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豫卦(第十六)

宋 · 苏东坡 · 第4巻 / 11

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

震上,坤下。“豫”:利建侯行師。“豫”之言暇也。暇以樂之,謂“豫”。建侯所以“豫”,“豫”所以行師也,故曰“利建侯行師”。有民而不以分人,雖欲“豫”可得乎?子重問晉國之勇,欒針曰:“好以暇。”是故惟暇者為能師。

豫卦の上卦は震(雷)、下卦は坤(地)である。卦辞はいう、豫、侯を建て師を行うに利あり、と。「豫」の意は従容にして余暇あること。余暇あってのち能くその楽を安享す。これを「豫」と呼ぶ。諸侯を分封するは、上に在る者に余暇あらしめんがため。余暇あってはじめて兵を興すに談ずるに足る。ゆえに「侯を建て師を行うに利あり」という。手に百姓の土地を攥んで人に分つを肯んぜざれば、「豫」せんと欲すも、豫しえんや。《左伝・成公十六年》に鄢陵の戦いを記す。楚の子重が晋人に何を恃って勇を称するかを問うと、晋の大夫欒鍼は答えていう、「好んで暇を以てす(好以暇)」——晋人は従容不迫を貴ぶ。見れば、従容にして暇ある者のみが、軍隊を帯び動かしうる。

《彖》曰:“豫”,剛應而志行,順以動,“豫”。“豫”,順以動,故天地如之。言天地亦以順動也。而況建侯行師乎?天地以順動,故日月不過,而四時不忒。聖人以順動,則刑罰清而民服。上以順動,則凡入於刑罰者,皆民之過也。

《彖伝》はいう、豫卦は、九四この一陽爻が衆陰の応を得て心志が行われ、衆情に順って動く。ゆえに豫と呼ぶ。豫はすでに順に応じて動くならば、天地の運行もまたこの外に出ず。これは天地もまた自然の理に順って動くを言う。《彖伝》は続けていう、いわんや諸侯を分封し軍隊を出動するがごとき類をや。天地は理に順って動く。ゆえに日月の運行に差錯なく、四時の更替に閃失なし。聖人は理に順って動く。されば刑罰は清簡にして百姓は服す。上に在る人はすでに理に順って動くならば、およそ自ら刑罰の中に落ちる者は、皆百姓自身の過失である。

“豫”之時義大矣哉!卦,未有非時者也。時未有,無義;亦未有無用者也。苟當其時,有義、有用,焉往而不為大?故曰“時、義”,又曰“時、用”,又直曰“時者”,皆適遇其及之而已。從而為之說,則過矣;如必求其說,則凡不言此者,皆當求所以不言之故,無乃不勝異說而厭棄之歟?盍取而觀之,因其言天地以及聖人王公,則多有是言,因其所言者大,而後及此者則其言之勢也。是說也,且非獨此見天地之情者四,“利見大人”者五,其餘同者不可勝數也,又可盡以為異於他卦而曲為之說歟?

《彖伝》は末に嘆じていう、豫卦の値する時、その含む義、実に大なるかな、と。実は六十四卦にそれぞれその時なきはなし。時あれば義なきもなく、用なきもなし。すでにその時に正当り、また義あり用あるならば、どの卦に擺ても皆「大」と言いえよう。ゆえに《彖伝》はあるいは「時義」といい、あるいは「時用」といい、あるいはただ一の「時」のみを言う。皆不過行文が恰好そこに至ったに過ぎない。後人がこの数処を捉えて別に一套の説を立てれば、すなわち過頭である。もし必ずそのために道理を見出さんとすれば、およそこの句を言わざる卦にも、皆その言わざる縁由を見出さざるべからず。それはあに尽きざる異説に圧されて堪えず、終に索性一概に厭棄せんか。いさぎよく《周易》の通篇を取りて一見せよ。およそ《彖伝》が天地および聖人王公に講ずる処には、この類の讃語は多い。まさに講ずる対象が大なるがゆえに、随ってこの一句を帯び出す。もと文勢が自然に然るなり。ただこの一類を就けて言うも、ただ豫卦のこの一処のみならず。《彖伝》の中に「天地の情を見る」と講ずるは四卦あり、「大人を見るに利あり」と講ずるは五卦あり、其余の彼此雷同は更に数え勝たず。あに能く一概に別卦と異なると為して、曲意にそのために説を立てんや。

《象》曰:雷出地奮,“豫”;先王以作樂崇德,殷薦之上帝,以配祖考。初六:鳴豫,凶。《象》曰:“初六鳴豫”;志窮凶也。所以為“豫”者,四也;而初和之,故曰“鳴”。已無以致樂,而恃其配以為樂,志不遠矣,因人之樂者,人樂亦樂,人憂亦憂,志在因人而已,所因者窮,不得不凶。

《象伝》はいう、雷が地より出でて震い奮い、万物奮作す。これが豫卦である。先王はこれにより音楽を作りて功徳を崇め、殷く上帝に薦り、祖考を以て之に配す、と。初六の爻辞はいう、人に応和して楽を取る。凶、と。《象伝》はいう、「初六鳴豫」は志窮まりて凶を致す、と。全卦を豫たらしめるは九四である。初六はこれと相応じて唱和す。ゆえに「鳴」という。自ら人を楽しませる本事を出しえず、ただ相応ずる九四に倚って楽を取る。こ志は則ち長遠ならず。およそ快楽が人を憑藉するものは、人が楽しめば彼も楽しみ、人が憂えば彼もまた憂うるほかなく、心思は全く人に依傍する上に在り。一たび依傍する所のあの一頭が窮まれば、彼は凶ならざるを得ない。

六二:介于石,不終日,貞吉。《象》曰:“不終日,貞吉”,以中正也。以陰居陰,而處二陰之間,晦之極,靜之至也。以晦觀明,以靜觀動,則凡吉凶禍福之至,如長短黑白陳乎吾前,是以動靜如此之果也。“介于石”,果於靜也;“不終日”,果於動也;是故孔子以為“知幾”也。

豫卦の六二の爻辞はいう、石に介するがごとく耿介にして、終日ならずして貞なれば吉、と。《象伝》はいう、「終日ならず、貞吉」は中に居りて正を得るによる、と。六二は陰爻をもって陰位に居り、また初六・六三の二つの陰爻の間に夾まる。これは晦暗の極処、安静の極処である。晦暗の地を以て明るい処を看、静定の心を以て動象を看れば、吉凶禍福が一たび眼前に至れば、長短黑白が眼前に擺たるがごとく分明である。ゆえにそれは静なりとも動なりともこのごとく果決である。「石に介す」は静なるの果決、「終日ならず」は動なるの果決。ゆえに孔子は《周易・繋辞下》に六二を「幾を知る」と称許す。事の剛に起きる苗头を見る能くするなり。

六三:盱豫,悔;遲有悔。《象》曰:“盱豫”有“悔”,位不當也。以陽居陽,猶力人之馭健馬也,有以制之。夫三非六之所能馭也,乘非其任而聽其所之,若是者,神亂於中而目盱於外矣。據靜以觀物者,見物之正,六二是也;乘動以逐物者,見物之似,六三是也。物之似福者,誘之;似禍者,劫之。我且睢盱而赴之,既而非也,則後雖有誠然者,莫敢赴之矣。故始失之疾,而其終未嘗不以遲為悔也。

豫卦の六三の爻辞はいう、盱として豫すれば悔あり、遅れても悔あり、と。《象伝》はいう、「盱豫」にして「悔」あるは位が当たらざるによる、と。もし陽爻をもって第三のこの陽位に居らば、力大なる人が烈馬を駕馭するがごとく、なおこれを制しうる。しかるに第三爻のこの位は、陰柔の六の駕馭しうる所にあらず。職に称わざる位子に坐りて、あの馬の乱走に任せば、人は心神内に慌て、眼は外に瞪大して張望す。静定を守りて事物を観察する者は、事物の真相を見る。六二がしかり。躁動に裹挟されて事物を追逐する者は、事物の假相を見るのみ。六三がしかり。福に似たるを見れば来りて彼を引誘し、禍に似たるを見れば来りて彼を劫持す。彼は眼を瞪えて扑し上がり、事後にはじめて然らざるを知る。さらば後日たとえ真に実在の好事に遇うも、彼は再び扑し上がるを敢えてしない。ゆえに初めは太急に失し、最終はまた遅疑によりて悔いるを免れない。

九四:由豫,大有得;勿疑,朋盍簪。《象》曰:“由豫,大有得”,志大行也。“盍”,何不也;“簪”,固結也。五陰莫不由四而“豫”,故“大有得”。“豫”有三“豫”、二“貞”。三“豫”易懷,而二“貞”難致。難致者疑之,則附者皆以利合而已。夫以利合,亦以利散,是故來者、去者、觀望而不至者,舉勿疑之,則吾朋何有不固者乎?

豫卦の九四の爻辞はいう、豫に由り、大有り得たり。疑う勿れ、朋曷ぞ簪めざる、と。《象伝》はいう、「豫に由り、大有り得たり」はその心志が大行なるを言う、と。「盍」は「何ぞ~せざる」、「簪」は牢固に結聚すること。五つの陰爻は九四を恃って豫を得ざるはなし。ゆえに「大有り得たり」。豫卦の六爻の中に、「豫」を以て名と為すは三爻あり(初六の鳴豫、六三の盱豫、上六の冥豫)、「貞」を以て名と為すは二爻あり(六二・六五)。三つの「豫」は招き易く、二つの「貞」は招致し難い。もし招致し難きがために彼らを疑えば、依附して来るは皆利を以て相合する者のみ。利を以て相合する者は、また必ず利を以て相散ず。ゆえに来る者、去る者、観望してなお来らざる者に対し、一概に猜疑する勿れ。さらば我が朋党に結び牢くならざるの何あらん。

六五:貞疾,恆不死。《象》曰:“六五貞疾”,乘剛也;“恆不死”,中未亡也。二與五,皆“貞”者也。“貞”者不志於利,故皆不得以“豫”名之,其“貞”同,其所以為“貞”者異,故二以得吉,五以得疾也。二之“貞”,非固欲不從四也,可則進,否則退,其“吉”也,不亦宜乎?五之於四也,其質則陰,其居則陽也。質陰則力莫能較,居陽則有不服之心焉。伕力莫能較而有不服之,則其貞足以為疾而已。三“豫”者皆內喪其守,而外求“豫”者也,故小者“悔吝”,大者“凶”。六五之“貞”,雖以為疾,而其中之所守者未亡,則恆至於不死。君子是以知“貞”之可恃也。

豫卦の六五の爻辞はいう、貞にして疾、恒に死せず、と。《象伝》はいう、「六五貞疾」は剛爻の九四の上を凌乘するによる。「恒に死せず」は中に居りて守る所未だ喪わざるによる、と。六二と六五は皆「貞」者である。「貞」者は利を求めるを心とせず。ゆえに両爻とも「豫」の字を用いて名と為さず。それらの貞は同じく、然るに貞たる所以の縁由は同じからず。ゆえに六二は吉を得て、六五は病を得る。六二の貞は、存心に九四に順従せざるを肯んじざるにあらず。進むべければ進み、進むべからざれば退く。それが吉を得るは甚だ当然ではないか。六五が九四に対しては然らず。その質地は陰に属し、居る位子は陽に属す。質地が陰に属すれば、力量は人に較量しえず。位子が陽に属せば、心中また服せざるを存す。力量は較量しえずして心中また服せざれば、そのこの貞守もまたただもって一場の病を生ずるに足るのみ。「豫」を以て名と為すあの三つの爻は、皆内に操守を失いて外に楽を求める者である。ゆえに軽きは「悔吝」を落とし、重きは「凶」を落とす。六五の貞は病を落成したといえども、その心中に守る所は未だ喪われず。よって能く長久に死せず。君子はこれにより「貞」は靠り頼みうるを知る。

上六:冥豫,成;有渝,無咎。《象》曰:“冥豫”在上,何可長也?冥者,君子之所宜息也。“豫”至上六,宜息矣,故曰“冥豫,成,有渝”者,盈輒變也。盈輒變,所以為無窮之豫也。

豫卦の上六の爻辞はいう、冥豫、成り。渝あれば咎なし、と。《象伝》はいう、「冥豫」にして上に在るは、あに能く長からんや、と。天色昏冥は、まさに君子の歇息すべき時である。豫が上六に至れば、また一歇息すべきである。ゆえに「冥豫、成り、渝あり」という。いわゆる「渝あり」とは、満つれば極処に至りて即ち変改するなり。満つれば改まる。これこそ綿延して尽きざる「豫」である。

随卦(第十七)

兌上,震下。“隨”:元亨,利貞,無咎。《彖》曰:“隨”,剛來而下柔,動而說,“隨”。大亨,貞無咎,而天下隨時。“隨”之時義大矣哉!大、時不齊,故隨之世,容有不隨者也。責天下以人人隨己而咎其貞者,此天下所以不說也,是故“大亨”而“利貞”者。貞者無咎,而天下隨時。時者,上之所制也,不從己而從時,其為“隨”也大矣。

随卦の上卦は兌(沢)、下卦は震(雷)である。卦辞はいう、随、元亨、貞に利あり、咎なし、と。《彖伝》はいう、随卦は剛爻が下に來りて柔爻の下に居り、内は震にして動き外は兌にして説ぶ。ゆえに「随」と呼ぶ。大いに亨り、貞なれば咎なし。天下万物は時勢に随順す。随卦の時の義、大なるかな、と。天下の大と時勢の参差はもと整斉画一しえず。ゆえに随の時代には、一部分人が一時まだ随い上がらぬを容許する。もし天下人に個個皆己に随従すべしを責成し、また那些の己見を堅守する者を有罪と為さば、これ正に天下人の肯んじて心服せざる縁由である。ゆえに卦辞はすでに「大亨」といい、また「利貞」という。貞を守る者は過失と算えず、而して天下は自ら時勢に随順す。いわゆる「時」とは、上に在る者の制定する所である。人々は我がこの人に屈従するにあらず、この時勢に順従するなり。こ様の「随」ははじめて大と算うるに足る。

《象》曰:澤中有雷,“隨”;君子以嚮晦入宴息。雷在澤中,伏而不用,故君子晦則入息。初九:官有渝,貞吉;出門交,有功。《象》曰:“官有渝”,從正吉也;“出門交有功”,不失也。物有正主之謂“官”。九五者,六二之正主也。二以遠五而苟隨於初,五以其隨初而疑之,則“官”有變矣。官有變,初可以有獲也,而非其正,故官雖有變,而以從正不取為吉也。初之取二也,得二而失五;初之不取二也,失二而得五。何也?可取而不取,歸之於正主。初信有功於五矣,五必德之,失門內之配,而得門外之交,是故舍其近配而出門以求交於其所有功之人,其得也必多。故君子以為未嘗失也。

《象伝》はいう、沢の中に雷あるが随である。君子はこれにより嚮晦に入りて宴息す、と。雷が沢の中に在り、蔵伏して発作せず。ゆえに君子は昏冥の時に至れば内に入りて休息す。初九の爻辞はいう、官に渝あり、貞なれば吉。門を出でて交われば功あり、と。《象伝》はいう、「官に渝あり」は正に従えば吉なり。「門を出でて交われば功あり」は失う所なきを言う、と。事物は各々それが名正言順の帰属あり。これを「官」と呼ぶ。九五こそ六二の名正言順の帰属である。六二は九五と離れて遠きがゆえに、苟且に初九に随った。九五は彼女が初九に随ったを見て疑いを起こし、この名分は変動を有するに至る。名分が一たび変ぜば、初九はもと機に乗じて六二を己の有と為しえた。しかしそれはそれが得るべきにあらず。ゆえに名分は変ずとも、初九はなお正道に従い攫取せざるを以て吉と為す。初九がもし六二を収下せば、六二を得て九五を失うなり。初九がもし六二を収めざれば、六二を失い九五を得るなり。なぜか。取りうるにして取らず、彼女を名正言順の主人に帰還すれば、初九は九五に対して実実在在の功労有り。九五は必ず彼に感念す。失うは門内の一配偶、換得するは門外の一交誼。ゆえに近在身辺の配偶を舍棄し、出門してあの己の恩恵を受けた人を結交すれば、得る所は必ず更に多し。ゆえに君子は彼が実は損失なしと為す。

六二:係小子,失丈夫。《象》曰:“係小子”,弗兼與也。“小子”,初也;“丈夫”,五也。兼與,必兩失。六三:係丈夫,失小子;隨有求得,利居貞。《象》曰:“係丈夫”,志舍下也。四為“丈夫”,初為“小子”。三無適應,有求則得之矣。然而從四,正也;四近而在上,從上則順,與近則固。故“係丈夫”,而利居貞。

随卦の六二の爻辞はいう、小子に係れば、丈夫を失う、と。《象伝》はいう、「小子に係る」は兼ねて与らざるなり、と。「小子」は初九を指し、「丈夫」は九五を指す。両辺とも欲すれば、必ず両辺とも失う。六三の爻辞はいう、丈夫に係れば、小子を失う。随に求むるあれば得る。居貞に利あり、と。《象伝》はいう、「丈夫に係る」はその志が下の一位を舍するを言う、と。六三に就いて言えば、九四は「丈夫」、初九は「小子」。六三は上頭に正応の爻なし。ゆえにただ求むる所あれば得手となる。ただ九四に従うが正道である。九四はすでに近くしてまたその上に在る。上に従うを順と為し、近処に親附するを牢と為す。ゆえに「丈夫に係る」といい、而も「居貞に利あり」という。

九四:隨有獲,貞凶。有孚在道,以明何咎?《象》曰:“隨有獲”,其義凶也;“有孚在道”,明功也。六三,固四之所當有也。不可以言“獲”,“獲”者,取非其有之辭也。二之往配於五也,歷四而後至。四之勢可以不義取之,取之則於五為凶,不取則於五為有功。二之從五也甚難,初處其鄰,而四當其道,處其鄰不忘貞,當其道不忘信,使二得從其配者,初與四之功也,故皆言“功”。居可疑之地而有功,足以自明,其誰咎之?

随卦の九四の爻辞はいう、随に獲あり、貞にしても凶。孚ありて道に在り、明を以てすれば何の咎あらん、と。《象伝》はいう、「随に獲あり」は義において凶なり。「孚ありて道に在り」はその功が明なるを言う、と。六三はもともと九四が有すべき者である。ゆえに「獲」と呼ぶべからず。「獲」とはもと己に属せざるものを攫取するの説である。ここに言うは六二である。六二が上りて九五と相配せんとすれば、必ず九四を経てはじめて到りうる。九四の地位を憑れば、もと道義を講じずに彼女を截り下ろしえた。截れば、九五に対しては凶なり。截らざれば、九五に対しては功なり。六二が九五に跟従せんとするはもと極めて難し。初九は彼女の近旁に在り、九四は彼女の必経の路上を挡ぐ。旁に在る初九は貞を守るを忘れず、道を挡ぐ九四は信を守るを忘れず。六二をして終にその帰るべき人に帰らしめ得たるは、これ初九と九四の両爻の功労である。ゆえに両爻の《象伝》は皆一の「功」の字を点出す。最も人の猜疑を招き易き位置に身を処しながら能くこ様の功労を立つるは、足りて自ら心跡を明らかにす。また誰が彼を怪罪しえん。

九五:孚于嘉,吉。《象》曰:“孚于嘉,吉”;位正中也。“嘉”謂二也。《傳》曰:“嘉偶曰配”。而昏禮為嘉,故《易》凡言“嘉”者,其配也。隨之時,陰急於隨陽者也,故陰以不苟隨為“貞”,而陽以不疑其叛己為“吉”。六二以遠五而貳於初,九五不疑而信之,則初不敢有,二不敢叛,故“吉”。

随卦の九五の爻辞はいう、孚を嘉に于す。吉、と。《象伝》はいう、「嘉に孚す、吉」は位正しくして中なるによる、と。「嘉」とは六二を指す。《左伝・桓公二年》はいう、「嘉なる耦を配と曰う」と。而も婚は古礼にて「嘉礼」に属す。ゆえに《周易》はおよそ「嘉」と言うは、皆正応の配偶を指す。随の時代には、陰爻は急ぎて陽爻に跟従せんと欲す。ゆえに陰は随に乱随せざるを以て「貞」と為し、陽は相手が己を背叛するを猜疑せざるを以て「吉」と為す。六二は九五より離れて遠きがゆえに、一たび初九に対して二心を起こした。九五は然るに猜疑せず、なお彼女を信任す。ここにおいて初九は彼女を己有と為すを敢えてせず、六二もまた背叛を敢えてせず。ゆえに「吉」。

上六:拘係之,乃從,維之;王用亨于西山。《象》曰:“拘係之”,上窮也。居上無應而不下隨,故“拘係之”,而後從。從而又“維之”,明強之而後從也。強之而後從,則其從也不固,故教之曰:當如王之通於西山。“王”,文王也;“西山”,西戎也。文王之通西戎也,待其自服而後從之,不強以從也。

随卦の上六の爻辞はいう、之を拘係し、乃ち從う。維して之、王は以て西山に亨る、と。《象伝》はいう、「之を拘係す」は上窮まれるによる、と。上六は卦頂に高居して正応なく、また下に人に随うを肯んぜず。ゆえに「之を拘係す」。縛り着けてはじめて從う。從った後もなお再び「之を維す」にて拴牢せざるべからず。見れば勉強してのち從ったものである。勉強して来たるの跟從は、靠り頼み難し。ゆえに爻辞は教導していう、まさに周王の西山に亨るの作法を学ぶべし。「王」は周文王を指し、「西山」は西方の戎人を指す。文王が西戎と往来するは、彼ら自ら心服するを待ってはじめて彼らを収納したのであって、人を強迫して跟従せしめたにあらず。

蠱卦(第十八)

艮上,巽下。“蠱”:元亨,利涉大川。先甲三日,後甲三日。《彖》曰:“蠱”,剛上而柔下,“巽”而止,“蠱”。“蠱,元亨”,而天下治也。“利涉大川”,往有事也。“先甲三日,後甲三日”,終則有始,天行也。

蠱卦の上卦は艮(山)、下卦は巽(風)である。卦辞はいう、蠱、元亨、大川を渉るに利あり。甲に先だつ三日、甲に後るる三日、と。《彖伝》はいう、蠱卦は剛が上に上り柔が下に降り、巽にして止まる。蠱なり。「蠱、元亨」は天下大治なり。「大川を渉るに利あり」は往けば事あるなり。「甲に先だつ三日、甲に後るる三日」は終れば則ち始まりあり、天の行いなり、と。

器久不用而蟲生之,謂之“蠱”。人久宴溺而疾生之,謂之“蠱”。天下久安無為而弊生之,謂之“蠱”。《易》曰“蠱”者,“事”也;夫“蠱”非事也,以天下為無事而不事事,則後將不勝事矣,此“蠱”之所以為“事”也。而昧者乃以“事”為“蠱”,則失之矣。器欲常用,體欲常勞,天下欲常事事,故曰“‘巽’而止,蠱”。夫下“巽”則莫逆,上止則無為,下莫逆而上無為,則上下大通,而天下治也。

器物は久しく用いざれば蛀虫を生ず。これを「蠱」と呼ぶ。人は長く宴安沈溺すれば病を生ず。これも「蠱」と呼ぶ。天下は長く太平にして為す所なければ積弊を生ず。同じく「蠱」と呼ぶ。《周易・序卦》は「蠱」はすなわち「事」であるという。実は蠱の本身は事にあらず。天下を事なしと為して何事も弁ぜざるにより、後日事は多く応接に給せざるに至る。これこそ「蠱」が「事」と訓せらるる所以の道理である。糊涂人はかえって「事有り」を蠱と看なす。則ち反りて言ったるなり。器物は常に用いるべし、身体は常に労動すべし、天下は常に事あらしむべし。ゆえに《彖伝》は「巽にして止まる、蠱」という。下が巽順なればこれに違逆する人なく、上が静止なれば作為する所なし。下に違逆なく上に作為なければ、ここにおいて上下は通暢して阻むものなし。天下もまた太平となる。

治生安,安生樂,樂生偷,而衰亂之萌起矣。“蠱”之災,非一日之故也,必世而後見,故爻皆以父子言之,明父養其疾,至子而發也。人之情,無大患難則日入於偷,天下既已治矣,而猶以“涉川”為“事”,則畏其偷也。

太平は安逸を生じ、安逸は享楽を生じ、享楽は苟且偸安を生じ、ここにおいて衰敗禍乱の苗头が冒出す。蠱この禍患は一日にして成らず。往々にして一代人を経てはじめて看え出ずる。ゆえに蠱卦の六爻は皆父と子をもって事を説く。まさに点明せんとするは、病は父輩が養い起こしたものにして、子のこの輩に至りて発作するなり。人の常情は、大患大難なければ一日日と苟且の中に陥る。天下は明明としてすでに太平なりしか、卦辞はなお偏に「大川を渉る」を正経の事と為して為す。人の偸安を怕るればなり。

“蠱”之與“巽”,一也;上下相順與下順而上止,其為“偷”一也。而“巽”之所以不為“蠱”者,有九五以乾之。而“蠱”無是也,故“蠱”之《象》曰:“先甲三日,後甲三日,終則有始”。而“巽”之九五曰:“無初有終,先庚三日,後庚三日,吉”。陽生於子,盡於已;陰生於午,盡於亥。陽為君子,君子為治;陰為小人,小人為亂。夫一日十二乾相值,支五干六而後復,世未有不知者也。“先甲三日,後甲三日”,則世所謂“六甲”也;“先庚三日,後庚三日”,則世所謂“六庚”也。甲、庚之先、後,陰陽相反,故《易》取此以寄治亂之勢也。

蠱卦と巽卦はもと一路である。一つは上下ともに相順、一つは下が順で上が止まる。「偸安」のこの一点を就けて言えば完全に同じである。巽卦の蠱と成るに至らざる所以は、それに九五ありて出でて匡正干済するによる。蠱卦にこ様の一爻なし。ゆえに蠱卦の辞は「甲に先だつ三日、甲に後るる三日、終れば則ち始まりあり」といい、巽卦の九五の爻辞は「初なくして終りあり、庚に先だつ三日、庚に後るる三日、吉」という。陽気は子に生じて巳に尽き、陰気は午に生じて亥に尽く。陽は君子に属し、君子が権を当てれば則ち治なり。陰は小人に属し、小人が権を当てれば則ち乱なり。一日は十二辰に分かれ、天干と地支とは相配相値し、地支は五輪を轉じ天干は六輪を轉じてはじめて原処に帰る。これは人人皆が懂える常識である。いわゆる「甲に先だつ三日、甲に後るる三日」は、すなわち世人の言う「六甲」なり。「庚に先だつ三日、庚に後るる三日」は、すなわち世人の言う「六庚」なり。甲と庚の各自の先後の次序は、陰陽恰好として相反す。ゆえに《周易》はこのを取りて治と乱の形勢を寄寓す。

“先甲三日”,子、戌、申也;申盡於巳,而陽盈矣。盈將生陰,治將生亂,故受之以後甲。“後甲三日”,午、辰、寅也,寅盡於亥,然後陰極而陽生。“蠱”無九五以乾之,則其治亂皆極其自然之勢,勢窮而後變,故曰“終則有始,天行也”。夫“巽”則不然,初雖失之,後必有以起之,譬之於庚。“先庚三日”,午、辰、寅也;“後庚三日”,子、戌、申也。庚之所後,甲之所先也。故“先庚三日”盡於亥,“後庚三日”盡於巳,先陰而後陽,先亂而後治,故曰“無初有終”。又特曰“吉”。不言之於“巽”《彖》,而言之於九五者,明此九五之功,非“巽”之功也。

「甲に先だつ三日」は甲子・甲戌・甲申のこの三つの甲日を指し、地支を以て称すれば子・戌・申なり。甲申の一旬は癸巳に至りて止まり、陽気はここに至りて満盈す。満盈すれば陰を生ず。太平久しければ乱を生ず。ゆえに続きて「甲に後るる」を用いる。「甲に後るる三日」は甲午・甲辰・甲寅を指し、地支を以て称すれば午・辰・寅なり。甲寅の一旬は癸亥に至りて止まり、しかる後に陰は極処に至りて陽気は重生す。蠱卦は九五のごとき一爻の出でて匡正するなく、ゆえにその治と乱は全く自然の勢に憑りて底に走り尽き、勢尽きてはじめて変ず。よって「終れば則ち始まりあり、天の行いなり」という。巽卦は則ち同じからず。初めは失誤するも、後には必ずこれを扶け起こす法あり。これを以て「庚」に比す。「庚に先だつ三日」は午・辰・寅、「庚に後るる三日」は子・戌・申。庚の後に排するは、正に甲の前に排する所である。ゆえに「庚に先だつ三日」は癸亥に至りて止まり、「庚に後るる三日」は癸巳に至りて止まる。これは先ず陰にして後に陽、先ず乱にして後に治なり。よって「初なくして終りあり」といい、なお特に一の「吉」の字を加う。この話を巽卦の《彖伝》の中に置かず、偏に九五の爻辞の中に置くは、まさに点明せんとするは、これは九五一爻の功労にして、巽卦の本身の功労にあらざるなり。

《象》曰:山下有風,“蠱”;君子以振民育德。鼓之、舞之,之謂“振”。“振民”,使不惰,“育德”,使不竭。初六:幹父之蠱,有子,考無咎;厲,終吉。《象》曰:“幹父之蠱”,意承考也。蠱之為災,非一日之故也。及其微而乾之,初其任也。見蠱之漸,子有改父之道,其始雖危,終必吉。故曰“有子,考無咎”。言無是子,則考有咎矣。孝愛之深者,其跡有若不順,其跡不順,其意順也。

《象伝》はいう、山の下に風あり。蠱。君子は以て民を振い徳を育む、と。鼓を撃ちて振作し、之を導きて舞い起こさしむ。これを「振」と呼ぶ。「民を振う」は百姓をして懶惰ならしめざるなり。「徳を育む」は徳行をして枯竭せしめざるなり。初六の爻辞はいう、父の蠱を干す。子あれば、考は咎なし。厲といえども終に吉、と。《象伝》はいう、「父の蠱を干す」は意にて考を承ぐるなり、と。蠱この禍患は一日にして成らず。それが未だ細微なるに趁りて手を動かして整治するは、正に初六この一爻の担当である。弊壊が剛に苗头を露すを見れば、子たる者は便ち父の旧法を改易するの道理あり。初めは険なるも、最後は必ず吉。ゆえに「子あれば考に咎なし」という。反りて言えば、もしこ様の一の子なくんば、先父は過錯を落下せん。孝愛深摯の人は、為した事はあるいは見れば順從せざるに似たるも、事蹟は順ならざるも、用心は則ち順なり。

九二:幹母之蠱,不可貞。《象》曰:“幹母之蠱”,得中道也。陰之為性,安無事而惡有為,是以為“蠱”之深而乾之尤難者,寄之母也。正之則傷愛,不正則傷義,以是為至難也,非九二其孰能任之?故責之二也。二以陽居陰,有剛之實,而無用剛之跡,可以免矣。

蠱卦の九二の爻辞はいう、母の蠱を干す。貞を得るべからず、と。《象伝》はいう、「母の蠱を干す」は中道を得るによる、と。陰の本性は事なきに安んじて有所為を悪む。ゆえに《周易》は蠱積最も深く整治最も難きのあの一種を、「母」の身上に寄托す。硬く正道を按して糾正すれば、母子の愛を傷る。糾正せざれば、また道義を傷る。これは難の極処の事にして、九二を除きて誰か担当しえん。ゆえにこの副の担子を九二に責成す。九二は陽爻をもって陰位に居り、剛強の実質有るも、剛を用いる痕跡を露さず。こうしてはじめて両頭とも傷らず。

九三:幹父之蠱,小有悔,無大咎。《象》曰:“幹父之蠱”,終無咎也。九三之德,與二無以異也。特不知所以用之,二用之以陰,而三用之以陽,故“小有悔”而“無大咎”。六四:裕父之蠱,往見吝。《象》曰:“裕父之蠱”,往未得也。六四之所居,與二無以異也,而無其德,斯益其疾而巳。“裕”,益也。

蠱卦の九三の爻辞はいう、父の蠱を干す。小さく悔あり、大咎なし、と。《象伝》はいう、「父の蠱を干す」は終に咎なし、と。九三の徳性は九二と並に両樣なし。ただそれをどう用いるかを懂えざるのみ。九二が用いるは陰柔の路子、九三が用いるは陽剛の路子。ゆえに「小さく悔あり」にして「大咎なし」。六四の爻辞はいう、父の蠱を裕らかにす。往けば吝を見ん、と。《象伝》はいう、「父の蠱を裕らかにす」は往けば得る未だならざるなり、と。六四の処する位置は九二と並に両樣なし。しかし九二のごとき剛中の徳性なし。さらばただ病を益々養い重くするのみ。「裕」とはすなわち増益・寛縦の意である。

六五:幹父之蠱,用譽。《象》曰:“幹父用譽”,承以德也。父有蠱而子乾之,猶其有疾而砭藥之也,豈其所樂哉?故初以獲“厲”,三以獲“悔”,六五以柔居中,雖有幹蠱之志而無二陽之決,故反以是獲“譽”。譽歸於己,則疾歸於父矣,父之德惟不可承也,使其可承,則非“蠱”矣。“蠱”而承德,是以無“巽”九五“後庚”之“吉”也。

蠱卦の六五の爻辞はいう、父の蠱を干し、誉を用う、と。《象伝》はいう、「父を干して誉を用う」は徳を以て承ぐるなり、と。父輩に弊壊あって子が出でて整治するは、人に病ありてこれに鍼砭下薬を為すがごとし。あに子の情願する所の事ならんや。ゆえに初六は「厲」を招来し、九三は「悔」を招来す。六五は柔爻をもって上卦の中に居り、弊壊を整治する志有るも、九二・九三の両陽爻のごとき決断なし。よってかえってこの柔緩を憑りて「誉」を得たり。しかし美譽は己の身上に帰し、病もまた父の身上に帰するなり。父輩のいわゆる「徳」はもと承継すべからざるものなり。それがもし真に承継し得るならば、則ち「蠱」と呼ばざるなり。明明として蠱なるにしてなおその徳を承ぐる。これが正に六五が巽卦九五の「庚に後るる三日」のごとき「吉」を得ざる所以である。

上九:不事王侯,高尚其事。《象》曰:“不事王侯”,志可則也。君子見“蠱”之漸,則“涉川”以救之。及其成,則“不事王侯”以遠之。“蠱”之成也,良醫不治,君子不事事。

蠱卦の上九の爻辞はいう、王侯に事えず、其の事を高尚にす、と。《象伝》はいう、「王侯に事えず」は志、則とすべきなり、と。君子は弊壊が剛に苗头を露すを見れば、大川を渉りてこれを救いに往く。弊壊がすでに養成するに及んでは、則ち「王侯に事えず」、遥かに避け去る。蠱は一たび積成すれば、好医生もまた肯んじて手を下して医治せず。君子もまた更に出でて事を弁ぜざるなり。

臨卦(第十九)

坤上,兌下。“臨”:元亨,利貞。至于八月,有凶。《彖》曰:“臨”,剛浸而長,說而順,剛中而應,大亨,以正天道也。至於“八月有凶”,消不久也。“復”而陽生。凡八月而二陰至,則“臨”之二陽盡矣,方長而慮消者,戒其速也。

臨卦の上卦は坤(地)、下卦は兌(沢)である。卦辞はいう、臨、元亨、貞に利あり。八月に至れば凶あらん、と。《彖伝》はいう、臨卦は剛の浸りて長ず、説びて順なり。剛中にして応ず。大亨にして正を以てすは天の道なり。「八月に至れば凶あらん」は消の久しからざるなり、と。復卦より陽気は萌生を始め、都合八箇月を経て二つの陰爻が下卦に侵入す。臨卦のこの二つの陽爻もまた消尽せんとす。陽がまさに生長する時にその消退のために憂慮するは、これを警戒して長ずること太速ならざるべからざるを欲するなり。

《象》曰:澤上有地,“臨”。君子以教思無窮,容保民無疆。澤所以容水,而地又容澤,則無不容也。故君子為無窮之教,保無疆之民。《記》曰:“君子過言,則民作辭;過動,則民作則。”故言必慮其所終,而行必稽其所弊。

《象伝》はいう、沢の上に地あり。臨。君子は以て教えて思うこと窮まりなく、民を容れ保みて疆なし、と。大沢は水を容れるを以てす。大地はまた大沢を容納しえ。さらば容納しえざるものなし。ゆえに君子は窮尽なき教化を施行し、疆界なき百姓を保養す。《礼記・緇衣》はいう、「君子は言を錯れば百姓は取りて辞を以てす、行を錯れば百姓は取りて法を以てす」と。ゆえに話を為さば必ずその終に何を引出すかを顧慮し、事を行わば必ずその将来に何の弊病を生出するかを考察せざるべからず。

初九:咸臨,貞吉。《象》曰:“咸臨貞吉”,志行正也。有應者為“咸臨”。“咸”,感也;感以“臨”,則其為“臨”也易。故“咸臨”,所以行正也。九二:咸臨,吉,無不利。《象》曰:“咸臨,吉無不利”,未順命也。二陽在下,方長而未盛也。四陰在上,雖危而尚強也。九二以方長之陽而臨眾陰,陰負其強而未順命,從而攻之,陰則危矣,而陽不能無損。故九二以“咸臨”之而後“吉”。陽得其欲而陰免於害,故“無不利”。

臨卦の初九の爻辞はいう、咸臨、貞なれば吉、と。《象伝》はいう、「咸臨貞吉」は志行が正なるによる、と。正応の爻あるのみ「咸臨」と称しうる。「咸」はすなわち感なり。感应を用いて臨めば、この「臨」は成し易し。ゆえに「咸臨」は正に正道を行うの途徑である。九二の爻辞はいう、咸臨、吉、利ならざるなし、と。《象伝》はいう、「咸臨、吉利ならざるなし」は未だ順命せざるなり、と。二つの陽爻は下に在りて、まさに生長し未だ強盛ならず。四つの陰爻は上に在りて、すでに岌岌として危くともなお余力あり。九二はまさに生長する陽を以て衆陰に臨む。陰は己がなお力量あるを仗りて命令を聴かず。この時もし兵を揮い進めて攻めば、陰は固然として危うけれど、陽もまた損傷を免れず。ゆえに九二は「咸臨」この感化の弁法を用いて、しかる後に吉を得る。陽は己の心愿を遂げ、陰もまた被害を免る。ゆえに「利ならざるなし」という。

六三:甘臨,無攸利;既憂之,無咎。《象》曰:“甘臨”,位不當也。“既憂之”,咎不長也。樂而受之謂之“甘”。陽進而陰莫逆,“甘臨”也。“甘臨”者居於不爭之地,而後可以居於陽。陽猶疑之,拒之固傷;不拒猶疑之,進退無所利者,居之過也。故六三之咎,位不當而已,咎在其位,不在其人,則憂懼可以免矣。

臨卦の六三の爻辞はいう、甘臨。攸く利なし。すでにこれを憂うれば咎なし、と。《象伝》はいう、「甘臨」は位が当たらざるなり。「すでにこれを憂う」は咎の長からざるなり、と。心裏に喜びて受け入るるを「甘」と呼ぶ。陽が上に進みて陰が絲毫も違逆せざれば、これが「甘臨」である。「甘臨」を用いる人は、もと人と争わざる地位に立ちてしかる後に陽位に処すべきなり。しかるに六三は偏に陰柔を以て陽位を占住す。陽はなおそれを疑う。それがもし陽を拒むが固然として傷を受け、拒まざれば陽もまた照舊これを疑う。進むも是ならず退くも是ならず。全く居る位が当たらざるに由る。ゆえに六三の過錯はただ位置が対せざるに在り。過錯は位に在りて人に在らず。さらばただ心に憂懼を存せば咎責を免れうる。

六四:至臨,無咎。《象》曰:“至臨無咎”,位當也。以陰居陰而應於初,陽至而遂順之,故曰“至臨”。六五:知臨,大君之宜,吉。《象》曰:“大君之宜”,行中之謂也。見於未然之謂“知”。“臨”之世,陽未足以害陰,而其勢方銳;陰尚可以抗陽,而其勢方卻。苟以其未足以害我而不內,以吾尚足以抗之而不受,則陽將忿而攻陰。六五以柔居尊而應於二,方其未足而收之,故可使為吾用。方吾有餘而柔之,故可使懷吾德,此所以為“知”也。天子以是服天下之強者則可,小人以是畜君子則不可。故曰“大君之宜,吉”,惟“大君”為宜用是也。大君以是行其中,小人以是行其邪。

臨卦の六四の爻辞はいう、至臨。咎なし、と。《象伝》はいう、「至臨咎なし」は位が当たるによる、と。六四は陰爻をもって陰位に居りて初九と相応ず。陽が一たび上り来ればそれは順従す。ゆえに「至臨」と呼ぶ。六五の爻辞はいう、知臨、大君の宜、吉、と。《象伝》はいう、「大君の宜」は中の行いを言う、と。事が未だ発生せざるに先に見出だすを「知」と呼ぶ。臨の時代には、陽はなお陰を傷害するに足らずとも気勢は正に鋭く、陰はなお陽に抗拒しえとも気勢は正に退却す。もし陰が陽に一時傷つけられざるがために収納せざるを肯んぜず、己がなお抗え堪うるがために承受せざるを肯んぜざれば、陽は必ず悩怒して起こり陰を進攻せん。六五は柔爻をもって尊位に居りて九二と相応ず。陽が未だ長足せざるに趁りてこれを収納し過ごす。ゆえに能くそれを我が用と為さしむ。己にまだ余力あるに趁りて柔を以てこれに待す。ゆえに能くそれをして我が恩徳に感念せしむ。これがいわゆる「知」である。天子がこの一手を用いて天下の強者を収服するは可なり。小人がこの一手を用いて君子を豢養するは不可なり。ゆえに「大君の宜、吉」といい、ただ「大君」のみがこの弁法を用いるに適合す。同じ一手にて、大君はこれを用いて中道を行い、小人はこれを用いて邪僻を行う。

上六:敦臨,吉,無咎。《象》曰:“敦臨”之“吉”,志在內也。“敦”,益也;“內”,下也。六五既已應九二矣,上六又從而附益之,謂之“敦臨”。“復”之六四既已應初九矣,六五又從而附益之,謂之“敦復”,其義一也。

臨卦の上六の爻辞はいう、敦臨。吉、咎なし、と。《象伝》はいう、「敦臨」の吉なる所以はその志が内に在るによる、と。「敦」は増益の意、「内」は下を指す。六五がすでに九二と相応じ、上六がまた跟い上りてそのために更に一層を加うる。これを「敦臨」と呼ぶ。復卦の六四がすでに初九と相応じ、六五がまた跟い上りてそのために更に一層を加うるを「敦復」と呼ぶ。両処の意は完全に同じである。

観卦(第二十)

巽上,坤下。“觀”:盥而不薦,有孚顒若。《彖》曰:大觀在上,順而巽,中正以觀天下。“觀,盥而不薦,有孚顒若”,下觀而化也。觀天之神道而四時不忒,聖人以神道設教,而天下服矣。無器而民趨,不言而物喻者,“觀”之道也。聖人以神道設教,則賞爵刑罰有設而不用者矣。寄之宗廟,則“盥而不薦”者也。盥者以誠,薦者以味。

観卦の上卦は巽(風)、下卦は坤(地)である。卦辞はいう、観、盥して薦せず、孚ありて顒若たり、と。《彖伝》はいう、大観は上に在り、順にして巽、中正を以て天下を観る、と。「観、盥して薦せず、孚ありて顒若たり」は下の観えて化せらるるなり。上天神妙の運行の道を観察すれば、四時の更替に毫も差錯なきを見る。聖人はこの神妙の道に取法して教化を設立すれば、天下は則ち服す。器械刑具を動用せずして百姓は自然に趨赴し、一言を発せずして万物は自然に領会す。これが「観」の道理である。聖人が神道を以て教を設くれば、爵賞と刑罰はただそこに設けられて用いるに及ばず。この道理を宗廟祭祀に寄托すれば「盥して薦せず」なり。手を洗い神を降すは一片の誠意を恃み、祭品を進献するは牲牢の滋味を恃む。真に人を動かすは誠意に在りて滋味に在らず。

《象》曰:風行地上,“觀”;先王以省方,觀民設教。初六:童觀,小人無咎,君子吝。《象》曰:“初六童觀”,小人道也。大觀在上,故四陰皆以尚賓為事。初六,童而未仕者也,急於用,以自衒賈,惟器小而夙成者為無咎,君子則吝矣。

《象伝》はいう、風は地上を行く。観。先王は以て方を省み民を観て教を設く、と。初六の爻辞はいう、童観、小人には咎なし、君子には吝、と。《象伝》はいう、「初六童観」は小人の道なり、と。大なる観るべき者は上に高居す。ゆえに四つの陰爻は皆王朝の賓客たるを正事と為す。初六はなお出仕せざる少年にして、任用せらるるを急ぎ、便ち自ら炫耀し四処に兜售す。ただ器量小にして早熟なる人がこうするのみ、咎に至らず。君子がこうすれば憾惜すべきなり。

六二:窺觀,利女貞。《象》曰:“窺觀”“女貞”,亦可醜也。六二遠且弱,宜處而未宜實者也。譬之於女,利貞而不利行者也。苟以此為觀,則是女不待禮而窺以相求,貞者之所丑也。六三:觀我生,進退。《象》曰:“觀我生進退”,未失道也。六三,上下之際也。故當自觀其生,以卜進退。夫欲知其君,則觀其民;故我之生,則君之所為也。知君之所為,則進退決矣。進退在我,故未失道也。

観卦の六二の爻辞はいう、門の隙間より覗き見る。女子の貞に利あり、と。《象伝》はいう、「闚観」にして「女貞」に及ぶのみは、詰まるところ亦た可羞の事なり、と。六二は九五と離れて遠く、自身もまた柔弱なり。静に処するに宜しくして、なお出でて事に任ずるに宜しからず。女子を以て比喩と為せば、すなわち貞を守るに利ありて外出行動に利あらざるあの一種である。もしこのような覗き見を「観」と為さば、則ち女子が媒聘の礼を待たず先に自ら窺探して人を求めると成る。これは貞を守る女子の引きて羞と為す所である。六三の爻辞はいう、我が生を観て進退す、と。《象伝》はいう、「我が生を観て進退す」は未だ道を失わざるなり、と。六三は下卦と上卦の交接する処に処す。ゆえにまさに自らその処境行事を観察して、以て進退を占定すべきなり。一位の君主を了解せんと欲せば、則ちその治下の百姓を看よ。ゆえに我がこの一身の境遇は、正に君主の作為の結果である。君主の作為を知れば、進退もまた断じ下せる。進退の主動権は我が己の手の中に在り。ゆえに「未だ道を失わず」という。

六四:觀國之光,利用賓于王。《象》曰:“觀國之光”,尚賓也。進退之決在六三,故自三以下,利退而不利進;自三以上,利進而不利退。進至於四,決不可退矣,故“利用賓于王”。

観卦の六四の爻辞はいう、国の光を観る。王に賓たるに用いるに利あり、と。《象伝》はいう、「国の光を観る」は賓を尚ぶなり、と。進退の択択は六三のこの一爻に在り。ゆえに三爻より下は、退に利ありて進に利あらず。三爻より上は、進に利ありて退に利あらず。すでに第四爻に進めば、則ち断じて退き帰りえず。ゆえに「王に賓たるに用いるに利あり」という。

九五:觀我生,君子無咎。《象》曰:“觀我生”,觀民也。上九:觀其生,君子無咎。《象》曰:“觀其生”,志未平也。此二觀,所自言之者不同,其實一也。觀我生,讀如“觀兵”之“觀”;“觀其生”,讀如“觀魚”之“觀”。九五以其至顯觀之於民,以我示民,故曰“觀我生”。上九處於至高而下觀之,自民觀我,故曰“觀其生”。今夫乘車於道,負者皆有不平之心,聖人以其一身擅天下之樂,厚自奉以觀示天下而天下不怨,夫必有以大服之矣。吾以吾可樂之生而觀之人,人亦觀吾生可樂,則天下之爭心將自是而起,故曰“君子無咎”。君子而後無咎,難乎其無咎也!

観卦の九五の爻辞はいう、我が生を観る。君子咎なし、と。《象伝》はいう、「我が生を観る」は実は民を観るなり、と。上九の爻辞はいう、其の生を観る。君子咎なし、と。《象伝》はいう、「其の生を観る」は志未だ平ならざるなり、と。この両処の「観」を講ずるは、言説の立足点が異なるも、実質は則ち一事である。「我が生を観る」の「観」は、《左伝》の「観兵」の「観」と読むべし。己を陳示して人に看せるなり。「其の生を観る」の「観」は、《左伝》の「観魚」の「観」と読むべし。旁らに立ちて察看するなり。九五は身に最も顕赫の地位に居り、己を陳示して百姓に看せる。ゆえに「我が生を観る」という。上九は最高処に処りて下に察看す。これは百姓の角度より我を観るなり。ゆえに「其の生を観る」という。さて大路の上に人の車に乗るあるを見よ。那些の重担を負いて步行する人は、心中みな不平の気有り。聖人は一身を以て天下の楽を独享し、自ら奉じて丰厚にこの一切を擺て天下に看せるも、天下人は然るに怨恨せず。それは必ず別に大いに人心を折服しうるもの在るなり。我がこの楽しむべき生涯を陳示して人に看せば、人もまた我が日の過ごすの楽しむべきを看出す。天下の争奪の心はまさにここより生ぜんとす。ゆえに爻辞ははじめて「君子咎なし」という——君子たるを得ずんば咎なしと談ずるに足らず。見ればこの「咎なし」は実に難きこと甚だし。

《東坡易伝》巻之三

噬嗑卦(第二十一)

離上,震下。“噬嗑”:亨,利用獄。道之衰也,而物至於相“噬”以求合教化,則已晚矣,故“利用獄”。《彖》曰:頤中有物,曰“噬嗑”。所以為“噬嗑”者,四也;否則為“頤”矣。“噬嗑”而“亨”,剛柔分,動而明。“噬嗑”之時,噬非其類而居其間者也。陽欲噬陰,以合乎陽;陰欲噬陽,以合乎陰。故曰“剛柔分,動而明”也。雷電合而章,柔得中而上行,雖不當位,“利用獄”也。謂五也。

噬嗑卦の上卦は離(火・電)、下卦は震(雷)である。卦辞はいう、噬嗑、亨、獄を用うるに利あり、と。世道衰敗し、万物は互いに啃咬吞噬する歩みに至る。この時更に教化を恃りて弥合せんと思えども、すでに晩し。ゆえに「獄を用うるに利あり」という。《彖伝》はいう、頤中に物あり、噬嗑と曰う、と。この一卦を噬嗑たらしめるは九四この一陽爻である。それなくんば、全卦は頤卦と成る。《彖伝》は続けていう、噬嗑にして亨るは、剛柔が上下に分居し、震動して離明なるによる、と。噬嗑の時代には、毎一爻が咬み去らんとするは、皆那些の己と同類ならずして横に中間に梗ぐものである。陽は陰を咬み去らんと欲し、陽と陽とを合攏せしめんとし、陰は陽を咬み去らんと欲し、陰と陰とを合攏せしめんとす。ゆえに「剛柔分かれ、動きて明なり」という。《彖伝》はまたいう、雷電合して章なり。柔は中を得て上行す。位に当たらざるも、なお「獄を用うるに利あり」、と。ここに言うは六五である。

《象》曰:雷電,“噬嗑”;先王以明罰勅法。初九:屨校,滅趾,無咎。《象》曰:“屨校滅趾”,不行也。居“噬嗑”之時,六爻未有不以噬為事者也。自二與五,反覆相噬,猶能戒以相存也。惟初與上,內噬三陰而莫或噬之,貪得而不戒,故始於小過,終於大咎。聖人於此兩者寄小人之始終;於彼四者明相噬之得喪。

《象伝》はいう、雷電、噬嗑。先王は以て罰を明らかにし法を飭す、と。初九の爻辞はいう、校を屨し趾を滅す。咎なし、と。《象伝》はいう、「校を屨し趾を滅す」は行わしめざるなり、と。噬嗑の時代に処して、六爻は「咬む」を以て能事と為さざる一爻なし。六二より六五に至るこれらの爻は、反来覆去に互いに咬み、なお彼此戒懼し相手に活路を留めるを知る。ただ初九と上九のみが、ただ卦内の三つの陰爻に向かいて啃咬するを顧み、これを反りて咬む者なし。所得に貪りて警戒を知らず。ゆえに起先はただ小過失にして、最後に大罪咎を落とす。聖人は初・上のこの二爻に小人の開頭と結局を寄托し、中間のあの四爻に互いに啃咬するの得と失を説明す。

六二:噬膚,滅鼻,無咎。《象》曰:“噬膚,滅鼻”,乘剛也。以陰居陰,至柔而不拒者也。故初九噬之若噬膚然,至於“滅鼻”而不知止也。夫滅鼻而不知止者,非初之利也。非初之利,則二無咎矣。

噬嗑卦の六二の爻辞はいう、膚を噬み鼻を滅す。咎なし、と。《象伝》はいう、「膚を噬み鼻を滅す」は剛に乘るによる、と。六二は陰爻をもって陰位に居り、柔の極処にして来りてこれを咬む者に対して毫も抗拒せず。ゆえに初九がこれを咬むは一块の嫩肉を咬むがごとく、一口下去して鼻子さえ埋め入れてなお收口を知らず。咬みて鼻を没するに至りてなお停められざれば、損を喰うは実は六二にあらずして初九なり。すでに初九に対して不利なるにしかば、六二は自然に「咎なし」となる。

六三:噬臘肉,遇毒,小吝,無咎。“臘肉”、“乾胏”、“乾肉”,皆難噬者也。凡《易》以陰居陽,則不純乎柔,中有剛矣。故六三、六五,皆有難噬之象。夫勢之必不能拒也,則君子以不拒為大,六二是也;六三之於九四,力不能敵,而懷毒以待之,則已陋矣,故曰“小吝”。出於見噬,而不能堪也,故非其咎。《象》曰:“遇毒”,位不當也。若以陰居陰,則無復有毒矣。

噬嗑卦の六三の爻辞はいう、腊肉を噬み毒に遇う。小吝、咎なし、と。「腊肉」「乾胏」「乾肉」は、皆咬み難きものである。《周易》の通例は、およそ陰爻をもって陽位に居るは、則ち純粋の柔にあらず、裏頭に剛を夾む。ゆえに六三・六五は皆「咬み難し」の象あり。形勢上明明として抵抗しえざるに、君子は則ち抵抗せざるを以て大度と為す。六二がすなわちこ様である。六三は九四に対して力量敵しえざるも、一肚子の毒を懐きてこれを待つ。未免小気に過ぎる。ゆえに「小吝」という。ただこの毒は人に咬まれて堪えられざるより発せられたるもの。ゆえになおその罪過と算うに足らず。《象伝》はいう、「毒に遇う」は位が当たらざるによる、と。もし陰爻をもって陰位に居らば、則ち更に何の毒かあらん。

九四:噬乾胏,得金矢。取其堅而可畏。利艱貞吉。《象》曰:“利艱貞吉”,未光也。六五:噬乾肉,得黃金。取其居中而貴。貞厲,無咎。《象》曰:“貞厲無咎”,得當也。九四居二陰之間,六五居二陽之間,皆處爭地而致交噬者也。夫不能以德相懷,而以相噬為志者,惟常有敵以致其噬,則可以少安;苟敵亡矣,噬將無所施,不幾於自噬乎?由此觀之,無德而相噬者,以有敵為福矣。

噬嗑卦の九四の爻辞はいう、乾胏を噬み金矢を得たり、と。これは金と矢の堅硬可畏の意を取る。爻辞は続けていう、艱貞に利あり、吉、と。《象伝》はいう、「艱貞に利あり吉」は未だ光ならざるなり、と。六五の爻辞はいう、乾肉を噬み黄金を得たり、と。これは黄色の居中、金の貴重の意を取る。爻辞は続けていう、貞厲、咎なし、と。《象伝》はいう、「貞厲咎なし」は当を得るによる、と。九四は二つの陰爻の間に夾まり、六五は二つの陽爻の間に夾まる。皆身に必ず争う地に処りて交相に啃咬せらるるを招く。およそ能く徳を以て相懐柔せず、ただ互咬を以て志向と為す人は、ただ常に咬むべき敵手あってのみ、勉めて一点の安穩を得ん。万一敵手なくなれば、この一口は施す処なし。あに回頭して己を咬まんとするに近からずや。これを見れば、徳なくして専ら互咬に恃むは、竟に敵ありを以て福気と為すなり。

九四“噬乾胏,得金矢”,六五“噬乾肉,得黃金”,九四之難噬,是六三、六五之得也;六五之難噬,是九四、上九之得也。“得”之為言,猶曰“賴此以存”云爾。“利艱貞吉”、“貞厲”、“無咎”,皆未可以居安而享福也,惟有德者為能居安而享福,夫豈賴有敵而後存邪?故曰“未光也”。“得當”者,當於二陽之間也。

九四は「乾胏を噬み金矢を得たり」といい、六五は「乾肉を噬み黄金を得たり」という。九四が咬み難き所以は、正に六三・六五の所得なり。六五が咬み難き所以は、正に九四・上九の所得なり。ここの「得」の字は、「これを恃ってはじめて生きてゆけ」の言いに等し。「艱貞に利あり吉」「貞厲」「咎なし」のこれらの断語は、皆なお安居して享福と談ずるに及ばず。ただ徳ある者のみが能く安居して享福す。あに咬むべき敵手あるを恃みてはじめて生き存えんや。ゆえに《象伝》は「未だ光ならざるなり」という。いわゆる「当を得る」とは、六五が恰好として九四と上九の二つの陽爻の間に当たるを言う。

上九:何校滅耳,凶。《象》曰:“何校滅耳”,聰不明也。“滅趾”者,止其行而已;不行猶可以無咎,“滅耳”則廢其聰矣。無及也,故“凶”。

噬嗑卦の上九の爻辞はいう、校を何し耳を滅す。凶、と。《象伝》はいう、「校を何し耳を滅す」は聴き明ならざるなり、と。初九の「趾を滅す」は、不過これを行路成さしめざるのみ。行路成さざればなお咎なきを得。上九の「耳を滅す」は、しかるに聴覚を整个廃掉する。再び補救しても及ばず。ゆえに「凶」。

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