中論 巻第一
答曰:是事不然。何以故?燃、可燃俱不成故。燃、可燃若以一法成,若以二法成,二俱不成。
答える者曰く、この事は当らない。なぜか。燃と可燃は皆成立しない。燃と可燃がもし一つの法をもって成就するか、二つの法をもって成就するか、二種とも成立しない。
問曰:且置一異法。若言無燃、可燃,今云何以一異相破?如兔角龜毛,無故不可破。世間眼見實有事,而後可思惟。如有金,然後可燒可鍛。若無燃、可燃,不應以一異法思惟。若汝許有一異法,當知有燃、可燃。若許有者,則為已有。
問う者曰く、是れ一か是れ異かは、しばらく置かん。もし燃なく可燃なきと言うならば、いま何によって一・異の相をもって破るのか。兎角・亀毛の如く、なきがゆえに破ること能わず。世間は眼をもって実有の事を見て、しかる後にこそ思惟することができる。先に金有りて、しかる後にこそ焼くべく鍛ふべきが如し。もし燃・可燃なければ、一・異をもって思惟すべきではない。もしあなたが一・異有ると認めるならば、燃・可燃有ると知るべきである。もし有ると認めるならば、それはすでに有るとしたことになる。
答曰:隨世俗法言說,不應有過。燃、可燃若說一若說異,不名為受。若離世俗言說,則無所論。若不說燃、可燃,云何能有所破?若無所說,則義不可明。如有論者欲破有無,必應言有無,不以稱有無故而受有無。是以隨世間言說故無咎。若口有言便是受者,汝言破即為自破,燃、可燃亦如是。雖有言說亦復不受,是故以一異法思惟燃、可燃,二俱不成。何以故?
答える者曰く、世俗法に随って言説するに、過失有るべきではない。燃・可燃は一と言うも異と言うも、「受」とは名づけない。もし世俗言説を離れれば、論ずべきものなし。もし燃・可燃を説かなければ、どうして破する所有らんか。もし説く所なければ、義理は明らかにならない。論議する人が有無を破らんと欲すれば、必ず有無に言及するが如く、口に有無を称するによって、有無を受けるのではない。これによりて世間言説に随うは、過失なし。もし口が一たび説けばすなわち受けたことになるならば、あなたが「破」と言うもまた自らを破ることになる。燃・可燃もまたこのようである。言説有るといえども、受けることはしない。ゆえに一・異をもって燃・可燃を思惟するに、二種とも成立しない。なぜか。
「若燃是可燃,作作者則一;
「もし燃がすなわち可燃ならば、作と作者とは一である。
若燃異可燃,離可燃有燃。」
もし燃が可燃と異なれば、可燃を離れてなお燃有り。」
燃是火、可燃是薪。作者是人、作是業。若燃、可燃一,則作、作者亦應一。若作、作者一,則陶師與瓶一。作者是陶師、作是瓶,陶師非瓶、瓶非陶師,云何為一?是以作、作者不一;故燃、可燃亦不一。若謂一不可則應異。是亦不然。何以故?若燃與可燃異,應離可燃別有燃。分別是可燃、是燃,處處離可燃應有燃。而實不爾,是故異亦不可。復次:
燃は火であり、可燃は薪である。作者は人であり、作は業である。もし燃と可燃が一ならば、作と作者もまた一であるべきである。もし作と作者が一ならば、陶師と瓶とは一である。作者は陶師であり、作は瓶である。陶師は瓶でなく、瓶は陶師ではない。どうして一であろうか。これによりて作と作者は一ではない。ゆえに燃と可燃もまた一ではない。もし一が行えなければ、異であるべきである。これも当らない。なぜか。もし燃と可燃が異ならば、可燃を離れて別に燃有るべきである。これを可燃、かれを燃と分別して、処処に可燃を離れて皆燃有るべきである。しかるに実際はそうではない。ゆえに異もまた行えない。さらにいえば、
「如是常應燃,不因可燃生;
「このようであれば常に燃えるべきで、可燃を因待せずして生ず。
則無燃火功,亦名無作火。」
すなわち燃火の功作なく、また無作の火と名づくべし。」
若燃、可燃異,則燃不待可燃而常燃。若常燃者則自住其體、不待因緣,人功則空。人功者,將護火令燃。是功現有,是故知火不異可燃。
もし燃と可燃が異ならば、燃は可燃を待たずして常に燃えるべきである。もし常に燃えれば、自らその体に住して因縁を待たず、人の功作は空しきとなる。いわゆる人の功作とは、火を看護して燃えしむることである。この功作が現前に有るがゆえに、火は可燃に異ならざると知る。
復次若燃異可燃,燃即無作。離可燃,火何所然?若爾者,火則無作。無作火,無有是事。
さらにいえば、もし燃が可燃に異なれば、燃には作がない。可燃を離れて、火はなお何を焼くか。もしこのようであれば、火には作がない。作なきの火とは、この事はない。
問曰:云何火不從因緣生,人功亦空?
問う者曰く、なぜ火は因縁から生ぜず、人の功作も空しきと言うのか。
答曰:
答える者曰く、
「燃不待可燃,則不從緣生;
「燃は可燃を待たざれば、縁に随って生ぜず。
火若常燃者,人功則應空。」
火がもし常に燃えれば、人の功作は空しきとなるべし。」
燃、可燃若異,則不待可燃有燃。若不待可燃有然,則無相因法,是故不從因緣生。復次若燃異可燃,則應常燃。若常燃者,應離可燃別見有燃,更不須人功。何以故?
燃と可燃がもし異ならば、可燃を待たずして燃有り。もし可燃を待たずして燃有れば、互いに因待する法なし。ゆえに因縁に随って生ぜず。さらにいえば、もし燃が可燃に異なれば、常に燃えるべきである。もし常に燃えれば、可燃を離れて別に燃有るを見るべきであり、さらに人の功作を須いない。なぜか。
「若汝謂燃時,名為可燃者;
「もしあなたが、まさに燃ゆる時をこそ可燃と名づくと言うならば、
爾時但有薪,何物燃可燃?」
その時にはただ薪あるのみで、何物がこの可燃を燃やすか。」
若謂先有薪,燒時名可燃者,是事不爾。若離燃別有可燃者,云何言燃時名可燃?復次:
もし先前にすでに薪有りて、焼く時をこそ可燃と名づくと言うならば、この事は当らない。もし燃を離れて別に可燃有れば、どうして燃ゆる時をこそ可燃と名づくと言えようか。さらにいえば、
「若異則不至,不至則不燒,
「もし異なれば到ること能わず、到らざれば焼かず。
不燒則不滅,不滅則常住。」
焼かざれば滅せず、滅せざれば常住なり。」
若燃異可燃,則燃不應至可燃。何以故?不相待成故。若燃不相待成,則自住其體,何用可燃?是故不至。若不至,則不燃可燃。何以故?無有不至而能燒故。若不燒則無滅,應常住自相。是事不爾。
もし燃が可燃に異なれば、燃は可燃に到るべきではない。なぜか。相待せずして成就するがゆえである。もし燃が相待せずして成就すれば、自らその体に住して、さらに可燃を用いて何をせんか。ゆえに到ること能わず。もし到らざれば、可燃を燃やさず。なぜか。到らざるにして能く焼くことはないからである。もし焼かざればすなわち滅なく、常にその相に住すべきである。この事はそうではない。
問曰:
問う者曰く、
「燃與可燃異,而能至可燃;
「燃と可燃は異なれども、可燃に到ることができる。
如此至彼人,彼人至此人。」
この人がかの人に至り、かの人がこの人に至るが如し。」
燃與可燃異,而能至可燃;如男至於女,如女至於男。
燃と可燃は異なれども、可燃に到ることができる。男が女の許に至り、女が男の許に至るが如し。
答曰:
答える者曰く、
「若謂燃可燃,二俱相離者,
「もし燃と可燃の二つが皆互いに相離れると言えば、
如是燃則能,至於彼可燃。」
このようであってこそ燃はかの可燃に到ることができる。」
若離燃有可燃、若離可燃有燃,各自成者,如是則應燃至可燃。而實不爾。何以故?離燃無可燃、離可燃無燃故。今離男有女、離女有男,是故汝喻非也。喻不成故,燃不至可燃。
もし燃を離れて可燃有り、可燃を離れて燃有りて、各々成就せば、こそ燃は可燃に到るべきである。しかるに実際はそうではない。なぜか。燃を離れて可燃なく、可燃を離れて燃なし。いま男を離れて女有り、女を離れて男有るがゆえに、あなたの比喩は当らない。比喩が成立せざれば、燃は可燃に到ることができない。
問曰:燃、可燃相待而有,因可燃有燃、因燃有可燃,二法相待成。
問う者曰く、燃と可燃は互いに因待して有る。可燃によってこそ燃有り、燃によってこそ可燃有り。二法は相待して成就する。
答曰:
答える者曰く、
「若因可燃燃,因燃有可燃,
「もし可燃によってこそ燃有り、燃によってこそ可燃有れば、
先定有何法,而有燃可燃?」
先前にまずどの法を定めてか、燃と可燃とを有さんか。」
若因可燃而燃成,亦應因燃可燃成。是中若先定有可燃,則因可燃而燃成。若先定有燃,則因燃可燃成。今若因可燃而燃成者,則先有可燃而後有燃,不應待燃而有可燃。何以故?可燃在先、燃在後故。若燃不燃可燃,是則可燃不成;又可燃不在餘處,離於燃故。若可燃不成,燃亦不成。若先燃後有可燃,燃亦有如是過。是故燃、可燃二俱不成。復次:
もし可燃によって燃が成就すれば、また燃によって可燃が成就すべきである。ここにもし先前に決定してすでに可燃有れば、こそ可燃によって燃が成就するを談じ得る。もし先前に決定してすでに燃有れば、こそ燃によって可燃が成就するを談じ得る。いまもし可燃によって燃が成就すれば、すなわち先に可燃有りて後に燃有る。さらに燃を待ちて可燃有るを要すべきではない。なぜか。可燃は先に在り、燃は後に在るからである。もし燃が可燃を燃やさざれば、可燃は成立しない。しかも可燃は別の処に在るのではない。燃を離れたればからである。もし可燃が成立せざれば、燃もまた成立しない。もし先に燃有りて後に可燃有れば、燃もまた同様の過失が有る。ゆえに燃・可燃の二つとも成立しない。さらにいえば、
「若因可燃燃,則燃成復成;
「もし可燃によってこそ燃有れば、燃は成就してなおさらに成就せんとす。
是為可燃中,則為無有燃。」
これはすなわち可燃の中に燃なきに等しき。」
若欲因可燃而成燃,則燃成已復成。何以故?燃自住於燃中。若燃不自住其體,從可燃成者,無有是事。是故有是燃從可燃成,今則燃成復成,有如是過。復有可燃無燃過。何以故?可燃離燃自住其體故。是故燃可燃相因待,無有是事。復次:
もし可燃を想いをもって燃を成就せんとすれば、すなわち燃はすでに成就してなおさらに成就せんとする。なぜか。燃は自ら燃の中に住するからである。もし燃が自らその体に住せずして可燃から成就すれば、この事はない。ゆえに既にこの燃有りて可燃から成就し、いままた燃は成就してさらに成就せんとする。この類の過失が有る。また可燃に燃なきの過失も有る。なぜか。可燃は燃を離れて自らその体に住するがゆえである。ゆえに燃・可燃が互いに因待すると説くは、この事はない。さらにいえば、
「若法因待成,是法還成待;
「もし法が因待によって成就せば、この法はまたかえってかの待つ所を成就する。
今則無因待,亦無所成法。」
いまやすなわち因待もなく、成就する所の法もなし。」
若法因待成,是法還成本因待。如是決定則無二事。如因可燃而成燃,還因於燃而成可燃,是則二俱無定。無定故,不可得。何以故?
もし法が因待によって成就せば、この法はまたかえって本来の待つ所を成就する。このように決定すれば、二つの事は皆なし。可燃によって燃を成就し、またかえって燃によって可燃を成就するが如く、この二つは皆確定なし。確定なきがゆえに得られない。なぜか。
「若法有待成,未成云何待?
「もし法が待つ所有りて成就せば、なお成就せざる時にどうして待たんか。
若成已有待,成已何用待?」
もしすでに成就して待有れば、すでに成就したのになお待ちて何をせん。」
若法因待成,是法先未成,未成則無,無則云何有因待?若是法先已成,已成何用因待?是二俱不相因待,是故汝先說燃,可燃相因待成,無有是事。是故:
もし法が因待によって成就せば、この法は先前にまだ成就していない。まだ成就せざればすなわち無であり、無がどうしてなお因待があらんか。もしこの法が先前にすでに成就せば、すでに成就したのになお因待を用いて何をせんか。この二種とも相因待しない。ゆえにあなたが先前に燃・可燃は相因待して成就すると説いたは、この事はない。これによりて、
「因可燃無燃,不因亦無燃;
「可燃によって燃なく、可燃によらずしても燃なし。
因燃無可燃,不因無可燃。」
燃によって可燃なく、燃によらずしても可燃なし。」
今因待可燃,燃不成;不因待可燃,燃亦不成。可燃亦如是。因燃、不因燃,二俱不成,是過先已說。復次:
いま可燃を因待すれば燃は成立せず、可燃を因待せざれば燃も成立せず。可燃もまたこのようである。燃によらず、燃によらざれば、二種とも成立しない。これらの過失は前にすでに説いた。さらにいえば、
「燃不餘處來,燃處亦無燃,
「燃は別の処から来るのでもなく、燃の処所の中にも燃なし。
可燃亦如是,餘如去來說。」
可燃もまたこのようである。その余は〈去来品〉の説くが如し。」
燃不於餘方來入可燃,可燃中亦無燃,析薪求燃不可得故。可燃亦如是,不從餘處來入燃中,燃中亦無可燃。如燃已不燃,未燃不燃、燃時不燃,是義如〈去來〉中說。是故:
燃は別の処所から来たりて可燃に入るのではなく、可燃の中にも燃がない。薪を劈きて燃を求めて得られざるがゆえである。可燃もまたこのようで、別の処所から来たりて燃の中に入るのではなく、燃の中にも可燃がない。すでに燃えたるは燃やさず、まだ燃えざるは燃やさず、まさに燃ゆるも燃やさず。この義理は〈去来品〉の説くが如し。これによりて、
「可燃即非燃,離可燃無燃;
「可燃はすなわち燃ではなく、可燃を離れて燃なし。
燃無有可燃,燃中無可燃,
燃には可燃なく、燃の中に可燃なく、
可燃中無燃。」
可燃の中にも燃なし。」
可燃即非燃。何以故?先已說作、作者一過故。離可燃無燃,有常燃等過故。燃無有可燃、燃中無可燃、可燃中無燃,以有異過故,三皆不成。
可燃はすなわち燃ではない。なぜか。先前にすでに作・作者が一なるの過失を説いたがゆえである。可燃を離れて燃なし。常に燃える等の過失有るがゆえである。燃には可燃なく、燃の中に可燃なく、可燃の中に燃なし。「是異」の過失有るがゆえに、三種とも成立しない。
問曰:何故說燃、可燃?
問う者曰く、なぜ燃・可燃を説くのか。
答曰:如因可燃有燃,如是因受有受者。受名五陰,受者名人。燃可燃不成故,受受者亦不成。何以故?
答える者曰く、可燃によってこそ燃有るが如く、このように受によってこそ受者有る。受とは五陰を指し、受者とは人を指す。燃・可燃が成立せざれば、受・受者もまた成立しない。なぜか。
「以燃可燃法,說受受者法,
「燃・可燃の法を用いて、受・受者の法を説き、
及以說瓶衣,一切等諸法。」
および瓶・衣を説き、一切等の諸法を説く。」
如可燃非燃,如是受非受者,作作者一過故。又離受無受者,異不可得故。以異過故,三皆不成。如受受者,外瓶衣等一切法皆同上說,無生畢竟空。是故:
可燃が燃でないが如く、このように受は受者でない。作・作者が一なるの過失有るがゆえである。また受を離れて受者なし。「是異」が得られざるがゆえである。「是異」の過失有るがゆえに、三種とも成立しない。受・受者がこのようであるが如く、外在の瓶・衣等の一切法も皆前に説いたと同じく、無生にして畢竟空である。これによりて、
「若人說有我,諸法各異相;
「もしある人が我有りと言い、諸法は各々の相有りと言わば、
當知如是人,不得佛法味。」
かかる人は仏法の滋味を得られないと知るべきである。」
