中論 巻第一
「作者不作定,亦不作不定,
「作者は決定を作さず、不決定も作さず、
及定不定業,其過如先說。」
また決定また不決定の業も作さず。過失は先前に説いたが如し。」
定業已破,不定業亦破,定不定業亦破;今欲一時總破,故說是偈,是故作者不能作三種業。今三種作者,亦不能作業。何以故?
決定の業はすでに破り、不決定の業もまた破り、また決定また不決定の業もまた破った。いま同一時に総べて破らんと欲し、ゆえにこの首の偈を説く。これによりて作者は三種の業を作すことができない。いま三種の作者もまた作業することができない。なぜか。
「作者定不定、亦定亦不定,
「作者はあるいは決定、あるいは不決定、あるいはまた決定また不決定、
不能作於業,其過如先說。」
いずれも作業することができない。過失は先前に説いたが如し。」
作者定、不定、亦定亦不定,不能作於業。何以故?如先三種過因緣。此中應廣說,如是一切處求作者作業,皆不可得。
作者はあるいは決定、あるいは不決定、あるいはまた決定また不決定、いずれも作業することができない。なぜか。先前に説いた三種の過失の因縁の如し。ここに広く説くべきである。このように一切の処に作者・作業を求めて、皆得られない。
問曰:若言無作、無作者,則復墮無因。
問う者曰く、もし作なく・作者なしと言うならば、また無因に堕する。
答曰:是業從眾緣生,假名為有,無有決定。不如汝所說。何以故?
答える者曰く、この業は衆縁に随って生じ、仮名をもって有と名づくのであって、決定有るのではない。あなたの説く所の如くではない。なぜか。
「因業有作者,因作者有業,
「業によってこそ作者有り、作者によってこそ業有り。
成業義如是,更無有餘事。」
業を成就する義理はこのようであって、さらにその余の事はない。」
業先無決定,因人起業;因業有作者,作者亦無決定。因有作業,名為作者,二事和合故得成作、作者。若從和合生則無自性,無自性故空,空則無所生。但隨凡夫憶想分別故,說有作業有作者;第一義中無作業、無作者。復次:
業は先前に決定なく、人によってこそ業を起こす。業によってこそ作者有り、作者にもまた決定がない。作業有るがゆえにこそ作者と名づく。両事和合してこそ、作と作者とを成就する。もし和合から生ずれば、自性がない。自性なきがゆえに空である。空なれば、生ずる所なし。ただ凡夫の憶想分別に随うがゆえに、作業有り・作者有りと説く。第一義には作業なく・作者なし。さらにいえば、
「如破作作者,受受者亦爾,
「作と作者を破るが如く、受と受者もまたこのようであり、
及一切諸法,亦應如是破。」
および一切の諸法もまた、このように破るべきである。」
如作、作者不得相離,不相離故不決定,無決定故無自性。受受者亦如是,受名五陰身,受者是人,如是離人無五陰、離五陰無人,但從眾緣生如受受者。餘一切法亦應如是破。
作と作者が互いに相離れること能わざるが如く、相離れること能わざるがゆえに不決定であり、不決定なるがゆえに自性がない。受と受者もまたこのようである。受とは五陰身を指し、受者とは人である。人を離れて五陰なく、五陰を離れて人なし。ただ衆縁に随って生ずるは、受と受者の如し。その余の一切法もまたこのように破るべきである。
中論觀本住品第九(十二偈)
《中論》観本住品第九(十二首の偈)
問曰:有人言:
問う者曰く、ある人は説く。
「眼耳等諸根,苦樂等諸法,
「眼耳等の諸根、苦楽等の諸法、
誰有如是事?是則名本住。
誰がこれらの事を有するか。それをこそ本住と名づける。
若無有本住,誰有眼等法?
もし本住なければ、誰が眼耳等のこれらの法を有するか。
以是故當知,先已有本住。」
これによりて知るべし、先前にすでに本住有ることを。」
眼耳鼻舌身命等諸根,名為眼耳等根。苦受、樂受、不苦不樂受、想、思、憶念等心心數法,名為苦樂等法。有論師言:先未有眼等法,應有本住。因是本住,眼等諸根得增長。若無本住,身及眼等諸根,為因何生而得增長?答曰:
眼・耳・鼻・舌・身・命等の諸根を眼耳等根と名づく。苦受・楽受・不苦不楽受・想・思・憶念等の心と心所を苦楽等法と名づく。ある論師は説く。まだ眼等の法がない時に、すでに本住有るべきである。この本住によって、眼等の諸根はこそ増長を得る。もし本住なければ、身および眼等の諸根は、何の因に随って生じ出て増長せんか。答える者曰く、
「若離眼等根,及苦樂等法,
「もし眼等根を離れ、および苦楽等法を離れて、
先有本住者,以何而可知?」
先前にすでに本住有れば、何によってか知ることができよう。」
若離眼耳等根、苦樂等法先有本住者,以何可說?以何可知?如外法瓶衣等,以眼等根得知;內法以苦樂等根得知。如經中說:可壞是色相,能受是受相,能識是識相。汝說離眼耳苦樂等先有本住者,以何可知說有是法?
もし眼耳等根・苦楽等法を離れて、先前にすでに本住有れば、何によって説くことができ、何によって知ることができようか。外在の瓶・衣等の如く、眼等根によってこそ知る。内在の法は、苦楽等によってこそ知る。経の中に説くが如く、可壊は色の相、能受は受の相、能識は識の相である。あなたは眼耳・苦楽等を離れて、先前にすでに本住有りと説くが、何によって知り、何によってこの法有りと説くのか。
問曰:有論師言:出入息、視眴、壽命、思惟、苦樂、憎愛、動發等是神相。若無有神,云何有出入息等相?是故當知,離眼耳等根、苦樂等法先有本住。
問う者曰く、ある論師は説く。出入息・眨眼・寿命・思惟・苦楽・憎愛・発動等は神の相である。もし神なければ、どうして出入息等の相があろうか。ゆえに知るべし、眼耳等根・苦楽等法を離れて、先前にすでに本住有ることを。
答曰:是神若有,應在身內,如壁中有柱;若在身外,如人被鎧。若在身內,身則不可壞,神常在內故。是故言神在身內,但有言說,虛妄無實。若在身外覆身如鎧者,身應不可見,神細密覆故。亦應不可壞,而今實見身壞。是故當知,離苦樂等先無餘法。若謂斷臂時神縮在內不可斷者,斷頭時亦應縮在內不應死,而實有死。是故知離苦樂等先有神者,但有言說虛妄無實。復次若言身大則神大、身小則神小,如燈大則明大、燈小則明小者,如是神則隨身不應常。若隨身者,身無則神無,如燈滅則明滅。若神無常,則與眼耳苦樂等同。是故當知,離眼耳等先無別神。復次如風狂病人不得自在,不應作而作。若有神是諸作主者,云何言不得自在?若風狂病不惱神者,應離神別有所作。如是種種推求,離眼耳等根苦樂等法先無本住。若必謂離眼耳等根苦樂等法有本住者,無有是事。何以故?
答える者曰く、この神がもし有れば、身の中に在るべきである。壁の中に柱有るが如し。もし身の外に在れば、人が鎧を被るが如し。もし身の中に在れば、身は可壊であるべきではない。神が常にその中に在るからである。ゆえに神は身の中に在ると説くは、ただ言説のみで、虚妄にして実ならず。もし身の外に在りて身を覆うこと鎧の如ければ、身は見えるべきではない。神が細密に覆っているからである。また可壊であるべきでもない。しかるにいま実に身の壊るるを見る。ゆえに知るべし、苦楽等を離れて先前にその余の法なきことを。もし手臂を斫る時に神は裏に縮んで斫れないと言うならば、頭を斫る時にも裏に縮んで死ぬべきではない。しかるに実際には死有る。ゆえに知るべし、苦楽等を離れて先前に神有ると説くは、ただ言説のみで、虚妄にして実ならざることを。さらにいえば、もし身大なれば神大・身小なれば神小と言えば、燈大なれば光明大・燈小なれば光明小なるが如く、これにようては神は身に随い、常であるべきではない。もし身に随えば、身なければ神なし。燈滅すれば光明滅するが如し。もし神が無常ならば、眼耳・苦楽等と相同じとなる。ゆえに知るべし、眼耳等を離れて先前に別の神なきことを。さらにいえば、風狂の病人は自在を得ず、作すべからざるを作すが如し。もし神有りてこれらの作為の主人ならば、どうして自在を得ずと言うことができようか。もし風狂の病が神を悩乱せざれば、すなわち神を離れて別に作する所有るべきである。このように種種に推し求めれば、眼耳等根・苦楽等法を離れて先前に本住なし。もし必ず眼耳等根・苦楽等法を離れて本住有りと言うならば、この事はない。なぜか。
「若離眼耳等,而有本住者;
「もし眼耳等を離れて本住有れば、
亦應離本住,而有眼耳等。」
また本住を離れて眼耳等有るべきである。」
若本住離眼耳等根、苦樂等法先有者,今眼耳等根、苦樂等法亦應離本住而有。
もし本住が眼耳等根・苦楽等法を離れて先前にすでに有れば、いま眼耳等根・苦楽等法もまた本住を離れて有るべきである。
問曰:二事相離可爾,但使有本住。
問う者曰く、両事が互いに相離れるはなお可とする。ただ本住を有せしめればよい。
答曰:
答える者曰く、
「以法知有人,以人知有法;
「法によってこそ人有ると知り、人によってこそ法有ると知る。
離法何有人?離人何有法?」
法を離れてどこに人があらん。人を離れてどこに法があらん。」
法者,眼耳苦樂等。人者,是本住。汝謂以有法故知有人、以有人故知有法。今離眼耳等法何有人?離人何有眼耳等法?復次:
いわゆる法とは、眼耳・苦楽等である。いわゆる人とは、本住である。あなたは法有るがゆえに人有ると知り、人有るがゆえに法有ると知ると説く。いま眼耳等法を離れて、どこに人があらんか。人を離れて、どこに眼耳等法があらんか。さらにいえば、
「一切眼等根,實無有本住;
「一切の眼等根には、実に本住なし。
眼耳等諸根,異相而分別。」
眼耳等の諸根は、各各同じからぬ相をもって分別す。」
眼耳等諸根、苦樂等諸法,實無有本住。因眼緣色生眼識,以和合因緣知有眼耳等諸根,不以本住故知。是故偈中說「一切眼等根,實無有本住」,眼耳等諸根,各自能分別。問曰:
眼耳等の諸根・苦楽等の諸法には、実に本住なし。眼が色に縁りて眼識を生じ、和合の因縁によってこそ眼耳等の諸根有ると知るのであって、本住によって知るのではない。ゆえに偈に「一切の眼等根には、実に本住なし」と言い、眼耳等の諸根は各々よく分別する。問う者曰く、
「若眼等諸根,無有本住者,
「もし眼等の諸根に本住なければ、
眼等一一根,云何能知塵?」
眼等の一々の根は、どうして塵を知ることができようか。」
若一切眼耳等諸根、苦樂等諸法無本住者,今一一根云何能知塵?眼耳等諸根無思惟,不應有知。而實知塵,當知離眼耳等諸根,更有能知塵者。
もし一切の眼耳等の諸根・苦楽等の諸法に皆本住なければ、いま一々の根がどうして塵を知ることができようか。眼耳等の諸根には思惟がなく、知有るべきではない。しかるに実際には塵を知る。知るべし、眼耳等の諸根を離れて、別によく塵を知る者有ることを。
答曰:若爾者,為一一根中各有知者?為一知者在諸根中?二俱有過。何以故?
答える者曰く、もしこのようであれば、それは一々の根の中に各々一つの知者有るか、それとも一つの知者が諸根の中に在るか。二種とも過失が有る。なぜか。
「見者即聞者,聞者即受者,
「能見はすなわち能聞、能聞はすなわち能受ならば、
如是等諸根,則應有本住。」
このようであればこれらの根に、本住有るべきである。」
若見者即是聞者、聞者即是受者,則是一神。如是眼等諸根應先有本住。色聲香等無有定知者,或可以眼聞聲,如人有六向隨意見聞。若聞者、見者是一,於眼等根隨意見聞,但是事不然。
もし能見がすなわち能聞であり、能聞がすなわち能受ならば、それは同一の神である。このようであれば眼等の諸根に、先前にすでに本住有るべきである。色声香等には確定の知者がなく、あるいは眼をもって声を聞くことができるはずである。人が六方有りて意に随って見聞するが如し。もし能聞・能見が一にして、眼等根の上に意に随って見聞すれば――しかるにこの事はそうではない。
「若見聞各異,受者亦各異,
「もし見と聞とが各各同じからず、受者もまた各各同じからなければ、
見時亦應聞,如是則神多。」
見る時にもまた聞くべきであり、これにようては神は多し。」
若見者、聞者、受者各異,則見時亦應聞。何以故?離見者有聞者故。如是鼻舌身中,神應一時行。若爾者,人一而神多,以一切根一時知諸塵。而實不爾,是故見者、聞者、受者不應俱用。復次:
もし能見・能聞・能受が各各同じからなければ、見る時にもまた聞くべきである。なぜか。能見を離れてなお能聞有るがゆえである。これにようては鼻・舌・身の中に、神は同一時に運行すべきである。もしこのようであれば、人は一にして神は多し。一切の根が同一時に種種の塵を知るがゆえである。しかるに実際はそうではない。ゆえに能見・能聞・能受は同時に並びて用いるべきではない。さらにいえば、
「眼耳等諸根,苦樂等諸法,
「眼耳等の諸根、苦楽等の諸法、
所從生諸大,彼大亦無神。」
それらの生ずる所の諸大、それらの大の中にもまた神なし。」
若人言離眼耳等諸根、苦樂等諸法別有本住,是事已破。今於眼耳等所因四大,是四大中亦無本住。
もしある人が眼耳等の諸根・苦楽等の諸法を離れて別に本住有ると言うならば、この事はすでに破った。いま眼耳等の依る所の四大、この四大の中にもまた本住なし。
問曰:若眼耳等諸根、苦樂等諸法,無有本住可爾。眼耳等諸根、苦樂等諸法應有。
問う者曰く、もし眼耳等の諸根・苦楽等の諸法に本住なければ、これなお可とする。眼耳等の諸根・苦楽等の諸法自体は有るべきである。
答曰:
答える者曰く、
「若眼耳等根,苦樂等諸法,
「もし眼耳等根、苦楽等の諸法に、
無有本住者,眼等亦應無。」
本住なければ、眼等もすなわち無有るべきである。」
若眼耳苦樂等諸法無有本住者,誰有此眼耳等?何緣而有?是故眼耳等亦無。復次:
もし眼耳・苦楽等の諸法に本住なければ、誰がこれらの眼耳等を有するか。何の因縁に依って有るか。ゆえに眼耳等もまたなし。さらにいえば、
「眼等無本住,今後亦復無,
「眼等に本住なく、今後もまたなし。
以三世無故,無有無分別。」
三世に皆なきがゆえに、「有」なく、分別もまたなし。」
思惟推求本住,於眼等先無,今後亦無。若三世無,即是無生寂滅。不應有難:若無本住,云何有眼等?如是問答、戲論則滅。戲論滅故,諸法則空。
思惟推求すれば本住は、眼等の先にもなく、今後にもない。もし三世に皆なければ、すなわち無生寂滅である。さらに問難すべきではない。もし本住なければ、どうして眼等有るかと。このようであれば問答・戯論は滅す。戯論滅せば、諸法はすなわち空である。
中論觀燃可燃品第十(十六偈)
《中論》観燃可燃品第十(十六首の偈)
問曰:應有受、受者,如燃、可燃,燃是受者、可燃是受,所謂五陰。
問う者曰く、受有り・受者有るべきである。燃と可燃の如し。燃は受者であり、可燃は受であって、いわゆる五陰である。
