四庫全書総目提要
《了斎易説》一巻、所拠は浙江呉玉墀家の蔵本なり。此の条は《四庫全書総目》が此書を著録する時に立てたる標目なり。
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
△《了齋易說》一卷(浙江吳玉墀家藏本)
《了斎易説》一巻、所拠は浙江呉玉墀家の蔵本なり。此の条は《四庫全書総目》が此書を著録する時に立てたる標目なり。
宋陳瓘撰。瓘字瑩中,了翁其自號也。延平人。元豐二年進士甲科。建中靖國初為右司諫,嘗移書責曾布及言蔡京、蔡卞之奸,章數十上,除名編隸合浦以死。事蹟具《宋史》本傳。此本為紹興中其孫正同所刊。馮椅謂嘗從其孫大應見了翁有《易全解》,不止一卷,多本卦變,與朱子發之說相類。胡一桂則謂尚見其初刊本,題云《了翁易說》,並未分卷。此本蓋即一桂所見也。
本書は宋人陳瓘の撰なり。陳瓘は字は瑩中、「了翁」は彼の自ら取りたる別号なり、延平(今の福建南平)の人、元豊二年に進士甲科を挙げたり。建中靖国の初年、右司諫に任ぜられ、曾て宰相曾布を責むる書を遣わし、又章を上げて蔡京・蔡卞兄弟の奸悪を糾発し、前後奏章数十道、終に官籍を削られ、合浦に編管されて死せり。其の事跡は《宋史》本伝に完く載す。今の此の本は、紹興年間に其の孫陳正同の刊刻せしなり。馮椅が自ら言うに、彼は曾て陳瓘の孫陳大応の処より了翁の《易全解》を見、篇幅は一巻に止まらず、内容は多く「卦変」に依りて説を立て、朱震(字は子発)の路数に近しと。胡一桂が曰く、彼は還た此書の初刻本を見、題名は《了翁易説》と作りて、未だ巻を分かたずと。今の此の本は、大略胡一桂の見たるあの一种ならん。
邵伯溫《聞見錄》,稱瓘說得康節之學。沈作喆《寓簡》則曰“陳瑩中嘗以邵康節說《易》,講解象數,一切屏絕,質之劉器之,器之曰:《易》固經世之用,若講解象數,一切屏絕,則聖人設卦立爻,復將何用?惟知其在象數者皆寓也,然後可以論《易》。故曰:得意忘象,得象忘言。方其未得之際而遽絕之,則吉凶與民同患之理將何以兆?恐非筌蹄之意”云云。
邵伯温は《聞見録》の中に曰く、陳瓘の学問は邵雍(康節)の一派より得たりと。沈作喆の《寓簡》は却って記載す――陳瑩中は曾て邵康節の《易》を講ずる路数を持ちて――「象数」一類の講解を一概に屏棄す――劉安世(字は器之)に請教しに行きたりと。劉安世が曰く《易》は本来経世致用の一面有り、若し象数の講解をことごとく屏棄せば、則ち聖人の卦を設け爻を立てるは還た何の用為さん。ただ象数の中の言う所は皆寄寓の詞なるを明白にして、然る後乃ち《易》を談ずべし。故に曰く「意を得て象を忘れ、象を得て言を忘る」と。正しくまだ其の意を得ざる時に急いで象数を丟開すれば、則ち「吉凶は民と患を同じくす」の道理は又何に凭りて端倪を顕さん。此れ恐らく「魚を得て筌を忘れ、兎を得て蹄を忘る」の本意に合せず。以上すなわち沈作喆の記せるあの一段の話なり。
然則瓘之《易》學,又嘗質之劉安世,不全出邵子矣。其造語頗詰屈,故陳振孫《書錄解題》病其辭旨深晦。然晁公武《讀書志》謂其以《易》數言天下治忽多驗,則瓘於《易》實有所得,非徒以艱深文淺易者,正未可以難讀廢矣。
此れを見れば、陳瓘の《易》学も亦曾て劉安世に請教し、全然邵雍の一門より出づるに非ず。彼の遣詞造句は頗る拗口なれば、故に陳振孫の《直斎書録解題》は此の書の文辞と義旨とが皆太だ幽深晦渋なるを批評す。但し晁公武の《郡斎読書志》は彼が《易》数を用いて天下の治乱興衰を推断し、多く応験有りと言えば、陳瓘の《易》の上に於て確かに得る所有るを見べし、并せ只是艱深の文字を用いて浅易の内容を掩飾するに非ず。因りて此の書は正に難読に因りて廃棄せらるべからず。
乾卦(乾下乾上)
乾下乾上。乾,大也,在人為元。其大也離乎對矣,而不無人也。不見其人,無咎。萬物資焉,名之曰始。乃統天者,乾乾也。雲行雨施,乾之作也。曰乾曰坤曰元,故曰品。其為物也無不在,不睹其形,孰知其流。大明終始,觀艮可知;六位時成,觀大畜可知。時成,其位也;時乘,其變也。初、首、元、作、潛、亢在時。不觀大畜,何以畜其徳?乃統天者,元也;以御天者,時也。變化者,乾道也。乾道精而非一,其貞各而不雜。往也而合,命也而性,故曰正。合乎天地而不見其臭,發而中節,而其發不獨。夫然,故無不利也,無不貞也。惟辟奉天,其道如是。首出庶物,何為哉?萬國咸寧,不為而寧也。
乾卦は、卦体は乾下乾上なり。「乾」の意思は大なり、人身上に落れば便ち「元」――衆善の長なり。其の大は已に一切の相対待する物を超出するも、却って人を排除せず。即ち其れを体現する人を見ずとも、亦咎害有ること無し。万物は皆それに凭りて取資すれば、故に之に命名して「始」と為す。能く天道を統摂するは、正に「乾乾」のこの剛健不息なり。「雲行雨施」は乾の運作なり。乾と称し坤と称し元と称すれば、《彖伝》が「品物流形」と説く所以なり。乾の此の物は処に在らざる無し、人は其の形体を見ず、誰か其の流行を知らん。「大明終始」の道理は、艮卦に参看すれば便ち知るべし。「六位時成」の道理は、大畜卦に参看すれば便ち知るべし。「時成」は位次を説き、「時乗」は変化を説く。初・首・元・作・潜・亢のこれらの字眼は、全て一個の「時」の上に落つ。大畜卦に参看せずば、又何を以て自己の徳を畜養せん。故に天道を統摂するは「元」、天道を駕御するは「時」、能く変化を生ずるは便ち乾道なり。乾道は精純にして一端に止まらず、其の貞正は各々分際有りて相い混雑せず。往きて能く合すれば、既是命なり亦性なり、故に「正」と曰う。其れ天地に合して声も臭も尋ぬべくなく、一たび発動すれば恰も節度に中り、而して孤発に非ず。唯だ是の如し、才かに利あらざる無く、貞ならざる無し。ただ君王が天道を奉承して、走るは正に此の路なり。「首出庶物」は刻意造作に非ず、「万国咸寧」も亦加わらずして自然安寧なり。
是故乾者,萬物之一也,而一不墮數;庶物之首也,而用而不有。是故陰陽不測之物名曰神,物成象之謂乾,見乃謂之象。是故乾行無象,自不在我。大畜之初曰「有厲利己」,不犯災也。自「陽在下也」至「天徳不可為首也」,總言聖人所以順天而無為之道。文言言元有四,無為而具者乾也。君子之行並乾而五。乾行無象,天之有象者,行乾之君子也。「勿用」者,弗用也;其弗用者,得而隠也。「不易乎世」,中不變也;「不成乎名」,實著也。遁則退也,是則時也。「無悶」,不憂也;憂,憂也。不以所建易所行,不以彼憂易此樂,所謂不易乎世也。「確乎」者,示人易也;其不可拔者,以其彚貞也。夫聖人之貞,又何以加於樂乎?
故に乾は万物中の一物なり、可なる此の「一」は并せ数目の裏に落ちて点数せず。それは衆物の首なれども、ただ起用を管して己有に拠らず。因りて陰陽変化測るべからざるあの物を「神」と曰い、凝聚して形を成すを「乾」と曰い、顕現してこそ「象」と曰う。故に乾の運行は本より睹るべき象無く、それは本来我に在らず。大畜卦初九に曰く「有厲利已」、意思は災禍を触犯せざるなり。《文言》「陽在下也」より「天徳不可為首也」に講り至るまで、通篇説く所は皆聖人の天道に順応して妄りに造作せざるの道理なり。《文言》は「元」を講じて四層の意思有り、能く造作せずして四徳自ら具はるは乾なり。君子は乾に依りて行えば、便ち第五層と成る。乾行は本来象無し、天の象見るべき有る所以は、正にあの乾に依りて行う君子なり。「勿用」は用いに行かざるなり。其の用いざる所以は、已に得有りて自ら隠るればなり。「不易乎世」は心中世俗に改められず、「不成乎名」は其の実を務めて虚名を逐わず。「遁」はすなわち退、「是」はすなわち時に合す。「无悶」は憂えず。憂に説き及べば、それこそ真の憂なり。自己の立つる志に因りて行う所を改めず、外の憂に因りて心裏の楽を換えず、此れを「不易乎世」と曰う。「確乎」は平易を以て人に示すなり。其の拔動すべからざる所以は、同類と共に其の貞を守ればなり。聖人の貞正、又還た何物か此の一份の自得の楽に勝らんや。
正中者,龍徳之中也。中故信,括故謹,非作也,正中之庸也。「閒邪」,自閒也;「存其誠」,非存之也,言行所以自閒也。「善世」者,維道之善也;「徳博」者,日新之徳也。中庸其至矣乎!獨善者必盈,徳□者必吝,故曰「見龍在田,君徳也」。君徳者,聖人之得乾者也,故曰乾以君之。徳者,得也;業者,動也。必忠必信,則其進不由;順聖人之情,則修不遷貳。「立」,言乎其不遷也;「居」,言乎其不貳也。夫聖人之修,又何以加於不遷不貳乎?「幾」者,動之微;「義」者,大君之宜。上天之載,無聲無臭,至矣;知而至之者,人也。昭明有融,髙朗令終,終矣;知而終之者,人也。
「正中」は、龍徳の居る所の中位なり。中を得れば故に能く信、能く収斂すれば故に能く謹、此れ皆刻意造作に非ずして、「正中」の常道なり。「閑邪」は自ら防閑し、「存其誠」も亦刻意して存するに非ず――言行本身すなわち自我防閑の功夫なり。「善世」は道を維繫する善、「徳博」は日日更新する徳なり。中庸は真に極致なり。ただ独善其身を顧みるは必ず自満に至り、徳に虧損有るは必ず吝嗇に至る。故に曰く「見龍在田」はすなわち君徳なり。君徳は、聖人が乾のあの処より得たるなり、故に曰く乾は君徳を以て万物を統御す。「徳」はすなわち得、「業」はすなわち動なり。必ず忠必ず信せば、其の長進は必ずしも外求を要せず。聖人の性情に順えば、修養の上に於て便ち怒を遷さず過を貳せず。「立」は遷らざるを講じ、「居」は貳せざるを講く。聖人の修養、還た何物か遷らず貳せざるを超出せん。「幾」は動の極微の処、「義」は大君の宜しき所なり。上天の載く所、声無く臭無し、此れ至極なり、而して能く此れを知りて之に達するは人なり。昭明にして寛和、高朗にして善終、此れ終了なり、而して能く此れを知りて之を完成するも亦人なり。
習至之之道者,其唯坤順乎!習終之之道者,其惟謙亨乎!窮大者必失其所居,是故居道則盈而不謙,居器則繫而不樂。是故不驕不憂者,聖人之乾乾也。乾乾因其時而惕,則品物具矣;雖危無咎,安也。上下無常而臣道常屈,進退無恆而王道恆尊。宜屈而信,是為邪也;不渙其躬,是離群也。君君臣臣之謂群,中而不倚之謂正。為邪而離群者,必以大咎終焉,故君子之大欲,必因其時而惕也。
「至」の此の一段の功夫を学ばんとせば、大略ただ坤卦の柔順のみ依るべし。「終」の此の一段の功夫を学ばんとせば、大略ただ謙卦の亨通のみ依るべし。一味に大を求めて極処に至る人は、必定自己の位置を守持せず。自ら「道」に居れば便ち自満して能く謙せず、自ら「器」に居れば便ち牽繋せられて能く楽しまず。故に驕らず憂えず、正に聖人の「乾乾」なり。乾乾の人は時に随いて警惕し、万物品類は便ち各々其の所を得る。危地に処るも咎無きは、正に其の心安ければなり。上下の位次は一定無く、可なる臣の道は總じて屈を取る。進退は常軌無く、可なる王の道は總じて尊に居る。屈すべき時に反って伸張すれば、便ち邪なり。肯んじて自身の私執を散去せざれば、便ち離群なり。君は君道を尽くし臣は臣道を尽くすを「群」と曰い、中に居りて偏倚せざるを「正」と曰う。邪を行いて又離群する人は、最後必ず大咎を以て収場す。故に君子の最大の心願は、すなわち其の時に随いて常に戒惕を存するなり。
有厲利己,習乃日新。音同故同聲,物同故同氣。響谷之相應,聲無異在;陰陽之相求,氣不殊感。凝動宿烈,同一溼燥;龍虎變化,有萬從一。大作而眾目自通,無二致也。君本乎天,臣本乎地,是故上下無常而臣道常卑。各從其類,不可違也;違則邪矣,故曰「牝馬地類,行地無疆,柔順利貞,君子攸行」。
「有厲利已」は、日日温習してこそ日日更新し得るを説く。声音は同類にして故に同じ声に相応じ、物性は同類にして故に同じ気に相求む。空谷の回声の呼応する所以は、声は本より別無きなり。陰陽の互いに求むる所以は、気は本より同じ感なり。凝と動・宿と烈とは、同じく湿燥の一理より出ず。龍と虎との変化は、千頭万緒も皆一に帰す。大の興作一たび起れば、衆人の耳目は自然貫通して、并せ両様有らず。君は天に本づき、臣は地に本づけば、故に上下の位次は定則無しと雖も、而して臣道は總じて卑を取る。各々其の類に随うは、違背すべからざるなり。一たび違背すれば便ち邪と成る。故に《坤》に曰く「牝馬地類、行地无疆、柔順利貞、君子攸行」と。
亢故悔,聖人有焉;動而亢者,有故也。聖人之用不用,天下之治不治,道之行不行,皆天也。樂則行之,故其事在中;憂則違之,故其通不窮。居征以時,試不在它,乾乾之君子也。乾元用九,人何力之有焉!陽氣潛藏,故曰潛龍勿用;勿用也,故弗用。「見龍在田,天下文明」「終日乾乾,與時偕行」者,陽氣發生而品物咸章也。
亢極して悔有る所以は、此れ聖人の身上にも亦有るべし。動きて亢に至るは、總じて縁故有り。聖人が任用せらるるか任用せられざるか、天下が治を得るか得ざるか、道が行わるるか行われざるかは、皆天に取決す。心中此れに楽しめば便ち行きに行く、故に行事は總じて一個の「中」を離れず。心中此れに憂えれば便ち避け、故に其の通達は永く窮まらず。居処と出行とは皆時に依りて定まり、考験も亦別処に在らず、此れすなわち「乾乾」の君子なり。乾元の九を用いるに、人は其の中に於て又幾多の力を出さん。「陽気潜蔵」、故に曰く「潜龍勿用」。本より用いるに当たらざれば、故に彼は用いず。「見龍在田、天下文明」と「終日乾乾、與時偕行」とに至りては、講ずるは陽気の発生、万物品類の皆光華を彰顕するなり。
乾乾匪他,其有在時。行也者,不息也;極也者,不行也。用九者,乾元也;見天則者,乾始也。曰元而始可知也,曰終始而大明可知也。大哉乾乎!終始性情,能以美利,皆乾始也。大哉乾乎!能健能順能也,以健以厚以也。坤則美在中,乾不言所利,大矣哉!剛健中正,純粹精也。所謂大哉乾乎者,如此而已。
「乾乾」は別の物に非ず、其の着落は全て一個の「時」の上に在り。謂う所の「行」は、すなわち停息せず。謂う所の「極」は、すなわち更に行かず。「用九」は乾元を指し、「見天則」は乾の始を指す。「元」を説けば、「始」の意思は便ち推知すべし。「終始」を説けば、「大明」の意思も亦推知すべし。偉大なるかな乾。終始を貫通し性情を統摂し、能く美善の利を以て万物に沢被し、此れら皆乾の始より出ず。偉大なるかな乾。それは能く健にして能く順、健を以て厚を以てす――此の二句は原本各々一字を脱す。坤は美を含蓄して内にし、乾は却って自己の利の何れに在るかを説かず、此れこそ大と曰う。剛健中正、純粹にして精なる、謂う所の「大哉乾乎」は、過ぐるも此の如くのみ。
是故乾也者,七徳之總名也。六爻發揮旁通情也,天地萬物之情發揮在爻。是故情之未發謂之中,發揮旁通謂之變。天無為也,乘六龍以御者,時也;後天而奉天時者,聖人也。雲行雨施,天下平也。知履道之坦坦者,庶幾乎其見也。以成徳為行者,元以也。何以乎?日可見之行,乾行也。何行乎?陽氣潛藏,是故而未見,行而未成,天行矣而亦未用也。成而後用,汔至亦未繘井,以乾始為師也。四以皆乾,得也。學問寛仁,所以主其得。天地設位而易行乎其中矣,其行也有在乎?故曰君子之中庸也,君子而時中也。
故に「乾」は七种の徳の総名なり。六爻発揮し、旁通して万物の情に及べば、天地万物の情状は就中爻の中に発揮され出づ。因りて情の未だ発せざるを「中」と曰い、発揮旁通を「変」と曰う。天は本より作為する所無く、六龍を駕して運行するは「時」なり。天の後にして天時を奉行するは、聖人なり。「雲行雨施」して、天下は此に由りて平治す。履卦の「履道坦坦」を懂得する人は、差不多く此の一層を見るを得ん。徳行を成就するを以て日常の行と為すは、凭るは正に「元」なり。何に凭るか。「日可見之行」、あれは乾の行なり。行う所は又何ぞや。是れ「陽気潜蔵」なり――故に蓄えて未だ現れず、行きて未だ成らず、天道は已に運行すと雖も、却って未だ発用の時に到らず。成熟したる後を須ちてこそ発用す。井卦に曰く「汔至亦未繘井」、正に乾の始を以て師法と為す。此処に四個の「以」の字は皆乾に帰し、皆得る所有り。学問を為すは寛厚仁恕を要して、こそ此の一份の所得を守持し得。天地は上下の位を設定して、而して《易》は就中其の中に運行す――其の運行は豈固定の所在有らんや。故に曰く此れ君子の中庸なり、君子は能く時に随いて中に処る。
乾乾因其時而惕,雖危無咎矣,此君子之時中者也。中不在人,故或之。行乾之君子,未始執其信也;執而有之,有而行之,小者過矣。而不觀其養,未可動也,疑之也,故無咎。是故聖人之慾及時者,猶或之也;學聖人之道者,可有其信而必行之乎?不雨之卦,既雨而猶未征也。聖人與之,與其疑,不與其必也。夫大人者,與四者合。先天之時,孰睹天之不違?後天而奉,則天時而人奉之也。其成也,成之而已;其乘也,乘之而已,後天而奉天時也。時行時極,必與偕焉。
乾乾の人は時に随いて警惕し、危境に処るも咎無し、此れすなわち君子の「時中」なり。「中」は何れの人か私有すべきに非ず、故に爻辞は一個の「或」の字を用いる。乾に依りて行う君子は、従来より自己の信念を抓死せず。一たび抓死すれば便ち己有に拠り、拠有すれば便ち行かざるべからず、則ち小者の過と成る。彼は先に自己の畜養の足るや否やを看清さずば、肯んじて軽動せず――正に此の一分の遅疑を存するに因りて、こそ咎無きを得。故に聖人は急いで時に及びて動き、用うるは仍ほ「或」の態度なり。聖人の道を学ぶ人は、豈自ら己信に恃みて非行不可と為す可けんや。小畜は「密雲不雨」の卦なり、即ち已に雨すと雖も、亦仍ほ出征に宜からず。聖人の贊許するは其の存疑の一份にして、而して其の必行のあの一份に非ず。謂う所の「大人」は、天地・日月・四時・鬼神の此の四者と相合する人なり。先天の時に於て、誰か天の彼に違背するを見んや。後天に於ては則ち奉承、天は其の時有りて人は往きて奉行す。成就すべきは、成就するのみ。順乗すべきは、順乗するのみ――此れすなわち「後天而奉天時」なり。時到りて行くべき、時到りて極むべきに、彼は必ず時と偕に行く。
困之而惕,貞厲無咎。是故君子終日乾乾之道,欲及時而已矣。九二龍徳而正中者也,庸庸則其中正矣。亢之為言也,有知焉,有不知焉,其合判矣,其惟聖人乎不失其正。四三二爻,無在無不在。
困せられて警惕を知り、正を守りて危なしと雖も咎無し。故に君子の「終日乾乾」の用功は、過ぐるも時に及びて動かんと欲するのみ。九二は「龍徳而正中」の一爻にして、能く庸常の道を以て自守すれば、自然中正なり。「亢」の此の字に至りては、其の中に知る一面有り、亦知らざる一面有り、得失の分判は就中此処に在り――大略ただ聖人のみ能く亢して其の正を失わず。四・三・二の此の三爻は、其の某処に在りと説くも是ならず、其の某処に在らずと説くも是ならず。
坤卦(坤下坤上)
坤下坤上。牝馬地類也。君子者,行乾徳者也。有攸往者,攸行也;有攸,非我有也;有攸行,非我行也。坤道其順乎!先迷者,不可先也;後得主者,得當也。變動以利言,乾不言所利。朋者,君臣之象也。君一而臣二,君上而臣下,君先而臣後。西南得朋者,順故得也;東北喪朋者,息。所不息者此而已,故喪也。安貞吉者,坤吉也;安貞之吉者,君子之吉也。
坤卦は、卦体は坤下坤上なり。「牝馬」は地の一類に属す。此処に言う所の君子は、乾徳を奉行する人なり。「有攸往」はすなわち行く所有り。「有攸」と説くは、表明するは彼は并せ我が私有に非ざるを。「有攸行」と説くは、表明するは亦我が一人の行くに非ざるを。坤道は真に柔順なり。「先迷」は前に搶走すべからず、「後得主」は随後に行きてこそ其の当を得る。変動は「利」の上より説いて、而して乾卦は却って其の利の何処に在るかを説かず。「朋」は君臣の象なり。君はただ一位にして臣は衆多有り、君は上に在りて臣は下に在り、君は先に在りて臣は後に在り。「西南得朋」は、順従すれば因りて得有るが故。「東北喪朋」は、説くは止息――止息すべきは正に此の一層、故に「喪」と称す。「安貞吉」は坤自身の吉、「安貞之吉」は則ち君子の吉なり。
大哉者,至而大也;至哉者,大而至也。坤元者,至而無不至也;萬物資生者,資而無不生也。何資乎?資至也。大乎?至乎?其物物之物乎!精而非一,氣而不有,為而無作。健覆而厚載者,豈兩物哉?而亦未始不兩,故有合也。合乎一謂之兩,合乎兩謂之參。參天兩地,聖人之能也。浩浩其天,不倚而倚。
「大哉」と説くは、先に至りて而る後に其の大を見る。「至哉」と説くは、既に大にして又之能く至る。坤元は、至りて至らざる所無し。「万資生」は、万物が之に取資して得生せざる無し。何に取資するか。あの「至」に取資す。是れ大か、至るか。それは正に万物をして各々其の物と成らしむる能くするあの「物」なり。其れ精純にして単一ならず、気にして己有に拠らず、為す所有りて痕迹を著さず。剛健なる覆冒と厚重なる承載とは、豈両個の物ならんや。可なる又未嘗て両個に非ざる無し、故にこそ「合」有り。一に合するを「両」と曰い、両に合するを「参」と曰う。参天両地は、正に聖人の本領なり。浩浩然たる天は、見るに倚傍する所無きがごとし、其の実自ら倚る所有り。
坤之為物,有時乎雜。地卑之勢定不可渝,君子以焉。一卑一髙,泰焉而並立者,皆勢也,而用則殊矣。厚徳載物,徳之朋者也。書曰鳳凰來儀,朋也;孔子曰吾已矣夫,不朋矣。霜未凝,凝之始也;馴未辯也。林鐘之氣,暑方盛也;暑盛而知寒之至,君子也。
坤の此の物は、時に免れず駁雑有り。地が卑下に処する形勢は一たび経て確定すれば便ち更改すべからず、君子は此れに取法す。一卑一高、安然として並立し、此れ皆「勢」なり。可なる其れらの功用は却って大いに相同じからず。「厚徳載物」は、説くは徳に同類の相輔する有るなり。《尚書》に曰く「鳳凰来儀」、あれは朋の来り聚まる有り。孔子が曰く「吾已矣夫」、あれは朋の待つべき無し。霜はまだ凝結せず、却って已に凝結の開端なり。只是馴致漸進の際に、人は還た分辨し出ださず。林鐘の月は正に暑気最盛に当たるも、暑盛の時に就已に寒気の至らんことを知る――此れすなわち君子の見識なり。
生也直,天也;徳方,地也。動乎其中者,乾元也。天地之元在乾坤,坤元之主在六二,故曰地道光也。光者,中正之體。中正而動,其習也大矣。含章可貞,則坤美具矣。以時發者,其發非我也。可以從王事矣,而猶或之;或之者,法乾也。知坤知乾,光大也。不出也,故成;近也,故無咎。咸之六二,順此者也,異乎其末矣。
生まれて正直なるは、あれは天なり。徳性方正なるは、あれは地なり。其の中に於て鼓動するは、乾元なり。天地の元は乾坤に分属して、而して坤元の主爻は六二に在り、故に《象伝》に曰く「地道光也」。「光」は中正の本体なり。能く中正にして動けば、其の薫習積累は大なり。「含章可貞」にして、坤の美徳は便ち皆斉備す。謂う所の「以時発」は、あの発動は并せ我の私意より出ず。已に出でて王事に従事すべきにして、爻辞は仍ほ一個の「或」の字を用いる。「或」を用いるは、正に乾に取法す。既に坤を知り又乾を知るを、こそ「光大」と曰う。軽く出でざれば、故に能く成る。相近く相親しけば、故に咎無し。咸卦六二の順う所は正に此の道理にして、其の上爻の処境とは已に同じからず。
得朋而黃,後得而裳,元無不利。文不出,入至而應也。辨方正位,可取於野,則無□。用六利永貞者,用坤元而利也。來弗克違、濡莫之陵,皆用元之利。比之原筮,筮此也;萃之匪孚,則未亡其有;未亡其有,故未光也。六者,三才之道;大者,乾元也。以大終者,終乎地道之光。直方而大,非地道之光乎?
「得朋」にして「黄」と称し、「後得」にして「裳」と称するは、「元」の上より見れば利あらざる処無し。文采が外露せざるは、入りて内に至りて上と相応ずればなり。「辨方正位」は、郊野に取象すべし、則ち咎無し。「用六利永貞」は、坤元を用いて其の利を得るなり。「来弗克違」「濡莫之陵」は、皆「元」を用いて得る所の利なり。比卦は「原筮」と説き、筮する所は正に此の一層なり。萃卦は「匪孚」と説くは、還た其の拠有する所を捨て去らず――正に還た拠有すれば、故に未だ光大する能わず。「六」は三才の道、「大」は乾元なり。「以大終」は、すなわち地道の光明に終るなり。既に直にして且つ方にして又大なるは、正に地道の光に非ずや。
是故君子有終,則尊而光也。東北喪朋,乃終有慶,所不息者此而已,則必有終矣。知光大也,其不息之慶乎!晉之失得勿恤往、升之用見大人勿恤,皆有慶也。至柔至靜,坤之至也。剛者,道之動;方者,靜之德。柔剛靜動,坤元之道之徳也。含萬物者,含□也;化光者,光之大也。
故に君子は能く終有るを得れば、既に尊貴にして又光明なり。「東北喪朋、乃終有慶」は、止息すべきは過ぐるも此の一層、能く止息すれば必定終有り。《象伝》に曰く「知光大也」、此れ大略正に不息の帯来する喜慶なり。晋卦六五「失得勿恤、往吉」、升卦「用見大人、勿恤」は、説くは皆慶有るなり。至柔至静は、坤の極致なり。剛は道の動、方は静の徳なり。柔と剛・静と動と、合してこそ坤元の道と徳なり。「含万物」は含着するなり、「化光」は光明の大なり。
坤道其順乎!承天而時行,此後天而奉天時也。易之於天也,或先焉,或後焉,故曰易逆數也。積小以髙大,積也;霜而凝,漸也。由辯之,今也,不早辯故也。升之積,順徳也;漸之吉,女歸也。立直方者,君子也。坤道其順乎!其其括,順天地之閉;發於事業,以時而發。是故闕者,君子正也。
坤道は真に柔順なり。上天を承奉して時に按じて運行すれば、此れすなわち「後天而奉天時」なり。《易》の天に対するは、時に其の前を走り、時に其の後に随う。故に曰く「易逆数也」。小を積みて以て高大に至るは、「積」に靠る。霜より凝に至るは、「漸」に靠る。謂う所の「由辯之」は、今日に到りてこそ辨明す、当初に及びて分辨せざればなり。升卦は積を講じ、あれは順徳なり。漸卦は吉を称し、あれは女子の出嫁が其の次序を得るなり。能く「直」と「方」とを立起するは、君子なり。坤道は真に柔順なり。其の収斂閉蔵するは、天地閉塞の時に順えばなり。事業に発するは、則ち時に按じて発す。故に文中缺字の処は、講ずるは仍ほ君子の守正なり。
唯君子為能通天下之志。通而不異,異而不一,其唯君子之正乎!易曰同人之先,以中直也。先以直,後以義,同人之中也。直,其正也;中,其位也。為圜者,非坤之義。敬義立者,立乎其中也;立乎其中而徳不孤矣。徳,其方也;不孤,其動也。不習則其習也乆矣。無不利者,安貞之吉也。
ただ君子のみ能く天下人の心志を貫通す。貫通すれば便ち岐異に至らず、岐異すれば便ち一に帰する能わず、能く此の一步を為すは、大略ただ君子の守正のみならん。《易》に曰く「同人之先、以中直也」。先に正直に凭り、後に道義に依る、此れすなわち同人卦の講ずる「中」なり。「直」は其の正、「中」は其の位なり。坤を解して円形と作すは、坤の本義に合せず。「敬義立」は、此の「中」の上に立つるなり。中の上に立てば、徳は便ち孤ならず。徳は、其の「方」なり。孤ならざるは、其の「動」なり。見るに練習を假らざるがごとし、其の実あの練習は已に久しきなり。謂う所の「无不利」は、すなわち「安貞」の吉なり。
夫中也,正也,其所行也不疑;其所行者,其唯君子乎!君子之正亦不疑也。天地相遇,品物咸章也。含乃亨,坤道也;坤之道,中正而已。剛遇中正,則含而行也。未有慶譽,則大而亨也。四多懼,近也;近而括,謹也;謹而不害,慎也。君子體靜方之徳,處多懼之地,謹也慎也而已矣。
「中」なりとも「正」なりとも、行えば皆遅疑せず。而して能く此の如く行うは、大略ただ君子のみならん――君子の守正も亦毫も遅疑せざるなり。天地相遇すれば、万物品類は便ち皆彰顕す。能く含蓄してこそ亨通するを得、此れ坤道なり。坤道は説き究むれば過ぐるも中正の二字のみ。剛健は中正に遇上せば、便ち含蓄して行くを得。未だ慶有り誉有る時に到らず、正に此れに因りてこそ大にして亨通す。第四爻は多く畏懼有るは、君位に迫近すればなり。迫近して収束を知るは、「謹」なり。謹にして害を受くるに至らざるは、「慎」なり。君子は静と方の徳を体会し、身は多懼の地に処りて、守る所も過ぐるも一個の謹・一個の慎のみ。
動而不括者,孚號之事,我何尸焉?地發而黃,坤索而中。於同為通,於義為理,位非一異,體不有無。承乾之美,中而暢也。通變富暢而發也,發而不過,至也,乾始故也。乾始坤終,同乎美利。乾則不言,坤在得主之後。
動きて収束を加えざるは、あれは夬卦の「孚号」一類の事にして、我に何の関かあらん。我又豈能く往きて之を主持せんや。地気は一たび発すれば黄色を現出し、坤は内に向かい索求して其の中を得。相同の処に就きては「通」と曰い、合宜の処に就きては「理」と曰う。位次を論ずれば一とも異とも説けず、体質を論ずれば有とも無とも説けず。乾の美徳を承受して、中に居りて通暢す。通変・富有・暢達して而る後に発動し、発して分を過ごさず、此れすなわち「至」、其れ乾を以て開始と為せばなり。乾は其の始を開き、坤は其の終を成して、同じく美利に帰す。乾は明かに自己の利の何処に在るかを説かず、坤は則ち「得主」の後にしてこそ其の利を見出す。
屯卦(震下坎上)
震下坎上。君子行此四徳者,或健或順,或動或隨,或浸長,或既復,或去故,而當其行,無不貞也。貞則何往乎?不往也。而不寧時措之宜,在建侯也。屯利建侯,比親諸侯,或宜一,或以眾。剛柔不交而萬物不生,交而難生,交之始也。動乎坎中者,震出而坎伏也。交非乾也,子考也。
屯卦は、卦体は震下坎上なり。元・亨・利・貞の此の四徳を奉行する君子は、時に剛健、時に柔順、時に主動、時に人に随い、時に漸漸生長、時に已に回復、時に故旧を捨棄す。ただ行い其の当を得れば、便ち貞正ならざる処無し。既に貞を守りて、還た何処に往かんとするや。其の実は往かず。而るに身は不寧の時に処りて、権衡処置の合宜の道は就中「建侯」に在り。屯卦は「利建侯」と説き、比卦は「親諸侯」と説く。一個は専一に宜しく、一個は衆を聚むるに宜し。剛柔は相交わらざれば万物は生ぜず、相交わりて生育艱難なるは、正に交合の初の情形なり。坎の中に於て鼓動するは、震は出でて坎は伏す。此の一交は并せ乾自ら交わるに非ずして、子の父業を承ぐるなり。
乾至健而常易,難則不易矣。盈天地之間者唯萬物,雷雨之動滿盈,則無不生也。生之謂動。草而未竭,昧而未麗,天造之始也。奉始之宜在建侯而不寧,建侯則慮而不息,不寧則勞而有終。比者來,商者喜。索而來者生矣,而未際也;覆矣,而未澤也。緯之繩之,君子之用也。
乾は極めて剛健にして常に平易を顕し、一旦難に遇えば、便ち更に平易ならず。天地之間に充満するはただ万物のみ、雷雨は一たび動けば充塞盈満して、万物は便ち生長せざる無し。「生」はすなわち「動」と曰う。草木は初生にして未だ繁茂せず、天色は昏昧にして未だ明麗ならず、此れ正に天の造化する開端なり。此の開端を奉承する合宜の挙は建侯に在るも、局面は仍ほ安寧ならず。建侯すれば便ち深謀して懈怠を敢えてせず、不安寧なれば便ち労苦して而る後に善終有り。親近する人が来れば、商量する人は喜悅す。求索して来りしは已に生機有りて、却って未だ交接せず。已に覆冒すと雖も、却って未だ潤沢せず。織布するがごとく之を経緯し、縄墨するがごとく之を約束し、此れこそ君子の用功なり。
周旋而不流,初也;居貞而志焉,未繩直也。初匪冦也,而二守其正,怙五以待時而後出,常徳君子也。引而未變,其唯中乎?乘而不息,是以能乆。六三君子也,殆庶則未也。何以知其未也?有即有入,是謂不如。三近而舎,四近而往求婚媾,故往;往而吉,故求,是以並受其福。
周旋応付して波に随って流れずは、説くは初九なり。正を守りて心に向かう所有るは、説くは還た未だ縄墨のごとく拉直せざる時なり。初九は本より強寇に非ずして、而して六二は仍ほ自己の正を守り、九五に依靠し時機の成熟を待ちてこそ出ず、此れ常德有る君子なり。牽引せられて本守を改めざるは、大略正に其れ中を得ればなり。剛上に居りて停息せざれば、故に能く長久す。六三も亦君子なり、只是未だ「殆庶」――幾乎道に近きの地步に到らず。何を以て未だ到らざるを知るや。「即」有り「入」有れば、此れを「不如」と曰うなり。六三は上と相近くも之を捨去し、六四は初と相近くして往きて婚媾を求む、故に曰く「往」。往きて吉を得れば、故に曰く「求」、因りて双方皆其の福を受く。
屯其膏之時,大征則得,小征則凶,此雨施施爻也,小何以任之?二之乘也,貞不字;四之乘也,求而往;上六時過之乘也。物之始生曰屯,見而不失其居。過此以往,先天也;未之或先,不可名為道。
「屯其膏」の時は、大いに作為して出征すれば得る所有り、小打ち小鬧して出征すれば反って凶険なり――此の一爻は正に雨露施降の爻にして、小者は何を以て担当を堪えんや。六二は剛に乗る、故に「貞不字」。六四も亦剛に乗る、故に求めて前往す。上六は則ち時機已に過ぎたる剛に乗るなり。万物初生を「屯」と曰い、顕現して其の居る所を失わず。此の一步を越えて再び前に往くは、便ち天時の先に搶走す。凡そ天の先に搶走するは、皆「道」と称するに足らず。
蒙卦(坎下艮上)
坎下艮上。蒙亨者,本亨而今蒙也。今則不可不求,求而不告者有矣,未有不求而告者也。言求者莫如童,求而必告者,以初筮也。王弼曰:筮者,決疑之物也。格物之學,以初筮為先;若筮其初,則有二物矣,故再三瀆,瀆則不告。陸希聲曰:初筮告,啟其宗也;再三瀆,以塞聰也。瀆則不告,乃或也;貞者,不或之物也;瀆者,反貞之名也。
蒙卦は、卦体は坎下艮上なり。謂う所の「蒙亨」は、説くは其れ本来亨通して、只是如今蒙昧なり。既に蒙昧なれば、便ち教を求めに行かざるべからず。求めて彼に告げざるの情形は是れ有り、却って絶えて求めずして主動して彼に告ぐるの道理無し。「求」に説き及べば、童蒙より懇切なるは無し。求めれば一定彼に告ぐるは、「初筮」に因るなり。王弼が曰く――筮は疑惑を決断するを用いるなり。格物の学問は初筮を以て先と為す。若し初筮に連んで還た再筮せんとせば、則ち両個の念頭有りて、故に曰く「再三瀆」、瀆せられれば便ち彼に告げず。陸希声が曰く――初筮は彼に告ぐるは、其の根本を啓発するなり。再三瀆すれば、ただ其の聡明を堵塞するのみ。瀆すれば告げざるは、心裏に「或」有ればなり。「貞」は「或」を帯びざるにして、「瀆」は則ち「貞」に違反する名目なり。
利貞而無不利矣,反貞而無不疑矣。然則乾坤之動皆有或焉,何也?曰:果行育徳,其義在蒙。不求不習者,大人變通之道,果而不執者也。孔子曰吾何執,又曰吾執御矣。坎之為物,險者也,險而止者也。地中有水者,師也。務學不如務求師。六五曰童吉,人君之於道,當初筮而求之也,況士乎?
正を守れば便ち利あらざる無し、正に違背すれば便ち疑を生ぜざる処無し。然らば則ち乾坤の動きは皆一個の「或」の字を帯ぶは、又何の為ぞや。回答に曰く――「果行育徳」の此の一層の意思は正に蒙卦の上に落つ。強求せず所習に執着せずは、大人の変通の路数にして、果決にして固執せざるなり。孔子が曰く「吾何執」、又曰く「吾執御矣」。坎の此の物は険にして、険に遇うて能く止まるなり。地中に水有るは師卦――埋頭苦学するよりは、寧ろ一位の老師を求め得んに如かず。六五に曰く「童蒙吉」――連んで人君の道に対するも尚且初筮の誠を以て教を求めに行くを以てすべきをや、況んや一般の士人をや。
書曰能自得師者王,自得之則居之安矣。孔子曰三人行必有我師焉,不求我師,豈得我師乎?擇其善者而從之,其不善者而改之,或從或改,皆得師之益也。夫善不善在彼,及我得之,則融乎一善,是以君子貴乎求師,而又貴乎自得之也。
《尚書》に曰く「能自得師者王」、自ら師を求め得れば、之に処れば便ち安穏を得。孔子が曰く「三人行必有我師焉」――我が師を求めに行かずば、又怎麼して我が師を得んや。「其の善なる者を択びて之に従い、其の善ならざる者にて之を改む」――あるいは従いあるいは改むるは、皆師を得るの益なり。善と不善とは本より別人の身上に在り、我が其の中より得る所有るに待ちては、便ちことごとく融会して一個の「善」と成る。故に君子は既に師を求むるを看重し、又自ら能く得る所有るを看重す。
齊桓公、衛靈公得管仲、仲叔圉、祝鮀、王孫賈之輔,猶足以安其身而收其功,況明哲之君用忠良之臣乎?然則觀彼之善不善者,皆可以自得也。彼三人者,莫不有善,莫不有不善,所謂莫不有文武之道焉。君子之於道,初筮而再思者,所以習坎也。三人行則損一人,應之謂告,告以剛中也。
斉桓公・衛霊公は管仲及び仲叔圉・祝鮀・王孫賈の輔佐を得て、尚且能く自身を保ち功効を収めたり、況んや明智の君主が忠良の臣を任用するをや。此の如く言えば、別人の善と不善とを観察するは、皆其の中より自ら得る所有るを得。あの「三人」の当中に、一個として全く取る可き無きも無く、亦一個として全く過失無きも無し、正に謂う所の「莫不有文武之道」なり。君子の道に対するは、初筮の後に還た思量を加うるを要す、正に用いて「習坎」――険の中に於て反復練習す。「三人行則損一人」は、感応する所有れば便ち「告」と曰い、告ぐる所の内容は便ち剛中の道なり。
筮而告者,問焉而受命也。以亨行者,以亨而行時中也。蒙以養正,聖功也,蒙以養爾。貪天之功而其極至闕,聖者大迷而終不悟也。是故君子之養必養其正,雜而著正也。正乃出,出必行;萌果種而後育者,序也。發之初,用克己則利,用說桎梏以往則吝。法出於心,正則不偏,一彼一此之謂偏。
筮して告を得るは、発問して命を領受するなり。「以亨行」は、亨通の道に凭りて其の時中を行きに行くなり。「蒙以養正、聖功也」、蒙昧は正に用いて汝のを涵養するなり。若し天の功を貪りて己有に拠せば、尽頭に走り到れば便ち文中に缺くるあの一步なり――自ら聖と命ずる人は大いに迷いて終身悟らず。故に君子の涵養は必ず其の「正」を養い、即ち駁雑の中に身を処るも正を顕し出さんを要す。正して然る後に能く出で、出でて然る後に必ず行う。萌芽・結果・下種して而る後に培育するがごとく、皆先后次第有り。啓発の初に、克己の功夫を用いれば便ち利有り、桎梏を解開するの弁法を用いて一路走下去れば便ち吝有り。法度は人心より出で、心正しければ便ち偏らず。一會に此の如く一會に彼の如くするを、便ち偏と曰う。
其吝無外,其入不獨,克家之子也。剛克柔克謂之克,克而不偏謂之中。中者,蒙之家;坎者,乾之子。乾父之蠱,意承考也,其唯克家之子乎!行乎地中,不舎晝夜,所以乾也。剛柔不接,則其乾無譽矣。是故觀蒙可以知蠱,觀蠱可以知晉。金夫者,大人也;不有躬者,渙其躬也;無攸利者,居其所而遷也。
あの一份の吝は并せ別の外因無し、あの一份の深入も亦孤零零ならず、説くは正に「克家之子」なり。剛を以て制勝し柔を以て制勝するを皆「克」と曰い、能く克して偏らざるをこそ「中」と曰う。「中」は蒙卦の家、「坎」は乾の児子なり。蠱卦は「乾父之蠱」と説き、意在るは父志を承継するにして、あれは正に能く家業を撑起する児子に非ずや。水は地中に行いて昼夜停まらず、此れすなわち「乾」の道理なり。剛と柔と相接せざれば、あの一份の剛健は便ち称誉を得ず。故に蒙卦を看てば蠱卦を懂得し、蠱卦を看てば晋卦を懂得するを得。「金夫」は大人を指し、「不有躬」は渙卦のごとく己身を散去し、「无攸利」は安く其の所に処りて却って又遷動せんと想うなり。
其行之順也如是,故勿用取女也。習坎六三之勿用,今亦勿用也。至柔而動也剛,坤也;剛以動,大壯也。女壯勿用取女,蒙之九三也。困者,升而不已者也;於彼不已,則於此息矣。四之位近也,名近而實逺矣,其逺也以獨。孔子曰:徳不孤,必有鄰。
彼女の行止の順従する此の地步に到れば、故に曰く「勿用取女」。習坎六三は「勿用」と説き、此処も亦同じく「勿用」なり。至柔にして動き起せば却って剛なるは、あれは坤なり。剛を以て動くは、あれは大壮なり。「女壮、勿用取女」は、説くは正に蒙卦九三の此の一類なり。謂う所の「困」は、上昇して肯んじて停止せざるの結果なり。あの一辺に於て肯んじて停まらざれば、此の一辺に於て便ち止息す。六四の位次は算して近しとするも、可なる名義上近くして実際上は遠し。其の遠き所以は、孤独に因るなり。孔子が曰く「徳不孤、必有隣」。
六五童吉,育徳之主也。其徳順,其用巽,巽則不果,而果以亨行者,能達其材者也。亨在初,利在貞。告其初者,終之則果;未果而止,必或擊之。御冦者,擊者也;為冦者,擊之者也。正乎上,不順也。黃帝堯舜垂衣裳而天下治,擊御冦孰順乎此?上止乎上,下止乎下,夫是之謂順。莫不具亨行之材,不能養之,卒於為冦者,非人也。解之六三是矣,在髙墉之上,上六獲焉。
六五「童蒙吉」は、徳行を涵養する主爻なり。其の徳は柔順にして、其の用は巽入なり。巽入すれば便ち果決足らず、而して能く果決にして又亨道を以て行事するは、正に能く他人の才具を成就する人なり。亨は初に在り、利は貞に在り。彼に初筮の意を告げて、彼をして始有り終有らしめば、彼は便ち果決し得。未だ果決する能わずして中止すれば、必定人の彼を撃つ者有らん。「御寇」のは出撃する一方にして、「為寇」のは撃たるる一方なり。上位に居りて正ならざれば、便ち順ならず。黄帝・堯・舜は衣裳を垂れて天下大いに治まる、「撃蒙」と「御寇」とは何れか此れより順なるや。上に在るは上に安んじ、下に在るは下に安んず、此れこそ順と曰う。人は誰か亨通して行うの材質を具備せざる有らんや、只是彼を涵養する人無く、終に寇盗に淪落すれば、則ち人道に合せず。解卦六三は正に此の如く、「公用射隼于高墉之上」、上六は終にそれを射獲せり。
需卦(乾下坎上)
乾下坎上。涉而後有功,是以須也。未濟而須,卦亦需焉。在前也,故曰險;濟而不陷,則剛不揜而健不窮矣。不揜不窮,徳之恆易者也。須焉,則見其前險;涉焉,則與之俱。易位乎天位以正中也,豈非恆易之徳乎?人須亦需,與人同功。人往而我來,闕而無不利矣。是故需以涉川,難可濟也;躁以涉川,沈可必也。雲上於天,其澤必下;養以君易,奚憂焉?
需卦は、卦体は乾下坎上なり。険阻を渡過して後に功有り、故に等待を要す。未済にして等待するは、卦象も亦正に「需」なり。険は前面に横たわる、故に「険」と曰う。能く渡過して陥落せざれば、則ち剛は掩蔽せられず健は窮尽に至らず。掩せず窮まらざるは、正に徳の恒久平易なり。肯んじて等待すれば、便ち前面の険を看清すを得。貿然として渡に往けば、便ち険と同じく陥る。九五は天位に居りて能く正中なり、此れ豈正に恒久平易の徳に非ずや。人は等待す、すなわち「需」なり、人と其の功を同じくす。別人は往きて我は来る、缺失有りと雖も亦利あらざる無し。故に従容として有待にて川を渉れば、難しきも亦済渡すを得。急躁に川を渉れば、沉溺はすなわち必然なり。雲気は天に上昇し、其の潤沢は必定下降す。君道を以て涵養すれば、一切平易にして、還た何か憂うべき有らん。
郊在易野之中,須之所也。難者,坎險之在前者也。須於中,則不犯難行矣。中者,行止未變之所也;未變之謂恆,變則有常矣。沙之聚散,發乎恆者也。沙者,衍之數;衍者,數之休。是故在焉者易也,有言者數也,大小不二而亦非一,正也。泥可陷,敬慎而不敗,則不陷矣。
「郊」は平易の曠野の中に在り、正に等待するの地なり。謂う所の「難」は、坎険の前面に横たわるなり。中位の上に於て等待すれば、便ち険を冒して行かず。「中」は、行と止とが皆未だ改変せざる位置なり。未だ変ぜざるを「恒」と曰い、一たび変ずれば便ち定常有り。「沙」の聚散は、恒に発端す。「沙」は衍算の数にして、「衍」は数の休止の処なり。故に彼処に停まるは「易」、言語を招来するは「数」なり。大と小とは并せ両様に非ず、却って亦一個に非ず、此れすなわち正なり。「泥」は能く人を陥れるなり、但し能く敬慎して敗れざれば、便ち陥り入らず。
災在外,非我也;自我致冦,非人也。非我者,無妄之災;非人者,則敬慎在我。須其在我者,而靡恤其在外,君子所以敬慎而底乎成也。剛健之力,尤見於多凶之地。需于血,出自穴也,須而聞也。坤之黃裳,中也;同人之正,正也;蒙以養正,聖功也。以中正者,正之中;以正中者,中之正。需而來,其入也,損不速之客也。敬而之終,終必得位矣。損則逆,需則不速。觀國則利賓,遇而包則不利賓,易之道也。不當位者,需之終也;元亨正位,所需也。
災禍は外面より来り、我の招く所に非ず。「自我致寇」、則ちそれは別人の事に非ず。我の招くに非ざるは、无妄の災なり。別人の事に非ざるは、敬慎の責任は我に在り。あの我に在る一分を守住して、而してあの外に在る一分を憂慮せず、此れすなわち君子が敬慎を以て成功に抵るの道理なり。剛健の力量は、尤も多凶の地に顕る。「需于血、出自穴」は、等待して而る後に聴聞する所有るなり。坤卦の「黄裳」は中、同人卦の「正」は正、「蒙以以養正」は聖功なり。「以中正」は、正当中の中なり。「以正中」は、中当中的正なり。等待して而る後に来るは、其れ内に入るなり、すなわち損卦の説く所の「不速之客」なり。恭敬して終に至れば、最後必ず位を得。損は逆、需は不速なり。観卦「観国之光、利用賓于王」は利賓、姤卦は遇うて能く包すれども利賓ならず、此れすなわち《易》の道理なり。「不当位」は需の終を説き、「元亨正位」は正に等待すべき所なり。
訟卦(坎下乾上)
坎下乾上。訟者,相違而不孚之名也。有孚窒惕則中吉,中吉終凶者,訟而不改故也。利見大人者,訟所利也;不利涉大川者,見而未利也。是故養必有訟,復乃可成。中無吉,有在則有吉,惟訟與師之九二。上剛則上不虛,下險則下不易,下不易闕而上不順者,上下違行之象也。
訟卦は、卦体は坎下乾上なり。「訟」は彼此相い違い互いに信服せざるの名目なり。「有孚窒惕」は則ち中吉なり。「中吉終凶」と説くは、争訟して肯んじて改めざるに因る。「利見大人」は、争訟の能く得る所の利なり。「不利渉大川」は、見るを得と雖も仍ほ未だ利有る時に到らざるなり。故に涵養有れば必ず争訟有り、能く回復してこそ成就す。「中」本身は吉と談ずべからず、依着する所有りてこそ吉有り、此の一点はただ訟卦と師卦の九二のみ之に当たるを得。上体は剛健なれば則ち上は虚ならず、下体は険陷なれば則ち下は平易ならず。下は平易ならずして缺有る所、上は又肯んじて順従せず、此れ正に上下相い違いて行うの象なり。
剛健本上,柔順本下,上下之所以不交者,剛不來也;剛來則得中矣。以得中之訟而將涉大川,終凶而不可成也必矣。易曰可貞無咎,具中正之徳者,其人大矣。乾之五二皆利息也,況中吉而未終者可不尚乎?善習者不違也。昧之終之義者,入非其所,終不自疑也。易曰迷復凶,不永所事者,思不逺復之義也。
剛健は本より上に在るべく、柔順は本より下に在るべし。上下の相交わらざる所以は、剛の肯んじて下り来らざるに因り、剛は一たび下り来れば便ち中を得。此の已に中を得たる争訟の身を以て大川を渉れば、最終必ず凶にして事を弁成せず。《易》に曰く「可貞无咎」――中正の徳を具備する人は、あれは了不起の人物なり。乾卦九五・九二は皆止息に利有り、況んや「中吉」にして未だ終結せざる人は、能く此の一点を崇尚せざらんや。善く温習する人は時勢に違逆せず。「終之」の此の一層の意思に昧たる人は、待つべからざる処に進入して、最後に還た自ら疑惑を生ぜざらんや。《易》に曰く「迷復凶」。「不永所事」は、講ずるは正に思慮遠からずして能く及びて回頭するの意思なり。
小有言者,括其大也。初能如是,雖小有言,辯而弗措,終必得矣。應則不克,以剛處險,應而訟也。邑人者,往於有而宜遷者也;遷而後得其所,得其所者謂之歸矣。我歸矣,彼自逋也。逋其邑人三百戶,則我無眚矣。處坎之中,歸其所也;無眚者,中之吉也。逋竄者逺矣,我則近矣,致一之益也。顏子之修身如是。
「小有言」は、大の争端を収束するなり。初六は能く此の如くせば、稍々言語の争有りと雖も、ただ辨明して搁置せざれば、最終必ず得る所有り。応有りて反って取勝する能わざるは、剛を以て険に居り応有りて訟を成せばなり。「邑人」は、身は所有の地に処りて遷走すべき人なり。遷走したる後にこそ其の所を得、其の所を得るを便ち「帰」と曰う。我が帰れば、彼は自然逃匿す。「逋其邑人三百戸」にして、我は便ち災眚無し。坎の中位に処るは、其の所に帰るなり。「无眚」は、中を得るの吉なり。逃竄する人は已に遠去し、我は却って近処に守る、此れ専一致志の得る所の益なり。顔回の修身は、正に此の如し。
舊徳者,恆簡恆易之徳也。食焉而後新,舊與新不相違,則吉無訟矣。食焉而不食者,命也,碩果是矣;食焉而食者,亦命也,井冽寒泉是矣。是故自下者掇患,從上者吉,吉凶悔吝未有不生乎下者也。貞厲而不違者,其見天地之心乎!易曰夬履貞厲,位正當也。履貞厲者,終必有乾矣。
「旧徳」は、恒に簡にして恒に易なる徳なり。旧を享用して然る後に新有り、新旧は相い違背せず、便ち吉にして訟無し。享用して其の実喰らうを得ざるは、命なり、剝卦の「碩果不食」便ち是なり。享用して確かに喰らうを得るも、亦命なり、井卦の「井冽寒泉食」便ち是なり。故に下より事端を挑起する人は自ら禍患を招き、上に順従する人は吉を得――吉凶悔吝は下より生じ来らざるは無し。正を守り危に処りて違逆せざる人は、大略就中天地の心を見ん。《易》に曰く「夬履貞厲、位正当也」。能く「履貞厲」する人は、最終必ず乾徳を得ん。
貞厲者,有無妄也。其履如是,正而無眚。小畜之尚徳載婦、噬嗑之徳當、大壯之用罔,皆貞厲也。旅焚其次,則貞厲喪矣。食焉而貞厲者終吉,去故而貞厲以需者終悔亡也。然則訟也更也,舍貞厲其可乎?詩曰:無小無大,從公於邁。或者,或之也;或從王事,則其成虧矣。是故一於貞厲者無不成也,從事而二三者無不虧也。
能く「貞厲」する人は、无妄の徳を懐くなり。其れ此の如く履践に往けば、便ち正にして災眚無し。小畜の「尚徳載」「婦貞厲」、噬嗑の「貞厲无咎」、大壮の「小人用壮、君子用罔」は、皆貞厲に属す。旅卦「焚其次」、則ちそれは貞厳を連んで丟掉せり。旧徳を享用して能く貞厲するは、最終吉を得。故旧を除去して能く貞厲を以て待つは、最終悔亡す。此の如く見れば、争訟に論ずるも改易に論ずるも、「貞厲」の二字を捨てて行う可けんや。《詩経》に曰く「无小无大、従公于邁」。謂う所の「或」は、不定の心を存するなり。「或従王事」にしては、あの成就は便ち虧欠有らん。故に貞厲に専一する人は事を成さざる無く、事を為して三心二意の人は虧損せざる無し。
易曰三人行則損一人,一人行則得其友,不克也,故訟。訟而復者,即命也。命在天,始與之違,而今與之即。安貞吉者,坤之貞也。渝而不失,則其渝得矣;渝或失或不失,易之道也。九五大人也,訟之主也。訟者,見之利也;見矣而未可涉也,涉而後利,故曰具中正之徳者其人大矣,以中正也,非元吉乎?
《易》に曰く「三人行則損一人、一人行則得其友」、正に能く相勝せざるに因りて、故に訟を成す。争訟の後に能く回頭するは、天命に就くなり。命は天に在り――起初は彼と相い違い、如今は彼と相い就く。「安貞吉」は、坤の貞なり。変じて其の守を失わざれば、あの変は便ち得る所有り。変じてあるいは失いあるいは失わざるは、本より《易》の道理なり。九五は大人にして、訟卦の主爻なり。争訟する人の図る所は「見大人」の利なり。已に見るを得て仍ほ険を渉るべからず、渉過したる後にこそ利有り、故に曰く「中正の徳を具る人は了不起の人物なり」――正に其の中正なれば、此れ豈就中元吉に非ずや。
或錫之,未蕃庶也;終朝三褫之,夕可不惕乎?晉如愁如,然後受茲介福;以訟受者,可不進乎?維用伐邑,光亨可需也。服如服膺之服,敬在復禮之後。能見其過而內焉,訟於聽訟也何有?內不自訟,人將訟之。曰爭曰更,由我則亨。訟而宜進者,何訟不親也?
「或錫之鞶帯」は、恩寵は還た豊厚と算せず。「終朝三褫之」は、傍晚に到りて能く警惕せざらんや。晋卦に曰く「晋如愁如」、然る後にこそ「受茲介福」。争訟に凭りて賞賜を得る人は、能く上進を力求せざらんや。「維用伐邑」は、光明亨通にして有待するを得。「服」は服膺の服にして、恭敬は「復礼」の後に落つるを要す。能く自己の過失を見て反りて内に求めば、則ち聴訟の此の一件の事の上に於て還た何の難処有らんや。内裏は自ら責訟せざれば、別人は便ち来りて汝を訟えん。争と説くも改と説くも、ただ我より做起すれば便ち亨通すを得。争訟して前進に宜しきは、何れの一場の争訟か彼此相い親しまざるより起らざるに因るなり。
