鬼谷子神奇相法全書 巻之一
本篇は唐末の道人・呂岩の名を仮託したもので、彼は字を洞賓、道号を純陽という。人を相する第一歩は、まず相手が「五形」のどの形に属するかを見分け…
相術典籍
部位別に読むほうが通読より効率的である。相書中の社会的背景の記述にはその時代の刻印が強く残っている点に注意。
純陽相法入門 第一
呂岩,字洞賓,號純陽。閱人先欲辨五形。金木水火土也。陳圖南云:金形方正色潔白,肉不盈兮骨不薄;木形瘦直骨節堅,色帶青兮人卓犖;水形圓厚重而黑,腹垂背聳真氣魄;火形豐銳赤焦燥,反露氣枯無常好;土形敦厚色黃光,臀背露兮性樂靜。呂尚云:木瘦金方乃常談,水圓土厚何須寬。麟鳳記云:相剋於中蹇難多,金木水火由不和。
本篇は唐末の道人・呂岩の名を仮託したもので、彼は字を洞賓、道号を純陽という。人を相する第一歩は、まず相手が「五形」のどの形に属するかを見分けることである――五形とは、体貌や骨肉によって人を金・木・水・火・土の五類に帰属させるものである。宋初の道士・陳摶(号は圖南)は言う:金形の人は面相が方正で、肌の色は白く清らかで、肌肉は肥えず、骨格も単薄でない。木形の人は身材が痩せてまっすぐで、骨節が堅く、肌の色は微かに青みを帯び、人として卓異で群を抜く。水形の人は体つきが丸く厚く、肌の色は黒みがかり、腹部が垂れて背脊が隆々とそびえ、おのずから重厚な気魄がある。火形の人は上が尖り下が広く、肌肉は豊かで、面色は赤く、性情は焦燥しやすく、気が浮き立って外に露れ、神気は枯れ乾いて、喜怒が常ない。土形の人は体貌が敦厚で、肌の色は黄みがあり光沢があり、臀部と背部の肉が厚く外に張り、性情は静を好む。姜太公・呂尚は言う:木形は痩せているべきで、金形は方いべきである。これは相書の古来の常套句である。水形は円く、土形は厚いべきで、道理は明白であり、これ以上敷き並べる必要はない。《麟鳳記》は言う:五形の間が互いに相克するならば、一生蹇滞の磨难が多い。これは金・木・水・火のいくつかの形質が互いに調和しないためである。
秘訣云:五行凶:金形帶木,斷削方成,初主蹇滯,未主超群;木形多金,一生剝落,父毋早刑,妻子不成;水形遇土,忽破家財,疾苦連年,終身;火形水性,兩不相併,克破妻兒,錢財無剩;土逢重木,作事無成,若非夭折,家道伶仃。
秘傳の口訣はまず五形相克の凶象を講ずる。金形の人が木形の貌を兼ね帯びるとは、方正な骨面の中に痩せ長く枯削なものが夾まっていることで、ひとしきり裁削磨折を経てやっと器となるので、早年の運途は蹇滞して順調でなく、晚年にかえって群を抜くことができる。木形の人の身上に金気が重すぎるとは、痩せ長い骨相に方硬で白く輝く色が配されたもので、金が木を克すので、一生家業が剥落落散し、父母は早年に刑傷があり、妻子も保全しがたい(底本の「父毋」は「父母」の誤りとすべき)。水形の人が土相に遇うとは、円厚で黒く潤う中に黄濁で敦滞なものが夾まり、土が水を克すので、たちまち家財を破敗し、疾病の苦しみが年々断たず、終身累を受ける。ここで底本に脱文があり、「終身」の下になお断語があるはずである。火形の人がかえって水の性情を帯びるとは、尖鋭で焦赤の貌に沈黒で遅緩の神が配され、水と火が相容れないので、妻子を克傷し、錢財が少しも残らないことを主る。土形の人がまた重々の木気に遇うとは、厚重の体に痩削で青い色が配され、木が土を克すので、事を為して一成るものなく、短命夭折しないまでも、家道が零落して孤苦となることを主る。
五行吉:金逢厚土,足寶足珍,諸事營謀,遂意稱心;木水相資,富而且貴,文學英華,出塵之器;水得金生,利名雙成,知圓行方,明達果毅;火局遇木,鳶肩騰上,三十為卿,功名蓋世;十添離火,戊己丙丁,愈暖愈佳,其道生成。
次に五形相生の吉象を講ずる。金形の人が厚土の相の補助を得るとは、方白の貌に敦厚で黄潤の肌色が加わり、土が金を生ずるので、一生財宝が豊足し、およそ謀ることが皆意に叶う。木形と水形が互いに資養するとは、痩せ長く清秀な骨に円潤で黒く輝く色が帯び、水が木を生ずるので、富み貴く、文章の才華が群を抜き、凡俗を超脱した人材である。水形の人が金相に生ぜられるとは、円厚で黒く潤う体に方正で潔白な骨が帯び、金が水を生ずるので、名と利の二つをともに成就し、心思は円通にして行事は方正で、通達果断剛毅である。火形の人の格局に木相に遇うとは、尖鋭で赤色の中に痩せ長い清骨が帯び、木が火を生ずるので、両肩が高く聳えて鳶鳥の飛ばんとするがごとく、三十歳にして公卿に列することができ、功名は世を蓋う。土形の人にさらに離宮の火気を添えるとは、戊己は土に属し丙丁は火に属し、火が土を生ずるので、色沢は温かいほどよい。これが五行相生が人を成就する道理である(底本の「十」は「土」とすべき)。
次察陰陽精氣神。骨為陽,肉為陰,精乃血之主;氣乃神之本,神乃精之附。《貧女金鏡》云:骨陽肉陰兩平和,一生終是無災害;陽勝於陰多孤克,陰勝於陽多夭折。《鬼眼經》云:大道凝成有三般,精能養血冠眾體。王朔云:氣所以養形而化成者也。《易》云:神者妙萬物而為言者也。秘訣云:一陰一陽不偏□,此道由來天賦定,精氣相資體之充,神攝萬靈為主帥。
五形を辨明したのち、続いて陰陽と精・気・神を察看しなければならない。人の身は骨をもって陽とし、肉をもって陰とする。「精」は血液の主宰であり、「気」は神采の根本であり、「神」は精に依附して外に顕現する。《貧女金鏡》は言う:骨(陽)と肉(陰)の二つが均しく平らかに調和していれば、一生終始災禍がない。陽が陰に勝る、すなわち骨が露れて肉が薄ければ、多くは孤独刑克を主る。陰が陽に勝る、すなわち肉が肥えて骨が弱ければ、多くは短命夭折を主る。《鬼眼經》は言う:天地の大道が凝聚して人となり、精・気・神の三様を外れることなく、その中で精は血液を滋養し、衆体の首に居る。王朔は言う:気とは形体を涵養し、形体を化育成就せしめるものである。《周易・繫辭》は言う:いわゆる神とは、それが微妙に万物を成就することを形容したものである。秘傳の口訣は言う:一陰一陽が互いに偏らない――ここで底本に脱字がある――この禀賦はもともと先天によって定まる。精と気が互いに資助すれば身体が充実し、神は万種の霊機を統攝して、一身の主帥である。
三停八卦求相稱。三停者,有身上三停,有面上三停。八卦者,有面列八卦,掌列八卦。《玉篪》云:身上三停頭足腰,看他長短欲勻調,上停長者人多貴,長短無差福不饒。《冥度經》云:凡天中至印堂,曰上停,山根至準頭,曰中停,人中至地閣,曰下停。陳圖南云:五行不正,相君終始薄寒。八卦豐隆,須是多招財祿。秘訣云:身面三停俱勻調,掌面八卦悉豐盈,不□玉階地,定處金谷園。
さらに「三停」と「八卦」が互いに相称するかどうかを観る。いわゆる三停とは、一つは身体の三停、二つは面部の三停である。いわゆる八卦とは、一つは面上に分列する八卦の部位、二つは手掌上に分列する八卦の丘位である。《玉篪》は言う:身上の三停は頭・腰・足の三段を指し、その長短が均調かどうかを観なければならない。上停すなわち頭部が長い人は多く貴顯を主り、三停の長短に偏差がなければ、福分は薄くない。《冥度經》は言う:「天中」(額頂の髮際の正中)から「印堂」(両眉の間)までを上停といい、「山根」(両眼の間の鼻梁の根部)から「準頭」(鼻先)までを中停といい、「人中」(鼻下の溝)から「地閣」(顎)までを下停という。陳摶は言う:五行の相が端正でなければ、その人は一生終始清寒である。面上と掌上の八卦部位が豊隆飽滿ならば、必ず多く財祿を招く。秘傳の口訣は言う:身上と面上の三停がいずれも均しく調停し、面掌の八卦部位がすべて豊滿ならば、このような人はもし(ここで底本に脱字がある)朝廷の玉階に登って官を為さなくとも、必ず石崇の金谷園のような富貴の地に身を置くであろう。
五嶽四瀆定高深。左顴泰嶽,右額華嶽,額為衡嶽,頰為恆嶽,鼻眾為嵩嶽。一瀆耳為江,二瀆目為河,三瀆口為準,四瀆鼻為漢。《通仙錄》云:五嶽兩顴額鼻頰,高隆開闊非凡胎。《混儀經》云:四水莫教淺,五六主凶亡。秘訣云:五山朝拱,四水流通,德行須全,福自天然。
さらに「五岳」「四瀆」を用いて面部の高低深淺を判定する。五岳とは面上の五箇所の高く起きた部位を五つの名山に比すもので、左顴を東岳泰山、右顴を西岳華山(底本の「右額」は右顴とすべき)、額を南岳衡山、頦頬を北岳恒山、鼻を中岳嵩山(底本の「鼻衆」は「鼻乃」とすべき)とする。四瀆とは面上の四箇所の孔竅を四つの大川に比すもので、一瀆の耳を江に比し、二瀆の目を河に比し、三瀆の口を淮に比し(底本は「準」)、四瀆の鼻を済に比す(底本は「漢」)。《通仙錄》は言う:五岳とは両顴・額・鼻・頦のこの数箇所で、高く隆え開闊して勢いがあれば、凡庸の胎ではない。《混儀經》は言う:四瀆は淺薄であってはならず、もし五岳六府までも併せて虧損すれば、凶死を主る。秘傳の口訣は言う:五つの山が中央に向かって拱衛し、四つの水が流れ通じて滞らず、さらに德行が完備すれば、福氣はおのずから来る。
語默動靜身須識。一語一默,一動一靜。郭林宗云:言語不妄,口德也,緘默自持,心德也。《易》云:寂然不動,感而遂通。秘訣云:語成爻,默成象,動與天懼,靜與天遊,非身具至,德孰如斯。
一人の人の開口と沈黙、舉動と安靜も、相家は必ず辨識しなければならない。ここに言うのは一説一不説、一動一不動の間の分寸である。東漢の人物品鑑家・郭泰(字は林宗)は言う:言語を軽率に妄りに發しないこと、これは口上の德である。沈黙して自ら持することができること、これは心裏の德である。《周易・繫辭》は言う:君子の心は寂然として動かず、一たび感觸があれば即座に万事に通達する。秘傳の口訣は言う:口を開いて言うことは卦爻の動くがごとく、口を閉じて言わざることは卦象の靜なるがごとし。舉動する時は天道に敬畏を存し、安靜の時は天道とともに遊ぶ。もし自身の修養が極致に至らなければ、誰の德行がこの地步に到達できようか。
吉凶悔吝色當明。吉凶者得失之象,悔吝者憂虞之象。《易》云:得則吉,失則凶,吉凶相對,而悔吝局其中,悔自凶而趨吉,吝自吉而向凶也。秘訣云:前節論身之德,此節論色之變,識其德察其變,相焉□哉。
面上の氣色は吉・凶・悔・吝の四種の趨向に関わり、必ず辨じ明らかにしなければならない。吉と凶とは、得と失が顕す徵象であり、悔と吝とは、憂慮不安が顕す徵象である。《周易・繫辭》は言う:得るところあれば吉、失うところあれば凶である。吉凶は両々相對し、悔と吝はその中間に夾まる――「悔」とは凶の一邊から回頭して吉に向かうことであり、「吝」とは吉の一邊から滑落して凶に向かうことである。秘傳の口訣は言う:前の節が講ずるのは一身の德行であり、この節が講ずるのは氣色の變化である。すでに彼の德を識ることができ、また彼の色上の變を察することができれば、相人の術に何の難しさがあろうか(ここで底本に脱字がある)。
行年為主遠限決。行年部位,運限並沖。麻衣云:骨格為一世之榮枯,氣色定行年之休咎。《風鑑》云:運限並沖,明暗九更,逢破敗,屬幽冥,倘若得時部他好,順流氣色見光晶。秘訣云:行年為主運限扶,轉於此處定榮拈,石中美玉何繇辨,一點神光照太初。
流年の吉凶を観るには、「行年」を主としなければならない。すなわち当年の歳數が行き到る面部の部位であり、それによって遠期の運限を推斷する。行年がどの部位に落ちるかを観るには、なお運限がそれと相并し相沖するかを観なければならない。《麻衣相法》は言う:骨骼の格局は一生の榮枯の大勢を決定し、氣色は当年の吉凶禍福を決定する。《風鑑》は言う:運と限が并臨して相沖し、明九・暗九の年(二十九・三十六のような九に逢う數)が交代する時、もし正に部位が破敗しているところに撞當すれば、幽暗凶險の數に属する。もし行き到る部位そのものがよく生じ、氣色がまた順暢流通して光潤晶瑩ならば、妨げはない。秘傳の口訣は言う:行年を主とし運限を輔とすれば、一生榮枯の轉折はここに決まる。石の中の美玉は何によって分辨するか。全くあの一点の神光に凭って、人の最初の本真を照らし見るのである。
相逐心生相術真。心能生相,原生理也。陳圖南云:有心無相,相逐心生,有相無心,相逐心滅。《神機》云:心在形先,形居心後,此之謂也。秘訣云:裴晉公的主餓死,因香山還帶之功,宋狀元未必元魁,由造蟻橋之力,一念之善格天,終身福履綏之,心之關係,豈渺廓云乎哉。
相貌は心念に隨って生ずる。これこそ相術の真諦である。心が相を生じ得ることは、もとより天地生生の理である。陳摶は言う:善心があって好相のない人は、好相が善心に隨って生じ出る。好相があって善心のない人は、好相が惡念に隨って消滅する。《神機》は言う:心が形貌の先にあり、形貌は心の後にある。講ずるところ正にこの意である。秘傳の口訣は例を擧げて言う:唐代の裴度(晋國公に封ぜられた)はもともと餓死すべき相と相されていたが、香山寺で他人の遺失した玉帶を返還して陰功を積んだため、後に宰相の位に至った。宋代の宋郊はもともと狀元に中るとは限らなかったが、竹を編んで橋を架けて水に淹れた蟻を救い出し、ついに天下に魁た。一念の善が上天に感格すれば、一生の福祿は安然としてそれに隨う。見るべし、「心」は相法において関わるところがいかに緊要であるか。どうして空泛渺茫の説であろうか。
鬼谷子相辨微芒 第二
王詡,隱青溪鬼谷,因號焉,戰國時人。大道無形無執著。人雖具形,來自無形,相本有法,拘法則泥。成和子云:夫人肖形天地,其本來面目,無中生有,或得之而成飛禽之像,或得之而成走獸之像,色色□,別何者為吉人,何者為匪人,磋夫,執形而論相,管中窺豹也,不□形,不拘法,視於無形,聽於無聲,其相之善者也。風鑑云:上相之士,不相身面,其意亦同。
本篇は鬼谷子の名を仮託したものである。鬼谷子は姓を王、名を詡といい、青谿の鬼谷に隱居したため、「鬼谷」をもって号とした。戰國の時の人である。大道はもともと形狀がなく、また形狀に執着すべきでもない。人は形體を具備しているが、無形の中から來たものである。相にはもとより成法があるが、成法に拘泥すれば死板となる。成和子は言う:人は天地の樣子に倣って生成されたもので、その本來の面目は「無」の中から「有」を生じ、あるものは飛禽の模樣を生じ、あるものは走獸の模樣を生じ、形形色色(ここで底本に脱字がある)、その中から誰が吉善の人で誰が凶惡の人かを分辨しなければならない。嘆くべきかな、外形のみを捉えて相を論ずれば、竹管から豹を窺うがごとく、一斑を見るのみである。(ここで底本に脱字がある)形に拘執せず、法に拘泥せず、無形の處において観、無聲の處において聽く。これこそ相術中の上乘である。《風鑑》は言う:相術の最も高明な人は、人の身体面貌を相しない。講ずるところもまた同一の意である。
秘訣云:以貌觀人,失之子羽;以言語觀人,失之宰子,宣尼猶然,矧庸術乎。蓋道能生形,形不能生道,知此道,即知此形,形乎形乎,視聽冥冥,斯其至矣。
秘傳の口訣は言う:相貌だけを凭りに人を見れば、孔子もかつて澹臺滅明(字は子羽。貌は醜いが德行は高潔)を見誤った。言語だけを凭りに人を見れば、孔子はまた宰予(字は子我。能言善辯でありながら白日に貪睡した)を見誤った。「宣尼」と尊稱される孔子ですらこの有様である。いわんや資質平庸の相士をや。大体に言えば、「道」は形體を生じることができ、形體は道を生じることはできない。この道を懂得すれば、この形をも懂得する。形よ形よ、真の看と聽は幽微にして見聞すべからざる處にある。この地步に到達できれば、相術は極致に至る。
揣摩簡練出其下。學古人之成法,斤斤不失尺寸,此其下也。太沖子云:今得意於忘言之天,盡是棄糟粕已後。陳圖南云:揣其形,摩其骨,什分之間不失一,超於什一揣摩中,便是神仙下寰世。
ひたすら條文を揣摩し口訣を暗記するのは、下等の功夫である。古人の出來合いの法則をそのまま照搬し、尺寸の分毫を斤斤と較べて少しも差がないようにするのは、これは下乘にすぎない。太沖子は言う:今や「忘言」の境界の裏に真意を領會できるのは、みな古書の糟粕を抛卻した後であって初めてあることだ。陳摶は言う:彼の形貌を揣度し、彼の骨相を摩察して、十分の中に一分の差もないのは、たしかに惡くない。しかしもしこの種の十中に一を失わぬ揣摩の外に超出し、直接神をもって會することができれば、それは神仙が人間に下降したことになる。
秘訣云:春秋伯樂善相馬,秦穆公謂伯樂之後無人已,伯樂舉九方皋,穆公乃使九方皋遍求馬於域中,數月而報得良馬,牝牡毛色畢呈,馬至則與前報者庚,穆公不悅曰:牝牡毛色不分,又何馬之能知?伯樂曰:若皋之所觀,天機也。得其精而忘其粗,在其內而忘其外,驗之果良馬。夫君子之相,何異良馬,學者得九方皋之術,化矣。
秘傳の口訣は《列子》の故事を引いて言う:春秋の時、伯樂は馬を相するに善く、秦穆公は伯樂以後にもはや馬を相する者はいないと言った。伯樂はそこで九方皐を推薦し、穆公は彼を各地に遣わして馬を求めさせ、數箇月後に良馬を得たと回報し、馬の雌雄・毛色をも併せて報じた。馬が牽かれて來ると、先前に報じたものと合致しなかった。穆公は喜ばず言った:雌雄毛色すら分別できないのに、何の馬がわかるものか。伯樂は言った:九方皐が見たのは天機である――彼は精微を捉えて粗跡を忘れ、內在を見て外表を忘れたのである。一たび試驗すれば、果たして千里の良馬であった。君子が人を相することと、良馬を相することに何の兩樣があろうか。相を學ぶ者がもし九方皐のこの一手を學び得れば、融會貫通したと言える。
有時或在方寸間。理不越於方寸,常存主於一身。《聖凡論》云:心為身主,五行之先。麻衣云:末觀形貌先相心田,此二者皆方寸之說也。秘訣云:心者身之帥,心帥以正,則形孰不正,形有不正者無論矣,即如伏羲人首蛇身,神農人身牛首,為三代之聖君,方寸之論,彰彰明矣。
相の關鍵は、時に「方寸」の上に落ちる――方寸とは人の心地を指す。道理はこの方寸の心を出ることがなく、それは時時一身の主宰をなしている。《聖凡論》は言う:心は一身の主であり、五行よりもさらに先にある。《麻衣相法》は言う:まず形貌を見るな、まず心田を相せよ(底本の「末」は「未」とすべき)。この二句が講ずるのはいずれも方寸の心である。秘傳の口訣は言う:心は身體の統帥であり、統帥が端正ならば、形體が正しくない道理があろうか。形體がもともと正しくない者に至っては、さらに言うまでもない。傳說の伏羲が人頭蛇身であり、神農が人身牛首であったがごとく、形貌はこのように奇怪でありながら、皆上古の聖君であった――見るべし、「相は方寸に在り」という道理は明白である。
有時或在郛廓外。石蘊玉而山輝,珠藏淵而川媚。《靈臺經》云:骨肉丰標為外郛,且於真實用工夫。《肘後經》云:吾人性上無一物,形生惟有外皮膚。《貧女心鏡》云:堯眉八彩,舜目重瞳,內秉聖德,外見神姿,以此推之,內德外形之徵也。
相の關鍵は、時にまた「郛廓」の外に顯れる――郛廓はもともと外城を指すが、ここでは借りて人の外在的形骸を指す。石の中に美玉が含まれていれば、山全体に光輝があり、深淵の中に明珠が藏されていれば、河全体が嫵媚を顯す。内裏に真のものがあれば、外におのずから透けて出る。《靈臺經》は言う:骨肉が豊滿標致なのはただ一重の外城にすぎず、なお真實の内德の上に工夫しなければならない。《肘後經》は言う:人の本性の上にはもともと空として一物なく、形體の生じ出したものも、ただ一層の外皮にすぎない。《貧女心鏡》は言う:堯の眉毛には八種の彩色があり、舜の眼には二つの瞳仁が生えていた。内裏に聖人の德を秉持すれば、外に神異の姿が現れる。これによって推し想えば、外形はまさに内德の驗證である。
秘訣云:相有隱有顯,顯者易觀,隱者難見,在學者目力心思何如耳,假如有德者必有形,又有形者而無德,湯軀九尺而曹交類之,孔子河目而陽虎類之。一聖一狂,天淵之懸,是不可不辨。
秘傳の口訣は言う:相には中に藏したものがあり、外に露れたものもある。顯露したものは見やすく、隱藏したものは察しがたい。すべて相を學ぶ者の眼力と心思が到家するかどうかによる。譬えば德ある人は必ず好い形に配されるが、しかし徒らに好い形を具えて德なき人もある。商湯は身長九尺であり、戰國の曹交も同じく高大であった。孔子は「河目」を生じ――眼の形が上下均しく長くして深く秀でたもの――魯國の亂臣・陽虎の眼もよく似ていた。一方は聖人であり、一方は狂悖の徒であり、その相去ること天と淵のごとし。これは細かく辨じざるべからざるものである。
空空洞洞本來真。空空明鏡之衷,洞洞無物之體。《心經》云:色即是空,空即是色。《通仙錄》云:洞洞不知天地隘,性靈遠是太虛真,白聞道者云:不論肉,不論骨,骨肉皮囊殼漏子,空空洞洞有乾坤,即是太虛元化體。秘訣云:血肉由氣化為生,性靈具十氣化之前,是以知本真則知眾體,此論可與高明者道,難與庸俗者言也。
空空洞洞、これこそ人の本來の真面目である。いわゆる「空空」とは、明鏡のように澄澈した内心であり、いわゆる「洞洞」とは、一物も著かない本體である。《般若心經》は言う:色は即ち空、空は即ち色。《通仙錄》は言う:胸中が空洞廣大であれば、天地が狹いと覺えず、人の性靈はもともと太虛中の真體である。白閣道者は言う:肌肉を論ずる必要もなく、骨骼を論ずる必要もない。骨肉の皮囊はただ漏れる躯殼にすぎない。空空洞洞の中におのずから乾坤があり、それこそ太虛元氣の化生した本體である(底本の「白聞道者」は「白閣道者」とすべき)。秘傳の口訣は言う:血肉は氣によって化生されたものであり、性靈は氣化の先にすでに具足していた(底本の「十」は「于」とすべき)。ゆえに本真を懂得すれば、一切の形體をも懂得する。この議論は高明な人に講じ聽かせることができ、庸俗の輩に説き通すことは難しい。
仿彷彿佛難測度。有相無心,有心無相。《神機》云:有形中之形,有形外之形,形中之形,由中生色,□然見於面,盎於背是也;形外之形,色厲內荏,似忠非忠,似信非信,是也。此二者,特踐形不踐形之間耳。秘訣云:昔有人毀陳平於漢祖曰:陳平美如冠玉,未必中之有也,誠哉斯言乎,觀人之難也。
人の相は彷彿として明らかにしがたく、最も揣度しにくい。好相があって好心のない者があり、好心があって好相のない者もある。《神機》は言う:形には「形中の形」があり、また「形外の形」がある。形中の形とは、内德が心の中から氣色を生じ出すもので、すなわち《孟子》のいう潤澤が面上に顯れ、充盈して背脊に流溢するものである(ここで底本に脱字があり、「睟然として面に見ゆ」とすべき)。形外の形とは、外表は嚴厲に見えて内心は怯懦であり、見るに忠厚のようで實は忠厚でなく、見るに誠信のようで實は誠信でないものである。この二者の分別は、ただ真に「踐形」――天賦の形體を德行に落實すること――できるか否かにあるのみである。秘傳の口訣は言う:昔ある人が漢高祖の前で陳平を譖毀して、陳平は帽子に鑲めた美玉のように美しいが、中に必ずしも貨色があるとは限らないと言った。この言は實を得たもので、人を見ることは真に難しい。
消息只此箇中存。富貴貧賤,不出此篇。太沖子云:箇中得此閒消息,了我優游物外身。秘訣云:邵子詩云:因探月窟方知物,為攝山根始識人,此與上文辭異而意同,不造其妙,則何以知人,又何以知己也。
人を相する全部の消息は、ここに藏されている。人の富貴貧賤は、いずれも本篇の論ずるところを出ることがない。太沖子は言う:この中にあの一点の閒消息を參得すれば、我が逍遙して物外にある一身を成全する。秘傳の口訣は言う:邵雍(邵康節)の詩に講ずるところ、月窟に探り到ってこそ萬物を真に懂したと言え、「山根」を攝住してこそ人心を真に識ったと言える――山根は兩眼の間の鼻梁の根部であり、ここでは借りて根本の處を指す。これは上文と說法は異なるが意思は同じである。あの微妙の處に造り到ることができなければ、何をもって人を知り、何をもって己を知らんか。
東周叔服豈欺我。叔服有人倫識鑑,學者當不讓於叔服。柳莊云:相人之有術兮,肇東周之叔服,監昭晰之幽隱兮,□休咎之是卜。秘決云:叔服擅名於周,子卿唐舉繼之,孰謂子卿唐舉之後,又豈無人哉,欺我之言不誣矣。
東周の叔服は果たして我を欺くことがあろうか。叔服は春秋の時の周王室の内史で、人物を品鑑することに善く、《左傳》は彼が魯國の公孫敖の二子に相面し、後に一々應驗したことを記載している。相を學ぶ者は叔服に譲らぬべきである。明代の相士・袁柳莊は言う:人を相することが一門の術となったのは、東周の叔服から始まる。彼はあの幽微隱晦の處を照察し(ここで底本に脱字がある)、これに據って人の吉凶を占斷した。秘傳の口訣は言う:叔服は周朝において相術をもって名を擅にし、その後姑布子卿・唐擧が相繼いで起こった。誰か子卿・唐擧の後に再び人なしと言おうか。見るべし、「豈に我を欺かんや」というこの句は虛言ではない。
林宗相五德配五行 第三
郭泰,字林宗,東漢人。五行水火木金土。太□生兩儀,兩儀生四象,四相生八卦,八卦生五行。陳圖南曰:天一生水,在人為腎,腎之竅為耳,又主骨齒。地二生火,在人為心,心之竅為舌,又主血氣毛髮。天三生木,在人為肝,肝之竅為眼,又主筋膜爪甲。地四生金,在人為肺,肺之竅為鼻,又主皮膚喘息。天五生土,在人為脾,脾之竅為唇,義主肉色。宋齊丘云:凡在五行懼有綠,只宜豐厚不宜偏。
本篇は郭泰の署したもので、彼は字を林宗といい、東漢著名の人物品鑑家である。まず五行の水・火・木・金・土の由來を説く。太極(ここで底本に脱字がある)が兩儀すなわち陰陽を生じ、兩儀が四象を生じ、四象が八卦を生じ、八卦がさらに分かれて五行となる。陳摶は言う:天一が水を生じ、人身では腎に對應し、腎は耳に竅を開き、また骨骼と牙齒を主管する。地二が火を生じ、人身では心に對應し、心は舌に竅を開き、また血氣と毛髮を主管する。天三が木を生じ、人身では肝に對應し、肝は眼に竅を開き、また筋膜と指甲を主管する。地四が金を生じ、人身では肺に對應し、肺は鼻に竅を開き、また皮膚と呼吸を主管する。天五が土を生じ、人身では脾に對應し、脾は脣に竅を開き、また肌肉と膚色を主管する(底本の「義」は「又」とすべき)。宋齊丘は言う:およそ五行の管する部位は各々歸屬する緣分があり、ただ生まれて豊厚なるべく、偏枯欹斜すべからず。
秘訣云:人身具此五行,惟水火乃五行之最。水屆坎居腎,腎水旺能養之肝木,木得水濟而生□之心火,火得木助而生艮之脾土,土得火益而生兌之肺金。此生生不息之機,乃水之化源無端也。
秘傳の口訣は言う:人身にこの五行が具わり、その中で水と火が最も緊要である。水は坎卦に属し、臟では腎である。腎水が旺盛ならば震に属する肝木を滋養することができ、肝木が水の接濟を得れば離に属する心火を生じ(ここで底本に脱字がある)、心火が木の助力を得れば艮に属する脾土を生じ、脾土が火の增益を得れば兌に属する肺金を生ずる。これが一環が一環を生じて生生して息まざる機括であり、その化生の源頭は、まさにあの無窮無盡の水である。
中藏五德通臟腑。五德:仁、義、禮、智、信。臟腑:肺、心、腎、肝、脾。《玄神錄》云:甲木主仁位居東,庚金為義向西從。禮依丙火南方地,智於壬癸北方中,惟有戊土無方位,信立陰陽理則同,五者本非泛然物,隱於臟腑妙無窮。
五行の中に五德が藏れ、五德はまた五臟六腑と相通ずる。五德とは仁・義・禮・智・信であり、對應する臟腑は肺・心・腎・肝・脾である。《玄神錄》は言う:甲木は「仁」を主り、方位は東にある。庚金は「義」とし、西方に歸向する。「禮」は丙火に依附し、南方に属する。「智」は壬癸水に寄り、北方に居る。ただ戊土のみ某一方位に專属せず、「信」は陰陽の間に立つ。その道理は前の四者と同じである。この五樣は泛泛として用いなきものではなく、それらは人の臟腑の中に隱藏して、妙用は無窮である。
秘訣云:水火木金土,肝肺心腎脾,五德配五行,仁義禮智信,發而為四端,信則居其一,生相若無信,虛負軀殼體,吾見世間人,致飾於外矣。不知無文中,含有真實理。真實即為信、四時不愆期。相中全在信,福祿壽須彌,四端豈假借,各具其一理,信寄四端中,有用無方體。
秘傳の口訣は言う:水・火・木・金・土に肝・肺・心・腎・脾を配し、五德が五行に配されるとは、すなわち仁・義・禮・智・信である。仁義禮智が發露すれば、すなわち《孟子》のいう「四端」で、惻隱・羞惡・辭讓・是非の心である。そして「信」はその間を貫穿して、その一を占める。人の生相にもし「信」が缺ければ、空しく一副の軀殼を頂くのみである。我は世上の人を見るに、ただ外表の上に修飾するのみである。彼らは懂得しない:毫も紋飾なき朴質の裏に、恰恰として真實の道理が含まれていることを。真實とは信であり、譬えば四季の輪轉が期を失わないがごとし。相法の關鍵はすべて「信」の一字にあり、福・祿・壽は皆それに依って須彌山のように穩固である。四端は互いに借用できず、各々おのが一份の道理を具足する。そして信は四端の中に寄托して、實際の作用があって一定の形體方位がない。
水圓本是智之神。水性周流無滯,智之體似之。《風鑑》云:肩粗並眼大,城廓更開圓,此相名真水,平生福自然。成和子云:水形主圓得其五圓、氣色不雜、精神不亂、動止寬容、行久而輕也。語云:智者樂水,又云:智者動。秘訣云:水先天之氣耳,貫通於六合,化機不息,亙古如常,圓融似智,得其形,並得其性,是為真水,主聰明敏達定賢愚也。經云:似水得水文學貴。
水形は「圓」を體とし、もともと「智」の精神の寄るところである。水性は流轉して周遍し、滯礙するところなし。智慧の本體はまさにそれに似る。《風鑑》は言う:肩膀が粗く厚くして眼が大きく、耳の「城廓」――耳輪を城とし、耳廓を郭とする――がまた開闊円潤ならば、この相を真水形といい、一生福氣がおのずから來る。成和子は言う:水形は圓を主とし、頭・面・耳・腹・體の五處が皆圓く、氣色が駁雜せず、精神が散亂せず、擧動が寬綽として容があり、久しく歩けばかえって脚歩が輕捷となる。古語に言う:智者は水を愛す。また言う:智者は動を好む。秘傳の口訣は言う:水はもともと先天の一股の氣で、天地四方を貫通し、化育の機は歇まず、亙古として一のごとし。その圓融の樣はまさに智慧に似る。すでに水形の形を得、また水形の性を得て、初めて真水と稱し、主人の聰明敏捷・事理に通達することを主り、これに據って賢愚を斷定できる。相經は言う:形が水に似てまた真に水氣を得た人は、文章學問に凭って貴顯となる。
火有文武禮之附。火之用有文武,禮之體似之。《風鑑》云:欲識火形貌,下闊上頭尖,舉止全無定,頤邊更少髯。成和子云:火形主明,得其五露,氣色不雜,精神不亂,動止敦厚,臥久而安也。秘訣云:以火為神水作精,精全面後神方生,神全而後氣方備,氣備而後色方成。火之在人為禮,得其形並得其智,是為真火,主威勢勇烈,定剛柔也。經云:似火得火見機果。
火の功用には文あり武あり、「禮」の本體はそれに似る。《風鑑》は言う:火形の樣貌を認めるには、下部が寬闊にして頭頂が尖削し、擧止が總じて安く定まらず、兩腮邊に鬍鬚が稀少なものである。成和子は言う:火形は「明」を主とし、眼・耳・鼻・脣・喉の五處が外に露れ、氣色が駁雜せず、精神が散亂せず、擧動が敦厚で、久しく臥すればかえって安穩である。秘傳の口訣は言う:火をもって神とし、水をもって精とする。精が足りて初めて神が生じ(底本の「面」は「而」とすべき)、神が全うして初めて氣が備わり、氣が備わって初めて氣色が成る。火は人身において「禮」に對應し、すでに火の形を得、また火の性を得て(底本の「智」は「性」とすべき)、初めて真火と稱し、主人に威勢があり性情勇烈であることを主り、これに據って剛柔を斷定できる。相經は言う:形が火に似てまた真に火氣を得た人は、事に遇うて機を見て果決する。
木居東位仁發生。木之德為仁,含生生之機。《風鑑》云:稜稜形瘦骨,凜凜更修長,秀氣生眉眼,須知晚景光。成和子云:木形主長,得其五長,氣色不雜,精神不亂,動止溫柔,涉久而清也。秘訣云:木之枝幹發於甲木,位天地長生之府,配於五德,居其首,在人為仁,得其形並得其性,是為真木。主精華茂秀,定貴賤也。經云:似木得木貲財足。
木の位は東方に居り、「仁」はこれによって發生する。木の德性はすなわち仁で、生生して已まざる機趣を含んでいる。《風鑑》は言う:骨骼が稜角分明にして形體が清瘦で、氣度が凛然として身材が修長であり、秀氣が眉眼の間に聚まるならば、晚年に必ず光彩あるを知るべし。成和子は言う:木形は「長」を主とし、頭・面・身・手・足の五處が皆長く、氣色が駁雜せず、精神が散亂せず、擧動が溫柔で、久しく跋涉すれば神氣かえって清爽となる。秘傳の口訣は言う:木の枝幹は甲木より發し、天地長生の府の位置を占める。五德に配すれば、それは首位に居り、人身において「仁」に對應する。すでに木の形を得、また木の性を得て、初めて真木と稱し、主人の才華が茂盛秀發することを主り、これに據って貴賤を斷定できる。相經は言う:形が木に似てまた真に木氣を得た人は、資財が豊足する。
金方斷制義白然。金之性,有撙節裁處之宜。《風鑑》云:部位要中正,三停又帶方。金形人入格,自是有名揚。成和子云:金形主方,得其五方,氣色不雜,精神不亂,動止規模,坐久而重也。秘訣云:金之位於乾兌,含西方肅殺之氣,秉堅剛之體。在人為義,得其形並得其性,是為真金。主刑誅厄難,定壽夭也。經云:似金得金剛毅深。
金は「方」を形とし、決斷裁制に善く、「義」はおのずから生ずる(底本の「白然」は「自然」とすべき)。金の性情は、節制裁奪・處置の得宜に長ずる。《風鑑》は言う:面上の部位は端正にして中に居るべく、三停がまた皆方を帶びるべし。金形の人が格局に合すれば、おのずから名聲が傳揚する。成和子は言う:金形は「方」を主とし、面・額・身・手・足の五處が皆方く、氣色が駁雜せず、精神が散亂せず、擧動に法度があり、久しく坐れば愈々沈重となる。秘傳の口訣は言う:金の位は乾・兌の二卦にあり、西方の肅殺の氣を含み、堅剛の形體を秉受する。人身において「義」に對應し、すでに金の形を得、また金の性を得て、初めて真金と稱す。それは同時に刑罰誅戮と厄難をも主り、これに據って壽夭を斷定できる。相經は言う:形が金に似てまた真に金氣を得た人は、剛毅にして沈深である。
土定不移信常足。士之信定,性立剛維。《風鑑》云:端厚仍深重,安詳若泰山,心謀難測度,信義動人間。成和子云:土形主厚,得其五厚,氣色不雜,精神不亂,動止敦龐,處久而靜也。秘訣云:上浮游於四季,旺在辰戊丑末,寄在丙丁,一季主事十八日,其德能生萬物,在人為性,得其形並得其性,是為真土,主載育有容,定貧富也。經云:似土得土厚櫃庫。
土は安定して移らず、ゆえに「信」が常に充足する。土の誠信安定は、性情を立たしめて剛正に維繫あらしむ(底本の「士」は「土」とすべき)。《風鑑》は言う:人となり端厚にして沈深穩重であり、安詳なること泰山のごとく、心裏の謀算は人が測度しがたく、信義は人間に感動する。成和子は言う:土形は「厚」を主とし、背・腹・肩・手・足の五處が皆厚く、氣色が駁雜せず、精神が散亂せず、擧動が敦厚寬大で、久しく相處すれば愈々安靜を顯す。秘傳の口訣は言う:土は浮游して四季に寄旺し、辰・戌・丑・未の四箇月に分旺し(底本の「戊」「末」は「戌」「未」の訛)、また丙丁火に寄生して、每季十八日を當令する。その德性は萬物を生養することができ、人身において誠信の性に對應する。すでに土の形を得、また土の性を得て、初めて真土と稱し、主人の承載養育・寬宏にして容量あることを主り、これに據って貧富を斷定できる。相經は言う:形が土に似てまた真に土氣を得た人は、倉庫が豊厚である。
此為五德配五行。總結上文而言之。《風鑑》云:木要瘦,金要方、水肥土厚火尖長,形體相生便為吉,忽然相剋定為殃。
以上が五德五行に配する道理で、この一句は上文を總結して言ったものである。《風鑑》は言う:木形は瘦せるべく、金形は方いべく、水形は肥えるべく、土形は厚いべく、火形は上尖下闊にして修長であるべし。五形の間が彼此相生すれば吉であり、一旦互相克制すれば必ず災となる。
秘訣云:蒼松翠柏,歲寒不凋,可以觀仁;精金美玉,百鍊成剛,可以觀意;火風烹飪,鼎養聖賢,可以觀禮;長江大河,天機動流,可以觀智;名山大川,載重不洩,可以觀信;人與天地並立,天地一人也,人一天地也,知此五德,配五行之說,其迨庶幾乎。
秘傳の口訣は言う:蒼松翠柏が嚴寒の中に凋零しないのを見て、木德の「仁」を觀るべし。精金美玉が百鍊して剛となるのを見て、金德の「義」を觀るべし(底本の「意」は「義」とすべき)。火と風を用いて飮食を烹煮し、鼎鼐を調和して聖賢を養うを見て、火德の「禮」を觀るべし。長江大河が天機に順って流れて息まざるを見て、水德の「智」を觀るべし。名山大川が重物を承載して滲泄せざるを見て、土德の「信」を觀るべし。人は天地と竝び列して三才をなし、天地は一の大人であり、人は一の小天地である。この五德が五行に配するという說を懂得すれば、相術もほぼ入門したことになる。
唐擧相神氣 第四
唐舉戰國時人。賦形天地超過萬靈。天地生人,性靈異於萬物。《無形歌》云:道為貌,天為形,默受陰陽稟性情。陰陽之氣天地造化出,塵凡幾樣人。《靈樞經》云:人稟天地之氣,肖清濁之形。為萬物至靈也。王元君云:大道無形而生行形,舒之彌六合。卷之個盈握,包絡天地,稟受群生者也,故云,賦形天地超萬靈。秘訣云:人生之道,真精融合,二五凝成,賦其形即賦其理。雖萬物皆具生成之道,蠢然而巳,未有如人最靈也。
本篇は唐擧の署したもので、彼は戰國の時の著名な相士で、かつて蔡澤・李兌のために相面したことがある。人の形體は天地より禀受し、靈性は萬物に超える。天地が人を生ずれば、人の性靈はその他の萬物と截然として異なる。《無形歌》は言う:道は容貌に顯れ、天は形體に顯れる。人は無聲無息の中に陰陽の氣を承受し、各々の性情を禀得る。陰陽の氣は天地の造化より生じ、これによって塵世間に千百樣の人がある。《靈樞經》は言う:人は天地の氣を禀受し、清濁の形を摹倣して體を成す。ゆえに萬物中最も靈あるものである。王元君は言う:大道自体は形なきも、有形の物を生じることができる。舒べれば天地四方に充滿し、卷き收めれば一握に滿たず。それは天地を包羅し、衆生に禀性を賦與する。ゆえに「賦形天地萬靈に超ゆ」という(底本の「生行形」は「生有形」とすべき、「卷之個盈握」は「不盈握」とすべき)。秘傳の口訣は言う:人が人たる所以は、真精が融合し、陰陽二氣と五行の質が凝聚して成る。天が彼に形體を賦すれば、すなわち同時に彼に道理を賦す。萬物は皆生成の道を具備するといえども、蠢然として知なく、人より靈なるものはない。
氣似油兮神似燈。形資氣以養之。《清鑑》云:大都神氣賦於人,有若油兮又似燈。神平卻自精之實,油清然後燈方明。柳莊云:古者方伎之妙,有聞人之謦□而知其必貴者。得之於人也。有察人之喜怒而知其必貴者,得之於氣也。陳圖南云:形以養血,血以養氣,氣以養神,故形全則氣全,氣全則神全。又云:神完則氣寬,神安則氣靜。得失不足以暴其氣,喜怒不足以驚其神,其為君子乎,福祿永其終矣一。
「氣」は燈の中の油に譬え、「神」は燈上の火焰に譬えられる。形體は氣によって涵養される。《清鑑》は言う:大抵に言えば、神と氣は人身に賦與され、一方は油に似て、一方は燈に似る。神の平和は精の充實より來り、まさに油が清く澄んで初めて燈焰が明るいがごとし。袁柳莊は言う:古代の方術の高妙なるところは、ある人は相手の一聲の咳嗽を聞いたのみで(ここで底本に脱字があり、「謦欬」とすべき)必ず顯貴するであろうと斷定した。これは人の身より得たものである。ある人はまた相手の喜怒の神情を察したのみで必ず貴ぶと斷定した。これは氣の上より得たものである。陳摶は言う:形體は血液を涵養し、血液は氣を涵養し、氣は神を涵養する。ゆえに形體が完足すれば氣が完足し、氣が完足すれば神が完足する。また言う:神が完滿すれば氣が寬舒し、神が安定すれば氣が寧靜する。得失が彼の氣を打亂することができず、喜怒が彼の神を驚動することができない――このような人はほぼ君子であろう。福祿は終身保つことができる。
秘訣云:今人論神,必曰眼有精神,殊不知神之元,天一生水為精,地二生火為神,精合者然後神從之,內有充足之精則外有澄徹之神。如行不動色,坐不隨語,睡易醒覺,作事始終。皆精神也。
秘傳の口訣は言う:今の人が神を談ずれば、口を開けば「眼に精神がある」と言うが、神の本源の在りどころを知らない。天一が水を生じ、人身では「精」とする。地二が火を生じ、人身では「神」とする。精が先に聚合して、神がこれに隨って生ずる。内裏に充足の精あって、外に澄澈の神がある。譬えば歩く時に面色を改めず、坐る時に人の言語に隨って搖擺せず、睡れば醒覺しやすく、事を爲せば始終ある――これらは皆精神の表現で、決して眼の一處のみにあるのではない。
論氣必曰神氣固是,殊不知氣有三焉,有自然之氣。有所養之氣:有暴戾之氣。自然之氣乃胎元一呼一吸,定生人之貴賤也。所養之氣,乃浩然塞乎兩間,定人之賢愚也。暴之氣乃,乃悻悻自好,定人之善惡也。要之神,氣之子。氣,神之母,神能留氣,氣不能留神。定訣曰:妙相之法在何方,觀其神氣在學堂。氣者有之最是良,若人認得神與氣,富貴貧賤是審量。
氣に講じ至れば、人は口を開けば「神氣」と言う。これはたしかに惡くないが、氣に實は三種あることを知らない。一は自然の氣、二は所養の氣、三は暴戾の氣である。自然の氣とは、胎中の元氣が齎らした一呼一吸で、これに凭って一人の貴賤を斷定できる。所養の氣とは、孟子のいう浩然の氣で、天地の間に充塞し、これに凭って一人の賢愚を斷定できる。暴戾の氣とは、あの氣衝衝として自以爲是の躁氣で、これに凭って一人の善惡を斷定できる。要するに、神は氣の生んだ子であり、氣は神の母親である。神は氣を留住することができるが、氣は神を留住できない。定訣は言う:相術の妙法はどこにあるか。彼の「學堂」部位(眼・額・齒・耳前など聰明文章を主る部位)上の神と氣を觀察することにある。氣の一樣が最も緊要で、人若し神と氣を認め清めることができれば、富貴貧賤は皆掂量して出すことができる。
油若竭今燈焰熄。氣喪則神亡。《神解》云:將全其形,先須其理,精實氣固則神安。血枯氣散則神亡。風鑑云:氣壯血和則安固,血枯氣散神失奔。謝靈運云:夭壽之人神離睫,泛而不救,無所守也。圖南云:氣冷形衰壽豈宜。又云:氣短精神慢,那得有長年。秘訣云:神氣乃相須者也,氣既喪,神安得獨存。經云:神散氣聚,少孤破家。氣聚神散,作事不定,神與氣合,深遠主壽,清秀主貴。
油が一旦耗り乾けば燈焰は熄え、同じく、氣が一旦喪われれば神も消亡する(底本の「今」は「兮」とすべき)。《神解》は言う:形體を保全せんと欲すれば、まずその條理に順うべし。精が充實し氣が固密ならば、神は安穩である。血が枯竭し氣が渙散すれば、神は消亡する。《風鑑》は言う:氣壯にして血和なる人は神が安らぎ固く、血枯し氣散ずる人は神が守を失い奔潰する。謝靈運は言う:短命の人は、神が眼睫を離れて外に浮び、散漫して收まることなく、救い返すことができない。それが守持する所なきがゆえである。陳摶は言う:氣冷たく形衰えたる人、どうして長壽を談ずるに足らん。また言う:呼吸が短促し精神が遲慢なれば、どこに長年あらん。秘傳の口訣は言う:神と氣は互いに依賴するもので、氣がすでに喪われたれば、神がどうして獨り存せん。相經は言う:神散じて氣聚まる人は、早年孤苦し家業を破敗す。氣聚まりて神散ずる人は、事を爲すに定準なし。神と氣が相合し、氣象が深遠なるは長壽を主り、清秀なるは顯貴を主る。
燈若明兮油潤之。神若秀發,由氣助之。《風鑑》云:神居形內不可見,氣以養神為命根。又云:英標清秀心神爽,氣血調和神不昏。百閣道者云:神者百閱之秀氣也,如陽氣舒而山川秀發,日月現而田地清明。秘訣云:形能養神,托氣而安。氣不多則神暴而不安。欲安其神,先養其氣。故盂子不顧萬鍾之祿,能養其氣者也。
燈焰が明るい所以は、油がそれを滋潤しているからであり、人の神が秀發して外に露れる所以は、氣がそれを扶助しているからである。《風鑑》は言う:神は形體の内に居り、肉眼は見えず、氣はもって神を涵養し、性命の根本である。また言う:風采が清秀なる人は心神が爽朗であり、氣血が調和する人は神志が昏れない。白閣道者は言う:神は百般の歷練涵蓄して出た秀氣で、まさに陽氣が舒發する時に山川が秀麗に顯れ、日月が出づる時に田野が一片に清明となるがごとし(底本の「百閣」は「白閣」とすべき)。秘傳の口訣は言う:形體は神を涵養することができ、而して神は氣に托して初めて安定する。氣が充足せざれば、神は躁動して安んぜず。彼の神を安頓せんと欲すれば、まず彼の氣を涵養せよ。ゆえに孟子は萬鐘の厚祿を顧みずして心を動かさず、まさに氣を養うに善き者である(底本の「盂子」は「孟子」とすべき)。
落落失常無宅守。落落不得志之意。《肘後經》云:神衰血敗氣將凋,失志落落不支持。鬼箭云:荒唐失志神無宅,不到中途則夭亡。來和子云:綏綏失志,失志改常神已去。秘訣云:神氣欲散,福祿將艾,雖處得意之時,無異窘迫之際。此乃神已去舍,觀之何知歌曰:何知為官多災難,坐時眉攢口門常嘆,何知其人必死亡,塵埃面色言失常。正無守宅謂也。
神情が落落として寡合し、擧止が常度を失うは、これは神に安宅して守るべき所がないのである。「落落」とは志を得ざる樣である。《肘後經》は言う:神衰え、血敗れ、氣將に凋零せんとする人は、失意落落として支えがたい。《鬼箭》は言う:行事が荒唐し心志が頹喪すれば、神に歸宿の宅なく、中途に至らずして夭亡する。來和子は言う:遲遲疑疑として失魂落魄し、一たび志を失えば擧止が反常する。あれは神がすでに去ったのである。秘傳の口訣は言う:神氣が將に渙散せんとするとき、福祿もまた將に盡きんとす。たとい正に得意の時に在るとも、窘迫の際と兩樣なし――これは神がすでにその居を離れたのである。《何知歌》は言う:どうして官を爲る人の災難多きを知るか。彼の坐る時の雙眉緊く攢み、口を開けば歎息するを見よ。どうしてこの人の必ず死するを知るか。彼の面色が塵埃を蒙ったがごとく、說話が顛三倒四なるを見よ。これは正に「神に宅なく守るべき所なし」の意である。
澄澄絕俗有根株。澄澄,瑩靜無雜。絕俗,出眾異常。根株,苗裔行本也。陳圖南云:精神澄徹,如止水之淵,驚之不懼,折之不回,君子之人也。神解云:虛化神、神化氣,氣為骨之苗裔,骨為神之根株矣。《肘後經》云:骨肉相滋不相返,精神湛粹壽康寧。秘訣云:峨峨怪石迷閒雲。崑山片玉已琢出。此至精之寶,發於外而蘊於內,非天地之鍾毓,道之涵養,而能有此乎。
神氣が澄澈し、流俗を超絕する人は、根柢あるものである。「澄澄」とは瑩潔安靜にして雜質を夾まざることであり、「絕俗」とは出衆異常なることであり、「根株」とは苗裔と本根を指す。陳摶は言う:精神が澄澈して一潭の止水のごとく、彼を驚嚇しても懼れず、彼を摧折しても回頭せざるは、これ君子の人である。《神解》は言う:虛無が化して神を生じ、神が化して氣を生じ、氣は骨の苗裔であり、骨は神の根株である。《肘後經》は言う:骨と肉が互いに滋養して相い違わず、精神が湛然として純粹ならば、長壽安康である。秘傳の口訣は言う:巍峨の怪石は閑雲の裏に隱沒し、崑崙山の片玉はすでに琢磨され出づ――これは最も精粹の寶物で、發露して外に在り、藴藏して内に在る。もし天地が靈を鍾し秀を毓り、大道が涵養して成したるにあらざれば、どうしてこのような人があらんか。
縱然形肉充盈實。雖有形肉,不如神氣。來和子云:形亦厚,肉亦充,無神無氣怨天公。陳圖南云:有肉而無氣,猶如蟲木內已空虛,雖外有皮膚,暴風迅雨,鮮有不摧者也。秘訣云:有神氣無形肉者,有根蒂而無枝葉、非時不茂。昔人有相諸葛孔明者曰:外稟松柏枯槁之姿,內有文理根蒂之實,風雨不摧折,一日華秀,名滿天下。
たとい形體肌肉が生長して充實飽滿するも、必ずしも靠むべからず。徒らに形肉あるは、神氣あるに及ばざるなり。來和子は言う:形體も厚實し、肌肉も豊滿なれど、神なく氣なければ、ただ老天爺を埋怨するよりほかなし。陳摶は言う:肉あって氣なき人は、譬えば蟲に蛀められて空となった樹のごとく、裏はすでに空虚で、外に一層の樹皮あるのみ、一たび暴風急雨に遇えば、摧折せざるもの鮮し。秘傳の口訣は言う:反して、神氣あって形肉單薄なる人は、譬えば根柢あって暫く枝葉を缺くがごとく、時到らざれば繁茂せざるのみ。昔ある人が諸葛亮に相面して言う:外表に禀受するは松柏枯瘦の姿なれど、内裏に紋理深固の根柢あり、風雨もそれを摧折し得ず。一旦開花吐秀すれば、便ち名は天下に滿ちん。
氣散神枯虛殼子。神氣俱亡,虛有幻軀。《無形》云:神也無,氣也無,空空遺下這皮膚。殼子若值風霜損,谷神先已向秋枯。秘訣云:氣以血養而助神,氣散則神枯,由心不能生血故也。心何為而不生血,由思慮勞傷。揣摩計較,斷喪心之虛靈,所以損耗神氣元神,元神耗則神氣亡,神氣亡,幻軀能久乎。
氣が一たび散じ、神が一たび枯れれば、人はただ一個の空殼子を剩すのみ。神も氣もなくなり、空しく一副の虚幻の軀體を留めるのみである。《無形歌》は言う:神もなく、氣もなく、空空としてこの一層の皮膚を剩す。この軀殼が再び風霜の損傷を遭えば、あの生機を主管する「谷神」は早くも秋草のように枯萎した。秘傳の口訣は言う:氣は血に依って滋養され、また氣をもって神を扶助する。氣が一たび渙散すれば、神は枯竭する。その根子は心が血を生ぜざるに在る。心は何を以てか血を生ぜざる。思慮が過度で、心を勞し神を傷し、事事揣摩計較して、心の虛明靈覺を斷送するによって、これに因って神氣と元神を損耗する。元神が一たび耗れれば、神氣は亡び、神氣が一たび亡びれば、この幻化の軀體はなお幾何を維持し得んか。
