Libo

中論 巻第一

姚秦 · 龙树造,鸠摩罗什译 · 第14巻 / 28

性若有異相,是事終不然。」

性にもし相異の相有れば、この事は終に当らない。」

若諸法決定有性,終不應變異。何以故?若定有自性,不應有異相,如上真金喻。今現見諸法有異相故,當知無有定相。復次:

もし諸法に決定の性有れば、終に変異すべきではない。なぜか。もし決定の自性有れば、相異の相有るべきではない。上の真金の比喩の如し。いま現前に諸法に相異の相有るを見る。ゆえに確定の相なきと知るべきである。さらにいえば、

「若法實有性,云何而可異?

「もし法に実に性有れば、どうしてなお差異できようか。

若法實無性,云何而可異?」

もし法に実に性なければ、どうしてなお差異できようか。」

若法定有性,云何可變異?若無性,則無自體,云何可變異?復次:

もし法に決定の性有れば、どうして変異できようか。もし性なければ、自体なし。どうして変異できようか。さらにいえば、

「定有則著常,定無則著斷;

「決定有なれば常に堕し、決定無なれば断に堕す。

是故有智者,不應著有無。」

ゆえに智慧有る者は、有無に執著すべきではない。」

若法定有有相,則終無無相,是即為常。何以故?如說三世者,未來中有法相,是法來至現在,轉入過去,不捨本相,是則為常。又說因中先有果,是亦為常。若說定有無,是無必先有今無,是則為斷滅,斷滅名無相續因。由是二見,即遠離佛法。

もし法に決定の「有」の相有れば、終に「無」の相なし。これはすなわち常である。なぜか。三世を説く人の如く、未来の中に法の相有り、この法は現在に来たり、過去に転入して、本よりの相を捨てない。これはすなわち常である。また因の中に先に果有りと説くも、これもまた常である。もし決定の有無を説けば、この無は必ず先前に有りて今に無し。これはすなわち断滅である。断滅とは、相続の因なきと名づく。この二種の見によりて、すなわち仏法に遠離する。

問曰:何故因有生常見、因無生斷見?

問う者曰く、なぜ有生によりて常見あり、無生によりて断見有るか。

答曰:

答える者曰く、

「若法有定性,非無則是常;

「もし法に決定の性有れば、無ではなく、それはすなわち常である。

先有而今無,是則為斷滅。」

先前に有りて今に無ければ、それはすなわち断滅である。」

若法性定有,則是有相非無相,終不應無。若無則非有,即為無法,先已說過故,如是則墮常見。若法先有,敗壞而無者,是名斷滅。何以故?有不應無故,汝謂有無各有定相故。若有斷常見者,則無罪福等,破世間事,是故應捨。

もし法の性に決定有有れば、すなわち有の相であって無の相ではなく、終に無あるべきではない。もし無なればすなわち有ではなく、すなわちなきの法である。前にすでに説いたが如く、これにようては常見に堕せん。もし法が先前に有りて、敗壊して無と成れば、これを断滅と名づく。なぜか。��は無と成るべきではないのに、あなたは有と無と各々確定の相有りと認める。もし断見・常見有れば、すなわち罪福等なく、世間の事を破る。ゆえに捨つべきである。

中論觀縛解品第十六(十偈)

《中論》観縛解品第十六(十首の偈)

問曰:生死非都無根本,於中應有眾生往來、若諸行往來。汝以何因緣故,說眾生及諸行盡空,無有往來?

問う者曰く、生死は並びて根本なきにあらず。その中に衆生の往来有るべきで、あるいは諸行の往来有るべきである。あなたは何の因縁に依って、衆生および諸行は皆空にして往来なしと説くか。

答曰:

答える者曰く、

「諸行往來者,常不應往來,

「諸行の往来するものは、常なれば往来すべきではない。

無常亦不應,眾生亦復然。」

無常もまた往来すべきではない。衆生もまたこのようである。」

諸行往來六道生死中者,為常相往來?為無常相往來?二俱不然。若常相往來者,則無生死相續,以決定故、自性住故。若以無常往來者,亦無往來生死相續,以不決定故、無自性故。若眾生往來者,亦有如是過。復次:

諸行が六道の生死の中に往来するは、常の相を帯びて往来するか、無常の相を帯びて往来するか。二種とも当らない。もし常の相を帯びて往来すれば、生死の相続なし。すでに決定して自性住著するがゆえである。もし無常を帯びて往来すれば、また往来する生死の相続なし。並びに決定せず、自性なきがゆえである。もし衆生が往来すれば、またこの類の過失が有る。さらにいえば、

「若眾生往來,陰界諸入中,

「もし衆生が往来すれば、陰・界・諸入の中に於いて、

五種求盡無,誰有往來者?」

五種に推し求めて皆尽くなければ、誰が往来する者か。」

生死陰界入即是一義。若眾生於此陰界入中往來者,是眾生於〈燃可燃品〉中五種求不可得,誰於陰界入中而有往來者?復次:

生死・陰・界・入は、実に一つの義である。もし衆生がこれらの陰・界・入の中に往来すれば、この衆生は〈燃可燃品〉の中に五種に推し求めて皆得られない。誰が陰・界・入の中になお往来有らんか。さらにいえば、

「若從身至身,往來即無身;

「もし一身から一身に至れば、往来する者は身なし。

若其無有身,則無有往來。」

もし身並びになければ、すなわち往来なし。」

若眾生往來,為有身往來?為無身往來?二俱不然。何以故?若有身往來,從一身至一身,如是則往來者無身。又若先已有身,不應復從身至身。若先無身則無有,若無有云何有生死往來?

もし衆生が往来すれば、身有りて往来するか、身なきに往来するか。二種とも当らない。なぜか。もし身有りて往来すれば、一身から一身に至る。これにようては往来する者は身なし。しかももし先前にすでに身有れば、さらに身から身に至るべきではない。もし先前に身なければ、すなわち「有」なし。もし「有」なければ、どうして生死往来があらんか。

問曰:經說有涅槃滅一切苦,是滅應諸行滅、若眾生滅。

問う者曰く、経の上に涅槃有りて一切の苦を滅すと説く。この滅は、諸行の滅か、あるいは衆生の滅か。

答曰:二俱不滅。何以故?

答える者曰く、二種とも滅せず。なぜか。

「諸行若滅者,是事終不然;

「諸行がもし滅せば、この事は終に当らない。

眾生若滅者,是事亦不然。」

衆生がもし滅せば、この事もまた当らない。」

汝說若諸行滅、若眾生滅,是事先已答,諸行無有性,眾生亦種種推求生死往來不可得,是故諸行不滅,眾生亦不滅。

あなたはあるいは諸行の滅、あるいは衆生の滅と説く。この事は前にすでに答えた。諸行に性なく、衆生もまた種種に推し求めて生死往来を得られないがゆえに、諸行は滅せず、衆生もまた滅せない。

問曰:若爾者則無縛無解,根本不可得故。

問う者曰く、もしこのようであれば、縛なく解なし。根本は求めて得られざるがゆえである。

答曰:

答える者曰く、

「諸行生滅相,不縛亦不解;

「諸行は生滅の相にして、縛せず解けもしない。

眾生如先說,不縛亦不解。」

衆生は先前に説いたが如く、縛せず解けもしない。」

汝謂諸行及眾生有縛解者,是事不然。諸行念念生滅故,不應有縛解。眾生先說五種推求不可得,云何有縛解?復次:

あなたは諸行および衆生に縛有り解有りと認める。この事は当らない。諸行は念々生滅して、縛解有るべきではない。衆生は先前に説いたが如く五種に推し求めて皆得られない。どうして縛解があらんか。さらにいえば、

「若身名為縛,有身則不縛,

「もし身を縛と名づくれば、身有れば縛せず、

無身亦不縛,於何而有縛?」

身なきもまた縛せず。なおどこに在りて縛有ることができようか。」

若謂五陰身名為縛,若眾生先有五陰,則不應縛。何以故?一人有二身故。無身亦不應縛。何以故?若無身則無五陰,無五陰則空,云何可縛?如是第三更無所縛。復次:

もし五陰身を縛と名づくと言うならば、もし衆生が先前にすでに五陰有れば、縛すべきではない。なぜか。同一の人が二つの身有ることとなるがゆえである。身なきもまた縛すべきではない。なぜか。もし身なければすなわち五陰なく、五陰なければすなわち空である。どうして縛すべきあらんか。このように第三の更に縛すべきものなし。さらにいえば、

「若可縛先縛,則應縛可縛;

「もし可縛が先前にすでに縛有れば、こそこの可縛を縛すべきである。

而先實無縛,餘如去來答。」

しかるに先前に実に縛なし。その余は〈去来品〉の答えたが如し。」

若謂可縛先有縛,則應縛可縛。而實離可縛先無縛,是故不得言眾生有縛。或言,眾生是可縛、五陰是縛;或言,五陰中諸煩惱是縛、餘五陰是可縛。是事不然。何以故?若離五陰先有眾生者,則應以五陰縛眾生,而實離五陰無別眾生。若離五陰別有煩惱者,則應以煩惱縛五陰,而實離五陰無別煩惱。復次如〈去來品〉中說,已去不去、未去不去、去時不去,如是未縛不縛、縛已不縛、縛時不縛。復次亦無有解。何以故?

もし可縛が先前にすでに縛有ると言うならば、こそこの可縛を縛すべきである。しかるに実際には可縛を離れて先前に縛なし。ゆえに衆生に縛有るとは言えない。あるいは衆生は可縛、五陰は縛と説き、あるいは五陰の中の種種の煩悩は縛、その余の五陰は可縛と説く。この事は当らない。なぜか。もし五陰を離れて先前にすでに衆生有れば、こそ五陰を用いて衆生を縛すべきである。しかるに実際には五陰を離れて別の衆生なし。もし五陰を離れて別に煩悩有れば、こそ煩悩を用いて五陰を縛すべきである。しかるに実際には五陰を離れて別の煩悩なし。さらにいえば、〈去来品〉の中の説くが如く、すでに去りたるは去らず、まだ去らざるは去らず、去時もまた去らず。このようにまだ縛せざるは縛せず、すでに縛せりたるは縛せず、まさに縛する時もまた縛せない。さらにいえば、また解なし。なぜか。

「縛者無有解,無縛亦無解,

「すでに縛せりたるに解なく、縛せざるにも解なし。

縛時有解者,縛解則一時。」

もしまさに縛する時に解有れば、縛と解とはすなわち同一時なり。」

縛者無有解。何以故?已縛故。無縛亦無解。何以故?無縛故。若謂縛時有解,則縛解一時,是事不然,又縛解相違故。

すでに縛せりたるに解なし。なぜか。すでに縛せりたればがゆえである。縛せざるにも解なし。なぜか。縛なきがゆえである。もしまさに縛する時に解有ると言うならば、縛と解とはすなわち同一時である。この事は当らない。しかも縛と解とは相い違する。

問曰:有人修道現入涅槃得解脫,云何言無?

問う者曰く、ある人は道を修して、現前に涅槃に入りて解脱を得る。どうしてなしと言うことができようか。

答曰:

答える者曰く、

「若不受諸法,我當得涅槃;

「もし諸法を受けざれば、我は涅槃を得ん。

若人如是者,還為受所縛。」

人がもしこのようであれば、なお受の縛する所なり。」

若人作是念:我離受得涅槃。是人即為受所縛。復次:

人がもしこの念を作さば、我は受を離れて涅槃を得ん、と。この人はすなわち受の縛する所となる。さらにいえば、

「不離於生死,而別有涅槃,

「並びに生死を離れずして、別に涅槃有り。

實相義如是,云何有分別?」

実相の義理はこのようである。どうしてなお分別できようか。」

諸法實相第一義中,不說離生死別有涅槃。如經說,涅槃即生死、生死即涅槃。如是諸法實相中,云何言是生死、是涅槃?

諸法の実相・第一義の中には、生死を離れて別に涅槃有ると説かない。経の上の説くが如く、涅槃はすなわち生死、生死はすなわち涅槃。このように諸法の実相の中に於いて、どうしてこれを生死、これを涅槃と言うことができようか。

中論觀業品第十七(三十三偈)

《中論》観業品第十七(三十三首の偈)

問曰:汝雖種種破諸法,而業決定有,能令一切眾生受果報。如經說,一切眾生皆隨業而生,惡者入地獄、修福者生天、行道者得涅槃,是故一切法不應空。所謂業者:

問う者曰く、あなたは種種に諸法を破るといえども、業は決定有りて、よく一切の衆生に果報を受けしむ。経の上の説くが如く、一切の衆生は皆業に随って生ず。悪を作す者は地獄に入り、福を修する者は天に生じ、道を行ずる者は涅槃を得る。ゆえに一切法は空であるべきではない。いわゆる業とは、

「人能降伏心,利益於眾生,

「人はよく心を降伏し、衆生を利益し、

是名為慈善,二世果報種。」

これを慈善と名づく。両世の果報の種子なり。」

人有三毒,為惱他故生行。善者先自滅惡,是故說降伏其心利益他人。利益他者,行佈施、持戒、忍辱等,不惱眾生,是名利益他,亦名慈善福德,亦名今世後世樂果種子。復次:

人に三毒有りて、他人を悩乱せんがために行を生ず。善の人は先ず自ら悪を滅す。ゆえにその心を降伏し、他人を利益すと説く。いわゆる他を利益するとは、布施・持戒・忍辱等を行じ、衆生を悩乱せず。これを他を利益すと名づけ、また慈善福徳と名づけ、また今世後世の楽果の種子と名づく。さらにいえば、

「大聖說二業,思與從思生,

「大聖は二種の業を説く。思および思に随って生ず、と。

是業別相中,種種分別說。」

業の各別の相の中に於いて、種種に分別して説く。」

大聖略說業有二種:一者思、二者從思生,是二業如阿毘曇中廣說。

大聖は大略に業に二種有ると説く。一つは思、二つは思に随って生ず。この二種の業は阿毘曇の中の広く説くが如し。

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