巻下・上繋辞
上繫第四章:一陰一陽之謂道。注:道者何,無之稱也。無不通也,無不由也,況之曰道。寂然無體,不可為象。必有之用極,而無之功顯,故至於神無方而易無體,而道可見矣。故窮變以盡神,因神以明道也。陰陽雖殊,無一以待。在陰為無陽,陽以之生;在陽為無陰,陰以之成。故曰一陰一陽也。
《繋辞上》第四章「一陰一陽之謂道」について、注は言う。道とは何か。それは「无」の称謂である。通じないところなく、由らないところなく、それに比況して道と称する。それは寂然として形体がなく、取って形象とすることはできない。必ず「有」の功用が極みまで発揮されるのを待って、はじめて「无」の功效が顕れる。だから「神无方而易无体」の境地に至って、道をはじめて見ることができる。このゆえに変化を窮究して神妙を極め、神妙に憑って大道を闡明する。陰と陽は異なるけれども、同じく虚無の「一」をもって対する。陰に在る時は無陽と見なし、陽はこれによって生ず。陽に在る時は無陰と見なし、陰はこれによって成る。だから「一陰一陽」という。
謹按:注在陰為無陽,陽字誤作陰字;在陽為無陰,陰字誤作陽字。以上兩節本解陰陽雖殊無一以待之說者,言陰之與陽雖有兩氣,恆用虛無之一以待之。言在陽之時,亦以為虛無此陽也;在陰之時,亦以為虛無此陰也。言道所在皆無也。雖無於陰,陰終由道而生,故言陰以之生也;雖無於陽,陽終由道而成,故言陽以之成也。
郭京謹按:注文「在陰為无陽」の「陽」の字は「陰」の字に誤写され、「在陽為无陰」の「陰」の字は「陽」の字に誤写されている。以上の二節はもともと「陰陽雖殊、无一以待」の句を解釈するもので、陰と陽は二つの気とはいえ、終始ともに虚無の「一」をもってこれらに対すると言うのである。すなわち陽に在る時も、この陽を虚無と見なし、陰に在る時も、この陰を虚無と見なす。これは道のあるところ、ところどころに「无」があると言うのだ。陰に対しては「无」といえども、陰はついに道によって生ず。だから「陰以之生」という。陽に対しては「无」といえども、陽はついに道によって成る。だから「陽以之成」という。
聞諸師說:在陰為無陽,陽以之生者,是十月純陰用事,至冬至之前正在純陰用事,是在陰為無陽;冬至一陽生,是陽以之生也。在陽為無陰,陰以之成者,則是四月純陽用事,至夏至之前正在純陽用事,是在陽為無陰;夏至一陰生,是陰以之成也。一陽下生時,陰氣猶在地上;一陰下生時,陽氣亦在地下。不待一陰氣盡始生陽,一陽氣盡始生陰,是陰陽雖殊無一以待之之義也。
郭京はまた言う。私が師長から聞いた講法では、いわゆる「在陰為无陽、陽以之生」とは、十月に純陰が当令し、冬至以前はみな純陰が用事する。これが「在陰為无陽」である。冬至に至って一陽がはじめて生ずる。これが「陽以之生」である。いわゆる「在陽為无陰、陰以之成」とは、四月に純陽が当令し、夏至以前はみな純陽が用事する。これが「在陽為无陰」である。夏至に至って一陰がはじめて生ずる。これが「陰以之成」である。一陽が下からはじめて生ずる時、陰気はなお地上に留まっている。一陰が下からはじめて生ずる時、陽気もまた地下に留まっている。陰気がすべて消尽するのを待ってから陽を生ずるのではなく、陽気がすべて消尽するのを待ってから陰を生ずるのでもない。これがまさに「陰陽雖殊、无一以待」の意旨のあるところである。
第九章:子曰,知變化之道者,其知神之不為乎。注:夫變化之道,不為而自然,故知變化者則知神之不為乎。謹按:經注不字並誤作所字,詳文義可明誤。第十二章:是故聖人有以見天下之賾。謹按:是故字下誤増夫象字。此一節本是第六章首,於此引之者,為極天下之賾者以下為引文成義之勢,有夫象字,驗第六章足見誤矣。
《繋辞上》第九章は「子曰、知変化之道者、其知神之不為乎」と作るべきで、注は「夫変化之道、不為而自然、故知変化者則知神之不為乎」と作るべきである。郭京謹按:経文と注文の「不」の字は、いずれも「所」の字に誤写されている。文義を細かく究めれば、その誤りは明らかになる。また、第十二章は「是故聖人有以見天下之賾」と作るべきである。郭京謹按:今本は「是故」の二字の下に「夫象」の二字を誤って増した。この節はもともと第六章の冒頭であって、ここではただそれを引用しているにすぎない。下文「極天下之賾者」以下がこの引文を借りて語勢を成すためである。「夫象」の二字を帯びるのは第六章の原文であり、第六章に験せば、ここが誤増であることを見るに足る。
巻下・下繋辞
下繫第一章:剛柔相推,變在其中矣;繫辭焉而命之,動在其中矣。注:剛柔相推,況八卦相蕩,或否或泰也;繫辭而命之,況六爻之動,動以適時者也。立卦之義則見於彖象,適時之功則存之爻辭,王氏之例詳矣。
《繋辞下》第一章「剛柔相推、変在其中矣。繋辞焉而命之、動在其中矣」について、定本の注は「『剛柔相推』とは、八卦が互いに激盪し、或いは《否》を成し或いは《泰》を成すことに比況する。『繋辞而命之』とは、六爻の変動に比況し、変動は時宜に適うためである。卦を立てる義旨は《彖伝》と《象伝》に見え、時に適う功用は爻辞に存する。王弼の義例はすでに詳しく説き尽くしている」と作る。
今本注:剛柔相推,八卦相蕩,或否或泰也;繫辭而斷其吉凶,況之六爻,動以適時者也。立卦之義則見於彖象,適時之功則存於爻辭,王氏之例詳矣。謹按:定本解變動則具舉經文,論八卦六爻則義理相當;其今本解變義則全舉經文,釋動義則經文不具。其經文具者易?,經文不具者難明。兩注具錄如前,正謬昭然可見矣。
今本の注は「剛柔相推、八卦相盪、或成《否》或成《泰》。繋辞而断定吉凶、六爻に比況し、変動は時宜に適うためである。卦を立てる義旨は《彖伝》と《象伝》に見え、時に適う功用は爻辞に存する。王弼の義例はすでに詳しく説き尽くしている」と作る。郭京謹按:定本は「変」と「動」を解釈する際にいずれも経文を完全に標挙し、八卦と六爻を論じても義理が互いに相称している。今本は「変」の義を解する時は経文をすべて挙げ、「動」の義を解する時は経文を挙げ尽くさない。経文を挙げ尽くしたところは通暁しやすく(原文ここ一字残闕)、経文の全からぬところは明白にし難い。二種の注文を上のように並べて録した。孰れが正で孰れが謬かは昭然と見える。
第二章:包犧氏沒,神農氏作,斵木為耜,揉木為耒,耒耨之利,以教天下,葢取諸益。注:制器致農,以益萬物也。謹按:農字誤作豐字。教農之始,未至收穫,豈遽見豐,足明誤也。
《繋辞下》第二章「包犠氏没、神農氏作、斫木為耜、揉木為耒、耒耨之利以教天下、蓋取諸《益》」について、注は「制器致農、以益万物也」と作るべきである。郭京謹按:注中の「農」の字は「豊」の字に誤写されている。民に農を教えるのは始まりにすぎず、まだ収穫の時に至っていない。どうしてすぐに豊足を見ることができようか。その誤りを証明するに足る。
第五章:子曰,小人不恥不仁,不畏不義,不見利不動,不威不懲,小懲大戒,此小人之福也。謹按:動字誤作勸字。凡悔吝所生,生乎動者,則是小人見利而動。其勸勉之義,皆是善道。故季康子問使人敬忠以勸,則勸是勉令向善之義。審其文句義理,甚昭矣。
また、《繋辞下》は「子曰、小人不恥不仁、不畏不義、不見利不動、不威不懲、小懲大戒、此小人之福也」と作るべきである。郭京謹按:「不見利不動」の「動」の字は「勧」の字に誤写されている。およそ悔吝の生ずるは、みな「動」から生ずる。ここはまさに小人が利益を見てはじめて行動することを言う。「勧」の字の勧勉の義に至っては、指すところはみな善に向かう道である。だから季康子が、どうすれば民衆を恭敬忠誠にして互いに勧勉させられるかを請い教えたのだ。つまり「勧」とは人を励まして善に向かわせる意であって、ここの文義とは合わない。これら数句の文句と義理を審察すれば、その誤りは十分に昭然である。
又:幾者動之微,吉之先見者也。注:幾者,去無入有,而理未形,不可名尋,不可形睹者也。唯神也,不疾而速,故能朗然?照,鑑於未形者也。謹按:而理字顛倒作理而。且而理則易悟,作理而則難明。凡註釋本在曉人,豈強為難會者也。理亦昭然矣。
また、《繋辞下》は「幾者、動之微、吉之先見者也」と言い、注は「いわゆる『幾』とは、无から有に入るが、まだその理は形を成していない。名称に憑って求めることもできず、形体に憑って目に見ることもできない。ただ神妙の用は疾からずして速やかなので、朗然として玄く照らし(原文ここ一字残闕)、形体の未だ具わらぬ先に洞察できる」と作るべきである。郭京謹按:注中の「而理」の二字は倒して「理而」と写されている。「而理未形」と作れば領会しやすく、「理而未形」と作れば明白にし難い。およそ注釈の本意は人をして暁悟せしめることにあるのに、わざと人をして分かり難く書く道理があろうか。その理もまことに昭然である。
又:子曰,君子安其身而後動,易其心而後語,定其交而後求,君子修此三者,故全也。危以動則民不輔也,懼以語則民不應也,無交而求則民不與也,莫之與則傷之者至矣。謹按:輔字誤作與字。輔,輔助之義,甚明矣;與之與,大失。況無交而求,此則是與,與字不可重用。況大義又乖,亦斷知矣。
また、《繋辞下》は「子曰、君子安其身而後動、易其心而後語、定其交而後求。君子脩此三者、故全也。危以動則民不輔也、懼以語則民不応也、无交而求則民不与也。莫之与則傷之者至矣」と言う。郭京謹按:「民不輔也」の「輔」の字は「与」の字に誤写されている。「輔」は輔助の義を取り、まことに明白である。もし「与」と作れば、大きく失当となる。何况下文「无交而求則民不与也」ですでに「与」の字を用いている。同じ「与」の字はここで重複して出すべきではない。加えて「与」と作れば大義にまた乖違する。その誤りも断然として知れる。
第九章:二與四同功而異位,其善不同,二多譽,四多懼。注:懼,近也,位逼於君,故多懼。謹按:誤將近也字作經,近字上仍脫懼字。三與五同功而異位,其善不同,三多凶,五多功。審其上下文,足明經注殊理,誤亦可知矣。
《繋辞下》第九章「二与四同功而異位、其善不同。二多誉、四多懼」について、注は「懼、近也。位逼于君、故多懼」と作るべきである。郭京謹按:今本は誤って注中の「近也」の二字を経文とし、「四多懼近也」と読ませた。そして「近」の字の上には「懼」の字を脱している。下文「三与五同功而異位、其善不同。三多凶、五多功」の句式を参看し、上下文を審察すれば、経文と注文とにそれぞれ分際があることを説くに足り、その誤りも知ることができる。
巻下・説卦
說卦:雷以動之,風以散之,雨以潤之,日以烜之,艮以止之,兌以說之,乾以居之,坤以藏之。謹按:居字誤作君字。夫子於此一節明八卦長養萬物之功,無君臣父子之義。
《説卦》は「雷以之動かし、風以之散じ、雨以之潤し、日以之烜し、艮以之止め、兌以之説ばせ、乾以之居らせ、坤以之蔵す」と作るべきである。郭京謹按:「乾以居之」の「居」の字は「君」の字に誤写されている。孔子がこの節で闡明しようとするのは、八卦が万物を生長・養育する功用であり、君臣父子の名分の義には渉らない。
又:神也者,妙萬物而為言者也。注:於此言神者,明八卦運動變化推移,莫有使之然者。神則非物,妙萬物為言者也。謹按:非字誤作無字。義理非字切當,從其定本。
また、《説卦》は「神也者、妙万物而為言者也」と言い、注は「ここに言う『神』とは、八卦の運行・変化が推移して息まないことを表明するのであって、誰かが背後でこれを駆使しているわけではない。神自体は有形の物ではなく、ただそれが万物を妙に運ぶという点に就いて言を立てたのだ」と作るべきである。郭京謹按:注中の「非」の字は「无」の字に誤写されている。義理の上で論ずれば、「非」の字を用いるのが切当で、定本に依るべきである。
巻下・序卦
序卦:有天地然後萬物生焉,盈天地之間者惟萬物,故受之以屯。屯者,盈也;屯者,物之始生也。始生必蒙。謹按:始字誤作物字。雖義不甚乖,貴從正本也。
《序卦》「有天地然后万物生焉、盈天地之間者惟万物、故受之以《屯》。屯者、盈也。屯者、物之始生也。始生必蒙」。郭京謹按:「始生必蒙」の「始」の字は「物」の字に誤写され、「物生必蒙」となった。この一箇所は義理の上では大きく遠からないが、やはり信頼できる正本に依るのが尊い。
又:蒙者,蒙昧也。謹按:脫昧字,已於上經剝卦論訖。又:比者,親比也。謹按:脫親字,亦同剝卦之論也。
また、《序卦》は「蒙者、蒙昧也」と作るべきである。郭京謹按:今本は「昧」の字を脱して「蒙者、蒙也」となった。この条の体例は前の上経《剥》卦「剥、剥落也」ですでに論説が明らかになっている。また、《序卦》は「比者、親比也」と作るべきである。郭京謹按:今本は「親」の字を脱して「比者、比也」となった。その道理は《剥》卦のあの条の論説と同じである。
又:故受之以剝。注:極飾則賢喪。謹按:賢字誤作實字。然實亦粗通,貴從正本也。又:物不可以久居其所,故受之以遁。遁者,退也。謹按:此一句今本脫者多,詳其諸卦例可知也。
また、《序卦》「故受之以《剥》」について、その注は「極飾則賢喪」と作るべきである。郭京謹按:注中の「賢」の字は「実」の字に誤写されている。「実」と作っても強いて通じるとはいえ、やはり正本に依るのが尊い。また、《序卦》は「物不可以久居其所、故受之以《遁》。遁者、退也」と作るべきである。郭京謹按:「遁者、退也」のこの一句は、今本に多く脱漏している。《序卦》が各卦を解釈する通例を参詳すれば、確かに脱文があることが分かる。
又:物不可以終遁。注:君子以逺小人,遁而後亨,何可終邪,則小人道勝,君子道消也。故受之以大壯。注:陽盛陰消,君子道勝也。謹按:前注小人道勝字誤作遂陵字。驗後注君子道勝可知矣。遂陵字何所取義也。
また、《序卦》「物不可以終遁」について、その注は「君子は退避を借りて小人を遠ざけ、退避して後にはじめて亨通を得るのだから、どうしてずっと退避し続けられようか。もしひたすら退避すれば、小人の道が勝ち君子の道が消退する」と作るべきである。下文「故受之以《大壮》」について、注は「陽気が盛んで陰気が消えるは、君子の道が勝つことである」と言う。郭京謹按:前の条の注中の「小人道勝」の四字は「遂陵」の二字に誤写されている。後の条の注の「君子道勝」と対照すれば、その誤りが知れる。「遂陵」の二字からはどんな義理が取り出せるだろうか。
又:有過物者必濟。注:行過乎恭,用過乎儉,可以矯世厲俗,有所濟也。謹按:用字誤作禮字。此一節本因小過論義,故引小過卦大象辭為義。誤作禮字,理亦可知。
また、《序卦》「有過物者必済」について、その注は「行いが恭敬に過ぎ、用度が倹省に過ぎれば、これをもって世風を矯正し、習俗を砥礪し、ここに済助ある所以である」と作るべきである。郭京謹按:注中の「用」の字は「礼」の字に誤写されている。この節はもともと《小過》卦に就いてその義を論じたもので、だから《小過》卦の大《象》「行過乎恭、用過乎倹」の辞を引いて義を立てた。今本が誤って「礼」の字と作ったのは、その誤りを知るに足る。
巻下・雑卦
雜卦:屯見而不失其居。注:雖見難而盤桓利貞,不失其居也。謹按:注脫難字。處屯之初,盤桓不進,雖見其難,為其利貞,不失其居。詳文句,可明其義理矣。
《雑卦》「屯、見而不失其居」について、その注は「難に遇っても盤桓して進まず、正を守るに利あり、ここにその居る位を失わない」と作るべきである。郭京謹按:今本の注文は「難」の字を脱して「雖見而盤桓」となった。屯難の初めに処り、盤桓して前に進まない。難に遇うけれども、正を守ることができるゆえに、その居るを失わない。文句を細かく審らかにすれば、その中の義理を明白にできる。
又:蒙稚而著。注:稚者未知所定,求發其蒙,則得所定也。著,定也。謹按:經注稚字並誤作雜字。蒙之為義,當蒙昧幼稚之時,心無所定,非叢雜之義矣。又:履不處也。注:王弼云履卦陽爻皆以不居其位為美也。謹按:美字誤作吉字。此是略例正文,注首既引王弼云,則自然合依本文,義在無惑矣。
《雑卦》は「蒙、稚而著」と作るべきで、その注は「幼稚の人はまだどこに安定すべきかを知らず、人に求めてその蒙昧を啓発してもらえば、その安定を得られる。『著』とは安定のことだ」と作るべきである。郭京謹按:経文と注文の「稚」の字は、いずれも「雑」の字に誤写されている。「蒙」の意義は、まさに蒙昧で幼稚の時に心の定まるところがないことを指し、叢雑・紛乱の義ではない。また、《雑卦》「履、不処也」について、その注は「王弼云、履卦の陽爻はみなその位に居らないことを美とす」と作るべきである。郭京謹按:注中の「美」の字は「吉」の字に誤写されている。この句はもともと《周易略例》中の原文であり、注文の冒頭ですでに「王弼云」と標している以上、自ずから《略例》本文に照らして「美」と作るべきで、その義に疑うべきところはない。
巻下・略例
略例明象:而或者定馬於乾。謹按:按文責卦,有乾無馬。今本作有馬無干。其按文責卦,只按責乾卦文辭。既云有馬,則乾卦文辭實無馬字;既云無干,則易無乾卦矣。推而尋之,理甚明矣。
《周易略例・明象》「而或者定馬于乾」の、その下は「案文責卦、有乾无馬」と作るべきである。郭京謹按:今本はかえって「有馬无乾」と作る。いわゆる「案文責卦」とは、ただ《乾》卦の文辞に照らして卦象を責め求めることだ。「有馬」と言うからには、しかし《乾》卦の文辞の中に実際に「馬」の字はない。「无乾」と言うなら、《周易》の中に《乾》卦すら無いことになるではないか。上下文の意を推し尋ねれば、道理は十分に明白である。
