大易象数鈎隠図 巻中
三変大成図
重易六爻図
六十四卦天地数図
六十四卦万物数図
卦爻律呂図
十一月《復》一陽生,黃鍾氣應;至四月,六陽為《乾》,故闢戶謂之乾。五月《娠》一陰生,蘿賓氣應;至十月,六陰為《坤》,故闔戶謂之坤。
十一月に『復』卦の一陽がはじめて生じ、黄鐘の律の気に相応する。四月に至って、六爻すべて陽と成りて『乾』卦と成る。ゆえに『繫辞』は「戸を闢くを乾と謂う」と言う、すなわち門戸を押し開くことを乾と言う。五月に『姤』卦の一陰がはじめて生じ、蕤賓の律の気に相応する。十月に至って、六爻すべて陰と成りて『坤』卦と成る。ゆえに『繫辞』は「戸を闔くを坤と謂う」と言う、すなわち門戸を閉じ合わせることを坤と言う。底本の「娠」は「姤」の訛字、「蘿賓」は「蕤賓」の訛字である。
運会暦数図
《復》十二世,《臨》二十四世,《泰》三十六世,《大壯》四十八世,《夾》六十世,《乾》七十二世,《垢》八十四世,《逐》九十六世,《否》一百八世,《觀》一百二十世,《剝》一百三十二世,《坤》一百四十四世。
この図は十二辟卦を元・会・運・世の暦数に配する。『復』卦は十二世に当たり、『臨』卦は二十四世に当たり、『泰』卦は三十六世に当たり、『大壮』卦は四十八世に当たり、『夬』卦は六十世に当たり、『乾』卦は七十二世に当たり、『姤』卦は八十四世に当たり、『遯』卦は九十六世に当たり、『否』卦は百八世に当たり、『観』卦は百二十世に当たり、『剥』卦は百三十二世に当たり、『坤』卦は百四十四世に当たる。毎卦十二世ずつ逓増して、一周正しく一元の数に合う。底本の「夾」「垢」「逐」はそれぞれ「夬」「姤」「遯」の訛字である。
乾坤大父母図
《乾》,一變《垢》,二變《逅》,三變《否》,至五變為《剝》而止。物不可以終盡,《剝》窮上反下,故受之以《復》。《坤》,一變《復》,二變《臨》,三變《泰》,至五變為《夫》而止。《夾》必有遇,故受之以《娠》。
『乾』卦は第一変して『姤』と成り、第二変して『遯』と成り、第三変して『否』と成り、ずっと変じて第五変で『剥』と成れば止まる。事物はずっと窮極に至り続けてはならない。『剥』卦は上爻において窮極すれば下面に返り、ゆえに『序卦』は続けて『復』卦を按排する。『坤』卦は第一変して『復』と成り、第二変して『臨』と成り、第三変して『泰』と成り、ずっと変じて第五変で『夬』と成れば止まる。『夬』は決断であり、決断した後は必ず遭遇するものがある。ゆえに『序卦』は続けて『姤』卦を按排する。底本の「垢」「逅」「夫」「夾」「娠」はそれぞれ「姤」「遯」「夬」「夬」「姤」の訛字である。
復姤小父母図
一陽來《復》,變《臨》為二陽,變至《泰》為四陽,變至《大壯》為八陽,變至《央》為十四陽,終其變於《歸妹》,成十六陽。一陰始《娠》,變《逐》為二陰,變至《否》為四陰,變至《觀》為八陰,變至《剝》為十四陰,終其變於《隨》,成十六陰。
一陽は『復』卦より来復し、変じて『臨』卦に至って二陽を積み、変じて『泰』卦に至って四陽を積み、変じて『大壮』に至って八陽を積み、変じて『夬』卦に至って十四陽を積み、一路変じて『帰妹』に至りて終わり、合わせて十六陽と成る。一陰は『姤』卦よりはじまり、変じて『遯』卦に至って二陰を積み、変じて『否』卦に至って四陰を積み、変じて『観』卦に至って八陰を積み、変じて『剥』卦に至って十四陰を積み、一路変じて『随』卦に至りて終わり、合わせて十六陰と成る。これが『復』『姤』をもって小父母とし、層層に卦を生ずる算法である。底本の「央」「娠」「逐」はそれぞれ「夬」「姤」「遯」の訛字である。
八卦生六十四卦図
八卦変六十四卦図
陽卦順生
一升而合九,歸五為君;十降而合六,歸二為臣,此之謂陽卦順生也。
一が上に昇って九と会合し、第五爻位に帰して君と成り、十が下に降って六と会合し、第二爻位に帰して臣と成る。これを陽卦が順序に従って生ずると言う。
陰卦逆生
一降而合九,歸五為君;十升而合六,歸二為臣,此之謂陰卦逆生也。
一が下に降って九と会合し、第五爻位に帰して君と成り、十が上に昇って六と会合し、第二爻位に帰して臣と成る。これを陰卦が順序に逆らって生ずると言う。
復姤臨遯泰否六卦生六十四卦図
六十四卦反対変図
一陰五陽反對變六卦、一陽五陰反對變六卦、二陰四陽反對變十二卦、二陽四陰反對變十二卦、反對不變八卦、三陰三陽反對變二十四卦。
この図は陰爻・陽爻の多寡によって六十四卦をいくつかの組に分け、さらにそれらが二々に「反対」――すなわち卦体全体をひっくり返して見る――した後にいかに互いに変じるかを見るものである。一陰五陽の一組は、反対相変して六卦を得る。一陽五陰の一組は、反対相変して六卦を得る。二陰四陽の一組は、反対相変して十二卦を得る。二陽四陰の一組は、反対相変して十二卦を得る。ひっくり返してもなお本卦と同じで、反対して変わらないものは八卦ある。三陰三陽の一組は、反対相変して二十四卦を得る。六組を合わせて正しく六十四卦である。
乾坤易簡之図
乾、坤者,數之一、二也,形之方、圓也,氣之清、濁也,理之動、靜也。故乾具兩儀之意,而分上下,坤包四象之體,而分南、北、東、西。兩儀四象,共數有六,並其乾、坤之本體,則八卦之數周備矣。此乾、坤所以去太極未遠。內貞外悔,兩儀之理也。元亨利貞,四象之道也。二、三、四、五以為經,七、八、九、六以為緯,八卦之方也。
乾と坤は、数においては一と二、形においては方と円、気においては清と濁、理においては動と静である。ゆえに乾は両儀の意を含んで上下に分かれ、坤は四象の形体を包んで南・北・東・西に分かれる。両儀に四象を加えて都合六つの数となり、さらに乾・坤それ自体を加えれば、八卦の数は周全完備する。これこそ乾・坤が太極にまだ遠からぬ所以である。内卦を「貞」・外卦を「悔」と言うのは、これ両儀の道理である。元・亨・利・貞の四徳は、これ四象の道理である。二・三・四・五をもって経と為し、七・八・九・六をもって緯と為すのは、これ八卦の方位である。
所以自一而二,自二而四,自四而八,自八而十六,自十六而三十二,自三十二而六十四,六十四而天道備矣,歲功成矣,人事周矣。此《易》故六十四卦,而《乾》、《坤》居首也。學者能由六十四以歸一,由一以悟太極,則伏羲、文王、孔子皆備於我,成變化,行鬼神,亦是道也。
ゆえに一より二を生じ、二より四を生じ、四より八を生じ、八より十六を生じ、十六より三十二を生じ、三十二より六十四を生ず。六十四に至れば、天道は完備し、一年の節候の功用は成就し、人間の事理もまた周全となる。これが『易』の六十四卦を立て、『乾』『坤』の二卦を最も前に排する所以である。『易』を学ぶ者が、もし六十四卦より収め帰って一に至り、さらに一によって太極を体悟することができれば、伏羲・文王・孔子の学問はみな我に具備する。そして『繫辞』の言う「変化を成し、鬼神を行わしむ」もまた、この道理を述べたものである。
屯象之図
蒙象養正図
童蒙在五,擊之在上,是外學也。耳目所入,雖足以資吾,適足以賊吾之真性,故不利為寇也。包蒙在二,發之在初,是內學也。心之所造,貴於幾先,一吝也。著於心,便成機械,所以脫栓桔,利者,吾心之栓桔乎?
『蒙』卦の「童蒙」は六五に在り、来たりて彼を撃つのは上九に在る。これは外より加え入れられた学である。耳目の容納するものは、我を資け助けるに足るとはいえ、まさに我の真性を戕害せんとするものでもある。ゆえに上九の爻辞は「寇を為すは利ならず」と言う。「包蒙」は九二に在り、「発蒙」は初六に在る。これは内心より生発し出でた学である。内心の営み出すものは、几微いまだ動かざるの先に貴し。一たび滞吝し、心の上に執着すれば、機巧詐偽と成る。ゆえに桎梏を解脱せよ――真に人に利あるものは、まさに自己の心上のあの一具の桎梏を解き放つことではないか。
需須之図
坎中之陽以為助,乾卦之陽求待上,一陽而為之援,一陰避之而興進,一陰阻之而復退,此所以為《需》之吉凶也。然聖人之意,不責於二陰而責於三陽,不責於三陽而責於坎中之陽,利所在也,故責之重也,遂繫之以酒食之象焉。酒食者,養人之具也,人之所求待也。為酒食之所困,而為害者亦有之也。始貪其利,終罹其害者,小人之常也。必有道以處之,所以貴乎貞吉也。貞者,中正之義。內中正則外固,外固則不陷矣。
坎中のあの一陽は援助と成ることができ、乾卦の三陽は上に向かって求め待つ。一陽がそれのために後援を為し、一陰がそれを避けてそれを得て前進せしめ、また一陰がそれを阻んでそれを得て退回せしむ――『需』卦の吉凶はこのようにして来る。ただし聖人の用意は、上卦の二つの陰爻を責めずして下卦の三つの陽爻を責め、また三つの陽爻を責めるのみにとどまらず、さらに坎中のあの一陽を責める。それは利益がまさにここにあるから、責めるのが格段に重くなるのである。ここにおいてそれに「酒食」の象を繫ぐ。酒食は人を養うもので、人の望み待つところである。しかるに酒食に困りて、これによって害を受ける者もまた多い。はじめはその利を貪り、最後はその禍を被る、これは小人の常態である。必ず一組の道理をもってこれに対しなければならない。ゆえに『需』卦は「貞吉」を貴ぶ。「貞」はすなわち中正の意である。内が中正なれば、外は穏固となる。外が穏固なれば、険中に陥り落ちることはない。
訟象之図
乾居亥位,坎起子方,亥子皆北,皆屬於水,始無所爭也。一離於形,則天西傾,水束注;天上蟠,水下潤,於是而《訟》矣。
乾は亥位に居り、坎は子方より起る。亥と子はともに北方に在り、ともに水に属し、はじめに本より争うところなし。しかるに一旦形体の上に落ちれば、天は便ち西に傾き、水は便ち東に奔流する。天は上にて盤旋し、水は下にて浸潤して、一上一下が道に背きて行き、ここにおいて『訟』卦の争訟がある。底本の「束注」はすなわち「東注」である。
師比御衆図
《坤》為眾,而《師》亦為眾者,《師》統眾之義也。統眾者,非德也則不可。故以《乾》之九二入於《坤》為《師》,以《乾》德在二也。律因子起,數自中出。黃鍾之律,起為度量衡,差之毫釐,則不可也。北方之坎,黃鍾之本也,故縣言丈人,爻言律。丈與律,法度之出,非有德者乎?
『坤』卦は衆に象を取り、『師』卦もまた衆に象を取る。それは『師』に衆を統率する意があるからである。衆を統率するには、徳行なくば能わざる。ゆえに『乾』の九二の一爻を『坤』の中に放ち入れれば、すなわち『師』卦と成る。取るところは正しく乾徳が第二爻の上に落ちることである。律呂は子位より起算し、数目は中央より生ず。黄鐘というこの一律は、度・量・衡の起点であって、一絲一毫を差し違えてはならない。北方の坎は正しく黄鐘の根本である。ゆえに『師』卦の彖辞は「丈人」を言い、爻辞は「律」を言う。丈人と法律とは、いずれも法度の出ずるところである。徳ある者あらざれば当たるに足らないではないか。底本の「県」は「彖」の訛字である。
北主幽陰殺伐之象,南主嚮明朝會之象。六爻分二、三、四、五之數。二居南方,離明之地也,故以比為南面。五居中央,非北也。天北望,惟見斗樞、辰極。辰曰北辰,斗曰北斗,雖名曰北,實中天也。《師》北向,故有五人為伍之意。比南面,故有五等分爵之象。上居五位,後其君者也,故曰:後夫凶。
北方は幽暗陰冷・殺伐征討の象を主管し、南方は明に向かって治める・諸侯朝会の象を主管する。六爻の中より二・三・四・五のいくつかの位数を分かち出す。二は南方に在り、離明の居する地であるから、『比』卦は「南面」の象を取る。五は中央に居り、北方に在らず。人は地上より北を望み見れば、ただ斗枢と辰極のみ見える。辰を「北辰」と言い、斗を「北斗」と言う。名は北というも、実は正しく天の中央に当たる。『師』卦は北に面すから、五人をもって一伍に編する意がある。『比』卦は南に面すから、公・侯・伯・子・男の五等分封の象がある。上六は五位の後に居り、君主の背後に落ちる人であるから、卦辞に「後夫凶」と言う。
大小畜吉凶図
巽居東南之方,乾氣自子至於巳,入於巽方,為巽所畜,名曰《小畜》,以陰生於巽。巽,陰之微也,故曰小。艮居束北方,乾氣自子至寅,入於艮方,為艮所畜;名曰《大畜》者,陽終於艮。艮,陽之究也,故曰大。自子至寅,三畫之乾也;自子至巳,六畫之《乾》也,是艮畜《乾》貞,巽畜《乾》悔也。《大畜》之所以得權者,變《小畜》之九五而六五耳,謙虛下人,所以得權而畜人也。《小畜》之所以失權者,變《大畜》之六五而九五耳,滿假自大,所以失權而為人所畜也。
巽は東南方位に居り、乾気は子位より一路巳位に行って巽方に入り、巽に畜止せらる。これを『小畜』と言う。陰気が巽に生ずるに因り、巽は陰気の剛(ちょっと)萌動する処であるから「小」と称す。艮は東北方位に居り、乾気は子位より寅位に行って艮方に入り、艮に畜止せらる。これを『大畜』と言う。陽気が艮に終止するに因り、艮は陽気の究極に到る処であるから「大」と称す。子より寅に至るまでは、ただ三画の乾である。子より巳に至って、はじめて六画の『乾』である。見れば、艮の畜止する所は『乾』の内卦(貞)であり、巽の畜止する所は『乾』の外卦(悔)である。『大畜』が権を握り得る所以は、ただ『小畜』の九五を六五に換えたに在る――謙虚にして人の下に居るを肯んずれば、権を得て能く人を畜止する。『小畜』が権を失う所以は、ただ『大畜』の六五を九五に換えたに在る――自満自大すれば、権を失って反って人に畜止せらる。
履虎尾之図
乾居亥位,初爻本室、壁,二爻方起奎;奎擊之者,見其履虎尾也。坤居申位,參本坤之初爻;以參繫兌者,見虎尾之啞人也。乾居兌下,則無履虎啞與不啞之象矣。以乾乘兌,所以履虎之象明也。《履》卦自兌入乾,由戌達亥,以人應天之道乎。
乾は亥位に居り、初爻は本より室宿・壁宿に当たり、二爻はようやく奎宿より起る。奎宿に撃つの義があるから、「虎の尾を履む」の象を見出す。坤は申位に居り、参宿は本より坤の初爻である。参宿を兌に係属せしむれば、虎尾が人を咬むの象を見出す。もし乾が兌の下に居らば、虎尾を履み、人を咬むと咬まざるとの象はない。正しく乾が兌の上に凌駕するが故に、「虎を履む」の象が顕豁たる。『履』卦は兌より乾に入り、戌位より亥位に通ず。これはおそらく人事をもって天道に上応する意であろう。底本の「唖」は「咥」の訛字である。
否泰往来図
觀《泰》之象,則見《否》之所生;觀《否》之象,則見《泰》之所起,是陰陽之氣上下升降以成象也,故《否》、《泰》之卦,皆曰往來。
『泰』卦の象を観れば、『否』卦がどこより生ずるかを見ることができる。『否』卦の象を観れば、『泰』卦がどこより起るかを見ることができる。これは陰陽二気が一上一下・有升有降して構成する卦象である。ゆえに『否』『泰』両卦の辞の中にみな「往」と「来」とを言う。
同人之図
乾居上三十六策,變其中爻,則同乎離。離居下二十四策,變其中爻,則同乎乾。是謂二人同心,言外貌不同,而心同也。
乾は上に在り、老陽の一爻は三十六策に当たる。その中爻を一変すれば、すなわち離に同ず。離は下に在り、老陰の一爻は二十四策に当たる。その中爻を一変すれば、すなわち乾に同ず。これを『繫辞』のいう「二人同心」と言う――外は同じからざれど、心は同じであるということである。
大有守位図
《大有》之卦眾陽盛時,而五以六居之,人君體元以居正,可不知守位之仁乎?推而明之,四為侍從,則曰匪其旁;三為三公,則曰公用亨于天子;二為侯牧,則曰大車辦載;初遠於君位,有要荒蠻夷之象,則曰無交害。皆發政施仁之道也。如是,則福及宗廟,而永有萬世之業矣。
『大有』というこの一卦は、まさしく衆陽の盛んなる時に当たり、而して第五爻は陰柔の六をもって君位に居る。人君が乾元を体して正位に居るに、位を守るに要する仁徳を知らざるべからんや。推し広げて言えば、四爻は侍従の臣であるから爻辞に「其の彭に匪ず」と言い、三爻は三公であるから爻辞に「公用て天子に亨す」と言い、二爻は諸侯州牧であるから爻辞に「大車以て載す」と言い、初爻は君位に最も遠く、要服・荒服と蛮夷との象があるから爻辞に「交害無し」と言う。これらはみな政令を発し仁政を施すの道理である。能くこのようになれば、福沢は上は宗廟に及び、万世の基業もまた長久に保有することができる。底本の「匪其旁」は「匪其彭」と作るべく、「辦載」は「以載」と作るべきである。
謙象之図
艮居寅,屬木,仁也。坤居申,屬金,義也。故五上有殺伐之象。謙者,以至誠為本也,言心聲也。不情之言,則不出於誠,非心之本也,是為偽也。故嗚謙居中者為至誠,居外者為不情,是以謙為嗚耳,外謙而內好勝也。
艮は寅位に居り、木に属して仁を主とし、坤は申位に居り、金に属して義を主とす。ゆえに『謙』卦の六五・上六は殺伐の象を帯ぶ。謙というこの一徳は、至誠をもって根本とする。言語は心の声である。真実でない言は誠の中より発するものではなく、本心ではない、すなわちそれは虚偽である。ゆえに「謙を鳴らす」もので内卦に居するは至誠であり、外卦に居するは真実でない――それは謙を口上に鳴らすのみに過ぎず、外は謙退にして内は勝を好むのである。底本の「嗚」はすなわち「鳴」の字である。
豫象之図
震居坤下,是謂一陽之《復》,天地之心也。今出於坤上,是謂出地之《豫》,亦天地之心也。坤中之爻,靜中之靜也,故曰:介于石。震中之爻,動中之靜也,故曰:貞疾,恆不死。
震が坤の下に在る、これはすなわち一陽の来復する『復』卦で、『彖伝』のいう「天地の心」である。今震が出でて坤の上に在る、これはすなわち雷が地より出づる『豫』卦で、同じく天地の心である。坤の中間のあの一爻は、静中の静である。ゆえに六二の爻辞は「石に介す」と言う。震の中間のあの一爻は、動中の静である。ゆえに六五の爻辞は「貞に疾あり、恒に死せず」と言う。
随卦繫失図
自震達兌,由東祖西,春作秋成之義也。夫是之謂《隨》,陽自陰中而起,陰隨陽動也。陰來迎陽而說之,陽隨陰聚也。故兌之上爻,有羈摩之象。
震より一路兌に走り、東方より西方に往く。春に興作し秋に成熟する意を含み、これを『随』と言う。陽は陰の中より生起し、陰は便ち陽に随いて動く。陰はまた来たりて陽を迎えてこれに欣悦し、陽は便ち陰に随いて聚まる。ゆえに兌の上爻は羈絆繋縛の象を帯ぶ。底本の「祖西」はすなわち「徂西」で、西に往くの意である。
蠱象之図
巽居巳位,金之所生也。至酉金王,而巽之功成矣,故巽五爻言庚。今在艮下,猶居寅位木之鄉也,故言甲。甲庚分子午之位,循環無窮,行權之道也。金克於木,今居於木下,是蠹生於木中也。有蠱,自然之象。上九居山之高,有高上之志,足以振蠱壞之風使懦夫有立焉。
巽は巳位に居り、あれは金の生ずる処である。酉位に至って金気は正に旺し、巽の功用は成を遂ぐる。ゆえに『巽』卦の九五の爻辞は「庚」を言う。今巽は艮の下に在り、なお寅位という木の郷里に処る。ゆえに『蠱』卦の卦辞は「甲」を言う。甲と庚とは子・午両辺の位次に分居し、循環窮まらず、これ正しく権変を行使する道理である。金は本より木を克すれども、今は木の下に居る。ちょうど蠹虫が木中に生ずるがごとき、「蠱」というこの虫蝕敗壊は、自然必然の象である。上九は山の高処に居り、高尚にして上にあるの志を有し、足して蠱壊せられた風気を振い起こし、懦弱の人をも自ら立たしむ。
臨象之図
《臨》卦之象,本指為人主者,以臨乎下也。臨下之術,在施德於下,而存心於上。施德於下,則二陽在下,如天氣感地焉。存心於上,則行中以智,而敦樸為先,如高明柔克焉。彼兌口之甘,是區區能言而不能行,如王者空降詔諭丁寧,而仁澤實不行也。何足以論施德存心之道哉?
『臨』卦の取象は、もとは人君たる者が高く臨み下に臨むことを指す。下に臨むの法は、恩徳を下に施し、用心を上に存留するに在る。徳を下に施すとは、二つの陽爻が下に在りて、天気の大地に感応するがごときである。心を上に存するは、行事は中を守りて智慧を運用し、かつ敦厚質朴を以て先とする。『尚書・洪範』のいう「高明柔克」のごときである。兌口の取る甘美の象に至っては、あれはただ能く言うのみにして能く行わざるに過ぎない。ちょうど君王が空しく詔書を頒ちて諄諄と告誡するも、仁沢は実には行い下がらざるがごとき。これどうして徳を施し心を存するの道理を語るに足らん。
観国光之図
四陰生,陰侵陽之卦也。比之於陽侵陰,乃《大壯》之理也。不曰《小壯》,而曰《觀》者,陰順巽而無侵陽之意也。下既順巽,上必以中正,然後足以使下觀而化焉;下觀而化矣,則安有侵陽之事乎?
『観』卦は四つの陰爻が生長して、陰が陽を侵逼する卦である。これをもって陽が陰を侵す情形に比照すれば、それは『大壮』の道理である。しかるにこれを「小壮」と呼ばずして『観』と呼ぶは、陰が能く柔順謙巽にして陽を犯すの意なきが故である。下がすでに柔順謙巽であれば、上は必ず中正を持守して、然る後に下の人をして瞻仰観看して感化を受けしむるに足る。下がすでに瞻仰し化を受ければ、なお陽を侵逼する事あらんや。
噬嗑身口象図
《噬嗑》本以口為象,而趾、鼻、耳、目亦繫之者,蓋一身賴口以為養也。養之有道,噬嗑之福;養不以道,噬嗑之禍。禍多福少,小人貪嗜者多也。《噬嗑》,先電而後雷也,電揚而雷震,舌動而齒咀,此自然之理也。《噬嗑》與《賁》,皆《頤》中有物。一為《賁》,一為《噬嗑》者,噬嗑得《頤》之下動,《賁》得《頤》之上止。惟下動,則《噬嗑》矣。
『噬嗑』は本より口に象を取る。而して爻辞の中に脚指・鼻・耳・目をも併せ繫ぐるは、一身が口に由りて養わるるを以ての故である。養うこと道に合すれば、すなわち噬嗑の致す福である。養うこと道に合せざれば、すなわち噬嗑の致す禍である。禍多く福少きは、小人の美味を貪食する者多きを以ての故である。『噬嗑』は先に閃電ありて後に雷あり、電光揚がりて雷の声震動するは、ちょうど舌が先に動きて歯が随いて咀嚼するがごとき、これ自然の理である。『噬嗑』と『賁』の二卦は、いずれも『頤』口の中に物を含む。一つは『賁』と成り一つは『噬嗑』と成るは、『噬嗑』は『頤』の下卦の動を取り、『賁』は『頤』の上卦の止を取るが故である。ただ下卦が動き起これば、こそ『噬嗑』と成るのである。
賁天文之図
柔文剛以成離,離為日,日運於天,其亨之意也。剛文柔以成艮,艮,山也;山不動,而云出為雨,木伐以為用,其小利有攸往乎。然孔子皆謂之天文,而不及地者,蓋觀象以作《象》也,象有日月迦明之象也。日月因迦明而合朔,朔晦相循而四時成矣,此所以察時變也。《離》有繼明之意,而《賁》變《離》之四爻,日月相抱持也,此所以為天文之要道焉。
柔が来たりて剛を文飾して離と成る。離は太陽であり、太陽は天に運行す、これすなわち卦辞の「亨」の意である。剛が上がりて柔を文飾して艮と成る。艮は山である。山は静止不動なれど、能く雲を興し雨を降らし、山木は伐採取用すべし、これおそらく「小しく往く攸有れば利」の意であろう。しかるに孔子が『彖伝』においてこれを「天文」と称して地を言わざるは、卦象を観察して『彖』を作ればこそ、卦象の中に日月が交替し放明する象がある。『離』は続いて照明する意がある。而して『賁』は正しく『離』の第四爻を一変して来たり、日と月とが互いに抱持す、これが天文の要道と成る所以である。底本の「迦明」はすなわち「迭明」である。
剥為陽気種図
《復》卦之下陽,即《剝》之上陽落於地也,故有碩果不實之象。其陽氣之種乎,所以《乾》為木果,而生木於亥也。亥者,《乾》之位也。木有生而未芽,芽則生子者,孳也。未芽之果,本於《剝》上之陽,如果在木末焉。
『復』卦の下のあの一陽は、すなわち『剥』卦の上のあの一陽が地の中に落ちたものである。ゆえに『剥』の上九に「碩果食せられず」の象がある。この一陽はおそらく陽気の種子であろう。ゆえに『説卦』は『乾』を木果と為すと言い、而して木は亥位に生ず――亥は正しく『乾』の方位である。果実にはすでに生成してなお発芽せざる時があり、一たび発芽すれば子実を結ぶ。いわゆる「芽」とは滋生の意である。あのいまだ発芽せざる果実は、本源は『剥』卦の上九のあの一陽に在り、ちょうど果がなお樹梢に掛かっているがごときである。
復七日図
爻位者,實數之六也。太極者,虛數之六也。虛數之六,本於含三之積算。含三之積籌,本於園物之徑一。故天下之數十、百、千、萬,莫不出乎六。六數進則為七,退則為五,是五為六之未盈,六為五之已滿,過則為七矣。六為極矣。
爻位が言うのは実在の六であり、太極が言うのは虚設の六である。虚数の六は、根源は「一に三を含む」の累算に在り、「一に三を含む」の累算は、また円形の物が直径一・周長三であることに根源する。ゆえに天下の十・百・千・万の各種の数目は、六より生ぜざるものなし。六というこの数は、前に進めば七と成り、後に退けば五と成る。見れば、五は六のいまだ満たざるであり、六は五のすでに満ちたるであり、さらに前に進めば七と成る。六はすでに極数である。
一陽生,則七日來復也;二陽生,則八月有凶也。七為少陽,八為少陰。日為震,月為兌。《臨》雖陽長,而實得八兌之數也,故日有凶於八月也。《復》卦一陽來復,曰七日者,蓋《坤》陰極於亥,六數盡於一,復出於坎,並而得七也。數周六甲,運周三統,而復為元,亦七日來復之義云耳。
一陽はじめて生ずれば、すなわち「七日にして来復す」と言う。二陽が生長すれば、すなわち「八月に凶あり」と言う。七は少陽の数、八は少陰の数である。日は震に属し、月は兌に属す。『臨』卦は陽が生長するなれど、実は兌八というこの数を得ている。ゆえに凶は八月にあると言う。『復』卦は一陽来復して「七日」と称すは、『坤』の陰気が亥位に至りて窮極し、六という数が一の上に用い尽くされ、陽がまた坎中より重新たに出づれば、六に一を加えてすなわち七を得るが故である。数目は一周流すれば六十甲子、気運は一周流すれば天・地・人の三統、而して後重新たに一元と成る。言う所もやはり「七日にして来復す」の意である。
无妄本中孚図
《中孚》,信也。而《元妄》,亦信也。《中孚》之信,其自然之誠乎。《元妄》之信,是或使之也。故曰:剛自外來,而為主於內。誠信之道,本自中出。而中者,亦中之為主也。自外來,而為內主,安得自然哉?以異乎《中孚》也。
『中孚』が言うは信であり、『无妄』が言うもまた信である。『中孚』の信は、おそらく自ら而して然る誠であろう。『无妄』の信は、これを然らしむる何物かあるのである。ゆえに『彖伝』は「剛は外より来たりて、内に主と為る」と言う。誠信の道は、本より内心の中より生ずべきもので、いわゆる「中」とは、すなわち中を以て主と為すことである。今は外より来たる物が内裏の主を為す、どうして自然と称するに足らん。これが『无妄』と『中孚』との同じからざる処である。底本の「元妄」はすなわち「无妄」で、『道蔵』本の改字である。
頤霊亀図
《頤》中虛,虛則靈龜之象。君子見之,以靈龜自警。小人見之,以朵頤垂涎。三為下齒,噬之動者也,故凶甚於二、五。三之所以動者,因初有震象耳。
『頤』卦の中間は空虚で、空虚であればすなわち霊亀の象がある。君子はこれを見て、便ち霊亀を取って以て自ら警戒し、小人はこれを見て、ただ口を開けて涎を垂らすのみである。六三は下に排する歯牙で、噛み啃むに動くこと最も甚しい。ゆえにその凶険は六二と六五を超過する。六三の動く所以は、初九が震動の象を帯ぶが故である。
大過棟隆橈図
《大過》一卦,吉凶在初與上也。棟之隆,以應藉地之茅,慎之至也;棟之橈,以應滅木之水,乃大過也,故《大過》之縣辭見於九三也。陽氣驕為大者過。九二配以少陰,故能發生枯楊之梯者,揚之茅擠耳。九五配以老陰,發生之理窮矣。遂有枯楊生華象,象楊不能結實,為萌芽也。
『大過』というこの一卦は、吉凶は初爻と上爻に落ちる。棟梁の隆起するは、初六の「藉に白茅を用う」に相応する。あれは謹慎の極致である。棟梁の湾曲下垂するは、上六の「渉を過ぎて頂を滅す」の水に相応する。あれこそ真に「大過」である。ゆえに『大過』の彖辞の意は九三の上に反映される。陽気の驕盛は、いわゆる「大きい者過ぐ」である。九二に配する所は少陰の初六である。ゆえに枯楊に新枝を発せしむることを得る。あれはただ楊樹の抽出したる嫩条に過ぎない。九五に配する所は老陰の上六である。生発の道理はすでに窮尽し、ここにおいて枯楊の開花の象のみ残る――花は開けども、楊樹は果実を結ぶことを得ず、芽を萌すこともできない。底本の「梯」は「稊」と作るべく、「県」は「彖」と作るべきである。
習坎行険図
《坎》之《象》曰:維心亨。是心無善惡之思,無喜怒哀樂之動。一入於習,則同者變為異也,故《坎》卦始終象小人習險以自陷其身,戒人用心之惡也。且陰陽者,善惡之端也,動靜之分也。心之動,則惡萌矣。陽動而陰靜,陽善而陰惡,六三以陰居陽,所以為惡之大也;又陷於二陰之中,是染習皆惡也。
『坎』卦の『彖伝』は「惟れ心亨る」と言う。これは心に本より善悪の念なく、また喜怒哀楽の波動なしと言う。一旦「習」の中に落ち入れば、本より相同じきが便ち同じからざると成る。ゆえに『坎』卦は自初から終まで、小人が険悪に習いて自ら其身を陥れるを象徴し、用意は人の心を悪処に用うべからずと誡めるに在る。況んや陰陽は正しく善悪の端倪・動静の分界である。心が一たび動けば、悪は便ち萌生する。陽は動に属し陰は静に属し、陽は善に属し陰は悪に属す。六三は陰爻を以て陽位に居る。ゆえに悪の大なる者と為り、また二つの陰爻の当中に陥る。見れば、熏染沾習する所は全く皆悪である。
六四以陰居陰,靜之至也,是復性而反誠也,又居於二陽之問,是染習皆善也。故樽酒、篡貳用缶,有簡率敦樸之象。二五雖以陽中,然未免陷二陰之黨,染習之氣不能免也。孔子所以指之以未出中,中未大之象也。
六四は陰爻を以て陰位に居り、静の極致に至る。これは本性に回復し誠実に返帰するものである。また二つの陽爻の間に処る。見れば、熏染沾習する所は全く皆善である。ゆえに六四の爻辞に「樽酒・簋貳・用缶」の言ある、簡朴率真・敦厚無華の象を帯ぶ。九二と九五は陽剛を以て中に居るなれど、二つの陰爻の党羽の中に陥るを免れず、熏染の気を完全に免除し能わず。ゆえに孔子が『小象』においてそれらの「未だ中を出でず」「中未だ大ならず」の象を指出せし。
離継明図
下卦《離》之貞也,上卦《離》之悔也,是下卦為貞明,而上卦為繼明也。月者,趨日以明也。合朔之時,月包於日,而後趨其明也。此上卦所以包下卦,有日月趨明之象也。離為日而不為月,在重離則月象生焉。故曰明兩也;又曰日月麗乎天也。六二黃離,是自中而明也,所謂誠明之性也。六五有哀悲之象者,是既望之月,而將遠於日也,亦明極而晦生也。
下卦は『離』の内卦で「貞」と称し、上卦は『離』の外卦で「悔」と称す。ゆえに下卦は本有の明で、上卦は接続の明である。月は太陽に趨り就いてこそ光明を有す。合朔の時、月は日に包まれて、然る後に去りてその光を趨取する。これが上卦が下卦を包住して、日月が相い趨り明を取るの象を帯ぶ所以の故である。離は本来日にして月に非ざれども、重離の中において月の象が生じ出づ。ゆえに『彖伝』は「明両に作る」と言い、また「日月は天に麗る」と言う。六二の「黄離」は、中道より光明を放出するもので、いわゆる誠にして後に明の本性である。六五は哀傷悲嘆の象を帯ぶ。あれは望日の後の月で、将に太陽よりますます遠く離れ去らんとし、まさに明が極処に到りて昏晦が生じ始めるものである。
咸朋従図
一氣居中,故澤之雲蒸于山,而山之泉入於澤,是山澤之相感也。卦有三陽,而九四居中,中心象也。惜乎朋於二陽,未免有意有必,有固有我,故僮憧而往來也。九五上連於上六,是用在上六也,故上六為頰、舌,而五為脾。九三下連於六二,是用在六二也,故六二為腓,而三為股。股隨腓而動,脾則不隨頰、舌以發言,此吉凶所以異也。
一筋の気が中間に貫通する。ゆえに沢上の雲気は山上に蒸騰し、山中の泉水はまた沢の中に流れ入る。これが山と沢とが互いに感応する所以である。『咸』卦は三つの陽爻があり、而して九四は当中に居る。これが正しく「中心」の象である。惜しいかな、それが他の二つの陽爻と朋党を結びて、意・必・固・我という四種の私心を免れず。ゆえに爻辞は「憧憧往来」と言う。九五は向上して上六に連なり、作用は上六の身に落つ。ゆえに上六は面頰と舌頭に象を取り、九五は背脊の肉に象を取る。九三は向下して六二に連なり、作用は六二の身に落つ。ゆえに六二は腿肚に象を取り、九三は大腿に象を取る。大腿は腿肚に随って動くが、背脊の肉は頰舌に随って言を為さない。両者の吉凶はこれによって同じからず。底本の「脾」は「脢」と作るべく、「僮憧」はすなわち「憧憧」である。
恒久之図
六爻惟取九二一爻,得一剛一柔之道而居中,孔子與之以能久中之象。六五雖一剛一柔而居中,然與共天位者亦柔也,故有婦人之貞從一之象,所以異於二矣。九三以剛居剛,動而過中,不恆之象,固不符言也。初、上爻二爻,一浚以趣下,一振而向上,皆迷塗之甚者,不得其中,故皆凶。
『恒』卦の六爻の中、ただ九二のこの一爻を取る。それが一剛一柔の道を兼得してまた中位に居るが故である。ゆえに孔子が『小象』においてそれに「能く久しく中なり」の象を与えた。六五もまた一剛一柔にして中に居るなれども、それと共に天位に居する者もまた柔である。ゆえに婦人が貞を守り一に従って終るの象を帯び、これによって九二と同じからず。九三は陽剛を以て剛位に居り、一たび動けば中道を過ぐ。これは「恒ならず」の象で、これは自然多く言うを要せず。初六と上六のこの二爻は、一つはひたすら深く掘りて下に趨り、一つはひたすら振動して上に奔る。いずれも迷路に入ること甚だしく、いずれも中道を得ず。ゆえにいずれも凶である。
遯象之図
二以中順之德,而取象於黃牛。牛之所以能負重者,革之堅也。牛無革,則機上肉耳,何能為或?九三以剛居外,有革之象,三苟隨《乾》以遯,則二遇禍矣。此所以勸其執之也。
六二は居中柔順の徳性を憑りて、黄牛に象を取る。牛が重物を背負い得る所以は、牛皮が堅韌するに恃む。牛にもしこの一層の皮が無ければ、砧板上の肉に過ぎず、また何の作為か有らん。九三は陽剛を以て外に居り、「革」の象を帯ぶ。九三がもし『乾』と共に隠遁せんとすれば、六二は禍を遭う。これが六二の爻辞が人に黄牛の革を以てそれを固く繫ぐを勧める所以の故である。
四陰以九居之,下應於初六,故曰好。好者,交好也,是陰位下交於陰爻也。五陽以九居之,下應於六二,故曰嘉。嘉妃也,是陽位之陽爻下妃於陰位之陰爻也。陰妃於我,交於我;小人不可交,則與之絕,此所以吉矣。妃則吾正偶耳,是不能絕也,故但正其志焉。吾之志正,則淫邪非僻不能入矣。此所以為貞吉雲。
第四位は本より陰位なるも、陽九が之に居り、下は初六と相応ず。ゆえに爻辞は「好遯」と言う。「好」とは交好で、陽爻が陰位に居りて下向して陰爻と交好することを指す。第五位は本より陽位で、陽九が之に居り、下は六二と相応ず。ゆえに爻辞は「嘉遯」と言う。「嘉」とは婚配で、陽位上の陽爻が下向して陰位上の陰爻と相配することを指す。陰が来たりて我と相配し、我と交往す。小人は交結すべからざるものであるから、これと断絶するを要す。こうすれば吉である。婚配するあの者に至っては、我の正当の配偶で、断絶すべからず。ゆえにただ自己の心志を端正すれば足る。我の心志が一たび正しければ、淫邪偏僻のものは侵し入ることができない。これが「貞吉」の意である。
