易図明辨
巻十・学易の正宗を論ず(郝敬《談経》《学易枝言》)
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
序(万斯同)
予初讀易,惟知朱子《本義》而已。年垂三十,始集漢魏以後諸家傳注,與裡中同志者講習,乃頗涉其津涯。因嘆朱子篤信邵子之過,而《本義》卷首之九圖為可已也。友人德清胡朏明先生,精於明學,庚辰仲夏,示予以《易圖明辨》十卷,則《本義》之九圖咸為駁正,而謂朱子不當冠於篇首。予讀之大喜,躍然曰:至哉言乎,何其先得我心乎!
私が若いころ《周易》を読んだとき、知っていたのは南宋の朱熹の《周易本義》という一書にすぎなかった。三十歳に近づくころ、ようやく漢・魏以降の諸家の伝注を集め、郷里の志を同じくする人々とともに講習して、やっと易学の門径にわずかに入ることができた。そこで朱熹が北宋の邵雍の学をあまりに篤く信じすぎていること、《周易本義》の巻首に掲げられたあの九つの図は、実はまったく取り去ってよいものだと嘆いた。私の友人で徳清の人、胡渭(字は朏明)先生はこの学にきわめて精しく、康熙庚辰年(三十九年)の仲夏、著わした《易図明辨》十巻を私に見せてくれたが、書中では《周易本義》巻首の九図を一つずつ駁正し、朱熹がそれらを全書の冒頭に冠すべきでなかったと論じていた。私は読んで大いに喜び、躍り上がって言った。なんと徹底した言葉だろう、どうして私の胸に抱いていたことを先に言い当ててくれたのか!
予嘗謂河圖洛書、先天後天、羲文八卦、六十四卦方圓諸圖,乃邵子一家之學,以此為邵子之易則可,直以此為羲、文之易,則大不可。乃朱子恪遵之,反若羲文作易本此諸圖,不亦異乎?夫河圖見於《顧命》《繫辭》《論語》,古固有之,而後世亡之矣。今之自一至十之圖,本出陳希夷,古人未嘗語及,非真河圖也。戴九履一之圖,今之所謂洛書者,見於《漢書·張衡傳》及緯書《乾鑿度》,乃太乙下行九宮圖,非洛書也。後世術家配以一白二黑之數,至今遵用不變,豈果真洛書乎。
私は従来から考えていた。河図洛書、先天図・後天図、伏羲八卦と文王八卦、六十四卦の方図・円図という一連の図式は、みな邵雍一家の学問である。それらを邵雍の易学として扱うならよいが、そのまま伏羲・文王の易学と見なすのは、まったく許されない。ところが朱熹は恭しくそれらを遵奉し、かえって伏羲・文王が《易》を作ったのはこれらの図に基づいていたかのようである。これはおかしくないだろうか。「河図」という名は《尚書・顧命》、《周易・繋辞伝》、そして《論語》に見え、上古に確かにそうしたものがあったが、後世にはとうに亡佚していた。今日流布している一から十までの白黒の点の図は、もともと五代・宋初の道士陳摶(号は希夷先生)が伝え出したもので、古人が言及したことはなく、真の河図ではない。あの「戴九履一」の図、すなわち今人がいう洛書は、《漢書・張衡伝》と緯書《乾鑿度》に見えるもので、もとは「太乙下行九宮」の式図であり、洛書ではない。後世の術数家はさらにそれに一白・二黒などの九星の数を配し、今日まで改めずに用いているが、それが本当に洛書だというのだろうか。
卦止有出震齊巽之位,乃孔子之所繫,而文王周公之遺法也,安得有先天之位?此誰言之而誰傳之?「天地定位」一節,不過言八卦之相錯耳,何曾有東西南北之說,而欲以是為先天卦位乎?此不特先天二字可去,即後天二字亦必不可存。蓋卦位止一而無二,不得妄為穿鑿也。八卦之序,自當以父母六子為次,孔子《繫辭》屢言之,乃舍此不遵,以乾兌離震巽坎艮坤為次,此何理乎?
八卦の方位は、《説卦伝》の「帝出乎震、齊乎巽」の一套しかなく、それは孔子が繋げた伝文であり、文王・周公が伝えた法度であって、どこに「先天の方位」などがありえようか。この説はいったい誰が言い、誰が伝えたのか。《説卦伝》の「天地定位」の一節は、八卦が二つずつ相対し陰陽が交错することを述べたにすぎず、いつ東西南北の方位を説いたことがあろうか。どうしてそれをもって先天卦位などと断定できようか。こう見ると、「先天」の二字を削るべきなだけでなく、「後天」の二字も決して存置してはならない――卦位は一套しかなく第二の套はないからで、むやみに穿鑿附会してはならない。八卦の次序は、もともと乾・坤の父母が震・坎・艮・巽・離・兌の六子を生む順であるべきで、孔子は《繋辞伝》でたびたびこれを説いている。それなのにこの一条を捨てて遵わず、乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤の配列を用いるとは、どういう理屈か。
太極生兩儀、兩儀生四象、四象生八卦,固出於《繫辭》,而實非生卦之謂也。乾坤生六子,其理顯然,而坤可置於最末乎?三男三女,可錯亂而無序乎?易但有三畫之卦,重之則為六畫,未嘗有二畫四畫五畫之卦也;但有八卦六十四卦,未聞八卦重為十六、十六重為三十二、三十二始重為六十四也。必曰一每生二,以次而加,試問易中曾有是說乎?
「太極生両儀、両儀生四象、四象生八卦」という言葉は確かに《繋辞伝》に出るが、それが説くのは実は卦画を生成する過程ではない。乾・坤が六子を生むこと、その理はきわめて明白だが、先天の次序でどうして坤卦を最後に置けようか。三男三女をどうして秩序なく錯乱させてよいのか。《周易》には三画の経卦があるだけで、それを重ねれば六画の別卦となるのであり、二画・四画・五画の卦などあったためしがない。八卦と六十四卦があるだけで、八卦がまず十六に重なり、十六がさらに三十二に重なり、三十二がようやく六十四に重なったなどとは聞いたことがない。必ず「一が毎に二を生じ、順に倍加する」と言うなら、試しに問おう、《易》の中にかつてそうした説があったか。
至於卦變,惟程蘇二家為可信,古人十闢之說,予猶不敢從。若朱子之《本義》,益為支離。況與《啟蒙》之言不合,一人而持兩說,令學者何所適從?此予必不敢附會者也。凡此諸說,間與友人言之,或然或不然。讀先生此書,一一為之剖析,洵大暢予懷。而其採集之博,論難之正,即令予再讀書十年,必不能到。何先生之學大而能精如此!以此播於人間,易首之九圖即從此永廢可也。四明同學弟萬斯同纂
「卦変」の説については、程頤・蘇軾の二家の説だけが信じるに足る。古人が「十辟卦」から諸雑卦を生じさせたという説も、私はなお遵うに敢えてしない。朱熹《周易本義》に列挙された卦変に至っては、さらに支離滅裂であり、しかも彼自身の《易学啓蒙》の説とも合わない――同じ一人の人間が二つの説を持つのでは、学ぶ者はどちらに従えばよいのか。これは私が断じて附会を敢えてしない点である。以上の見解は、私も平生ときどき友人に語ったことがあり、賛同する者もいればしない者もいた。胡先生のこの書を読むと、一つ一つの問題を剖判し尽くしており、実に私の胸を大いに暢びさせた。そしてその採辑する材料の広博さ、弁難立論の精当さは、私にさらに十年読書させても、きっと及ばない。胡先生の学問は、どうしてここまで博大かつ精深なのか。この書を世に伝え広め、《周易》巻首のあの九つの図がこれ以後永遠に廃棄されるなら、それでよいのである。四明(寧波)の同学弟・万斯同が纂す。
易図明辨題辞
古者有書必有圖,圖以佐書之所不能盡也。凡天文、地理、鳥獸、草木、宮室、車旗、服飾、器用、世系位著之類,非圖則無以示隠賾之形,明古今之制,故詩書禮樂春秋皆不可以無圖。唯易則無所用圖,六十四卦二體六爻之畫,即其圖矣。白黑之點、九十之數、方圓之體、復姤之變,何為哉?其卦之次序方位,則乾坤三索、出震齊巽二章盡之矣,圖可也,安得有先天後天之別?
古人は書物を作れば必ず図を添えた。図は文字で言い尽くせない部分を補うためのものである。およそ天文、地理、鳥獣、草木、宮室、車旗、服飾、器物、および世系や班位の類は、図に画かなければ幽微で分かりにくい形状を示し、古今の制度の差異を説き明かすことができない。だから《詩》《書》《礼》《楽》《春秋》はいずれも図がなくてはならない。ただ《周易》だけは図を用いる必要がない。六十四卦の上下二体・六爻の卦画そのものが、すでにそれ自身の図だからである。あの白黒の点、九と十の数、方図・円図の形体、《復》から《姤》への推変などは、いったい何のためのものか。卦の次序と方位は、《説卦伝》の「乾坤三索」と「帝出乎震、齊乎巽」の二章ですでに言い尽くされており、これに基づいて一幅の図を画くことはできないこともないが、どこに「先天」「後天」の区別などありえようか。
河圖之象自古無傳,從何擬議?洛書之文見於《洪範》,奚闗卦爻?五行九宮初不為易而設,《參同契》先天太極,特借易以明丹道,而後人或指為河圗,或指為洛書,妄矣!妄之中又有妄焉,則劉牧所宗之《龍圖》、蔡元定所宗之《闗子明易》是也,此皆偽書,九十之是非,又何足校乎?故凡為易圖以附益經之所無者,皆可廢也。
河図の形象は古来伝わっていないのに、後人は何をもって臆測し議論するのか。洛書の文字は《尚書・洪範》に見えるが、《周易》の卦爻と何の関係があるのか。五行・九宮という二つの仕組みはもともと《易》のために設けられたものではない。魏伯陽の《周易参同契》が説く先天・太極も、《易》を借りて煉丹の道を説明したにすぎないのに、後人はある者はそれを河図と指し、ある者は洛書と指した。まったく荒唐無稽である。その荒唐無稽の中にさらに荒唐無稽なものがある。それが劉牧が依拠とする《龍図》と、蔡元定が依拠とする《関子明易伝》であり、これらはすべて偽書である。こうであれば、河図が九数か十数か、洛書が十数か九数かといった是非は、どうして争うに値しようか。だからおよそ《周易》に図を配し、経文に本来なかったものを付け加えたものは、みな廃棄してよい。
就邵子四圖論之,則橫圖義不可通,而圓圖別有至理。何則?以其為丹道之所寓也。俞琰曰:先天圖雖易道之緒餘,亦君子養生之切務。人曰丹家之說雖出於易,不過依仿而托之者,初非易之本義,因作《易外別傳》以明之。故吾謂先天之圖與聖人之易,離之則雙美,合之則兩傷。伊川不列於經首,固所以尊聖人,亦所以全陳邵也。觀吾書者,如以為西山之戎首、紫陽之罪人,則五百年來有先我而當之者矣,吾其可末減也夫。康熙丙戌上已,七十四叟東樵胡渭書於顒溪客舍。
邵雍の四つの図について論じれば、横図(八卦次序・六十四卦次序)は義理の上で説が通らないが、円図には別に一層の深い意味がある。なぜか。円図には煉丹の道が寄託されているからである。元の俞琰は言った。先天図は易道の余緒にすぎないが、君子の養生の切要な工夫でもある、と。また彼は、丹家の説は《周易》に出るものの、《易》に依仿し《易》に仮託したにすぎず、本来《易》の本義ではないと言い、だから《易外別伝》を著わしてこの趣旨を明らかにした。それで私は思う。先天図と聖人の《易》は、分かてばそれぞれにその美をなし、合わせればともに傷つく、と。程頤がこれらの図を経文の冒頭に置かなかったのは、もちろん聖人を尊ぶためであったが、同時にまさに陳摶と邵雍を保全したのでもある。私のこの書を読む人が、もし私を蔡元定(西山)を攻撃した元凶、朱熹(紫陽)に罪を犯した罪人と見なすなら、五百年来すでに私に先立ってこの罪名を負った者がいる。私はおそらくまだ軽く発落してもらえるだろう。康熙丙戌年(四十五年)の上巳の日、七十四歳の老翁・東樵胡渭、顒渓の客舎にて記す。
易図明辨序(阮元)
元幼學易,心疑先後天諸圖之說。庚子得毛西河先生全集中《河圖洛書原舛篇》,讀之豁然,得其原委。友人歙凌次仲廷堪謂元曰:子知西河之辨易,未見德清朏明先生《易圖明辨》,尤詳備也。元識之,求其書不可得。繼在京師見四庫館書目錄之,曰其書一卷辨河圖洛書,二卷辨五行九宮,三卷辨《參同契》先天圖太極圖,四卷辨《龍圖》《易數鉤隱圖》,五卷辨《啟蒙》圖表,六卷七卷辨先天古易,八卷辨後天之學,九卷辨卦變,十卷辨象數流弊,並引據經典,原原本本,於易學深為有功,元鄉注益切。
私は幼いころ《易》を学び、先天・後天の各種の図の説を心に疑っていた。乾隆庚子年(四十五年)、毛奇齢(号は西河)先生の全集中の《河図洛書原舛篇》を得て、読んで豁然と開け、この図説の来龍去脈をはっきり知った。友人の歙県の凌廷堪(字は次仲)が私に言った。あなたは毛西河が《易》を弁じたことは知っているが、まだ徳清の胡朏明先生の《易図明辨》を見ていない。あの書はいっそう詳しく備えて弁じている、と。私はその言葉を記憶したが、あちこち求めても書を得られなかった。後に都で四庫館の書目を見て、その著録を見た。そこには、この書は巻一に河図洛書を弁じ、巻二に五行九宮を弁じ、巻三に《周易参同契》と先天図・太極図を弁じ、巻四に《龍図》と《易数鈎隠図》を弁じ、巻五に《易学啓蒙》に載る図表を弁じ、巻六・巻七に先天古易を弁じ、巻八に後天の学を弁じ、巻九に卦変を弁じ、巻十に象数の流弊を弁じるとあり、至るところ経典を援引して源流をありのままに述べ、易学にきわめて功労があるとされ、私の向往し注目する気持ちはいよいよ切迫した。
丙辰視學至吳興,始求得讀之,蓋距昔已十六年矣。愧聞道之甚遲,喜斯篇之未泯,亟命其家修板刷印,廣為流傳,以貽學者,因並識其事於篇首。至其圖辨大略,則萬季野先生序言之已盡,茲不贅論。嘉慶元年八月二十八日,浙江督學使者、內閣學士兼禮部侍郎、儀徵後學阮元謹序。
嘉慶丙辰年(元年)、私は学政の身分で呉興に按臨し、ようやくこの書を求めて読むことができた。かつてその名を聞いてからすでに十六年になる。私は道を聞くのが遅すぎたことを恥じ、この書が湮没しなかったことを喜び、急いで胡氏の後人に旧版を修補して刷印させ、広く流布させて後の学者に残すよう命じ、そこでこの事を書の篇首に併せて記した。書中の図を弁じる大旨については、万斯同(字は季野)先生の序がすでにきわめて徹底して説いているので、ここでは多くを言わない。嘉慶元年八月二十八日、浙江督学使者・内閣学士兼礼部侍郎・儀徴の後学阮元、謹んで序す。
跋(伍崇曜)
右《易圖明辨》十卷,國朝胡渭撰。按渭原名渭生,字朏明,一字東樵,德清人。事蹟著撰具見江鄭堂《漢學師承記》,稱先生嘗謂:詩書禮春秋皆不可無圖,惟易無所用圖。六十四卦二體六爻之畫即圖也,八卦之次序方位,乾坤三索、出震齊巽二章盡之矣,安得有先後天之別哉?河圖之象自古無傳,何從擬議?洛書之文見於《洪範》,五行九宮初不為易而設,乃作是書云云。
以上は《易図明辨》十巻、本朝の胡渭の撰である。案ずるに胡渭はもとの名を渭生、字を朏明、また字を東樵といい、浙江徳清の人。彼の生平の事跡と著述は、いずれも江藩(号は鄭堂)の《漢学師承記》に見える。書中に胡先生がかつて言ったと称している。《詩》《書》《礼》《春秋》はいずれも図がなくてはならないが、ただ《周易》だけは図を用いる必要がない。六十四卦の上下二体・六爻の卦画そのものが図である。八卦の次序と方位は、《説卦伝》の「乾坤三索」と「帝出乎震、齊乎巽」の二章ですでに言い尽くされており、どこに先天・後天の区別があろうか。河図の形象は古来伝わらず、何をもって臆測するのか。洛書の文字は《尚書・洪範》に見え、五行・九宮はもともと《易》のために設けられたものではない――そこでこの書を著わした、云々。
又云:洪範古聖所傳,如日月之麗天,有目所共覩,而間有晦盲否塞者,先儒曲說為之害也。漢儒五行傳專主災異,以瞽史矯誣之說,亂彝倫攸敘之經,其害一也;洛書之本文具在《洪範》,宋儒創為黑白之點、方圓之體、九十之位,書也,而變為圖矣,且謂洪範之理通於易,劉牧以九為河圖、十為洛書,蔡元定兩易其名,其害二也;《洪範》原無錯簡,而宋儒任意改竄,移「庶徵王省惟歲」以下為五紀之傳,移「皇斂時五福」至「作汝甲咎」及「三德惟闢作福」以下併為五福六極之傳,其害三也。作《洪範正論》五卷雲雲。其言有足與是書相發明者。
江藩はまた彼の言葉を記している。《洪範》は上古の聖人が伝えたもので、日月が天に懸かるようなものであり、目ある者はみな見ることができる。その間にときどき晦冥不明・阻塞して通じにくいところがあるのは、みな先儒の曲解がもたらした禍である。漢代の儒者の《洪範五行伝》はひたすら災異を説き、巫史の欺罔虚妄の説で、「彝倫攸叙」を説くこの経書を掻き乱した。これが第一の禍である。洛書の本文はもともと《洪範》の中に完全に保存されているのに、宋儒は白黒の点・方円の形体・九数十数の位次を作り出し、もとは「書」(文字)であったものを「図」に変えてしまい、さらに《洪範》の理は《周易》と通じると言い、劉牧は九数をもって河図とし十数をもって洛書とし、蔡元定はまた両者の名称を入れ替えた。これが第二の禍である。《洪範》にもともと錯簡はなかったのに、宋儒は恣意に改動して紊らし、「庶征・王省惟歳」以下を「五紀」の伝文に移し、「皇斂時五福」から「作汝甲咎」まで、および「三徳・惟辟作福」以下を、いっしょに「五福六極」の伝文に移した。これが第三の禍である。このため彼はまた《洪範正論》五巻を作った、云々。これらの言葉はまさに本書と互いに発明し合うものである。
先生篤志經學,著述甚夥,所撰《禹貢錐指》一書,曾呈聖祖御覽,賜「耆年篤學」扁,稽古之榮,至今豔稱之。顧四庫提要著錄是書,與阮文達《國朝儒林傳稿》,均稱視《禹貢錐指》尤為有功經學,則其推崇也至矣。咸豐壬子冬至前一日,南海伍崇曜謹跋。
胡先生は一心に経を治め、著述が多い。撰した《禹貢錐指》一書はかつて康熙皇帝に進呈されて御覧に供し、「耆年篤学」の匾额を賜った。この稽古の栄耀は今日まで人に称羨されている。そして《四庫全書総目提要》が本書を著録し、阮元(諡は文達)が修めた《国朝儒林伝稿》も、いずれもこの書は《禹貢錐指》より経学への功労が大きいと称しており、その推尊が極に達したことが見える。咸豊壬子年(二年)冬至の前一日、南海の伍崇曜、謹んで跋す。
易図明辨目録
卷一 河圗洛書。卷二 五行、九宮。卷三 周易參同契、先天太極。卷四 龍圗、易數鉤隠圗。卷五 啟蒙圗書。卷六 先天古易上。卷七 先天古易下。卷八 後天之學。卷九 卦變。卷十 象數流弊。
全書十巻の目次は次の通り。巻一は「河図洛書」を弁ず。巻二は「五行」と「九宮」を弁ず。巻三は魏伯陽《周易参同契》と「先天図」「太極図」を弁ず。巻四は《龍図》と劉牧《易数鈎隠図》を弁ず。巻五は朱熹《易学啓蒙》に載る図と書を弁ず。巻六は「先天古易」上篇を弁ず。巻七は「先天古易」下篇を弁ず。巻八は「後天の学」を弁ず。巻九は「卦変」を弁ず。巻十は象数の学が流布する中で生じた諸々の弊病を弁ず。
提要
《易圖明辨》十卷,國朝胡渭撰。渭原名渭生,字朏明,號東樵,徳清人。是書專為辨定圖書而作。初,陳摶惟闡易理,衍為諸圖,其圖本凖易而生,故以卦爻反覆研求,無不符合。傳者務神其說,遂歸其圖於伏羲,謂易反由圖而作;又因繫詞河圖洛書之文,取大衍算數作五十五點之圖,以當河圖;取《乾鑿度》太乙九宮法造四十五點之圖,以當洛書。其陰陽竒偶,亦一一與易相應,傳者益神其說,又真以為龍馬神龜之所負,謂伏羲由此而有先天之圖。
《易図明辨》は全部で十巻、本朝の胡渭の撰である。胡渭はもとの名を渭生、字を朏明、号を東樵といい、浙江徳清の人。この書はひとえに「河図洛書」の説を弁定するために作られた。はじめ五代・宋初の陳摶は《周易》の義理を闡発し、それを推衍して一連の図式を作ったにすぎなかった。これらの図はもともと《周易》に依って推演されたものなので、卦爻と反復対照して研求すれば、自然に吻合しないことはなかった。ところが伝授する者たちがひたすらこの説を神秘的に語ろうとし、これらの図を伏羲の名に帰し、《周易》はかえって図に基づいて作られたのだと言った。また《繋辞伝》に「河出図、洛出書」の文字があるのを取り、大衍筮法の算数を取って五十五点の図を作って河図に充て、緯書《乾鑿度》の太乙九宮法を取って四十五点の図を作って洛書に充てた。これらの点数の陰陽・奇偶も至るところ《周易》と相応したので、伝授者はいよいよそれを神奇に語り、ついには本当に龍馬・神亀が背負って出たとまで思い込み、伏羲がこれによってはじめて先天の図を得たと言った。
實則唐以前書絶無一字之符驗,而突出於北宋之初。夫測中星而造儀器,以驗中星無不合,然不可謂中星生於儀器也;候交食而作算經,以驗交食無不合,然不可謂交食生於算經也。由邵子以及朱子,亦但取其數之巧合,而未暇究其太古以來從誰授受,故《易學啟蒙》及《易本義》前九圖皆沿其說,同時袁樞、薛季宣皆有異論。
実際には唐代以前の典籍の中にこれらの図を印証できる字は一つも見つからないのに、それらは突然北宋の初年に現れた。たとえば中星を観測するために儀器を作り、儀器をもって中星を検証すれば合わないことはないが、中星が儀器から生まれたとは言えない。日月の交食を推候して算経を編み、算経をもって交食を検証しても合わないことはないが、交食が算経から生まれたとは言えない。邵雍から朱熹までも、ただこれらの図の数値上の巧合を取っただけで、上古以来いったい誰から誰へ伝わったのかを追及する暇がなかった。だから《易学啓蒙》と《周易本義》巻首の九図はみなこの説を踏襲したのである。朱熹と同時代の袁枢・薛季宣は、いずれも異なる意見を提出していた。
然考《宋史·儒林傳》,《易學啟蒙》朱子本屬蔡元定創稿,非所自撰。《晦庵大全集》中載《答劉君房書》曰:啟蒙本欲學者且就大傳所言卦畫蓍數推尋,不須過為浮說。而自今觀之,如河圖洛書,亦不免尚有剰語。至於《本義》卷首九圖,王懋竑《白田雜著》以文集、語類鉤稽參考,多相矛盾,信其為門人所依附,其說尤明。則朱子當日亦未嘗堅主其說也。元陳應潤作《爻變易蘊》,始指先天諸圖為道家假借易理以為修煉之術,呉澄、歸有光諸人亦相繼排擊,各有論述。國朝毛竒齡作《圖書原舛編》,黃宗羲作《易學象數論》,黃宗炎作《圖書辨惑》,爭之尤力。然皆各據所見抵其罅隙,尚未能窮溯本末,一一抉所自來。
ただ《宋史・儒林伝》を考察すれば、《易学啓蒙》一書は朱熹がもともと蔡元定に起草を委託したもので、自ら撰したのではないことが分かる。《晦庵先生朱文公文集》に《答劉君房書》が載り、そこでは、《易学啓蒙》を作った本意は、学者に《繋辞伝》の説く卦画・蓍数に即して推尋させ、あまり浮泛な議論を多くさせないためであった。今見れば、河図洛書の類の内容にも、なお余計な言葉が残っていたようだ、と言っている。《周易本義》巻首のあの九図については、清の王懋竑が《白田雑著》の中で朱熹の文集と《朱子語類》を鉤稽・比対し、矛盾が多いことを見出し、門人が後で付け加えたものと断定した。この説はとりわけ明白である。これを見ると朱熹も当時、図書の説を断固として主張していたわけではなかった。元の陳応潤は《爻変易蘊》を作り、まず先天諸図は道家が易理を仮借して修錬の術を説いたものと指摘した。呉澄および明の帰有光らも相次いで駁撃を加え、それぞれ論述があった。本朝の毛奇齢は《河図洛書原舛編》を作り、黄宗羲は《易学象数論》を作り、黄宗炎は《図書辨惑》を作り、争弁はいよいよ有力であった。しかし彼らはみなそれぞれ自らの見るところに基づいてその漏洞を攻撃したにすぎず、まだ徹底的にこの説の本末源流を遡り、一つ一つの来歴を暴き出すには至っていなかった。
渭此書,卷一辨河圖洛書,卷二辨五行九宮,卷三辨周易參同、先天太極,卷四辨龍圖、易數鉤隠圖,卷五辨啟蒙圖書,卷六卷七辨先天古易,卷八辨後天之學,卷九辨卦變,卷十辨象數流弊,皆引據舊文,互相參證,以箝依託者之口,使學者知圖書之說,雖言之有故、執之成理,乃修煉術數二家旁分易學之支流,而非作易之根柢。視所作《禹貢錐指》,尤為有功於經學矣。
胡渭のこの書は、巻一に河図洛書を弁じ、巻二に五行九宮を弁じ、巻三に《周易参同契》と先天図・太極図を弁じ、巻四に《龍図》と劉牧《易数鈎隠図》を弁じ、巻五に《易学啓蒙》に附された図書を弁じ、巻六・巻七に先天古易を弁じ、巻八に後天の学を弁じ、巻九に卦変を弁じ、巻十に象数の学の流弊を弁じている。すべて旧来の文献を援引して互いに参証し、古の聖人に仮託する者たちの口を封じ、学者に明白に知らしめた。図書の説は語れば来歴があり、執持すれば自ずから条理をなすように見えるが、実は修錬家と術数家が易学の傍らから分かれ出た支流にすぎず、聖人が《易》を作った根柢ではない。彼の著わした《禹貢錐指》に比べ、この書のほうが経学への功労が大きい。
易図明辨巻一 徳清・胡渭撰
河図洛書
《繫辭傳》曰:古者包犧氏之王天下也,仰則觀象於天,俯則觀法於地,觀鳥獸之文與地之宜,近取諸身,逺取諸物,於是始作八卦,以通神明之德,以類萬物之情。
《周易・繋辞下伝》にいう:上古、伏羲氏が天下を統治していたとき、上を見上げれば天の星象を観察し、下を見下ろせば大地の法則を観察し、鳥獣の体の文様と各地の土宜が生ずる物産を観察して、近くは人の身体に象を取り、遠くは万物に象を取り、そこではじめて八卦を画き、もって神明の徳性を会通し、もって万物の情状を類比した。胡渭がこの経文を全書の冒頭に置いたのは、まさに指摘せんがためである。伏羲が《易》を作るにあたって依拠したのは仰観俯察であって、河図洛書などではない。
朱子曰:俯仰逺近,所取不一,然不過以驗陰陽消息兩端而已。草廬吳氏澄曰:氣之有文者曰象,形之有理者曰法。天有雷風日月,雷風氣也,日月象也,言象可以兼氣;地有水火山澤,水火質也,山澤形也,言形可以兼質。鳥獸之文謂動物,地之宜謂植物。身就人而言,物該服食器用而言。神明,天地之氣象形質,妙而可測、顯而可見者也。德若健順動入陷麗止說,及鼔之散之潤之晅之之屬。萬物,凡動植人器皆是。情,猶言其意義也。
朱熹がいう:仰観俯察し、遠きに取り近きに取ることは、取る対象はそれぞれ異なるが、しかし陰陽の消長という両端を検証するためのものにすぎない。元の草廬先生・呉澄がいう:気の中に文理あるものを「象」といい、形の中に条理あるものを「法」という。天に雷・風・日・月があり、雷風は気に属し、日月は象に属す。「象」といえば気をも併せ包み込む。地に水・火・山・沢があり、水火は質、山沢は形である。「形」といえば質をも併せ包み込む。「鳥獣之文」は動物を指し、「地之宜」は植物を指す。「身」は人の自身についていい、「物」は衣食・器用の類を包摂する。「神明」とは、天地間の気・象・形・質の、微妙にして推測し得、顕豁にして見ることのできる理をいう。「徳」とは、健・順・動・入・陥・麗・止・説という八卦の徳、およびそれを鼓動し、散布し、滋潤し、曝晒する類の作用のことである。「万物」とは、およそ動物・植物・人・器具を皆含める。「情」とは、すなわちそれらの意義をいう。
渭按:易之為書,八卦焉而已。卦各具三畫,上畫為天,下畫為地,中畫為人,三才之道也。羲皇仰觀而得天道,俯觀而得地道,中觀於兩間之萬物而得人道,三才之道黙成於心,故立八卦以象之,因而重之,遂為六十四,所謂兼三才而兩之也。言八卦則六十四卦在其中矣,觀下文所舉離、益、噬嗑等皆因重之卦可知也。夫子言羲皇作易之由,莫備於此。
胡渭の按語:《周易》という書は、帰するところただ八卦にすぎない。各卦はみな三画から成り、上の一画は天を代表し、下の一画は地を代表し、中間の一画は人を代表する。これが天地人の三才の道である。伏羲は仰いで天文を観て天道を得、俯して地理を察して地道を得、中に居って天地の間の万物を観て人道を得、三才の道が黙々と彼の心中に成形したので、八卦を立ててそれを象徴した。さらに八卦を二つずつ重ねれば六十四卦となる。これが《説卦伝》のいう「兼三才而両之」である。八卦を説けば六十四卦はすでにその中に含まれている――《繋辞下伝》の下文に挙げる《離》《益》《噬嗑》などの象を観て器を制した例は、みな重卦を用いているのを見れば明らかである。孔子が伏羲の《易》を作った所以を説いたもので、この段より完備したものはない。
河圗洛書乃仰觀俯察中之一事,後世專以圗書為作易之由,非也。河圗之象不傳,故周易古經及註疏未有列圗書於其前者,有之自朱子《本義》始。《易學啟蒙》屬蔡季通起藁(見《宋史·儒林傳》),則又首本圗書,次原卦畫,遂覺易之作全由圗書,而舍圗書無以見易矣。學者溺於所聞,不務觀象玩辭,而唯汲汲於圗書,豈非易道之一厄乎?
河図洛書は仰観俯察の中の一事にすぎないのに、後世は偏に図書を伏羲が《易》を作った唯一の縁由と見なした。これは誤りである。河図の形象は伝わっていない。だから《周易》の古本経文および歴代の注疏は、かつて図書を経文の前に列したことはない。このやり方があったのは朱熹《周易本義》から始まる。《易学啓蒙》一書は朱熹が蔡元定(字は季通)に起草を委託したもので(《宋史・儒林伝》に見える)、書中ではまた「本図書」を首篇に列し、「原卦画」をその次に置いたので、人々に《周易》の発生は全く図書から出たかのように感じさせ、図書を離れれば《易》を見るすべがないかのようになった。学者は耳目に聞き慣れた説に溺れ、卦象を観て爻辞を玩味する工夫をしようとせず、ただ慌てて図書を追い求める。これは易道の一つの厄運ではないか。
右論伏羲作易之本不專在圗書。
以上の一節は、伏羲が《周易》を創作した根本の依拠は仰観俯察にあり、もっぱら河図洛書にはないことを論証した。
天一,地二;天三,地四;天五,地六;天七,地八;天九,地十。
《繋辞上伝》にいう:天数は一、地数は二。天数は三、地数は四。天数は五、地数は六。天数は七、地数は八。天数は九、地数は十。この十の数のうち、奇数の一・三・五・七・九は天に属し、偶数の二・四・六・八・十は地に属す。宋儒はまさにこの一段を捉えて、それを河図と見なした。
朱子曰:此簡本在第十章之首,程子云宜在此,今從之。此言天地之數,陽奇陰偶,即所謂河圗者也。
朱熹がいう:この一節の簡文はもともと《繋辞上伝》第十章の冒頭にあったが、程頤はここに移すべきだと考えたので、いまは程の説に従う。この段が説くのは天地之数で、陽は奇数、陰は偶数であり、いわゆる河図である。
天數五,地數五,五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十,凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也。(伊川先生曰:變化言功,鬼神言用。白雲郭氏曰:變化見於萬物者也,鬼神運於四時者也。)
《繋辞上伝》にいう:天数は五つあり、地数は五つあり、五つの位次は二つずつ相配してそれぞれ会合がある。天数を加えれば二十五、地数を加えれば三十、天地之数は合わせて五十五。これが変化を成就し鬼神を運行させる所以である。(程頤がいう:「変化」は造化の功についていい、「鬼神」は造化の用についていう。白雲先生・郭雍がいう:変化は万物の上に顕現し、鬼神は四時の中を運行する。)
朱子曰:此簡本在大衍之後,今案宜在此。
朱熹がいう:この一節の簡文はもともと「大衍之数」の章の後にあったが、いま考定してここに移すべきである。
平庵項氏安世曰:姚大老云,「天一地二」至「天九地十」,班固《律歴志》及衛元嵩《元包·運蓍篇》皆在「天數五、地數五」之上。今按新安朱先生《易傳》亦用此說,與「天數五」至「行鬼神也」合為一節,置在大衍之首,今從之。
平庵先生・項安世がいう:姚大老(宋人・姚寛)が言った。「天一地二」から「天九地十」までのこの一段は、班固《漢書・律暦志》と北周・衛元嵩《元包・運蓍篇》では、いずれも「天数五、地数五」の前に置かれている。いま新安の朱熹《周易本義》を考察するに、彼もこの説を採用し、それを「天数五」から「行鬼神也」までを一節に合わせて、「大衍之数」章の冒頭に配置したので、いまもこの編次に従う。
渭按:卦者,易之體,所以立;蓍者,易之用,所以行。韓康伯云:卦,象也;蓍,數也。蓍極數以定象,卦備象以盡數。四語劃然分曉。葢象中雖有數,而終以象為主;數中亦有象,而終以數為主。故夫子言數皆主蓍:曰「極數知來之謂占」,曰「參伍以變,錯綜其數」,曰「極其數遂定天下之象」,曰「幽贊於神明而生蓍,參天兩地而倚數」,曰「數往者順,知來者逆,是故易逆數也」,凡此類無一不以蓍言。
胡渭の按語:卦は《易》の本体で、法象を確立するためのもの。蓍は《易》の功用で、占筮を推行するためのもの。晋の韓康伯がいう:卦は「象」に属し、蓍は「数」に属す。蓍は数を窮めてはじめて象を定め、卦は象を備えてはじめてその数を尽くす。この四句は両者をはっきりと分けている。おおよそ象の中に数を含んではいても、終始象を主とし、数の中に象を含んではいても、終始数を主とする。だから孔子が「数」に言及するときは、すべて蓍法についていったのである。「極数知来之謂占」といい、「参伍以変、錯綜其数」といい、「極其数遂定天下之象」といい、「幽賛于神明而生蓍、参天両地而倚数」といい、「数往者順、知来者逆、是故易逆数也」といい、この類の言葉は一つとして蓍策についてのものでないものはない。
而此章尤為明白,舉天地之數正為大衍之數張本。其曰五位者,即五奇五偶,非指天數之中五。一、三、五、七、九同為奇,二、四、六、八、十同為偶,是謂五位相得;一與二、三與四、五與六、七與八、九與十,一奇一偶兩兩為配,是謂各有合。於五行五方曷與焉?於天地生成曷與焉?於河圗洛書又曷與焉?
そしてこの章はとりわけ明白である。天地之数を列挙したのは、まさに下文の「大衍之数」のための張本である。それのいう「五位」とは、五つの奇数と五つの偶数を指すのであって、天数の中の中央に居る「五」を指すのではない。一・三・五・七・九がともに奇数に属し、二・四・六・八・十がともに偶数に属する。これを「五位相得」という。一と二、三と四、五と六、七と八、九と十が、一奇一偶で二つずつ相配する。これを「各有合」という。これが五行・五方と何の関係があろうか。いわゆる「天生地成」の生成之数と何の関係があろうか。河図洛書とまた何の関係があろうか。
又按:章中言數者三:一曰天地之數,二曰大衍之數,三曰萬物之數。葢天地之數為大衍之法所自出,而萬物之數乃二篇之策適相當耳,於畫卦全無交涉。使五位相得而各有合,果為伏羲所則河圗之象,夫子何難一言以明之,曰「此河圗也」,而顧廋辭隠語,使天下後世之人百端推測邪?至其後章雖言河圗,而與洛書並舉,且與神物、變化、垂象比類而陳,文勢語脈遙遙隔絶,又安見此河圗者即前五十有五之數邪?
また按するに、この章で「数」に言及した箇所は合わせて三か所ある。一は天地之数、二は大衍之数、三は万物之数である。天地之数は大衍筮法が出てくる根源であり、万物之数はただ上下二篇・六十四卦の策数がたまたま相当するだけで、画卦とはまったく関わりがない。もし「五位相得而各有合」が本当に伏羲の取り法した河図之象であるなら、孔子が一句「これが河図である」と添えるのに何の難しさがあろうか。どうしてわざわざ隠語で暗示して、天下後世の人にあらゆる手段で推測させる必要があろうか。後の一章では河図に言及しているが、それは洛書と並び挙げられ、しかも「天生神物」「天地変化」「天垂象」などの事柄と排比して述べられており、文勢・語脈は前文と遥かに隔絶している。どうしてここでいう河図が前のあの五十五之数だと断定できようか。
或問:五位以蓍法言之,其相得有合之實,亦有可見者乎?曰:有。一變所餘之策,左一則右必三,左二則右亦二,左三則右必一,左四則右亦四,非奇與奇相得、偶與偶相得乎?二變三變所餘之策,左一則右必二,左二則右必一,左三則右必四,左四則右必三,非一奇一偶兩兩為配而各有合乎?若夫一六、二七、三八、四九、五十之相合,而為天地生成之數、水火木金之象,此後世五行家言,豈易之所有哉?
ある人が問う。いわゆる「五位」を揲蓍の法に即して言えば、その「相得」「有合」の実際の状況は、目に見えるものがあるか。答えていう。ある。第一変で余る策数は、左手に一余れば右手に必ず三余り、左手に二余れば右手にも二余り、左手に三余れば右手に必ず一余り、左手に四余れば右手にも四余る。これはまさに奇と奇が相配し偶と偶が相配する「相得」ではないか。第二変・第三変で余る策数は、左手に一余れば右手に必ず二余り、左手に二余れば右手に必ず一余り、左手に三余れば右手に必ず四余り、左手に四余れば右手に必ず三余る。これはまさに一奇一偶が二つずつ対をなす「各有合」ではないか。一と六、二と七、三と八、四と九、五と十を相配して、天地生成之数・水火木金の象と言うのは、後世の五行家の説であって、《周易》のどこにそんなものがあろうか。
右論天地之數不得為河圗。
以上の一節は、《繋辞伝》の説く天地之数は河図に当てることができないことを論証した。
大衍之數五十,其用四十有九。(兼山郭氏曰:凡數有母、有法、有實。蓍之母,四十九是也;蓍之法,四是也;蓍之實,三十六、二十四、二十八、三十二是也。數有是母,必有法以用之,然後得是實,三者闕一,則蓍道絶矣,此聖人幽贊神明之道也。白雲郭氏曰:是三者之數,莫知所立之後先。謂四十九為先乎,則非法之四,亦不用四十九矣;謂法之四為先乎,則非三十六、二十四、二十八、三十二,亦不用法之四矣。故三者之數,一有一無則蓍之道不立,一先一後則蓍之用不成,惟同冇同立,莫知先後,故其數一本於自然,如環之無端,雖聖人不能加毫末於是矣。)
《繋辞上伝》にいう:大衍之数は五十だが、実際に用いるのは四十九だけである。(兼山先生・郭忠孝がいう:およそ数には「母」があり、「法」があり、「実」がある。蓍法の母は四十九。蓍法の法は四。蓍法の実は三十六・二十四・二十八・三十二という過揲之数である。この母があれば、必ず法があってそれを運用し、そうしてはじめてこれらの実が得られる。三者に一つ欠けても蓍占の道は断絶する。これはまさに聖人が陰に神明を賛助する道理である。白雲先生・郭雍がいう:この三者の数は、どれが先に立ちどれが後に立ったかを知る由もない。四十九が先だと言うが、「四」という法がなければ四十九も用いられない。「四」という法が先だと言うが、三十六・二十四・二十八・三十二という実がなければ「四」も用いるところがない。だからこの三者の数は、一つ有って一つ無くては蓍道は立たず、一先一後では蓍の功用が成立せず、ただ同時に存在し同時に確立して先後の分かれがない。ゆえにその数は完全に自然に本づき、円環に端のないがごとく、聖人といえどもその上に分毫を増添できない。)
分而為二以象兩,掛一以象三,揲之以四以象四時,歸奇於扐以象閏,五歲再閏,故再扐而後掛。(朱子曰:兩,謂天地也。掛,懸其一於左手小指之間也。三,三才也。揲,間而數之也。奇,所揲四數之餘也。扐,勒於左手中三指之兩間也。閏,積月之餘日而成月者也。五歲之間,再積日而再成月,故五歲中凡有再閏,然後別起積分;如一掛之後,左右各一揲而一扐,故五者之中凡冇再扐,然後別起一掛也。又曰:掛一歲,右揲二歲,扐三歲,一閏也;左揲四歲,扐五歲,再閔也。)
《繋辞上伝》にいう:蓍策を二份に分けて天地両儀を象徴し、その中から一策を取り出して挟んで天地人三才を象徴し、四本ずつ数えて四時を象徴し、数え余った余策を指の間に挟んで閏月を象徴し、五年の中に二つの閏月があるので、二度扐に帰した後に再び掛一する。(朱熹の解釈:「両」は天地を指す。「掛」は一策を左手の小指の間に懸け挟むこと。「三」は三才を指す。「揲」は隔てて一組ずつ数えること。「奇」は四四に数え終わった後に残る余数。「扐」は余策を左手の中間三指の指股に勒え挟むこと。「閏」は毎月余った日を積み重ねて一か月とすること。五年の内に二度日を積んで月と成すので、五年中に閏月が二つあり、そうして別に一巡の積分を起こす。ちょうど掛一の後に左右それぞれ一揲し一扐するように、この五つの手順の中に二度の帰扐があり、その後に別に一度掛一する。朱熹はまたいう:掛一は第一年に当たり、右手の揲策は第二年に当たり、帰扐は第三年に当たり、これが第一の閏。左手の揲策は第四年に当たり、帰扐は第五年に当たり、これが第二の閏。)
乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四。(韓氏曰:陽爻六,一爻三十六策,六爻二百一十六策;陰爻六,一爻二十四策,六爻百四十四策。白雲郭氏曰:九六,天地之數也,乾坤之策也;七八出於九六者也,六子之策也,乾坤相索而成者也。)凡三百有六十,當期之日。(朱子曰:少陰退而未極乎虛,少陽進而未極乎盈,故此獨以老陽老陰計乾坤六爻之策數,餘可推而知也。期,周一歲也,凡三百六十五日四分日之一,此特舉成數而槩言之耳。)
《繋辞上伝》にいう:乾卦の策数は二百一十六、坤卦の策数は一百四十四。(韓康伯がいう:乾には六つの陽爻があり、一爻三十六策で六爻合わせて二百一十六策。坤には六つの陰爻があり、一爻二十四策で六爻合わせて一百四十四策。白雲・郭雍がいう:九と六は天地之数であり、すなわち乾坤両卦の策数。七と八は九・六から派生したもので、六子卦の策数であり、乾坤両卦が互いに求索して生成したもの。)両者を合計すれば三百六十で、ちょうど一周年の日数に相当する。(朱熹がいう:少陰は退きながらまだ極虚に至らず、少陽は進みながらまだ極盈に至らないので、ここでは老陽・老陰だけを用いて乾坤六爻の策数を計算し、残りはこれによって推し知ることができる。「期」とは満一年のことで、実際には三百六十五・四分の一日だが、ここでは整数を挙げて概略を言うだけである。)
二篇之策,萬有一千五百二十,當萬物之數也。(二篇謂上下經。凡陽爻百九十二,得六千九百一十二策;陰爻百九十二,得四千六百八策,合之得此數。)是故四營而成易,十有八變而成卦。(四營謂分二、掛一、揲四、歸奇也。易,變易也,謂一變也。三變成爻,十八變則成六爻也。)八卦而小成。(謂九變而成三畫,得內卦也。)引而伸之,觸類而長之,天下之能事畢矣。(引伸觸類,謂已成六爻而視其爻之變與不變以為動靜,則一卦可變而為六十四卦,以定吉凶,凡四千九十六卦也。)
《繋辞上伝》にいう:上下二篇の策数は合わせて一万千五百二十で、ちょうど万物之数に相当する。(「二篇」とは《周易》の上経と下経を指す。全部の陽爻は合わせて一百九十二で、六千九百一十二策を得る。陰爻は合わせて一百九十二で、四千六百八策を得る。二項を加えればこの数になる。)ゆえに四道の営求を経て一変を成し、十八変して一卦を成す。(「四営」とは分かれて二と為し・掛一・揲之以四・帰奇于扐の四つの手順をいう。「易」とは変易のことで、一変を指す。三変して一爻を成し、十八変して六爻を成す。)八卦して小成す。(九変して三画を得、内卦と成ることを指す。)それを引申して類に触れて推し広めれば、天下にできることはすべて備わる。(「引申触類」とは、六爻がすでに成った後、各爻が変ずるか否かを見て動静を判定すれば、一卦は六十四卦に変じ得て吉凶を断定するのに用い、合わせて四千九十六卦となることをいう。)
朱子曰:大衍之數五十,葢以河圗中宮天五乘地十而得之。至用以筮,則又止用四十有九,葢皆出於理勢之自然,而非人之知力所能損益也。
朱熹がいう:大衍之数が五十なのは、おそらく河図中宮の天数五をもって地数十に乗じて得たのであろう。実際に占筮に用いるに至っては、また四十九本だけを用いる。これはすべて事理・形勢の自然から出たもので、人の智力が増減し得るものではない。
按:大衍之解,康節云:五者,蓍之小衍也,故五十為大衍。漢上云:小衍之五,參兩也;大衍之五十,則小衍在其中矣。此說近是。五十非以河圗中宮天五乘地十而得之,葢古之立數者,凡畸零不用,故於五十五數去其五,亦猶期三百六十五日四分日之一,而去其畸零以為三百有六十也。且蓍草之生,一本百莖,中分之得五十,彼此參會,皆由自然。
胡渭の按語:「大衍之数」の解釈について、邵雍(諡は康節)がいう:五は蓍数の「小衍」で、ゆえに五十を「大衍」という。漢上先生・朱震がいう:小衍の「五」は参天両地之数であり、大衍の「五十」には小衍がすでにその中に包まれている。この説は比較的実情に近い。五十は河図中宮の天五をもって地十に乗じて得たのではなく、古人が数を立てるとき、およそ端数は捨てて用いないので、五十五という数から五を減じたのである。ちょうど一周年は実は三百六十五・四分の一日であるのに、古人も端数を去って三百六十だけを取ったのと同じである。まして蓍草が生長するに、一本に百茎を生じ、それを分かてばちょうど五十を得、両辺が互いに参験会合するのは、みな自然から出たものである。
及其用也,則又止四十有九。王弼云一不用以象太極,妄也,諸家穿鑿附會尤無理。唯鄭康成云:以五十之數,不可以為七八九六卜筮之占,更減其一,故四十有九。是為正義,而李泰伯、郭子和宗之。
実際の使用に至っては、また四十九本だけを用いる。王弼はその一本を用いないのは太極を象徴するためだと言ったが、これは妄説である。その他各家の穿鑿附会はさらに道理がない。ただ鄭玄がいう:五十という数をもっては七・八・九・六という卜筮に用いる爻数を推し出せないので、さらに一本を減じて四十九とする。これこそ正解であって、宋の李覯(字は泰伯)・郭雍(字は子和)がいずれもこの説に遵った。
(子和曰:世俗皆以三多三少定卦象,如是則不必四十九數,以四十五、四十一皆初揲非五則九,再揲三揲非四則八矣,豈獨四十五、四十一為然哉?自三十以上論之,則三十三、三十七、五十三、五十七、六十一、六十五、六十九、七十三、七十七、八十一、八十五、八十九、九十三、九十七,皆可得五九四八多少之象,與四十九數為母者無以異,獨不可得三十六、二十四、二十八、三十二之策數,故蓍數四十九為不可易之道,可易者非聖人之法也。)此正所謂出於理勢之自然,而非人之智力所能損益者,又何必以河圗太極之五一為蓍法之所自出乎?
(郭雍がいう:世俗はみな「三多三少」で卦象を判定するが、このやり方に照らせば、必ずしも四十九本でなくてもよい。四十五本・四十一本を用いても、第一変の余数は五か九であり、第二変・第三変の余数は四か八である。しかも四十五・四十一だけに限らない。三十から上を算えば、三十三・三十七・五十三・五十七・六十一・六十五・六十九・七十三・七十七・八十一・八十五・八十九・九十三・九十七でも、みな五・九・四・八という類の多少之象を得られ、四十九を母数とするのと区別がない。ただ三十六・二十四・二十八・三十二という四つの過揲策数だけは得られない。ゆえに蓍数が四十九を用いるのは更改できない定法である――更改できるなら聖人の法ではない。)これはまさに事理・形勢の自然から出たもので、人の智力が増減し得るものではないという所以である。それなのに、どうして必ず河図中宮の「五」と太極の「一」を蓍法の来由としなければならないのか。
蕭山毛太史奇齡《河洛原舛編》曰:間嘗學易淮西,見鄭康成所注太衍之數,起而曰:此非河圗乎?則又思曰:焉有康成所注圗,而漢代迄今不一引之為據者?則又思大衍所注見於李民《易解》者,干寶、崔憬言人人殊,何以皆並無河圗之言?則又思康成所注大傳,其於「河出圗」句既有成注,何以翻引入春秋緯文(河圗九篇,洛書六篇),而不實指之為大衍之數?於是怳然曰:圗哉圗哉,吾今而知圗之所來矣。摶之所為圗,即大衍之所為注也。
蕭山の毛奇齢太史が《河図洛書原舛編》でいう:かつて私が淮西で《易》を学んだとき、鄭玄の注する大衍之数を見て、躍り上がって言った。これは河図ではないか。続いてまた思った。どうして鄭玄の注した図が、漢代から今に至るまで一人としてそれを引いて根拠とした者がいないのか。さらに思った。鄭玄の大衍への注は李鼎祚《周易集解》に保存されているが、同書に引かれた干宝・崔憬ら各家の説は人ごとに異なるのに、どうして誰も河図に言及しなかったのか。さらに思った。鄭玄は《繋辞伝》を注して、「河出図」の句の下にすでに出来合いの注があるのに、どうしてかえって《春秋緯》の文字を引き入れて(河図に九篇、洛書に六篇があると説く)、それが大衍之数だとは明確に指認しなかったのか。そこで忽然と悟って言った。図よ図よ、今日やっとこの図がどこから来たか分かったぞ。陳摶の造ったあの図は、まさに鄭玄が大衍之数に施したあの注である。
然而大衍之注之斷非河圗者,則以河圗之注之別有在也。大衍之注曰:天地之數五十有五,天一生水在北,地二生火在南,天三生木在東,地四生金在西,天五生土在中。然而陽無耦,陰無妃,未相成也,於是地六成水於北,與天一併(一六在北);天七成火於南,與地二並(二七在南);地八成木於東,與天三並(三八在東);天九成金於西,與地四並(四九在西);地十成土於中,與天五並(五十在中),而大衍之數成焉。
しかし鄭玄のあの大衍の注は断じて河図ではない。彼は「河図」に対して別に注を持っているからである。彼は大衍を注していう。天地之数は合わせて五十五。天一は水を生じて位は北方に居り、地二は火を生じて位は南方に居り、天三は木を生じて位は東方に居り、地四は金を生じて位は西方に居り、天五は土を生じて位は中央に居る。しかし陽数には配偶がなく、陰数には匹配がないので、まだ相互に成就することができない。そこで地六は北方で水を成就し天一と並び列し(一六は北に居る)、天七は南方で火を成就し地二と並び列し(二七は南に居る)、地八は東方で木を成就し天三と並び列し(三八は東に居る)、天九は西方で金を成就し地四と並び列し(四九は西に居る)、地十は中央で土を成就し天五と並び列する(五十は中に居る)――こうして大衍之数が湊成される。
則此所為注,非即摶之所為圗乎?康成但有注而無圗,而摶竊之以為圗;康成之注即可圗,亦非河圗,而摶竊之以為河圗。其根其柢,其曲其裡,明白顯著,可謂極快。然而趙宋元明千年長夜,而及今而始得之,其說有二:
では鄭玄の作ったこの注は、まさに陳摶の画いたあの図ではないか。鄭玄は注だけあって図はなく、陳摶がそれを窃取して図に画いた。鄭玄の注はたとえ図に画けたとしても河図ではなく、陳摶はそれを窃取して河図に冒充した。この図の根柢の所在・内外の曲折は、いまやすべて明白であり、痛快の極みと言える。しかし宋・元・明三代の千年の長夜を経て、今日ようやくそれを撃破した。その原因は二条ある。
一則世之言河圗者亦皆知大衍之數,然第以為河圗之陽二十五點、河圗之陰三十點,與大衍之數一三五七九、二四六八十共成五十有五者,其數相合已耳。而其天生地成、地生天成,或北或南,為水為火,能方能圎,有單有復,按之可為形,指之可為象,則河圗有之,大衍不得而有之也。而孰知大衍之數其為形為象原自如此,而人初不知,其長夜一。
第一に、世の中で河図を講ずる者もみな大衍之数を知っているが、ただ河図の陽点二十五・陰点三十と、大衍之数の中の一三五七九・二四六八十が合わせて五十五となるのは、数値上の相合にすぎないと思っていた。「天生地成・地生天成」に至っては、あるいは北に居りあるいは南に居り、水と為り火と為り、方形にも円形にも排べられ、単があり復があり、それに即せば形状が見え、それを指せば象数が見える――これらは河図にだけあるもので、大衍之数にはあり得ないと考えていた。誰が思ったか、大衍之数が本来このような形と象を具えていたのに、世人は初め何も知らなかったとは。これが第一の長夜である。
一則魏晉以後俗尚王學(謂王弼),而鄭學稍廢,其所遺注第散見於易、詩、書、三禮、春秋疏義及釋文、漢書、文選諸所引注,而迄無成書。故唐惟李鼎祚略採其注於《易解》中,而其在他書,則惟王氏應麟復為彚輯而補於其後。此在劉、邵言易時皆未之見,今摶得其說而不言所自,或亦轉得之他人,而並其所自而亦不之知,皆未可定,則冥冥矣,其長夜二。
第二に、魏晋以降、風気は王弼の学を尊び、鄭玄の学は次第に荒廃し、彼の遺した注は《易》《詩》《書》三《礼》《春秋》の疏義および《経典釈文》、《漢書》注、《文選》注に引かれる形で零星に散見するだけで、ついに成書されなかった。だから唐代には李鼎祚だけが《周易集解》の中にやや彼の注を採録し、他の書に散らばるものについては、宋の王応麟があらためて彙輯して書の後に補っただけである。これらの材料は劉牧・邵雍が《易》を講じたときには見られなかった。いま陳摶が鄭玄の説を得ながら出処を語らないのは、あるいは自ら他人の手から転々と得たもので、来歴すら明らかでなかったのかもしれない――これらはいずれも断定し得ず、ただ一片の模糊を残すのみである。これが第二の長夜である。
乃幸而得白,顯有從來,但當名之為大衍圗,非然則名天地生成圗,非然則名五行生成圗,而斷斷不得名之為河圗。浸假河圗即此圗,則此圗固康成所注者也,其於大傳「河出圗」下,何難直注之曰:所謂河圗,即揲蓍所稱大衍之數,天一地二、天三地四、天五地六、天七地八、天九地十者?而乃又曰:河龍圗發,其書九篇。則豈非衍數河圗截然兩分,數不得為圗,衍不得為畫乎?
いま幸いに真相が大いに白らかになり、来歴が明らかになった。この図はただ「大衍図」と呼ぶべきであり、さもなければ「天地生成図」、さもなければ「五行生成図」と呼ぶべきで、断じて「河図」と呼んではならない。一歩退いていえば、仮に河図が本当にこの図だとしても、この図はもともと鄭玄が注し出したものである。彼が《繋辞伝》の「河出図」の句の下に、直ちに一句「いわゆる河図とは、揲蓍の称する大衍之数、すなわち天一地二・天三地四・天五地六・天七地八・天九地十である」と注するのに、何の難しさがあったか。ところが彼はあえて別に「河中に龍図が出て、その書は九篇ある」と注した。これはまさに大衍之数と河図が截然と二事に分かれることを示すではないか――数は図に当てることができず、蓍衍之数は卦画に当てることができない、と。
《原舛》云數不得為圗、衍不得為畫二句,真千古格言,顧其說猶有不盡然者,餘不可以無辨。謹案:大衍者,揲蓍求卦之法也,大衍之數出於天地之數,而非即天地之數。葢天地之數,易與範共之,凡天下之言數者未有外於此者也;大衍之數,則唯易有之,範不得而有之也。
胡渭がいう:《河洛原舛編》の「数は図に当てることができず、蓍衍之数は卦画に当てることができない」という二句は、まことに千古の名言だが、毛奇齢の説にはなお尽くし妥当でないところがあり、私は辨析を加えざるを得ない。謹んで按するに:大衍は揲蓍して卦を求める方法であり、大衍之数は天地之数から出るが、天地之数に等しいわけではない。天地之数は《周易》と《尚書・洪範》が共有するもので、天下およそ数を語る者はみなこの範囲を出ないが、大衍之数は《周易》にのみあるもので、《洪範》にはないからである。
康成注大衍與四象,皆本漢書五行志。志據劉向父子洪範五行傳以推災異,其所引左氏陳災傳說,葢劉歆取大傳之六七八九十,以續洪範之一二三四五,而為生成妃牡之數,意主洪範,初不為易而設。即其末舉坎離二卦,亦以證水為火牡、火為水妃云爾,終於大衍無涉也。
鄭玄の大衍之数と四象への注は、いずれも《漢書・五行志》に本づく。《五行志》は劉向・劉歆父子の《洪範五行伝》に依拠して災異を推演したもので、その中に引く《左伝》の陳国の火災に関する伝説は、実は劉歆が《繋辞伝》の六・七・八・九・十を取り、《洪範》の一・二・三・四・五に接続させて、いわゆる生成・牡妃之数を湊成したものである。その用意はもともと《洪範》を解くところにあり、断じて《周易》のために設けられたものではない。たとえ篇末に坎・離の両卦を挙げたとしても、水が火の牡、火が水の妃であることを証明するために用いたにすぎず、結局のところ大衍之数とは毛のほども関わりがない。
唯律歴志言備數則引易大衍之數五十,言鐘律則引參天兩地而倚數,言歴法則引大衍之數四營之象,而以天地之數終焉。大抵五行主洪範,則附以春秋而不及大衍;律歴主大衍,則附以春秋而不及洪範。考厥源流,區以別矣。
ただ《漢書・律暦志》が「備数」を講ずるとき《周易》の大衍之数五十を引き、鐘律を講ずるとき「参天両地而倚数」を引き、暦法を講ずるとき大衍之数四営の象を引き、最後に天地之数をもって収束した。おおよそ言えば、《五行志》は《洪範》を主とし、《春秋》を付帯して大衍に及ばず、《律暦志》は大衍を主とし、《春秋》を付帯して《洪範》に及ばない。その源流を考察すれば、界限ははっきりと分かれている。
故劉說雖未嘗有圗,而圗實在其中,藉令繪以為圗,亦但可名天地生成圗,或五行生成圗,而斷斷不得名之曰大衍圗。何也?蓍無五行,無方位,無生成,無配耦也。今試就筮法而按之,自四營成易以至十八變而成卦,格中之所陳,版上之所畫,孰為天生而地成、地生而天成邪?孰居北而為水、居南而為火邪?方者圎者、單者復者皆安在邪?而《原舛》云大衍之數其形其象原自如此,吾所不解。
だから劉歆の説は図に画かれてはいないが、図は実はすでにその中に含まれていた。たとえそれを図に描いたとしても、「天地生成図」か「五行生成図」と呼ぶほかなく、断じて「大衍図」とは呼べない。なぜか。蓍法の中に五行はなく、方位はなく、生成はなく、配偶もないからである。いま試みに筮法に照らして照合してみよう。四営して一変を成すところから十八変して一卦を成すまで、格の上に並べた蓍策・板の上に画いた爻画のうち、どれが「天生して地成す、地生して天成す」か。どれが北に居って水と為り、南に居って火と為るか。いわゆる方のもの円のもの、単のもの復のものは、またどこにあるか。ところが《原舛編》は大衍之数は本来このような形象を具えていると言う。これは私の理解し得ないところである。
若乃竊之為河圗,則固有其形其象矣,生成南北、方圎單復,一一不爽,如宋人之所說矣。幸彼不見鄭注,苟見之,則援以相證,更増一重金湯之固矣。然而天地之數終不得為河圗者,則以大傳無明文,而五十有五但可以生蓍,不可以畫卦也。毛公惟知數不得為圗,而不知大衍之數與天地之數不可混而為一;惟知衍不得為畫,而不知鄭注乃劉氏洪範五行之數,非伏羲大衍四營之數也。長夜始旦,明尚未融,此餘之所以不能無辨也。
人に窃取されて河図に冒充されれば、それは自ずから形有り象有りとなる。生成・南北・方円・単復が一つずつ分毫も違わず、まさに宋人の説くがごときである。幸い宋人が鄭玄のこの注を見なかった。もし見ていたら、必ず引いて互いに印証し、そうなればさらにこの説に金城湯池のごとき一重の防護を添えただろう。しかし天地之数は終始河図に当てられない。《繋辞伝》に明文がなく、五十五という数は蓍法を推し出せるだけで卦画を画くには用いられないからである。毛奇齢は「数は図に当てられない」ことだけを知り、大衍之数と天地之数を混同し得ないことを知らず、「蓍衍之数は卦画に当てられない」ことだけを知り、鄭玄のあの注が劉歆《洪範五行伝》の数であって、伏羲の大衍四営の数ではないことを知らなかった。長夜はようやく暁を破ったが、光明はまだ透彻していない。これが私が辨析を加えざるを得ない所以である。
總之康成以九篇為河圗,久已認賊作子,而復據生成配耦之數以注易,遂為偽闗易之嚆矢,此所謂藉寇兵而齎盜糧者也,於摶乎何尤?毛公惡宋太過,故其立言往往刻於宋而寛於漢,夫豈平心之論與?
要するに、鄭玄は緯書のいう九篇を河図と見なした。これはすでに賊を認めて子と為したに等しい。また生成配偶之数をもって《周易》に注したので、ついに偽託の《関朗易伝》一派の先声となった。まさに兵器を敵寇に貸し、糧食を盗賊に送るというものだ。こうであれば、どうして陳摶ばかりを責められようか。毛奇齢は宋儒を憎むこと度を過ごしたので、立論が往々にして宋人には苛刻で漢人には寛容である。これを持平の論と言えるだろうか。
右論五行生成之數非河圗並非大衍。
以上の一節は、五行生成之数は河図でもなく、大衍之数でもないことを論証した。
易有太極,是生兩儀,兩儀生四象,四象生八卦,八卦定吉凶,吉凶生大業。
《繋辞上伝》にいう:《易》に太極あり、太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生じ、八卦は吉凶を断定するのに用いられ、吉凶が定まって後に偉大な事業を成就する。この一節はまさに宋儒が先天次序図(一が二を生じ、二が四を生じ、四が八を生じる加倍の法)を立てる主要な経典の依拠であるので、胡渭はその本義を専ら弁明しなければならない。
劉氏禹錫《辨易九六論》曰:一行《大衍論》云,三變皆剛,太陽之象;三變皆柔,太陰之象;一剛二柔,少陽之象;一柔二剛,少陰之象。
唐の劉禹錫《辨易九六論》にいう:僧一行の《大衍論》に講じるところ、揲蓍して三変して得るところがすべて剛(奇)なら、これが太陽之象。三変して得るところがすべて柔(偶)なら、これが太陰之象。一剛二柔は少陽之象、一柔二剛は少陰之象である。
東坡蘇氏《易論》曰:老者,陰陽之純也;少者,陰陽之雜而不純者也。陽數皆奇而陰數皆偶,故乾以一為之爻,而坤以二。天下之物以少(上聲)為主,故乾之男皆二陰,而坤之女皆二陽。老陽老陰者,乾坤是也;少陰少陽者,乾坤之子是也。
東坡・蘇軾《易論》にいう:「老」とは陰陽の純粋で、「少」とは陰陽の駁雑にして不純なものである。陽数はすべて奇数で、陰数はすべて偶数である。ゆえに乾は一画をもって爻とし、坤は両画をもって爻とする。天下の事物は数量の少ないほうを主とするので、乾の生ずる三つの男卦はいずれも両陰一陽、坤の生ずる三つの女卦はいずれも両陽一陰である。老陽・老陰はすなわち乾坤両卦。少陰・少陽はすなわち乾坤の生ずる六つの子女卦である。
漢上朱氏曰:乾,老陽也;震坎艮,少陽也;坤,老陰也;巽離兊,少陰也。故四象生八卦。
漢上先生・朱震がいう:乾は老陽、震・坎・艮は少陽、坤は老陰、巽・離・兌は少陰である。ゆえに経文に「四象生八卦」という。
平庵項氏曰:凡繫辭之稱八卦者,即六十四卦也。八卦更相上下,變為六十四卦,故例以八卦稱之。
平庵・項安世がいう:およそ《繋辞伝》の中で「八卦」と称するものは、六十四卦を指している。八卦が互いに上下に相重なって六十四卦に変ずるので、例に従い依然として「八卦」でそれらを呼ぶのである。
虛齋蔡氏清曰:四象生八卦,此八卦該六十四卦者也,故繼之以八卦定吉凶。
虚斎先生・蔡清がいう:「四象生八卦」という句の中の八卦は、六十四卦をすべてその中に包んでいる。ゆえに下文に引き続き「八卦定吉凶」というのである。
