中論 巻第一
「佛所說思者,所謂意業是;
「仏の説く所の思とは、すなわち意業である。
所從思生者,即是身口業。」
思に随って生ずる所は、すなわち身業・口業である。」
思是心數法,諸心數法中能發起、有所作,故名業。因是思故起外身口業。雖因餘心心數法有所作,但思為所作本,故說思為業。是業今當說相。
思は心所法である。諸の心所法の中に発起し能く作する所有るがゆえに、業と名づく。この思によりてこそ、外に身業・口業を生起す。なおその余の心と心所に依っても作する所有るといえども、思は所作の根本であるがゆえに、思を業と為すと説く。この業をいま相を説くべきである。
「身業及口業,作與無作業,
「身業および口業、作と無作の業、
如是四事中,亦善亦不善。
かくのごとき四事の中に、また善有り、また不善有り。
從用生福德,罪生亦如是,
受用に随って福徳を生じ、罪の生もまたこのようであり、
及思為七法,能了諸業相。」
および思と、合わせて七法と為し、能く諸業の相を了別す。」
口業者,四種口業。身業者,三種身業。是七種業有二種差別,有作、有無作。作時名作業,作已常隨逐生,名無作業。是二種有善、不善。不善名不止惡,善名止惡。復有從用生福德,如施主施受者,若受者受用,施主得二種福:一從施生;二從用生。如人以箭射人,若箭殺人,有二種罪:一者從射生;二者從殺生。若射不殺,射者但得射罪,無殺罪。是故偈中說罪福從用生,如是名為六種業。第七名思,是七種即是分別業相。是業有今世、後世果報,是故決定有業、有果報故,諸法不應空。
口業とは、四種の口業である。身業とは、三種の身業である。この七種の業に二種の差別有る。作有り、無作有る。まさに作する時を業と名づけ、作り了わりて常に随い生ずるを無作業と名づく。この二種に善有り、不善有り。不善とは、悪を止めざると名づく。善とは、悪を止めると名づく。また受用に随って福徳を生ず有り。施主が受者に布施するが如く、もし受者が受用せば、施主は二種の福を得る。一つは布施に随って生じ、二つは受用に随って生ず。人が箭をもって人を射るが如く、もし箭が人を殺せば、二種の罪有る。一つは射に随って生じ、二つは殺に随って生ず。もし射るも殺さざれば、射る人はただ射の罪を得るのみで、殺の罪なし。ゆえに偈に罪福は受用に随って生ずと言う。このようにして六種の業と名づく。第七は思と名づく。この七種はすなわち業の相を分別するものである。この業に今世・後世の果報有るがゆえに、決定して業有り・果報有り。諸法は空であるべきではない。
答曰:
答える者曰く、
「業住至受報,是業即為常;
「業が報を受くるに至るまで住せば、この業はすなわち常である。
若滅即無業,云何生果報?」
もし滅せばすなわち業なし。どうしてなお果報を生じ得んか。」
業若住至受果報,即為是常。是事不然。何以故?業是生滅相,一念尚不住,何況至果報!若謂業滅,滅則無,云何能生果報?
業がもし果報を受くるに至るまで住せば、それはすなわち常である。この事は当らない。なぜか。業は生滅の相にして、一念すらなお住せざるに、いわんや果報に至るまで住せんや。もし業は滅すと言うならば、滅せばすなわち無である。どうして果報を生じ得んか。
問曰:
問う者曰く、
「如芽等相續,皆從種子生,
「芽等の相続の如く、皆種子に随って生じ、
從是而生果,離種無相續。
これより果を生ず。種子を離れて相続なし。
從種有相續,從相續有果,
種子に随って相続有り、相続に随って果有り。
先種後有果,不斷亦不常。
先に種有りて後に果有り。断ぜずしてまた常ならず。
如是從初心,心法相續生,
このように最初の心に随りて、心法は相続して生じ、
從是而有果,離心無相續。
これより果有る。心を離れて相続なし。
從心有相續,從相續有果,
心に随って相続有り、相続に随って果有り。
先業後有果,不斷亦不常。」
先に業有りて後に果有り。断ぜずしてまた常ならず。」
如從穀有芽,從芽有莖葉等相續,從是相續而有果生。離種無相續生,是故從穀子有相續,從相續有果。先種後有果,故不斷亦不常。如穀種喻,業果亦如是。初心起罪福,猶如穀種。因是心,餘心心數法相續生,乃至果報。先業後果故,不斷亦不常。若離業有果報,則有斷常。是善業因緣果報者,所謂:
穀に随って芽有り、芽に随って茎葉等の相続有り、この相続に随って果の生有るが如し。種子を離れて相続の生なし。ゆえに穀子に随って相続有り、相続に随って果有り。先に種有りて後に果有り。ゆえに断ぜずしてまた常ならず。穀種の比喩の如く、業果もまたこのようである。最初の心は罪福を起こす。穀種に譬うるが如し。この心によりて、その余の心と心所と相続して生じ、果報に至る。先に業有りて後に果有り。ゆえに断ぜずしてまた常ならず。もし業を離れてなお果報有れば、すなわち断有り・常有るべきである。いわゆる善業因縁の果報とは、
「能成福德者,是十白業道,
「能く福徳を成就するは、十種の白業道である。
二世五欲樂,即是白業報。」
両世の五欲の楽は、すなわち白業の果報なり。」
白名善淨。成福德因緣者,從是十白業道生,不殺、不盜、不邪婬、不妄語、不兩舌、不惡口、不無益語、不嫉、不恚、不邪見,是名為善。從身口意生是果報者,得今世名利,後世天人中貴處生。佈施恭敬等雖有種種福德,略說則攝在十善道中。
白とは、善浄と名づく。福徳を成就する因縁は、この十種の白業道に随って生ず。不殺・不盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不無益語・不嫉・不恚・不邪見、これを善と名づく。身口意に随ってこれらの果報を生出す。今世の名利を得、後世に天・人の中の貴き処に受生す。布施・恭敬等に種種の福徳有るといえども、大略に説いて皆十善道の中に収む。
答曰:
答える者曰く、
「若如汝分別,其過則甚多,
「もしあなたのごとく分別すれば、過失はすなわち甚だ多し。
是故汝所說,於義則不然。」
ゆえにあなたの説く所は、義理の上に当らず。」
若以業果報相續故,以穀子為喻者,其過甚多,但此中不廣說。汝說穀子喻者,是喻不然。何以故?穀子有觸有形,可見有相續。我思惟是事,尚未受此言,況心及業,無觸無形不可見。生滅不住欲以相續,是事不然。復次從穀子有芽等相續者,為滅已相續?為不滅相續?若穀子滅已相續者,則為無因。若穀子不滅而相續者,從是穀子常生諸穀。若如是者,一穀子則生一切世間穀。是事不然,是故業果報相續則不然。
もし業果報の相続なるがゆえに、穀子を取りて比喩と作せば、過失は甚だ多し。ただここには広く説かず。あなたの説く穀子の比喩は、この比喩は当らない。なぜか。穀子には触有り・形有り、見るべきもの有り、相続有り。我この事を思惟するに、なおこの言を受けず。いわんや心および業は、触なく・形なく・見るべからざるにして、生滅住せず、それなのに相続を用いて説かんと欲するは、この事は当らない。さらにいえば、穀子に随って芽等の相続有るは、滅したる後に相続するか、滅せずして相続するか。もし穀子が滅したる後にこそ相続せば、すなわち無因である。もし穀子が滅せずして相続すれば、この穀子に随っては常に種種の穀を生出すべきである。もしこのようであれば、一つの穀子が一切の世間の穀を生出すこととなる。この事は当らない。ゆえに業果報の相続は当らない。
問曰:
問う者曰く、
「今當復更說,順業果報義,
「いまさらに業果報に随順する義理を説かんとす。
諸佛辟支佛,賢聖所稱歎。」
これは諸仏・辟支仏・賢聖の称嘆する所なり。」
所謂:
いわゆる、
「不失法如券,業如負財物,
「不失法は券契の如く、業は欠負の財物の如し。
此性則無記,分別有四種。
この性は無記にして、分別して四種有り。
見諦所不斷,但思惟所斷,
見諦の断ずる所にあらず、ただ思惟の断ずる所なり。
以是不失法,諸業有果報。
この不失法有るがゆえに、諸業にこそ果報有る。
若見諦所斷,而業至相似,
もし見諦の断ずる所なれども、業はなお相似に至れば、
則得破業等,如是之過咎。
すなわち破業等のこの類の過失を得ん。
一切諸行業,相似不相似,
一切の諸の行業は、相似・不相似の、
一界初受身,爾時報獨生。
一界の中に最初に身を受くる時、その時に果報は独り生ず。
如是二種業,現世受果報,
このように二種の業は、現世に果報を受け、
或言受報已,而業猶故在。
あるいは報を受け了わりて後、業はなお在ると説き、
若度果已滅,若死已而滅,
あるいは果を度して後に滅し、あるいは死して後に滅す。
於是中分別,有漏及無漏。」
この中において分別する、有漏および無漏を。」
不失法者當知如券,業者如取物。是不失法,欲界繫、色界繫、無色界繫亦不繫。若分別善、不善、無記中,但是無記。是無記義,阿毘曇中廣說。見諦所不斷,從一果至一果,於中思惟所斷。是以諸業,以不失法故果生。若見諦所斷而業至相似,則得破業過。是事阿毘曇中廣說。復次不失法者,於一界諸業相似不相似,初受身時果報獨生,於現在身從業更生業。是業有二種,隨重而受報。或有言,是業受報已業猶在,以不念念滅故。若度果已滅、若死已而滅者,須陀洹等度果已而滅,諸凡夫及阿羅漢死已而滅。於此中分別有漏及無漏者,從須陀洹等諸賢聖,有漏、無漏等應分別。
いわゆる不失法とは、券契の如きと知るべきである。業とは、取り去る所の財物の如し。この不失法は、欲界繋・色界繋・無色界繋有り、また不繋も有る。もし善・不善・無記に分別せば、それはただ無記である。この無記の義理は、阿毘曇の中の広く説くが如し。見諦の断ずる所にあらず、一果から一果に至るに、その中に於いては思惟の断ずる所なり。これによりて諸業は不失法有るがゆえに、果はこそ生ず。もし見諦の断ずる所なれども業はなお相似に至れば、すなわち破業の過失有らん。この事は阿毘曇の中の広く説くが如し。さらにいえば、いわゆる不失法とは、一界の中に諸業は相似・不相似にして、最初に身を受くる時に果報は独り生ず。現在の身の上に、業に随ってさらに業を生ず。この業に二種有りて、重きに随って報を受く。あるいはある人は説く。この業は報を受け了わりて後も業はなお在り。念々滅するにあらざるがゆえである、と。いわゆる果を度して已に滅し、死已にして滅すとは、須陀洹等は果を度して後に滅し、諸の凡夫および阿羅漢は死して後に滅す。この中において有漏および無漏を分別す。須陀洹等の諸の賢聖より、有漏・無漏等は分別すべきである。
答曰:是義俱不離斷常過,是故亦不應受。
答える者曰く、これらの義理は皆断・常の過失を離れず。ゆえにまた受くべきではない。
問曰:若爾者,則無業果報。
問う者曰く、もしこのようであれば、すなわち業果報なし。
答曰:
答える者曰く、
「雖空亦不斷,雖有亦不常,
「空なるも断ぜず、有なるも常ならず。
業果報不失,是名佛所說。」
業果報は失わず。これをこそ仏の説く所と為す。」
此論所說義離於斷常。何以故?業畢竟空、寂滅相、自性離,有何法可斷、何法可失?顛倒因緣故,往來生死亦不常。何以故?若法從顛倒起則是虛妄無實,無實故非常。復次貪著顛倒不知實相故,言業不失。此是佛所說。復次:
この部の論の説く所の義理は、断と常とを離れたり。なぜか。業は畢竟空にして寂滅の相、自性遠離なれば、なお何の法か断ずべき、何の法か失うべきがあらんか。顛倒の因縁によりて生死に往来するも、また常ならず。なぜか。もし法が顛倒から生起せば、すなわち虚妄にして実ならず。実ならざるがゆえに常ならず。さらにいえば、顛倒に貪着して実相を知らざれば、こそ業は失わずと説く。これは仏の説く所なり。さらにいえば、
「諸業本不生,以無定性故;
「諸業は本より生ぜず。定性なきがゆえである。
諸業亦不滅,以其不生故。
諸業はまた滅せず。それ生ぜざるがゆえである。
若業有性者,是則名為常,
もし業に性有れば、それはすなわち常と名づく。
不作亦名業,常則不可作。
作さずしても業と名づくれば、常はすなわち作すことができない。
若有不作業,不作而有罪,
もし不作业有れば、作さずして罪有り、
不斷於梵行,而有不淨過。
梵行を断ぜずして、不浄の過失有らん。
是則破一切,世間語言法,
このようでは一切の世間言語の法を破り、
作罪及作福,亦無有差別。
罪を作すことおよび福を作すことも、また差別なし。
