Libo

中論 巻第一

姚秦 · 龙树造,鸠摩罗什译 · 第16巻 / 28

若言業決定,而自有性者,

もし業は決定して自ら性有りと言わば、

受於果報已,而應更復受。

果報を受け了わりて後も、なおさらに受くべきである。

若諸世間業,從於煩惱生,

もし世間の諸業が煩悩に随って生ずれば、

是煩惱非實,業當何有實?」

これらの煩悩は実ならざるに、業はなおどうして実有らんか。」

第一義中諸業不生。何以故?無性故。以不生因緣故則不滅,非以常故不滅。若不爾者,業性應決定有。若業決定有性則為是常,若常則是不作業。何以故?常法不可作故。復次若有不作業者,則他人作罪此人受報,又他人斷梵行而此人有罪,則破世俗法。若先有者,冬不應思為春事,春不應思為夏事。有如是等過。復次作福及作罪者則無有別異,起佈施持戒等業名為作福,起殺盜等業名為作罪。若不作而有業,則無有分別。復次是業若決定有性,則一時受果報已復應更受。是故汝說以不失法故有業報,則有如是等過。復次若業從煩惱起,是煩惱無有決定,但從憶想分別有。若諸煩惱無實,業云何有實?何以故?因無性故業亦無性。

第一義には諸業は生ぜず。なぜか。性なきがゆえである。不生の因縁なるがゆえに、また滅せず。常なるがゆえに滅せざるのではない。もしこのようでなければ、業の性は決定有るべきである。もし業に決定の性有れば、それはすなわち常である。もし常なれば、すなわち作すことなし。なぜか。常の法は作すこと能わざるがゆえである。さらにいえば、もし不作业有れば、すなわち他人が罪を作して此人が報を受け、また他人が梵行を断じて此人に罪有ることとなり、世俗法を破る。もし先前にすでに有れば、冬には春の事を思量すべきではなく、春には夏の事を思量すべきではない。この類の過失が有る。さらにいえば、福を作すことおよび罪を作すことに差別なし。布施・持戒等の業を起こすを作福と名づけ、殺・盗等の業を起こすを作罪と名づく。もし作さずして業有れば、分別なし。さらにいえば、この業がもし決定の性有れば、同一時に果報を受け了わりて後もなおさらに受くべきである。ゆえにあなたが不失法有るがゆえに業報有りと説くは、この類の過失が有る。さらにいえば、もし業が煩悩に随って生起せば、これらの煩悩は並びに決定なく、ただ憶想分別に随って有る。もし諸の煩悩が実ならざれば、業はどうして実有らんか。なぜか。因に性なければ、業にも性なきがゆえである。

問曰:若諸煩惱及業無性不實,今果報身現有,應是實。

問う者曰く、もし諸の煩悩および業に性なく実ならざれば、いま果報の身が現前に有るは、実であるべきである。

答曰:

答える者曰く、

「諸煩惱及業,是說身因緣;

「諸の煩悩および業は、身の因縁と説かるるも、

煩惱諸業空,何況於諸身。」

煩悩と諸業とは皆空なるに、いわんやこれらの身をや。」

諸賢聖說煩惱及業是身因緣,是中愛能潤生,業能生上中下好醜貴賤等果報。今諸煩惱及業,種種推求無有決定,何況諸身有決定果?隨因緣故。

諸の賢聖は煩悩および業は身の因縁と説く。その中に愛はよく生を潤し、業はよく上中下・好醜貴賤等の果報を生ず。いま諸の煩悩および業を、種種に推し求めて皆決定なきに、いわんや諸の身に決定の果あらんや。ただ因縁に随うのみである。

問曰:汝雖種種因緣破業及果報,而經說,有起業者。起業者有故,有業有果報。如說:

問う者曰く、あなたは種種の因縁を用いて業および果報を破るといえども、経の上に業を起こす人有りと説く。業を起こす人有るがゆえに、業有り・果報有る。説く所の如く、

「無明之所蔽,愛結之所縛,

「無明の蔽う所となり、愛結の縛する所となりて、

而於本作者,不即亦不異。」

しかるに本よりの作者に対して、即でもなく異でもなし。」

《無始經》中說,眾生為無明所覆、愛結所縛,於無始生死中往來,受種種苦樂。今受者於先作者,不即是、亦不異。若即是,人作罪受牛形,則人不作牛、牛不作人。若異則失業果報,墮於無因,無因則斷滅。是故今受者於先作者,不即是、亦不異。

《無始経》の中に説く。衆生は無明の覆う所となり、愛結の縛する所となりて、無始の生死の中に往来して、種種の苦楽を受く。いま受ける者は先前に作した者に対して、即でもなく異でもない。もし即なれば、人は罪を作して牛形を受くれば、人は牛を作さず、牛もまた人を作さない。もし異なれば、すなわち業果報を失い、無因に堕す。無因はすなわち断滅である。ゆえにいま受ける者は先前に作した者に対して、即でもなく異でもない。

答曰:

答える者曰く、

「業不從緣生,不從非緣生,

「業は縁に随って生ぜず、また非縁に随っても生ぜず。

是故則無有,能起於業者。

ゆえに能く業を起こす者なし。

無業無作者,何有業生果?

業なく作者なければ、どうして業が果を生ぜんか。

若其無有果,何有受果者?」

もし果並びになければ、どうして果を受ける人があらんか。」

若無業、無作業者,何有從業生果報?若無果報,云何有受果報者?業有三種:五陰中假名人是作者,是業於善惡處生,名為果報。若起業者尚無,何況有業、有果報及受果報者?

もし業なく・作業する人なければ、どうして業に随って生じ出る果報があらんか。もし果報なければ、どうして果報を受ける人があらんか。業に三種有りて、五陰の中に仮に人を立てて作者と為す。この業は善悪の処に生じて、果報と名づく。もし業を起こす人すらなおなければ、いわんや業有り・果報有りおよび果報を受ける人をや。

問曰:汝雖種種破業、果報及起業者,而今現見眾生作業受果報。是事云何?

問う者曰く、あなたは種種に業・果報および業を起こす人を破るといえども、いま現前に衆生が業を作し果報を受くるを見る。この事はどうか。

答曰:

答える者曰く、

「如世尊神通,所作變化人,

「世尊が神通を以て作す所の変化人の如く、

如是變化人,復變作化人。

かくのごとき変化人は、また変化して化人を作す。

如初變化人,是名為作者,

最初の変化人の如く、かれをこそ作者と名づく。

變化人所作,是則名為業。

変化人の作す所は、かれをこそ業と名づく。

諸煩惱及業,作者及果報,

諸の煩悩および業、作者および果報は、

皆如幻與夢,如炎亦如嚮。」

皆幻と夢の如く、陽焔の如く、また廻響の如し。」

如佛神通力所作化人,是化人復化作化人。如化人,無有實事但可眼見,又化人口業說法、身業佈施等,是業雖無實而可眼見。如是生死身作者及業,亦應如是知。諸煩惱者,名為三毒,分別有九十八使、九結、十纏、六垢等無量諸煩惱。業名為身、口、意業。今世、後世分別有善、不善、無記,苦報、樂報、不苦不樂報,現報業、生報業、後報業,如是等無量。作者名為能起諸煩惱業、能受果報者。果報名從善惡業生無記五陰,如是等諸業皆空無性,如幻如夢、如炎如嚮。

仏が神通力を以て作す所の化人の如く、この化人はまた化して化人を作す。化人の如く、実事なし、ただ眼をもって見るべきのみ。また化人の口業は法を説き、身業は布施等するも、これらの業は実ならざるといえども、眼をもって見るべきものあり。このように生死身の作者および業もまた、かくのごとく知るべきである。いわゆる諸の煩悩とは、三毒と名づけ、分別して九十八使・九結・十纏・六垢等の無量の諸煩悩有る。業とは、身・口・意業と名づく。今世・後世に分別して善・不善・無記、苦報・楽報・不苦不楽報、現報業・生報業・後報業、かくのごとき無量あり。作者とは、能く諸の煩悩業を起こし、能く果報を受くる者と名づく。果報とは、善悪の業に随って生出ずる無記の五陰と名づく。このように諸業は皆空にして性なく、幻の如く夢の如く、陽焔の如く廻響の如し。

中論觀法品第十八(十二偈)

《中論》観法品第十八(十二首の偈)

問曰:若諸法盡畢竟空、無生無滅,是名諸法實相者,云何入?

問う者曰く、もし諸法が皆畢竟空にして無生無滅なれば、これを諸法の実相と名づく。どうして入るか。

答曰:滅我我所著故,得一切法空。無我慧名為入。

答える者曰く、我および我所への執を滅して、一切法空を得る。無我の慧を、入と名づく。

問曰:云何知諸法無我?

問う者曰く、何によってか諸法無我なりと知るか。

答曰:

答える者曰く、

「若我是五陰,我即為生滅;

「もし我がすなわち五陰ならば、我はすなわち生滅と成る。

若我異五陰,則非五陰相。

もし我が五陰と異なれば、すなわち五陰の相ではない。

若無有我者,何得有我所?

もし我なければ、どうしてなお我所があらんか。

滅我我所故,名得無我智。

我・我所を滅するを、無我の智を得と名づく。

得無我智者,是則名實觀;

無我の智を得る者は、かれをこそ如実観と名づく。

得無我智者,是人為希有。

無我の智を得る者は、この人は希有なり。

內外我我所,盡滅無有故,

内外の我・我所は皆滅尽してなければ、

諸受即為滅,受滅則身滅。

諸受はすなわち滅し、受滅せばすなわち身滅す。

業煩惱滅故,名之為解脫,

業と煩悩と滅するを、解脱と名づく。

業煩惱非實,入空戲論滅。

業と煩悩とは実ならず、空に入れば戯論は滅す。

諸佛或說我,或說於無我,

諸仏はあるいは我を説き、あるいは無我を説く。

諸法實相中,無我無非我。

諸法の実相の中に於いては、我なく、また非我もなし。

諸法實相者,心行言語斷,

諸法の実相は、心行と言語と皆断ぜん。

無生亦無滅,寂滅如涅槃。

生ぜずまた滅せず、寂滅にして涅槃の如し。

一切實非實,亦實亦非實,

一切実・非実、また実また非実、

非實非非實,是名諸佛法。

非実非非実、これをこそ諸仏の法と名づく。

自知不隨他,寂滅無戲論,

自ら知りて他に随わず、寂滅にして戯論なく、

無異無分別,是則名實相。

差異なく分別なきは、かれをこそ実相と名づく。

若法從緣生,不即不異因,

もし法が縁に随って生ずれば、因に即せず、また因に異ならず。

是故名實相,不斷亦不常。

ゆえに実相と名づく。断ぜずしてまた常ならず。

不一亦不異,不常亦不斷,

一でもなく異でもなく、常ならず断ぜず、

是名諸世尊,教化甘露味。

これをこそ諸の世尊の教化の甘露味と名づく。

若佛不出世,佛法已滅盡,

もし仏が世に出ざれば、仏法はすでに滅尽して、

諸辟支佛智,從於遠離生。」

諸の辟支仏の智は、遠離に随って生ず。」

有人說神,應有二種:若五陰即是神、若離五陰有神。若五陰是神者,神則生滅相,如偈中說。若神是五陰,即是生滅相。何以故?生已壞敗故。以生滅相故,五陰是無常。如五陰無常,生滅二法亦是無常。何以故?生滅亦生已壞敗故無常。神若是五陰,五陰無常故,神亦應無常生滅相;但是事不然。若離五陰有神,神即無五陰相,如偈中說。若神異五陰,則非五陰相,而離五陰更無有法。若離五陰有法者,以何相何法而有?若謂神如虛空,離五陰而有者,是亦不然。何以故?〈破六種品〉中已破,虛空無有法名為虛空。若謂以有信故有神,是事不然。何以故?信有四種:一現事可信;二名比知可信,如見煙知有火;三名譬喻可信,如國無鍮石喻之如金;四名賢聖所說故可信,如說有地獄、有天、有欝單曰。無有見者,信聖人語故知。是神於一切信中不可得,現事中亦無,比知中亦無。何以故?比知名先見故後比類而知,如人先見火有煙,後但見煙則知有火。神義不然,誰能先見神與五陰合,後見五陰知有神?若謂有三種比知:一者如本;二者如殘;三者共見。如本名先見火有煙,今見煙知如本有火。如殘名如炊飯,一粒熟知餘者皆熟。共見名如眼見人從此去到彼,亦見其去;日亦如是,從東方出至西方。雖不見去,以人有去相故,知日亦有去。如是苦樂憎愛覺知等,亦應有所依。如見人民,知必依王。是事皆不然。何以故?共相信先見人與去法合而至餘方,後見日到餘方,故知有去法。無有先見五陰與神合,後見五陰知有神,是故共相比知中亦無神。聖人所說中亦無神。何以故?聖人所說皆先眼見而後說,又諸聖人說餘事可信故,當知說地獄等亦可信。而神不爾,無有先見神而後說者,是故於四信等諸信中求神不可得,求神不可得故無,是故離五陰無別神。

ある人は神を説くに、二種有るべきとする。あるいは五陰がすなわち神、あるいは五陰を離れて神有る。もし五陰が神ならば、神はすなわち生滅の相である。偈の中の説くが如く、もし神が五陰なれば、すなわち生滅の相である、と。なぜか。生じては壊敗するがゆえである。生滅の相なれば、五陰は無常である。五陰が無常なるが如く、生滅の二法もまた無常である。なぜか。生滅もまた生じては壊敗するがゆえに無常である。神がもし五陰なれば、五陰は無常なれば、神もまた無常・生滅の相であるべきである。しかるにこの事はそうではない。もし五陰を離れて神有れば、神には五陰の相なし。偈の中の説くが如く、もし神が五陰に異なれば、すなわち五陰の相ではない、と。しかるに五陰を離れてさらに法なし。もし五陰を離れて法有れば、何の相・何の法を以ってか有らんか。もし神は虚空の如く、五陰を離れて有ると説くならば、これも当らない。なぜか。〈破六種品〉の中ですでに破った。虚空には並びに一つの虚空と名づく法なし。もし信有るがゆえに神有ると説くならば、この事は当らない。なぜか。信に四種有る。一、現前の事は信ずべし。二、比知と名づくは信ずべし。烟を見て火有ると知るが如し。三、譬喻と名づくは信ずべし。国の中に鍮石なき時に金を以て比喩するが如し。四、賢聖の説く所なるがゆえに信ずべし。地獄有り・天有り・鬱単越有りと説くが如く、見ざる人も聖人の言を信ずるがゆえにこそ知る。この神は一切の信の中に求めて得られない。現前の事の中にもなく、比知の中にもなし。なぜか。いわゆる比知とは、先前に見て、後に比類してこそ知る。人が先前に火に烟有るを見て、後にただ烟を見てすなわち火有ると知るが如し。神の義理はこのようではない。誰か先前に神と五陰の合するを見て、後に五陰を見てこそ神有ると知る者あらんか。もし三種の比知有ると言うならば、一は如本、二は如残、三は共見である。如本とは、先前に火に烟有るを見、いま烟を見て、本のごとく火有ると知ると名づく。如残とは、飯を炊くに一粒熟せばその余は皆熟すと知るが如きと名づく。共見とは、眼に人が此から彼に至るを見、また彼の去るを見るが如く、日もまたこのようで、東方より出て西方に至る。去るは見えずといえども、人に去の相有るがゆえに、日にも去有ると知るが如きと名づく。このように苦楽憎愛覚知等もまた、依る所有るべきである。人民を見て、必ず王に依ると知るが如し。これらの事は皆当らない。なぜか。共相の信とは、先前に人と去の法と和合して別の処に至るを見て、後に日の別の処に至るを見て、こそ去の法有ると知る。並びに先前に五陰と神の合するを見たることなく、後に五陰を見てこそ神有ると知る。ゆえに共相比知の中にも神なし。聖人の説く所の中にも神なし。なぜか。聖人の説く所は皆先前に眼見してしかる後にこそ説く。また諸の聖人はその余の事を説いて信ずべし、地獄等を説くも信ずべきと知るべきである。しかるに神はこのようではない。先前に神を見てしかる後に説くことなし。ゆえに四信等の諸信の中に神を求めて得られない。神を求めて得られざれば、すなわち無である。これによりて五陰を離れて並びに別の神なし。

復次〈破根品〉中見、見者、可見破故,神亦同破。又眼見麁法尚不可得,何況虛妄憶想等而有神,是故知無我。因有我故有我所,若無我則無我所,修習八聖道分,滅我我所因緣故,得無我無我所決定智慧。

さらにいえば、〈破根品〉の中に見・見者・可見を破れば、神もまた同じく破らる。また眼に見る所の粗法すらなお求めて得られないのに、いわんや虚妄の憶想等に神有らんや。ゆえに無我と知る。我有るがゆえにこそ我所有る。もし我なければすなわち我所なし。八聖道分を修習して、我・我所の因縁を滅して、無我・無我所の決定の智慧を得る。

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