中論 巻第一
諸法從本已來無生,畢竟寂滅相,是故品末說是偈。若人說我相,如犢子部眾說:不得言色即是我、不得言離色是我,我在第五不可說藏中。如薩婆多部眾說:諸法各各相,是善、是不善、是無記。是有漏、無漏、有為、無為等別異。如是等人不得諸法寂滅相,以佛語作種種戲論。
諸法は本よりこのかた無生にして畢竟寂滅の相である。ゆえに品の末にこの首の偈を説く。もしある人が我の相を言わば、犢子部衆の言うが如く、色がすなわち我とは言えず、色を離れて我とも言えず、我は第五の「不可説」の蔵に在ると説く。あるいは薩婆多部衆の言うが如く、諸法は各各に相有り、これは善・これは不善・これは無記、これは有漏・無漏・有為・無為等々の各各差別有りと説く。かかる人は諸法寂滅の相を得られず、仏の言を取りて種種の戯論を作す。
中論觀本際品第十一(八偈)
《中論》観本際品第十一(八首の偈)
問曰:《無本際經》說:眾生往來生死,本際不可得。是中說有眾生、有生死。以何因緣故而作是說?
問う者曰く、《無本際経》に説く。衆生は生死に往来して、本際は求めて得られない、と。ここに衆生有り・生死有りと言う。何の因縁に依ってかかる説を作すか。
答曰:
答える者曰く、
「大聖之所說,本際不可得,
「大聖の説く所は、本際は求めて得られない。
生死無有始,亦復無有終。」
生死には始めなく、終わりもまたなし。」
聖人有三種:一者外道五神通;二者阿羅漢辟支佛;三者得神通大菩薩。佛於三種中最上,故言大聖。佛所言說,無不是實說。生死無始。何以故?生死初後不可得,是故言無始。汝謂若無初後,應有中者,是亦不然。何以故?
聖人には三種有る。一つは外道の五神通、二つは阿羅漢・辟支仏、三つは神通を得た大菩薩である。仏はこの三種の中に最も上であるがゆえに大聖と名づく。仏の説く所に如実ならざることなし。生死には始めがない。なぜか。生死の初と後とを求めて皆得られないがゆえに無始と説く。あなたは初なく・後なければ中が有るべきだと言う。これも当らない。なぜか。
「若無有始終,中當云何有?
「もし始なく終わりなければ、中はなおどうして有ることができようか。
是故於此中,先後共亦無。」
ゆえにこの中において、先・後・同時も皆なし。」
因中、後故有初,因初、中故有後。若無初無後,云何有中?生死中無初、中、後,是故說先後共不可得。何以故?
中と後によってこそ初有り、初と中によってこそ後有り。もし初なく・後なければ、どうして中有らんか。生死の中に初・中・後なきがゆえに、先・後・同時も求めて得られないと説く。なぜか。
「若使先有生,後有老死者;
「もし先に生有りて、後に老死有らしめば、
不老死有生,不生有老死。
これはすなわち不老死にして生有り、不生にして老死有らん。
若先有老死,而後有生者;
もし先に老死有りて、しかる後に生有らば、
是則為無因,不生有老死。」
これはすなわち無因にして、不生なれども老死有らん。」
生死眾生,若先生、漸有老而後有死者,則生無老死。法應生有老死、老死有生。又不老死而生,是亦不然;又不因生有老死。若先老死後生,老死則無因,生在後故;又不生,何有老死?若謂生老死先後不可,謂一時成者,是亦有過。何以故?
生死の中の衆生が、もし先に生じて漸々に老有り、しかる後に死有れば、生には老死がない。理によりては生に老死有り、老死に生有るべきである。また不老死にして生ずるも当らず、また生に依らずして老死有るも当らない。もし先に老死有りて後に生有れば、老死はすなわち無因である。生が後に在るがゆえである。また不生なれば、どうして老死があらんか。もし生・老死が先後して行えざると言い、同一時に成就すると説くも、これも過失が有る。なぜか。
「生及於老死,不得一時共;
「生および老死は、同一時に俱り在ること能わず。
生時則有死,是二俱無因。」
生ずる時にすなわち死有れば、この二つは因なきに堕せん。」
若生老死一時,則不然。何以故?生時即有死故。法應生時有、死時無,若生時有死,是事不然。若一時生,則無有相因。如牛角一時出則不相因。是故:
もし生と老死が同一時なれば、これは当らない。なぜか。生ずる時にすなわち死有るからである。理によりては生ずる時に有り、死する時に無かるべきである。もし生ずる時に死有れば、この事は当らない。もし同一時に生ずれば、互いに因待することなし。牛の両角が同一時に生出ずるが如く、相因待しない。これによりて、
「若使初後共,是皆不然者,
「もし初・後・同時のこれらが皆当らなければ、
何故而戲論,謂有生老死?」
なにゆえにぞなお戯論して、生老死有りと言うか。」
思惟生老死三皆有過故,即無生,畢竟空。汝今何故貪著戲論生老死,謂有決定相?復次:
生・老・死の三種を思惟すれば皆過失が有り、これすなわち無生にして畢竟空である。あなたは今なにゆえにぞ戯論の生老死に貪着して、決定の相有りと言うか。さらにいえば、
「諸所有因果,相及可相法,
「すべての一切の因果、相および可相の法、
受及受者等,所有一切法,
受および受者等、すべての一切法は、
非但於生死,本際不可得,
ただ生死のみならず、本際は求めて得られず、
如是一切法,本際皆亦無。」
このように一切法は、本際も皆なし。」
一切法者,所謂因果相可相、受及受者等,皆無本際,非但生死無本際。以略開示故,說生死無本際。
いわゆる一切法とは、因果・相と可相・受と受者等であって、皆本際がない。ただ生死のみ本際なきにあらず。大略を開示せんがために、こそ生死に本際なしと説いた。
中論觀苦品第十二(十偈)
《中論》観苦品第十二(十首の偈)
有人說曰:
ある人は説く、
「自作及他作,共作無因作,
「自作、他作、共作、無因作、
如是說諸苦,於果則不然。」
このように諸苦を説くは、果に堕せば皆当らない。」
有人言:苦惱自作;或言他作;或言亦自作亦他作;或言無因作,於果皆不然。於果皆不然者,眾生以眾緣致苦,厭苦欲求滅。不知苦惱實因緣有四種謬,是故說於果皆不然。何以故?
ある人は説く。苦悩は自ら作したると、あるいは他の作したると説き、あるいはまた自作また他作と説き、あるいは無因作と説く。果に堕せば皆当らない。いわゆる果に堕せば皆当らないとは、衆生は衆縁に依って苦を招来し、苦を厭いて滅を求めんと思うも、苦悩の真実の因縁を知らず、四種の謬見を生ず。ゆえに果に堕せば皆当らないと言う。なぜか。
「苦若自作者,則不從緣生,
「苦がもし自作ならば、縁に随って生ぜず。
因有此陰故,而有彼陰生。」
この一陰有るがゆえに、かの一陰生ずるがゆえである。」
若苦自作,則不從眾緣生,自名從自性生。是事不然。何以故?因前五陰有後五陰生,是故苦不得自作。
もし苦が自作ならば、衆縁に随って生ぜない。いわゆる自とは、自性から生ずることである。この事は当らない。なぜか。先前の五陰に依ってこそ後の五陰が生ずるがゆえに、苦は自作ではあり得ない。
問曰:若言此五陰作彼五陰者,則是他作。
問う者曰く、もしこの一五陰がかの一五陰を作すと言うならば、すなわち他作である。
答曰:是事不然。何以故?
答える者曰く、この事は当らない。なぜか。
「若謂此五陰,異彼五陰者,
「もしこの一五陰がかの一五陰と異なると言うならば、
如是則應言,從他而作苦。」
かくのごときにこそ、苦は他に随って作すと説くべきである。」
若此五陰與彼五陰異,彼五陰與此五陰異者應從他作。如縷與布異者,應離縷有布。若離縷無布者,則布不異縷。如是彼五陰異此五陰者,則應離此五陰有彼五陰。若離此五陰無彼五陰者,則此五陰不異彼五陰,是故不應言苦從他作。
もしこの一五陰がかの一五陰と異なり、かの一五陰がこの一五陰と異なれば、こそ他に随って作すと言うべきである。縷と布とがもし異なれば、縷を離れてなお布有るべきであるが如し。もし縷を離れて布なければ、布は縷に異ならない。このようにかの一五陰がもしこの一五陰に異なれば、この一五陰を離れてなおかの一五陰有るべきである。もしこの一五陰を離れてかの一五陰なければ、この一五陰はかの一五陰に異ならない。ゆえに苦は他に随って作すと説くべきではない。
問曰:自作者,是人人自作苦、自受苦。
問う者曰く、いわゆる自作とは、人が自ら苦を作し、自ら苦を受けることである。
答曰:
答える者曰く、
「若人自作苦,離苦何有人?
「もし人が自ら苦を作せば、苦を離れてどこに人があらんか。
而謂於彼人,而能自作苦。」
それなのにかの人の身上において、彼が自ら苦を作すと言う。」
若謂人自作苦者,離五陰苦,何處別有人而能自作苦?應說是人,而不可說,是故苦非人自作。若謂人不自作苦,他人作苦與此人者,是亦不然。何以故?
もし人が自ら苦を作すと言うならば、五陰という苦を離れて、どこに別に人が有りて自ら苦を作すことができようか。この人を説き出すべきであるが、説き出すことができない。ゆえに苦は人が自ら作したのではない。もし人が自ら苦を作すのではなく、他人が苦を作してこの人に与えると言うならば、これも当らない。なぜか。
「若苦他人作,而與此人者;
「もし苦が他人の作したるを、まましてこの人に与うれば、
若當離於苦,何有此人受?」
もし苦を離れれば、どこにこの人有りてこれを受けんか。」
若他人作苦與此人者,離五陰無有此人受。復次:
もし他人が苦を作してこの人に与うれば、五陰を離れてこの人なくしてこれを受けん。さらにいえば、
「苦若彼人作,持與此人者;
「もし苦がかの人の作したるを、取りてこの人に与えんとすれば、
離苦何有人,而能授於此?」
苦を離れてどこに人有りて、それをこの辺に授与し得んか。」
若謂彼人作苦授與此人者,離五陰苦,何有彼人作苦持與此人?若有者,應說其相。復次:
もしかの人が苦を作してこの人に授与する言うならば、五陰という苦を離れて、どこにかの人有りて苦を作して取りてこの人に与うことができようか。もし有れば、その相を説き出すべきである。さらにいえば、
「自作若不成,云何彼作苦?
「自作がもしなお成立せざれば、どうして他が苦を作すと言えようか。
若彼人作苦,即亦名自作。」
もしかの人が苦を作せば、かの許においてもまた自作と名づくべし。」
種種因緣彼自作苦不成,而言他作苦。是亦不然。何以故?此彼相待故。若彼作苦,於彼亦名自作苦。自作苦先已破,汝受自作苦不成故,他作亦不成。復次:
種種の因縁において、かの辺の自作苦も皆成立せざるに、他が苦を作すと言う。これも当らない。なぜか。此と彼と互いに相因待するがゆえである。もしかの辺が苦を作せば、かの辺においてもまた自作苦と名づく。自作苦は前にすでに破った。あなたが自作苦は成立せざると認めるならば、他作もまた成立しない。さらにいえば、
「苦不名自作,法不自作法,
「苦は自作と名づけず、法は自ら法を作さない。
彼無有自體,何有彼作苦?」
かの辺に自体なければ、どうしてなお他が苦を作さんか。」
自作苦不然。何以故?如刀不能自割。如是法不能自作法,是故不能自作。他作亦不然。何以故?離苦無彼自性。若離苦有彼自性者,應言彼作苦,彼亦即是苦,云何苦自作苦?
自作苦は当らない。なぜか。刀が自らを割くこと能わざるが如し。このように法は自ら法を作すことができない。ゆえに自作すること能わず。他作もまた当らない。なぜか。苦を離れて、かの辺に自性がない。もし苦を離れてかの辺の自性有れば、こそかの辺が苦を作すと説くべきである。かの辺はすなわち苦である。苦がどうして自ら苦を作さんか。
問曰:若自作、他作不然,應有共作。
問う者曰く、もし自作・他作ともに当らなければ、共作が有るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「若此彼苦成,應有共作苦;
「もし此と彼の苦が皆成立せば、こそ共に苦を作す有るべきである。
此彼尚無作,何況無因作!」
此と彼すらなお作なく、いわんや無因作をや。」
