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中論 巻第一

姚秦 · 龙树造,鸠摩罗什译 · 第23巻 / 28

汝不解云何是空相?以何因緣說空?亦不解空義。不能如實知故,生如是疑難。復次:

あなたは何をか空の相と為すかを解せず、何の因縁に依ってか空を説くかも解せず。また空の義理を解せず。如実に知ること能わざるがゆえに、かくのごとき疑難を生出す。さらにいえば、

「諸佛依二諦,為眾生說法:

「諸仏は二諦に依って衆生のために法を説く。

一以世俗諦,二第一義諦。

一は世俗諦、二は第一義諦。

若人不能知,分別於二諦,

もし人がこの二諦の分別を知ること能わざれば、

則於深佛法,不知真實義。」

すなわち深き仏法に於いて、真実義を知らず。」

世俗諦者,一切法性空,而世間顛倒,故生虛妄法,於世間是實。諸賢聖真知顛倒性,故知一切法皆空無生,於聖人是第一義諦名為實。諸佛依是二諦,而為眾生說法。若人不能如實分別二諦,則於甚深佛法不知實義。若謂一切法不生是第一義諦,不須第二俗諦者,是亦不然。何以故?

いわゆる世俗諦とは、一切法は性空なるに、世間は顛倒なるがゆえに虚妄の法を生じ、世間に於いては是れ実なり。諸の賢聖は真に顛倒の性を知るがゆえに、一切法は皆空にして無生なりと知る。聖人に於いては是れ第一義諦にして、実と名づく。諸仏はこの二諦に依って衆生のために法を説く。もし人が能く如実に二諦を分別せざれば、すなわち甚深の仏法に於いて実義を知らず。もし一切法不生は第一義諦にして、第二の俗諦を須いずと説くならば、これも当らない。なぜか。

「若不依俗諦,不得第一義;

「もし俗諦に依らざれば、第一義を得ることを得ず。

不得第一義,則不得涅槃。」

第一義を得ざれば、すなわち涅槃を得ることを得ず。」

第一義皆因言說,言說是世俗,是故若不依世俗,第一義則不可說。若不得第一義,云何得至涅槃?是故諸法雖無生,而有二諦。復次:

第一義は皆因って言説に在り、言説は世俗である。ゆえにもし世俗に依らざれば、第一義は説くべからず。もし第一義を得ざれば、どうして涅槃に至ることを得んか。ゆえに諸法は無生なれども、二諦有る。さらにいえば、

「不能正觀空,鈍根則自害,

「能く空を正観せざれば、鈍根はすなわち自らを害す。

如不善呪術,不善捉毒蛇。」

呪術を善くせざるが如く、毒蛇を善く捉えざるが如し。」

若人鈍根不善解空法,於空有失而生邪見。如為利捉毒蛇,不能善捉反為所害。又如呪術,欲有所作不能善成則還自害。鈍根觀空法亦如是。復次:

もし人が鈍根にして空法を善解せず、空に於いて過失有りて邪見を生出す。利益を為さんがために毒蛇を捉えんとすれども、善く捉えずしてかえってその害するところとなるが如し。また呪術の如く、作為せんと欲するも善く成ること能わざれば、すなわちかえって自らを害す。鈍根が空法を観ずるもまたこのようである。さらにいえば、

「世尊知是法,甚深微妙相,

「世尊はこの法の甚深微妙の相を知りて、

非鈍根所及,是故不欲說。」

鈍根の及ぶ所にあらざれば、説かんと欲せず。」

世尊以法甚深微妙,非鈍根所解,是故不欲說。復次:

世尊は法の甚深微妙にして、鈍根の解し得る所にあらざるに因って、説かんと欲せず。さらにいえば、

「汝謂我著空,而為我生過;

「あなたは我が空を執すると認めて、我に過失を生ぜしむ。

汝今所說過,於空則無有。」

あなたが今説く所の過失は、空に於いてはなし。」

汝謂我著空故,為我生過。我所說性空,空亦復空,無如是過。復次:

あなたは我が空を執すると認めて、我に過失を生ぜしむ。我の説く所の性空は、空もまた還りて空なり。このような過失なし。さらにいえば、

「以有空義故,一切法得成;

「空の義理有るに因って、一切法はこそ成立し得る。

若無空義者,一切則不成。」

もし空の義理なければ、一切は皆成り立たず。」

以有空義故,一切世間、出世間法皆悉成就。若無空義,則皆不成就。復次:

空の義理有るに因って、一切の世間・出世間法は皆成就す。もし空の義理なければ、皆成り立たず。さらにいえば、

「汝今自有過,而以迴向我,

「あなたは今自ら過失有るに、それを転じて我に向う。

如人乘馬者,自忘於所乘。」

人が馬に乗りて、自ら乗る所を忘るるが如し。」

汝於有法中有過不能自覺,而於空中見過,如人乘馬而忘其所乘。何以故?

あなたは有法の中に過失有るも自ら覚ること能わざるに、空の中に於いて過失を見る。人が馬に乗りて乗る所を忘るるが如し。なぜか。

「若汝見諸法,決定有性者,

「もしあなたが諸法に決定の性有るを見れば、

即為見諸法,無因亦無緣。」

すなわちこれ諸法に因なくまた縁なきを見るなり。」

汝說諸法有定性。若爾者,則見諸法無因無緣。何以故?若法決定有性,則應不生不滅,如是法何用因緣?若諸法從因緣生,則無有性。是故諸法決定有性,則無因緣。若謂諸法決定住自性,是則不然。何以故?

あなたは諸法に定性有ると説く。もしこのようであれば、すなわちこれ諸法に因なく・縁なきを見るなり。なぜか。もし法に決定の性有れば、生滅すべきではない。このような法はなお因縁を用いて何をせんか。もし諸法が因縁に随って生ぜば、すなわち性なし。ゆえに諸法に決定の性有れば、すなわち因縁なし。もし諸法は決定して自性に住すと説くならば、これは当らない。なぜか。

「即為破因果,作作者作法,

「すなわちこれ因果・作・作者・作法を破り、

亦復壞一切,萬物之生滅。」

しかもまた一切万物の生滅を毀壊せん。」

諸法有定性,則無因果等諸事。如偈說:

諸法に定性有れば、すなわち因果等の種種の事なし。偈の説く所の如く、

「眾因緣生法,我說即是無,

「衆因縁の生ずる所の法は、我説けばすなわち是れ無、

亦為是假名,亦是中道義。

また是れ仮名、亦是れ中道の義理なり。

未曾有一法,不從因緣生,

未曾て一の法有りて因縁に随って生ぜざることなし。

是故一切法,無不是空者。」

ゆえに一切法に空ならざるはなし。」

眾因緣生法,我說即是空。何以故?眾緣具足和合而物生,是物屬眾因緣故無自性,無自性故空,空亦復空。但為引導眾生故,以假名說,離有無二邊,故名為中道。是法無性故不得言有,亦無空故不得言無。若法有性相,則不待眾緣而有,若不待眾緣則無法,是故無有不空法。汝上所說空法有過者,此過今還在汝。何以故?

衆因縁の生ずる所の法は、我説けばすなわち是れ空なり。なぜか。衆縁具足して和合して物生ず。この物は衆因縁に属するがゆえに自性なし。自性なきがゆえに空なり。空もまた還りて空なり。ただ衆生を引導せんがためにこそ仮名を用いて説く。有・無の両辺を離るるがゆえに中道と名づく。この法に性なきがゆえに有と説くこと能わず。また空ならざるがゆえに無と説くこと能わず。もし法に性相有れば、衆縁を待たずして有らん。もし衆縁を待たざれば、すなわち法なし。ゆえに不空の法なし。あなたが上に説いた空法に過失有りとは、この過失はいまなおあなたの辺に在り。なぜか。

「若一切不空,則無有生滅,

「もし一切が不空なれば、すなわち生滅なし。

如是則無有,四聖諦之法。」

このようではすなわち四聖諦という法なし。」

若一切法各各有性不空者,則無有生滅。無生滅故,則無四聖諦法。何以故?

もし一切法が各各に性有りて不空なれば、すなわち生滅なし。生滅なければ、すなわち四聖諦の法なし。なぜか。

「苦不從緣生,云何當有苦?

「苦がもし縁に随って生ぜなければ、どうしてなお苦があらんか。

無常是苦義,定性無無常。」

無常は苦の義理なり。定性有ればすなわち無常なし。」

苦不從緣生故則無苦。何以故?經說無常是苦義。若苦有定性,云何有無常?以不捨自性故。復次:

苦が縁に随って生ぜなければ、すなわち苦なし。なぜか。経の上に無常は苦の義理と説くがゆえである。もし苦に定性有れば、どうしてなお無常があらんか。自性を捨てざるがゆえである。さらにいえば、

「若苦有定性,何故從集生?

「もし苦に定性有れば、何に因ってか集に随って生ぜんか。

是故無有集,以破空義故。」

ゆえに集はなし。空の義理を破るがゆえである。」

若苦有定性者,則不應更生,先已有故。若爾者,則無集諦,以壞空義故。復次:

もし苦に定性有れば、さらに生ずべきではない。先前にすでに有ればがゆえである。もしこのようであれば、すなわち集諦なし。空の義理を毀壊するがゆえである。さらにいえば、

「苦若有定性,則不應有滅。

「苦にもし定性有れば、滅有るべきではない。

汝著定性故,即破於滅諦。」

あなたが定性を執著すれば、すなわち滅諦を破る。」

苦若有定性者,則不應滅。何以故?性則無滅故。復次:

苦にもし定性有れば、滅すべきではない。なぜか。性はすなわち滅せざるがゆえである。さらにいえば、

「苦若有定性,則無有修道;

「苦にもし定性有れば、すなわち道の修習なし。

若道可修習,即無有定性。」

もし道が修習すべきなれば、すなわち定性なし。」

法若定有,則無有修道。何以故?若法實者則是常,常則不可增益。若道可修,道則無有定性。復次:

法がもし決定有れば、すなわち道の修習なし。なぜか。もし法が実なれば、すなわち常である。常なれば增益すべからず。もし道が修すべきなれば、道にすなわち定性なし。さらにいえば、

「若無有苦諦,及無集滅諦,

「もし苦諦なく、および集・滅諦なければ、

所可滅苦道,竟為何所至?」

能く苦を滅するの道は、畢竟いずこに至らんか。」

諸法若先定有性,則無苦集滅諦。今滅苦道,竟為至何滅苦處?復次:

諸法がもし先前に決定の性有れば、すなわち苦・集・滅諦なし。いま苦を滅するの道は、畢竟いずこの滅苦の処に至らんか。さらにいえば、

「若苦定有性,先來所不見,

「もし苦が決定の性有れば、先前に本より見ること能わず。

於今云何見?其性不異故。」

いまどうして見ることを得んか。その性は異ならざるがゆえに。」

若先凡夫時不能見苦性,今亦不應見。何以故?不見性定故。復次:

もし先前に凡夫の時に苦の性を見ること能わざれば、いまもまた見るべきではない。なぜか。見ること能わざるの性は定なればがゆえである。さらにいえば、

「如見苦不然,斷集及證滅,

「苦を見るが当らざるが如く、集を断じおよび滅を証し、

修道及四果,是亦皆不然。」

道を修しおよび四果のこれらも、皆当らず。」

如苦諦性,先不見者後亦不應見。如是亦不應有斷集、證滅、修道。何以故?是集性先來不斷,今亦不應斷,性不可斷故。滅先來不證,今亦不應證,先來不證故。道先來不修,今亦不應修,先來不修故。是故四聖諦見斷證修四種行,皆不應有。四種行無故,四道果亦無。何以故?

苦諦の性の如く、先前に見ること能わざるは後もまた見るべきではない。このようにまた集を断・滅を証・道を修する有るべきではない。なぜか。この集の性は先前に本より断ぜず、いまもまた断ずべきではない。性は断ずべからざるがゆえである。滅は先前に本より証せず、いまもまた証すべきではない。先前に証せざるがゆえである。道は先前に本より修せず、いまもまた修すべきではない。先前に修せざるがゆえである。ゆえに四聖諦の見・断・証・修の四種の行は皆有るべきではない。四種の行なければ、四道果もまたなし。なぜか。

「是四道果性,先來不可得;

「この四道果の性は、先前に本より求めて得られず。

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