中論 巻第一
自作、他作猶尚有過,何況無因作。無因多過,如〈破作作者品〉中說。復次:
自作・他作すらなお過失有るに、いわんや無因作をや。無因は過失さらに多し。〈破作作者品〉の中の説くが如し。さらにいえば、
「非但說於苦,四種義不成;
「ただ苦を説くのみならず、四種の義理とも成立せず。
一切外萬物,四義亦不成。」
一切の外在の万物も、四種の義理とも成立しない。」
佛法中雖說五受陰為苦,有外道人謂苦受為苦,是故說不但說於苦四種義不成,外萬物地水山木等一切法皆亦不成。
仏法の中には五受陰を苦と説くも、外道人は苦受を取りて苦と為すがゆえに説く。ただ苦を説くのみならず、四種の義理とも成立せず。外在の万物、地・水・山・木等の一切法も、皆成立しないと。
中論觀行品第十三(九偈)
《中論》観行品第十三(九首の偈)
問曰:
問う者曰く、
「如佛經所說,虛誑妄取相,
「仏経の説く所の如く、虚誑はすなわち妄取の相である。
諸行妄取故,是名為虛誑。」
諸行は妄取なるがゆえに、虚誑と名づく。」
佛經中說,虛誑者,即是妄取相;第一實者,所謂涅槃,非妄取相。以是經說故,當知有諸行虛誑妄取相。
仏経の中に説く。いわゆる虚誑とは、すなわち妄取の相である。第一真実とは、いわゆる涅槃であり、妄取の相ではない。経がかく説くがゆえに、諸行有りて虚誑・妄取の相なりと知るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「虛誑妄取者,是中何所取?
「虚誑・妄取――この中に取る所は何ぞ。
佛說如是事,欲以示空義。」
仏がかかる事を説くは、以って空の義理を顕示せんと欲するなり。」
若妄取相法即是虛誑者,是諸行中為何所取?佛如是說,當知說空義。
もし妄取相の法がすなわち虚誑ならば、これらの行の中に取る所は何に取る所は何ぞ。仏がかく説くは、空の義理を説くに在りと知るべきである。
問曰:云何知一切諸行皆是空?
問う者曰く、何によってか一切の諸行は皆空なりと知るか。
答曰:一切諸行虛妄相故空。諸行生滅不住,無自性故空。諸行名五陰,從行生故。五陰名行,是五陰皆虛妄無有定相。何以故?如嬰兒時色非匍匐時色、匍匐時色非行時色、行時色非童子時色、童子時色非壯年時色、壯年時色非老年時色。如色念念不住故,分別決定性不可得。嬰兒色為即是匍匐色乃至老年色,為異,二俱有過。何以故?若嬰兒色即是匍匐色乃至老年色者,如是則是一色皆為嬰兒,無有匍匐乃至老年。又如泥團常是泥團,終不作瓶。何以故?色常定故。若嬰兒色異匍匐色者,則嬰兒不作匍匐、匍匐不作嬰兒。何以故?二色異故。如是童子、少年、壯年、老年色不應相續有,失親屬法無父無子。若爾者,唯有嬰兒應得父,餘則匍匐乃至老年不應有分。是故二俱有過。
答える者曰く、一切の諸行は虚妄の相なるがゆえに空である。諸行は生滅住せず、自性なきがゆえに空である。諸行とは五陰を指し、行に随って生ず。五陰を行と名づく。この五陰は皆虚妄にして確定の相なし。なぜか。嬰児の時の色は匍匐の時の色でなく、匍匐の時の色は行歩の時の色でなく、行歩の時の色は童子の時の色でなく、童子の時の色は壮年の時の色でなく、壮年の時の色は老年の時の色でないが如し。色は念々住せざるがゆえに、一つの決定の性を分別して求めて得られない。嬰児の色は、すなわち匍匐の色より老年の色に至るまで同一か、それとも相異か。二種とも過失が有る。なぜか。もし嬰児の色がすなわち匍匐の色より老年の色に至るならば、これにようてはただ一種の色あるのみで、皆嬰児と成るべきで、匍匐より老年に至るまでなし。また泥団が常に泥団にして、終に瓶を作さざるが如し。なぜか。色が常に確定するがゆえである。もし嬰児の色が匍匐の色に異なれば、嬰児は匍匐を作さず、匍匐もまた嬰児を作さない。なぜか。二種の色が相異なるがゆえである。このようであれば童子・少年・壮年・老年の色は相続して有るべきではなく、すなわち親属の法を失い、父なく子なし。もしこのようであれば、ただ嬰児のみ父を作ることを得べきで、その余の匍匐より老年に至るまで分有るべきではない。ゆえに二種とも過失が有る。
問曰:色雖不定,嬰兒色滅已,相續更生乃至老年色,無有如上過。
問う者曰く、色は確定しないといえども、嬰児の色が滅したる後、相続してさらに生じて老年の色に至る。前の諸の過失はない。
答曰:嬰兒色相續生者,為滅已相續生?為不滅相續生?若嬰兒色滅,云何有相續?以無因故。如雖有薪可燃,火滅故無有相續。若嬰兒色不滅而相續者,則嬰兒色不滅,常住本相亦無相續。
答える者曰く、いわゆる嬰児の色が相続して生ずとは、滅したる後に相続して生ずるか、それとも滅せずして相続して生ずるか。もし嬰児の色が滅せば、どうしてなお相続があらんか。因なきがゆえである。薪有りて燃ゆべきも、火滅せば相続なきが如し。もし嬰児の色が滅せずして相続すれば、嬰児の色は滅せず、常に本よりの相に住して、また相続なし。
問曰:我不說滅不滅故相續生,但說不住相似生,故言相續生。
問う者曰く、私は滅または不滅によりて相続して生ずと説くのではなく、ただ住せずして相似して生ずると説くのみ。ゆえに相続生と名づく。
答曰:若爾者,則有定色而更生,如是應有千萬種色。但是事不然,如是亦無相續。如是一切處求色無有定相,但以世俗言說故有。如芭蕉樹求實不可得,但有皮葉。如是智者求色相念念滅,更無實色可得,不住色形色相。相似次第生難可分別,如燈炎分別定色不可得,從是定色更有色生不可得。是故色無性故空,但以世俗言說故有。受亦如是,智者種種觀察,次第相似故生滅難可別知,如水流相續,但以覺故說三受在身。是故當知,受同色說。想因名相生,若離名相則不生。是故佛說,分別知名字相故名為想。非決定先有,從眾緣生無定性,無定性故如影隨形。因形有影、無形則無影,影無決定性。若定有者,離形應有影。而實不爾,是故從眾緣生,無自性故不可得。想亦如是,但因外名相,以世俗言說故有。識因色聲香味觸等、眼耳鼻舌身等生,以眼等諸根別異故,識有別異。是識為在色、為在眼、為在中間?無有決定。但生已識塵識此人、識彼人。知此人識為即是知彼人識。為異是二,難可分別。如眼識,耳識亦難可分別。以難分別故,或言一或言異,無有決定分別,但從眾緣生故,眼等分別故空無自性。如伎人含一珠出已復示人則生疑,為是本珠、為更有異?識亦如是,生已更生,為是本識、為是異識?是故當知,識不住故無自性,虛誑如幻。諸行亦如是。諸行者,身、口、意。行有二種:淨、不淨。何等為不淨?惱眾生、貪著等,名不淨。不惱眾生、實語、不貪著等,名淨,或增或減。淨行者,在人中、欲天、色天、無色天受果報已則減,還作故名增。不淨行者亦如是,在地獄、畜生、餓鬼、阿修羅中受果報已則減,還作故名增。是故諸行有增有減故不住。如人有病,隨宜將適病則除愈,不將適病則還集。諸行亦如是,有增有減故不決定,但以世俗言說故有,因世諦故得見第一義諦。
答える者曰く、もしこのようであれば、確定の色有りてさらに生ず。これにようては千万種の色有るべきである。しかるにこの事はそうではない。このようにもまた相続なし。このように一切の処に色を求めて確定の相なく、ただ世俗言説に随いてこそ有る。芭蕉樹の如く、実を求めて得られず、ただ皮と葉のみ。このように智者が色の相を求むれば、念々に滅して、さらに実在の色を得べからず、住著する色の形の色の相もなし。相似次第に生じて、分別し難きこと灯焔の如し。一つの確定の色を分別して求めて得られず、この確定の色からさらに色を生ずるもまた求めて得られない。ゆえに色に性なく、これによりて空である。ただ世俗言説に随いてこそ有る。受もまたこのようである。智者が種種に観察すれば、次第相似なるがゆえに生滅は分別知り難く、水流の相続するが如く、ただ覚察するによって身の上に三種の受有りと説く。ゆえに知るべし、受は色と同じく説くと。想は、名と相によって生ず。もし名と相を離れれば生ぜない。ゆえに仏は説く、名字の相を分別了知してこそ想と名づくと。決定して先前にすでに有るのではなく、衆縁に随って生じ、定性なし。定性なきは、影の形に随うが如し。形によってこそ影有り、形なければ影なし。影に決定の性なし。もし決定有れば、形を離れて影有るべきである。しかるに実際はそうではない。ゆえに衆縁に随って生じ、自性なきがゆえに求めて得られない。想もまたこのようで、ただ外在の名相に依り、世俗言説に随いてこそ有る。識は、色声香味触等・眼耳鼻舌身等に依って生ず。眼等の諸根が各各差別なるがゆえに、識に差別有り。この識は色の中に在るか、眼の中に在るか、中間に在るか。いずれも決定なし。ただ生じたる後に、塵を識り、この人を識り、かの人を識る。この人を知る識は、すなわちかの人を知る識か、それとも相異か。この二種は分別し難し。眼識がこのようであれば、耳識もまた分別し難し。分別し難きがゆえに、あるいは一と説き、あるいは異と説く。決定の分別なく、ただ衆縁に随って生じ、眼等の分別なるがゆえに、空にして自性なし。伎人の一つの珠を含み、取り出してまた人に示せば、疑いを生ず。本来の那の珠か、別に一つの珠有るかと。識もまたこのようで、生じてさらに生ず。本来の識か、別の一つの識か。ゆえに知るべし、識は住せず、これによりて自性なく、虚誑にして幻の如しと。諸行もまたこのようである。いわゆる諸行とは、身・口・意である。行に二種有る。浄と不浄である。何を不浄と為すか。衆生を悩乱し、貪着等を、不浄と名づく。衆生を悩乱せず、実語・不貪着等を、浄と名づく。あるいは増あり、あるいは減あり。浄行は、人中・欲天・色天・無色天の中にて果報を受け了われば減し、さらに作せば増と名づく。不浄行もまたこのようで、地獄・畜生・餓鬼・阿修羅の中にて果報を受け了われば減し、さらに作せば増と名づく。ゆえに諸行には増減有り。これによりて住せず。人の病有るが如く、宜に随って調理すれば病は除愈し、調理せざれば病は還りて聚まる。諸行もまたこのようで、増減有るがゆえに確定せず、ただ世俗言説に随いてこそ有る。世諦に依ってこそ、第一義諦を見ることを得る。
所謂無明緣諸行,從諸行有識著,識著故有名色,從名色有六入,從六入有觸,從觸有受,從受有愛,從愛有取,從取有有,從有有生,從生有老、死、憂悲苦惱、恩愛別苦、怨憎會苦等,如是諸苦皆以行為本。佛以世諦故說,若得第一義諦生真智慧者則無明息,無明息故諸行亦不集,諸行不集故見諦所斷身見、疑、戒取等斷,及思惟所斷貪、恚、色染、無色染、調戲無明亦斷。以是斷故一一分滅,所謂無明、諸行、識、名色、六入、觸、受、愛、取、有、生、老死憂悲苦惱恩愛別苦怨憎會苦等皆滅。以是滅故,五陰身畢竟滅更無有餘,唯但有空。是故佛欲示空義故,說諸行虛誑。復次諸法無性故虛誑,虛誑故空。如偈說:
いわゆる無明縁の諸行とは、諸行に随って識の執著有り、識が執著するがゆえに名色有り、名色に随って六入有り、六入に随って触有り、触に随って受有り、受に随って愛有り、愛に随って取有り、取に随って有有り、有に随って生有り、生に随って老・死・憂悲苦悩・恩愛別離之苦・怨憎相会之苦等が有る。これらの苦は皆行を以て根本と為す。仏は世諦のためにこそかく説く。もし第一義諦を得て真の智慧を生ぜば、無明は息む。無明息めば、諸行もまた聚まらない。諸行聚まらざれば、見諦の断ずる所の身見・疑・戒取等は断し、および思惟の断ずる所の貪・恚・色染・無色染・掉挙・無明もまた断ず。これらが断ずるがゆえに、一々の支は滅す。いわゆる無明・諸行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死憂悲苦悩恩愛別離之苦怨憎相会之苦等、皆滅す。これらが滅するがゆえに、五陰身は畢竟に滅して、さらに余残なく、ただ空のみ残る。ゆえに仏は空の義理を顕示せんと欲して、諸行は虚誑と説く。さらにいえば、諸法に性なきがゆえに虚誑であり、虚誑なるがゆえに空である。偈の説く所の如く、
「諸法有異故,知皆是無性;
「諸法は差異有るがゆえに、性なきことを知る。
無性法亦無,一切法空故。」
性なきの法もまたなし。一切法空なるがゆえである。」
諸法無有性。何以故?諸法雖生,不住自性,是故無性。如嬰兒定住自性者,終不作匍匐乃至老年。而嬰兒次第相續有異相現,匍匐乃至老年,是故說見諸法異相故知無性。
諸法に性なし。なぜか。諸法は生ずるといえども、自性に住せざるがゆえに性なし。嬰児がもし確定して自性に住せば、終に匍匐より老年に至るを作さざるが如し。しかるに嬰児は次第相続して、相異の相を顕現し、匍匐より老年に至る。ゆえに諸法の相異なる相を見て、こそ性なきことを知ると説く。
問曰:若諸法異相無性,即有無性法,有何咎?
問う者曰く、もし諸法が相異の相によりて性なきがゆえに、性なしという法が有れば、何の過失が有るか。
答曰:若無性,云何有法?云何有相?何以故?無有根本故。但為破性,故說無性。是無性法若有者,不名一切法空;若一切法空,云何有無性法?
答える者曰く、もし性なければ、どうして法有り、どうして相有ることができようか。なぜか。根本なきがゆえである。ただ性を破るがためにこそ性なしと説く。この性なきの法がもし有れば、一切法空と名づけない。もし一切法空なれば、どうしてなお性なきの法があらんか。
問曰:
問う者曰く、
「諸法若無性,云何說嬰兒,
「諸法に性なければ、どうして嬰児より
乃至於老年,而有種種異?」
老年に至るまで、種種の差異有るを説き得んか。」
諸法若無性則無有異相,而汝說有異相,是故有諸法性。若無諸法性,云何有異相?
諸法に性なければ、相異の相なし。しかるにあなたは相異の相有りと説くがゆえに、諸法の性有り。もし諸法の性なければ、どうして相異の相があらんか。
答曰:
答える者曰く、
「若諸法有性,云何而得異?
「諸法にもし性有れば、どうしてなお差異できようか。
若諸法無性,云何而有異?」
諸法に性なければ、どうしてなお差異有ることができようか。」
若諸法決定有性,云何可得異?性名決定有,不可變異。如真金不可變,又如暗性不變為明、明性不變為暗。復次:
もし諸法に決定の性有れば、どうしてなお差異できようか。性とは、決定有ると名づけ、変異すべからず。真金の変すべからざるが如く、また暗の性は明に変らず、明の性は暗に変らざるが如し。さらにいえば、
「是法則無異,異法亦無異,
「この法に差異なく、相異なる法にも差異なし。
如壯不作老,老亦不作壯。」
壮年は老年を作さず、老年もまた壮年を作さざるが如し。」
若法有異者,則應有異相。為即是法異?為異法異?是二不然。若即是法異,則老應作老;而老實不作老。若異法異者,老與壯異,壯應作老;而壯實不作老。二俱有過。
もし法に差異有れば、相異の相有るべきである。是れこの法が差異するか、それとも別の一法が差異するか。この二種とも当らない。もしこの法が差異するならば、老年は老年を作すべきである。しかるに老年は実に老年を作さない。もし別の一法が差異するならば、老年は壮年と相異なり、壮年は老年を作すべきである。しかるに壮年は実に老年を作さない。二種とも過失が有る。
問曰:若法即異,有何咎?如今眼見年少經日月歲數則老。
問う者曰く、もしこの法が差異すると言うに、何の過失が有るか。いま眼に年少の日月歳数を経て老いるを見る。
答曰:
答える者曰く、
「若是法即異,乳應即是酪;
「もしこの法が差異すれば、乳はすなわち酪であるべきである。
離乳有何法,而能作於酪?」
乳を離れてさらに何の法が有りて、酪を作り成すことができようか。」
若是法即異者,乳應即是酪,更不須因緣。是事不然。何以故?乳與酪有種種異故。乳不即是酪,是故法不即異。若謂異法為異者,是亦不然,離乳更有何物為酪?如是思惟,是法不異、異法亦不異,是故不應偏有所執。
もしこの法が差異すれば、乳はすなわち酪であるべきで、さらに因縁を須いない。この事は当らない。なぜか。乳と酪とには種種の差異有るがゆえである。乳はすなわち酪ではない。ゆえに法はすなわち差異ではない。もし別の一法が差異すると言うならば、これも当らない。乳を離れて、さらに何の物が有りて酪ならんか。このように思惟すれば、この法は差異せず、相異なる法もまた差異せず。ゆえに一辺に偏執すべきではない。
問曰:破是、破異猶有空在,空即是法。
問う者曰く、「是」を破り「異」を破れば、なお空有り。空はすなわち法である。
答曰:
答える者曰く、
「若有不空法,則應有空法;
「もし不空の法有れば、空の法有るべきである。
實無不空法,何得有空法?」
実に不空の法なければ、どうしてなお空の法があらんか。」
若有不空法,相因故應有空法。而上來種種因緣破不空法,不空法無故則無相待,無相待故何有空法?
もし不空の法有れば、相因なるがゆえに空の法有るべきである。しかるに上に種種の因縁をもって不空の法を破った。不空の法なければ、相待なし。相待なければ、どうしてなお空の法があらんか。
問曰:汝說不空法無故空法亦無。若爾者,即是說空但無相待,故不應有執。若有對應有相待、若無對則無相待,相待無故則無相,無相故則無執。如是即為說空。
問う者曰く、あなたは不空の法なく、空の法もまたなしと説く。もしこのようであれば、すなわち空を説くに在り。ただ相待なきがゆえに、執有るべきではない。もし对有れば、相待有るべきである。もし対なければ、相待なし。相待なければ、相なし。相なければ、執なし。このようにもすなわち空を説くに在り。
答曰:
答える者曰く、
「大聖說空法,為離諸見故;
「大聖が空法を説くは、種種の見を離れしめんがためである。
若復見有空,諸佛所不化。」
もしまた空有ると見れば、諸仏も教化すること能わず。」
大聖為破六十二諸見,及無明、愛等諸煩惱故說空。若人於空復生見者,是人不可化。譬如有病須服藥可治,若藥復為病則不可治。如火從薪出以水可滅,若從水生為用何滅?如空是水,能滅諸煩惱火,有人罪重貪著心深,智慧鈍故於空生見,或謂有空、或謂無空,因有無還起煩惱。若以空化此人者,則言我久知是空,若離是空則無涅槃道。如經說,離空無相無作門得解脫者,但有言說。
大聖は六十二種の見、および無明・愛等の種種の煩悩を破らんがため、こそ空を説く。もし人が空に於いてまた見を生ぜば、この人は教化すべからず。たとえば病有りて薬を服することを須うれば治すべきが如し。もし薬がまた病と成れば、治すべからず。火が薪の中から出れば、水をもって滅すべきが如し。もし水の中から生ぜば、何をもって滅さんか。空は水の如く、よく種種の煩悩の火を滅す。ある人は罪重く、貪着の心深く、智慧鈍くして、空に於いて見を生じ、あるいは空有りと言い、あるいは空なしと言い、有無によりてまた煩悩を生起す。もし空を用いてこの人を教化せば、彼は言わん、我はすでにこの空を知る、と。もしこの空を離れれば、すなわち涅槃の道なし。経の上に説くが如く、空・無相・無作の三門を離れて解脱を得るは、ただ言説のみ。
中論觀合品第十四(八偈)
《中論》観合品第十四(八首の偈)
說曰:上〈破根品〉中說見、所見、見者皆不成。此三事無異法故則無合。無合義今當說。問曰:何故眼等三事無合?
説く者曰く、上〈破根品〉の中に見・所見・見者は皆成立せざると説いた。この三事に相異の法なきがゆえに、合なし。合なきの義理を、いま説くべきである。問う者曰く、なぜ眼等の三事に合なきか。
答曰:
答える者曰く、
「見可見見者,是三各異方;
「見・可見・見者は、この三つは各各同じからぬ処に在り。
如是三法異,終無有合時。」
このように三法は相異にして、終に合の時なし。」
見是眼根、可見是色塵、見者是我,是三事各在異處,終無合時。異處者,眼在身內,色在身外,我者或言在身內、或言遍一切處,是故無合。復次若謂有見法,為合而見、不合而見?二俱不然。何以故?若合而見者,隨有塵處應有根有我。但是事不然,是故不合。若不合而見者,根我塵各在異處亦應有見,而不見。何以故?如眼根在此,不見遠處瓶,是故二俱不見。
見は眼根、可見は色塵、見者は我である。この三事は各各同じからぬ処所に在り、終に合の時なし。いわゆる同じからぬ処所とは、眼は身の中に在り、色は身の外に在り、我はあるいは身の中に在ると説き、あるいは遍く一切の処に在ると説く。ゆえに合なし。さらにいえば、もし見の法有れば、合してこそ見るか、合せずしても見るか。二種とも当らない。なぜか。もし合してこそ見れば、およそ塵有る処には皆根有り・我有るべきである。しかるにこの事はそうではない。ゆえに合せず。もし合せずしても見れば、根・我・塵が各各同じからぬ処所に在るも、見有るべきであるが、見えない。なぜか。眼根がここに在るが如く、遠処の瓶を見ること能わず。ゆえに二種とも見えない。
問曰:我、意、根、塵四事合,故有知生,能知瓶衣等萬物,是故有見、可見、見者。
問う者曰く、我・意・根・塵の四事が和合するがゆえに、知が生じ出て、瓶・衣等の万物を知ることができる。ゆえに見・可見・見者有る。
答曰:是事〈根品〉中已破,今當更說。汝說四事合故知生,是知為見瓶衣等物已生、為未見而生?若見已生者,知則無用。若未見而生者,是則未合。云何有知生?若謂四事一時合而知生,是亦不然。若一時生則無相待。何以故?先有瓶、次見、後知生,一時則無先後。知無故,見、可見、見者亦無。如是諸法如幻如夢無有定相,何得有合?無合故空。復次:
答える者曰く、この事は〈根品〉の中ですでに破った。いまさらに説かんとする。あなたは四事和合するがゆえに知が生ずと言う。この知は、瓶・衣等の物を見て後に生ずるか、まだ見ざれば生ずるか。もし見て後に生ずれば、知は用なし。もしまだ見ざれば生ずれば、それはまだ合していない。どうして知の生ずる有らんか。もし四事が同一時に合して知が生ずと言うならば、これも当らない。もし同一時に生ずれば、相待なし。なぜか。先に瓶有り、次に見有り、しかる後に知が生ず。同一時なれば先後なし。知なければ、見・可見・見者もまたなし。このように諸法は幻の如く夢の如く、確定の相なし。どうして合があらんか。合なきがゆえに空である。さらにいえば、
「染與於可染,染者亦復然,
「染および可染、染者もまたこのようであり、
