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中論 巻第一

姚秦 · 龙树造,鸠摩罗什译 · 第17巻 / 28

又無我無我所者,於第一義中亦不可得。無我無我所者,能真見諸法。凡夫人以我我所障慧眼故,不能見實。今聖人無我我所故,諸煩惱亦滅。諸煩惱滅故,能見諸法實相。內外我我所滅故諸受亦滅,諸受滅故無量後身皆亦滅,是名說無餘涅槃。

また無我・無我所は、第一義の中にも求めて得られない。無我・無我所の人は、能く真に諸法を見る。凡夫人は我・我所によりて慧眼を障されて、実を見ること能わず。いま聖人は我・我所なく、諸の煩悩もまた滅す。諸の煩悩滅せば、能く諸法の実相を見る。内外の我・我所滅せば、諸受もまた滅す。諸受滅せば、無量の後身も皆滅す。これを無余涅槃を説くと名づく。

問曰:有餘涅槃云何?

問う者曰く、有余涅槃はどうか。

答曰:諸煩惱及業滅故,名心得解脫。是諸煩惱業皆從憶想分別生、無有實,諸憶想分別皆從戲論生。得諸法實相畢竟空,諸戲論則滅,是名說有餘涅槃。實相法如是。諸佛以一切智觀眾生故,種種為說,亦說有我亦說無我。若心未熟者,未有涅槃分,不知畏罪,為是等故說有我。又有得道者,知諸法空,但假名有我,為是等故說我無咎。又有佈施持戒等福德,厭離生死苦惱畏涅槃永滅,是故佛為是等說無我。諸法但因緣和合,生時空生、滅時空滅,是故說無我,但假名說有我。又得道者,知無我不墮斷滅,故說無我無咎。是故偈中說,諸佛說有我,亦說於無我,若於真實中,不說我非我。

答える者曰く、諸の煩悩および業滅するを、心の解脱を得と名づく。これらの煩悩業は皆憶想分別に随って生じ、並びに実ならず。諸の憶想分別は皆戯論に随って生ず。諸法の実相畢竟空を得れば、諸の戯論は滅す。これを有余涅槃を説くと名づく。実相の法はこのようである。諸仏は一切智を以て衆生を観察して、種種に彼のために説く。あるいは我有ると説き、あるいは無我と説く。もし心なお熟さず、なお涅槃の分なく、罪を畏るることを知らざれば、これらの人のために我有ると説く。また道を得る人は諸法空なりと知りて、ただ仮名に我有るのみ。これらの人のために我を説くに過失なし。また布施・持戒等の福徳有りて、生死の苦悩を厭離し、涅槃の永久の滅を畏るるがゆえに、仏はこれらの人のために無我を説く。諸法はただ因縁和合なり。生ずる時には空に生じ、滅する時には空に滅す。ゆえに無我を説き、ただ仮名に我有ると説く。また道を得る人は無我を知りて断滅に堕せざるがゆえに、無我を説くに過失なし。これによりて偈に言う。諸仏は我有ると説き、また無我と説く。もし真実の中に於いては、我・非我を説かない、と。

問曰:若無我是實,但以世俗故說有我,有何咎?

問う者曰く、もし無我が実にして、ただ世俗のためにこそ我有ると説くに、何の過失が有るか。

答曰:因破我法有無我,我決定不可得,何有無我。若決定有無我,則是斷滅生於貪著。如《般若》中說菩薩有我亦非行、無我亦非行。

答える者曰く、我という法を破るがゆえにこそ無我有る。我は決定して求めて得られないのに、どうしてなお無我があらんか。もし決定して無我有れば、すなわち断滅であって、貪着を生出す。《般若》の中の説くが如く、菩薩には我あるも行ではなく、無我あるも行ではない。

問曰:若不說我非我、空不空,佛法為何所說?

問う者曰く、もし我・非我・空・不空を説かなければ、仏法の説く所は何ぞ。

答曰:佛說諸法實相,實相中無語言道、滅諸心行。心以取相緣生,以先世業果報故有,不能實見諸法,是故說心行滅。

答える者曰く、仏は諸法の実相を説く。実相の中に言語の路なく、諸の心行を滅尽す。心は取相・縁に因って生じ、先世の業の果報に因って有るがゆえに、如実に諸法を見ること能わず。ゆえに心行滅すと説く。

問曰:若諸凡夫心不能見實,聖人心應能見實,何故說一切心行滅?

問う者曰く、もし諸の凡夫の心は実を見ること能わざれば、聖人の心は実を見るべきである。なぜ一切の心行は滅すと説くか。

答曰:諸法實相即是涅槃。涅槃名滅,是滅為向涅槃,故亦名為滅。若心是實,何用空等解脫門?諸禪定中,何故以滅盡定為第一?又亦終歸無餘涅槃。是故當知,一切心行皆是虛妄,虛妄故應滅。諸法實相者,出諸心數法,無生無滅、寂滅相,如涅槃。

答える者曰く、諸法の実相はすなわち涅槃である。涅槃は滅と名づく。この滅は涅槃に趣向せんがためなれば、また滅と名づく。もし心が実なれば、なお空等の解脱門を用いて何をせんか。諸の禅定の中に、なにゆえに滅尽定を以て第一と為すか。また終に無余涅槃に帰す。ゆえに知るべし、一切の心行は皆虚妄なりと。虚妄なるがゆえに滅すべきである。諸法の実相は諸の心所法を超出し、無生無滅・寂滅の相にして、涅槃の如し。

問曰:經中說,諸法先來寂滅相即是涅槃。何以言如涅槃?

問う者曰く、経の中に説く、諸法は本よりこのかた寂滅の相にして、すなわち涅槃なり、と。なにゆえに「涅槃の如し」と説くか。

答曰:著法者分別法有二種:是世間、是涅槃。說涅槃是寂滅,不說世間是寂滅。此論中說一切法性空寂滅相,為著法者不解故,以涅槃為喻。如汝說涅槃相空無相寂滅無戲論,一切世間法亦如是。

答える者曰く、法に執著する人は法を分別して二種有りとす。これは世間、これは涅槃と。涅槃は寂滅と説き、世間は寂滅と説かない。この部の論の中に一切法は性空にして寂滅の相と説く。法に執著する人は解えざるがゆえに、こそ涅槃を以て比喩と為す。あなたの説く涅槃の相は空・無相・寂滅・戯論なきが如く、一切の世間法もまたこのようである。

問曰:若佛不說我非我,諸心行滅、言語道斷者,云何令人知諸法實相?

問う者曰く、もし仏が我・非我を説かず、諸の心行滅して言語の路断ぜば、どうして人に諸法の実相を知らしめんか。

答曰:諸佛無量方便力,諸法無決定相,為度眾生或說一切實、或說一切不實、或說一切實不實、或說一切非實非不實。一切實者,推求諸法實性,皆入第一義平等一相,所謂無相。如諸流異色異味,入於大海則一色一味。一切不實者,諸法未入實相時,各各分別觀皆無有實,但眾緣合故有。一切實不實者,眾生有三品,有上、中、下。上者觀諸法相非實非不實;中者觀諸法相一切實一切不實;下者智力淺故,觀諸法相少實少不實,觀涅槃無為法不壞故實,觀生死有為法虛偽故不實。非實非不實者,為破實不實,故說非實非不實。

答える者曰く、諸仏に無量の方便力有り。諸法に決定の相なきがゆえに、衆生を度せんがため、あるいは一切実を説き、あるいは一切不実を説き、あるいは一切はまた実また不実を説き、あるいは一切は非実非不実を説く。いわゆる一切実とは、諸法の実性を推し求めて、皆第一義に入り、平等一相にして、いわゆる無相。諸の流の色異なり味異なりて、大海に入ればすなわち一色一味なるが如し。いわゆる一切不実とは、諸法がまだ実相に入らざる時、各各に分別観察すれば皆実なし。ただ衆縁の和合に因ってこそ有る。いわゆる一切はまた実また不実とは、衆生に三品有り、上・中・下有るがゆえである。上の人は諸法の相を観察して非実非不実とす。中の人は諸法の相を観察して一切実・一切不実とす。下の人は智力浅くして、諸法の相を観察して少しく実・少しく不実とす。涅槃の無為法は壊れざるを見て実と為し、生死の有為法は虚偽なるを見て不実と為す。いわゆる非実非不実とは、実と不実を破らんがために、こそ非実非不実を説く。

問曰:佛於餘處說離非有非無,此中何以言非有非無是佛所說?

問う者曰く、仏は別の処に非有非無を離るべしと説くに、ここにはなにゆえに非有非無は仏の説く所と言うか。

答曰:餘處為破四種貪著故說。而此中於四句無戲論,聞佛說則得道,是故言非實非不實。

答える者曰く、別の処には四種の貪着を破らんがために説く。しかるにここには四句に於いて戯論なきを、仏の説を聞いてすなわち道を得るがゆえに、非実非不実を説く。

問曰:知佛以是四句因緣說,又得諸法實相者以何相可知?又實相云何?答曰:若能不隨他。不隨他者,若外道雖現神力說是道是非道,自信其心而不隨之,乃至變身雖不知非佛,善解實相故心不可迴。此中無法可取可捨故,名寂滅相。寂滅相故,不為戲論所戲論。戲論有二種,一者愛論、二者見論,是中無此二戲論。二戲論無故,無憶想分別、無別異相,是名實相。

問う者曰く、仏がこの四句の因縁を用いて説くを知れり。また諸法の実相を得る人は、何の相を以てか知るべきか。また実相はどのようか。答える者曰く、能く他に随わざるを以てなり。いわゆる他に随わずとは、もし外道が神力を現じてこれは道・これは道にあらずと説くも、自ら其の心を信じて他に随わず、乃至身を変えて彼が仏にあらざるを知らずとも、善く実相を解するがゆえに、心は回転すべからず。ここに取るべき捨つべき法なく、これを寂滅の相と名づく。寂滅の相なれば、戯論の戯論する所とならず。戯論に二種有る。一は愛論、二は見論。ここにこの二種の戯論なし。二種の戯論なければ、すなわち憶想分別なく、各別差異の相なし。これを実相と名づく。

問曰:若諸法盡空,將不墮斷滅耶?又不生不滅或墮常耶?

問う者曰く、もし諸法が皆空なれば、断滅に堕するにあらずや。また不生不滅なれば、あるいは常に堕するか。

答曰:不然。先說實相無戲論,心相寂滅言語道斷。汝今貪著取相,於實相法中見斷常過。得實相者,說諸法從眾緣生,不即是因亦不異因,是故不斷不常。若果異因則是斷,若不異因則是常。

答える者曰く、そうではない。先前に実相には戯論なく、心相寂滅にして言語の路断ずと説いた。あなたはいま取相に貪着して、実相の法の中に断・常の過失を見る。実相を得る人は、諸法は衆縁に随って生じ、因に即せず、また因に異ならずと説く。ゆえに不断不常である。もし果が因に異なればすなわち断であり、もし因に異ならなければすなわち常である。

問曰:若如是解,有何等利?

問う者曰く、もしこのように解れば、何の利益が有るか。

答曰:若行道者能通達如是義,則於一切法不一不異、不斷不常。若能如是,即得滅諸煩惱戲論,得常樂涅槃,是故說諸佛以甘露味教化。如世間言得天甘露漿,則無老病死無諸衰惱。此實相法是真甘露味,佛說實相有三種:若得諸法實相、滅諸煩惱,名為聲聞法;若生大悲發無上心,名為大乘;若佛不出世,無有佛法時,辟支佛因遠離生智。若佛度眾生已入無餘涅槃,遺法滅盡。先世若有應得道者,少觀厭離因緣,獨入山林遠離憒鬧得道,名辟支佛。

答える者曰く、もし道を行ずる人が能くこの義理に通達せば、すなわち一切法に於いて是一でもなく是異でもなく、不断不常なり。もし能くこのようであれば、すなわち諸の煩悩戯論を滅尽して、常楽涅槃を得る。ゆえに諸仏は甘露味を用いて教化すと説く。世間に天の甘露漿を得れば老病死なく、種種の衰悩なしと説くが如し。この実相法は真の甘露味である。仏の説く実相に三種有り。もし諸法の実相を得て諸の煩悩を滅尽せば、声聞法と名づく。もし大悲を生じ無上の心を発せば、大乘と名づく。もし仏が世に出ず、仏法なき時には、辟支仏は遠離に因って智を生ず。もし仏が衆生を度し了えてすでに無余涅槃に入り、遺法滅尽せば、先世にもし道を得べき人有りて、少しく厭離の因縁を観察し、独り山林に入りて喧閙に遠離して道を得るを、辟支仏と名づく。

中論觀時品第十九(六偈)

《中論》観時品第十九(六首の偈)

問曰:應有時,以因待故成。因有過去時,則有未來、現在時;因現在時,有過去、未來時;因未來時,有過去、現在時。上中下一異等法,亦相因待故有。

問う者曰く、時有るべきである。相待に因ってこそ成立するがゆえである。過去時有るがゆえに、こそ未来・現在時有り。現在時有るがゆえに、こそ過去・未来時有り。未来時有るがゆえに、こそ過去・現在時有り。上中下・一異等の法も、また相待に因ってこそ有る。

答曰:

答える者曰く、

「若因過去時,有未來現在;

「もし過去時に因ってこそ未来・現在有れば、

未來及現在,應在過去時。」

未来および現在は、過去時の中に有るべきである。」

若因過去時,有未來、現在時者,則過去時中應有未來、現在時。何以故?隨所因處有法成,是處應有是法。如因燈有明成,隨有燈處應有明。如是因過去時,成未來、現在時者,則過去時中應有未來、現在時。若過去時中有未來、現在時者,則三時盡名過去時。何以故?未來、現在時在過去時中故。若一切時盡過去者,則無未來、現在時,盡過去故。若無未來、現在時,亦應無過去時。何以故?過去時因未來、現在時故名過去時。如因過去時成未來、現在時,如是亦應因未來、現在時成過去時。今無未來、現在時故,過去時亦應無。是故先說,因過去時成未來、現在時,是事不然。若謂過去時中無未來、現在時,而因過去時成未來、現在時。是事不然。何以故?

もし過去時に因ってこそ未来・現在時有れば、過去時の中に未来・現在時有るべきである。なぜか。因る所の処所に随って法有りて成就せば、かの処所にはこの法有るべきであるがゆえである。燈に因ってこそ光明成就するが如く、燈有る処所に随って光明有るべきである。このように過去時に因ってこそ未来・現在時成就すれば、過去時の中に未来・現在時有るべきである。もし過去時の中に未来・現在時有れば、三時は皆過去時と名づくべきである。なぜか。未来・現在時が過去時の中に在るがゆえである。もし一切の時が皆過去なれば、未来・現在時なし。皆過去と成ればがゆえである。もし未来・現在時なければ、また過去時もあるべきではない。なぜか。過去時は未来・現在時に因ってこそ過去時と名づくがゆえである。過去時に因って未来・現在時を成就するが如く、このようにまた未来・現在時に因って過去時を成就すべきである。いま未来・現在時なければ、過去時もまたあるべきではない。ゆえに先前に過去時に因って未来・現在時を成就すと説くは、この事は当らない。もし過去時の中に未来・現在時なけれども、過去時に因って未来・現在時を成就すと言うならば、この事は当らない。なぜか。

「若過去時中,無未來現在;

「もし過去時の中に未来・現在なければ、

未來現在時,云何因過去?」

未来・現在時は、どうしてなお過去に因らんか。」

若未來、現在時不在過去時中者,云何因過去時成未來、現在時。何以故?若三時各異相,不應相因待成,如瓶衣等物各自別成不相因待。而今不因過去時,則未來、現在時不成。不因現在時,則過去、未來時不成。不因未來時,則過去、現在時不成。汝先說過去時中雖無未來、現在時,而因過去時成未來、現在時者。是事不然。

もし未来・現在時が過去時の中に在らざれば、どうして過去時に因って未来・現在時を成就せんか。なぜか。もし三時に各々の相有れば、相待して成就すべきではない。瓶・衣等の物が各々別に成就して相因待せざるが如し。しかるにいま過去時に因らざれば、未来・現在時は成立せず。現在時に因らざれば、過去・未来時は成立せず。未来時に因らざれば、過去・現在時は成立せず。あなたが先前に過去時の中に未来・現在時なけれども、過去時に因って未来・現在時を成就すと説くは、この事は当らない。

問曰:若不因過去時成未來、現在時,而有何咎?

問う者曰く、もし過去時に因らずして未来・現在時を成就せば、何の過失が有るか。

答曰:

答える者曰く、

「不因過去時,則無未來時,

「過去時に因らざれば、すなわち未来時なく、

亦無現在時,是故無二時。」

また現在時もなし。ゆえにこの両時はなし。」

不因過去時,則不成未來、現在時。何以故?若不因過去時有現在時者,於何處有現在時?未來亦如是,於何處有未來時?是故不因過去時則無未來、現在時,如是相待有故,實無有時。

過去時に因らざれば、未来・現在時は成立せず。なぜか。もし過去時に因らずして現在時有れば、どこに在りて現在時があらんか。未来もまたこのようで、どこに在りて未来時があらんか。ゆえに過去時に因らざれば、すなわち未来・現在時なし。このように相待に因ってこそ有るにして、実に時なし。

「以如是義故,則知餘二時,

「この義理に因って、すなわちその余の両時を知る。

上中下一異,是等法皆無。」

上中下・一異のこれらの法も皆なし。」

以如是義故,當知餘未來現在亦應無,及上中下一異等諸法亦應皆無。如因上有中下,離上則無中下。若離上有中下,則不應相因待。因一故有異、因異故有一,若一實有,不應因異而有;若異實有,不應因一而有。如是等諸法,亦應如是破。

この義理に因って、こそその余の未来・現在もまたあるべきではないと知るべきである。および上中下・一異等の諸法もまた皆なかるべきである。上に因ってこそ中下有るが如く、上を離れて中下有れば、相待すべきではない。一に因ってこそ異有り、異に因ってこそ一有る。もし一が実有れば、異に因って有るべきではない。もし異が実有れば、一に因って有るべきではない。このように諸法もまたこのように破るべきである。

問曰:如有歲月日須臾等差別,故知有時。

問う者曰く、年・月・日・須臾等の差別有るがゆえに、時有ると知る。

答曰:

答える者曰く、

「時住不可得,時去亦叵得,

「時は住すれども求めて得られず、時は去るも求めて得られず。

時若不可得,云何說時相?

時がもし求めて得られなければ、どうして時の相を説かんか。

因物故有時,離物何有時?

物に因ってこそ時有り、物を離れてどこに時があらんか。

物尚無所有,何況當有時!」

物すらなおなきに、いわんやなお時有らんや。」

時若不住,不應可得,時住亦無。若時不可得,云何說時相?若無時相則無時。因物生故則名時,若離物則無時。上來種種因緣破諸物,物無故,何有時?

時がもし住せざれば、可得であるべきではない。時の住にもまたなし。もし時を求めて得られなければ、どうして時の相を説かんか。もし時の相なければ、すなわち時なし。物生ずるに因ってこそ時と名づく。もし物を離れればすなわち時なし。上に種種の因縁を以て諸物を破った。物なければ、どこに時があらんか。

中論觀因果品第二十(二十四偈)

《中論》観因果品第二十(二十四首の偈)

問曰:眾因緣和合現有果生故,當知是果從眾緣和合有。

問う者曰く、衆因縁和合して、現前に果の生有る。知るべし、この果は衆縁和合に随って有ると。

答曰:

答える者曰く、

「若眾緣和合,而有果生者;

「もし衆縁和合して果の生有れば、

和合中已有,何須和合生?」

和合の中にすでに有れば、なお和合して生ずるを用いて何をせん。」

若謂眾因緣和合有果生,是果則和合中已有。而從和合生者,是事不然。何以故?果若先有定體,則不應從和合生。

もし衆因縁和合して果の生有ると説くならば、この果はすなわち和合の中にすでに有る。それなのにまた和合に随って生ずるは、この事は当らない。なぜか。果がもし先前にすでに確定の体有れば、和合に随って生ずべきではない。

問曰:眾緣和合中雖無果,而果從眾緣生者,有何咎?

問う者曰く、衆縁和合の中に果なけれども、果は衆縁に随って生ず。何の過失が有るか。

答曰:

答える者曰く、

「若眾緣和合,是中無果者,

「もし衆縁和合に、この中に果なければ、

云何從眾緣,和合而果生?」

どうして衆縁和合に随って果生ぜんか。」

若從眾緣和合則果生者,是和合中無果,而從和合生。是事不然。何以故?若物無自性,是物終不生。復次:

もし衆縁和合に随って則ち果生ずれば、この和合の中に果なきに、和合に随って生ず。この事は当らない。なぜか。もし物に自性なければ、この物は終に生に生ぜざるがゆえである。さらにいえば、

「若眾緣和合,是中有果者;

「もし衆縁和合に、この中に果有れば、

和合中應有,而實不可得。」

和合の中に有るべきであるが、実に求めて得られず。」

若從眾緣和合中有果者,若色應可眼見、若非色應可意知,而實和合中果不可得。是故和合中有果,是事不然。復次:

もし衆縁和合の中に果有れば、色なれば眼を用いて見るべきであり、色でなければ意を用いて知るべきである。しかるに実に和合の中に果は求めて得られない。ゆえに和合の中に果有るは、この事は当らない。さらにいえば、

「若眾緣和合,是中無果者;

「もし衆縁和合に、この中に果なければ、

是則眾因緣,與非因緣同。」

これらの衆因縁はすなわち非因縁と相同じとなる。」

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