為其占宅,丁卯日卯將未時,亦斷其宅有伏尸不利。然其家並無響動怪異之事,惟人丁蕭索,孤寡零丁,希賢越丙午年亦殃,究竟有無伏尸與否,終不得而知也。

丙辰年四月・乙未日、族人の中に希賢と叫ぶ者有り(庚午年生)来りて宅を占す、伏吟課を得。白虎が天目煞を乗り、墓庫に坐して日支の上に加わりて発用す、宅の中に「伏尸」有りて患為を成すを主す。四課・三伝は純らに財の爻、行年の上の子水の印綬を剋掉す、我はこの宅子は決して居るべからずと断定す。希賢は袖の中より別の一箇の課を取出す、これは十年前に羅日亭先生が彼に代わって宅を占して起こせし所、丁卯日・卯将・未時、また彼のこの宅子に伏尸有りて不利と断ぜり。しかるに彼の家は並べて響動・怪異の事を発生せしことなし、ただ人丁は蕭条にして孤寡・零落せり。希賢は丙午年に到りてまた過世せり。所謂る伏尸は、宅基の下に旧骸を埋蔵するを指し、家中の人丁の旺ならざるを主す。この宅は両次に課を起こして皆この象を現出せり、人事の上にもまた確かに孤寡・零丁に応ぜり、しかるに地下は一体に伏尸有るや否やは、終に査証する由なし。

羅日亭先生と汪又瞻との怪病

羅日亭先生學問淵博,知醫,善六壬。每遇疑難之病,必以六壬決之。徽人稱之曰“半仙”。吾鄉去先生之居僅二十餘里,惜未及門求教,是一憾事。予姐丈之父汪又瞻先生少年得一怪病,耳中如聞人云“齊桓公、晉文公,皆霸諸侯也。”目中便見一霸字,初小後大,極於彌天匝地,而人便暈絕,次日方醒,即瞬目亦見之,每月三五次如此,群醫俱莫名其病。

羅日亭先生は学問は渊博、医術を懂り、また六壬に擅長す、毎に疑难の病症に遇えば必ず六壬を用いて決断す、徽州の人は彼を「半仙」と称す。我が家郷は先生の住处に離るることただ二十余里、可惜し曽て門を登りて教を求めず、一件の憾事と成せり。我が姐夫の父の汪又瞻先生は年軽の時に一種の怪病を得。耳の裏は好像に人の言うを聴く「斉桓公・晋文公は、皆諸侯に称霸するの人なり」と、眼の前に随ち一箇の「霸」の字を出現す、起初は甚だ小さく、変じれば変ずるほど大きく、大きく到れば天を鋪き地を蓋さん、人は便ち晕厥して過ぐ、第二天に到るを要してこそ醒めん。一に眼を眨かすも同様に看見す、毎月に三五回を発作す。衆の医生は皆この何の病なるかを叫び出す能わず。

高粱酒百斤の方と七十八歳の験

乃延日亭先生診之,先生診後占曰:“此怪痰為患也!不必服藥,宜飲高梁酒百斤便愈。”如其言飲之,未至百日已愈,乃不復飲。一日遇日亭先生於他處,告以未飲百斤已愈。先生曰:“爾病雖愈,但飲酒不如數,則根終未除,老年因喉痰亡。”後至七十八歲,果如其言,其脈理數學之精如此。

是に於て羅日亭先生を請いて来て診治せしむ。先生は脈を診過ぎ、また一課を起こして言う。「これは怪痰の祟を作す、服薬する必ずしも要らず、ただ一百斤の高粱酒を喝み満たせば便ち好けん。」彼の話に照らして喝み下せば、一百天に到らずして病は便ち好けり、是に於てさらに喝まず。ある日に別処に於て日亭先生に遇い、彼に告げて一百斤を喝み満たさずして病は已に痊愈せりと。先生は言う。「你の病はたとい好けりとも、しかし酒は数に喝み足らず、病根は終に拔除せざるなり、老年に到りては喉間の痰疾に因りて死せん。」後に汪先生は七十八歳に活き到り、果してこの一句の話に応ぜり。先生の脈理と術数との両方面の精深は、竟にこの地步に到れり。

王牧夫先生の断法は専ら取象を重んず

距呈坎縣五里,曰楊干,有王牧夫先生者,六壬尤精。先生名謙,號師孝,又號種道道人,久客維揚,求占等戶外之屢常滿所。有《六壬占驗存略》兩冊,斷法專重取象,與吳稼雲先生見解相同,其貴人起例,壬全在日晝用卯,夜用巳,餘日與諸本相同。其論行年,間有取行年上神之上神者,令人不解。如六十歲行年在丑,丑上見巳,不以巳論吉凶,而以巳上之酉斷吉凶也。

呈坎県に離るること五里に楊干と叫ぶの地方有り、あそこの王牧夫先生は尤も六壬に精す。先生の名は謙、号は師孝、また号は種道道人、長期に揚州に客居し、門を上りて占を求むる人は多くして門外の鞋子は常に摆み満つ(底本の此の句は文字は訛脱す、姑く文意に依りてこの如く読み作す)。彼は《六壬占験存略》の两冊を著せり、断法は専ら取象を重んじ、呉稼雲先生と見解は相同じ。彼の貴人の起例は、ただ癸日(底本は「癸」を「全」と訛す)のみ白天は卯を用い夜裏は巳を用い、其余の各日は通行の諸本と相同じ。彼の行年を討論する時は、間々あるいは行年の上神の上一层の神を取る有り、甚だ人をして解費せしむ。たとえば六十歳の行年は丑に在り、丑の上は巳を見、彼は巳を拿て来て吉凶を論ぜず、しかし巳の上面の酉を拿て来て吉凶を断ず。

盧雅雨が升迁を占す:閉口は能く顕荐せず

都轉盧雅雨先生見曾亦知六壬,嘗請牧夫先生占升遷,辰時丑將得丁卯日,三交課,三傳酉子卯,盧公以為三傳遞生人舉薦,必升。先生曰:“生我者閉口,不能顯薦。況年命皆在未,乘戌空亡,不能著實,何能升遷?三傳乃大概之象,年命方切己耳。”後果未升,丙子年九月占課,壬午冬告仕。而同按年命乘空虛而不實,斯開一種新法門,予嘗試之有驗,其閉口不能顯薦,亦屬《畢法》所未備。

都転運使の盧雅雨先生(名は見曾)もまた六壬を懂り、かつて牧夫先生に升迁を占するを請う。辰時・丑将、丁卯日の三交課を得、三伝は酉・子・卯。盧公は以て三伝は依次に相生し、これは人の挙荐有るなり、必ず官に升らんと為す。牧夫先生はしかし言う。「我を生ずるあの一位は『閉口』の上に落ち、能く公開して挙荐せず。いわんや年命は皆未に在り、また戌を乗りて空亡に落つ、事は実処に落つる能わず、どうして升迁せんや。三伝はただ一件事の大概の輪廓、年命はこそ真に自身に貼切す。」後に果して升らざりき。丙子年九月にまた一課を占し、壬午年の冬天に到りて彼は便ち老を告げて退休せり。「年命が空を乗れば則ち事は必ず実ならず」を以て検証するは、一条の新法門を開出するに等し、我は試せば確かに応験せり。「閉口は能く顕荐せず」のこの一条に至っては、また《畢法》の裏に講じ到らざる所なり。

恵蒼が牧夫の壬を論ずるの数則を寄示す

家惠蒼小阮好六壬,常借各種書遺予,及為山東固堤店巡檢,猶寄牧夫先生論六壬數則,今從笥中檢出,備錄於後,以免遺亡。

我が家の恵蒼の賢侄は六壬を喜好し、常に各種の書を我に借し与う。彼が山東の固堤店の巡検に出任するに到りても、なお王牧夫先生の六壬を論ずるの若干条を寄せ来れり。如今書箱の裏より検出し、一併に後面に抄録す、日久しく散失するを免れんが為なり。

牧夫は一念の動を吉凶の始と為すを論ず

牧夫先生曰:“生合有情,必搜其本。刑剋無情,必究其根。則富貴窮通,可以據數而言之矣。天時者動也,吉凶悔吝生乎動。時,一念之動也;未動之前,陰含陽也,既動之後,陰陽分也。一念之動之先,陰陽未分,吉凶何由而見?既動之後,則為先鋒,得推而測之者矣。一念之動,不可不慎也。

牧夫先生は言う。「相生・相合して有情を顯すは、必ずその本源を追究せよ。相刑・相剋して无情を顯すは、必ずその根由を探明せよ。この様にすれば、一人の人の富貴・窮通は、便ち課数に依拠して説き出すべし。所謂る天時は、実処に落つれば一箇の『動』の字、吉凶・悔吝は皆動の中より生ず。ここに説く所の『時』は、其の実は心中の一念の動なり。未だ動かざるの前は、陰の裏に陽を含み、浑然として未だ分かたず。已に動きしの後は、陰陽はこそ分かち開かれん。一念の未だ動かざるの先は、陰陽はすでに未だ分かたざれば、吉凶は何処より顕現せんや。一旦動けば、この一念は便ち先行の信号と成り、こそ推測すべきの憑拠有らん。ゆえに一念の動は、慎重せざるべからざるなり。」

推測の法に五有り:誠意・静心・観理・測向・推義

推測之法有五,一曰誠意,意不誠則精神荒亂;二曰靜心,心不靜則妙人難通;三曰觀理,理不觀則專一隅;四曰測向,向不測則論雷同;五曰推義,義不推則數同膠柱。”

推測の方法は五条有り。第一は誠意と叫ぶ、意念は誠ならざれば、精神は便ち散乱して主無し。第二は静心と叫ぶ、心は安静ならざれば、微妙の処は便ち通達し難し(底本は「妙入」を「妙人」と訛す)。第三は観理と叫ぶ、事理を看清し去らざれば、便ちただ一箇の角落を拘守するのみ。第四は測向と叫ぶ、事情の指向を揣度し去らざれば、断ずる所の話は便ち人云亦云に流る。第五は推義と叫ぶ、義理を推求し去らざれば、占い出す所の数は便ち膠死せる琴柱の如く呆板なり。」

数の変化は卜者の精粗に在り

“數之吉凶,雖繫於占類之所向,而數之變化,則在乎卜者之精粗。神以五氣旺衰而告之卜,以六義吉凶而明之干支,猶未卜占也。神明之告之行之,求其權在於卜師,神告吉而師測以凶,神告凶而師測以吉,此謂之心不靜,而誤占人不淺矣。

「課数の顯す所の吉凶は、たとい占する所の事の指向に取决するとも、しかし課数の変化は、しかし占卜する者の本领の高低に在り。神明は五行の気の旺衰を借りて以て占卜に告知し、六義の吉凶を借りて以て之を顕明に加うるなり。単に干支を摆してはなお占断と算えず、神明の告示は人に靠りて領会・推行せんことを要す、主动权は其の実は卜師の手裏に握る。神明が吉を告げて卜師は凶と断じ成し、神明が凶を告げて卜師は吉と断じ成す、これを便ち心は静ならずと叫ぶ、人を誤るは便ち浅からざるべし。」

未だ卜せざるに先にその動を観、四方八面に玲瓏剔透

聖賢之理,非止一隅,而學者之心粗,只宜兩片。遂使神化軋粘,奇文隱合,此又非占者之過,乃學者膠柱鼓瑟也。故先賢以未卜之先,以觀其動,於其坐立之處,以察其方位。然後洞察正時,詳格值事,合乎干支三合年命,而四方八面,玲瓏剔透,不使絲毫窒礙為遺恨也。學子用如是斷,能事畢矣。戊辰又七月牧夫王謙識。”

聖賢の道理はただ一箇の方面に止まらず、しかして学者は心思は粗疏、ただ正反の両片より看んことを肯んず、是に於て神妙の変化を弄びて齟齬して通じ難くせしめ、隠微にして暗合するの奇文を軽易に錯過す――これは便ち占卜の本身の過錯にあらず、しかして学者の柱を膠して瑟を鼓するなり。ゆえに前輩の做法は、まだ課を起こさざるの前に、先に来人の動静を観察し、彼の坐立の位置より方位を察看す。然る後に正時を洞察し、詳細に値事の神を推究し、さらに日干・日支・三合と年命とに合上し、四面八方に玲瓏剔透を做し到り、丝毫の窒碍をして遺憾と成り留めざらしむ。学子はこの様に照らして断ぜば、本事もまた家に到るなり。」戊辰年閏七月、牧夫の王謙記す。

牧夫が行人を論ず:馬が鬼地に臨めばその端を識る

牧夫先生又論行人曰:“行人知其何時為,馬臨鬼地識其端。蓋鬼者,病也。”又解《中黃經》十一月丑將甲午日午時占行人,年四十二歲,干上酉乘勾陳,三傳酉辰亥,《中黃經》以貴人逆轉取卯為門,門上神戌中有辛舍,剋日,克行年上寅,又寅是酉舍,剋日克行年,主不歸。牧夫先生則曰:“此主行人在遠即不能來,況身有官非口舌勾留,如何得動?況干乘馬作鬼,行年入墓,上見德祿,戀他鄉,何能得動也?”

牧夫先生はまた行人を占するを論じて言う。「門を出づるの人が几时に回るかを知らんと要せば、便ち駅馬の是れ鬼地に臨むや否やを看よ、ここより端倪を看出すべし。所謂る鬼は、指すは便是れ病なり。」彼はまた《中黄経》の裏の一課を解釈す。十一月・丑将、甲午日・午時に行人を占す、あの人は四十二歳、日干の上は酉が勾陳を乗り、三伝は酉・辰・亥。《中黄経》の断法は貴人を逆転し、卯を取りて「門」と為し、門の上の神の戌の中は辛を蔵す、辛は能く日干を剋し、また行年の上の寅を剋す。しかして寅はまた酉の舎、同様に日を剋し行年を剋す、これに因りて彼は回らざると断ず。牧夫先生は則ち言う。「この一課は行人の身は遠方に在るを主り、根本に回る能わず。いわんや彼の身の上に官非・口舌の牽絆して住む有らん、どうして動くを得んや。さらに言えば日干は駅馬を乗りてしかして駅馬はまた官鬼を充当し、行年は墓の中に落入し、上面にまた日徳・日禄を見、正に他郷を貪戀す、どこが動くを得んや。」

《心鏡》《龍首経》の行人を占するの法

《心鏡》占行人不知何方法,專看行人之行年所臨處定吉凶,《指南》遵之。若不知行年則以支上神詳之,此法出於《龍首經》。《龍首經》云:“若不知行者年,以日為行處,以辰為行之地,日之神陰與神之神陰,與吉神與凶神並,即凶。”按《龍首經》看日干日支甚是,以辰為行處,尤為的確。愚意以為即知行者年,亦當以日辰參看,而辰上之神並第四課皆可測其所在也。

《心鏡》の行人を占するは何の方法を用いるかを知らず、ただ行人の行年の臨む所の処を看て以て吉凶を定む、《六壬指南》はこれを沿用せり。倘若も行人の行年を知らざれば、便ち日支の上神を取りて細推す、この办法は《龍首経》より出づ。《龍首経》は言う。「もし出行する者の行年を知らざれば、便ち日干を以て出行の人を代表し、日支を以て出行の到る所の地を代表せよ。日干の陰神と日支の陰神とを合せて看、吉神と並びて臨めば便ち吉、凶神と並びて臨めば便ち凶。」按ず。《龍首経》の日干・日支を看るを主張するは甚だ対なり、日支を以て行く処を代表するは尤も確当なり。我が意思は、たとい出行する者の行年を知れりとも、またなおあたうべく日干・日支を拿て来て参看すべし、しかして日支の上神と第四課とを連ねて、皆以て彼の人の何処に在るかを推測するに拠るべし。

古人は六壬を以て選択し、後世は典を数えて祖を忘る

讀《龍首經》知古人即以六壬選擇,今惟張九儀用之,所著《儀度六壬》又較《龍首經》為詳矣。《通書》中不將日宜嫁娶以及人道、天道日、游神等起例見於《龍首經》,而選擇豈數典忘其祖也久矣!

《龍首経》を読みて、こそ知る古人は早く已に六壬を用いて日を択せしを、如今はただ張九儀のみなおこの様に做す、彼の著す所の《儀度六壬》は《龍首経》よりもいっそう詳細に講ず。《通書》の裏の「不将日」は嫁娶に宜し、および人道日・天道日・游神などの起例は、もとより皆《龍首経》に見ゆ。しかし日を択ずるの一家は竟に典を数えてその祖を忘る、この情形は已に久しきなり。

《龍首経》の成書の時代の疑

問:疑《龍首經》不知出於何時,觀《吳越春秋》內伍員、范蠡、文種諸占,惟引《金匱》、《玉門》,而不及《龍首》。及葛洪《抱朴子》始有《龍首經》之名,顏之推《家訓》亦言及之,則其書殆出於晉時歟?近見孫湄如先生刊本,《自序》云“考其官銜,知為漢人遺書。”於是前疑頓釋。

人有りて問う。《龍首経》は一体に何の時代に書を成せりか。《呉越春秋》の裏の伍員・范蠡・文種の諸人の占例を看るに、ただ《金匱》《玉門》を引き、しかして《龍首》を提せず。葛洪の《抱朴子》に到りてこそ《龍首経》のこの書名を出現し、顔之推の《顔氏家訓》もまたそれを提到す――それならばこの部の書は大概に晋代に出でしならん。近來我は孫湄如先生の刊本を見、自序の裏に言う「書中の載する所の官銜を考察すれば、以て知るべしこれは漢代の人の留めし書なり」、是に於て先前の疑問は一下子に释然せり。

宋代の六壬の源流:元軫・苗公達より邵彦和に至る

宋仁宗最嗜六壬,故其時習此學者甚多,而以元軫、苗公達為最。至徽宗、高宗時,邵彥和一出,又架諸人之上。理宗時,有凌福之等本邵公之法作《畢法賦》,於是諸法咸備,至平至當,一掃疑神疑鬼之習氣。

宋の仁宗は最も六壬を愛好す、ゆえにあの時にこの門の学問を研習する人は甚だ多し、その中は元軫・苗公達を以て最も出色と為す。徽宗・高宗の年間に到りて、邵彦和が一出すれば、また諸人の上に凌駕す。理宗の時、凌福之などの人は邵公の方法に依拠して《畢法賦》を写し成し、是に於て各項の法則は斉備し、平実・妥当は極点に到り、神を疑い鬼を疑うの風気を一掃して空くせり。

本朝の司天台の考選と諸書の愈多くして愈晦きと

至今朝,則以六壬、三命諸術考試司天臺之學生。時有徐次賓者,精於其術,著《一字訣》、《玉連環》,皆六壬一脈相傳也。至於《鳳髓靈》之節外生枝,《六壬通元》師巫邪說。更有一知半解之人,偶然湊合,便立為法,無怪書愈多而愈晦矣,北齊顏之推曰:“世傳之書,皆出於流俗,言辭鄙淺,驗少妄多,然哉,然哉!”。

本朝に到りては、則ち六壬・三命の一類の術数を用いて司天台の学生を考選す。当時に徐次賓と叫ぶ者有りてこの術に精なり、《一字訣》《玉連環》を著す、皆六壬の一脉の相伝して下りしなり。《鳳髄霊》のあの様に節外に枝を生ずるに至っては、《六壬通元》のあの様に満紙に巫師の邪説、さらに一些の一知半解の人が偶然に凑合して几条を出して便ち自立して法と為すを加え、また怪しむべからず書は愈々出でて愈々多く、しかして道理は愈々発し晦暗せり。北斉の顔之推は言う。「世上に流伝する書は皆流俗の手より出づ、言辞は鄙陋・浅薄にして、応験するは少なく妄誕するは多し。」説くこと対なるかな、説くこと対なるかな。

邵彦和の《口鑑》《断案》の散佚と改竄と

邵彥和先生所著《口鑑》,今無完本。《斷案》散見於各書者,不多不全;予三十年來自徽而至杭,而蘇,而揚,各處蒐羅,僅得二百餘課,其人斷語為後人改竄者時亦有之。此凌福之所謂“後人恣己見,作繁文以雜其真者”是也。

邵彦和先生の著す所の《口鑑》は、如今已に完本なし。彼の《断案》は各家の書の中に散見し、すでに多からずまた全からず。我は三十年來に徽州より杭州に到り、さらに蘇州・揚州に到り、各処に蒐羅すとも、またただ二百余箇の課を得るのみ。その中の断語の後人に改動・竄乱せられたるも、また時々に遇見す。これは正に凌福之の言う所の「後人は任りて自己の見解に凭り、繁瑣の文字を添出し、原書の真面目を搅混せしめり」なり。

邵公の籍貫の考、兼ねてこの学は浅陋の者の精する能くする所にあらざるを論ず

考其自占動靜一課,知先生為衢州人,然查《衢州府志》無其姓名,嘗記相知者在衢州者訪此公遺書,而久不得。讀楊忠愍公年譜,知公通三式之學,可見此學亦為君子所不棄。晉之戴洋,唐之李靖,元之劉秉忠、耶律楚材,明之劉青田,皆粗其學。因非渺見寡聞之輩所能精通者也。

彼の《動静を自占す》のあの一課を考察すれば、以て知るべし先生は衢州の人なり。しかし《衢州府志》を査するに、裏面には並べて彼の姓名なし。我はかつて相熟の人に托して衢州に於て代わりに彼の遺書を訪求せしめ、久しく尋ねて得ず。楊忠愍公(楊継盛)の年譜を読みて、彼の三式の学に通暁するを知る、以て見るべしこの門の学問もまた並べて君子の摒棄する所にあらず。晋代の戴洋、唐代の李靖、元代の劉秉忠・耶律楚材、明代の劉青田(劉基)は、皆粗くこの学に通ず。これに由りて知るべし、これは実に見識の浅陋・聞見の寡少なる人の精通する能くする所にあらざるなり。

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