Libo

传习录 · 第2巻

明 · 王守仁 · 第2巻 / 9

○問,「『析之有以極其精而不亂,然後合之有以盡其大而無餘』。此言如何」?先生曰,「恐亦未盡。此理豈容分析?又何須湊合得?聖人說精一,自是盡」。

問う。「『之を析れば以て其の精を極めて而して乱れず、然る後之を合すれば以て其の大を盡くして而して余無し』。此の話は如何」と。先生曰く。「恐らく亦た未だ尽くさず。此の理はどうして分析を容れん、又どうして凑合することを須いん。聖人が精一を説けば、自然に便ち尽くれり」と。

○省察是有事時存養,存養是無事時省察。

省察は是れ事有る時の存養、存養は是れ事無き時の省察。

○澄嘗問象山在人情事變上做工夫之說。先生曰,「除了人情事變,則無事矣。喜怒哀樂非人情乎?自視聽言動以至富貴貧賤患難死生,皆事變也。事變亦只在人情裡。其要只在致中和。致中和只在謹獨」。

陸澄かつて象山(陸九淵)の人情事變の上に於て工夫を做るの説を問う。先生曰く。「人情事變を除きては、則ち事無し。喜怒哀樂は人情に非ずや。視聽言動より以至り富貴貧賤患難死生に至るまで、皆是れ事變なり。事變も亦た只人情の裡に在り。其の要は只中和を致すに在り。中和を致すは只獨を慎むに在り」と。

○澄問,「仁義禮智之名,因已發而有」。曰,「然」。他日澄曰,「惻隱羞惡辭讓是非,是性之表德邪」?曰,「仁義禮智也是表德。性一而已。自其形體也,謂之天。主宰也,市之帝。流行也,謂之命。賦於人也,謂之性。主於身也,謂之心。心之發也,遇父便謂之孝,遇君便謂之忠。自此以往,名至於無窮,只一性而已。猶人一而已。對父謂之子,對子謂之父。自此以往,至於無窮,只一人而已。人只要在性上用功。看得一性字分明,即萬理燦然」。

陸澄問う。「仁義禮智の名は、已發に因りて有るか」と。先生曰く。「對なり」と。他の日陸澄曰く。「惻隱・羞惡・辭讓・是非は、是れ性の表德か」と。先生曰く。「仁義禮智も亦た是れ表德。性は只是一箇。其の形體よりして、之を天と称す。主宰よりして、之を帝と称す。流行よりして、之を命と称す。人に賦するよりして、之を性と称す。身に主たるよりして、之を心と称す。心の發用するは、父に遇えば便ち孝と称し、君に遇えば便ち忠と称す。此より以往して、名は無窮に至るも、只是一性なるのみ。人が只是一箇なるが如し。父に對しては子と称し、子に對しては父と称す。此より以往して、無窮に至るも、只是一人なるのみ。人は只要在りて性の上に用功せよ。一性の字を分明に看れば、即ち萬理燦然たり」と。

○一日論為學工夫。先生曰,「教人為學不可執一偏。初學時心猿意馬,拴縛不定。其所思慮多是人慾一邊。故且教之靜坐息思慮。久之,俟其心意稍定。只懸空靜守,如槁木死灰,亦無用。須教他省察克治。省察克治之功,則無時而可間。如去盜賊,須有個掃除廓清之意。無事時,將好色好貨好名等私,逐一追究搜尋出來。定要拔去病根,永不復起,方始為快。常如貓之捕鼠。一眼看著,一耳聽著。才有一念萌動,即與克去。斬釘截鐵,不可姑容與他方便。不可窩藏。不可放他出路。方是真實用功。方能掃除廓清。到得無私可克,自有端拱時在。雖曰『何思何慮』,非初學時事。初學必須思省察克治。即是思誠。只思一個天理。到得天理純全,便是何思何慮矣」。

一天に學の工夫を論ず。先生曰く。「人に教えて學を為さしむるに執著一偏する可からず。初學の時は心猿意馬にして、拴縛して定まらず、所思慮するは多く是れ人欲の一辺なれば、故に且く彼に教えて靜坐して思慮を息めしむ。久しければ、其の心意稍定まるを待て。只懸空に靜守すれば、槁木死灰の如く、亦た用無し。須く彼に教えて省察克治せしめよ。省察克治の功は、則ち時として間斷する可からず。盗賊を去除するに如同じく、須く個の掃除廓清するの意思有るべし。事無き時は、色を好み貨を好み名を好む等の私を、逐一追究して搜尋して出だし、定めて病根を拔去りて、永不復起さしめて、才に痛快と算す。常に猫の鼠を捕えるが如く、一眼看て一耳聽き、才に一念萌動有れば、即ち與に克去れ。釘を斬り鐵を截つが如く、姑容して彼に方便を與う可からず、窩藏する可からず、彼に出路を放つ可からず。才に是れ真實に用功して、才に能く掃除廓清す。私無くして克る可きに到得れば、自然に端拱の時有る在り。『何の思慮か有らん』と説くといえども、是れ初學の時の事に非ず。初學は必ず省察克治を思うを須い、便ち是れ誠を思うなり。只一箇の天理を思え。天理純全に到得れば、便ち是れ何の思慮か有らんなり」と。

○澄問,「有人夜怕鬼者奈何」?先生曰,「只是平日不能集義而心有所慊,故怕。若素行合於神明,何怕之有」?子莘曰,「正直之鬼不須怕。恐邪鬼不管人善惡,故未免怕」。先生曰,「豈有邪鬼能迷正人乎?只此一怕即是心邪。故有迷之者。非鬼迷也,心自迷耳。如人好色,即是色鬼迷。好貨,即是貨鬼迷。怒所不當怒,是怒鬼迷。懼所不當懼,是懼鬼迷也」。

陸澄問う。「或る人夜に鬼を怕るは如何せん」と。先生曰く。「只是平日能く義を集めずして心に歉有る所有れば、故に怕る。若し素來行事して神明に合せば、何の怕るべきか有らん」と。子莘曰く。「正直の鬼は須く怕るべからず。恐らく邪鬼は人の善惡を管せず、故に未だ怕るを免れず」と。先生曰く。「どうして邪鬼の能く正人を迷わす有らん。只此の一箇の怕るは即ち心の邪なれば、故に彼を迷わす有るなり。是れ鬼迷に非ず、是れ心の自ら迷うのみ。例えば人が色を好めば、即ち是れ色鬼に迷わる。貨を好めば、即ち是れ貨鬼に迷わる。當に怒るべからざる所を怒るは、是れ怒鬼に迷わる。當に懼るべからざる所を懼るは、是れ懼鬼に迷わる」と。

○定者心之本體。天理也。動靜所遇之時也。

定は是れ心の本体、即ち是れ天理。動靜は是れ遇う所の時。

○澄問學庸同異。先生曰,「子思括大學一書之義為中庸首章」。

陸澄、《大學》《中庸》の同異を問う。先生曰く。「子思は《大學》一書の義を概括して、《中庸》の首章と作れり」と。

○問,「孔子正名。先儒說上告天子,下告方伯。廢輒立郢。此意如何」?先生曰,「恐難如此。豈有一人致敬盡禮,待我而為政,我就先去廢他,豈人情天理?孔子既肯與輒為政,必已是他能傾心委國而聽。聖人盛德至誠,必已感化衛輒。使知無父之不可以為人。必將痛哭奔走,往迎其父。父子之愛本於天性。輒能悔痛真切如此,蒯聵豈不感動底豫?蒯聵既還,輒乃致國詩戮。聵已見化於子,又有夫子至誠調和其間,當亦決不肯受。仍以命輒。群臣百姓又必欲得輒為君。輒乃自暴其罪惡。請於天子,告於方伯諸侯。而必欲致國於父。聵與群臣臣姓,亦皆表輒悔悟仁孝之美,請於天子,告於力伯諸戾。必欲得輒而為之君。於是集命於輒。使之復君衛國。輒不得已,乃如後世上皇故事。率群臣百姓尊聵為太公。備物致養。而始退復其位焉。則君君臣臣父父子子,名正言順。一舉而可為政於天下矣。孔子正名或是如此」。

問う。「孔子は名を正す。先儒は上は天子に告げ、下は方伯に告げ、輒を廢して郢を立つと説く。此の意思は如何」と。先生曰く。「恐らく此の如くは難し。どうして一人が致敬盡禮して、我を待ちて彼の為めに政を執らしめれば、我は便ち先去りて彼を廢せん、どうして是れ人情天理ならん。孔子既に肯んじて輒と為めに政せば、必ずすでに是れ彼の能く傾心して國事を委託して聽從せしむ。聖人の盛德至誠は、必ずすでに衛輒を感化し、彼をして父無きは以て人を為す可からざるを知らしめ、必ず將に痛哭奔走して、去りて其の父を迎接せん。父子の愛は天性に本づく。輒能く悔痛真切记此の如くなれば、蒯聵豈に感動和悅せざらんや。蒯聵既に回來れば、輒是に於て國を把りて交付して并びに戮を受けんことを請う。聵已に子に化せられるを見、又夫子の至誠中間に在りて調和有れば、當に亦た決して肯んじて受けず、仍お國命を輒に給う。群臣百姓も又必ず輒を得て君と為さんことを想わん。輒是に於て自ら罪惡を暴露し、天子に請い方伯諸侯に告げ、而して必ず國を把りて父に交けんと要す。聵與群臣百姓も、亦た皆輒の悔悟仁孝の美を表彰し、天子に請い方伯諸侯に告げ、必ず輒を得て彼の君と為さんことを要す。是に於て命を輒に集め、彼をして再び衛國に君臨せしむ。輒已むことを得ず、才に後世の太上皇の故事の如く、群臣百姓を率領して聵を尊んで太公と為し、物を備えて養を致し、然る後に乃ち退きて其の位を恢復す。則ち君君臣臣父父子子、名正しく言順なり、一挙して以て天下に政を為す可し。孔子が名を正すは或いは此の如くなるか」と。

○澄在鴻臚寺倉居。忽家信至,言兒病危。澄心甚憂悶不能堪。先生曰,「此時正宜用助。若此時放過,閒時講學何用?人正要在此時磨鍊?父之愛子,自是至情。然天理亦自有個中和處。過即是私意。人於此處多認做天理當憂,則一向憂苦,不知己,是『有所憂患,不得其正』。大抵七情所感,多隻是過,少不及者。才過便非心之本體。必須調停適中始得。就如父母之喪。人子豈不欲一哭便死,方快於心?然卻曰『毀不滅性』。非聖人強制之也。天理本體,自有分限。不可過也。人但要識得心體,自然增減分毫不得」。

陸澄、鴻臚寺倉に居る。忽ち家信至り、兒子病危なりと曰う。陸澄は心裡甚だ憂悶にして、堪えざる。先生曰く。「此の時正しく宜しく用功すべし。若し此の時に放過せば、閑の時に學を講じて何の用か有らん。人は正要く此の時に於て磨鍊すべし。父の子を愛するは、自ら是れ至情なり。然るに天理も亦た自ら個の中和の処有り、過ぐれば便ち是れ私意なり。人は此の処に在りて多く天理と認做して當に憂うべしとすれば、便ち一向に憂苦し、自ら己のすでに『憂患有る所、其の正を得ず』なるを知らず。大抵七情の感ずる所は、多く只過ぎるのみ、及ばざるは少なし。才に過ぐれば便ち心の本体に非ず、必ず調停適中して乃ち得べし。父母の喪の如し。人子豈に一哭して便ち死せば、才に心に快からんと想わざる。然るに却って『毁は性を滅せず』と説く。是れ聖人の彼を強制するに非ず。天理の本体は、自ら分限有り、過ぐる可からず。人は但だ心体を識り得れば、自然に增減分毫するを得ず」と。

○不可謂未發之中常人俱有。蓋體用一源。有是體,即有是用。有未發之中,即有發而皆中節之和。今人未能有發而皆中節之和。須知是他未發之中亦未能全得。

未發の中は常人皆之有りと言う可からず。體用一源を以てなり。此の體有れば、即ち此の用有り。未發の中有れば、即ち發して皆節に中るの和有り。今の人は未だ能く發して皆節に中るの和有らざれば、須く是れ彼の未發の中も亦た未だ能く全く得ざるを知るべし。

○易之辭是「初九潛龍勿用」六字。易之象是初晝。易之變是值其晝。易之占是用其辭。

《易》の辭は「初九潜龍用うなかれ」の六字。《易》の象は是れ初畫。《易》の變は是れ正しく其の畫に値う。《易》の占は是れ其の辭を用う。

○夜氣是就常人說。學者能用功,則日間有事無事,皆是此氣翕聚發生處。聖人則不消說夜氣。

夜氣は是れ常人に就いて説く。學者能く用功すれば、則ち白天に事有り無きも、皆是れ此の氣の翕聚發生する処なり。聖人は則ち夜氣を説くを須いず。

○澄問操存舍亡章。曰,「『出入無時,莫知其鄉』。此雖就常人心說。學者亦須是知得心之本體,亦元是如此。則操存功夫,始沒病痛。不可便謂出為亡人為存。若論本體,元是無出無入的。若論出入,則其思慮運用是出。然主宰常昭昭在此,何出之有?既無所出,何人之有?程子所謂腔子,亦只是天理而已。雖終日應酬,而不出天理,即是在腔子裡。若出天理,斯謂之放,斯謂之亡」。又曰,「出入亦只是動靜。動靜無端。豈有鄉邪」?

陸澄、操存舍亡の那の章を問う。先生曰く。「『出入に時無く、其の鄉を知る莫し』。これ雖れ常人心に就いて説くなりといえども、學者も亦た須く是れ心の本体の原來亦た此の如しを知り得て、則ち操存の功夫才に病痛無からん。便ち以て出ずるは即ち亡、入るは即ち存と為す可からず。若し本体を論ずれば、原來是れ出無く入無し。若し出入を論ずれば、則ち那の思慮運用する是れ出なり。然るに主宰は常に昭昭として此に在り、何の出づるか有らん。既に出づる所無ければ、何の入るか有らん。程子の所謂腔子は、亦た只天理なるのみ。雖れ終日應酬すとも天理を出でざれば、便ち是れ腔子の裡に在り。若し天理を出でば、これ便ち放と称し、これ便ち亡と称す」と。また曰く。「出入も亦た只動靜なり。動靜に端緒無し、どうして鄉有らん」と。

○王嘉秀問,「佛以出離生死誘人入道。仙以長生久視誘人入道。其心亦不是要人做不好。究其極至,亦是貝得聖人上一截。然非人道正路。如今仕者,有由科,有由貢,有由傳奉一般做到大官。畢竟非人仕正路,君子不由也。仙佛到極處,與儒者略同。但有了上一截,遺了下一截。終不似聖人之全。然其上一截同者,不可誣也。後世儒者又只得聖人下一截。分裂失真。流而為記誦,詞章,功利,訓詀。亦卒不免為異端。是四冢者,終身勞苦於身心。無分毫益。祝彼仙佛之徒,清心寡慾,超然於世累之外者,反若有所不及矣。今學者不必先排仙佛。且當篤志為聖人之學。聖人之學明,則仙佛自泯。不然,則此之所學,恐彼或有不屑。而反欲其俯就,不亦難乎?鄙見如此。先生以為何如」?先生曰,「所論大略亦是。但謂上一截,下一截,亦是人見偏了如此。若論聖人大中至正之道,徹上徹下。只是一貫。更有甚上一截,下一截?『「陰一陽之謂道但仁者見之便謂之仁。知者見之便謂之智。百姓又曰用而不知。故君子之道鮮矣』。仁智豈可不謂之道?但見得偏了,便有弊病」。

王嘉秀問う。「佛は生死を出離するを用いて人を誘い道に入らしめ、仙は長生久視を用いて人を誘い道に入らしむ。彼らの心も亦た人をして好からざるを為さしめんと要するに非ず。其の極至を究むれば、亦た是れ聖人の上一截を見得たり。然るに是れ人道の正路に非ず。今の官を做る者は、科舉に由る有り、貢擧に由る有り、傳奉に由る有り、一様に大官に做到するも、畢竟是れ入仕の正路に非ず、君子は走らず。仙佛は極処に到れば、儒者と略同じ。但し上一截有りて、下一截を遺し、終に聖人の全に似ず。然るに其の上一截の相同じきは、誣る可からず。後世の儒者は又只得て聖人の下一截を得るに過ぎず、分裂して真を失い、流れて記誦・詞章・功利・訓詁と為る、亦た終に異端と為るを免れず。此の四家は、終身身心に勞苦すれども、分毫の益無し。那の仙佛の徒を看るに、清心寡欲にして世累の外に超然たるは、反倒って不及有るが如し。今學者は必ずしも先に仙佛を排斥せず、且く當に篤志して聖人の學を做るべし。聖人の學明らかなれば、則ち仙佛は自然に泯滅す。然らざれば、則ち此の邊の學ぶ所は、恐らく那の邊或いは不屑有らん、而して反って彼らをして俯就せしめんと想わん、不亦た難し。鄙見此の如し。先生は以て如何」と。先生曰く。「論ずる所大略亦た對なり。但し上一截・下一截を説くは、亦た人の見偏れる才に此の如し。若し聖人の大中至正の道を論ずれば、徹上徹下にして、只是一貫、何の上一截・下一截か有らん。『一陰一陽之を道と謂う。仁者之を見れば便ち之を仁と謂い、知者之を見れば便ち之を智と謂う、百姓は日用之を用い而して知らず、故に君子の道鮮し』。仁智豈に以て道と称する可からざらん。但し偏れて見れば、便ち弊病有り」と。

○蓍固是易。龜亦是易。

蓍草は固より是れ《易》、龜甲も亦た是れ《易》。

○問,「孔子謂武王未盡善,恐亦有不滿意」。先生曰,「在武王自合如此」。曰,「使文王未沒,畢竟如何」?曰,「文王在時,天下三分已有其二。若到武王伐商之時,文王若在,或者不致興兵。必然這一分亦來歸了文王。只善處籿,使不得縱惡而已」。

問う。「孔子は武王が未だ善を尽くさずと説く、恐らく亦た不滿意有り」と。先生曰く。「武王に在りては自ら本來當に此の如くすべし」と。問う。「仮使文王未だ死せざれば、畢竟如何」と。先生曰く。「文王在りし時は、天下三分すでに其の二有り。若し武王の商を伐つの時に至りて、文王若し在らば、或いは兵を興すに致らず、必然此の一分も亦た來りて文王に帰せん。只是妥善に紂を處置して、彼をして惡を縦にするを得ざらしむるのみ」と。

○問,「孟於言『執中無權猶執一』」。先生曰,「中只有天理,只是易。隨時變易,如何執得?須是因時制宜。難預先定一個規矩在。如後世儒者要將道理一一說得無罅漏。立定個格式。此正是執一」。

問う。「孟子曰く『中を執るも權無ければ猶ほ一を執るがごとし』」と。先生曰く。「中は只有る天理、只是易。時に隨いて變易す、どうして執るを得ん。須く是れ時に因りて宜を制す、難く預め一箇の規矩を定在すること以てならず。後世の儒者が道理を一一説得して縫隙無からしめんと要し、個の格式を立定するが如きは。此れ正しく是れ一を執るなり」と。

○唐詡問,「立志是常存個善念要為善去惡否」?曰,「善念存時,即是天理。此念即更思何善?此念非惡,更去何惡?此念如樹之根芽。立志者長立此善念而已。『從心所欲。不踰矩』,只是志到熟處」。

唐詡問う。「立志は是れ常に個の善念を存し、善を為して惡を去らんと要するか」と。先生曰く。「善念存する時は、便ち是れ天理。此の念即ち在れば、更に何の善か思わん。此の念是れ惡に非ざれば、更に何の惡か去らん。此の念は樹の根芽の如し。立志する人は長く此の善念を立つるのみ。『心の欲する所に從いて、矩を踰えず』は、只是志の熟する処に到るなり」と。

○精神,道德,言動,大率收斂為主。發散是不得已。天地人物皆然。

精神・道德・言動は、大抵収斂を主と為す。發散は是れ已むことを得ず。天地人物皆此の如し。

○問,「文中子是如何人」?先生曰,「文中子庶幾『具體而微』。惜其蚤死」。問,「如何卻有續經之非」?曰,「續經亦未可盡非」。請問。良久,曰,「更覺『良工心獨苦』」。

問う。「文中子是れ怎樣の人か」と。先生曰く。「文中子は差不多『具体にして微』なり、惜しむべし早死せり」と。問う。「何を以て却って經を續くの不對有るや」と。先生曰く。「經を續くも亦た未だ一概に否定する可からず」と。請うて問う。良久、曰く「更に『良工の心独り苦しむ』を覺ゆ」と。

○許魯齋謂儒者以。治生為先之說亦誤人。

許魯齋(許衡)は儒者は生計を經營するを以て先と為すと説く、此の説法も亦た人を誤る。

○問仙家元氣,元神,元精。先生曰,「只是一件。流行為氣。凝聚為精。妙用為神」。

仙家の元氣・元神・元精を問う。先生曰く。「只是一件事。流行は是れ氣、凝聚は是れ精、妙用は是れ神」と。

○喜怒哀樂,本體自是中和的。才自家看些意思,便過不及,便是私。

喜怒哀樂は、本体自ら是れ中和なり。才に自家些かの意思を看れば、便ち過ぐるか或いは及ばざるか、便ち是れ私なり。

○問,「哭則不歌」。先生曰,「聖人心體自然如此」。

問う。「哭すれば則ち歌わず」と。先生曰く。「聖人の心体自然此の如し」と。

○克己須要掃除廓清,一毫不存方是。有一毫在,則眾惡相引而來。

己に克つには須く掃除廓清し、一毫も存せざる才に是れ。一毫有れば、則ち衆惡相引きて來る。

○問律呂新書,先生曰,「學者當務為急。算得此數熟,亦恐未有用。必須心中先具禮樂之本方可。且如其書說,冬用管以候氣。然至冬至那一刻時,管灰之飛,或有先後須臾之間。焉知那管正值冬至之刻?須自心中先曉得冬至之刻始得。此便有不通處。學者須先從禮樂本原上用功」。

《律吕新書》を問う。先生曰く。「學者は當に緊急該做するを做るべし。把りて此れらの數を算得して熟すとも、恐らく亦た未だ用有らん。必ず心中先に禮楽の本を具備して乃ち可なり。那の書の説くが如く、冬は管を用いて氣を候す。然るに冬至の那一刻の時に至れば、管灰の飛ぶは、或いは先後須臾の間有り。どうして那の管が正しく冬至の刻に値うを知らん。須く自己の心中先に冬至の刻を曉得して乃ち得べし。これ便ち通ぜざる処有り。學者は須く先に禮楽の本原の上に於て用功すべし」と。

○曰仁云,「心猶鏡也。聖人心如明鏡。常人心如昏鏡。近世格物之說,如以鏡照物,照上用功。不知鏡尚昏在,何能照?先生之格物,如磨鏡而使之明。磨上用功。明瞭後亦未嘗廢照」。

徐愛(曰仁)曰く。「心は鏡子の如同じ。聖人の心は明鏡の如く、常人の心は昏鏡の如し。近世の格物の説は、鏡を用いて物を照らすが如く、照の上に於て用功す。鏡子なお昏きを知らず、どうして能く照らさん。先生の格物は、鏡を磨いて彼を明ならしむるが如く、磨の上に於て用功す。明なりての後も亦たかつて照を廢せず」と。

○問道之精粗。先生曰,「道無精粗。人之所貝有精粗。如這一間房。人初進來,只貝一個大規模如此。處久便柱壁之類,一一看得明白。再久,如柱上有些文藻,細細都看出來。然只是一間房」。

道の精粗を問う。先生曰く。「道に精粗無し。人の見る所才に精粗有り。此の一間の房の如し、人初めて進み入れば、只一箇の大規模此の如しを見るのみ。處ること久しければ、便ち柱壁の類一一看得て明白なり。再び久しければ、柱の上に些かの文采有るが如きも、細細として皆看て出づ。然るに只是一間の房なり」と。

○先生曰,「諸公近見時,少疑問。何也?人不用力,莫不自以為己知。為學只循而行之是矣。殊不知私慾日生。如地上塵一日不掃,便又有一層。看實用功,便見道無終窮。愈探愈深。必使精白無一毫不徹方可」。

先生曰く。「諸公近來見面する時、疑問少なし、何を以てか。人は用力せざれば、自ら以て已に知れりと為さざる無し。學を為すは只循りて之を行えば則ち足れり。殊に私欲一天生ずる一天するを知らず、地上の塵土の如く、一天掃わざれば便ち又一層有り。著實に用功すれば、便ち道の終窮無きを見、愈々探れば愈々深し。必ず精白に到らしめて一毫の透徹せざる無くして乃ち可なり」と。

○問,「知至然後可以言誠意。今天理人慾知之未盡,如何用得克己工夫」?先生曰,「人若真宣切己用功不已,則於此心天理之精微,日見一日。私慾之細微,亦日見一日。若不用克己工夫,終日只是說話而已。天理格不自見,私慾亦胳不自貝。如人走路一般。走得一段,方認得一段。走到歧路處,有疑便問。問了又走。方漸能到得欲到之處。今人於己知之天理不肯存。己知之人慾不肯去。且只管愁不能盡知。只管閒講。何益之有?巨待克得自己無私可克,方愁不能盡知,亦未遲在」。

問う。「知至りて然る後以て意を誠にするを言う可し。今や天理人欲は之を知る未だ尽くさず、どうして克己の工夫を用い得ん」と。先生曰く。「人若し真切に自己の身上に於て用功已まざれば、則ち此の心天理の精微に於いては、一天見る一天。私欲の細微は、亦た一天見る一天。若し克己の工夫を用いざれば、終日只是話を説くのみ。天理終に能く自ら見えず、私欲も亦た終に能く自ら見えず。人の路を走るに一般、走りて一段を得て、才に一段を認得す。歧路の処に走り至りて、疑有れば便ち問い、問いて又走り、才に漸漸要到らんとするの処に到り得る能くす。今の人は已に知る所の天理を肯んじて存せず、已に知る所の人欲を肯んじて去らず、且く只管に尽く知る能わざるを愁い、只管に閑講す、何の益か有らん。且く克り得て自己に克る可き私無きに到りて、才に尽く知る能わざるを愁うも、亦た遲からず」と。

○問,「道一而已。古人論道往往不同。求之亦有要乎」?先生曰,「道無方體。不可執著。卻拘滯於文義上求道遠矣。如今人只說天。其實何嘗見天?謂日月風雷即天,不可。謂人物草木不是天,亦不可。道鄎是天。若識得時,何莫而非道?人但各以其一隅之見,認定以為道止如此,所以不同。若解向裡尋求,見得自己心體,即無時無處不是此道。旦古一旦今。無終無始。更有甚同異?心即道。道即天。知心則知道知天」。又曰,「諸君要實見此道,須從自己心上體認,不假外求始得」。

問う。「道は只是一箇。古人の道を論ずるは往々同じからず。之を求むるも亦た要領有るか」と。先生曰く。「道に方所形體無し、執著する可からず。却って文義の上に拘滞して道を求むれば、則ち遠し。今の人は只天を説く、其の実何ぞかつて天を見ん。日月風雷を説けば即ち天なりと、可ならず。人物草木を説けば天に非ずと、亦た可ならず。道は便ち是天。若し識り得る時は、何の処か道に非ざらん。人は只各々自己の一隅の見を拿りて、認定して以て道は此の如くに止まると為す、故に同じからず。若し曉得して裡に向かいて尋求し、自己の心体を見得れば、即ち時無く処無くして此の道に非ざるなし。亘古亘今、終無く始無し、また何の同異か有らん。心即ち道、道即ち天。心を知れば則ち道を知り天を知る」と。また曰く。「諸君は實に此の道を見んと要せば、須く自己の心上より體認して、外面より求めざる才に得べし」と。

○問,「名物度數。亦須先講求否」?先生曰,「人只要成就自家心體,則用在其中。如養得心體果有未發之中,自然有發而中節之和。自然無施不可。茍無是心,雖預先講得世上許多名物度數,與己原不相干。只是裝綴臨時,自行不去。亦不是將名物度數全然不理。只要『知所先後,則近道』」。又曰,「人要隨才成就,才是其所能為。如夔之樂,稷之種。是他資性合下便如此。成就之者,亦只是要他心體純乎天理。其運用處,皆從天理上發來,然後謂之才。到得純乎天理處,亦能不器。使薆稷易藝而為,當亦能之」。又曰,「如『素富貴,行乎富貴。素患難,行乎患難』,皆是不器。此惟養得心體正者能之」。

問う。「名物度數も、亦た須く先に講求するか」と。先生曰く。「人は只要く自家の心体を成就せば、則ち用は便ち其の中に在り。例えば心体を養い得て果して未發の中有らば、自然に發して節に中るの和有り、自然に施す可からざる無し。仮使此の心無ければ、雖れ預め講じ得る世上の許多の名物度數も、自己とは原來相干らず、只是臨時に裝綴して、自ら行き去ること能わず。亦た是れ名物度數を全然理せずに非ず、只要く『先後する所を知れば、則ち道に近し』なり」と。また曰く。「人は須く才に隨いて成就して、才に是れ彼の能く為す所なり。例えば夔の樂・稷の種は、是れ彼の資性本來便ち此の如し。彼を成就するも、亦た只是彼の心体をして純乎たる天理ならしめんと要す、其の運用する処は皆天理の上より發來して、然る後に才と称す。純乎たる天理の処に到得れば、亦た能く器ならず。仮使夔稷が職事を換えて來りて做るとも、亦た當に能くすべし」と。また曰く。「『富貴に素れば、富貴に行い。患難に素れば、患難に行う』の如きは、皆是れ器ならず。これ只有りて心体正しきを養い得る人の能くす」と。

○「與其為數頃無源之塘水,不若為數尺有源之井水,生意不窮」。時先生在塘邊坐。傍有井,故以之喻學雲。

「與其れ數頃の源頭無き塘水を做るは、數尺の源頭有る井水を做るに如かず、生意無窮」。当時先生は塘邊に坐し、旁に井有り、故に此の譬喻を用いて學問を論ず。

○問,「世道日降。太古時氣象,如何復見得」?先生曰,「一日便是一元。人平日一時起坐,未與物接。此心清明景象,便如在伏羲時遊一般」。

問う。「世道一天降り一天。太古の時の氣象は、どうして再び見るを得ん」と。先生曰く。「一日は便ち一元。人が平日一時起坐して、未だ物と接せざれば、此の心清明の景象は、便ち伏羲の時に於て遊ぶが如し」と。

○問,「心要逐物。如何則可」?先生曰,「人君端拱清穆,六卿分職,天下乃治。心統五官,亦要如此。今眼要視時,心便逐在色上。耳要聽時,心便逐在聲上。如人君要選官時,便自去坐在吏部。要調軍時,便自去坐在兵部。如此,豈惟失卻君體?六卿亦皆不得其職」。

問う。「心が外物を追逐せんと要するは、如何にして乃ち可ならん」と。先生曰く。「人君は端拱清穆にして、六卿は職を分ち、天下始めて治まる。心は五官を統べ、亦た此の如くなるを要す。今や眼が看んと要する時は、心便ち色の上に追逐して到り、耳が聽かんと要する時は、心便ち聲の上に追逐して到る。人君が官を選ばんと要する時に、便ち自ら去りて吏部に坐し、軍を調せんと要する時に、便ち自ら去りて兵部に坐するが如し。此の如くは、豈に止まりて君體を失わんや。六卿も亦た皆其の職を得ず」と。

○善念發而知之,而充之。惡念發而知之,而遏之。知眾充與遏者,志也。天聰明也。聖人只有此。學者當存此。

善念發せば則ち之を知り、并びて之を擴充せよ。惡念發せば則ち之を知り、并びて之を遏止せよ。該擴充と該遏止を知るは、是れ志にして、是天の賦するの聰明なり。聖人は只有りて此れ有るのみ。學者は當に此れを存すべし。

○澄曰,「好色,好利,好名等心,固是私慾。如閒思雉慮,如何亦謂之私慾」?先生曰,「畢竟從好色,好利,好名等根上起。自尋其根便見。如汝心中決知是無有做劫盜的思慮。何也?以汝元無是心也。汝若於貨色名利等心,一切皆如不做劫盜之心一般,都消滅了。光光只是心之本體。看有甚閒思慮?此便是『寂然不動』。便是『未發之中』。便是『廓然大公』。自然『感而遂通』。自然『發而中節』。自然『物來順應』」。

陸澄曰く。「色を好み利を好み名を好む等の心は、固より是れ私欲なり。閑思雜慮の如きは、何を以て亦た私欲と称するや」と。先生曰く。「畢竟是れ色を好み利を好み名を好む等の根の上より起こる。自ら其の根を尋ねれば便ち見えん。汝の心中に决然として劫盜を做るの思慮無きを知るが如きは、何を以てか。汝が原來此の心無きを以てなり。汝若し貨色名利等の心に對して、一切皆劫盜を做らざるの心に一般にして、皆消滅して、光光として只是心の本体ならば、看よまた何の閑思慮か有らん。此れ便ち是れ『寂然として動かず』、便ち是れ『未發の中』、便ち是れ『廓然大公』、自然『感じて遂に通ず』、自然『發して節に中る』、自然『物來れば順應す』」と。

○問志至氣次。先生日,「『志之所至,氣亦至焉』之謂。非『極至次貳』之謂。『持其志』,則養氣在其中。『無暴其氣』,則亦持其志矣。孟子救告子之偏,故如此夾持說」。

『志至り氣次ぐ』を問う。先生曰く。「是れ『志は到る所に至り、氣も亦た彼の処に到る』の意思にして、『極至と次貳』の意思に非ず。『其の志を持す』は、則ち氣を養う其の中に在り。『其の氣を暴する無かれ』は、則ち亦た是れ其の志を持すなり。孟子は告子の偏を救わんがため、故に此の如く両邊夾持して説く」と。

○問,「先儒曰,『聖人之道,必降而自卑。賢人之言,則引而自高』。如何」?先生日,「不然。如此卻乃偽也。聖人如天。無往而非天。三光之上,天也。九地之下,亦天也。天何嘗有降而自卑?此所謂大而化之也。賢人如山嶽。守其高而已。然百仞者不能引而為千仞。千仞者不能引而為萬仞。是賢人未嘗引而自高也。引而自高,則偽矣」。

問う。「先儒曰く『聖人の道は、必ず降りて自ら卑し。賢人の言は、則ち引きて自ら高し』。怎麼樣か」と。先生曰く。「是れ此の如くに非ず。此の如くは却って是れ偽なり。聖人は天に象る、処とし天に非ざる無し。三光の上は、是れ天。九地の下も、亦た是れ天。天何ぞかつて降りて自ら卑しまんや。これ即ち所謂大にして之を化すなり。賢人は山岳に象る、其の高を守るのみ。然るに百仞の能く引きて千仞と成る能わず、千仞の能く引きて萬仞と成る能わず。是れ賢人は未曾て引きて自ら高くせず。引きて自ら高くせば、則ち偽なり」と。

○問,「伊川謂『不當於喜怒哀樂未發之前求中』。延平卻教學者看未發之前氣象。何如」?先生日,「皆是也。伊川恐人於未發前討個中,把中做一物看。如吾向所謂認氣定時做中。故令只於涵養省察上用功。延平恐人未便有下手處,故令入時時刻刻求末發而氣象。使人正目而視惟此,傾耳而聽惟此。即是『戒慎不睹。恐懼不聞』的工夫。皆古人不得已誘人之言也」。

問う。「伊川(程頤)は『當に喜怒哀樂未發の前に於て中を求むべからず』と曰う。延平(李侗)は却って學者に教えて未發の前の氣象を看しむ。怎麼樣か」と。先生曰く。「皆對なり。伊川は人が未發の前に個の中を討んことを怕れ、中を把りて一件の物と當て看る、我が一向に所謂氣定の時を把りて認做して中と為すが如し、故に只人をして涵養省察の上に於て用功せしむ。延平は人が未だ下手の処無きを怕れ、故に人をして時時刻刻に未發前の氣象を求めしめ、人をして目を正しくして視れば只此に在り、耳を傾けて聽けば只此に在らしむ。便ち是れ『睹る無きに戒慎し、聞こえざるに恐懼す』の工夫なり。皆是れ古人の已むことを得ず人を誘導するの話なり」と。

○澄問,「喜怒哀樂之中和。其全體常人固不能有。如一件小事當喜怒者,平時無喜怒之心。至其臨時,亦能中節。亦可謂之中和乎」?先生曰,「在一時之事,固亦可謂之中和。然未可謂之大本達道。人性皆善。中和是人人原有的。豈可謂無?但常人之心既有所昏蔽,則其本體蜼亦時時發見,終是暫明暫滅,非其全體大用矣。無所不中,然後謂之大本。無所不和,然後謂之達道。惟天下之至誠,然後能立天下之大本」。曰,「澄於中字之義尚未明」。曰,「此須自心體認出來。非言語所能喻。中只是天理」。曰,「何者為天理」?曰,「去得人慾,便識天理」。曰,「天理何以謂之中」?曰,「無所偏倚」。曰,「無所偏倚,是何等氣象」?曰,「如明鏡然。全體瑩徹,略無纖塵染著」。曰,「偏倚是有所染著。如著在好色好利好名等項上,方見得偏倚。若未發時,美色名利皆未相看。何以便知其有所偏倚」?曰,「雖未相著,然平日好色好利好名之心,原未嘗無。既未嘗無,即謂之有。既謂之有,則亦不可謂無偏倚。譬之病瘧之人,雖有時不發,而病根原不曾除,則亦不得謂之無病之人矣。須是平日好色好利好名等項一應私心,掃除盪滌,無復纖毫留滯。而此心全體廓然,純是天理。方可謂之喜怒哀樂未發之中。方是天下之大本」。

陸澄問う。「喜怒哀樂の中和は、其の全體は常人固より能く有らざるなり。一件の小事本來當に喜怒すべきの如き、平時喜怒の心無し、臨時に到りても亦た能く節に中る、亦た以て中和と称する可きか」と。先生曰く。「一時の事の上に在りては、固より亦た以て中和と称する可し、然るに未だ能く大本達道と称する可からず。人性は皆善なり。中和は是れ人人の原來有る所、豈に説く無しと能わんや。但し常人の心は既に昏蔽有る所、則ち其の本体は雖れ亦た時時發見すとも、終に是れ暫明暫滅にして、是れ全體大用に非ず。中らざる所無くして、然る後に大本と称し、和せざる所無くして、然る後に達道と称す。惟れ天下の至誠、然る後に能く天下の大本を立つ」と。陸澄曰く。「澄は中の字の意思に於て未だ明白ならず」と。先生曰く。「これは必ず自己の心裡より體認して出ださんことを須い、言語の能く喩する所に非ず。中は只是天理」と。問う。「何を以て天理と為すか」。曰く「人欲を去掉すれば、便ち天理を識る」。問う。「天理は何を以て中と称するか」。曰く「偏倚する所無し」。問う。「偏倚する所無きは、何等の氣象か」。曰く「明鏡の如く、全體瑩徹して、略く纖塵の染着無し」。問う。「偏倚は是れ染着有る所なり。色を好み利を好み名を好む等項の上に着すれば、才に偏倚有るを見得。若し未發の時は、美色名利皆未曾て相着せず、何を以て便ち彼の偏倚有る所を知らんや」。曰く「雖れ未曾て相着せずとも、然るに平日色を好み利を好み名を好むの心は、原來未曾て無からず。既に未曾て無からざれば、便ち有と称す。既に有と称せば、亦た便ち以て偏倚無しと説く可からず。譬えるに病瘧の人の如く、雖れ時に發せざる有るとも、而して病根は原來かつて除かず、亦た以て病無きの人と称するを得ず。必ず是れ平日色を好み利を好み名を好む等項一切の私心を、掃除蕩滌して、更に纖毫の留滯有ること無からしめ、而して此の心全體廓然として、純は是れ天理、才に以て喜怒哀樂未發の中と称する可く、才に是れ天下の大本なり」と。

○問,「『顏子沒而聖學亡』。此語不能無疑」。先生曰,「見聖道之全者惟顏子。觀喟然一嘆可見。其謂『夫子循循然善誘人。博我以文,約我以禮』。是見破後如此說。博文約禮,如何是善誘人。學者須恩之。道之全體,聖人亦難以語人。須是學者自修自俉。顏子『雖欲從之,未由也已』即文王望道未見意。望道未見,乃是真見。顏子沒,而聖學之正派,遂不盡傳矣」。

問う。「『顔子沒して聖學亡ぶ』、此の話は能く疑無からしむる能わず」と。先生曰く。「聖道の全を見るを得るは只有りて顏子なり。彼の喟然たる一歎を看て則ち以て見る可し。彼の言う『夫子は循循然として善く人を誘い、我を文に博くし、我を禮に約す』は、看破しての後始めて此の如く説く。博文約禮は、怎麼是れ善く人を誘うや、學者は必ず想うを須い。道の全體は、聖人も亦た人に告げ難し、必ず是れ學者の自修自悟なり。顏子の『從わんと欲すといえども、由る未だ已まず』は、便ち是れ文王の道を望みて未だ見ざるの意思なり。道を望みて未だ見ざるは、才に是れ真の見なり。顏子沒すれば、聖學の正派は便ち能く尽く伝えざらん」と。

○問,「身之主為心,心之靈明是知。知之發動是意。意之所看為物。是如此否」?先生曰,「亦是」。

問う。「身の主宰は心、心の靈明は知、知の發動は意、意の所在は物。是れ此の如くか」と。先生曰く。「亦た是れなり」と。

○只存得此心常見在便是學。過去未來事,思之何益?徒放心耳。

只此の心を存し得て常常に在れば、便ち是れ學。過去未來の事は、之を想えば何の益か有らん。只是把りて心を放ち出すのみ。

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