Libo

传习录 · 第7巻

明 · 王守仁 · 第7巻 / 9

○黃以方問,「先生格致之說,隨時恪物以致其知,則知是一節之知,非全體之知也,何以到得『溥博如天,淵泉如淵』地位?」先生曰:「人心是天.淵。心之本體,無所不該,原是一個天,只為私慾障礙,則天之本體失了:心之理無窮盡,原是一個淵,只為私慾窒塞,則淵之本體失了。如今念念致真知,將此障礙窒塞一齊去盡,則本體已復,便是天、淵了。」乃指天以示之曰:「比如面前見天,是昭昭之天,四外見天,也只是眧眧之天。只為許多房子牆壁遮蔽,便不見天之全體,若撤去房子牆壁,總是一個天矣。不可道跟前天是昭昭之天,外面又不是昭昭之天也。於此便見一節之知郥全體之知,全體之知郥一節之知,總是一個本體。」

黄以方問う『先生の格致の説は、時に隨いて物を格して以て其の知を致せば、則ち知是れ一節の知にして、全體の知に非ず、何を以て「溥博として天の如く、淵泉として淵の如し」の地位に到得せん』。先生曰く『人心是れ天淵。心の本体は、該せざる所無く、原來是一箇の天、只私欲障礙するを為す、則ち天の本体失い矣。心の理は窮盡無く、原來是一箇の淵、只私欲窒塞するを為す、則ち淵の本体失い矣。今や念念に良知を致して、此の障礙窒塞を一齊に去り尽くせば、則ち本体已に復す、便ち是れ天淵矣』。乃ち天を指して以て之に示して曰く『面前天を見るは比するに、是れ昭昭の天。四外に天を見るも、也只是昭昭の天。只許多の房子牆壁の遮蔽するを為す、便ち天の全體を見ず。若し房子牆壁を撤去せば、總て是一箇の天矣。眼前の天是れ昭昭の天、外面は又昭昭の天に非ずと道う可からず。此に於て便ち一節の知即ち全體の知、全體の知即ち一節の知を見る、總て是一箇の本体』。

○先生曰:「聖賢非無功業氣節:但其循著這天理則便是道,不可以事功氣節名矣。」

先生曰く『聖賢并非りて功業氣節無きに、但し其の此の天理に循い著くは便ち是れ道、以て事功氣節に來りて名を称す可からず』。

○「『發憤忘食』是聖人之志如此,真無有已時。『樂以忘憂』是聖人之道如此,真無有戚時。恐不必雲得不得也。」

『「憤を發して食を忘る」は是れ聖人の志向此の如し、真に已むるの時無し。「樂しみて以て憂を忘る」は是れ聖人の道此の如し、真に戚たるの時無し。恐らく必ずしも得ると得ざるとを説き得ず』。

○先生曰﹕「我輩知,只是名隨分限所及;今日良知見在如此,只隨今日所知擴充到底,明日晨知又有開悟,便從明日所知擴充到底,如此方是精一功夫。與人論學,亦須隨人分限所及;如樹有這些萌芽,只把這些水去灌慨,萌芽再長,便又加水,自拱把以至合抱,灌溉之功皆是隨其分限所及,若些小萌芽,有一桶水在,盡要傾上,便浸壤他了。」

先生曰く『我輩の知は、只是各々其の分限の及ぶ所に隨う。今日良知見在る此の如し、只今日の知る所に隨いて擴充して底に到れ。明日良知又開悟有れば、便ち明日の知る所に從りて擴充して底に到れ。此の如くして才に是れ精一の功夫。人と與に學を論ずるも、亦た須く人の分限の及ぶ所に隨うべし。樹に此れらの萌芽有るが如く、只此れらの水を把りて去りて灌溉せよ。萌芽再び長ずれば、便ち又水を加えよ。拱把より以て合抱に至るまで、灌溉の功は皆是れ其の分限の及ぶ所に隨う。若し些小の萌芽に、一桶の水在りて、尽く傾けんと要せば、便ち彼を浸壞す』。

○問知行合一。先生曰:「此須識我立言言宗旨今人學問,只因知、行分作兩件,故有一念猣動,雖是不善,然卻未曾行,便不去禁止。我今說個『知、行合一』,正要人曉得一念發動虛,便即是行了;猣動虛有不善,就將這不善的念克倒了,須要徹根徹底不使那一念不善潛伏在胸中:此是我上上言宗旨。」

知行合一を問う。先生曰く『此れ須く我が立言の宗旨を識れ。今人の學問は、只因りて知・行を分かちて兩件と作す、故に一念發動有れば、雖れ是れ不善なりとも、然るに却って未嘗て行わず、便ち去りて禁止せず。我今個の「知行合一」を説くは、正しく人をして一念の發動する處に曉得せしめんと要す、便ち即ち是れ行い矣。發動する處に不善有れば、就きて此の不善の念を將りて倒し克て、須く徹根徹底して、那の一念不善をして胸中に潛伏せしめざらんことを。此れ是れ我が立言の宗旨』。

○「聖人無所不知,只是知個天理:無所不能,只是能個天理。聖人本體明白,故事事知個天理所在,便去盡個天理:不是本體明後,卻於天下事物都便知得,便做得來也。天下事物,如名物度數、草木鳥獸之類,不勝其煩,聖人須是本體明瞭,亦何緣能盡知得。但不必知的,聖人自不消求知,其所當知的,聖人自能閒人:如『子入太廟,序事間』之類。先儒謂『雖知亦問,敬謹之至』;此說不可通。聖人於禮樂名物,不必盡知,然他知得一個天理,便自有許多節文度數出來,不知能問,亦即是天理節文所在。」

『聖人は知らざる所無し、只是個の天理を知る。能わざる所無し、只是個の天理を能くす。聖人は本体明白にして、故に事事に個の天理の所在を知りて、便ち去りて個の天理を尽くす。是れ本体明らかなる後、却って天下の事物に於て皆便ち知り得都便ち做し來るに非ず。天下の事物は、名物度數・草木鳥獸の類の如く、其の煩に勝えず。聖人須く是れ本体明瞭なれども、亦た何の緣か能く尽く知り得ん。但し必ずしも知らざる可きは、聖人自ら求知るを消えず。其の當に知るべき所は、聖人自ら能く人に問う。「子太廟に入りて、事毎に問う」の類の如し。先儒は「雖れ知るとも亦た問う、敬謹の至り」と謂う、此の説通ず可からず。聖人は禮樂名物に於いて、必ずしも尽く知るを須いず、然るに彼一箇の天理を知り得れば、便ち自ら許多の節文度數出來る有り。知らずして能く問うは、亦た即ち是れ天理節文の所在』。

○問:「先生嘗謂善、惡只是一物。善、惡兩端,如冰、炭相反,如同謂只一物?」先生曰:「至善者,心之本體。本體上才過當些子,便是惡了;不是有一個善,卻又有一個惡來相對也。故善、惡只是一物。」直因聞先生之說,則知程子所謂「善固性也,惡亦不可不謂之性。」又曰:「善、惡皆天理。謂之惡者,本非惡,但於本性上過與不及之閒耳。」其說皆無可疑。○先生嘗謂「人但得好善如好好色,惡惡如惡惡臭,便是聖人。」直初聞之,覺甚易,後禮驗得來,此個功夫著實是難。如一念雖知好善、惡惡,然不知不覺,又夾雜去了。才有夾雜,便不是好善如好好色、惡惡如惡惡臭的心。善能實實的好,是無一念不善矣:惡能實實的惡,是無念及惡矣。如同不是聖人?故聖人之學,只是一誠而已。

問う『先生かつて善・惡は只是一物と謂う。善・惡の兩端は、冰・炭の相反するが如く、如何に只一物と謂うか』。先生曰く『至善なる者は、心の本体。本体の上才に些子過當せば、便ち是れ惡矣。是れ一箇の善有りて、却又一箇の惡有りて來りて相對するに非ず。故に善・惡は只是一物』。黄直因りて先生の説を聞きて、則ち程子の所謂「善固より性なり、惡も亦た之を性と謂わざる可からず」、又「善・惡皆天理。之を惡と謂うは、本來惡に非ず、但し本性の上に於て過と不及の間のみ」を知る、其の説皆疑う可き無し。先生かつて謂う「人但し善を好むこと好色を好むが如く、惡を惡むこと惡臭を惡むが如くなるを得れば、便ち是れ聖人」。黄直初めて之を聞きて、甚だ易しと覺え、後體驗して得來れば、此の個の功夫著實是れ難し。如し一念雖れ善を好み惡を惡むを知るとも、然るに知らず覺えず、又夾雜して去る。才に夾雜有れば、便ち是れ善を好むこと好色を好むが如く、惡を惡むこと惡臭を惡むが如くの心に非ず。善能く實實の好は、是れ善ならざるの念無し。惡能く實實の惡は、是れ惡に及ぶの念無し。如何に是れ聖人に非ざらん。故に聖人の學は、只是一誠のみ。

○問「修道說」言﹁率性之謂道」屬聖人分上事,「修道之謂教」屬賢人分上事。先生日︰﹁眾人亦率性也,但率性在聖人分上較多,故﹃率性之謂道﹄屬聖人事;聖人亦修道也,但修道在賢人分上多,故﹃修道之謂教﹄屬賢人事。」又日︰「︿中庸﹀一書,大抵皆是說修道的事︰放後面凡說君子,說顏淵,說子路,皆是能修道的;說小人,說賢知、愚不肖,說庶民,皆是不能修道的;其它言舜、文、周公、仲尼,至誠至聖之類,則又聖人之自能修道者也。」

《修道説》の「性に率うを道と謂う」は聖人の分上の事に屬し、「道を修むるを教と謂う」は賢人の分上の事に屬すを問う。先生曰く『衆人も亦た性に率う、但し性に率うは聖人の分上に於て較く多し、故に「性に率うを道と謂う」は聖人の事に屬す。聖人も亦た道を修む、但し道を修むは賢人の分上に於て多し、故に「道を修むるを教と謂う」は賢人の事に屬す』。又曰く『《中庸》一書は、大抵皆是れ道を修むるの事を説く。故に後面凡そ君子を説き、顏淵を説き、子路を説くは、皆是れ能く道を修むる。小人を説き、賢知・愚不肖を説き、庶民を説くは、皆是れ能く道を修めざる。其の他舜・文・周公・仲尼を言い、至誠至聖の類は、則ち又是れ聖人自ら能く道を修むる』。

○問︰「儒者到三更時分,掃蕩胸中思慮,空空靜靜,與釋氏之靜只一般,兩下皆不用,此時何所分別?﹂先生日︰「動、靜只是一個。那三更詩分,空空靜靜的,只是存天理,即是如今應事接物的心,如今應事接物的心,亦是循此理,便是那三更時分空空靜靜的心。故動、靜只是一個,分別不得。知得動、靜合一,釋氏毫釐差處亦自莫掩矣。」

問う『儒者三更の時分に到りて、胸中の思慮を掃蕩して、空空靜靜として、釋氏の靜と與に只一般、两下皆用いず、此の時何を以て分別せん』。先生曰く『動・靜只是一箇。那の三更の時分空空靜靜のは、只是天理を存す、即ち是れ如今事に應じ物に接するの心。如今事に應じ物に接するの心も、亦た是れ此の理に循う、便ち是れ那の三更の時分空空靜靜の心。故に動・靜只是一箇、分別するを得ず。動・靜合一を知り得れば、釋氏の毫釐差うる處も亦た自ら掩う莫し』。

○門人在座,有動止甚矜持者。先生曰︰「人若矜持太過,終是有弊。」日﹕「衿得太過,如何有弊?」日︰「人只有許多精神,若專茌容貌上用功,刖於中心照管不及者多矣。」有太直率者,先生曰︰「如今講此學,卻外面全不檢束,又分心與事為二矣。」

門人座に在りて、動止甚だ矜持する有り。先生曰く『人若し矜持太も過ぐれば、終に是れ弊有り』。問う『矜持太も過ぐれば、如何に弊有らん』。曰く『人只有りて許多の精神、若し専ら容貌の上に於て用功せば、則ち中心に於て照管及ばざる多し』。太も直率なる有りて、先生曰く『今や此の學を講ずるに、却って外面全く檢束せず、又心と事とを分かちて二と為す』。

○門人作文送友行,問先生曰︰「作文字不免費思,作了後又一二日常記茌懷。」曰︰「文字思索亦無害;但作了常記在懷,則為文所累,心中有一物矣,此則未可也。」又作詩送人。先生看詩畢,謂日︰「凡作文字要隨我分限所及;若說得太過了,亦非修辭立誠矣。」

門人が文を作りて友の行を送り、先生に問う『文の字を作るに費えて思うを免れず、作し了りて後一二日も常に懷に記す』。曰く『文字思索するも亦た害無し。但し作し了りて常に懷に記すれば、則ち文の累と為る所と為り、心中に一物有り矣、此れ則ち未だ可ならず』。又詩を作りて人を送る。先生詩を看畢りて曰く『凡そ文字を作るは要く我が分限の及ぶ所に隨え。若し説き得て太も過ぐれば、亦た辭を修め誠を立つに非ず』。

○「文公『格物』之說,只是少頭腦。如所謂『察之於念慮之微』,此一句不該與『求之文字之中,驗之於事為之著,索之講論之際』混作一例看,是無輕重也。」

『文公の「格物」の説は、只是少なく頭腦。如し所謂「之を念慮の微に於て察す」の一句は、該せず「之を文字の中に求め、之を事為の著に於て驗し、之を講論の際に索め」と與に混じて作して一例に看るべからず、是れ輕重無し』。

○問有所忿懥一條。先生曰:「忿懥畿件,人心怎能無得,只是不可『有所』耳。幾人忿懥,著了一分意思,便怒得過當,非廓然大公之體了。故有所忿懥,便不得其正也。如今於凡忿懥等件,只是個物來順應,不要著一分意思,便心體廓然大公,得其本體之正了。且如出外見人相鬫,其不是的,我心亦怒:然雖怒,卻此心廓然,不曾動些子氣。如今怒人,亦得如此,方才是正。」

忿懥有る所の一條を問う。先生曰く『忿懟の幾件は、人心怎能無からん、只是「所有る」ならざる可きのみ。凡そ人の忿懥は、一分の意思に著けば、便ち怒りて過當に過ぎ、廓然大公の體に非ず。故に忿懥所有れば、便ち其の正を得ず。今や凡そ忿懥等の件に於いては、只是個の物來れば順應す、一分の意思に著くる要らず、便ち心體廓然大公にして、其の本体の正を得矣。且く外に出でて人の相い鬥うを見るが如く、其の是ならざるは、我が心も亦た怒る。然るに雖れ怒るとも、却って此の心廓然として、曾て些子の氣を動かさず。今や人を怒るも、亦た此の如くなるを得て、才に是れ正なり』。

○先生嘗言:「佛氏不著相,其實著了相,吾儒著相,其實不著相。」請問。曰:「佛怕父子累,卻逃了父子,怕君臣累,卻逃了君臣,怕夫婦累,卻逃了夫婦,都是為個君臣、父子、夫婦著了相,便須逃避。如吾懦有個父子,還他以仁,有個君臣,還尥以義,有個夫婦,還他以別,何曾著父子、君臣、夫婦的相?以下門人黃修易錄

先生かつて言う『佛氏は相に著かず、其の實相に著き矣。吾が儒は相に著く、其の實相に著かず』。請問す。曰く『佛は父子の累を怕れて、却って父子を逃げ矣。君臣の累を怕れて、却って君臣を逃げ矣。夫婦の累を怕れて、却って夫婦を逃げ矣。皆是れ個の君臣・父子・夫婦に相に著きたるを為す、便ち須く逃避せん。吾が儒の個の父子有るが如くは、彼に仁を以て還す。個の君臣有れば、彼に義を以て還す。個の夫婦有れば、彼に別を以て還す。何ぞかつて父子・君臣・夫婦の相に著けん』。以下は門人の黄修易の錄する所。

○黃勉叔問:「心無惡念時,此心空空蕩蕩的,不知亦須存個善念否?」先生曰:「既去惡念,便是善念,便復心之本體矣:譬如日光被雲來遮蔽,雲去光已復矣。若惡念既去,又要存個善念,即是日光之中添燃一燈。

黄勉叔問う『心に惡念無き時は、此の心空空蕩蕩なり、知らず亦た須く個の善念を存するか』。先生曰く『既に惡念を去れば、便ち是れ善念、便ち心の本体を復す矣。譬如ば日光雲に被來られて遮蔽せられ、雲去れば光已に復す。若し惡念既に去りて、又要く個の善念を存せば、即ち是れ日光の中に一燈を燃し添うる』。

○問﹕「近來用功,亦頗覺妄念不生,但腔子裡黑窸窸的,不知如何打得光明?」先生曰﹕「初下手用功,如何腔子裡便得光明?譬如奔流濁水,繞聹在缸裡,初然雖定,也只是昏濁的;須矣澄定既久,自然渣滓盡去,復得清來。汝只要在良知上用功;良知存入,黑窸窸自能光明也。今便要責效,卻是助長,不成工夫。」

問う『近來用功して、亦た頗る妄念生ぜざるを覺ゆ、但し腔子裡黑窣窣として、如何に光明を打ち得るかを知らず』。先生曰く『初めて下手して用功すれば、如何に腔子裡便ち光明を得ん。譬如ば奔流の濁水を、才に缸裡に貯えて、初め然として雖れ定まるとも、也只是昏濁なり。須く是れ澄定既に久しく、自然渣滓尽く去りて、復た清を得來らん。汝只要在りて良知の上に用功せよ。良知存ること久しければ、黑窣窣自ら能く光明す。今便ち效を責めんと要するは、却って是れ助長、功夫を成さず』。

○先生曰﹕「吾教人『致良知』,在『格物』上用功,卻是有根本的學問;日長貂一日,愈久愈覺精明。世儒教人事事物物上去尋討,卻是無根本的學問;方其莊時,雖暫能外面飾,不見有過,老則精神衰邁,終須放倒;譬如無根之樹,移栽水邊,雖暫時鮮好,終久要憔悴。」

先生曰く『我人に教えて「良知を致す」に「物を格す」の上に於て用功せしむるは、却って是れ根本有るの學問、日に長進して一日、愈々久しく愈々精明を覺ゆ。世の儒者は人に教えて事事物物の上に去りて尋討せしむるは、却って是れ根本無きの學問。方に其の壯の時は、雖れ暫く能く外面粉飾して過有るを見ずとも、老すれば則ち精神衰邁して、終に須く放倒せん。譬如ば根無きの樹を、水邊に移栽して、雖れ暫時鮮好なりとも、終久憔悴せんと要す』。

○問「志於道」一章。先生曰﹕「只『志道』一句,便含下面數句功夫,自住不得。譬如做此屋,『志於道』是念念要去擇地鳩材,經營成個區宅;『據德』卻是經畫已成,有付據矣;『依仁』卻是常常住在區宅內,更不離去;『遊藝』卻是加些畫採,美此區宅。藝者義也,理之所宜者也。如誦詩、讀書、彈琴、習射之類,皆所以調習此心,使之熟於道也。苟不知道而遊藝,卻如無狀小子,不先去置造區宅,只管要去買畫掛做門面。不知將掛在何處?」

『道に志す』の一章を問う。先生曰く『只「道に志す」の一句は、便ち下面の數句の功夫を含む、自ら住るを得ず。譬如ば此の屋を做るに、「道に志す」是れ念念に去りて地を擇び材を鳩め、經營して個の宅子を成さんとす。「德に據る」は却って是れ經畫已に成りて、據る所有り。「仁に依る」は却って是れ常常に宅子の內に住在して、更に離れ去らず。「藝に游ぶ」は却って是れ些の畫采を加えて、此の宅子を美しくす。藝とは、義なり、理の宜しい所。如し詩を誦し書を讀み琴を彈き射を習うの類は、皆是れ以て此の心を調習して、之を道に熟せしむる所以。假如道を知らずして而して藝に游べば、却って狀無き小子の如く、先に去りて宅子を置造せずして、只管去りて畫を買い掛けて門面を做さんと要し、將に何の處に掛けんとするを知らず』。

○問:「讀書所以調攝此心,不可缺的。但讀之之時,一種科目意思牽引而來,不知同以免此?」先主曰:「只要良知真切,雖做舉榮,不為心累,雖有累,亦易覺克之而已。且如讀書時,良知知得強記之心不是,即克去之,有欲速之心不是,即克去之,有誇多鬥靡之心不是,即克去之:如此亦只是終日與聖賢印對,是個純乎天理之心。任他讀書,亦只是調攝此心而已,何累之有?」曰:「雖蒙開示,奈負質庸下,實難免累:竊聞窮通有命,上智之人,恐不屑此不肖為聲利牽纖,甘心為此,徙自苫耳。欲屏棄之,又制於親,不能捨去,奈何?」先生曰:「此事歸辭於親者多矣;其實只是無志。志立得時,良知千事萬事只是一事。讀書作文,安能累人,人自累於得失耳!」因嘆曰:「此學不明,不知此處擔擱了幾多英雄漢!」

問う『讀書は以て此の心を調攝する所以、缺く可からざるなり。但し之を讀むの時は、一種の科目の意思牽引して而して來る、如何に以て此を免れんかを知らず』。先生曰く『只要く良知真切ならん、雖れ科擧を做すとも、心の累と為らず。雖れ累有りとも、亦た易く覺えて而して之に克つのみ。且く讀書する時の如くは、良知知り得て強記の心是ならざれば、即ち之を克去す。速を欲するの心是ならざる有れば、即ち之を克去す。多を誇り靡を鬥わすの心是ならざる有れば、即ち之を克去す。此の如くも亦た只是終日聖賢と與に印對して、是れ個の純乎たる天理の心。彼の讀書に任せるも、也只是此の心を調攝するのみ、何の累か之有らん』。曰く『雖れ開示を蒙るとも、資質庸下にして、實に累を免れ難し。竊かに聞く窮通は命有り、上智の人は恐らく此を屑とせず。不肖は聲利に牽纏せられ、甘心して此を為す、徒らに自ら苦しむのみ。之を屏棄せんと欲すれば、又親に制せられ、能く舍て去る能わず、奈何』。先生曰く『此の事は親に歸辭する多し、其の實只是志無し。志立ち得る時は、良知は千事萬事只是一事。讀書作文は、安んぞ能く人を累さん。人自ら得失に於て累わるのみ』。因りて歎息して曰く『此の學明らかならず、此の處に於て幾多の英雄漢を擔擱したるかを知らず』。

○問:「『生之謂性』,告子亦說得是,孟子如何非之?」先生曰﹕「固是性,但告子認得一邊去了,不曉得頭腦;若曉得頭腦,如此說亦是。孟子亦曰:「形色,天性也」,這也是指氣說。」又曰﹕「凡人信口說,任意行,皆說此是依我心性出來,此是所謂生之謂性;然卻要有過差。若曉得頭腦,依吾良知上說出來,行將去,便自是停當。然良知亦只是這口說,這身行,巖能外得氣,別有個去行去說:故曰:『論性不論氣,不備:論氣不論性,不明。』氣亦性也,性亦氣也,但須認得頭腦是當。」

問う『「生を性と謂う」は、告子も亦た説き得て是なり、孟子如何に之を非とすか』。先生曰く『固より是れ性、但し告子は一邊を認得して去り矣、頭腦を曉得せず。若し頭腦を曉得せば、此の如く説くも亦た是なり。孟子も亦た曰く「形色は、天性なり」、此れも亦た是れ氣を指して説く』。又曰く『凡そ人信口に説き任意に行うは、皆此を是れ我が心性に依りて出來ると説く、此れ是れ所謂生を性と謂う、然るに却って要く過差有らん。若し頭腦を曉得して、吾が良知の上に依りて説き出だし行い將去れば、便ち自ら是れ停當。然るに良知も亦た只是此の口説、此の身行い、豈に能く氣の外に得て、別に個の去りて行い去りて説く有らん。故に曰く「性を論じて氣を論ぜざれば、備わらず。氣を論じて性を論ぜざれば、明らかならず」。氣も亦た是れ性、性も亦た是れ氣、但し須く頭腦妥當を認得すべし』。

○又曰:「諸君功夫,最不可『助長』。上智絕少,學者無超入聖人之理。一起一伏,一進一退,自是功夫節次。不可以我前日用得功夫了,今卻不濟,便要矯強做出一個沒破綻的模樣,這便便是『助長』,連前些子功夫都壞了。此非小過。譬如行路的人遭一蹶跌,起來便走,不要欺人做那不曾跌倒的樣子出來。諸君只要常常懷個『遁世無悶,不見是而無悶』之心,依此良知忍耐做去,不管人非笑,不管人毀謗,不管人榮辱,任他功夫有進有退,我只是這致良知的主宰,不息久久,自然有得力處,一切外事亦自能不動。」又曰:「人若著實用功隨人毀謗,隨人欺慢,處處得益,處處是進德之資;若不用功,只是魔也,終被累倒。」

又曰く『諸君の功夫は、最も「助長」す可からず。上智絕えて少なし、學者は超入して聖人の理無し。一起一伏・一進一退は、自ら是れ功夫の節次。以て我前日に功夫を用い得たり、今却って濟らず、便ち矯強して一箇の破綻無きの模樣を做出さんと要する可からず、此れ便ち是れ「助長」、前の些子の功夫を連ねて皆壞れ矣。此れ小過に非ず。譬如ば路を行くの人一蹶跌に遭うて、起きて便ち走る、人を欺きて那の曾て跌倒せざるの樣子を做出す要らず。諸君只要く常常に個の「世を遁れて悶え無く、是と見えずして而して悶え無し」の心を懷き、此の良知に依りて忍耐して做し去りて、人の非笑を管せず、人の毁謗を管せず、人の榮辱を管せず、彼の功夫の進有り退有るに任せて、我只是此の良知を致すの主宰息まず、久久自然に得力の處有りて、一切の外事も亦た自ら能く動かざらん』。又曰く『人若し著實に用功せば、人の毁謗に隨い、人の欺慢に隨い、處處に益を得、處處是れ德を進むるの資。若し用功せざれば、只是魔、終に累い倒されん』。

○先生一日出遊禹穴,顧田間禾曰:「能幾同時,又如此長了!」範兆期茌旁曰:「此只是有根。學問能自植根,亦不患無長。」先生曰:「人孰無根,良知即是天植靈根,自生生不息;但著了私累,把此恨戕賊蔽寒,不得發生耳。」

先生一日出でて禹穴に游び、田間の禾を顧みて曰く『能く幾時ならば、又此の如く長ぜり』。范兆期旁に在りて曰く『此れ只是根有り。學問能く自ら根を植えば、亦た長無きを患えず』。先生曰く『人孰か根無からん。良知即ち是れ天の植えたる靈根、自ら生生不息す。但し私累に著いて、此の根を把りて戕賊蔽塞し、發生するを得ざるのみ』。

○一友常易動氣責人,先生警之曰:「學須反己;若徒責人,只見得人不是,不見自已非;若能反己,方見自己有許多未盡處,奚瑕責人?舜能化得象的傲,其機括只是不見象的不是。若舜只要正他的奸惡,就見得象的不是矣;象是傲人必不肯相下,如同感化得他?」是友感悔。曰:「你今後只不要去論人之是非,「當責辨人時,就把做一件大己私,克去方可。」

一友常に易く氣を動かして人を責む。先生彼を警醒して曰く『學は須く己に反るべし。若し徒らに人を責めれば、只人の是ならざるを見て、自己の非を見ず。若し能く己に反れば、方に自己に許多の未だ尽くさざる處有るを見ん、奚ぞ人を責むるに暇あらん。舜能く象の傲を化し得たるは、其の機括只是象の是ならざるを見ざるなり。若し舜只要く彼の姦惡を正さんとせば、就きて象の是ならざるを見得矣。象是れ傲るの人、必ず肯んじて相い下らず、如何に感じ化し彼を得ん』。此の友感じ悔ゆ。先生曰く『汝今後只去りて人の是非を論ずる要らず。正しく當に人を責め辨ずる時は、就きて把りて做して一件の大きな己の私と為して、克去して才に可なり』。

○先生曰:「凡朋友問難,縱有淺近粗疏,或露才揚己,皆是病發。當因其病而藥之可也,不可便懷鄙薄之心,非君子與人為善之心矣。」

先生曰く『凡そ朋友の問難は、縱い淺近粗疏有りとも、或いは才を露し己を揚ぐるも、皆是れ病發なり。當に其の病に因りて而して之を藥す可し、便ち鄙薄の心を懷く可からず、那は是れ君子の人と與に善を為すの心に非ず』。

○問:「《易》,朱子主卜筮,程《傳》主理,何如?」先生曰:「卜筮是理,理亦是卜筮。天下之理孰有大於卜筮者乎?只為後世將卜筮專主在占卦上看了,所以看得卜筮似小藝。不知今之「師友問答,博學、審問、慎思、明辨、篤行之類,皆是卜筮。卜筮者,不過求決狐疑,神明吾心而已。《易》是間諸天;人有疑,自信不及,故以《易》問天;謂人心尚有所涉,惟天不容偽耳。」

問う『《易》は、朱子は卜筮に主とし、程《傳》は理に主とす、怎麼樣か』。先生曰く『卜筮是れ理、理も亦た是れ卜筮。天下の理孰れか卜筮より大なる有らん。只後世卜筮を將りて専ら占卦の上に主たりて看るを為す、故に卜筮を看ること小藝に似たりと為す。知らず今の師友の問答・博學・審問・慎思・明辨・篤行の類は、皆是れ卜筮。卜筮とは、不過狐疑を決し、吾が心を神明にするのみ。《易》是れ諸を天に問う。人疑有りて、自ら信ずるに及ばず、故に《易》を以て天に問う。人心尚お渉る所有るを謂う、惟れ天は容れて僞らざるのみ』。

以下門人黃省曾錄

以下門人の黄省曾の錄

○黃勉之問:「『無適也,無莫也,義之與比。』事事要如此否?」先生曰:「固是事事要如此,須是識得個頭腦乃可。義即是良知,曉得良知是個頭腦,方無執著。且如受人饋送,也有今日當受的,他日不當受的。也有今日不當受的,他日當受的。你若執著了今日當受的,便一切受去。執著了今日不當受的,便一切不受去。便是適莫。便不是良知的本體。如何喚得做義?」

黄勉之問う『「適する無く、莫む無し、義と與に比す」、事事に要く此の如くか』。先生曰く『固より是れ事事要く此の如く、須く是れ個の頭腦を識り得て才に可なり。義即ち是れ良知。良知個の頭腦なるを曉得して、方に執著無し。且く人の饋送を受くるが如く、亦た今日當に受くべき・他日當に受くべからざる有り、亦た今日當に受くべからざる・他日當に受くべき有り。汝若し今日當に受くべきに執著すれば、便ち一切受け去らん。今日當に受くべからざるに執著すれば、便ち一切受けず去らん。便ち是れ適莫、便ち是れ良知の本体に非ず。如何に喚び得て義を做さん』。

○問,「『思無邪』一言,如何便蓋得三百篇之義?」先生曰,「豈特三百篇?六經只此一言,便可該貫,以至窮古今天下聖賢的話。『思無邪』一言,也可該貫。此外便有何說?此是一了百當的功夫。」

問う『「思邪無し」の一言は、如何に便ち三百篇の義を蓋い得るか』。先生曰く『豈に特に三百篇のみならん。六經只此の一言は、便ち以て該貫す可し、以て古今天下の聖賢の話を窮むるに至るまで、「思邪無し」の一言も亦た以て該貫す可し。此の外は便ち何の説か有らん。此れ是れ一了百當の功夫』。

○問道心人心。先生曰,「『率性之為道』,便是道心。但著些人的意思在,便是人心。道心本是無聲無臭,故曰微。依著人心行去,便有許多不安穩處,故曰惟危。」

道心人心を問う。先生曰く『「性に率うを道と謂う」は、便ち是れ道心。但し些の人の意思に著いて在れば、便ち是れ人心。道心本來是れ聲無く臭無し、故に微と説く。人心に依り著きて行い去れば、便ち許多の不安穩の處有り、故に惟れ危と説く』。

○問:「『中人以下,不可以語上』,愚的人與之語上尚且不進,況不與之語可乎?」先生曰:「不是聖人終不與語,聖人的心憂不得人人都做聖人;只是人的資質不同,施教不可躐等,中人以下的人,便與他說性、說命,他也不省得,也須慢慢琢磨他起來。」

問う『「中人以下は、以て上を語る可からず」、愚なる人は之と與に上を語るとも尚お進まず、況んや之と與に語らざれば可なりか』。先生曰く『是れ聖人終に與に語らざるに非ず。聖人の心は人々皆聖人を做すを得ざるを憂う。只是人の資質同じからず、教を施すは躐等す可からず。中人以下の人は、便ち之と與に性を説き命を説くとも、彼も亦た省り得ず、亦た須く慢慢彼を琢磨して起き上がらしむべし』。

○一友問:「讀書不記得如何?」先生曰:「只要曉得,如何要記得?要曉得已是落第二義了,只要明得自家本體。若徒要記得,便不曉得:若徒要曉得,便明不得自家的本體。」

一友問う『讀書記え得ざれば如何』。先生曰く『只要く曉得せん、如何に記得せんを要する。曉得せんことを要するは已に第二義に落ち矣、只要く自家の本体を明らかに得よ。若し徒らに記得せんことを要せば、便ち曉得せず。若し徒らに曉得せんことを要せば、便ち自家の本体を明らかに得ず』。

○問:「『逝者如斯』是說自家心性活潑潑地否?」先生曰:「然。須要時時用致良知的功夬,方才活潑潑地,方才與他川水一般;若須臾閒斷,便與天地不相似。此是學問極至處,聖人也只如此。」

問う『「逝く者は斯の如し」は是れ自家の心性活潑潑地を説くか』。先生曰く『是の如し。須く時時に良知を致すの功夫を用いて、方に活潑潑地して、方に那の川水と與に一般ならん。若し須臾間斷すれば、便ち天地と與に相似ず。此れ是れ學問極至の處、聖人も亦た只此の如し』。

○問志士、仁人章。先生曰:「只為世上人都把生身命子看得太重,不問當死不當死,定要宛轉委曲保全,以此把天理卻丟去了,忍心害理,同者不為。若違了天理,便與禽獸無異,便偷生茌世上百千年,也不過做了千百年的禽獸。學者要於此等處看得明白;比干、龍逢,只為也看得分明,所以能成就得他的仁。」

志士・仁人の章を問う。先生曰く『只世上の人皆生身命子を把りて看ること太も重きを為す、當に死すべきか當に死すべからざるかを問わず、定めて要く宛轉委曲して保全し、此を以て天理を把りて却って丢去し、心を忍びて理を害し、何者か為さざらん。若し天理に違えば、便ち禽獸と與に異なる無し、便ち世上に偷生すること百千年すとも、亦不過做して千百年の禽獸と為る。學者は要く此の等の處に於て看ること明白ならん。比干・龍逢は、只亦た看ること分明なるを為す、故に能く其の仁を成就し得たり』。

○問:「叔孫武叔毀仲尼,大聖人如何猶不免於毀謗?」先生曰:「毀謗自外來的雖聖人如同免得?人只貴於自修,若自己實實落落是個聖賢,縱然人都毀他,也說他不著;卻若浮雲揜日如何損得日的光明。若自己是個象恭色莊、不堅不介的,縱然沒一個人說他,他的惡意終須一日發露。所以孟子說『有求全之毀,有不虞之譽:』譭譽在外的,安能避得,只要自修何如爾。」

問う『叔孫武叔仲尼を毁る、大聖人如何に猶ほ毁謗を免れざるか』。先生曰く『毁謗自ら外より來る、雖れ聖人如何に免れ得ん。人只自ら修むるに貴ぶ。若し自己實實落落として個の聖賢なれば、縱令い人皆彼を毁るとも、亦た彼を説き著けず、却って浮雲の日を掩うが若し、如何に日の光明を損じ得ん。若し自己個の恭に象り莊に色して、堅ならず介ならざるなれば、縱令い一人も彼を説く無くとも、彼の惡終に須く一日發露せん。故に孟子曰く「全を求むるの毁有り、虞らざるの譽有り」。毁譽は外に在る、安んぞ能く避け得ん、只要く自ら修むる如何のみ』。

○劉君亮要在山中靜坐。先生曰:「汝若以厭外物之心去求之靜,是反養成一個驕惰之氣了;汝若不厭外物,復於靜處涵養,卻好。」

劉君亮山中に於て靜坐せんことを要す。先生曰く『汝若し外物を厭うの心を以て去りて之を靜に求めば、是れ反って一箇の驕惰の氣を養成せん。汝若し外物を厭わず、復た靜の處に於て涵養せば、却って好し』。

○王汝中、省曾侍坐。先生握扇命曰﹕「你們用扇。」省曾起對日﹕「不敢。」先生曰:「聖人之學不是這等捆縛苦楚的。不是裝做道學的模樣。」汝中曰:「觀仲尼與曾點言志一章略見。」先生曰:「然。以此章觀之,聖人何等寬洪,包含氣象。且為師者問志於群弟子,三子皆整頓以對,至於曾點,瓢飄然不看那三子在眼,自去鼓起瑟來,何等狂態:及至言志,又不對師之問目,都是狂言。設在伊川,彧斥罵起來了。聖人乃複稱許他,何等氣象。聖人教人,不是個束縛尥通做一般,只如狂者便從狂處成就他,狷者便從狷處成就地,人之才氣如何同得。」

王汝中・省曾坐を侍す。先生扇を握りて命じて曰く『你們扇を用いよ』。省曾起きて對えて曰く『敢えてせず』。先生曰く『聖人の學是れ此の等の捆縛苦楚するに非ず、是れ道學の模樣を裝做するに非ず』。汝中曰く『仲尼の曾點と與に志を言うの一章を觀れば略く見えん』。先生曰く『是の如し。此の章を以て之を觀れば、聖人何等か寬洪にして包含の氣象あるか。且く師と為る者は群弟子に志を問うて、三子皆整頓して以て對え、曾點に至りては、飄飄然として那の三子を看て眼に在らず、自ら去りて瑟を鼓起し來る、何等か狂態。及び至りて志を言えば、又師の問目に對えず、皆是れ狂言。設し伊川に在らば、或いは斥罵して起き上がらん。聖人乃ち復た彼を稱許す、何等か氣象。聖人の人に教えるは、個の彼を束縛して通じて一般を做すに非ず。只狂者は便ち狂の處より從りて彼を成就し、狷者は便ち狷の處より從りて彼を成就す。人の才氣如何に同じくするを得ん』。

○先生語陸元靜曰:「元靜少年亦要解五經,志亦好博。但聖人教人,只怕人不簡易,他說的皆是簡易之規:以今人好博之心觀之,卻似聖人教人差了。」

先生陸元靜に語りて曰く『元靜少年も亦た五經を解せんと要し、志も亦た好く博。但し聖人の人に教えるは、只怕るらくは人の簡易ならざるを、彼の説くは皆是れ簡易の規。今人の好博の心を以て之を觀れば、却って似たり聖人の人に教える差えたると』。

○先生曰:「孔子無不知而作;顏子有不善未嘗不知:此是聖學真血脈路。」

先生曰く『孔子は知らずして作す無し。顏子は不善有れば未嘗て知らず。此れ是れ聖學の真血脉路』。

○何廷仁、黃正之、李侯璧、汝中、德洪侍坐。先生顧而言曰:「汝輩學問不得長進,只是卡小上止志。侯璧起而對曰:「珙亦願立志。」先生曰:「難說不立,未是必為聖人之志耳。」對曰:「願立必為聖人之志。」先生曰:「你真有聖人之志,良知上更無不盡:良知上留得些子別唸掛帶,便非必為聖人之志矣。」洪初聞時心若未服,聽說到不覺悚汗。

何廷仁・黄正之・李侯璧・汝中・德洪坐を侍す。先生顧みて而して言いて曰く『汝輩の學問長進を得ざるは、只是未だ小小立志せざるなり』。侯璧起きて而して對えて曰く『珙も亦た立志せんことを願う』。先生曰く『難し立たずと説く、未だ是れ必ず聖人を為すの志のみ』。對えて曰く『願くば必ず聖人を為すの志を立てん』。先生曰く『汝真に聖人の志有れば、良知の上に更に尽くさざる無し。良知の上に些子の別念掛帶を留め得れば、便ち必ず聖人を為すの志に非ず矣』。德洪初めて聞く時心若く未だ服せず、此の處に聽き到りて不覺悚汗す。

○先生曰;「良知是造化的精靈,這些精靈,生天生地,成鬼成帝,皆從此出,真是與物無對。人若復得他完完全全,無少虧欠,自不覺手舞足蹈,不知天地閒更有何樂可代。」

先生曰く『良知是れ造化の精靈。此れらの精靈は、天を生じ地を生じ、鬼を成し帝を成す、皆此より出づ、真に是れ物と與に對無し。人若し彼を復し得て完完全全、少の虧欠無ければ、自ら覺えず手舞足蹈して、天地間に更に何の樂か代わる可きかを知らず』。

○一友靜坐有見,馳問先生。答曰:「吾昔居滁時,見諸生多務知解,口耳異同,無益於得,姑教之靜坐;一時藽見光景,頗收近效:久之漸有喜靜厭動,流入枯槁之病,或務為玄解妙覺,動人聽聞。故邇來只說『致良知』。良知明白,隨你去靜處體悟也好。隨你去事上磨練也好,良知本體原是無動無靜的:此便是學問頭腦。我這個話頭,自滁州到今,亦較過幾番,只是『致良知』三字無病。醫經摺肱,方能察人病理。」

一友靜坐して見有り、馳せて先生に問う。答えて曰く『我昔滁に居る時、諸生の多く知解を務め、口耳に異同して、得に益無きを見、姑く之を靜坐に教えしめり。一時光景を窺見して、頗る近效を收めり。久しくして漸く靜を喜び動を厭い、枯槁に流入するの病有り、或いは務めて玄解妙覺を為して、人の聽聞を動かす。故に邇來只是「良知を致す」を説く。良知明白なれば、汝の去りて靜の處に於て體悟するに隨うも亦た好し、汝の去りて事の上に於て磨鍊するに隨うも亦た好し、良知の本体原來是れ動無く靜無し。此れ便ち是れ學問の頭腦。我此の個の話頭は、滁州より今に到るまで、亦た幾番か較え過ぐり、只是「良知を致す」の三字病無し。醫は肱を折るを經て、方能く人の病理を察す』。

○一友問:「功夫欲得此知時時接續,一切應感處反覺照管不及,若去事上週旋,又覺不見了。如何則可?」先生曰:「此只認良知未真,尚有內外之閒。我這裡功夫不由人急心,認得良知頭惱是當,去樸實用功,自會透徹。到此便是內外兩忘,又何心事不合一。」

一友問う『功夫此の知を得て時時に接續せんと欲するに、一切の應感する處反って照管及ばざるを覺ゆ。若し去りて事の上に於て周旋せば、又見えず了るを覺ゆ。如何にして才に可ならん』。先生曰く『此れ只是良知を認むる未だ真ならず、尚お內外の間有り。我此の處の功夫は人の急心に由らず。良知の頭腦妥當を認得して、去りて樸實に用功せば、自ら會して透徹せん。此に到れば便ち是れ內外両忘、又何の心事合一せざるか有らん』。

○又曰:「功夫不是透得這個真機,如何得他充實光輝?若能透得時,不由你聰明知解接得來。須胸中渣滓渾化,不使有毫髮沾帶始得。」

又曰く『功夫是れ此の個の真機を透り得ざれば、如何に彼を得て充實光輝せん。若し能く透り得る時は、汝の聰明知解の接し得來るに由らず。須く胸中の渣滓渾化して、毫髮の沾帶有らしめざらして才に得』。

○先生曰:「『天命之謂性』,命即是性。『率性之謂道』,性即是道;『修道之謂教』,道即是教。」

先生曰く『「天の命を性と謂う」は、命即ち是れ性。「性に率うを道と謂う」は、性即ち是れ道。「道を修むるを教と謂う」は、道即ち是れ教』。

○問:「如何道即是教?」曰:「道即是良知:真知原是完完全全,是的還他是,非的還他非,是非只依著他,更無有不是處,這真知還是你的明師。」問:「『不睹不聞』是說本禮,『戒慎恐懼』是說功夫否?」先生曰:「此處須信得本體原是不睹不聞的,亦原是戒慎恐懼的,戒慎恐懼不曾在不睹不聞上加得些子。見得真時,便謂戒慎恐懼是本體,不睹不聞是功夫亦得。」

問う『如何に道即ち是れ教か』。曰く『道即ち是れ良知。良知原來是れ完完全全、是なるは彼を還して是と為し、非なるは彼を還して非と為し、是非只彼に依り著いて、更に是ならざるの處有る無し。此の良知還た是れ汝の明師』。問う『「睹えず聞こえず」是れ本体を説き、「戒慎恐懼」是れ功夫を説くか』。先生曰く『此の處須く信じ得て本体原來是れ睹えず聞こえざる、亦た原來是れ戒慎恐懼なり。戒慎恐懼は曾て睹えず聞こえざるの上に於て些子を加え得ず。真を見得る時は、便ち戒慎恐懼を是れ本体、睹えず聞こえずを是れ功夫と謂うも亦た得』。

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