臨卦(兌下坤上)
兌下坤上。臨者,大也。不曰大而曰臨者,臨之大在乾,乾之臨在臨也。乾元亨利貞,乾行也;臨元亨利貞,行乾也。至于八月有凶者,有行斯有志矣,君子觀焉。是故以臨行乾,乾剛方長而思有凶也。
臨卦は、卦体は兌下坤上なり。「臨」はすなわち大なり。直截に「大」と説かずして「臨」と説くは、臨の大は乾より来り、而して乾の臨は正に此の「臨」の上に落実せばなり。乾は「元亨利貞」と説くは、乾自ら行くなり。臨は「元亨利貞」と説くは、乾道を奉行するなり。「至于八月有凶」に至りては、説くは一たび行う所有れば便ち心志有り、君子は此れに於て細看するを当とす。故に「臨」を用いて乾道を奉行するは、正に陽剛の方長の時に当たりて便ち凶有るを預想するを要す。
大之亨者,以正也;以正者,天之道。以教思無窮、容保民無疆者,人之道。消不乆者,恆而已矣,天之道也,君子觀焉,臨也。無窮者,天之行;無疆者,地之徳。聖人之教,成於徳行。元亨利貞,乾行也,咸而後具。初九九二之吉,由咸臨也。初則未中,故貞吉;二則中而得位,故吉無不利。初貞二利,皆得於乾,故皆吉也。貞而未行者,命也;志行正者,性也;吉無不利,亦命也。闕。
「大」の亨する所以は、正なればなり。而して能く正する所以は、天の道なり。「教思无窮、容保民无疆」は、則ち人の道なり。消退して能く長久せざるは、靠るはただ一個の「恒」、此れ天の道にして、君子は此れに於て観照す、すなわち「臨」なり。「无窮」は天の運行にして、「无疆」は地の徳なり。聖人の教化は、徳行の上に成就す。「元亨利貞」は乾自ら行くにして、「咸」(感)有りて而る後にこそ斉備す。初九・九二の吉なる所以は、正に「咸臨」に由る。初九は還た未だ中を得ざれば、故にただ「貞吉」と説くのみ。九二は既に中を得又位に当たれば、故に曰く「吉、无不利」。初九の貞・九二の利は、皆乾より得たれば、故に皆吉なり。正を守りて未だ施行せざるは、命なり。心志の行う所は皆正なるは、性なり。「吉无不利」も、亦命なり。此の下原文に闕有り。
観卦(坤下巽上)
坤下巽上,闕。以下觀上,為圜為大赤,孰為下求我而物與觀也?小人道非自道也,況有厲利己之道乎?知各宜易。大觀在上,我何窺焉?入于幽谷,失中矣。曰中而失中,未可也。坤之二曰不習無不利。我生進退,巽之初也;變化者,進退之象。晦其家,知有主;用六承順,有尚矣。
観卦は、卦体は坤下巽上なり、此処原文に闕有り。下者を以て上者を仰観するは、象を取りて円と為り大赤と為る。誰か肯んじて下位に屈居して我を求め、而して万物は又肯んじて我と共に観せんや。小人の道は并せ自身本より有るの道に非ず、況んや「有厲利已」のあの一路の做法をや。各々其の所宜を知れば、便ち平易なり。大の観るべきは高く上に踞る、我又何必ずしも門縫より裏へ窺看せんや。「入于幽谷」にして、便ち中を失う。口に中を得と称して其の実中を失うは、あれは行わず。坤卦六二に曰く「不習无不利」。「観我生、進退」は、巽卦初爻の意思なり。能く変化するは、正に進退の象なり。其の家を晦蔵して、こそ主有るを知る。「用六」して能く承順すれば、便ち崇尚する所有り。
觀我生君子者,觀我生行四徳者,五也。是故中正以觀天下,莫尚乎觀民。觀其生君子者,觀上也。未坦坦也而闕觀也,觀其生者未一也,非雲行也,非晦感也,非稱物之施也,非不盈之坎也,觀之極如是而已。然無咎者,觀君子也。不滅觀乎乃止,止乃即艮之時。即也,時之即艮也。
「観我生、君子无咎」は、指すは自己の生を観て四徳を奉行するあの一爻、すなわち九五なり。故に中正の徳を以て天下を観照するは、民情を観察するより要緊なるは無し。「観其生、君子无咎」は、上に在る人を仰観するなり。道路は還た坦蕩と算せず、而して此処に又「観」に言及する闕文有り。「観其生」の人は還た未だ専一に帰せず。既に「雲行」に非ず、亦「晦感」に非ず、「称物平施」の施与に非ず、亦「不盈」の坎に非ず――観の極処に到るも、亦過ぐるも此の如くのみ。然るに能く「无咎」たる所以は、観る所は君子なればなり。此の一份の観照を熄滅せざれば、こそ止むを得。一たび止めば便ち艮の時に合す。謂う所の「即」は、すなわち時機の艮に合するなり。
形而上者謂之道,道則有象矣。成象成物,在天在地。天地設位,聖人成能,行立乎其中而成,而與無不成也,無不與也,而易不與焉。在知為知,在作為作。風行地上,其化可觀,其行莫睹。方者,物之所;民者,君之二;教者,化之跡。
形而上のを道と曰い、道有れば便ち象有り。形象を成就し万物を成就するは、一は天に在り一は地に在り。天地は上下の位を設定し、聖人は自己の才能を成就し、其の中に運行確立して成る所有り。それは成さざる所無く、亦與らざる所無し、而して《易》本身は却って其の間に参与せず。「知」の上に落れば便ち知と成り、「作」の上に落れば便ち作と成る。風は地上に吹行して、其の化育は見るべく、其の運行は却って見えず。「方」は万物の処する地にして、「民」は君の第二重の身分にして、「教」は化育の留下する痕迹なり。
噬嗑卦(震下離上)
震下離上。天地養萬物,自有合也。自嘉自利,無幽不達。頤中有物,則噬而嗑也。噬嗑而亨,無合而□也。不分不合,不合不章。柔得中,明也;上行,動也;動而明,章也。蒙初六用桎梏,坎上六置叢棘,睽六三之天劓,困九五之劓刖,皆象也。中孚之議獄緩死、解之赦過、旅之不留、賁之無敢,皆君子之情也。
噬嗑卦は、卦体は震下離上なり。天地は万物を養育して、本より自ら相合する道有り。自ら能く嘉美し自ら能く物を利し、再び幽暗の角落も通達せざる無し。口中に物を含めば、便ち咬開して而る後に合上するを要す。噬嗑して能く亨するは、合せざればなり。分かれざれば便ち合攏せず、合攏せざれば便ち彰明する能わず。柔にして中を得るは、明なり。上に向かい行くは、動なり。動きて能く明なれば、便ち彰明せり。蒙卦初六「用説桎梏」、坎卦上六「寘于叢棘」、睽卦六三の「其人天且劓」、困卦九五の「劓刖」は、皆刑獄の象なり。中孚卦の「議獄緩死」・解卦の「赦過宥罪」・旅卦の「不留獄」・賁卦の「无敢折獄」は、皆君子の用心なり。
豐則多故矣,折獄致刑,其時然也,非聖人之所尚也。噬嗑之利用獄,利於除間而已矣,非以用獄為利也。豐亨王假之,豈以折獄為務哉?頤中有物,間而未合,害也,必除焉乃終。小懲大戒,所以養民。滅趾不行,養之初也。乘剛處中,則所噬皆柔,柔則易矣,如夬之決一陰也。
豊卦に到れば、事故は便ち多し。「折獄致刑」はあの時勢の然らしむ所にして、并せ聖人の崇尚する所に非ず。噬嗑卦「利用獄」は、只是中間の梗阻を除去するに利するのみ、并せ刑獄を用いるを以て利と為すに非ず。豊卦に曰く「亨、王假之」、豈断案を以て要務と為さんや。口中に物を含んで、中間に梗りて合する能わざるは、あれは害にして、必ず除去してこそ了結す。「小懲大戒」は、正に用いて民を養うなり。「屨校滅趾」して能く行かざるは、あれは養の開端なり。剛に乗りて中に処りて、咬む所は皆柔爻にして、柔なれば便ち易し、恰も夬卦のあの一個の陰爻を決去するがごとし。
絶彼之通,所尚乃窮。即戎則不足以絶之,中乃絶闕。不正過中之柔,其噬難矣,過毒者也。毒不在它,噬失而自致也,故曰小吝無咎。得金矢,則其剛直矣;損其直,乃光也。損之實難,黃金而矢可知也,當而光可知也,貞厲而章可知也。除間之序,先難而後易,得當則既除矣。貞厲無咎,孰先孰後?同乎一當。滅耳則終不聞矣;滅耳之凶,始於不聞而終於無聞。
他人の通路を断絶するは、崇尚する所は反って窮途に走り到る。真に刀兵を動起しても、還たそれを断絶するに足らず。中に居りてこそ断絶すを得――此処原文に闕有り。端正ならずして又中に過ぎたる柔爻は、咬み起せば便ち難し、あれは毒に過ぎたり。毒は別処に在らず、自ら口を咬失して自ら招くなり、故に曰く「小吝无咎」。「得金矢」にして、便ち其の剛直を見る。能く自己の直を減損して、こそ光明なり。減損は実に難し、「黄金」と「矢」との分量は此に由りて知るべし、「当而光」は此に由りて知るべし、「貞厲而章」も此に由りて知るべし。梗阻を除去する次序は先に難にして而る後に易にして、一旦当を得れば、梗阻は便ち已に除尽せり。「貞厲无咎」にして、誰か先に誰か後にするや。皆一個の「当」の字に帰す。「何校滅耳」にして、便ち終に聴見えず。滅耳の凶は、肯んじて聴かざるより起り、終に再び聴き取る能わざるに至る。
賁卦(離下艮上)
離下艮上。物相雜,天文也。文不可以色見,明以止者見之;明以止,亦文也。明庶政無敢折獄,人文也。以舎為初,剛以為義。須,需也。中而與上,故興用六之吉,終不適險。離也,故曰濡如;艮也,故曰翰如。
賁卦は、卦体は離下艮上なり。事物は互いに錯雑するは、あれは天文なり。文采はただ顔色の上より見るべからず、「明而能止」の人に靠りてこそ見るを得。明にして能く止まるは、本身も亦一种の文なり。「明庶政、无敢折獄」は、あれは人文なり。「舎」を以て開端と為し、剛を以て義と為す。「須」はすなわち等待なり。中に居りて上と相親しければ、故に「用六」の吉を興起して、終に険処に走向するに至らず。離なれば、故に曰く「濡如」。艮なれば、故に曰く「翰如」。
用六也,故終無尤;而吝皆有終者,亦以用六故也。當位疑也,故白馬翰如,匪冦婚媾,要其終也。終無尤,應初也。其義云何?舎而已矣。初九之舎,行乾也;六五之吝,用坤也。君子之文,爻異而天同,果而已,安用飾?賁,飾也,故終乃有喜。應而志上,白而非色,習謙宜熟賁爻。
六を用いるに因りて、故に最終に過尤無し。あの「吝」を帯ぶる爻も皆終有り、同じく六を用いるに因る。位に当たりて疑を生ずれば、故に曰く「白馬翰如、匪寇婚媾」、此れ其の結局に就きて言うなり。「終无尤」は、初爻と相応ずるなり。其の義理は何ぞや。過ぐるも一個の「舎」の字のみ。初九の「舎」は、乾道を奉行するなり。六五の「吝」は、坤道を取用するなり。君子の文采は、爻は各々異なるも其の天に本づく所は相同じ。果決すれば便ち足る、何必ずしも外加して修飾せんや。「賁」はすなわち修飾にして、故に最後に到りてこそ喜有り。応有りて志は上に向かい、白を尚びて顔色を取らず――謙徳を熟習せんと要せば、便ち賁卦の各爻を読透すべし。
剝卦(坤下艮上)
坤下艮上。柔變剛,名曰剝。窮則變,天也,人亦如之,故曰剝剝也。剝不利有攸往,夬亦有不利焉;否不利君子貞,泰亦有不利焉。時則行,不利則止,君子之所尚也。盈者,物之始生;息者,物之終盡。盈必有虛,消而後息,天地之終始也。終始不息之謂行,天行無止,順而止之者人也。
剝卦は、卦体は坤下艮上なり。柔は剛を変去するを、名づけて「剝」と曰う。尽頭に走り到れば便ち変ず、此れ天理にして、人事も亦一様なり、故に曰く剝はすなわち剝落なり。剝卦「不利有攸往」にして、夬卦も亦不利の処有り。否卦「不利君子貞」にして、泰卦も亦不利の処有り。時機到れば便ち行い、利ならざれば便ち止まるは、此れ君子の崇尚する所なり。「盈」は万物の生長を始む、「息」は万物の尽頭に終る。盈満の後は必ず空虚有り、消退の後にこそ生息すを得、此れすなわち天地の終りて復た始まるなり。終始して息まざるを「行」と曰い、天の運行は止息無く、能くそれに順いで適時に止住するは、人なり。
人則有觀矣。觀乃謂之象,行乃謂之徳。元亨利貞,乾之四徳也;行此四徳者,君子也。是故天行無止,而尚天行者不息。山象君,地象民;民為本,本固寧。是故上以厚則下安宅,下安其宅則上得所附。詩曰俾爾單厚,民言如是,其君可知矣;書曰光宅天下,上治如是,其下可知矣。
人は止有れば、便ち観るべき有り。観るべき有るを便ち「象」と曰い、能く行うを「徳」と曰う。元・亨・利・貞は乾の四徳にして、此の四徳を奉行するは君子なり。故に天の運行は止まず、而して天行を崇尚する人も亦停息せず。山は君を象征し、地は民を象征す。民は根本にして、本固ければ則ち国安し。故に上者は下に待つこと寛厚にして、下者は便ち其の居に安んずるを得。下者は其の居に安んずれば、上者は便ち依附する所有り。《詩》に曰く「俾爾単厚」、百姓の話は此の地步に説き到れば、其の国君は何様の人かは想い知るべし。《尚書》に曰く「光宅天下」、上者は此の地步に治理すれば、其の百姓は何様の人かは亦想い知るべし。
剝也復也,皆天行也;尚天行者,兩觀焉。剝自下始,始於蔑貞,蔑貞以情。床者,人所息偃,中而止之,有與而後濟,今未辨也。中而需,能失上下而應上九,則位雖六三而不任變剛之咎。於剝能失,則於復能獨。以足以膚,其以漸也;以辨其以中也,宮人寵猶貫乎一。六五不如是,有復乎?用其道以自利也,而盡其所以自庇者,則其終也自不可用。是故墜於地者必復。解上六之以解悖也,大矣哉!剝六五之無不利也,廣矣哉!順而止之,廣也;靜得其時。
剝と復とは皆天の運行にして、天行を崇尚する人は、此の両卦を合して看るを要す。剝は下面より始まり、「蔑貞」に起りて、而して蔑貞は私情より出ず。「床」は人の休息偃卧する処にして、中に居りてそれを止住するは、人の相助有りてこそ事を済すを得、如今還た分別し明白せず。中に居りて能く等待し、能く上下を捨棄して上りて九爻に応ずれば、則ちそれは六三の位に処ると雖も、亦「変剛」の過咎を承当せず。剝卦の裏に於て能く捨するは、復卦の裏に於て便ち能く独行して其の志を行う。「足」より「膚」に至るは、漸漸上に向かう。「辨」より「中」に至るは、「宮人寵」も亦仍ほ一に貫穿す。六五は若し此の如くならざれば、還た「復」有るを談ずるに足らんや。其の道を用いて只自ら其の利を謀り、又自我庇護の手段を用い尽くせば、則ち尽頭に到りて彼自らも亦任じ用いる可き無し。故に地に墜落するは必定会回復す。解卦上六は用いて悖乱を解除す、真に大なるかな。剝卦六五の「无不利」は、真に広きかな。順にして之を止むるは、すなわち広し。静にして能く其の時を得。
復卦(震下坤上)
震下坤上。復其見天地之心乎!亨而復大者正,正大而天地之情可見矣。復其見乎亨也,可見矣,小亨也。中也者,冬也;閉也者,拒也;不行者,貞也;后者,諸侯也;不省方者,觀息也;無祇悔者,之終也。窒惕之終,所以修身。
復卦は、卦体は震下坤上なり。復卦よりは大略天地の心を見るを得んか。亨通して能く回復するは、大者は正に帰す。既に正にして且つ大なれば、天地の情状は便ち見るべし。復卦の見る所は其の実「亨」の上に落ち、見るべきは、あの一点の小小の亨なり。謂う所の「中」は、冬なり。謂う所の「閉」は、拒なり。「不行」は貞なり。「后」は指すは諸侯なり。「不省方」は其の止息を観るなり。「无祇悔」は、終点に走り到るなり。窒塞して警惕を知り、一直に終点に走り到るは、正に用いて身を修むるなり。
下仁則得師矣,故休。頻復,勉也;厲者,義而已矣。勉而厲,及其成功一也。復於五陰之中,不可謂之眾矣,中也,故從中則自考而無不考也,坤之敦也。迷,不覺也。有災,非無妄也;有眚,匪正也。行師,訟之終也,用如是有不大敗乎?終有者,今未也。以其國君凶者,不以先王閉闗之道復其王也。閉闗,節也;出戸庭,訟不內矣,其有改乎?其體震也,而其用柔中,休也。
仁を以て自ら下に処れば、便ち老師を得着す、故に曰く「休復」。「頻復」は勉力して之を為すなり。「厲」は過ぐるも義のみ。勉力なりとも危厲なりとも、成功に等到せば、皆一様なり。五個の陰爻の当中に於て回復するは、還た「衆」と称するに足らず、只是中を得るのみ。故に此の「中」に随従して、便ち自ら省察して察せざる無し、すなわち坤卦の言う所の「敦」なり。「迷」は自覚せざるなり。「有災」は便ち无妄と算せず、「有眚」は便ち正と算せず。「行師」は争訟の結局にして、此の如く兵を用うるは、能く大敗せざらんや。「終有」は、説くは如今還た未だ有らず。「以其国君凶」は、肯んじて先王の閉関の弁法を用いて其の王道を回復せざるなり。「閉関」は節制なり。「出戸庭」にして、便ち更に争訟を家内に留めず、此れ豈改有ると算せざらんや。其の体は震にして、而して其の用は柔にして中を得、此れすなわち「休」なり。
无妄卦(震下乾上)
震下乾上。無妄元亨利貞,有無妄徳亦具。其匪正,則獨而已矣;有眚,則眇而已矣。剛自外來,復也,復則不妄矣。動而健,不孤也;剛中而應,不眇也。夫是之謂大正。大之亨,以正也。天之命,命也;天命之性也。聖人之作易,順此而已。自外來者,物也;物與則有明有行,不眇跛矣。
无妄卦は、卦体は震下乾上なり。「无妄、元亨利貞」――无妄有れば、徳も亦斉備せり。若し端正ならざれば、便ちただ孤独を剩すのみ。若し災眚有れば、便ちただ偏眇を剩すのみ。剛は外面より来る、あれは「復」なり。能く復すれば便ち妄ならず。動きて剛健なれば、便ち孤ならず。剛中にして応有れば、便ち眇ならず。此れを「大正」と曰う。「大」の亨する所以は、正に靠る。天の命ずる所は命にして、天命の賦与する所は性なり。聖人の《易》を作るは、過ぐるも此の道理に順うのみ。外面より来るは物なり。物来りて相與すれば、便ち明有り行有りて、更に又眇く又跛くるは無し。
多而一,一而多,故曰茂對時育萬物。繫辭曰:精氣為物,游魂為變。往而無不利者,無妄也;其匪正有眚,則不利有攸往。是故有無妄者,必觀其初,得失之原,制之在初;初不妄往,必得志矣。不作而成者,不耕穫也;不先而後者,不災畬也。不耕穫、不災畬,則利有攸往。未富者,需也,是謂無妄之中。
多にして一に帰し、一にして多を生出す、故に曰く「茂対時、育万物」。《繋辞》に曰く「精気為物、游魂為変」。往きて利あらざる無きは、无妄なり。若し端正ならずして災眚有れば、則ち「不利有攸往」。故に无妄の徳を懐有する人は、必定其の開端を審察す。得失の根源は就中最初に制約せり。開頭は妄動せずして往けば、必定能く志を得。刻意して為さずして自然成就するは、すなわち「不耕穫」。前に搶走せずして随後に相応ずるは、すなわち「不菑畬」。能く耕さずして穫、能く菑わずして畬なれば、便ち往く所有るに利有り。「未富」は等待にして、此れを无妄の中と曰う。
損之九二曰利貞征凶、弗損益之,象曰九二利貞,中以為志也。行人者,宜徵者也,或而繫,繫乃得牛;邑人者,宜止者也,征則凶矣。六三震也,故為行人,又為邑人;或得或災,皆失無妄之中也。志乎無妄之中者,弗損益之。正位凝命,何取於震之象乎?九四可貞無咎,乾事莫大乎享,享莫先於有無妄也。
損卦九二に曰く「利貞、征凶」「弗損益之」、《象伝》に曰く「九二利貞、中以為志也」。「行人」は出行に宜しき人にして、遅疑する所有りて繋住せられ、一たび繋すれば便ち牛を得。「邑人」は止住に宜しき人にして、一たび出征すれば便ち凶。六三は震に属すれば、故に行人と作すを得、又邑人と作すを得。あるいは得るあるいは災なるは、皆无妄の中を失うなり。心志の无妄の中に安んずる人は、こそ「弗損益之」し得。其の位を端正し天命を凝定するは、何必ずしも震の躁動に取象せんや。九四「可貞无咎」。事務を幹弁するは祭享より大なるは無く、而して祭享は又无妄の心を懐くを以て先と為す。
損乃可,可乃有,有乃恆,恆乃喜,喜乃慶。積善之家必有餘慶,外也;不家食吉,內也。疾者,未復也;可而後有喜,不可則藥。勿藥有喜,又何試乎?有眚者,不正也;有,其眇也。其往如是,終不得矣。窮之者,無妄之災也,芳自賞。
能く損してこそ「可」、可にしてこそ「有」、有にしてこそ「恒」、恒にしてこそ「喜」、喜有りてこそ「慶」有らん。「積善之家必有余慶」は、あれは外面に就きて説く。「不家食吉」は、あれは内裏に就きて説く。「疾」は還た未だ回復せず。可にして而る後にこそ喜有り、不可なれば便ち薬を用いるを得。「勿薬有喜」にして、又暫く嘗試せんことを何必ずしもせんや。「有眚」は不正にして、一個の「有」の字を説くは、正に其の偏眇を見出す。此の如く往くは、最終一の得る所も無し。人を窮途に逼到するは、正に无妄の災なり――過ぐるも徒らに芬芳有りて自我欣賞するのみ。
大畜卦(乾下艮上)
乾下艮上。豚魚吉利渉利貞者,中孚也;利貞不家食利渉者,大畜也。五大二亦大。五得尊位大中而名世者在內,剛健篤實輝光日新,時可知矣。其徳剛上,二也;尚賢能止健,五也。無尤而有慶,大正也。二之所以無尤者,以吉也;五之所以有慶者,以中也。利涉大川,應故也。何天之衢,大之終也。
大畜卦は、卦体は乾下艮上なり。「豚魚吉、利渉大川、利貞」と説くは、中孚卦なり。「利貞、不家食吉、利渉大川」と説くは、大畜卦なり。九五は大、九二も亦大なり。九五は尊位を得て大中に居りて当世に名重く、根子は却って内卦に在り。「剛健篤実、輝光日新」にして、其の時勢は此に由りて知るべし。「其徳剛上」は九二を説き、「尚賢能止健」は九五を説く。過尤無くして喜慶有るは、正に大正なり。九二の尤無き所以は、其れ吉なればなり。九五の慶有る所以は、其れ中なればなり。「利渉大川」は、上下相応ずればなり。「何天之衢」は、大の極処に到るなり。
乾坤二物也,其行不可分。名世之可名,天行也;舉名世而行天衢,故曰大畜時也。其徳者,天徳也;以畜其徳者,止乎順也。利者,坤道也;利己者,坤志也。雖危無咎,順也。已者,一已也;危而厲己,雖遇無妄之災,非我犯也。大畜之初,志而後行。輿者,五所安也;說輻者,未變也。
乾と坤とは両個の物なれども、可なる其れらの運行は截然として分開すを得ず。当世に名重くして名を称す可きは、天の運行なり。此の一份の名世を挙起して天衢に行けば、故に曰く大畜は「時」を講ず。謂う所の「其徳」は、すなわち天徳なり。用いて此の徳を畜養するは、止みて能く順なるなり。「利」は坤道にして、「利已」は坤の心志なり。危なしと雖も咎無きは、順なればなり。「已」はすなわちあの一個の「已」なり。危に処りて自ら懼を知らしむれば、即ち无妄の災に遇上するも、亦我が往きて触犯するに非ず。大畜の初爻は、先に志を立てて而る後に行う。「輿」は九五の安処する所の物にして、「説輻」は還た未だ変だ変ぜざるなり。
以健止者,中也;能止健者,慶也。大之未變者,未禴也;小之反目者,未繩也。君子之闕,時乎不正;無時乎不正者,聖人之時也。大畜也者,乾行也,利己而艱貞者也。日閒輿衛者,議之而後動也;上合志者,我無合也。良馬者,乾也;逐者,我欲也,法乾乾也,一而順。童牛也,童牛之牿,戒懼之至也。
剛健を以て能く止まるは、中なり。能く剛健を止住するは、慶有り。大者の未だ変ぜざる所以は、還た未だ「禴祭」の時に到らざるなり。小者の「反目」なる所以は、還た未だ縄墨のごとく拉直せざるなり。君子は此処に原文闕有り――時に正ならざる有り。時に正ならざる無きに至りては、あれはこそ聖人の時なり。大畜は、すなわち乾の運行にして、已を利して又艱難に正を守るなり。「日閑輿衛」は、商議して而る後に行動す。「上合志」は、我は并せ往きて相合を強求せず。「良馬」は乾を指し、「逐」は我が欲求にして、效法する所は乾乾の不息、専一にして順なり。童牛に説き及べば、「童牛之牿」は戒懼の極処に到るなり。
利己初志也,今喜焉,元吉也。童牛之牿,止其未有;豶豕之牙,克其方用。止其未有者,吉而元吉;克其方用者,大而無為。一人有慶,莫尚乎此。上行而三合,五吉而四喜。初發志者,有厲利己,中無尤之世也。何之亨?中無尤之道行矣。
「利已」は初爻の立志にして、如今喜有れば、故に「元吉」と称す。「童牛之牿」は、其れ未だ角を生ぜざるに趁りて之を止住す。「豶豕之牙」は、其れ正に力を用いんとするに趁りて之を制住す。其の未有に趁りて止住するは、吉にして又元吉なり。其の方用に趁りて制住するは、大にして作為を要せず。「一人有慶」にして、此れより崇尚すべきは無し。上爻は上行して三爻と相合し、五爻は吉を得て四爻は喜有り。初爻は其の志を発して、「有厲利已」と曰うは、あれは正に中に居りて過尤無きの時世なり。何処に往きてこそ亨せんや。中に居り尤無きの道は能く推行すれば、便ち亨せり。
頤卦(震下艮上)
震下艮上。貞吉征凶。觀而後可求者,頤也;求口實者,自也。自求自養,不可情以求也。一而不孤,二而非合,故貞者正也,其養如是則無不吉也。觀其所養,大觀也。養萬物者,天地之物也;不與聖人同憂,及萬民者,賢也,聖人養焉。是故或一以養,或以一養;物而物,人而人,其時大矣。
頤卦は、卦体は震下艮上なり、辞に曰く「貞吉、征凶」。先に観察して而る後にこそ求むべきは、頤なり。「求口実」は、自己に靠るを要す。自ら求め自ら養い、私情に憑りて求めに行くべからず。一にして孤ならず、二にして合せず、故に「貞」はすなわち正なり。此の如く養に往けば、便ち吉ならざる無し。「観其所養」は、大の観照なり。万物を養育するは、天地の物なり。聖人と其の憂を同じくせずして能く万民に惠及するは、賢人にして、聖人は則ち彼らを養育す。故に時に一己を以て人を養い、時に一人に靠りて養う有り。物をして物と成らしめ、人をして人と成らしむ――此の「時」は真に大なるかな。
頤之時、大過之時、解之時、革之時,君子之行此四徳者,乃能隨也,故曰隨時之義大矣哉。爾則公,我則利。舎爾觀我,非無覺也,其覺獨矣。頤之朵,豈亡實哉?君子之養,舎狹貴大,慎其初也。頤之貞吉,六二其位也。止乎貞,則爻位相得;違當適險,則行失類矣,是謂顛頤。
頤の時・大過の時・解の時・革の時に、君子は元亨利貞の四徳を奉行して、こそ時に随いて動くを得、故に曰く「随時之義大矣哉」。汝に在りては公、我に在りては利なり。汝を捨ててただ我を看るは、并せ全く覚悟無きに非ず、只是あの覚悟は太だ孤独なり。「頤」にして「朵」なれば、豈実在の物無からんや。君子の涵養は狭小を捨棄して宏大を看重し、最も謹慎するは開頭なり。頤卦の「貞吉」は、六二は正に其の位に当たる。能く貞に止まれば、爻と位とは便ち相い得。当たる所に違いで険処に走向すれば、行事は便ち同類を失う、此れを「顚頤」と曰う。
夫有萬物然後見天地之養也,有義民無險,見聖人之養也。君子之養,養其中爾,思出其位可乎?是故頤養之道,養則未震,群則有丘。有丘者,未始適險;猶有厲者,未有不惕;有孚者,未始不信也。觀而失,初之凶也;行而失,二之凶也;貞而失,三之凶也。
万物有りて而る後にこそ天地の養を見、義を守る百姓有りて険阻無きにこそ聖人の養を見。君子の養は、只是其の心中の「中」を養うのみ。心思は自己の位分の外に跑り出づれば、可なるか。故に頤養の道は――能く養えば便ち妄動に至らず、能く群に合すれば便ち丘陵の依るべき有り。丘の依るべき有るは、従来より険地に走向せず。仍ほ危厲を帯ぶるは、知らずして警惕せざるは無し。心に孚信を懐くは、誠実ならざるは無し。観て其の養う所を失うは、初爻の凶なり。行いて其の養う所を失うは、二爻の凶なり。貞にして其の養う所を失うは、三爻の凶なり。
是故頤之象,順上乃吉,故曰貞吉。震而無咎者,存乎悔也;存乎悔,則不至於適悔矣。頤貞吉、拂頤貞凶、拂頤拂經,皆不能從上者也,征凶矣,凶皆以拂也。隨時之義,時止時行,其可拂乎?貞乎勿用,則其徵患矣。不與時行,失從上之義,說曰道大悖也。遇而悖道,與解之大主難,皆貞凶。
故に頤卦の取象は、上者に順従してこそ吉なり、因りて曰く「貞吉」。震動して能く咎無きは、心裏に悔意を存するに靠る。心に悔意を存すれば、便ち真に悔を招来するに至らず。「頤貞吉」「拂頤貞凶」「拂頤拂経」は、皆能く上者に順く上者に順従せざるなり、故に「征凶」。此れらの凶は皆一個の「拂」の字より出ず。随時の意義は止むべきに止まり行うべきに行くに在り、怎麼して違逆す可けんや。貞を守ると雖もただ「勿用」を知れば、則ち其の出征は便ち患有り。時と偕に行かざれば、便ち上者に順従するの義を失う、故に《象伝》に曰く「道大悖也」。遇合して道に悖離するは、解卦のあの大にして患難に主ずるの情形と一様にして、皆「貞凶」なり。
當公用射禽之時,以顛悖而靈一進也。六二之顛頤,行妄也;六四之顛頤,從上也。六二之拂經,往也;六五之拂經,居也。夫經者,中而已矣。擇乎中庸者,宜以失類為戒,聖人則無擇焉,所以為法於後世者,順以從上而已矣。道不可以躐取,用不可以僣行,故曰不可涉大川。非聖人之道有可有不可也,躐僣而涉,則不可之大者也,可不戒哉!由頤者,舜之由也,非行也;由而厲,孜孜也。
正に「公用射隼」の時に当たりて、却って顛倒悖乱の方式を以て一味に進を求む。六二の「顚頤」は妄行にして、六四の「顚頤」は上者に順従す。六二の「拂経」は往にして、六五の「拂経」は居なり。謂う所の「経」は、過ぐるも一個の「中」の字のみ。中庸を択擇する人は、「失類」を以て戒と為すべし。聖人は却って揀択する所無く、其の後世の為に法を立つる能くする所以は、ただ順にして上に従うのみ。道は越級して取得すべからず、用は僭越して施行すべからず、故に曰く「不可渉大川」――并せ聖人の道はあるいは可あるいは不可有るに非ず。越級僭越して険を渉りに往くは、あれはこそ最大の不可なり、能く戒懼せざらんや。「由頤」の「由」は、舜のあの種の「由」にして、径直して行くに非ず。由りて危を知るは、正に孜孜不倦なり。
大過卦(巽下兌上)
巽下兌上。直以配專,乾之大也;直以配方,坤之光也。棟,柱也;橈,不直也,不直則不利。利有攸往乃亨,大過之時其象如此。本在於上,末在於下,本末弱,由大者過也。其所以弱者何也?得中則雖柔必強,失中則雖剛必弱也。
大過卦は、卦体は巽下兌上なり。「直」を以て「専」に配するは、あれは乾の大なり。「直」を以て「方」に配するは、あれは坤の光なり。「棟」はすなわち柱にして、「橈」は直ならざるなり。直ならざれば便ち利無し。「利有攸往」して而る後にこそ亨す――大過の時は、取象は正に此の如し。根本は上面に在り、末梢は下面に在り、本末は皆柔弱なるは、大者の太だ過ぎるに因る。其れらは何を以て柔弱なるや。中を得れば、即ち柔なりとも必ず強し。中を失えば、即ち剛なりとも必ず弱し。
剛過而中,巽而說行,然後利有攸往;利有攸往,然後亨也。夫過者,不中之名也;過而能中者,何必曰養而動?動乃不窮。過而不中,豈大者之過乎?大者之過,必與時偕,是故剛動之過,非柔行之過也。頤以養正,成蒙之功;動而亨,凶而不可咎。其出也,其動也未過,則未象,慎術在初。
剛は過ぎると雖も仍ほ能く中を得、巽順にして和悦を以て推行して、然る後にこそ「利有攸往」。利有攸往して、然る後にこそ亨す。謂う所の「過」は、中ならざるの名目なり。過ぎて能く中なる人は、何必ずしも養して而る後に動くと説かんや。一たび動けば便ち窮するに至らず。過ぎて中ならざれば、あれは還た大者の過と算すに足らんや。大者の過は、一定時と偕に行く。故にあれは剛動の過にして、柔行の過に非ず。頤卦は正を養うを以て蒙卦の功夫を成就す。動きて能く亨すれば、凶に遇うと雖も亦彼に帰咎すべからず。彼は出でて為す所有り、動きて未だ過に至らざれば、則ち還た未だ取象の地步に到らず――謹慎の功夫は最初に下すを要す。
枯楊,時也;生,陽也;稊猶女妻也,有生之道。九二中也;九三之不可,時也;上六之不可,義也。民者,君之末也;臣者,上之下也。九四剛而巽,故上不橈之吉。枯楊之時,始生始榮,天不大也;匹以衰陰,雖茍無咎,其能有譽乎?易曰乾父之蠱用譽,承以徳也。過涉,非利涉也;滅頂,不濟也;無咎,不可咎也。小人行險自禍,越理取咎,或托於此。是故大者之義,學者思焉。
「枯楊」は時を講じ、「生」は陽を講じ、「稊」は少妻のごとく、皆再び生ずべきの道理を含む。九二は中を得。九三の「不可」は時の許さざるにして、上六の「不可」は義の許さざるなり。民は君の末にして、臣は上の下なり。九四は剛にして能く巽なれば、故に「棟隆」有りて上は圧弯せられざるの吉有り。枯楊の時節は、剛々萌生し剛々開花す、天は并せ此れを以て大と為さず。配する所は又衰敗の陰にして、縱ち僥幸に咎無しと雖も、還た称誉を談ずるに足らんや。《易》に曰く「干父之蠱、用誉」、あれは徳を以て相承するなり。「過渉」は利有りて水を渡るに非ず、「滅頂」は渡り去る能わざるなり、「无咎」は彼に帰咎すべからざるなり。小人は険を冒して自ら禍患を招き、常理を越出して自ら罪咎を取るは、時に就中此の一爻を以て托辞と為す。故に大者の義は、《易》を学ぶ人は好く体会するを要す。
習坎卦(坎下坎上)
坎下坎上。四不皆非習也,習者重也。乾之徳行易以知險,得乾行乾,水之徳行也。不盈者,水之徳;流而不盈者,水之行;易而無險,水之盈也。行險而不失其信,徳之行也,夫信一而已矣。大畜之尚、豐之尚,行而有功也。設險以不可升為大,險之時用。學而無止者,初失道凶,終繫置入而迷矣。睽蹇之用忌險者,昧焉。
習坎卦は、卦体は坎下坎上なり。四個の爻は并せ皆「習」を講ずるに非ず。「習」はすなわち重畳なり。乾の徳行は平易を以て険を知るにして、乾を得て乾を行うは、正に水の徳行なり。「不盈」は水の徳にして、「流而不盈」は水の行にして、平易にして険無きは則ち水の盈満なり。険の中に行いて其の信を失わざるは、あれは徳の運行にして、而して「信」はただ一個のみ。大畜の「尚」・豊卦の「尚」は、皆行いて功有るなり。険阻を設置して攀越すべからざるを以て大と為すは、此れ「険」の時用なり。学びて止まるを知らざる人は、開頭に於て道を失いて凶にして、最後に繋縛せられ囚置せられ深陷して迷失す。睽卦・蹇卦の用処は険を忌むに在り、此の一点を明白せざる人は便ち昏昧なり。
徳行如水,則常無事矣。無事之事,教事也,習焉以焉,君子也。習坎入坎,其習坎矣。悖者,迷之始;迷者,悖之終。有險則不敢易也,厲而求,故小得。未出者,未發也;巽乎中矣,其發也有不和乎?習坎求中,當觀此爻。來則乘剛,之則無應,坎坎也。初入如是,有險者勿用也。險且枕,有險而即安也。
徳行は水のごとくなれば、便ち常に事無し。事無きの事は、すなわち教化の事なり。能く反復温習して此に依りて行うは、君子なり。習坎して又坎に入るは、あれはこそ真に「習坎」と曰う。悖乱は迷失の開始にして、迷失は悖乱の終結なり。険有れば便ち敢えて軽心を掉せず、危に処りて求むる所有れば、故に只是小さく得る所有るのみ。「未出」は還た未だ発動せず。既に中に於て巽順せば、それは一たび発動すれば、還た和せざらんや。習坎の中に於て「中」を求めんと要せば、当に此の一爻を細看すべし。来れば剛に乗り、去れば応無し、故に「坎坎」と称す。開頭は一たび入れば便ち此の如く、険有る時は便ち「勿用」を当とす。「険且枕」は、険有りと雖も就地に安頓するなり。
朋來無咎,不盈而之中行,有尚往有功者如是。樽酒簋貳,需而損也,養賢也;體不獨也,用缶以不孤也。納約不出,得也;自牖,自而它也;終無咎,君子之焉。解之初明之行,斯不出矣。不盈,虛而一也;既平,終也,無不平也;大則無不平矣,未大,坎故也。離上而坎下,或假之,或祗焉。九五之未大,中也;六二之未出,求也。習坎而繫,其有得乎?維行乃得也。維不繫,行不置,則徳行不遷,教事無間。初入之凶,有險者知其終無功也;上六失道,終不克征矣。
「朋来无咎」は、自満せずして中行に走向す。能く前往を崇尚して功有るは、正に此の如し。「樽酒簋貳」は、待つ所有りて減損するも、亦賢を養うなり。「体不独」にして、瓦缶を用いるは正に孤ならざるが為なり。「納約」して外出せざるは、得る所有り。「自牖」は、自己に由りて他人に通向す。「終无咎」は、君子は此処に於て用心す。解卦初爻は此の一層の行事の理を明白せば、便ち門を出でるを要せず。「不盈」は虚にして一に帰す。「既平」は終にして、すなわち平ならざる所無し。能く大なれば便ち平ならざる所無し、還た大ならざる所以は、正に坎なればなり。離は上に在りて坎は下に在り、時にそれに憑借し、時にそれを敬奉す。九五の還た大ならざる所以は、ただ其の中を守ればなり。六二の還た未だ出でざる所以は、還た求め中に在ればなり。習坎して又繋縛せらるれば、還た得有るを談ずるに足らんや。唯だ行のみ得有り。繋縛せられず棄置せられざれば、徳行は便ち遷改せず、教化の事も亦間断無し。開頭に坎に入るの凶は、険有る人は明かに最終に功無きを知ればなり。上六は道を失い、終究出征する能わず。
離卦(離下離上)
離下離上。牝牛,大牲之母也。重明者,日月之道也;正者,天人之道也。聖人所以繼天而化成天下者,麗乎正而已矣。柔之為道,不利逺者,麗乎中正,故亨,是以畜牝牛吉也。觀麗者可不思乎?維心亨,乃以剛中也;柔麗乎中正故亨,心亨也。重險也,故陷;重明也,故麗。麗乎正也,乃化成天下。
離卦は、卦体は離下離上なり。「牝牛」は大牲の母なり。「重明」は日月の道理にして、「正」は天人の道理なり。聖人の能く天道を承継して天下を化成する所以は、靠るはただ正に附麗するのみ。柔は一種の道として、本より遠に利せざるも、可なるそれは中正に附麗すれば、故に能く亨す、因りて曰く「畜牝牛吉」。「麗」を観察する人は、能く深思せざらんや。「維心亨」は、剛にして中を得ればなり。「柔麗乎中正故亨」は、説くは就中心亨なり。重々は険にして、故に陥る。重々は明にして、故に麗す。正に附麗して、こそ天下を化成すを得。
離上離下,兩作也。父一也,子而兩;君一也,臣而兩;明一也,離而兩。明無作也,東方作矣,人也;人則有麗,貞則無麗也。合矣,與日月合其明,而以繼明照焉,大人也。大過之初,柔而慎也;離之初,健而履也。錯者,物之雜也;敬之之敬,終始不易,徳則固矣。雜而無咎者,其唯恆乎?中道正也。
離は上に在り離は下に在るは、両重の興作なり。父はただ一個にして、子は却って両個有り。君はただ一個にして、臣は却って両個有り。明はただ一個にして、離は却って両重と成れり。明は本身并せ造作せず、可なる太陽は東方に昇起すれば便ち興作、あれは人に属す。人に属すれば便ち附麗する所有り、若し純に貞静なれば便ち附麗する所無し。能く相合して、便ち日月と其の光明を合し、連続不断の光明を用いて照臨するは、則ち大人なり。大過卦の初爻は柔にして慎を知り、離卦の初爻は健にして能く履す。「錯」は事物の錯雑なり。敬を以て敬と為して始終改めざれば、徳は便ち牢固なり。錯雑して能く咎無きは、大略ただ恒のみならん。あれは中道の正なり。
貞坤之中,維坎乎?上下敵應,不相與也。時過矣,何麗焉?憂樂以私,炎上之情也,剛過中者如是。不歌則嗟,以恆者如是乎?何可久也?突如者,小來之貌;焚如死如棄如者,焚然後熄,然後灰,突如之終也。有容徳乃大,無所不容也;終不大矣,中故大。出涕沱若,戚嗟若,吉,固患也,離王公匹也。
貞にして坤の中を守るは、あれは大略坎ならんか。上下敵対して相応じて相い親與せず。時機は已に過ぎて、還た何に附麗せんや。憂と楽とを皆一己の私に繋属するは、あれは火性炎上の情態にして、剛にして中に過ぎる人は便ち此の如し。歌わざれば便ち嘆息し、此の如くの態度を用いて恒を持するは、可なるか。怎麼して長久を得んや。「突如」は驟然として来るの様子なり。「焚如、死如、棄如」は、先に焚焼し、然る後に熄滅し、然る後に灰と成る、あれは正に「突如」の下場なり。容量有りてこそ徳は能く大、能く容せざる無し。「終不大」と説くは、能く中してこそ大なればなり。「出涕沱若、戚嗟若、吉」は、あれは本より憂患を心に有ればなり。離卦六五は王公と相配す。
是之謂中正,異乎昃離不恆之嗟也。蓋無方則不同其憂,顯道則嗟若而示人以吉。王用而公享,升之四可觀焉。晉之上九維用伐邑,未光也;離上九之出征有嘉,而嘉則光矣;解上九之匪其醜也。天地不交而萬物不興,或凶或無咎,人之終始也。邦者,國邑之總;師之開承,泰之反。無以麗正,正乃中,中故正,柔麗乎中正故亨,是以畜牝牛吉也,當中道也。文不當,故吉凶生焉;是故吉凶者,貞勝者也。習坎柔中之得在二,剛中之大在五,離上而坎下也。
此れこそ中正と曰う、「日昃之離」のあの常度を失うの嗟嘆と同じからず。大凡方所の定まらざれば、便ち人と其の憂を同じくせず。能く大道を顕明すれば、便ち嗟嘆有りと雖も仍ほ能く吉を以て人に示す。「王用亨于岐山」にして「公用享于天子」は、升卦六四は対看すを得。晋卦上九「維用伐邑」は、還た光大と算せず。離卦上九は出征して「有嘉」、有嘉すれば便ち光大せり。解卦上九は則ち「匪其醜」なり。天地は交わらざれば万物は興らず、あるいは凶あるいは咎無しは、あれは人事の終始なり。「邦」は国と邑の総称にして、師卦の開創と承継とは、正に泰卦の反面なり。若し正に附麗する所無ければ――「正」はすなわち中にして、中なれば故に能く正す。柔は中正に附麗して故に亨す、因りて曰く「畜牝牛吉」、此れ正に中道に合す。文辞は当たらざれば、吉凶は便ち此に由りて産生す。故に吉凶は貞を以て勝に取る。習坎卦の柔中の得は九二に在り、剛中の大は九五に在り、あれは離は上に在りて坎は下に在るなり。
咸卦(艮下兌上)
艮下兊上。咸則無損,損未必咸。氣則流形,形不應氣;感不可見,所可見者,化生和平而已。虛受人,凝也;止而男下女,異乎剛以動取女吉,恱以動故也。柔上而剛下,二氣感應以相與,異其如此。爻要其終,皆以際也。下也,咸之初也;行而不動也,速也。咸志在外,損自外來。
咸卦は、卦体は艮下兌上なり。咸有れば便ち損に至らず、損有れば未だ必ずしも咸有らず。気は一たび動けば便ち流布して形を成す、形は却って反って気に応ずる能わず。感応は本身見えず、見るべきは只是化生と和平のみ。「虚受人」は凝聚なり。「止而男下女」は、蒙卦の「剛以動」して「取女吉」と同じからず、此処は悦して而る後に動けばなり。柔は上に在りて剛は下に在り、両気は感応して互いに親與し、其の相同じからざるは正に此処に在り。各爻は皆其の結局を看て、皆「際」――彼此交接――を以て准と為す。「下」と説くは、指すは咸の初爻なり。「行而不動」と説くは、指すは速なり。咸の心志は外に在り、損は則ち外面より来るなり。
腓違初而不可者也,動或失矣,雖凶而居故吉,順坤之慎故不害。志而不行者,初也;居而順者,二也;志光明而順止者也。三之隨,不艮矣;不艮而執,不中而隨,其可征乎?貞吉悔亡者,思未感害,體艮也,而亦不處也,可乎?何思?不出也;不出,故未感害,思不害也,其唯不疾乎?
「腓」は初爻に違いで行き通らず、一たび動けば便ち失有る可し。凶有りと雖も能く安処すれば、故に吉を得、坤の謹慎に順えば、故に傷害を受けず。志有りて行かざるは初爻にして、安居して柔順なるは二爻なり。心志は光明にして能く順に能く止まるは、亦正にそれなり。三爻の「随」は已に能く止まらず。能く止まらずして又固執し、中を得ずして一味に人に随うは、還た出征すを得んや。「貞吉悔亡」は、心思は還た未だ感に害せられざるにして、本体は艮に属す、可なるそれも亦肯んじて安処せず、此の如くは可なるか。何を想うや。位より出でず。位より出でざれば、故に還た未だ感に害せられず、心思も亦害を受けず――あれは大略ただ「不疾」ならん。
日月寒暑之往來,何思何慮?尺蠖之求,豈有求也?思立而朋從,有感而□應,奚思奚應?中而已矣。利害未發,吉悔亡也。未濟之震亦吉悔亡,其貞同也。吉而無悔,然後其暉吉也。窮也而志行也,止也而往不羸也,伏也而位正中也。吉悔亡矣,其亡猶在也,是故貞而不諒。何思何慮則未也,此爻近矣而未光大也。悔者,聖人之心也。有民則有,無民則無。其上易知,亦同患爾。說其外也,其有序乎?其終也已。
日月寒暑は往来して息まず、何か思う可き何か慮る可き有らんや。尺蠖は身を屈して伸を求むは、豈真に意有りて往きて求めんや。心思は一たび立てば、同類は便ち之に随いて来る。感ずる所有れば便ち応ずる所有り、還た何を思い何に応ぜんや。過ぐるも一個の「中」のみ。利害は還た未だ発動せざれば、便ち「吉、悔亡」。未済卦の震も亦「吉、悔亡」と説き、両処の守る所の貞は一様なり。吉にして悔無し、然る後にこそあの一份の光輝の吉有らん。窮に処りて心志は行うを得、居止して前往して羸弱に至らず、潜伏して位は正中に居る。「吉悔亡」と説くと雖も、可なる亡ぶ可き物は其の実は仍ほ在り、故に正を守りて小信に拘らざるを要す。「何思何慮」の境地に至りては、還た未だ到らず。此の一爻は已に接近すれども、却って還た光大と算せず。「悔」は聖人の心なり。民有れば便ち有り、民無ければ便ち無し。上者の心思は了解し易し、亦過ぐるも民と患を同じくするのみ。喜悦は外に表現す、大略自ら其の次序有らんか。此処に説き到れば便ち了わりなり。
