巻二・周易上経
謙卦(艮下坤上)
《謙》,《序卦》:“有大者不可以盈,故受之以謙。”其有既大,不可至於盈滿,必在謙損,故大有之後,受之以謙也。為卦,坤上艮下,地中有山也。地體卑下,山,高大之物,而居地之下,謙之象也。以崇高之德,而處卑之下,謙之義也。
『謙』卦に就いて、『序卦伝』に曰く:「有大者不可以盈、故受之以謙」。有する所は既に盛大なれば、すなわち盈満に走り至るべからず、必ず謙退自損に頼りて節制す、それゆえ『大有』卦の後に続きて『謙』卦を安排す。卦体に就きて言えば、坤は上に在り艮は下に在り、是れ大地の中に高山有り。大地の形体は卑下、山は高大の物にして、却って大地の下に安居す、これすなわち「謙」の象。崇高の徳性を卑下の位置上に安放するは、これすなわち「謙」の義。
謙:亨,君子有終。謙有亨之道也。有其德而不居,謂之謙。人以謙巽自處,何往而不亨乎。君子有終,君子志存乎謙巽,達理,故樂天而不競,內充,故退讓而不矜,安履乎謙,終身不易,自卑而人益尊之,自晦而德益光顯,此所謂君子有終也。在小人則有欲必競,有德必伐,雖使勉慕于謙,亦不能安行而固守,不能有終也。
『謙』卦の卦辞に曰く:「亨、君子有終」。謙は本身の中に亨通の道理を含む。あの徳性有りて自居せざるを、謙と言う。人は若し謙遜卑順を以て自処せば、何れの処に行きて亨通せざる有らんや。「君子有終」に至りては:君子の心志は謙遜の上に安放す。事理に通达するがゆえに、天を楽しみ命を知りて人と相争わず。内裡充実するがゆえに、退譲して自ら誇らず。彼は安然として謙道を践行し、終身改めず。自処は越ゆるほど卑下なれば、別人は越えて発して彼を尊敬す。自我は越ゆるほど隠晦なれば、徳望は却って越えて光顕す——これすなわちいわゆる「君子有終」。小人に至りては、欲望有れば必ず争いに往き、徳行有れば必ず自ら誇る。たとえ勉めて謙道を羡慕して学びて之を為すとも、能く安然として実行し牢固に持守する能わず、それゆえ始有り終有るを為す能わず。
《彖》曰:謙亨,天道下濟而光明,地道卑而上行。濟當為際。此明謙而能亨之義。天之道,以其氣下際,故能化育萬物,其道光明。下際謂下交也。地之道,以其處卑,所以其氣上行,交於天,皆以卑降而亨也。
『謙・彖伝』に曰く:「謙亨、天道下済而光明、地道卑而上行」。按:「済」の字は応に「際」と作るべし。これは謙が何の故に能く亨通するかの道理を闡明す。天の道は、その気が下に向かいて交接するがゆえに、能く万物を化育し、その道は光明。「下際」とはすなわち下に向かいて交接するの意。地の道は、それが卑下に自処するがゆえに、その気は能く上行して天と相交わる。両者は皆卑下俯就に頼りて亨通を得。
天道虧盈而益謙,以天行而言,盈者則虧,謙者則益,日月陰陽是也。地道變盈而流謙,以地勢而言,盈滿者傾變而反陷,卑下者流注而益增也。鬼神害盈而福謙,鬼神謂造化之跡。盈滿者禍害之,謙損者福祐之,凡過而損,不足而益者,皆是也。人道惡盈而好謙。人情疾惡於盈滿,而好與于謙巽也。謙者人之至德,故聖人詳言,所以戒盈而勸謙也。
「天道虧盈而益謙」——上天の運行に就きて言えば、盈満するは虧損せられ、謙退するは却って増益せらる、日月の盈虧・陰陽の消長は即ちこの如し。「地道変盈而流謙」——地勢に就きて言えば、隆起盈満の地方は崩壊傾陷し、低窪卑下の地方は則ち水流が匯注して日益增高す。「鬼神害盈而福謙」——鬼神の指す所は造化運行の痕跡:盈満するはすなわちこれに禍害を降し、謙損するはすなわちこれに福祐を賜う。凡そ過ぎたればすなわちこれを減損し、足らざればすなわちこれを増益するは、皆この類に属す。「人道悪盈而好謙」——人の常情は、盈満自大の人を厭悪し、而して謙遜卑順の人に親附することを楽しむ。謙は人の徳性の中の極致、それゆえ聖人はその詳を厭わず反復して申説し、以て盈満を警戒し謙退を勧勉す。
謙尊而光,卑而不可逾,君子之終也。謙為卑巽也,而其道尊大而光顯。自處雖卑屈,而其德實高不可加尚,是不可逾也。君子至誠于謙,恆而不變,有終也,故尊光。《象》曰:地中有山,謙,君子以裒多益寡,稱物平施。
『彖伝』に曰く:「謙尊而光、卑而不可逾、君子之終也」。謙の姿態は卑下柔順、然るもその道理は却って尊大にして光顕。彼は自処は卑屈と雖も、而してその徳性は実は高きこと以て加うるなし、これをこそ「不可逾」と言う。君子は至誠より出でて謙を行い、持久して変わらず、能く善始善終す、それゆえ既に尊にして且つ光。『謙・大象伝』に曰く:「地中有山、謙、君子以裒多益寡、称物平施」。
地體卑下,山之高大而在地中,外卑下而內蘊高大之象,故為謙也。不云山在地中,而曰地中有山,言卑下之中蘊其崇高也。若言崇高蘊於卑下之中,則文理不順。諸象皆然,觀文可見。君子以裒多益寡,稱物平施,君子觀謙之象,山而在地下,是高者下之,卑者上之,見抑高舉下、損過益不及之義;以施於事,則裒取多者,增益寡者,稱物之多寡以均其施與,使得其平也。
大地の形体は卑下にして、高大の山は却って大地の中に在り、これは外表卑下にして内裡に高大を蘊含するの形象、それゆえ「謙」と称す。『象伝』は「山在地中」と言わずして「地中有山」と言うは、卑下の中に崇高を蘊蔵するを点明せんと欲するがゆえ。若し「崇高は卑下の中に蘊る」と説かば、文理は便ち順ならず。各卦の象辞は皆この写法、文字を看れば便ち明白す。「君子以裒多益寡、称物平施」:君子は謙卦の象を観察す——山は却って地の下に在るは、高きを圧し下げ低きを抬し上ぐるなり。中より抑高挙下・有余を損じて不足を補うの道理を看出し、それを具体的事務の上に施用すれば、すなわち多きのあの辺より取り来たりて、少なきのあの辺に添え与え、各物の多寡を衡量して施与を均匀ならしめ、彼此をして皆その平を得しむ。
初六,謙謙君子,用涉大川,吉。初六以柔順處謙,又居一卦之下,為自處卑下之至,謙而又謙也,故曰謙謙。能如是者,君子也。自處至謙,眾所共與也,雖用涉險難,亦無患害,況居平易乎?何所不吉也?初處謙而以柔居下,得無過於謙乎?曰:柔居下,乃其常也,但見其謙之至,故為謙謙,未見其失也。
『謙』卦の初六の爻辞に曰く:「謙謙君子、用渉大川、吉」。初六は柔順の質を以て謙の時勢の裡に処り、また一卦の最下位に居り、自処卑下なること極点に至り、謙にしてまた更に謙す、それゆえ「謙謙」と言う。能くこの如くする人は、すなわち君子。自処極めて謙なる人は、衆人は皆彼を助くるを楽しむ。たとえ彼を用いて険難を渉越するに用うるとも、禍患あらじ、いわんや平易の境地に処るをや。また何の不吉あらん。人に問うあり:初六はもと已に謙の時勢に処り、また柔爻を以て下位に居る、豈に謙の過分ならざらんや。答えて曰く:柔爻が下位に居るは、もとよりそれの常態、ここにただそれの謙の極処に至るを見出すのみ、それゆえ「謙謙」と称す、何の過失有るを看出さず。
《象》曰:謙謙君子,卑以自牧也。謙謙,謙之至也。謂君子以謙卑之道自牧也。自牧,自處也。《詩》云:“自牧歸荑。”六二,鳴謙,貞吉。二以柔順居中,是為謙德積於中。謙德充積於中,故發於外,見於聲音顏色,故曰鳴謙。居中得正,有中正之德也,故云貞吉。凡貞吉,有為貞且吉者,有為得貞則吉者,六二之貞吉,所自有也。
『小象伝』に曰く:「謙謙君子、卑以自牧也」。「謙謙」は謙の極処に至る、これは君子が謙卑の道を用いて自己を畜養するを言う。「自牧」はすなわち自処。『詩経・邶風・静女』に「自牧帰荑」の句有り、この字の用法を証すべし。六二の爻辞に曰く:「鳴謙、貞吉」。六二は柔順の質を以て下卦の中に居る、これは謙徳が内心に積蓄せる。謙徳は内裡に於て充実積累し、自然に外に発露して声音容色の上に表現す、それゆえこれを「鳴謙」と言う。それは中に居りてまた正を得、中正の徳を具備す、それゆえ「貞吉」と言う。凡そ「貞吉」は、或いは既に正しく且つ吉を言い、或いは能く正を守れば初めて吉ならんと言う。六二の「貞吉」は、それ本身が自有するのあの一種に属す。
《象》曰:鳴謙貞吉,中心得也。二之謙德,由至誠積於中,所以發於聲音,中心所自得也,非勉為之也。九三,勞謙,君子有終,吉。三以陽剛之德而居下體,為眾陰所宗,履得其位,為下之上,是上為君所任,下為眾所從,有功勞而持謙德者也,故曰勞謙。古之人有當之者,周公是也。身當天下之大任,上奉幼弱之主,謙恭自牧,夔夔如畏然,可謂有勞而能謙矣。
『小象伝』に曰く:「鳴謙貞吉、中心得也」。六二の謙徳は、至誠が心中に積累せられて来たる由、それゆえ自然に声音に発露す、是れ内心に自ら得る所有りて、勉強して作り出せるに非ず。九三の爻辞に曰く:「労謙、君子有終、吉」。九三は陽剛の徳を以て下卦に居り、群陰の宗仰する所と為る。処する所の位は得当、また下卦の上にして、正に上は君主の委任を受け下は衆人の擁戴と為るの地位——功労を立てて能く謙徳を持守す、それゆえこれを「労謙」と言う。古人の中にこの一爻に当たる者は、周公。彼は身に天下の重任を負い、上は年幼柔弱の成王に奉事し、却って謙恭に自己を約束し、戦戦兢兢として畏懼する所有るが如し、真に功労有りて能く謙退すると言うべし。
既能勞謙,又須君子行之有終,則吉。夫樂高喜勝,人之常情。平時能謙,固已鮮矣,況有功勞可尊乎?雖使知謙之善,勉而為之,若矜負之心不忘,則不能常久,欲其有終,不可得也。唯君子安履謙順,乃其常行,故久而不變,乃所謂有終,有終則吉也。九三以剛居正,能終者也。此爻之德最盛,故象辭特重。
既に能く労にして能く謙なるを為し得れば、また必ず君子の如くそれを堅持して底に至るを要し、初めて吉。高に居るを喜び人に勝るを喜ぶは、人の常情。平常の時に能く謙退するは、もとより已に少なし、いわんや功労を立て自尊の資本有る人をや。たとえ謙は好事なるを知りて勉力して之を為すとも、ただあの自矜自負の心思はなお除浄せられざれば、便ち能く長久ならず、始有り終有らんと欲するもまた為す能わざるなり。ただ君子のみ謙順を以て安身立命の常態と為し、日常この如く行い去る、それゆえ久しきを歴て改めず、これこそいわゆる「有終」。能く終有れば、自然に吉。九三は陽剛を以て正位に居り、正に能く堅持して底に至る人。この一爻の徳性は全卦の中に於て最も盛美、それゆえ『象伝』はそれに対して格外に鄭重。
《象》曰:勞謙君子,萬民服也。能勞謙之君子,萬民所尊服也。《繫辭》云:“勞而不伐,有功而不德,厚之至也。語以其功下人者也。德言盛,禮言恭。謙也者,致恭以存其位者也。”有勞而不自矜伐,有功而不自以為德,是其德弘厚之至也。言以其功勞而自謙,以下於人也。
『小象伝』に曰く:「労謙君子、万民服也」。能く労にして能く謙なる君子は、万民の尊崇服膺する所。『繋辞上伝』に曰く:「労而不伐、有功而不徳、厚之至也。語以其功下人者也。徳言盛、礼言恭。謙也者、致恭以存其位者也」。これは言う所は:力を出して自ら誇耀せず、功労有りて自ら恩徳有りと為さず、これは徳性の弘厚なること極点に至る。講ずる所は正にあの自己の功労に憑りて却って更に自ら謙り、身段を別人の下に放つ人。
德言盛,禮言恭。以其德言之,則至盛,以其自處之禮言之,則至恭,此所謂謙也。夫謙也者,謂致恭以存其位者也。存,守也。致其恭巽以守其位,故高而不危,滿而不溢,是以能終吉也。夫君子履謙,乃其常行,非為保其位而為之也。而言存其位者,蓋能致恭所以能存其位,言謙之道如此。如言為善有令名,君子豈為令名而為善也哉?亦言其令名者,為善之故也。
「徳言盛、礼言恭」——彼の徳性に就きて言えば、極めて盛美。彼の自処する礼節に就きて言えば、極めて恭敬。これをこそ謙と言う。「謙也者、致恭以存其位者也」に至りては、「存」は守の意。恭順を極尽して以て自己の位子を守住す、それゆえ地位は高しと雖も危険ならず、権勢は満つと雖も外に溢れず、これに因りて終に吉を得るを能くす。君子が謙道を践行するは、もとより彼の日常の行為、位を保住せんが為にこの如くするに非ず。ここに却って「存其位」と説くは、能く恭順を極尽すれば自然に位を守住し得るがゆえ、ただ謙道の効験に就きてこの如く講ずるのみ。これはたとえば「善を行えば美名有らん」と言うが如し、君子は豈に美名の為に善を行わんや。ただあの美名は善を行うの帯び来たる結果なるを言うのみ。
六四,無不利□謙。四居上體,切近君位,六五之君又以謙柔自處,九三又有大功德,為上所任、眾所宗,而己居其上,當恭畏以奉謙德之君,卑巽以讓勞謙之臣,動作施為,無所不利於□謙也。□,施布之象,如人手之□也。動息進退,必施其謙,蓋居多懼之地,又在賢臣之上故也。
『謙』卦の六四の爻辞に曰く:「无不利、□謙」(この字は底本残欠、伝世本は「撝」と作る、是れ手を揮いて施布するの意)。六四は已に上卦に進入し、君位に緊挨す。六五の君はまた謙柔を以て自処し、九三はまた大功大徳を立て、上は君主の倚任を受け下は衆人の宗仰と為り、而して自己は偏偏として九三の上に居る。このような処境は、理応恭敬畏慎を以てあの謙徳有る君主に奉事し、卑遜退譲を以てあの労にして能く謙なる臣子を対待すべし。それゆえ一挙一動・一施一為は、謙徳を揮洒施布し出すに適宜せざるはなし。あの缺字の取る所は正に施布の象、人が手臂を揮動して東西を散布するが如し。行動するも静処するも、前進するも後退するも、皆必ず謙を施展し出すべし、その処する所は正に惧るべき多きの位置にして、しかもなお賢臣の上に在るがゆえ。
《象》曰:無不利□謙,不違則也。凡人之謙,有所宜施,不可過其宜也。如六五或用侵伐是也。唯四以處近君之地,據勞臣之上,故凡所動作,靡不利於施謙,如是然後中於法則,故曰不違則也,謂得其宜也。
『小象伝』に曰く:「无不利、□謙、不違則也」。一般人が謙を行うにも、また応に施すべきと施すべからざるの分寸有り、それの応有の限度を超出すべからず——たとえば六五の爻に「或用侵伐」と説き至るが如き、あれはすなわち応に威武を動用すべき時。ただ六四のみ君主に緊靠する地位に処し、また功有る臣の上頭に居るがゆえに、それの一切の挙動は、謙徳を施展するに適宜せざるはなし。この如くして初めて正に法則に合す、それゆえ「不違則」と言う、すなわちそれの為す所は恰当合宜なるを言う。
六五,不富以其鄰,利用侵伐,無不利。富者眾之所歸,唯財為能聚人。五以君位之尊,而執謙順以接於下,眾所歸也,故不富而能有其鄰也。鄰,近也。不富而得人之親也,為人君而持謙順,天下所歸心也。然君道不可專尚謙柔,必須威武相濟,然後能懷服天下,故利用行侵伐也。威德並著,然後盡君道之宜,而無所不利也。蓋五之謙柔,當防於過,故發此義。
『謙』卦の六五の爻辞に曰く:「不富以其鄰、利用侵伐、无不利」。富有の人は衆人の帰附する対象、ただ財貨のみ能く人心を聚攏するがゆえ。六五は君位の尊を以て、却って謙順を執守して下面の人を接待す、衆人は自然に彼に帰向す、それゆえ財富に靠らずと雖も隣近の人の擁戴を得。「鄰」はすなわち近処の人。財富に靠らずして別人の親附を得るは、身が人君たりて能く謙順を持守するに因り、天下人は自然に帰心す。然るも君主たる者は一味に謙柔を崇尚する能わず、必ず威武有りて相輔相成し、然る後に初めて天下をして心から悦服せしめ得、それゆえ「利用侵伐」と言う。威と徳と両者は皆彰顕し出づれば、初めて君道の宜を尽くしたと算し、因りて利あらざるなし。これは六五が謙柔に偏するがゆえに、須らくそれが謙の過頭に至るを防ぐべし、それゆえ特地にこの層の意思を発明す。
《象》曰:利用侵伐,征不服也。徵其文德謙巽所不能服者也。文德所不能服,而不用威武,何以平治天下?非人君之中道,謙之過也。上六,鳴謙,利用行師,征邑國。六以柔處柔,順之極,又處謙之極,極乎謙者也。以極謙而反居高,未得遂其謙之志,故至發於聲音;又柔處謙之極,亦必見於聲色,故曰鳴謙。雖居無位之地,非任天下之事,然人之行己,必須剛柔相濟。上,謙之極也,至於大甚,則反為過矣。故利在以剛武自治。邑國,己之私有。行師,謂用剛武。征邑國,謂自治其私。
『小象伝』に曰く:「利用侵伐、征不服也」。征討する所は、あの文徳謙遜を以て感化し得ざる人。文徳は感化し得ず、而して又た威武を動用するを肯んぜざれば、何を以て天下を平治せん。あればすなわち人君の中道に非ず、而して謙の過頭に過ぎたれり。上六の爻辞に曰く:「鳴謙、利用行師、征邑国」。上六は陰柔の爻を以て陰柔の位に居り、柔順なること極点に至る。また謙卦の終極に処り、是れ謙の極処に至る人。謙の極処に至りて却って身は高位に居るがゆえに、謙譲の心志は遂行するに由なく、それゆえ声音に発するを要す。加うるに柔弱にして謙の極に処れば、また必ず声色に形る、それゆえこれを「鳴謙」と言う。それは職位なき地方に処ると雖も、天下の事務を担当せざると雖も、然るも人の立身行事は、総じて剛柔相輔を須いる。上六は謙の極処、過甚すれば却って偏失と為る、それゆえ利は剛武を用いて自己を整治するに在り。「邑国」は自己の私有封地、「行師」は剛武を動用し、「征邑国」はすなわち自己の分内の事を整治す。
《象》曰:鳴謙,志未得也,可用行師征邑國也。謙極而居上,欲謙之志未得,故不勝其切,至於鳴也。雖不當位,謙既過極,宜以剛武自治其私,故云利用行師征邑國也。
『小象伝』に曰く:「鳴謙、志未得也、可用行師征邑国也」。謙の極処に至りてまた身は上位に居り、あの謙退せんと欲するの心志は実現するに由なく、それゆえ心情は迫切にして按捺し得ず、終に声と為りて発す。それは尊位に当たらざると雖も、但し謙は既に限度を過ぎたれば、応に剛武を用いて自己分内の事を整治すべし、それゆえ「利用行師征邑国」と言う。
豫卦(坤下震上)
《豫》,《序卦》:“有大而能謙必豫,故受之以豫。”承二卦之義而為次也,有既大而能謙,則有豫樂也。豫者,安和悅樂之義。為卦,震上坤下,順動之象。動而和順,是以豫也。九四為動之主,上下群陰所共應也,坤又承之以順,是以動而上下順應,故為和豫之義。以二象言之,雷出於地上。陽始潛閉於地中,及其動而出地,奮發其聲,通暢和豫,故為豫也。
『豫』卦に就いて、『序卦伝』に曰く:「有大而能謙必豫、故受之以豫」。これは『大有』『謙』両卦の意思を承接して次序を排定す:所有は既に盛大にしてまた能く謙退せば、自然に和楽有り。「豫」はすなわち安和悦楽の意。卦体に就きて言えば、震は上に在り坤は下に在り、是れ理に順いて動くの象。動きてまた和順、それゆえ豫と為す。九四は全卦発動の主爻、上下の衆陰爻は共同してそれに応和し、坤はまた下に在りて柔順を以てそれに承奉す、これに因りて一たび動けば上下順応し、それゆえ和楽の義有り。両卦の象に就きて言えば、是れ雷が地面の上より発出す:陽気は起初は潜伏閉蔵して地中に在り、それが一たび動きて地面に出ずるを待ち、奮然として声響を発出し、暢通和楽、それゆえこれを豫と言う。
豫:利建侯行師。豫,順而動也。豫之義,所利在於建侯行師。夫建侯樹屏,所以共安天下,諸侯和順則萬民悅服,兵師之興,眾心和悅,則順從而有功,故悅豫之道,利於建侯行師也。又上動而下順,諸侯從王,師眾順令之象。君萬邦,聚大眾,非和悅不能使之服從也。
『豫』卦の卦辞に曰く:「利建侯行師」。豫は、理に順いて動く。豫の意義は、利は諸侯を分封し軍隊を出動するに在り。諸侯を分封し屏藩を樹立するは、共同して天下を安定せんが為。諸侯は和順すれば、万民は就ち悦服す。兵を興し衆を動かすの際、衆人の心裡和悦なれば、便ち順従して功を立てん。それゆえ和悦歓豫の道は、建侯と行師とに宜しきなり。再び言えば、上卦は震の動にして下卦は坤の順、正に諸侯が天王に服従し軍隊が号令に順従するの形象。万邦を統御し大衆を聚集するに、若し人をして和悦せしめ能わざれば、彼らをして服従せしむるの法なし。
《彖》曰:豫,剛應而志行,順以動,豫。剛應,謂四為群陰所應,剛得眾應也。志行,謂陽志上行,動而上下順從,其志得行也。順以動豫,震動而坤順為動而順理,順理而動又為動而眾順,所以豫也。
『豫・彖伝』に曰く:「豫、剛応而志行、順以動、豫」。「剛応」とは九四のこの一陽爻が衆陰爻の応和する所と為るを言う、剛は衆人の響応を得たり。「志行」とは陽の心志が上に向かいて推行するを言う、一たび動けば上下皆順従し、その志向は実現を得。「順以動、豫」:震は動にして坤は順、すなわち行動は順理に合す。順理に動けば、また衆人の順従を帯び来たす、それゆえ能く和楽。
豫順以動,故天地如之,而況建侯行師乎?以豫順而動,則天地如之而弗違,況建侯行師,豈有不順乎?天地之道,萬物之理,唯至順而已。大人所以先天後天而不違者,亦順乎理而已。天地以順動,故日月不過而四時不忒;聖人以順動,則刑罰清而民服。復詳言順動之道。天地之運,以其順動,所以日月之度不過差,四時之行不愆忒;聖人以順動,故經正而民興於善,刑罰清簡而萬民服也。
『彖伝』に曰く:「豫順以動、故天地如之、而況建侯行師乎」。和豫にして順理に動くを以て、天地もまたこれと相同じくして相違わず、いわんや諸侯を分封し軍隊を出動するをや、何ぞ順ならざる有らん。天地の道・万物の理は、帰結すればただ一箇の「至順」のみ。大人の天時に先んじて行い、之に後れて行いても皆相違わざる所以も、またただ理に順うのみ。『彖伝』また曰く:「天地以順動、故日月不過而四時不忒。聖人以順動、則刑罰清而民服」。これは更に一步進んで順動の道理を詳説す:天地の運行は理に順いて動くがゆえに、日月の度数は差錯を出さず、四時の運行は舛誤を生ぜず。聖人は理に順いて動くがゆえに、綱紀は端正にして百姓は善に興起し、刑罰は清簡にして万民は服従す。
豫之時義大矣哉!既言豫順之道矣,然其旨味淵永,言盡而意有餘也,故復贊之云:“豫之時義大矣哉!”欲人研味其理,優柔涵泳而識之也。時義,謂豫之時義。諸卦之時與義用大者,皆贊其大矣哉,《豫》以下十一卦是也。《豫》、《遁》、《後》、《旅》言時義,《坎》、《暌》、《蹇》言時用,《頤》、《大過》、《解》、《革》言時,各以其大者也。
『彖伝』は最後に曰く:「豫之時義大矣哉」!既に和豫順動の道理を説き了えり、然るもその中は意味深長、話は説き尽くして余意は未だ窮まらず、それゆえ再び一句を讃嘆して「豫之時義大矣哉」と曰くは、人をしてその中の道理を細細に体味し、従容涵泳して然る後に領会有らんと欲する。「時義」の指す所はすなわち豫のこの一時勢の含む所の意義。凡そ卦の「時」と「義」と「用」との宏大なる者は、『彖伝』は皆一句を讃して「大矣哉」と曰く。『豫』卦より下より共に十一卦:『豫』『遯』『姤』『旅』は「時義」を説き、『坎』『睽』『蹇』は「時用」を説き、『頤』『大過』『解』『革』はただ「時」のみを説き、各々その中の最も宏大なる一面に就きて言を立つ。
《象》曰:雷出地奮,豫,先王以作樂崇德,殷薦之上帝,以配祖考。雷者,陽氣奮發,陰陽相薄而成聲也。陽始潛閉地中,及其動,則出地奮震也。始閉鬱,及奮發則通暢和豫,故為豫也。坤順震發,和順積中而發於聲,樂之象也。先王觀雷出地而奮,和暢發於聲之象,作聲樂以褒崇功德,其殷盛至於薦之上帝,推配之以祖考。殷,盛也。禮有殷奠,謂盛也。薦上帝,配祖考,盛之至也。
『豫・大象伝』に曰く:「雷出地奮、豫、先王以作楽崇徳、殷薦之上帝、以配祖考」。雷は、陽気が奮然として発動し陰陽相激して形成する声響。陽気は起初は潜伏閉蔵して地中に在り、それが一たび動くを待ち、便ち地面を冲出して奮然として震響す。起先は鬱結閉塞し、一旦奮発すれば、便ち暢通和楽、それゆえこれを豫と言う。坤は柔順、震は発動、和順の気は中に積りて声音と為りて発す、これ正に音楽の形象。先王は雷が地面に出でて奮発し和暢の気が声響と為りて発する形象を観察し、そこに於て音楽を創制して以て功徳を褒揚崇奉す。隆盛の至り、乃至それを用いて上帝に献享し、併せて祖先を以て配享す。「殷」は盛大の意、古礼の中に「殷奠」有り、説く所はすなわち盛大。上帝に献享し祖考を以て配享するは、盛大なること極点に至る。
初六,鳴豫,凶。初六以陰柔居下,四豫之主也,而應之,是不中正之小人處豫,而為上所寵,其志意滿極,不勝其豫,至發於聲音,輕淺如是,必至於凶也。鳴,發於聲也。《象》曰:初六鳴豫,志窮凶也。雲初六,謂其以陰柔處下,而志意窮極,不勝其豫,至於鳴也,必驕肆而致凶矣。
『豫』卦の初六の爻辞に曰く:「鳴豫、凶」。初六は陰柔を以て最下位に居り、而して九四は全卦歓豫の主爻にして、またそれと相応す。これはたとえば一箇の不中不正の小人が歓楽の世に身を処し、偏偏として上面の寵幸を得、そこに於て志得意満なること極点に至り、快楽して按捺し得ず、竟に声音に発するに至るが如し。軽浮浅薄なることこの地步に至れば、必ず凶険に走向す。「鳴」はすなわち声音と為りて発す。『小象伝』に曰く:「初六鳴豫、志窮凶也」。特地に「初六」の二字を標出するは、それが陰柔を以て下位に処り、心志は却って得意なること極処に至り、楽しみて按捺し得ずして声に形るを言う、この如くすれば必然に驕縦放肆して凶禍を招致せん。
六二,介于石,不終日,貞吉。逸豫之道,放則失正,故豫之諸爻,多不得正,才與時合也。唯六二一爻處中正,又無應,為自守之象。當豫之時,獨能以中正自守,可謂特立之操,是其節介如石之堅也。介于石,其介如石也。人之於豫樂,心悅之,故遲遲遂至於耽戀不能已也。二以中正自守,其介如石,其去之速,不俟終日,故貞正而吉也。處豫不可安且久也,久則溺矣。如二,可謂見幾而作者也。
『豫』卦の六二の爻辞に曰く:「介于石、不終日、貞吉」。安逸歓楽のこの路は、一たび放縦すればすなわち正を失う、それゆえ『豫』卦の各爻は大多その正を得ず——これは爻の才質と処する所の時勢とが相配合するの縁故。ただ六二のこの一爻のみ既に中にして且つ正、また相応する爻なく、それゆえ自守の象を呈す。身は歓豫の時に当たりて、独り中正を以て自守し得るは、真に卓然独立の操守と言うべく、その節操の堅定なること石頭の如し。「介于石」とは、すなわちその耿介なること石の如きを言う。人は歓楽に対しては、心裡は総じて之を喜ぶ、それゆえ往々にして拖延して、終に沉溺留恋して自ら抜く能わず。六二は中正を以て自守し、耿介として石の如く、身を抽き去るの快さ、一日の過ぎ了るを待たず、それゆえ既に正しく且つ吉。歓豫の中に身を処するは、安然として久留すべからず、久しければすなわち陥溺せん。六二の如きは、苗头を看出せば便ち即座に行動する人と言うべし。
夫子因二之見幾,而極言知幾之道,曰:“知幾其神乎!君子上交不諂,下交不瀆,其知幾乎!幾者動之微、吉之先見者也。君子見幾而作,不俟終日。《易》曰:‘介于石,不終日,貞吉。’介如石焉,寧用終日,斷可識矣。君子知微知彰,知柔知剛,萬夫之望。”
孔子は六二の「見幾」に借りて、幾を知るの道理を極処に説き至れり。『繋辞下伝』は彼の話を記して曰く:「能く幾微を識るは、真に神妙なり。君子は上と交際するに諂媚せず、下と交際するに軽慢せず、ほぼ幾微を懂得するか。いわゆる『幾』とは、事物の発動する時のあの点の細微の苗头、吉兆の預め顕露して未だ顕著ならざる時。君子は一たび苗头を見ればすなわち行動し、一日の過ぎ了るを待たず。『易』に『介于石、不終日、貞吉』と曰く——既に耿介として石の如ければ、何ぞ終日を待つを用いん、分辨は清清楚楚たり。君子は既に細微を知りまた顕著を知り、既に柔弱を知りまた剛強を知る、それゆえ万人の仰望する所なり」。
夫見事之幾微者,其神妙矣乎!君子上交不至於諂,下交不至於瀆者,蓋知幾也。不知幾,則至於過而不已。交於上以恭巽,故過則為諂;交於下以和易,故過則為瀆。君子見於幾微,故不至於過也。所謂幾者,始動之微也,吉凶之端可先見而未著者也。獨言吉者,見之於先,豈復至有凶也?
事情の幾微の徴兆を看出し得る人は、あの見識は真に神妙なり。君子は上位者と交際するに諂媚に至らず、下位者と交際するに軽慢に至らざるは、正に彼が幾を知るに因る。幾を知らざれば、便ち一路過ぎて収め住む能わざらん:上と交際するに頼る所は恭敬卑順、過ぎれば便ち諂媚と為る。下と交際するに頼る所は和易平実、過ぎれば便ち軽慢と為る。君子は幾微の処に於て已に看見す、それゆえ過頭に至らず。いわゆる「幾」とは、すなわち事情が剛だに発動を開始する時のあの一点の極細微の苗头、吉凶の端倪は已に預見可にして未だ顕著ならざる時。ここに単に「吉」を説くは、既に事に先んじて看見したれば、何ぞ凶のあの一步に走り至らんや。
君子明哲,見事之幾微,故能其介如石,其守既堅,則不惑而明,見幾而動,豈俟終日也?斷,別也。其判別可見矣。微與彰,柔與剛,相對者也。君子見微則知彰矣,見柔則知剛矣,知幾如是,眾所仰也,故贊之曰“萬夫之望”。
君子は明智通達にして、事情の幾微を看見し得、それゆえ能く耿介として石の如くするを為し得。操守は既に堅定なれば、便ち迷惑せずして清明、一たび苗头を見れば便ち行動す、何ぞ一日の過ぎ了るを待つを得んや。「断」は分辨の意、其中の是非分際は清清楚楚にして看出すべきを言う。細微と顕著・柔弱と剛強とは、皆相対して言う所:君子は細微を見れば便ちそれの顕著の時の様子を知り、柔弱を見れば便ちそれの剛強の時の様子を知る。幾を知ることこの地步に至るは、衆人の仰望する所、それゆえ孔子は彼を讃嘆して「万夫之望」と為す。
《象》曰:不終日貞吉,以中正也。能不終日而貞且吉者,以有中正之德也。中正故其守堅,而能辨之早,去之速。爻言六二處豫之道,為教之意深矣。六三,盱豫,悔,遲有悔。六三陰而居陽,不中不正之人也。以不中正而處豫,動皆有悔。盱,上視也。上瞻望於四,則以不中正不為四所取,故有悔也。四,豫之主,與之切近,苟遲遲而不前,則見棄絕,亦有悔也。蓋處身不正,進退皆有悔吝。當如之何?在正身而已。君子處己有道,以禮制心,雖處豫時,不失中正,故無悔也。
『小象伝』に曰く:「不終日貞吉、以中正也」。能く一日の過ぎ了るを待たずして身を抽くは、因りて既に正しく且つ吉、それが中正の徳を具備するに由る。ただそれの中正なるがゆえに、操守は堅定にして辨ること早く、走ること速し。この一爻は六二が歓豫の世に身を処するの自処の道を講じ、教誨の用意は甚だ深し。六三の爻辞に曰く:「盱豫、悔、遅有悔」。六三は陰爻を以て陽位に居るは、是れ既に中ならず且つ正ならざる人。不中不正の資質を以て歓豫の世に処れば、一挙一動は皆悔有らん。「盱」は頭を抬げて上を看る。それは頭を抬げて九四を仰望するも、自己が不中不正なるに因りて九四に接納せられず、それゆえ悔あり。九四は全卦歓豫の主爻、それと挨れること極めて近し、若しそれが遅疑して前進せざれば、また棄絶せられん、同じく悔あり。見ゆべし、立身正ならざれば、進んでも悔あり退いても悔あり。あれは則ち如何せん。ただ自身を端正するのみ。君子の自処は自ら法度有り、礼を以て心念を節制す、たとえ身は歓豫の世に処るとも、中正を失わず、それゆえ悔なし。
《象》曰:盱豫有悔,位不當也。自處不當,失中正也,是以進退有悔。九四,由豫,大有得,勿疑,朋盍簪。豫之所以為豫者,由九四也,為動之主,動而眾陰悅順,為豫之義。四,大臣之位,六五之君順從之,以陽剛而任上之事,豫之所由也,故云由豫。大有得,言得大行其志,以致天下之豫也。
『小象伝』に曰く:「盱豫有悔、位不当也」。自処する位置は不当、すなわち中正を失う、それゆえ進退皆悔あり。九四の爻辞に曰く:「由豫、大有得、勿疑、朋盍簪」。全卦のその「豫」たる所以を成すは、九四に由りて来る。それは発動の主爻、一たび動けば衆陰爻は皆欣悦順従す、これ正に豫の意義。四は大臣の位、六五の君は彼に順従し、彼は陽剛の才を以て上に在る者の事務を担当し、天下の和楽は彼に由りて生ず、それゆえ「由豫」と言う。「大有得」とは、彼が得て大いに自己の抱負を施行し、従りて天下をして皆和楽に帰せしむるを言う。
勿疑,朋盍簪:四居大臣之位,承柔弱之君,而當天下之任,危疑之地也,獨當上之倚任,而下無同德之助,所以疑也。唯當盡其至誠,勿有疑慮,則朋類自當盍聚。夫欲上下之信,唯至誠而已。苟盡其至誠,則何患乎其無助也?簪,聚也。簪之名簪,取聚髮也。或曰:卦唯一陽,安得同德之助?曰:居上位而至誠求助,理必得之。《後》之九五曰有隕自天是也。
「勿疑、朋盍簪」:九四は身に大臣の位を居り、上面には柔弱の君主に奉事し、自己は却って天下の重任を担う、これは危疑の地。彼は独自に君主の倚重を承受し、下面にはまた同徳の人の相助なく、それゆえ疑慮を生ず。あの時ただ自己の至誠を拿出して疑慮せざるのみ、同道の人は自然に聚攏し来たらん。上下の信任を取得せんとするは、頼る所はただ至誠の二字。ただ至誠を尽くせば、なお相助する人なきを愁えんや。「簪」は聚の意、簪子の名を簪と為す所以は、取る所は正に頭髪を聚攏するの義。人に問うあり:『豫』卦はただ一箇の陽爻のみ有り、何処より来たれるか同徳の助。答えて曰く:身は上位に居りて至誠を以て求助せば、理に按じて必ず得るを能くすべし。『姤』卦の九五に「有隕自天」と言うは、講ずる所はすなわちこの道理。
四以陽剛,迫近君位,而專主乎豫,聖人宜為之戒,而不然者,豫和順之道也,由和順之道,不失為臣之正也。如此而專主於豫,乃是任天下之事而致時於豫者也,故唯戒以至誠勿疑。《象》曰:由豫,大有得,志大行也。由己而致天下於樂豫,故為大有得,謂其志得大行也。
九四は陽剛の質を以て君位に緊逼し、また和楽の権を独攬す、理に照らせば聖人は応に彼に対して告戒有るべし、然るも并せず、これは何の為。豫はもとより和順の道、和順の道に循いて行えば、すなわち臣子たるの正当の分際を失わず。この如くして独り豫の主に当たるは、正に天下の事務を担當し時局を和楽に帯び向かわしむる人、それゆえただ彼に至誠なるべく疑慮せざるべきを告戒するのみ。『小象伝』に曰く:「由豫、大有得、志大行也」。天下の和楽は自己に由りて来る、それゆえ「大有得」と言う、すなわち彼の抱負は大いに施行するを得を言う。
六五,貞疾,恆不死。六五以陰柔居君位,當豫之時,沉溺於豫,不能自立者也。權之所主,眾之所歸,皆在於四。四之陽剛得眾,非耽惑柔弱之君所能制也,乃柔弱不能自立之君,受制於專權之臣也,居得君位貞也,受制於下有疾苦也。六居尊位,權雖失而位未亡也,故云貞疾恆不死,言貞而有疾,常疾而不死,如漢、魏末世之君也。
六五の爻辞に曰く:「貞疾、恒不死」。六五は陰柔を以て君位に居り、正に歓豫の世に当たり、自己は安楽の裡に沉溺す、是れ能く自立せざる君主。権柄の在る所・衆心の帰向は、皆九四のあそこに在り。九四は陽剛にして衆を得、是れ一箇の享楽に沉溺し性情柔弱の君主の管束し得る所に非ず。これは便ち柔弱にして能く自立せざる君主が専権の臣に受制するを成す。彼は君位を占す、これは「貞」。臣下に受制す、これは「疾」。陰爻を以て尊位に居れば、権柄は失せたれども位子は却ってなお在り、それゆえ「貞疾、恒不死」と言う——意思は名分は正しきと雖も身に痼疾有り、長年病を抱きて而して一時に死せず、漢朝・魏朝の末世のあれらの君主の如し。
人君致危亡之道非一,而以豫為多。在四不言失正,而於五乃見其強逼者,四本無失,故於四言大臣任天下之事之義,於五則言柔弱居尊,不能自立,威權去己之義,各據爻以取義,故不同也。若五不失君道,而四主於豫,乃是任得其人安享其功,如太甲、成王也。《蒙》亦以陰居尊位,二以陽為蒙之主,然彼吉而此疾者,時不同也。童蒙而資之於人,宜也;耽豫而失之於人,危亡之道也。故蒙相應,則倚任者也;《豫》相逼,則失權者也。又上下之心專歸於四也。
君主の危亡を招致するの途径はただ一条に止まらず、而して安楽に耽るに因りて禍を招くは最も多し。九四のあそこに於ては彼の正を失うを説かず、六五のここに到りては却って臣下の強勢相逼するを見出すは、九四の本身は并せて過失なきがゆえに、九四に就きて説く所は大臣が天下の事務を担当するの道理、六五に就きて説く所は柔弱の君が尊に居りて能く自立せず威権が旁落するの道理——各々本爻に就きて義を取る、それゆえ説法は同じからず。仮令六五が君主の道を失わずして、九四が和楽の政を主持せば、あれは便ち用人得当にして安んじてその成を享くるなり、太甲の伊尹に於ける、成王の周公に於けるが如し。『蒙』卦もまた陰爻が尊位に居り、九二は陽爻を以て全卦の主と為す、然るも『蒙』卦は吉にしてここは却って疾たるは、原因は時勢の相同じからざるに在り:童蒙は無知にして別人に倚仗するは、応然なり。享楽に沉溺して権柄を別人に丢与するは、あれはすなわち危亡の道。それゆえ『蒙』卦は二と五と相応するは、倚重任用。『豫』卦は四と五と相逼するは、権柄を喪失す。いわんや上下の人心はまた皆専ら九四に帰するをや。
《象》曰:六五貞疾,乘剛也;恆不死,中未亡也。貞而疾,由乘剛為剛所逼也。恆不死,中之尊位未亡也。上六,冥豫成,有渝無咎。上六陰柔,非有中正之德,以陰居上,不正也。而當豫極之時,以君子居斯時,亦當戒懼,況陰柔乎?乃耽肆於豫,昏迷不知反者也。在豫之終,故為昏冥已成也。若能有渝變,則可以無咎矣。在豫之終,有變之義。人之失,苟能自變,皆可以無咎,故冥豫雖已成,能變則善也。聖人發此義,所以勸遷善也,故更不言冥之凶,專言渝之無咎。《象》曰:冥豫在上,何可長也?昏冥於豫,至於終極,災咎行及矣。其可長然乎?當速渝也。
『小象伝』に曰く:「六五貞疾、乗剛也。恒不死、中未亡也」。名分は正しきと雖も身に疾患あるは、それが陽剛の上に凌駕し、却って陽剛に逼められたるに因る。長年死せざるは、中に居るあの尊位がなお丢れざるに因る。上六の爻辞に曰く:「冥豫成、有渝无咎」。上六は陰柔にして、并せて中正の徳を具備せず、陰爻を以て最上に居るは、正ならざるなり。いわんや正に歓豫の極点に到る時に当たるをや——たとえ君子がこのような時に処するも、応に戒慎恐懼すべし、いわんや陰柔の人をや。そこに於て彼は享楽に沉湎放縦し、昏昧迷失して回头を知らず。豫卦の終末に処するがゆえに、昏冥は已に鋳成せられたりと言う。倘若し能く変改する所有れば、すなわち災禍を免れ得。一卦の終に処するは、もとより変の意味を含む。人の過失は、ただ能く自己改变すれば、皆災禍を免れ得、それゆえ豫に於て昏冥は已に鋳成せりと雖も、能く変わればすなわち好し。聖人がこの層の意思を発明するは、人に勧めて善に遷らしめんが為、それゆえ索性に昏冥の凶険を説かず、ただ変改すれば過错なからんと説くのみ。『小象伝』また曰く:「冥豫在上、何可長也」。昏昧に享楽に沉溺して、一直に終極の地步に到れば、災禍は馬上に臨頭せんとす、豈に能くこの如く長久に下去らんや。応に赶紧に変改するを是れとす。
随卦(震下兌上)
《隨》,《序卦》:“豫必有隨,故受之以隨。”夫悅豫之道,物所隨也,隨所以次豫也。為卦,兌上震下,兌為說,震為動,說而動,動而說,皆隨之義。女隨人者也,以少女從長男,隨之義也。又震為雷,兌為澤,雷震於澤中,澤隨而動,隨之象也。又以卦變言之,乾之上來居坤之下,坤之初往居乾之上,陽來下於陰也。以陽下陰,陰必說隨,為隨之義。凡成卦,既取二體之義,又有取爻義者,復有更取卦變之義者,如隨之取義,尤為詳備。
『随』卦に就いて、『序卦伝』に曰く:「豫必有随、故受之以随」。歓悦和楽の道は、万物の願いて跟従する所、それゆえ『随』卦は『豫』卦の後に排す。卦体に就きて言えば、兌は上に在り震は下に在り:兌は悦、震は動。心裡悦然として而る後に行動し、行動してまた人をして悦然たらしむは、皆「随」の意。再び言えば、女子は人に随う者、ここに少女を以て長男に跟従するは、また随の意。また震は雷と為り兌は沢と為り、雷は沢の中に在りて震動し、沢水はこれに随いて動く、これは随の形象。更に卦変の上より言えば、乾卦の上爻は下りて坤の下に居り、坤卦の初爻は上りて乾の上に居る、是れ陽が陰の下面に来る。陽を以て陰下に屈居せば、陰は必ず欣悦して跟従す、これもまた随の意。大凡そ一卦の成立は、既に上下両体の意義を取り、また爻位の意義を取る者有り、更に別に卦変の意義を取る者有り。『随』卦の如く多方に義を取るは、尤も詳備。
隨:元,亨,利,貞,無咎。隨之道,可以致大亨也。君子之道,為眾所隨,與己隨於人,及臨事擇所隨,皆隨也。隨得其道,則可以致大亨也。凡人君之從善,臣下之奉命,學者之徙義,臨事而從長,皆隨也。隨之道,利在於貞正,隨得其正,然後能大亨而無咎。失其正則有咎矣,豈能亨乎?
『随』卦の卦辞に曰く:「元・亨・利・貞、无咎」。随のこの路は、大亨通に達すべし。君子の道が衆人に跟随せられ、自己が別人に跟随し、および事に臨みて誰に跟随するかを選択するは、これらは皆「随」に属す。跟随して法を得れば、すなわち能く大いに亨通す。凡そ君主の善に従うこと流るるが如く、臣下の命令を奉行し、求学者の義に迁就し、事に臨みて賢長の意見を聴従するは、皆随なり。随の道理は、利は正を守るに在り:跟随してその正を得、然る後に初めて能く大亨通して過错を出さず。正を失えば、すなわち過错を出さん、何処に更に亨通を談ずるを得ん。
《彖》曰:隨,剛來而下柔,動而說,隨。大亨貞,無咎,而天下隨時。卦所以為隨,以剛來而下柔,動而說也,謂乾之上九來居坤之下,坤之初六往居乾之上,以陽剛來下於陰柔,是以上下下,以貴下賤,能如是,物之所說隨也。又下動而上說,動而可說也,所以隨也。如是則可大亨而得正,能大亨而得正,則為無咎。不能亨,不得正,則非可隨之道,豈能使天下隨之乎?天下所隨者時也,故云“天下隨時”。
『随・彖伝』に曰く:「随、剛来而下柔、動而説、随。大亨貞、无咎、而天下随時」。この一卦の「随」と称する所以は、剛爻が下りて柔爻の下に屈居し、しかも動きて人をして喜悦せしむるに在り。いわゆる剛来下柔とは、乾の上九が下りて坤の下に居り、坤の初六が上りて乾の上に居るを言う:陽剛を以て甘んじて陰柔の下に居るは、これすなわち上位に在る者が下位に在る者に俯就し、尊貴なるが卑賎なるに俯就するなり。能くこの如くすれば、万物は自然に欣悦して跟従す。再び言えば下卦は震の動にして上卦は兌の悦、動きて能く人をして喜悦せしむれば、それゆえ随と為す。この如くすれば能く大いに亨通してまた正道を持守す。能く大亨して正を得れば、初めて過错あらず。能く亨通せずその正を得ざれば、便ち跟随すべきに値する道に非ず、何ぞ能く天下人をして跟随せしめんや。天下の跟随する所は「時」、それゆえ「天下随時」と言う。
隨時之義大矣哉!君子之道,隨時而動,從宜適變,不可為典要,非造道之深,知幾能權者,不能與於此也。故贊之曰“隨時之義大矣哉!”凡贊之者,欲人知其義之大,玩而識之也。此贊隨時之義大,與《豫》等諸卦不同,諸卦時與義是兩事。
『彖伝』は讃嘆して曰く:「随時之義大矣哉」!君子の道は、時勢に随いて動き、どのように合宜すればどのように応変し、一套の固定不変の条例に立成する能わず。造詣極めて深く、能く幾微を識りて権衡に善き人に非ざれば、この境界に参与するに到らず、それゆえ一句を讃嘆して「随時之義大矣哉」と曰く。凡そこの類の讃嘆は、皆人をしてその中の意義の大なるを知らしめ、反復して玩味して而る後に領会せしめんと欲する。不過ここに讃ずる所は「随時」のこの層の意義の大、『豫』等の卦と同じからず:あの数卦の裡に於ては、「時」と「義」はもとより両回事。
《象》曰:澤中有雷,隨,君子以嚮晦入宴息。雷震於澤中,澤隨震而動,為隨之象。君子觀象,以隨時而動。隨時之宜,萬事皆然,取其最明且近者言之。君子以嚮晦入宴息:君子晝則自強不息,及向昏晦,則入居於內,宴息以安其身,起居隨時,適其宜也。《禮》:君子晝不居內,夜不居外,隨時之道也。
『随・大象伝』に曰く:「沢中有雷、随、君子以向晦入宴息」。雷は沢の中に在りて震動し、沢水は雷震に随いて動く、これは随の形象。君子はこの象を観察して、中より随時に動くの道理を学得す。時に随いて宜を制すは、万事は皆応にこの如くすべし。ここにただその中の最も浅近明白の一件を取りて説く:「君子以向晦入宴息」——君子は白日は自強不息して事を為し、天色が晩に向かうに至れば、便ち室内に退入し、安歇休息して以てその身体を養う。起居作息は時候に随いて定まり、各々その宜を得。『礼記』に「君子昼不居内、夜不居外」の説法有り、講ずる所は正に随時の道。
初九,官有渝,貞吉,出門交有功。九居隨時而震體且動之主,有所隨者也。官,主守也。既有所隨,是其所主守有變易也,故曰官有渝,貞吉,所隨得正則吉也。有渝而不得正,乃過動也。出門交有功:人心所從,多所親愛者也。常人之情,愛之則見其是,惡之則見其非,故妻孥之言雖失而多從,所憎之言雖善為惡也。苟以親愛而隨之,則是私情所與,豈合正理,故出門而交則有功也。出門謂非私暱,交不以私,故其隨當而有功。
『随』卦の初九の爻辞に曰く:「官有渝、貞吉、出門交有功」。初九は陽爻を以て随の時勢の裡に処り、また震体に属して発動の主爻たり、是れ跟随する所有る人。「官」は主管・守持の意。既に跟随の対象有れば、あれば彼の原先の主守する所の物はすなわち変動を発生せん、それゆえ「官有渝」と言う。「貞吉」と言うは、跟随する所の対象がその正を得れば初めて吉なるに因る。変わりて而して正を得ざれば、あれはすなわち妄動。「出門交有功」:人心の跟従する所は、多半は自己の親近喜愛する人。常人の情は、誰を喜べばすなわち彼の何処を看ても皆是、誰を厭悪すればすなわち彼の何処を看ても皆非。それゆえ妻子児女の話はたとえ説き錯えりとも常常聴従し、憎悪する所の人はたとえ説き当たりとも対ならずと為す。倘若し親愛に因りて人家に跟随せば、あれは私情の偏袒より出づ、何処に正理に合せんや。それゆえ家門を走出して交接すれば、初めて功有らんと言う。「出門」とは私昵の人に限らざるを言う。交接は私情を掺入せざれば、跟随する所は自然に得当にして功效有らん。
《象》曰:官有渝,從正吉也。既有隨而變,必所從得正則吉也。所從不正,則有悔吝。出門交有功,不失也。出門而交,非牽於私,其交必正矣,正則無失而有功。六二,係小子,失丈夫。二應五而比初,隨先於近柔,不能固守,故為之戒云:若係小子,則失丈夫也。初陽在下,小子也;五正應在上,丈夫也。二若志繫於初,則失九五之正應,是失丈夫也。係小子而失丈夫,舍正應而從不正,其咎大矣。二有中正之德,非必至如是也,在隨之時,當為之戒也。
『小象伝』に曰く:「官有渝、従正吉也」。既に跟随する所有るに因りて変動を生ぜば、あれば必ず跟従する所の対象が正を得れば初めて吉。跟従する所の正ならざれば、便ち悔恨と羞吝と有らん。「出門交有功、不失也」——門を走出して交接し、私情に牵扯せられざれば、交往は必ず端正。端正なれば便ち閃失あらずして功を建つるを能くす。六二の爻辞に曰く:「系小子、失丈夫」。六二はもとより九五と相応すべし、然るもまた初九に緊挨す。随の時は容易に眼前の近隣に先ず跟従し、柔弱の質はまた守りて牢ならず、それゆえ特地にそれの為に戒を立てて曰く:若し往きてあの「小子」を牽系せば、すなわちあの「丈夫」を失わん。初九は陽爻にして下に在るは、「小子」。九五は正応にして上に在るは、「丈夫」。六二は若し心志を初九の身上に系えば、すなわち九五のこの正応を失い、すなわち丈夫を失う。小子を牽系して丈夫を失うは、正応を捨棄して不正に跟従するなり、過失は便ち大なるべし。六二はもとより中正の徳有り、未必しも真にこの地步に到らん、ただ身が随の時勢に処するに因り、理応先にそれの為に告戒を立下すべし。
《象》曰:係小子,弗兼與也。人之所隨,得正則遠邪,從非則失是,無兩從之理。二苟繫初,則失五矣,弗能兼與也。所以戒人從正當專一也。六三,係丈夫,失小子,隨有求得,利居貞。
『小象伝』に曰く:「系小子、弗兼与也」。人の跟随する対象は、正に跟し得ればすなわち邪を遠離し、非に跟し錯えればすなわち是を失う、同時に両辺に跟従するの道理なし。六二は若し初九を牽系せば、すなわち九五を失い、両辺は兼ねて得る能わず。これは人を告戒する:正道に跟従するは必ず専一なるべし。六三の爻辞に曰く:「系丈夫、失小子、随有求得、利居貞」。
丈夫九四也,小子初也。陽之在上者丈夫也,居下者小子也。三雖與初同體,而切近於四,故繫於四也。大抵陰柔不能自立,常親繫於所近者。上繫於四,故下失於初,舍初從上,得隨之宜也,上隨則善也。如昏之隨明,事之從善,上隨也。背是從非,舍明逐暗,下隨也。
ここに言う「丈夫」は九四を指し、「小子」は初九を指す:陽爻は上位に在るはすなわち丈夫、下位に居るはすなわち小子。六三は初九と同じく下卦に在ると雖も、却って九四に緊挨す、それゆえ九四に牽系す。大抵陰柔の質は能く自立せず、総じて自己に最も近き人に親附牽系す。それは上に向かいて九四に系う、これに因りて下に向かいては便ち初九を失う。初九を捨棄して上面に跟従するは、正に随の適宜の道に合す——上に向かいて跟随するはすなわち好し。たとえば昏昧の人が明達の人に跟随し、事を弁ずる人が良善の一方に依従するは、これは上に向かうの随。正確に背離して錯誤に跟従し、光明を捨棄して昏暗を追逐するは、これすなわち下に向かうの随。
四亦無應,無隨之者也,近得三之隨,必與之親善。故三之隨四,有求必得也。人之隨於上,而上與之,是得所求也。又凡所求者可得也。雖然,固不可非理枉道以隨於上,苟取愛說以遂所求。如此,乃小人邪諂趨利之為也,故云利居貞。自處於正,則所謂有求而必得者,乃正事君子之隨也。
九四もまた相応の爻なく、もとより跟随する人なし。如今近くに就きて六三の跟随を得れば、必ず六三と親近友善す、それゆえ六三が九四に跟随するは、求むる所有れば必ず得るを得。人は上位に在る者に跟随して上に在る者が彼を接納するは、これすなわち願う所を求得す。しかも凡そ求むる所有れば、も大抵皆願いの如くを得。話はこの如しと雖も、却って断じて事理に違背し正道を歪曲して上面に攀附すべからず、苟且に上面の歓心を換取して以て自己の求むる所を達成す。あのように為せば、すなわち小人の邪佞諂媚・趨炎逐利の行従。それゆえ爻辞に「利居貞」と言う。自己は正しく立てば、あればいわゆる「有求必得」なる所は、初めて正当事情の上の君子式の跟随。
《象》曰:係丈夫,志舍下也。既隨於上,則是其志舍下而不從也。舍下而從上,舍卑而從高也,於隨為善矣。九四,隨有獲,貞凶。有孚,在道,以明,何咎?九四以陽剛之才,處臣位之極,若於隨有獲,則雖正亦凶。有獲,謂得天下之心隨於己。為臣之道,當使恩威一出於上,眾心皆隨於君。若人心從己,危疑之道也,故凶。
『小象伝』に曰く:「系丈夫、志舎下也」。既に上面に跟随したれば、すなわちそれの心志は已に下面を捨棄して更に跟従せざるを説明す。下を舎して上に従うは、卑者を捨棄して尊者に跟従するなり、随の時勢の裡に於ては好しと算す。九四の爻辞に曰く:「随有獲、貞凶。有孚、在道、以明、何咎」。九四は陽剛の才を以て臣位の頂端に処り、若し「随」の上に於て收獲有らば、あればたとえ自己は正を守るともなお凶なり。いわゆる「有獲」とは、天下人心を得て皆自己に跟随せしむるを言う。臣子たるの道理は、応に恩沢と威権とをして全て君主より出づらしめ、衆人の心をして皆君主に帰向せしむべし。若し人心が跟従する所は自己ならば、あれはすなわち危疑の道、それゆえ凶。
居此地者奈何?唯孚誠積於中,動為合於道,以明哲處之,則又何咎?古之人有行之者,伊尹、周公、孔明是也,皆德及於民,而民隨之。其得民之隨,所以成其君之功,致其國之安,其至誠存乎中,是有孚也;其所施為無不中道,在道也;唯其明哲,故能如是以明也,復何過咎之有?是以下信而上不疑,位極而無逼上之嫌,勢重而無專強之過。非聖人大賢,則不能也。其次如唐之郭子儀,威震主而主不疑,亦由中有誠孚而處無甚失也,非明哲能如是乎?
このような地位に処する人は応に如何せん。ただ内心に誠信を積み、一挙一動は皆道に合し、更に明達叡智を用いて以て応付するのみ、あればまた何の過错あらん。古人の中にこの一步に做り到る者は、伊尹・周公・諸葛孔明:彼らの徳沢は皆百姓に施及し、百姓は因りて彼らに跟随す。而して彼らが百姓の跟随を得るは、正に用いて君主の功業を成就し国家の安定を換取するに在り。至誠が心中に存するは、すなわち「有孚」。為す所作為す所は皆中道に合するは、すなわち「在道」。ただそれが明達叡智なるがゆえに、能くこの如くするを為し得、すなわち「以明」。この如くすればまた何処に過咎あらん。これに因りて下面の人は信服して上面の君主は猜疑せず、位置は頂点に到れども君を逼るの嫌疑なく、勢力は甚だ重しと雖も専横の過失なし。聖人大賢に非ざれば、この一点を為し得ず。次一等のは、唐朝の郭子儀の如き、威望は君主を震動するも君主は并せて彼を猜疑せず、また内心に確かに誠信有り処事の上に大なる閃失なきに由る。若し明達叡智に非ざれば、能くこの如くせんや。
《象》曰:隨有獲,其義凶也。有孚在道,明功也。居近君之位而有獲,其義固凶。能有孚而在道,則無咎,蓋明哲之功也。九五,孚于嘉,吉。九五居尊得正而中實,是其中誠在於隨善,其吉可知。嘉,善也。自人君至於庶人,隨道之吉,唯在隨善而已。下應二之正中,為隨善之義。
『小象伝』に曰く:「随有獲、其義凶也。有孚在道、明功也」。身は君主に靠近する位置に居りて人心を收得するは、道理に按じてもとより凶。能く内に誠信を懐きて行事は道に合せば、便ち過錯あらず、これは全て明達叡智の功効。九五の爻辞に曰く:「孚于嘉、吉」。九五は尊位に居り、既にその正を得、しかも陽爻は中に居りて内裡充実す、見ゆべし彼の心中の誠意は便ち善道に跟従するの上に落つ、吉は想い見るべし。「嘉」はすなわち善。上は君主より下は百姓に至るまで、随の吉たる所以は、ただ随う所の善なるに在るのみ。九五は下って六二のこの既に正しく且つ中なる爻に応ず、正に「随善」の意。
《象》曰:孚于嘉吉,位正中也。處正中之位,由正中之道,孚誠所隨者正中也,所謂嘉也,其吉可知。所孚之嘉,謂六二也。隨以得中為善,隨之所防者過也,蓋心所說隨,則不知其過矣。
『小象伝』に曰く:「孚于嘉吉、位正中也」。身は既に正しく且つ中なる位置に処し、行う所は既に正しく且つ中なる道、彼が誠意を以て跟随する対象もまた既に正しく且つ中なり、これすなわちいわゆる「嘉」、吉は想い見るべし。彼の誠信する所のあの「嘉」は、指す所は六二。随は中を得るを以て好しと為す、随の最も堤防を要する所はすなわち過頭なるがゆえ:人は一旦心裡に跟随する所の対象を喜歡せば、便ち自己が已に過頭せるを察覚し得ず。
上六,拘係之,乃從維之,王用亨于西山。上六以柔順而居隨之極,極乎隨者也。拘係之,謂隨之極,如拘持縻繫之。乃從維之,又從而維繫之也,謂隨之固結如此。王用亨于西山,隨之極如是。昔者太王用此道,亨王業於西山。太王避狄之難,去豳來岐,豳人老稚扶攜以隨之如歸市,蓋其人心之隨,固結如此,用此故能亨盛其王業於西山。西山,岐山也。周之王業,蓋興於此。上居隨極,固為大過,然在得民之隨,與隨善之固,如此乃為善也,施於他則過矣。《象》曰:拘係之,上窮也。隨之固如拘繫維持,隨道之窮極也。
上六の爻辞に曰く:「拘系之、乃従維之、王用亨于西山」。上六は柔順の質を以て随の極点に処り、是れ随の尽頭に至る人。「拘系之」とは、随の極処に至れば、拘え缚え固められたるが如きを言う。「乃従維之」とは、随後また纏系を加うるを言い、この種の跟随の牢固なること何の地步に至るかを形容す。「王用亨于西山」とは、随がこのような程度に至れば如何なる結果有るかを言う:従前周の太王は正にこの路に憑りて、西山に於て王業を弘揚光大せり。太王は狄人の侵擾を躲避するが為、豳地を離れて岐山に遷徙し、豳地の人は老少を論せず皆扶老携幼して彼に跟いて走り、赶集するが如く紛紛として至る。見ゆべし人心の跟随の牢固なることこの地步に至れば、それに頼りて初めて能く西山に於て王業を発揚興盛せしめん。西山はすなわち岐山、周朝の王業はほぼ正にここより興起せり。上六は随の極点に居り、もとより太過と算すべし。然るも「民心之随を得」と「随善之堅固」のこの事の上に置けば、この如くは却って好し——別の事情の上に換えれば、便ち過分なり。『小象伝』に曰く:「拘系之、上窮也」。跟随の牢固なること拘執纏系せらるるが如きは、これは随の道が窮極に走り至れるなり。
