中論 巻第一
諸法性若定,今云何可得?」
諸法の性がもし定なれば、いまどうして得ることができようか。」
諸法若有定性,四沙門果先來未得,今云何可得?若可得者,性則無定。復次:
諸法にもし定性有れば、四沙門果は先前に本より得ず。いまどうして得ることができようか。もし得ることができれば、性は定ならず。さらにいえば、
「若無有四果,則無得曏者,
「もし四果なければ、果を得・果に向かう人なし。
以無八聖故,則無有僧寶。」
八聖なきに因って、すなわち僧宝なし。」
無四沙門果故,則無得果、向果者。無八賢聖故,則無有僧寶。而經說八賢聖,名為僧寶。復次:
四沙門果なければ、すなわち果を得・果に向かう人なし。八賢聖なければ、すなわち僧宝なし。しかるに経の上に八賢聖を僧宝と名づくと説く。さらにいえば、
「無四聖諦故,亦無有法寶,
「四聖諦なければ、また法宝なし。
無法寶僧寶,云何有佛寶?」
法宝・僧宝なければ、どうしてなお仏宝があらんか。」
行四聖諦得涅槃法,若無四諦則無法寶,若無二寶云何當有佛寶?汝以如是因緣,說諸法定性,則壞三寶。
四聖諦を修行して涅槃法を得る。もし四諦なければすなわち法宝なし。もし二宝なければ、どうしてなお仏宝があらんか。あなたがかかる因縁を用いて諸法に定性有ると説くは、すなわち三宝を毀壊す。
問曰:汝雖破諸法,究竟道阿耨多羅三藐三菩提應有,因是道故名為佛。
問う者曰く、あなたは諸法を破るといえども、究竟道阿耨多羅三藐三菩提(無上正等正覚)は有るべきである。この道有るがゆえにこそ仏と名づく。
答曰:
答える者曰く、
「汝說則不因,菩提而有佛;
「あなたの説く所に随えば、菩提に因らずして仏有らず。
亦復不因佛,而有於菩提。」
また仏に因らずして菩提供らず。」
汝說諸法有定性者,則不應因菩提有佛、因佛有菩提,是二性常定故。復次:
あなたは諸法に定性有ると説く。菩提に因って仏有り・仏に因って菩提供るべきではない。この二様の性は常に定なればがゆえである。さらにいえば、
「雖復勤精進,修行菩提道,
「たといさらに勤めて精進して菩提道を修行するも、
若先非佛性,不應得成佛。」
もし先前に仏性ならざれば、成仏を得るべきではない。」
以先無性故,如鐵無金性,雖復種種鍛煉終不成金。復次:
先前に性なきに因って、鉄に金性なきが如く、たといさらに種種に鍛錬するも終に金と成らず。さらにいえば、
「若諸法不空,無作罪福者,
「もし諸法が不空なれば、すなわち罪福を作す人なし。
不空何所作?以其性定故。」
不空なればなお何を作さんか。その性は定なればがゆえに。」
若諸法不空,終無有人作罪福者。何以故?罪福性先已定故,又無作作者故。復次:
もし諸法が不空なれば、終に罪福を作す人なし。なぜか。罪福の性は先前にすでに定まり、また作・作者なきがゆえである。さらにいえば、
「汝於罪福中,不生果報者,
「あなたは罪福の中に於いて果報を生ぜざれば、
是則離罪福,而有諸果報。」
これはすなわち罪福を離れて諸の果報有らん。」
汝於罪福因緣中皆無果報者,則應離罪福因緣而有果報。何以故?果報不待因出故。
あなたは罪福の因縁の中に於いて皆果報なければ、罪福の因縁を離れて果報有るべきである。なぜか。果報は因を待たずして出るがゆえである。
問曰:離罪福可無善惡果報,但從罪福有善惡果報。
問う者曰く、罪福を離れて善悪の果報なきことは可とするも、ただ罪福に随ってこそ善悪の果報有る。
答曰:
答える者曰く、
「若謂從罪福,而生果報者,
「もし罪福に随って果報を生出すと説かば、
果從罪福生,云何言不空?」
果は罪福に随って生ず。どうしてなお不空と言うことができようか。」
若離罪福無善惡果,云何言果不空?若爾,離作者則無罪福。汝先說諸法不空,是事不然。復次:
もし罪福を離れて善悪の果なければ、どうして果は不空と言うことができようか。もしこのようであれば、作者を離れてすなわち罪福なし。あなたが先前に諸法は不空と説くは、この事は当らない。さらにいえば、
「汝破一切法,諸因緣空義,
「あなたが一切法・諸の因縁の空義を破れば、
則破於世俗,諸餘所有法。」
すなわち世俗のその余の所有の法を破らん。」
汝若破眾因緣法第一空義者,則破一切世俗法。何以故?
あなたがもし衆因縁法の第一の空義を破れば、すなわち一切の世俗法を破る。なぜか。
「若破於空義,即應無所作;
「もし空義を破れば、所作なかるべきに、
無作而有作,不作名作者。」
作なきのに作有り、作さずして作者と名づくべきならん。」
若破空義,則一切果皆無作無因,又不作而作,又一切作者不應有所作,又離作者應有業、有果報、有受者。但是事皆不然,是故不應破空。復次:
もし空義を破れば、一切の果に作なく・因なし。また作さずして作有り、また一切の作者は作する所有るべきではなく、また作者を離れて業有り・果報有り・受者有るべきである。しかるにこれらの事は皆当らない。ゆえに空を破るべきではない。さらにいえば、
「若有決定性,世間種種相,
「もし決定の性有れば、世間の種種の相は、
則不生不滅,常住而不壞。」
すなわち不生不滅にして、常住して壊れず。」
若諸法有定性,則世間種種相,天、人、畜生、萬物,皆應不生不滅常住不壞。何以故?有實性不可變異故。而現見萬物各有變異相生滅變易,是故不應有定性。復次:
もし諸法に定性有れば、世間の種種の相、天・人・畜生・万物は皆不生不滅にして常住不壊であるべきである。なぜか。実性有りて変異すべからざるがゆえである。しかるに現前に万物に各々変異の相・生滅変易有るを見る。ゆえに定性有るべきではない。さらにいえば、
「若無有空者,未得不應得,
「もし空なければ、未だ得ざるは得るべきではなく、
亦無斷煩惱,亦無苦盡事。」
また煩悩を断ずることなく、また苦尽の事もなし。」
若無有空法者,則世間、出世間所有功德,未得者皆不應得,亦不應有斷煩惱者,亦無苦盡。何以故?以性定故。
もし空法なければ、世間・出世間の所有の功徳は、未だ得ざるは皆得るべきではなく、また煩悩を断ずる人有るべきではなく、また苦尽もなし。なぜか。性は定なればがゆえである。
「是故經中說,若見因緣法,
「ゆえに経の中に説く、もし因縁法を見れば、
則為能見佛,見苦集滅道。」
すなわち能く仏を見、苦・集・滅・道を見ん。」
若人見一切法從眾緣生,是人即能見佛法身,增益智慧,能見四聖諦苦集滅道,見四聖諦得四果滅諸苦惱,是故不應破空義。若破空義則破因緣法,破因緣法則破三寶,若破三寶則為自破。
もし人が一切法は衆縁に随って生ずを見れば、この人はすなわち能く仏の法身を見、智慧を増益し、能く四聖諦の苦・集・滅・道を見ん。四聖諦を見て、四果を得、諸の苦悩を滅す。ゆえに空義を破るべきではない。もし空義を破ればすなわち因縁法を破り、因縁法を破ればすなわち三宝を破る。もし三宝を破ればすなわち自らを破るなり。
中論觀涅槃品第二十五(二十四偈)
《中論》観涅槃品第二十五(二十四首の偈)
問曰:
問う者曰く、
「若一切法空,無生無滅者,
「もし一切法が空にして、生なく・滅なければ、
何斷何所滅,而稱為涅槃?」
何を断じ何を滅してか、涅槃と称せんか。」
若一切法空,則無生無滅。無生無滅者,何所斷何所滅,而名為涅槃?是故一切法不應空。以諸法不空故,斷諸煩惱滅五陰,名為涅槃。
もし一切法が空なれば、すなわち生なく・滅なし。生滅なければ、何を断じ何を滅してか、涅槃と名づけんか。ゆえに一切法は空であるべきではない。諸法不空なるに因って、諸の煩悩を断じ五陰を滅するを涅槃と名づく。
答曰:
答える者曰く、
「若諸法不空,則無生無滅;
「もし諸法が不空なれば、すなわち生なく・滅なし。
何斷何所滅,而稱為涅槃?」
何を断じ何を滅してか、涅槃と称せんか。」
若一切世間不空,則無生無滅,何所斷何所滅而名為涅槃?是故有無二門,則非至涅槃。所名涅槃者:
もし一切の世間が不空なれば、すなわち生なく・滅なし。何を断じ何を滅してか涅槃と名づけんか。ゆえに有・無の両門とも涅槃に至るにあらず。いわゆる涅槃とは、
「無得亦無至,不斷亦不常,
「得なくまた至なく、断ぜずしてまた常ならず、
不生亦不滅,是說名涅槃。」
生ぜずしてまた滅せず。これをこそ涅槃と名づく。」
無得者,於行於果無所得。無至者,無處可至。不斷者,五陰先來畢竟空故,得道入無餘涅槃時亦無所斷。不常者,若有法可得分別者則名為常,涅槃寂滅無法可分別故,不名為常。生滅亦爾,如是相者名為涅槃。復次經說,涅槃非有、非無、非有無、非非有非非無,一切法不受,內寂滅名涅槃。何以故?
いわゆる無得とは、行に於いて果に於いて得る所なきことである。いわゆる無至とは、至るべき処なきことである。いわゆる不断とは、五陰は先前よりこのかた畢竟空にして、道を得て無余涅槃に入る時にも断ずる所なきことである。いわゆる不常とは、もし法有りて得べく分別すべきものあれば、すなわち常と名づく。涅槃は寂滅にして分別すべき法なし。ゆえに常と名づけない。生滅もまたこのようである。かくのごとき相有るを、涅槃と名づく。さらにいえば経の上に説く、涅槃は非有・非無・非又有又無・非非有非非無、一切法不受、内に寂滅を涅槃と名づくと。なぜか。
「涅槃不名有,有則老死相;
「涅槃は有と名づけず。有はすなわち老死の相なり。
終無有有法,離於老死相。」
終に一の有法有りて老死の相を離るることなし。」
眼見一切萬物皆生滅故,是老死相。涅槃若是有,則應有老死相。但是事不然,是故涅槃不名有。又不見離生滅老死別有定法而名涅槃。若涅槃是有,即應有生滅老死相;以離老死相故,名為涅槃。復次:
眼に一切の万物は皆生滅するを見る。これは老死の相である。涅槃がもし有なれば、老死の相有るべきである。しかるにこの事は当らない。ゆえに涅槃は有と名づけない。また生滅老死を離れて別に定法有りて涅槃と名づくを見ず。もし涅槃が有なれば、生滅老死の相有るべきである。老死の相を離るるに因ってこそ涅槃と名づくがゆえである。さらにいえば、
「若涅槃是有,涅槃即有為;
「もし涅槃が有なれば、涅槃はすなわち有為なり。
終無有一法,而是無為者。」
終に一の法有りて無為なることなし。」
涅槃非是有。何以故?一切萬物從眾緣生,皆是有為。無有一法名為無為者,雖常法假名無為,以理推之,無常法尚無有,何況常法不可見不可得者。復次:
涅槃は有ではない。なぜか。一切の万物は衆縁に随って生じ、皆是れ有為なり。一の法有りて無為と名づくことなし。常法は仮名に無為と名づくといえども、理に随って推し求めれば、無常の法すらなおなきに、いわんや常法は見るべからず、求めて得られざるをや。さらにいえば、
