Libo

巻第九

西汉 · 董仲舒 · 第4巻 / 7

身之養重於義第三十一

身の養は義より重し第三十一

天之生人也,使人生義與利,利以養其體,義以養其心,心不得義,不能樂,體不得利,不能安,義者、心之養也,利者、體之養也,體莫貴於心,故養莫重於義,義之養生人大於利。奚以知之?今人大有義而甚無利,雖貧與賤,尚榮其行以自好,而樂生,原憲、曾、閔之屬是也;人甚有利而大無義,雖甚富,則羞辱大,惡惡深,禍患重,非立死其罪者,即旋傷殃憂爾,莫能以樂生而終其身,刑戮夭折之民是也。夫人有義者,雖貧能自樂也;而大無義者,雖富莫能自存;吾以此實義之養生人大於利而厚於財也。民不能知,而常反之,皆忘義而殉利,去理而走邪,以賊其身,而禍其家,此非其自為計不忠也,則其知之所不能明也,今握棗與錯金以示嬰兒,嬰兒必取棗而不取金也,握一斤金與千萬之珠以示野人,野人必取金而不取珠也。故物之於人,小者易知也,其於大者難見也,今利之於人小,而義之於人大者,無怪民之皆趨利而不趨義也,固其所闇也,聖人事明義以照耀其所闇,故民不陷。詩云:“示生顯德行。”此之謂也。先王顯德以示民,民樂而歌之以為詩,說而化之以為俗,故不令而自行,不禁而自止,從上之意,不待使之,若自然矣,故曰:聖人天地動、四時化者,非有他也,其見義大,故能動,動故能化,化故能大行,化大行故法不犯,法不犯故刑不用,刑不用則堯舜之功德,此大治之道也,先聖傳授而復也,故孔子曰:“誰能出不由戶,何莫由斯道也!”今不示顯德行,民闇於義不能照,迷於道不能解,固欲大嚴憯以必正之,直殘賊天民,而薄主德耳,其勢不行。仲尼曰:“國有道,雖加刑,無刑也;國無道,雖殺之,不可勝也。”其所謂有道無道者,示之以顯德行與不示爾。

天は人を生じて、人をして義と利と有らしむ。利は以て身身體を養い、義は以て心を養う。心義を得ざれば、樂する能わず。身體利を得ざれば、安んずる能わず。義は心の養、利は身體の養なり。身體は心より貴き無し。故に養は義より重き無し。義の生を養うや、利より大なり。何に凭りて知るや。今人義大有りて利甚だ無しと雖も、貧と賤と雖も、猶お自らの行為を以て榮と為し自ら喜好して、生きるを樂とす。原憲・曾子・閔子此の類即ち是れ。人利甚だ有りて義大に無しと雖も、甚だ富むと雖も、羞辱亦大に、惡惡を厭惡する甚だ深く、禍患甚だ重く、立ちて其の罪に死せざれば、即ち轉眼して殃患を傷う。能く樂しみて一生を活畢する無し。刑を受け戮せられ夭折せる民即ち是れ。人の義有るは、貧しきと雖も亦能く自ら快樂す。義大に無きは、富むと雖も能く自ら存活せず。我此れを以て證實す。義の生を養うや利より大なり、財より猶お厚し。民は知る能わずして、常に之を反して、皆義を忘れて利に殉じ、理を離れて邪に走向して、以て自身を賊害し、禍は他家に及ぶ。此れ其の己の為に謀劃する忠ならざれば、即ち其の知の明白する能わざる所なり。今手裏に棗と錯金とを握りて嬰兒に見せば、嬰兒は必ず棗を取りて金を取らず。一斤の金と價值千萬の珠とを握りて野人に見せば、野人は必ず金を取りて珠を取らず。故に物の人に對するや、小は知り易く大は見え難し。今利の人に對するは小、義の人に對するは大なり。民の皆利に趨向して義に趨向せざるを怪しむ無きは、本より其の暗き所なればなり。聖人は義を彰明するに從事して、以て其の暗き所を照亮す。故に民陷落せず。『詩經』に曰く、「顯明の德行を以て人に指示す。」此れを謂うなり。先王は德を顯揚して以て民に指示せば、民は快樂して之を歌唱して詩と為し、喜悅して之を教化して俗と為す。故に令を下さずして自ら實行し、禁を設けずして自ら停止し、上に在る者の意に順從して、使喚を待たずして、自然の如し。故に曰く、聖人は能く天地を動かし四時を化す。他無きは、其の義の大なるを見て、故に能く打動す。能く打動すれば故に能く化す。能く化すれば故に能く大行す。教化大行すれば故に法觸犯せられず。法觸犯せられざれば故に刑用いられず。刑用いられざれば即ち堯舜の功德なり。此れ大治の道、先聖傳授して恢復する所なり。故に孔子曰く、「誰か能く出でて門を經由せざらん、何の故に人の此の道を走る無きや。」今顯明の德行を以て人に指示せざれば、民は義に暗くして照亮せられず、道に迷いて解開する能わず。是に於て大嚴慘酷を用いて以て必ず之を端正せんと欲す。是れ只だ天民を殘賊して、主の德を薄くする而已。其の情勢は通行せず。仲尼曰く、「國道有れば、刑を施加すと雖も、亦刑無きに等し。國道無ければ、殺すと雖も、殺し盡くせず。」其の所謂有道無道とは、顯明の德行を以て人に指示する與指示せざる而已。

對膠西王越大夫不得為仁第三十二

膠西王越の大夫仁と為るを得ずに對す第三十二

命令相曰:“大夫蠡、大夫種、大夫庸、大夫睪、大夫車成、越王與此五大夫謀伐吳,遂滅之,雪會稽之恥,卒為霸主,范蠡去之,種死之。寡人以此二大夫者為皆賢。孔子曰:‘殷有三仁。’今以越王之賢,與蠡種之能,此三人者,寡人亦以為越有三仁,其於君何如?桓公決疑於管仲,寡人決疑於君。”仲舒伏地再拜,對曰:“仲舒智褊而學淺,不足以決之,雖然,王有問於臣,臣不敢不悉以對,禮也。臣仲舒聞:昔者,魯君問於柳下惠曰:‘我欲攻齊,何如?’柳下惠對曰:‘不可。’退而有憂色,曰:‘吾聞之也:謀伐國者,不問於仁人也,此何為至於我?’但見問而尚羞之,而況乃與為軸以伐吳乎!其不宜明矣。以此觀之,越本無一仁,而安得三仁!仁人者,正其道不謀其利,修其理不急其功,致無為而習俗大化,可謂仁聖矣,三王是也;春秋之義,貴信而賤軸,軸人而勝之,雖有功,君子弗為也,是以仲尼之門,五尺童子言羞稱五伯,為其軸以成功,苟為而已也,故不足稱於大君子之門,五伯者比於他諸侯為賢者,比於仁賢,何賢之有?譬猶?比於美玉也。臣仲舒伏地再拜以聞。”

令を下して相に對して曰く、「大夫蠡・大夫種・大夫庸・大夫皋・大夫車成、越王は此の五位の大夫と謀劃して呉を伐ち、是に於て呉を滅ぼし、會稽の耻辱を洗雪して、終に覇主と為れり。范蠡は離去し、文種は死せり。寡人是の兩位の大夫を以て皆賢と為す。孔子曰く、『殷に三位の仁人有り。』今越王の賢を凭りて、蠡・種の才能と此の三人、寡人亦越に三位の仁人有りと為す。此れ君に對して如何。桓公は疑難有れば管仲に向かいて決斷す。寡人は疑難有れば您に向かいて決斷せん。」仲舒伏地して再拜して、對答して曰く、「仲舒智識褊狹にして學問淺し。以て決斷するに足らず。然りと雖も、王臣に問う有れば、臣敢えて盡く對答せずんばあらず。此れ禮なり。臣仲舒聞く、昔、魯君は柳下惠に問うて曰く、『我齊を攻めんと欲す。如何。』柳下惠對答して曰く、『可ならず。』退きて面に憂色有りて曰く、『我聞く、國を伐たんと謀劃する者は、仁人に問わず。此の事何の故に我に問い來るや。』只だ問わるるを受くる尚且羞愧す。況んや竟に詐謀を參與して呉を伐たんをや。其の宜ならざるは明白なり。此れより觀れば、越は本より一位の仁人無し。又焉んぞ三位の仁人を得ん。仁人は、其の道を端正して利を謀求せず、其の理を修明して功に急がず。無為に達致して習俗大大に化せらる。以て仁聖と稱すべし。三王即ち此くの如し。『春秋』の義は、信を重んじて詐を看輕す。詐を以て人に對して勝を取るは、功有ると雖も、君子做さず。故に仲尼の門下は、五尺の童子口を開きて皆五覇を稱道するを羞とす。其の詐を以て成功して苟且作為するのみ、故に大君子の門下に於て稱道せらるるに足らざるなり。五覇は其の他の諸侯に比ぶれば賢なり。仁賢に比ぶれば、又何の賢か有らん。猶お美玉に比ぶるが如し。臣仲舒伏地して再拜して稟聞す。」

觀德第三十三

觀德第三十三

天地者,萬物之本、先祖之所出也,廣大無極,其德昭明,歷年眾多,永永無疆。天出至明,眾知類也,其伏無不照也;地出至晦,星日為明不敢闇,君臣、父子、夫婦之道取之此。大禮之終也,臣子三年不敢當,雖當之,必稱先君,必稱先人,不敢貪至尊也。百禮之貴,皆編於月,月編於時,時編於君,君編於天,天之所棄,天下弗佑,桀紂是也;天子之所誅絕,臣子弗得立,蔡世子、逢醜父是也;王父父所絕,子孫不得屬,魯莊公之不得念母、衛輒之辭父命是也;故受命而海內順之,猶眾星之共北辰,流水之宗滄海也,況生天地之間,法太祖先人之容貌,則其至德,取象眾名尊貴,是以聖人為貴也。泰伯至德之侔天地也,上帝為之廢適易姓而子之讓,其至德海內懷歸之,泰伯三讓而不敢就位,伯邑考知群心貳,自引而瞠,順神明也。至德以受命,豪英高明之人輻輳歸之,高者列為公侯,下至卿大夫,濟濟乎哉!皆以德序。是故吳魯同姓也,鍾離之會,不得序而稱君,殊魯而會之,為其夷狄之行也;雞父之戰,吳不得與中國為禮;至於伯莒黃池之行,變而反道,乃爵而不殊;召陵之會,魯君在是,而不得為主,避齊桓也;魯桓即位十三年,齊、宋、衛、燕舉師而東,紀、鄭與魯戮力而報之,後其日,以魯不得遍,避紀侯與鄭厲公也。春秋常辭,夷狄不得與中國為禮,至邲之戰,夷狄反道,中國不得與夷狄為禮,避楚莊也;邢、衛、魯之同姓也,狄人滅之,春秋為諱,避齊桓也,當其如此也,惟德是親,其皆先其親。是故周之子孫,其親等也,而文王最先;四時等也,而春最先;十二月等也,而正月最先;德等也,則先親親;魯十二公等也,而定、哀最尊。衛俱諸夏也,善稻之會,獨先內之,為其與我同姓也;吳俱夷狄也,柤之會,獨先外之,為其與我同姓也;滅國十五有餘,獨先諸夏;

天地は、万物の本・先祖の出づる所の處なり。廣大にして極限無く、其の德昭明にして、經歷する年歲衆多にして、永遠に盡頭無し。天は至明を發出して、衆物皆知りて類に從い、其の伏藏する所照らさざる無し。地は至晦を發出して、星と日は此れに因りて明にして敢えて暗からず。君臣・父子・夫婦の道は此れより取法す。大禮終結するの時は、臣子三年敢えて承當せず。承當すると雖も、必ず先君と稱し、必ず先人と稱し、至尊を貪據すること敢えてせず。百禮の貴は、皆月に編列し、月は時に編列し、時は君に編列し、君は天に編列す。天の抛棄する所は、天下之を保祐せず。桀・紂即ち是れ。天子の誅絶する所は、臣子立つるを得ず。蔡世子・逢醜父即ち是れ。王父・父親の絶する所は、子孫相い屬するを得ず。魯莊公の母を思念するを得ざる・衛輒の父命を推辭する即ち是れ。故に天命を承受して海內順從するや、猶お衆星の北極星を環繞し、流水の大海中に歸向するがごとし。況んや天地の間に生まれて、太祖・先人の容貌に取法せんをや。則ち其の至德は、衆多の名號の尊貴に取象す。故に聖人は貴と為る。泰伯の至德は天地と相配して、上帝此れ嫡を廢して姓氏を改易して其の讓を嘉許す。其の至德は海內をして歸を懷かしむ。泰伯三たび辭讓して敢えて位に就かず。伯邑考は群心の貳有るを知りて、自ら引退して目を睜りて遠避す。是れ神明に順從なり。至德を凭りて天命を承受せば、豪英高明の人は輻條の車轂に聚向するが如く之に歸附す。高きは公侯に列し、下りて卿大夫に至る。何ぞ濟濟たるや。皆德に按じて排序す。故に呉と魯と同姓なり。鍾離の會に、呉は序に按じて君と稱するを得ず、魯に區別して會す。其の夷狄の行為有るに因るなり。雞父の戰に、呉は中國と禮を行うを得ず。伯莒・黃池の行に至りて、變改して道に返回して、乃ち爵を與えて再び區別せず。召陵の會に、魯君場に在るも、主人を做るを得ず。是れ齊桓公を避くなり。魯桓公即位十三年、齊・宋・衛・燕は師を興して東に向かい、紀・鄭は魯と力を合わせて報復し、日期を後に寫す。魯は普遍に參與と算するを得ざるに因りて、是れ紀侯と鄭厲公とを避くなり。『春秋』の常辭は、夷狄は中國と禮を行うを得ず。邲の戰に至りて、夷狄は道に返回し、中國は夷狄と禮を行うを得ず。是れ楚莊王を避くなり。邢・衛は魯と同姓なり。狄人之を滅ぼす。『春秋』此れ忌避して、是れ齊桓公を避くなり。其の此くの如きの時に當りて、唯だ德有るを親しみ、皆先ず親しむべき所を親しむ。故に周の子孫は、親等相同じくして、而して文王最先なり。四時相等しくして、而して春最先なり。十二月相等しくして、而して正月最先なり。德相等しければ、則ち先ず親を親しむ。魯十二公相等しくして、而して定公・哀公最も尊し。衛は皆諸夏なり。善稻の會に、獨り先に之を內部に算入す。其の我と同姓に因るなり。呉は皆夷狄なり。柤の會に、獨り先に之を外部に算入す。其の我と同姓に因るなり。國を滅ぼす十五有余、獨り先に諸夏を寫す。

魯、晉俱諸夏也,譏二名獨先及之;盛伯、郜子俱當絕,而獨不名,為其與我同姓兄弟也;外出者眾,以母弟出,獨大惡之,為其亡母背骨肉也;滅人者莫絕,衛侯毀滅同姓獨絕,賤其本祖而忘先也。親等,從近者始;立適以長,母以子貴先。甲戌己丑陳侯鮑卒,書所見也,而不言其闇者;隕石於宋五,六鷁退飛,耳聞而記,目見而書,或徐或察,皆以其先接於我者序之,其於會朝聘之禮亦猶是。諸侯與盟者眾矣,而儀父獨漸進,鄭僖公方來會我,而道殺,春秋致其意,謂之如會;潞子離狄而歸黨,以得亡,春秋謂之子,以領其意;包來、首戴、洮、踐土與操之會:陳、鄭去我,謂之逃歸;鄭處而不來,謂之乞盟:陳侯後至,謂之如會;莒人疑我,貶而稱人;諸侯朝魯者眾矣,而滕、薛獨稱侯;州公化我,奪爵而無號;吳楚國先聘我者見賢,曲棘與鞍之戰,先憂我者見尊。

魯・晋は皆諸夏なり。二名を譏刺するは獨り先に彼等に及ぶ。盛伯・郜子は皆絶す可きも、獨り名を稱せず。其の我と同姓の兄弟に因るなり。外に出づる人多し。母弟に因りて出づるは、獨り大いに厭惡を加う。其の母を失い骨肉を背棄するに因るなり。人を滅ぼすは絶せられざる有り。衛侯の同姓を滅ぼすは獨り絶せらる。是れ其の本祖を賤視して先人を忘るるなり。親の等第は、近きより始まる。嫡を立つるは年長に按じ、母は子に凭りて貴きは先に在り。甲戌・己丑に陳侯鮑卒す。見る所を書寫して、其の暗昧なるを言わず。石は宋に隕る五、六の鷁は倒退して飛ぶ。耳聽けば即ち記し、目見れば即ち書す。或いは徐緩に或いは審察に、皆先に我に接觸するに按じて排序す。會・朝・聘の禮に對しても亦此くの如し。諸侯の盟に參與する多し。而して儀父獨り漸々進升す。鄭僖公將に來りて我と會せんとすれども、路上に於て殺さる。『春秋』は其の心意を達成して、之を「如會」と謂う。潞子は狄を離れて中國此の一黨に歸り、故に滅亡す。『春秋』は之を「子」と稱して、以て其の心意を領受す。包來・首戴・洮・踐土と操の會は、陳・鄭は我を離れて、之を「逃歸」と謂い、鄭は彼の處に於て來らずして、之を「乞盟」と謂い、陳侯は後に至りて、之を「如會」と謂い、莒人は我を疑いて、貶抑して「人」と稱す。諸侯の魯に朝する多し。而して滕・薛獨り侯と稱す。州公は我に對して變化無常にして、爵を剝奪して號無し。呉・楚の國は先に我に聘問するを賢と看作し、曲棘と鞍の戰は、先に我の為に憂うるを尊と看作す。

奉本第三十四

奉本第三十四

禮者,繼天地、體陰陽,而慎主客、序尊卑、貴賤、大小之位,而差外內、遠近、新故之級者也,以德多為象,萬物以廣博眾多歷年久者為象。其在天而象天者,莫大日月,繼天地之光明莫不照也;星莫大於大辰,北斗常星,部星三百,衛星三千,大火二十六星,伐十三星,北斗七星,常星九辭,二十八宿,多者宿二十八九,其猶蓍百莖而共一本,龜千歲而人寶,是以三代傳決疑焉。其得地體者,莫如山阜,人之得天得眾者,莫如受命之天子,下至公侯伯子男,海內之心,懸於天子,疆內之民,統於諸侯,日月食並告兇,不以其行。有星茀於東方,於大辰,入北斗,常星不見,地震,梁山、沙鹿崩,宋、衛、陳、鄭災,王公大夫篡弒者,春秋皆書以為大異,不言眾星之茀入霣雨,原隰之襲崩,一國之小民死亡,不決疑於眾草木也。唯田邑之稱,多著主名;君將不言臣;臣不言師;王夷君獲,不言師敗。孔子曰:“唯天為大,唯堯則之。”則之者,大也。“巍巍乎其有成功也”,言其尊大以成功也。齊桓、晉文不尊周室,不能霸,三代聖人不則天地,不能至王,階此而觀之,可以知天地之貴矣。夫流深者,其水不測,尊至者,其敬無窮,是故天之所加,雖為災害,猶承而大之,其欽無窮,震夷伯之廟是也。天無錯舛之災,地有震動之異,天子所誅絕,所敗師,雖不中道,而春秋者不敢闕,謹之也,故師出者眾矣,莫言還,至師及齊師圍成,成降於齊師,獨言還,其君劫外,不得已,故可直言也,至於他師,皆其君之過也,而曰非師之罪,是臣子不為君父受罪,罪不臣子莫大焉。夫至明者,其照無疆,至晦者,其闇無疆;今春秋緣魯以言王義,殺隱、桓以為遠祖,宗定、哀以為考妣,至尊且高,至顯且明,其基壤之所加,潤澤之所被,條條無疆。前是常數十年,鄰之幽人近其墓而高明。

禮は、天地を繼承し陰陽を體察して、主客を謹慎し尊卑・貴賤・大小の位を序次して、外內・遠近・新故の等級を等差するなり。德多きを以て取象と為し、万物は廣博衆多・經歷年歲久しきを以て取象と為す。天の上に在りて天に取象するは、日月より大なるは莫く、天地の光明を繼承して照らさざる無し。星は大辰より大なるは莫し。北斗常星・部星三百・衛星三千・大火二十六星・伐十三星・北斗七星・常星九辭・二十八宿、多き宿は二十八九。猶お蓍草百莖にして共に一個の本有り、龜は千歲を活きて人に寶と為さるるが如く、故に三代傳來して以て疑難を決斷す。地の體を得るは、山阜より甚だしきは莫し。人の天を得衆を得るは、命を受ける天子より甚だしきは莫し。下りて公・侯・伯・子・男に至り、海內の心は天子に懸繫し、疆內の民は諸侯に統屬す。日食・月食は一併して凶を報告して、其の運行に按じて看ず。星の東方に孛る・大辰に孛る・北斗に入る有り、常星見えず、地震し、梁山・沙鹿崩れ、宋・衛・陳・鄭に火災有り、王公大夫の篡弑するは、『春秋』は皆書して以て大異と為す。衆星の孛入・霣雨・原隰の襲崩・一國小民の死亡を言わず、衆草木に疑難を決斷せず。唯だ田邑の稱呼は、多く主名を寫上す。君自ら兵を將して臣を言わず。臣は師を言わず。王傷つき君擒せらるるも、師敗ると言わず。孔子曰く、「唯だ天を大と為す、唯だ堯之に取法す。」之に取法するは、即ち大なり。「何ぞ高大なるや其の成功」は、其の尊大にして因りて成功するを謂うなり。齊桓・晋文は周室を尊敬せざれば、覇を稱する能わず。三代の聖人は天地に取法せざれば、王に至る能わず。此れより觀れば、以て天地の貴を知るべし。水の深き流るるは、其の水測るべからず。尊の極處に至るは、之に對する敬窮盡無し。故に天の施加する所は、災害と雖も、猶お承受して之を尊大にし、欽敬窮盡無し。夷伯の廟を震うが即ち是れ。天に錯乱の災無く、地に震動の異有り。天子の誅絶する所・敗する所の師は、道に合せずと雖も、『春秋』は敢えて缺漏せず。是れ謹慎なり。故に師を出づる多し、師を還すを言う無し。「師は齊師と成を圍み、成は齊師に降る」に至りて、獨り還すと言うは、其の君外に脅迫せられて、得已ざるに因るなり。故に直に言うべし。其の他の師に至りては、皆其の君の過錯なり。然るに師の罪に非ずと言う。此れ臣子君父の為に罪を受けず。不臣不子の罪は此れより大なる無し。至明なるは、其の照耀に疆界無し。至晦なるは、其の暗に疆界無し。今『春秋』は魯に借りて王の義を講じ、隱公・桓公を以て遠祖と為して抑殺し、定公・哀公を以て考妣と為して尊崇す。至尊にして且つ高く、至顯にして且つ明なり。其の基壤の加うる所・潤澤の被る所は、條々疆界無し。此れ以前常に數十年、鄰國幽暗の人は其の墓に靠近して高明と變る。

大國齊、宋,離不言會,微國之君,卒葬之禮,錄而辭繁;遠夷之君,內而不外。當此之時,魯無鄙強,諸侯之伐哀者皆言我,邾婁庶其、鼻我、邾婁大夫,其於我無以親,以近之故,乃得顯明;隱、桓、親春秋之先人也,益師卒而不日;於稷之會,言其成宋亂,以遠外也;黃池之會,以兩伯之辭,言不以為外,以近內也。

大國齊・宋は、分離して「會」と言わず。微國の君の卒葬の禮は、記錄して文辭繁多なり。遠夷の君は、內部に算入して外部に算入せず。此の時に當りて、魯は邊鄙の強敵無し。諸侯の哀公を伐つは皆「我」と曰う。邾婁庶其・鼻我は、邾婁の大夫なり。彼等は我と親無し。近きの故を以て、乃ち顯明を得たり。隱公・桓公は、『春秋』の親しむ所の先人なり。益師卒すれども日を記さず。于稷の會に、其の宋の乱を成就すと言うは、遠くして外に在るに因るなり。黃池の會に、兩位の覇主の文辭を用いて、之を以て外と為さずと言うは、近くして內に在るに因るなり。

巻第十

深察名號第三十五

深察名號第三十五

治天下之端,在審辨大;辨大之端,在深察名號。名者,大理之首章也,錄其首章之意,以窺其中之事,則是非可知,逆順自著,其幾通於天地矣。是非之正,取之逆順;逆順之正,取之名號;名號之正,取之天地;天地為名號之大義也。古之聖人,謞而效天地,謂之號,鳴而施命,謂之名。名之為言鳴與命也,號之為言謞而效也,謞而效天地者為號,鳴而命者為名,名號異聲而同本,皆鳴號而達天意者也。天不言,使人發其意;弗為,使人行其中;名則聖人所發天意,不可不深觀也。受命之君,天意之所予也。故號為天子者,宣視天為父,事天以孝道也;號為諸侯者,宜謹視所候奉之天子也;號為大夫者,宜厚其忠信,敦其禮義,使善大於匹夫之義,足以化也;士者,事也,民者、瞑也;士不及化,可使守事從上而已。五號自贊,各有分,分中委曲,曲有名,名眾於號,號其大全。名也者,名其別離分散也,號凡而略,名詳而目,目者,遍辨其事也,凡者,獨舉其大也。享鬼神者號一,曰祭;祭之散名:春曰祠,夏曰礿,秋曰嘗,冬曰烝。獵禽獸者號一,曰田;田之散名:春苗、秋搜,冬狩,夏獼;無有不皆中天意者。物莫不有凡號,號莫不有散名如是。是故事各順於名,名各順於天,天人之際,合而為一。同而通理,動而相益,順而相受,謂之德道。詩曰:“維號斯言,有倫有跡。”此之謂也。

天下を治理するの端緒は、大處を審察辨明するに在り。大處を辨明するの端緒は、名號を深察するに在り。名は、大理の首章なり。首章の意を錄下して、以て其の中の事を窺看すれば、則ち是非は知るべく、逆順自ら顯明にして、其の幾微は天地に通ず。是非の正は、之を逆順より取る。逆順の正は、之を名號より取る。名號の正は、之を天地より取る。天地は名號の大義なり。古代の聖人は、大聲呼號して天地に效法するを、號と謂い、聲音を發出して命令を施加するを、名と謂う。名此の字は鳴と命とを說き、號此の字は呼號して效法を說く。呼號して天地に效法するは號、聲音を發出して命名するは名なり。名と號とは聲音同じからずして根本相同じ。皆鳴號して天意に通達す。天は言わずして、人をして其の意を發表せしむ。天は自ら做さずして、人をして其の中に於て實行せしむ。名は即ち聖人の發表する所の天意なり。深深に觀察せざるべからず。命を受ける君は、天意の與える所なり。故に號して天子と為るは、當に天を以て父と看作して、孝道を以て天に事うべし。號して諸侯と為るは、當に候望して奉事する所の天子を謹慎看待すべし。號して大夫と為るは、當に其の忠信を加厚し其の禮義を敦篤にして、善を匹夫の義より大にして、以て教化するに足らしむべし。士は、即ち事なり。民は、即ち瞑なり。士は猶お人を教化するに上らず、之を事を守り上に服從せしむべき而已。五種の號は各々稱說して、各々職分有り。職分の中の委曲は、每一曲に名有り。名は號より多く、號は其の大全なり。名は、其の分別離散する物に起名するなり。號は總括にして簡略、名は詳細にして條目なり。條目は、其の事を普遍に辨別す。總括は、其の大處を單獨に舉出す。鬼神を享祀するの號は一個、之を祭と曰う。祭の散名は、春は祠と曰い、夏は礿と曰い、秋は嘗と曰い、冬は烝と曰う。禽獸を獵取するの號は一個、之を田と曰う。田の散名は、春は苗・秋は搜・冬は狩・夏は獼。天意に中らざる無し。物總號有らざる無く、號散名有らざる無し。此くの如し。故に事各々名に順從し、名各々天に順從して、天と人との交際は、合わさりて一と為る。相同じくして理相通じ、動作して相い増益し、順從して相い授受す。之を德道と謂う。『詩經・小雅・正月』に曰く、「維れ號り斯の言、倫有り序有り。」此れを謂うなり。

深察王號的大意,其中有五科:皇科、方科、匡科、黃科、往科;合此五科以一言,謂之王。王者,皇也,王者,方也,王者,匡也,王者,黃也,王者,往也。是故王意不普大而皇,則道不能正直而方;道不能正直而方,則德不能匡鉉周遍;德不能匡鉉周遍,則美不能黃;美不能黃,則四方不能往;四方不能往,則不全於王。故曰:天覆無外,地載兼愛,風行令而一其威,雨布施而均其德,王術之謂也。

「王」此の號の大意を深察すれば、其の中に五科有り。皇科・方科・匡科・黃科・往科。此の五科を合わせて一句と為して、王と謂う。王は、即ち皇なり。王は、即ち方なり。王は、即ち匡なり。王は、即ち黃なり。王は、即ち往なり。故に王の意普遍廣大にして皇ならざれば、則ち道は正直にして方なる能わず。道正直にして方なる能わざれば、則ち德は匡正周遍する能わず。德匡正周遍する能わざれば、則ち美は黃なる能わず。美黃なる能わざれば、則ち四方は歸往する能わず。四方歸往する能わざれば、則ち王に對して全からざる所有り。故に曰く、天は外無きを覆蓋し、地は兼愛を承載し、風は命令を推行して其の威を統一し、雨は布施して其の德を均平す。王術を謂うなり。

深察君號之大意,其中亦有五科:元科,原科,權科,溫科,群科:合此五科以一言,謂之君。君者,元也,君者,原也,君者,權也,君者,溫也,君者,群也。是故君意不比於元,則動而失本;動而失本,則所為不立;所為不立,則不效於原;不效於原,則自委舍;自委舍,則化不行;用權於變,則失中適之宜;失中適之宜,則道不平、德不溫;道不平、德不溫,則眾不親安;眾不親安,則離散不群;離散不群,則不全於君。

「君」此の號の大意を深察すれば、其の中に亦五科有り。元科・原科・權科・溫科・群科。此の五科を合わせて一句と為して、君と謂う。君は、即ち元なり。君は、即ち原なり。君は、即ち權なり。君は、即ち溫なり。君は、即ち群なり。故に君の意元に比附せざれば、則ち一動して本を失う。一動して本を失えば、則ち做す所は立つる能わず。做す所立つる能わざれば、則ち原に效法せず。原に效法せざれば、則ち自ら委棄して舍去す。自ら委棄して舍去すれば、則ち教化は推行する能わず。權を變に用いれば、則ち中適の宜を失う。中適の宜を失えば、則ち道は平ならず德は溫ならず。道平ならず德溫ならざれば、則ち衆人は親しまず安んぜず。衆人親しまず安んぜざれば、則ち離散して群を成さず。離散して群を成さざれば、則ち君に對して全からざる所有り。

名生於真,非其真弗以為名。名者,聖人之所以真物也,名之為言真也。故凡百譏有黮黮者,各反其真,則黮黮者還昭昭耳。欲審曲直,莫如引繩;欲審是非,莫如引名;名之審於是非也,猶繩之審於曲直也。詰其名實,觀其離合,則是非之情不可以相讕已。今世闇於性,言之者不同,胡不試反性之名?性之名,非生與?如其生之自然之資,謂之性。性者,質也,詰性之質於善之名,能中之與?既不能中矣,而尚謂之質善,何哉?性之名不得離質,離質如毛,則非性已,不可不察也。春秋辨物之理,以正其名,名物如其真,不失秋毫之末,故名霣石,則後其五,言退鷁,則先其六。聖人之謹於正名如此,君子於其言,無所苟而已,五石六鷁之辭是也。●眾惡於內,弗使得發於外者,心也,故心之為名,●也。人之受氣苟無惡者,心何●哉?吾以心之名得人之誠,人之誠有貪有仁,仁貪之氣兩在於身。身之名取諸天,天兩,有陰陽之施,身亦兩,有貪仁之性;天有陰陽禁,身有情慾●,與天道一也。是以陰之行不得幹春夏,而月之魄常厭於日光,占全占傷。天之禁陰如此,安得不損其欲而輟其情以應天?天所禁,而身禁之,故曰身猶天也,禁天所禁,非禁天也。必知天性不乘於教,終不能●。察實以為名,無教之時,性何遽若是?故性比於禾,善比於米;米出禾中,而禾未可全為米也;善出性中,而性未可全為善也。善與米,人之所繼天而成於外,非在天所為之內也。天之所為,有所至而止,止之內謂之天性,止之外謂人事,事在性外,而性不得不成德。民之號,取之瞑也,使性而已善,則何故以瞑為號?以霣者言,弗扶將,則顛陷猖狂,安能善。性有似目,目臥幽而瞑,待覺而後見,當其未覺,可謂有見質,而不可謂見。今萬民之性,有其質而未能覺,譬如瞑者待覺,教之然後善。

名は真に生ず。真に非ざれば則ち之を以て名と為さず。名は、聖人の以て物を真實ならしむる所なり。名此の字は真を說く。故に凡そ百種の譏刺の裏に暗昧有るは、各々其の真に返回せば、則ち暗昧なるも亦昭昭に回到す。曲直を審察せんと要すれば、繩を引くより好きは莫し。是非を審察せんと要すれば、名を引くより好きは莫し。名の是非を審察するや、繩の曲直を審察するが如し。其の名と實とを詰問して、其の離合を觀察すれば、則ち是非の實情は以て相い誣賴するべからず。今世は性に暗く、講ずる者各々相同じからず。何ぞ試みに「性」此の名に返回せざるや。性此の名は、生に非ずや。其の生まれ來る自然の資質の如くを、性と謂う。性は、即ち質なり。「善」此の名を以て性の質を詰問して、能く中ると說かんや。既に中ると說く能わざれば、猶お質は善と說くは、何の故ぞや。性此の名は質を離るるを得ず。質を離るるは毛を離るるが如くなれば、則ち性に非ず。審察せざるべからず。『春秋』は物の理を辨別して、以て其の名を端正し、物に起名して其の真に如して、秋毫の末を失わず。故に「霣石」と稱するは、則ち「五」を後に置き、「退鷁」と說くは、則ち「六」を前に置く。聖人は名を正しくするに謹慎なること此くの如し。君子は自らの言に對して、一點の苟且無き而已。五石・六鷁の文辭即ち是れ。衆惡を內裏にして、之を外面に發せしめざるは、心なり。故に心此の名は、即ち是れ。人氣を受けて若し本より惡無くんば、心何ぞ必せん。我心此の名を凭りて人の誠を得。人の誠に貪有り仁有り、仁と貪との氣兩樣皆身上に在り。身此の名は之を天より取る。天は兩面なり。陰陽の施與有り。身も亦兩面なり。貪と仁との性有り。天は陰陽に對する禁有り、身は情欲に對する有り、天道と一事なり。故に陰の運行は春夏に干預するを得ずして、而して月の魄は常に日光に壓制せられて、暫く全く暫く傷く。天の陰を禁ずるや此くの如し。人怎能に欲望を減損し情を止息して以て天に應天に應ぜざらんや。天の禁ずる所は、身も亦之を禁ず。故に身は猶お天のごとしと曰う。天の禁ずる所を禁ずるは、天を禁ずるに非ず。必ず天性は教化を憑藉せざれば、終に能わざるを知るべし。實際を察して以て起名す。教化無きの時は、性何ぞ即ち此くの如くならんや。故に性は禾に比作し、善は米に比作す。米は禾の中より出でて、而して禾は以て盡く米と為すべからず。善は性の中より出でて、而して性は以て盡く善と為すべからず。善と米とは、人は天を繼承して外面に於て成就するなり。天の做す範範圍の內に非ず。天の做す所は、到達する所有れば則ち停止す。停止以內は天性と謂い、停止以外は人事と謂う。事は性の外に在りて、而して性は德を成就せざるを得ず。民此の號は、之を瞑より取る。假如性已に善なれば、何を以て瞑を用いて號と為すや。將に跌倒せんとする人を以て言わば、之を扶持せざれば、則ち顛陷猖狂せん。怎能に善ならん。性は眼睛に稍く似たる所有り。眼睛は睡るる時幽暗にして瞑し、醒むるを待ちて然る後に能く見る。其の未だ醒めざるに當りて、能く見るの質有りと說くべく、已に見たりと說くべからず。今萬民の性は、其の質有りて未だ醒むる能わず。瞑れる者の醒むるを待つに比す。教化して然る後に乃ち善なり。

當其未覺,可謂有善質,而未可謂善,與目之瞑而覺,一概之比也。靜心徐察之,其言可見矣。性而瞑之未覺,天所為也;效天所為,為之起號,故謂之民。民之為言,固猶瞑也,隨其名號,以入其理,則得之矣。是正名號者於天地,天地之所生,謂之性情,性情相與為一瞑,情亦性也,謂性已善,奈其情何?故聖人莫謂性善,累其名也。身之有性情也,若天之有陰陽也,言人之質而無其情,猶言天之陽而無其陰也,窮論者無時受也。名性不以上,不以下,以其中名之。性如繭、如卵,卵待覆而成雛,繭待繅而為絲,性待教而為善,此之謂真天。天生民性有善質而未能善,於是為之立王以善之,此天意也。民受未能善之性於天,而退受成性之教於王,王承天意以成民之性為任者也;今案其真質而謂民性已善者,是失天意而去王任也。萬民之性苟已善,則王者受命尚何任也?其設名不正,故棄重任而違大命,非法言也。春秋之辭,內事之待外者,從外言之。今萬民之性,待外教然後能善,善當與教,不當與性,與性則多累而不精,自成功而無賢聖,此世長者之所誤出也,非春秋為辭之術也。不法之言,無驗之說,君子之所外,何以為哉!或曰:“性有善端,心有善質,尚安非善?”應之曰:“非也。繭有絲,而繭非絲也;卵有雛,而卵非雛也。比類率然,有何疑焉。”天生民有六經,言性者不當異,然其或曰性也善,或曰性未善,則所謂善者,各異意也。性有善端,動之愛父母,善於禽獸,則謂之善,此孟子之善。循三綱五紀,通八端之理,忠信而博愛,敦厚而好禮,乃可謂善,此聖人之善也。是故孔子曰:“善人,吾不得而見之,得見有常者,斯可矣。”由是觀之,聖人之所謂善,未易當也,非善於禽獸則謂之善也,使動其端善於禽獸則可謂之善,善奚為弗見也?

其の未だ醒めざるに當りて、善の質有りと說くべく、已に善と說くべからず。眼睛の瞑りて再び醒むると、同一類の比方なり。心を靜めて慢慢に審察すれば、其の話は即ち見るべし。性にして瞑れるに似たれば、天の做す所なり。天の做す所に效法して、之に號を起せば、故に民と謂う。民此の字は、本より瞑に似たり。其の名號に順いて其の理に入れば、則ち得たり。此くの如く天地の上に名號を端正す。天地の生ずる所は、性と情と謂う。性と情と合わさりて一の瞑を為し、情も亦性なり。性已に善と說かば、然らば情は如何。故に聖人の性善を說く無きは、此の名を牽累するを怕ればなり。身に性有り情有るは、猶お天に陰有り陽有るがごとし。人の質に情無しと說くは、猶お天の陽有りて陰無しと說くがごとし。論說を窮盡せども接受せらるるの時無し。性に起名するに、上等に按せず下等に按せず、中間に按じて起名す。性は繭の如く卵の如し。卵は覆育を待ちて乃ち雛を成し、繭は繰煮を待ちて乃ち絲を成し、性は教化を待ちて乃ち善を成す。此れを真天と謂う。天は民を生じて、性に善の質有りて未だ善ならず。是に於て之が為に王を立てて以て之を善ならしむ。此れ天意なり。民は天より未だ善ならざるの性を接受して、再び退回して王より性を成就するの教化を接受す。王は天意を承受して、民の性を成就するを以て責任と為す。今其の真實の質に按じて民性已に善と說かば、是れ天意を失いて王の責任を丢棄す。萬民の性若し已に善なれば、則ち王者命を受けて猶お何の責任を擔當せん。其の設立する名正當ならず。故に重任を拋棄して大命に違背す。合法の言論に非ず。『春秋』の文辭は、內部の事は外面を待つれば、則ち外面より說く。今萬民の性は、外面の教化を待ちて然る後に能く善なり。善は當に教に歸すべく、性に歸すべからず。性に歸せば則ち牽累多くして精ならず。自ら成功して賢聖無きに似たり。此れ世上の長者の誤說する所、『春秋』の辭を用うるの方法に非ず。合法ならざるの言論・應驗無きの說は、君子の排斥する所なり。猶お何を為さんや。人の言有りて曰く、「性に善の端緒有り、心に善の質有り。何ぞ猶お善に非ざらん。」之に應對して曰く、「非ず。繭に絲有りて、而して繭は絲に非ず。卵に雛有りて、而して卵は雛に非ず。比類は皆此くの如し。何の疑うべき有らん。」天は民を生じて六經有り。性を講ずるは當に同じからざるべからず。然るに或いは性は善と說き、或いは性は未だ善ならずと說く。則ち所謂善は、各々意同じからず。性に善の端緒有りて、發動して父母を愛して、禽獸より好ければ、則ち之を善と謂う。此れ孟子の善なり。三綱五紀に遵循し、八端の理を貫通し、忠信にして博愛し、敦厚にして禮を喜好せば、乃ち以て善と謂うべし。此れ聖人の善なり。故に孔子曰く、「善人は、我見るを得ず。恒常の人を見るを得ば、亦可なり。」此れより觀れば、聖人の所謂善は、擔當し易からず。禽獸より好しと謂うを以て善と為すに非ず。假如其の端緒を發動して禽獸より好しと謂うを以て善と為すべければ、善何の故に見えざるや。

夫善於禽獸之未得為善也,猶知於草木而不得名知,萬民之性善於禽獸而不得名善,知之名乃取之聖。聖人之所命,天下以為正,正朝夕者視北辰,正嫌疑者視聖人,聖人以為無王之世,不教之民,莫能當善,善之難當如此,而謂萬民之性皆能當之,過矣。質於禽獸之性,則萬民之性善矣;質於人道之善,則民性弗及也。萬民之性善於禽獸者許之,聖人之所謂善者弗許,吾質之命性者,異孟子。孟子下質於禽獸之所為,故曰性已善;吾上質於聖人之所為,故謂性未善,善過性,聖人過善。春秋大元,故謹於正名,名非所始,如之何謂未善已善也。

禽獸より好けれども猶お善と算するを得ず。猶お草木より知有りて知と謂うを得ざるが如し。萬民の性は禽獸より好けれども善と謂うを得ず。知此の名は乃ち之を聖より取る。聖人の命名する所は、天下以て正と為す。朝夕を端正するは北極星を看、嫌疑を端正するは聖人を看る。聖人は王無きの世代・教化を加えざるの民は、善を擔當する能くする無しと為す。善の擔當し難きや此くの如し。然るに萬民の性皆擔當する能しと說くは、過分なり。禽獸の性を以て衡量すれば、則ち萬民の性は善なり。人道の善を以て衡量すれば、則ち民性は上らず。萬民の性禽獸より好しは、此の一點許可す。聖人の所謂善は、許可せず。我が質正して性に命名するは、孟子と同じからず。孟子は下りて禽獸の行為を以て衡量すれば、故に性已に善と說く。我は上りて聖人の行為を以て衡量すれば、故に性未だ善ならずと說く。善は性を超過し、聖人は善を超過す。『春秋』は元を推尊す。故に名を正しくするに謹慎なり。名は彼より始まるに非ざれば、怎能に未善・已善と說かんや。

實性第三十六

實性第三十六

孔子曰:“名不正,則言不順。”今謂性已善,不幾於無教而如其自然,又不順於為政之道矣;且名者性之實,實者性之質,質無教之時,何遽能善。善如米,性如禾,禾雖出米,而禾未可謂米也;性雖出善,而性未可謂善也。米與善,人之繼天而成於外也,非在天所為之內也;天所為,有所至而止,止之內謂之天,止之外謂之王教,王教在性外,而性不得不遂,故曰:性有善質,而未能為善也,豈敢美辭,其實然也。天之所為,止於繭麻與禾,以麻為布,以繭為絲,以米為飯,以性為善,此皆聖人所繼天而進也,非情性質樸之能至也,故不可謂性。正朝夕者視北辰,正嫌疑者視聖人,聖人之所名,天下以為正。今按聖人言中本無性善名,而有善人吾不得見之矣,使萬民之性皆已能善,善人者何為不見也,觀孔子言此之意,以為善甚難當;而孟子以為萬民性皆能當之,過矣。聖人之性,不可以名性,斗筲之性,又不可以名性,名性者,中民之性。中民之性,如繭如卵,卵待覆二十日,而後能為雛;繭待繰以涫湯,而後能為絲;性待漸於教訓,而後能為善;善,教訓之所然也,非質樸之所能至也,故不謂性。性者,宜知名矣,無所待而起生,而所自有也;善所自有,則教訓已非性也。是以米出於粟,而粟不可謂米;玉出於璞,而璞不可謂玉;善出於性,而性不可謂善;其比多在物者為然,在性者以為不然,何不通於類也?卵之性未能作雛也,繭之性未能作絲也,麻之性未能為縷也,粟之性未能為米也。春秋別物之理,以正其名,名物必各因其真,真其義也,真其情也,乃以為名。名霣石,則後其五,退飛,則先其六,此皆其真也。聖人於言,無所苟而已矣。性者,天質之樸也,善者,王教之化也;無其質,則王教不能化,無其王教,則質樸不能善。質而不以善性,其名不正,故不受也。

孔子曰く、「名正當ならざれば、則ち言順ならず。」今性已に善と說くは、教化無くして其自然に聴くに幾ならずして、又政を為すの道に合せず。況んや名は性の實、實は性の質。質の教化無きの時は、何ぞ即ち能く善ならんや。善は米の如く、性は禾の如し。禾は米を出ずと雖も、而して禾は以て米と謂うべからず。性は善を出ずと雖も、而して性は以て善と謂うべからず。米と善とは、人は天を繼承して外面に於て成就するなり。天の做す範圍の內に非ず。天の做す所は、到達する所有れば則ち停止す。停止以內は天と謂い、停止以外は王教と謂う。王教は性の外に在りて、而して性は順遂せざるを得ず。故に曰く、性に善の質有りて、未だ善と為る能わず。豈に敢えて美辭を用いん、其の實際此くの如し。天の做す所は、繭・麻と禾とに停止す。麻を以て布を做し、繭を以て絲を做し、米を以て飯を做し、性を以て善を做す。此の等は皆聖人の天を繼承して推進する所、情性・質樸の能く到達する所に非ず。故に以て性と謂うべからず。朝夕を端正するは北極星を看、嫌疑を端正するは聖人を看る。聖人の命名する所は、天下以て正と為す。今聖人の話の裏に「性善」此の名は本より無きに按ずれば、然るに「善人我見るを得ず」有り。假如萬民の性皆已に能く善なれば、善人何の故に見えざるや。孔子の此の言を說くの意を看れば、以て善の擔當し難しと為す。而して孟子は以て萬民の性皆擔當する能しと為す。過分なり。聖人の性は、以て性に命名すべからず。斗筲の性も、亦以て性に命名すべからず。性に命名するは、中民の性なり。中民の性は、繭の如く卵の如し。卵は覆育二十日を待ちて、然る後に能く雛と為る。繭は沸湯を以て繰るるを待ちて、然る後に能く絲と為る。性は漸々教訓を受くるを待ちて、然る後に能く善と為る。善は、教訓之を此くの如くならしむるなり。質樸の能く到達する所に非ず。故に性と謂わず。性は、當に此の名を知るべし。待つ所無くして興起するは、自ら本來有る所なり。假如善は自ら本來有るとせば、則ち教訓は已に性に非ず。故に米は粟より出でて、而して粟は以て米と謂うべからず。玉は璞より出でて、而して璞は以て玉と謂うべからず。善は性より出でて、而して性は以て善と謂うべからず。此の類の比方は物上に於て皆此くの如しと認められて、性上に於て然らずと認むるは、何の故に類に通ぜざるや。卵の性は未だ雛を做出する能わず、繭の性は未だ絲を做出する能わず、麻の性は未だ縷と為る能わず、粟の性は未だ米と為る能わず。『春秋』は物の理を分別して、以て其の名を端正し、物に起名するに必ず各々其の真に因る。其の義を真にし、其の情を真にして、乃ち以て名と為す。「霣石」と稱するは、則ち「五」を後に置き、「退飛」とは、則ち「六」を前に置く。此の等は皆其の真なり。聖人は話に對して、一點の苟且無き而已。性は、天質の樸なり。善は、王教の化なり。其の質無くんば、則ち王教は化する能わず。其の王教無くんば、則ち質樸は善なる能わず。質有りて善を性に歸せざるは、其の名正當ならず。故に接受せず。

諸侯第三十七

諸侯第三十七

生育養長,成而更生,終而復始其事,所以利活民者無已,天雖不言,其欲贍足之意可見也。古之聖人見天意之厚於人也,故南面而君天下,必以兼利之,為其遠者,目不能見,其隱者,耳不能聞,於是千里之外,割地分民,而建國立君,使為天子視所不見,聽所不聞,朝者召而聞之也,諸侯之為言猶諸候也。

生育養長して、成就して復た更生し、終結して復た開始す。其の事は以て民を養活するに便利して停止無し。天は言わずと雖も、其の贍足せんと欲するの意は見るべし。古代の聖人は天意の人に厚待するを見て、故に南に面して天下に君臨して、必ず兼ねて之を利す。遠きは眼の見る能わざる、隱るるは耳の聽く能わざるに因りて、是に於て千里の外に、地を割り民を分かち、國を建て君を設立して、之を天子に替わりて見る能わざる所を看、聽く能わざる所を聽かしむ。朝し來るは召して聽聞す。諸侯此の詞は、猶お諸候(各方に守候す)のごとし。

五行對第三十八

五行對第三十八

河間獻王問溫城董君曰:“孝經曰:‘夫孝,天之經,地之義。’何謂也?”對曰:“天有五行:木、火、土、金、水是也。木生火,火生土,土生金、金生水。水為冬,金為秋,土為季夏,火為夏,木為春。春主生,夏主長,季夏主養,秋主收,冬主藏,藏,冬之所成也。是故父之所生,其子長之;父之所長,其子養之;父之所養,其子成之。諸父所為,其子皆奉承而續行之,不敢不致如父之意,盡為人之道也。故五行者,五行也。由此觀之,父授之,子受之,乃天之道也。故曰:夫孝者,天之經也。此之謂也。”王曰:“善哉!天經既得聞之矣,願聞地之義。”對曰:“地出雲為雨,起氣為風,風雨者,地之所為,地不敢有其功名,必上之於天,命若從天氣者,故曰天風天雨也,莫曰地風地雨也;勤勞在地,名一歸於天,非至有義,其庸能行此;故下事上,如地事天也,可謂大忠矣。土者,火之子也,五行莫貴於土,土之於四時,無所命者,不與火分功名;木名春,火名夏,金名秋,水名冬,忠臣之義,孝子之行取之土;土者,五行最貴者也,其義不可以加矣。五聲莫貴於宮,五味莫美於甘,五色莫盛於黃,此謂孝者地之義也。”王曰:“善哉!”

河間獻王は温城董君に問うて曰く、「『孝經』に曰く、『孝は、天の經、地の義なり。』是れ何の意ぞや。」對答して曰く、「天に五行有り。木・火・土・金・水即ち是れ。木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生ず。水は冬と為り、金は秋と為り、土は季夏と為り、火は夏と為り、木は春と為る。春は生を主とし、夏は長を主とし、季夏は養を主とし、秋は收を主とし、冬は藏を主とす。藏は、冬の成就する所なり。故に父の生ずる所は、子之を長養し、父の長ずる所は、子之を奉養し、父の養う所は、子之を成就す。凡そ父の做す所は、子皆奉承して繼續實行して、敢えて父の意に如く做到せざらず。此れ人と為るの道を盡くすなり。故に五行は、即ち五種の行為なり。此れより觀れば、父は授予し子は接受するは、乃ち天の道なり。故に曰く、孝は、天の經なり。此れを謂うなり。」王曰く、「好し。天經已に聽聞を得たり。願わくば再び地の義を聽かん。」對答して曰く、「地は雲を出でて雨を成し、氣を起して風を成す。風雨は、地の做す所なり。地は敢えて其の功名を據有せず、必ず之を天に上歸す。命令は猶お天氣に順從するが如く、故に天風天雨と曰いて、地風地雨と曰う無きなり。勤勞は地に在りて、名は一概に天に歸す。至り義有るに非ざれば、誰か能く此れを實行せん。故に下に在るは上に事うること、地の天に事うるが如く、以て大忠と稱すべし。土は、火の子なり。五行は土より貴き莫し。土は四時に對して、命名せらるる無く、火と功名を分かたず。木は名づけて春、火は名づけて夏、金は名づけて秋、水は名づけて冬。忠臣の義・孝子の行は、之を土より取る。土は、五行の最も貴き。其の義は再び加うべからず。五聲は宮より貴き無く、五味は甘より美しき無く、五色は黃より盛なる無し。此れ即ち所謂孝は地の義なり。」王曰く、「好し。」

第三十九[亡]

第三十九[亡]

第四十[亡]

第四十[亡]

巻第十一

為人者天第四十一

為人者天第四十一

為生不能為人,為人者,天也,人之人本於天,天亦人之曾祖父也,此人之所以乃上類天也。人之形體,化天數而成;人之血氣,化天志而仁;人之德行,化天理而義;人之好惡,化天之暖清;人之喜怒,化天之寒暑;人之受命,化天之四時;人生有喜怒哀樂之答,春秋冬夏之類也。喜,春之答也,怒,秋之答也,樂,夏之答也,哀,冬之答也,天之副在乎人,人之情性有由天者矣,故曰受,由天之號也。為人主也,道莫明省身之天,如天出之也,使其出也,答天之出四時,而必忠其受也,則堯舜之治無以加,是可生可殺而不可使為亂,故曰:非道不行,非法不言。此之謂也。

生を為すは人を成就するを得ず。人を成就するは、天なり。人の根本は天に在り。天は即ち人の曾祖父なり。此れ人の上りて天に類似する所以の故なり。人の形體は、天數を化して成り、人の血氣は、天志を化して仁と為り、人の德行は、天理を化して義と為り、人の好惡は、天の暖と清とを化し、人の喜怒は、天の寒暑を化し、人の命を受くるは、天の四時を化す。人生に喜怒哀樂の應答有るは、春夏秋冬此の類なり。喜は、春の應答なり。怒は、秋の應答なり。樂は、夏の應答なり。哀は、冬の應答なり。天の副本は人に在り、人の情性は天より來る所有るが故に、「受」と謂う。天より來るの名號なり。人民の君と為るは、道は自ら稟けたる所の天を省察するより明白なる莫し。天の之を發出するが如し。之を發出せしむるに、天の四時を發出するに應答して、而して必ず承受する所に忠實ならば、則ち堯舜の治理は加うる能くする無し。此の人は生かすべく殺すべく、然るに之を作亂せしむべからず。故に曰く、道に非ざれば則ち實行せず、法に非ざれば則ち言わず。此れを謂うなり。

傳曰:唯天子受命於天,天下受命於天子,一國則受命於君。君命順,則民有順命;君命逆,則民有逆命;故曰:一人有慶,兆民賴之。此之謂也。

傳曰く、唯だ天子は天より天命を承受し、天下は天子より命を承受し、一國は則ち君より命を承受す。君の命順なれば、則ち民に順の命有り。君の命逆なれば、則ち民に逆の命有り。故に曰く、一人に善慶有れば、兆民之に依賴す。此れを謂うなり。

傳曰:政有三端:父子不親,則致其愛慈;大臣不和,則敬順其禮;百姓不安,則力其孝弟。孝弟者,所以安百姓也,力者,勉行之,身以化之。天地之數,不能獨以寒暑成歲,必有春夏秋冬;聖人之道,不能獨以威勢成政,必有教化。故曰:先之以博愛,教以仁也;難得者,君子不貴,教以義也;雖天子必有尊也,教以孝也;必有先也,教以弟也。此威勢之不足獨恃,而教化之功不大乎!

傳曰く、政に三端有り。父子親しまざれば、則ち愛慈を致上す。大臣和せざれば、則ち其の禮を敬順す。百姓安んぜざれば、則ち孝悌に致力す。孝悌は、以て百姓を安定するなり。力は、勉力實行して、自身を以て教化す。天地の數は、單に寒暑に靠りて一歲を成就する能わず。必ず春夏秋冬有り。聖人の道は、單に威勢に靠りて政を成就する能わず。必ず教化和有り。故に曰く、先ず博愛を以て誘導するは、之を仁に教うなり。難得の物は君子は看重せざるは、之を義に教うなり。天子と雖も亦必ず尊敬する所有るは、之を孝に教うなり。必ず自らに先んずる者有るは、之を悌に教うなり。此の威勢は獨り倚仗するに足らずして、而して教化の功は大ならざらんや。

傳曰:天生之,地載之,聖人教之。君者,民之心也,民者,君之體也;心之所好,體必安之;君之所好,民必從之。故君民者,貴孝弟而好禮義,重仁廉而輕財利,躬親職此於上而萬民聽,生善於下矣。故曰:先王見教之可以化民也。此之謂也。

傳曰く、天は之を生じ、地は之を承載し、聖人は之を教化す。君は、民の心なり。民は、君の體なり。心の喜好する所は、體必ず之に安んず。君の喜好する所は、民必ず聽從す。故に民に君臨する者は、孝悌を看重して禮義を喜好し、仁廉を看重して財利を看輕し、上に在りて自ら此の等を職守すれば、萬民聽從して、善は則ち下に生まれ出づ。故に曰く、先王は教化の以て民を化すべきを見たり。此れを謂うなり。

衣服容貌者,所以說目也,聲音應對者,所以說耳也,好惡去就者,所以說心也。故君子衣服中而容貌恭,則目說矣;言理應對遜,則耳說矣;好仁厚而惡淺薄,就善人而遠僻鄙,則心說矣。故曰:行思可樂,容止可觀。此之謂也。

衣服容貌は、以て眼を悅ばしむるなり。聲音應對は、以て耳を悅ばしむるなり。好惡去就は、以て心を悅ばしむるなり。故に君子は衣服適中にして容貌恭敬なれば、則ち眼は喜悅す。說話合理にして應對謙遜なれば、則ち耳は喜悅す。仁厚を喜好して淺薄を厭惡し、善人に親近して偏邪鄙陋を遠離せば、則ち心は喜悅す。故に曰く、行事思慮は以て人を樂しましむべく、容止は以て人に觀を供すべし。此れを謂うなり。

五行之義第四十二

五行之義第四十二

天有五行:一曰木,二曰火,三曰土,四曰金,五曰水。木,五行之始也,水,五行之終也,土,五行之中也,此其天次之序也。木生火,火生土,土生金,金生水,水生木,此其父子也。木居左,金居右,火居前,水居後,土居中央,此其父子之序,相受而布。是故木受水而火受木,土受火,金受土,水受金也。諸授之者,皆其父也;受之者,皆其子也;常因其父,以使其子,天之道也。是故木已生而火養之,金已死而水藏之,火樂木而養以陽,水克金而喪以陰,土之事火竭其忠。故五行者,乃孝子忠臣之行也。五行之為言也,猶五行歟?是故以得辭也。聖人知之,故多其愛而少嚴,厚養生而謹送終,就天之制也。以子而迎成養,如火之樂木也;喪父,如水之克金也;事君,若土之敬天也;可謂有行人矣。五行之隨,各如其序;五行之官,各致其能。是故木居東方而主春氣,火居南方而主夏氣,金居西方而主秋氣,水居北方而主冬氣;是故木主生而金主殺,火主暑而水主寒,使人必以其序,官人必以其能,天之數也。土居中央,為之天潤,土者,天之股肱也,其德茂美,不可名以一時之事,故五行而四時者,土兼之也,金木水火雖各職,不因土,方不立,若酸鹹辛苦之不因甘肥不能成味也。甘者,五味之本也,土者,五行之主也,五行之主土氣也,猶五味之有甘肥也,不得不成。是故聖人之行,莫貴於忠,土德之謂也。人官之大者,不名所職,相其是矣;天官之大者,不名所生,土是矣。

天に五行有り。一を木と曰い、二を火と曰い、三を土と曰い、四を金と曰い、五を水と曰う。木は五行の開始、水は五行の終結、土は五行の中央なり。此れ天の排定する次序なり。木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず。此れ其の父子なり。木は左に居り、金は右に居り、火は前に居り、水は後に居り、土は中央に居る。此れ父子の次序、相い授受して分布す。故に木は水を接受して火は木を接受し、土は火を接受し、金は土を接受し、水は金を接受す。凡そ授予するは、皆父なり。接受するは、皆子なり。常に父に因りて子を使喚するは、天の道なり。故に木已に生出して火は之を養い、金已に死して水は之を藏す。火は木を喜愛して陽を用いて養い、水は金を剋して陰を用いて喪を送り、土は火に事奉して其の忠を竭盡す。故に五行は、乃ち孝子忠臣の行なり。五行此の詞は、五種の行為に似たらずや。故に此の文辭を得。聖人は此れを知りて、故に其の愛を多くして其の嚴を少くし、養生に厚くして終を送るに謹慎なり。是れ天の制度に趨就す。子と為りて迎接・成就・奉養するは、火の木を喜愛するが如し。父に喪するは、水の金を剋するが如し。君に事奉するは、土の天を敬するが如し。以て行有る人と稱すべし。五行の隨從は、各々其の次序に如く、五行の官職は、各々其の才能を盡くす。故に木は東方に居りて春氣を主管し、火は南方に居りて夏氣を主管し、金は西方に居りて秋氣を主管し、水は北方に居りて冬氣を主管す。故に木は生を主管して金は殺を主管し、火は暑を主管して水は寒を主管す。人を必ず其の次序に按し、官を任ずるに必ず其の才能に按ずるは、天の數なり。土は中央に居りて、天の潤澤を為す。土は天の股肱なり。其の德茂美にして、以て一時の事を拿りて命名すべからず。故に五行にして而も四時のみ有るは、土は之を兼有するなり。金・木・水・火は各々職事有ると雖も、土を憑藉せざれば、方位は立つ能わず。猶お酸鹹辛苦は甘肥を憑藉せざれば味道を成就する能わざるが如し。甘は五味の本、土は五行の主なり。五行の主は土氣なり。猶お五味に甘肥有りて、成就せざるを得ざるがごとし。故に聖人の行は、忠より貴き莫し。土德を謂うなり。人官の裏の大なるは、其の職掌する所に專名を與えず。相は即ち此くの如し。天官の裏の大なるは、其の生ずる所に專名を與えず。土は即ち此くの如し。

陽尊陰卑第四十三

陽尊陰卑第四十三

天之大數畢於十旬,旬天地之間,十而畢反,旬生長之功,十而畢成,十者,天數之所止也。古之聖人因天數之所止以為數,紀十如更始,民世世傳之,而不知省其所起;知省其所起,則見天數之所始;見天數之所始,則知貴賤逆順所在;知貴賤逆順所在,則天地之情著,聖人之寶出矣。是故陽氣以正月始出於地,生育長養於上,至其功必成也,而積十月;人亦十月而生,合於天數也。是故天道十月而成,人亦十月而成,合於天道也。故陽氣出於東北,入於西北,於發孟春,畢於孟冬,而物莫不應是;陽始出,物亦始出;陽方盛,物亦方盛;陽初衰,物亦初衰;物隨陽而出入,數隨陽而終始;三王之正,隨陽而更起;以此見之,貴陽而賤陰也。故數日者,據晝而不據夜,數歲者,據陽而不據陰,陰不得達之義。是故春秋之於昏禮也,達宋公而不達紀侯之母,紀侯之母宜稱而不達,宋公不宜稱而達,達陽而不達陰,以天道制之也。丈夫雖賤皆為陽,婦人雖貴皆為陰;陰之中亦相為陰,陽之中亦相為陽,諸在上者皆為其下陽,諸在下者皆為其上陰,陰猶沈也,何名何有?皆幷一於陽,昌力而辭功,故出雲起雨,必令從之下,命之曰天雨,不敢有其所出,上善而下惡,惡者受之,善者不受,土若地,義之至也。是故春秋君不名惡,臣不名善,善皆歸於君,惡皆歸於臣。臣之義比於地,故為人臣者,視地之事天也;為人子者,視土之事火也,雖居中央,亦歲七十二日之王,傅於火,以調和養長,然而弗名者,皆幷功於火,火得以盛,不敢與父分功,美孝之至也。是故孝子之行,忠臣之義,皆法於地也,地事天也,猶下之事上也,地,天之合也,物無合會之義。是故推天地之精,鉉陰陽之類,以別順逆之理,安所加以不在?

天の大數は十旬に完畢す。旬は天地の間に在りて、十に到れば完畢して返回し、旬の生長の功は、十に到れば完畢して成就す。十は、天數の停止する所なり。古代の聖人は天數の停止する所に因りて以て數と為し、紀は十に到るに猶お重新に開始するが如し。民は世世代代傳流して、然るに省察して何より興起するを知らず。省察して何より興起するを知れば、則ち天數の何より始まるを見。天數の何より始まるを見れば、則ち貴賤逆順の所在を知る。貴賤逆順の所在を知れば、則ち天地の情顯明にして、聖人の寶は出づ。故に陽氣は正月に於て地裏より始めて出でて、上に於て生育長養し、其の功一定成就するに到るに、十個月を積滿す。人も亦十月にして生まる。天數に合す。故に天道は十月にして成就し、人も亦十月にして成就す。天道に合す。故に陽氣は東北より出でて、西北に入り、孟春より發端して、孟冬に到りて完畢して、物此れに響應せざる無し。陽始めて出づれば、物も亦始めて出づ。陽正盛なれば、物も亦正盛なり。陽初衰えば、物も亦初衰う。物は陽に隨いて出入し、數は陽に隨いて終始す。三王の正朔は、陽に隨いて更迭して興起す。此れより見れば、陽を貴しとして陰を賤しとす。故に日子を數うるに、晝に依據して夜に依據せず、年歲を數うるに、陽に依據して陰に依據せず。陰は通達するを得ざるの義なり。故に『春秋』は婚禮に對して、宋公を通達して紀侯の母を通達せず。紀侯の母は當に稱說せらるべきに然るに通達せず、宋公は當に稱說せらるべからざるに然るに通達す。是れ陽を通達して陰を通達せず、天道を用いて制約す。丈夫は賤と雖も皆陽、婦人は貴と雖も皆陰。陰の中にも亦相い陰と為り、陽の中にも亦相い陽と為る。凡そ上に在るは、皆其の下の陽なり。凡そ下に在るは、皆其の上の陰なり。陰は沈伏に似たり。何の名有らん、何の功有らん。皆一併して陽に歸して、其の力を昌盛して其の功を辭讓す。故に雲を出し雨を起すに、必ず之を下より來らしめて、天雨と命名して、敢えて出づる所を據有せず。上は善にして下は惡。惡は受けて、善は受けず。土は地に如く、義の極致なり。故に『春秋』は君惡を稱せず、臣善を稱せず。善は皆君に歸し、惡は皆臣に歸す。臣の義は地に比照す。故に人臣と為るは、地の如何に天に事奉するを看、人子と為るは、土の如何に火に事奉するを看る。土は中央に居ると雖も、亦一年七十二日の王を做して、火に附屬して、以て養長を調和す。然れども之に專名を與えずして、皆功を一併にして火に給う。火は此れに因りて盛なるを得て、敢えて父と功を分かたず。是れ美しき孝の極致なり。故に孝子の行・忠臣の義は、皆地に取法す。地の天に事奉するは、猶お下に在るの上に事奉するがごとし。地は天の合なり。物會合するの義無し。故に天地の精を推求し、陰陽此の類を統貫して、以て順逆の理を分別すれば、何處に加え入れて其の中に在らざらん。

在上下,在大小,在強弱,在賢不肖,在善惡,惡之屬盡為陰,善之屬盡為陽,陽為德,陰為刑,刑反德而順於德,亦權之類也,雖曰權,皆在權成。是故陽行於順,陰行於逆;逆行而順,順行而逆者,陰也。是故天以陰為權,以陽為經;陽出而南,陰出而北;經用於盛,權用於末;以此見天之顯經隱權,前德而後刑也。故曰:陽,天之德,陰,天之刑也,陽氣暖而陰氣寒,陽氣予而陰氣奪,陽氣仁而陰氣戾,陽氣寬而陰氣急,陽氣愛而陰氣惡,陽氣生而陰氣殺。是故陽常居實位而行於盛,陰常居空位而行於末,天之好仁而近,惡戾之變而遠,大德而小刑之意也,先經而後權,貴陽而賤陰也。故陰,夏入居下,不得任歲事,冬出居上,置之空處也;養長之時伏於下,遠去之,弗使得為陽也;無事之時,起之空處,使之備次陳守閉塞也;此皆天之近陽而遠陰,大德而小刑也。是故人主近天之所近,遠天之所遠,大天之所大,小天之所小。是故天數右陽而不右陰,務德而不務刑;刑之不可任以成世也,猶陰之不可任以成歲也;為政而任刑,謂之逆天,非王道也。

上下に在り、大小に在り、強弱に在り、賢不肖に在り、善惡に在り。惡此の屬は全て陰、善此の屬は全て陽。陽は德と為り、陰は刑と為る。刑は德に違反して而も德に順從す。亦權此の類なり。權と謂うと雖も、皆權の上に於て成就す。故に陽は順に於て行い、陰は逆に於て行う。逆行して順し、順行して逆するは、陰なり。故に天は陰を以て權と為し、陽を以て經と為す。陽は出でて南に向い、陰は出でて北に向う。經は盛時に用い、權は末時に用う。此れより見れば、天は經を顯揚して權を隱藏して、德を前に放ち刑を後に放つ。故に曰く、陽は天の德、陰は天の刑なり。陽氣は暖にして陰氣は寒、陽氣は與えて陰氣は奪い、陽氣は仁にして陰氣は暴戾、陽氣は寬にして陰氣は急、陽氣は愛にして陰氣は惡、陽氣は生にして陰氣は殺。故に陽は常に實位に居りて盛に於て運行し、陰は常に空位に居りて末に於て運行す。天は仁を喜好して之に親近し、暴戾の變を厭惡して之を疎遠す。是れ大德にして小刑の意なり。先ず經して後に権し、陽を貴しとして陰を賤しとす。故に陰は、夏に於て入りて下に居りて、一歲の事を擔當するを得ず、冬に於て出でて上に居りて、空處に安置せらる。養長の時は下に伏して、遠く之を離れて、之を陽の事を做す能くせしめず。事無きの時は、之を空處より興起して、之を次序に按じて陳列して閉塞を守らしむ。此の等は皆天の陽に親近して陰を疎遠にして、大德にして小刑なり。故に人主は天の親近する所に親近し、天の疎遠する所を疎遠にし、天の大とする所を大とし、天の小とする所を小とす。故に天數は陽を佑助して陰を佑助せず、德を務求して刑を務求せず。刑は以て世代を成就するに擔當すべからず。猶お陰の以て一歲を成就するに擔當すべからざるが如し。政を為して刑を任用するは、天に逆と謂う。王道に非ず。

王道通三第四十四

王道通三第四十四

古之造文者,三畫而連其中,謂之王;三畫者,天地與人也,而連其中者,通其道也,取天地與人之中以為貫,而參通之,非王者庸能當是。是故王者唯天之施,施其時而成之,法其命而循之諸人,法其數而以起事,治其道而以出法,治其志而歸之於仁。仁之美者在於天,天仁也,天覆育萬物,既化而生之,有養而成之,事功無已,終而復始,凡舉歸之以奉人,察於天之意,無窮極之仁也。人之受命於天也,取仁於天而仁也,是故人之受命天之尊,父兄子弟之親,有忠信慈惠之心,有禮義廉讓之行,有是非逆順之治,文理燦然而厚,知廣大有而博,唯人道為可以參天。天常以愛利為意,以養長為事,春秋冬夏皆其用也;王者亦常以愛利天下為意,以安樂一世為事,好惡喜怒而備用也;然而主之好惡喜怒,乃天之春夏秋冬也,其俱暖清寒暑,而以變化成功也;天出此物者,時則歲美,不時則歲惡;人主出此四者,義則世治,不義則世亂,是故治世與美歲同數,亂世與惡歲同數,以此見人理之副天道也。天有寒有暑,夫喜怒哀樂之發,與清暖寒暑其實一貫也,喜氣為暖而當春,怒氣為清而當秋,樂氣為太陽而當夏,哀氣為太陰而當冬,四氣者,天與人所同有也,非人所能蓄也,故可節而不可止也,節之而順,止之而亂。人生於天,而取化於天,喜氣取諸春,樂氣取諸夏,怒氣取諸秋,哀氣取諸冬,四氣之心也。四肢之答各有處,如四時;寒暑不可移,若肢體;肢體移易其處,謂之壬人;寒暑移易其處,謂之敗歲;喜怒移易其處,謂之亂世。明王正喜以當春,正怒以當秋,正樂以當夏,正哀以當冬,上下法此,以取天之道。春氣愛,秋氣嚴,夏氣樂,冬氣哀;愛氣以生物,嚴氣以成功,樂氣以養生,哀氣以喪終,天之志也。

古代字を造る者は、三畫にして其の中間を連ねて、王と謂う。三畫は、天・地と人にして、其の中間を連ねるは、其の道を貫通す。天地と人の中を取りて以て貫穿して、而して參合貫通するは、王者に非ざれば誰か能く此れを擔當せん。故に王者は唯だ天の施與を施行す。其の時を施行して成就し、其の命に取法して人の身に順用し、其の數に取法して事を興起し、其の道を治理して法を制定し、其の志を治理して仁に歸す。仁の美は天に在り。天は即ち仁なり。天は万物を覆育して、既に之を化生して、又之を養育して成就して、事功停止無く、終結して復た開始す。凡そ舉動する所は皆歸來して人に奉給す。天の意を審察するに、窮極無きの仁なり。人は天より命を受け、天より仁を取りて仁と為る。故に人の天に命を受くるの尊に、父兄子弟の親有り、忠信慈惠の心有り、禮義廉讓の行有り、是非逆順の治理有り。文理燦爛にして厚く、知廣大にして博し。唯だ人道は以て天に參配すべし。天は常に愛利を以て意と為し、養長を以て事と為す。春夏秋冬は皆其の用なり。王者も亦常に愛利天下を以て意と為し、安樂一世を以て事と為す。好惡喜怒は皆之を備用す。然れども主の好惡喜怒は、即ち天の春夏秋冬なり。皆暖清寒暑を具備して、而して以て成功を變化す。天は此の物を發出して、時に按ずれば則ち歲美にして、時に按ぜざれば則ち歲惡なり。人主は此の四者を發出して、義に合すれば則ち世治め、義に合せざれば則ち世亂る。故に治世と美歲とは數目相同じく、亂世と惡歲とは數目相同じ。此れより見れば、人理は天道の副本なり。天に寒有り暑有り。喜怒哀樂の發出は、清暖寒暑と其の實一貫なり。喜氣は暖にして春に當り、怒氣は清にして秋に當り、樂氣は太陽にして夏に當り、哀氣は太陰にして冬に當る。四氣は、天と人と共同に有する所、人の蓄積する能くする所に非ず。故に以て節制すべくして止住すべからず。之を節制すれば則ち順し、之を止住すれば則ち亂る。人は天に生まれて、而して天より化を取る。喜氣は之を春より取り、樂氣は之を夏より取り、怒氣は之を秋より取り、哀氣は之を冬より取る。是れ四氣の心なり。四肢の應答は各々處所有り。四時に如し。寒暑は移易すべからず。肢體に如し。肢體處所を移易するは、常を失うの人と謂う。寒暑處所を移易するは、敗歲と謂う。喜怒處所を移易するは、亂世と謂う。明王は喜を端正して春に當て、怒を端正して秋に當て、樂を端正して夏に當て、哀を端正して冬に當て、上下此れに取法して、以て天の道を取る。春氣は愛、秋氣は嚴、夏氣は樂、冬氣は哀。愛氣は以て物を生じ、嚴氣は以て功を成し、樂氣は以て生を養い、哀氣は以て終に喪す。是れ天の志なり。

是故春氣暖者,天之所以愛而生之,秋氣清者,天之所以嚴以成之,夏氣溫者,天之所以樂而養之,冬氣寒者,天之所以哀而藏之;春主生,夏主養,秋主收,冬主藏;生溉其樂以養,死溉其哀以藏,為人子者也。故四時之行,父子之道也;天地之志,君臣之義也;陰陽之理,聖人之法也。陰,刑氣也,陽,德氣也,陰始於秋,陽始於春,春之為言猶偆偆也,秋之為言猶湫湫也,偆偆者,喜樂之貌也,湫湫者,憂悲之狀也。是故春喜、夏樂、秋憂、冬悲,悲死而樂生,以夏養春,以冬藏秋,大人之志也。是故先愛而後嚴,樂生而哀終,天之當也;而人資諸天,天固有此,然而無所之,如其身而已矣。人主立於生殺之位,與天共持變化之勢,物莫不應天化,天地之化如四時,所好之風出,則為暖氣,而有生於俗;所惡之風出,則為清氣,而有殺於俗;喜則為暑氣,而有養長也;怒則為寒氣,而有閉塞也。人主以好惡喜怒變習俗,而天以暖清寒暑化草木,喜怒時而當,則歲美,不時而妄,則歲惡,天地人主一也。然則人主之好惡喜怒,乃天之暖清寒暑也,不可不審其處而出也,當暑而寒,當寒而暑,必為惡歲矣;人主當喜而怒,當怒而喜,必為亂世矣。是故人主之大守在於謹藏而禁內,使好惡喜怒,必當義乃出,若暖清寒暑之必當其時乃發也,人主掌此而無失,使乃好惡喜怒未嘗差也,如春秋冬夏之未嘗過也,可謂參天矣。深藏此四者而勿使妄發,可謂天矣。

故に春氣暖なりは、天の以て愛して生育する所以なり。秋氣清なりは、天の以て嚴にして成就する所以なり。夏氣溫なりは、天の以て樂しんで養育する所以なり。冬氣寒なりは、天の以て哀んで收藏する所以なり。春は生を主とし、夏は養を主とし、秋は收を主とし、冬は藏を主とす。生ずれば則ち其の樂を灌注して養い、死すれば則ち其の哀を灌注して藏す。是れ子と為るなり。故に四時の運行は、父子の道なり。天地の志は、君臣の義なり。陰陽の理は、聖人の法なり。陰は刑氣、陽は德氣なり。陰は秋に始まり、陽は春に始まる。春此の字は猶お「偦偦」、秋此の字は猶お「湫湫」。偦偦は喜は喜樂の樣子、湫湫は憂悲の情狀なり。故に春は喜び、夏は樂しみ、秋は憂い、冬は悲しむ。死の為に悲しみ、生の為に樂しみ、夏を用いて春を養い、冬を用いて秋を藏するは、大人の志なり。故に先ず愛して後に嚴にして、生に樂しんで終に哀むは、天の當にする所、人は天より資を取る。天は固より此の等有れども、然れども別の去處無く、其の自身に如く而已。人主は生殺の位子に立ちて、天と共同して變化の勢を持守す。物天化に響應せざる無し。天地の化は四時に如し。喜好する所の風出づれば、則ち暖氣を成して、習俗の裏に生有り。厭惡する所の風出する所の風出づれば、則ち清氣を成して、習俗の裏に殺有り。喜ぶれば則ち暑氣を成して、養長有り。怒るれば則ち寒氣を成して、閉塞有り。人主は好惡喜怒を以て習俗を改變して、而して天は暖清寒暑を以て草木を化す。喜怒時に按じて得當なれば、則ち歲美にして、時に按ぜず妄發すれば、則ち歲惡なり。天地と人主とは一事なり。然らば則ち人主の好惡喜怒は、即ち天の暖清寒暑なり。處所を審察して再び發出せざるべからず。暑に當るに然るに寒し、寒に當るに然るに暑しは、必ず惡歲を成す。人主の喜ぶに當るに然るに怒り、怒るに當るに然るに喜ぶは、必ず亂世を成す。故に人主の最大の守持は、謹慎して深藏して內裏の妄發を禁止するに在りて、好惡喜怒を必ず義に當りて乃ち發出せしめ、暖清寒暑の必ず時に當りて乃ち發するが如くす。人主此れを執掌して過失無くして、好惡喜怒を未だ差錯せざらしめ、春夏秋冬の未だ越過せざるが如くせば、以て天に參配と稱すべし。深深に此の四者を藏住して妄發せしめざれば、以て天と稱すべし。

天容第四十五

天容第四十五

天之道,有序而時,有度而節,變而有常,反而有相奉,微而至遠,踔而致精,一而少積蓄,廣而實,虛而盈。聖人視天而行,是故其禁而審好惡喜怒之處也,欲合諸天之非其時不出暖清寒暑也;其告之以政令而化風之清微也,欲合諸天之顛倒其一而以成歲也;其羞淺末華虛而貴敦厚忠信也,欲合諸天之默然不言而功德積成也;其不阿黨偏私而美泛愛兼利也,欲合諸天之所以成物者少霜而多露也;其內自省以是而外顯,不可以不時,人主有喜怒,不可以不時,可亦為時,時亦為義,喜怒以類合,其理一也,故義不義者,時之合類也,而喜怒乃寒暑之彆氣也。

天の道は、序有りて時有り、度有りて節有り、變化して常規有り、返回して相い奉持し、微細にして遠に到達し、跨越して精に達致し、專一にして蓄積少く、廣大にして充實し、虛にして盈滿す。聖人は天を看て行動す。故に其の禁制して好惡喜怒の處所を審察するは、天に合せんと欲するなり。其の時に非ざれば則ち暖清寒暑を發出せず。其の政令を以て告諭して風化を清微ならしむるは、天に合せんと欲するなり。其の中の一を顛倒して一歲を成就す。其の淺末華虛を以て羞と為して敦厚忠信を看重するは、天に合せんと欲するなり。默然として言わずして功德積成す。其の阿附偏私せずして泛愛兼利を贊美するは、天の以て物を成就するに合せんと欲するなり。霜少くして露多し。其の內裏自ら省察して此れに因りて外面顯現す。時に按ぜざるべからず。人主に喜怒有れば、時に按ぜざるべからず。可なり即ち時、時なり即ち義なり。喜怒類に按じて相合すれば、其の理は一事なり。故に義と不義とは、時の合類、而して喜怒は乃ち寒暑の別氣なり。

天辨在人第四十六

天辨在人第四十六

難者曰:“陰陽之會,一歲再遇,遇於南方者以中夏,遇於北方者以中冬,冬,喪物之氣也,則其會於是何?”“如金木水火各奉其主,以從陰陽,相與一力而幷功,其實非獨陰陽也,然而陰陽因之以起,助其所主。故少陽因木而起,助春之生也;太陽因火而起,助夏之養也;少陰因金而起,助秋之成也;太陰因水而起,助冬之藏也。陰雖與水幷氣而合冬,其實不同,故水獨有喪而陰不與焉,是以陰陽會於中冬者,非其喪也。春,愛志也,夏,樂志也,秋,嚴志也,冬,哀志也,故愛而有嚴,樂而有哀,四時之則也。喜怒之禍,哀樂之義,不獨在人,亦在於天;而春夏之陽,秋冬之陰,不獨在天,亦在於人。人無春氣,何以博愛而容眾;人無秋氣,何以立嚴而成功;人無夏氣,何以盛養而樂生;人無冬氣,何以哀死而恤喪。天無喜氣,亦何以暖而春生育;天無怒氣,亦何以清而冬殺就;天無樂氣,亦何以疏陽而夏養長;天無哀氣,亦何以瞠陰而冬閉藏。故曰:天乃有喜怒哀樂之行,人亦有春秋冬夏之氣者,合類之謂也。匹夫雖賤,而可以見德刑之用矣。是故陰陽之行,終各六月,遠近同度,而所在異處。陰之行,春居東方,秋居西方,夏居空右,冬居空左,夏居空下,冬居空上,此陰之常處也;陽之行,春居上,冬居下,此陽之常處也。陰終歲四移,而陽常居實,非親陽而疏陰,任德而遠刑與!天之志,常置陰空處,稍取之以為助,故刑者,德之輔,陰者,陽之助也,陽者,歲之主也,天下之昆蟲隨陽而出入,天下之草木隨陽而生落,天下之三王隨陽而改正,天下之尊卑隨陽而序位,幼者居陽之所少,老者居陽之所老,貴者居陽之所盛,賤者居陽之所衰,藏者言其不得當陽,不當陽者,臣子是也,當陽者,君父是也。故人主南面以陽為位也,陽貴而陰賤,天之制也。

問難する人曰く、「陰陽の會合は、一年兩次相遇す。南方に於て相遇るは仲夏に在り、北方に於て相遇るは仲冬に在り。冬は物に喪するの氣なり。然らば則ち彼に於て會合するは何の故ぞや。」金木水火各々其の主を奉持して、以て陰陽に隨從して、相い合力して功を並すが如く、其の實單に陰陽のみに非ず。然れども陰陽は彼等に憑藉して興起して、其の主管する所を輔助す。故に少陽は木に憑藉して興起して、春の生を輔助し、太陽は火に憑藉して興起して、夏の養を輔助し、少陰は金に憑藉して興起して、秋の成を輔助し、太陰は水に憑藉して興起して、冬の藏を輔助す。陰は水と氣を並べて冬に合すると雖も、其の實同じからず。故に水は獨り喪有りて陰は參與せず。故に陰陽は仲冬に會合して、其の喪に非ず。春は愛の志、夏は樂の志、秋は嚴の志、冬は哀の志なり。故に愛して嚴有り、樂しんで哀有るは、四時の法則なり。喜怒の禍・哀樂の義は、單に人に在るのみならず、亦天に在り。而して春夏の陽・秋冬の陰は、單に天に在るのみならず、亦人に在り。人は春氣無くんば、何を憑りて博愛して衆人を容納せん。人は秋氣無くんば、何を憑りて嚴を立てて功を成せん。人は夏氣無くんば、何を憑りて養を盛にして生を樂しまん。人は冬氣無くんば、何を憑りて死を哀んで喪事を體恤せん。天は喜氣無くんば、又何を憑りて暖にして春に生育せん。天は怒氣無くんば、又何を憑りて清にして秋に殺收せん。天は樂氣無くんば、又何を憑りて陽を疏通して夏に養長せん。天は哀氣無くんば、又何を憑りて陰を凝滯せしめて冬に閉藏せん。故に曰く、天は乃ち喜怒哀樂の運行有り、人も亦春秋冬夏の氣有り。合類を謂うなり。匹夫は賤と雖も、亦以て德と刑の用處を見るべし。故に陰陽の運行は、終了各々六個月、遠近度數相同じくして、而して所在處所同じからず。陰の運行は、春は東方に居り、秋は西方に居り、夏は空右に居り、冬は空左に居り、夏は空下に居り、冬は空上に居る。此れ陰の常處なり。陽の運行は、春は上に居り、冬は下に居る。此れ陽の常處なり。陰は整年四次遷移して、而して陽は常に實處に居る。此れ陽に親近して陰を疎遠にして、德を任用して刑に遠離するに非ずや。天の志は、常に陰を空處に安置して、稍く之を取りて以て輔助と為す。故に刑は德の輔助、陰は陽の輔助なり。陽は一歲の主なり。天下の昆蟲は陽に隨いて出入し、天下の草木は陽に隨いて生落し、天下の三王は陽に隨いて正朔を改正し、天下の尊卑は陽に隨いて位を序す。幼は陽の少くする所に居り、老は陽の老とする所に居り、貴は陽の盛とする所に居り、賤は陽の衰とする所に居る。所謂藏は、其の陽に當るを得ざるを說く。陽に當らざるは、臣子なり。陽に當るは、君父なり。故に人主は南に面して、陽を以て位と為す。陽貴して陰賤しは、天の制度なり。

禮之尚右,非尚陰也,敬老陽而尊成功也。

禮の右を崇尚するは、陰を崇尚するに非ず。是れ老陽を敬重して功の成を尊敬するなり。

陰陽位第四十七

陰陽位第四十七

陽氣始出東北而南行,就其位也,西轉而北入,藏其休也;陰氣始出東南而北行,亦就其位也,西轉而南入,屏其伏也。是故陽以南方為位,以北方為休;陰以北方為位,以南方為伏。陽至其位,而大暑熱;陰至其位,而大寒凍;陽至其休,而入化於地;陰至其伏,而避德於下。是故夏出長於上,冬入化於下者,陽也;夏入守虛地於下,冬出守虛位於上者,陰也。陽出實入實,陰出空入空,天之任陽不任陰,好德不好刑如是也,故陰陽終歲各一齣。

陽氣は東北より始めて出でて南に行くは、其の位子に趨就す。西に轉して北に進入するは、其の休息を收藏す。陰氣は東南より始めて出でて北に行くは、亦其の位子に趨就す。西に轉して南に進入するは、其の潛伏を屏退す。故に陽は南方を以て位子と為し、北方を以て休息と為し、陰は北方を以て位子と為し、南方を以て潛伏と為す。陽は其の位子に到達すれば、則ち大いに暑熱し、陰は其の位子に到達すれば、則ち大いに寒凍す。陽は其の休息に到達すれば、則ち入りて地に化し、陰は其の潛伏に到達すれば、則ち下に在りて德に避く。故に夏に出でて上に在りて長養し、冬に入りて下に在りて化生するは、陽なり。夏に入りて下に在りて虛地を守り、冬に出でて上に在りて虛位を守るは、陰なり。陽は實なり。陽は實處より出で實處より入り、陰は空處より出で空處より入る。天の陽を任用して陰を任用せず、德を喜好して刑を喜好せざるは、此くの如し。故に陰陽は整年各々一次出づ。

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