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易図明辨

清 · 胡渭 · 第3巻 / 15

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

《魏志》博士淳于俊曰:「包羲因燧皇之圗而制八卦。」髙貴鄉公折之曰:「若使包羲因燧皇而作《易》,孔子何以不云『燧人氏沒,包羲氏作』乎?」俊不能荅。此妄談,不足深辨。

《三国志・魏志》に記す。博士・淳于俊がいう:伏羲は燧人氏の伝えた図に依拠して八卦を制作した。魏帝・高貴郷公の曹髦が面と向かって彼を駁斥していう:もし伏羲が燧人氏を承けて《周易》を作ったのなら、孔子は《繋辞》でどうして「燧人氏没して包羲氏作れり」と言わなかったのか。淳于俊は答えることができなかった。胡渭の按:これは無稽の談であって、深く辨析するに値しない。

《玉海》:姚信曰:「連山氏得河圗,夏人因之曰《連山》;歸藏氏得河圗,商人因之曰《歸藏》;伏義氏得河圗,周人因之曰《周易》。」(姚信,三國吳太常卿也。《周禮疏》云:案《世譜》等書,神農一曰連山氏、列山氏,黃帝一曰歸藏氏,並是代號。)王洙曰:「《山海經》云:伏羲氏得河圗,夏后因之曰《連山》;黃帝氏得河圗,商人因之曰《歸藏》;列山氏得河圗,周人因之曰《周易》。」(洙字原叔,著《易傳》十卷。)

王応麟《玉海》に三国呉の人・姚信の言を引いていう:連山氏が河図を得て、夏代人がそれに沿って用い、《連山》と称した。帰蔵氏が河図を得て、商代人がそれに沿って用い、《帰蔵》と称した。伏羲氏が河図を得て、周代人がそれに沿って用い、《周易》と称した。(姚信は三国呉国の太常卿。《周礼疏》にいう:《世譜》の類の書を按するに、神農氏はまた連山氏・列山氏と言い、黄帝はまた帰蔵氏と言う。いずれも朝代の別称である。)北宋の王洙はまたいう:《山海経》に講じるところ、伏羲氏が河図を得て、夏后氏がそれに沿って用いて《連山》と称した。黄帝氏が河図を得て、商人がそれに沿って用いて《帰蔵》と称した。列山氏が河図を得て、周人がそれに沿って用いて《周易》と称した。(王洙は字を原叔、《易伝》十巻を著す。)

二說互異。漢上朱氏曰:「斯乃杜子春之所憑,姚信之言非口自出,但所從傳者異耳。梁武攻之,涉於率肆。仲尼曰『河不出圗,吾已矣夫』,葢聖人受命必有符瑞,若圗不再出,無勞嘆徯。」此言良是。然歴代所受河圗,豈必皆為卦畫之象而則之以作《易》?蒙有猜焉,未敢盡從也。

姚信と王洙のこの二説は、配した帝号が互いに抵触する。南宋の朱震(漢上に居り、世に漢上先生と称す。《漢上易伝》を著す)がいう:これはもともと漢代の杜子春が依拠した旧説で、姚信の言は自らの杜撰に出たのではなく、ただ彼が承伝した師説が異なるだけである。梁武帝がこの類の説を攻駁したのは、軽率放肆にすぎる。孔子は「黄河が再び図を出さないなら、我が一生は終わった」と言った。これを見れば聖人の受命には必ず符瑞が伴う。もし河図がこれ以後二度と現れないなら、孔子も嘆息して待つ必要がなかったであろう。胡渭の按:朱震のこの言はまことに正しい。ただし歴代の受けた河図は、どうして必ずしもみな卦画の形象で、みな聖人に取り法されて《周易》の創作に用いられたと言えようか。私はこれに心に疑いを存し、完全には従い敢えてしない。

按:《顧命》東西序之所陳,類皆玩好,唯大訓、河圗為載道之器。《周官》天府總謂之「大寶器」,祭祀陳之,示能守;喪紀陳之,示能傳也。河圗非必伏羲時出,猶鳳鳥不獨舜時來儀。然孔安國注《論語》云「河圗,八卦」,而《書·顧命》傳則直指為伏羲之河圗;姚信亦云伏羲得河圗,周人因之曰《周易》。朱子固有所本,非杜撰也。

胡渭の按:《顧命》の東・西両序に陳列したものは、大抵は玩賞の物に属し、ただ「大訓」と「河図」だけが大道を載せる器具である。《周礼》の天府の職はそれらを統べて「大宝器」と称し、祭祀のときに陳列して祖業を守れることを示し、喪礼を執り行うときに陳列して先王の道を伝承できることを示す。河図は必ずしも伏羲の時に出なければならないものではなく、ちょうど鳳凰も舜の時にだけ来儀したのではないのと同じである。ただ孔安国は《論語》を注して「河図はすなわち八卦」とのみ言ったが、彼が《尚書・顧命》に伝を作ったときは径ちにこれが伏羲の得た河図であると指明した。姚信も伏羲が河図を得て周人がこれに因って《周易》と称したと言う。これを見れば朱熹の河図が伏羲の世に出たと講じたのは、もともと依拠する所があって、憑空に杜撰したのではなかった。

但河圗不知載在何物,歴數千年至周而尚存。據《禮運》為馬圗,則《中候》云「龍馬銜甲,甲似龜背,袤廣九尺」,庶幾近之,而其所謂「甲」者,終不知為何物。據曹魏時張掖出石圗有八卦之狀,髙堂隆以比東序之世寶,則河圗當為石類。俞玉吾琰云:「天球,玉也。河圗而與天球並列,葢玉之有文者。」然則赤刀,金也,大訓而與赤刀並列,亦將為金之有文者乎?又有據大訓為簡策以證河圗之亦為簡冊者,則緯書九篇之說不為誕妄矣。

しかし河図がいったい何の材料に書かれ、数千年を経て周代まで保存され得たかは、誰も説き明かせない。もし《礼運》に依ってそれを「馬図」と見なすなら、《尚書中候》のいう「龍馬が甲を口に銜え、甲は亀の背に似て縦横九尺」はほぼ実情に近いが、それのいう「甲」がいったい何物かは、ついに明らかでない。もし曹魏の時に張掖より出土した石図が八卦の形状を帯び、高堂隆がそれを東序に蔵する世宝に比べたことから推し断するなら、河図は石の類に属すべきである。元の俞琰(字は玉吾)がいう:天球は玉器である。河図は天球と並び陳放されたのだから、おそらく一塊の紋理ある玉であろう。しかしこの推法に照らせば、赤刀は金属であり、大訓は赤刀と並列したのだから、それを紋ある金属と言わなければならないではないか。またある者は大訓が簡冊であることに拠って、河図も簡冊であると証明するが、そうすれば緯書のいう河図に九篇あるという講法も、かえって荒誕とは言えなくなる。種種の材質の推断は、それぞれ証拠があり、それぞれ破綻もある。

紛紛推測,終無定論。然河圗藏諸天府,不知何時遂亡。初意秦昭襄王取周九鼎寶器時,河圗併入於秦,及項羽燒秦宮室,與府庫俱為灰燼,此其所以不傳也。今年客京師,與四明萬君季野斯同論及此事,萬君曰:「幽王被犬戎之難,周室東遷,諸大寶器必亡於此時,河圗無論,後人恐夫子亦不及見。」餘聞而韙之。頃檢《周本紀》云:「犬戎殺幽王驪山下,虜褒姒,盡取周賂而去。」賂即珍寶貨財也,可見河圗實亡於此時。故自平、桓以下,凡《顧命》所陳諸寶器,無一復見於傳記;而王子朝之亂,其所挾以出者,周之寶珪與典籍而已,天府之藏無有也。(寶珪,典瑞所掌;典籍,太史掌之,並非大寶器。)

各種の推測は紛紛として一せず、ついに定論がない。しかし河図は周天子の天府に収蔵されていたが、いつしか亡佚した。私は初め、秦昭襄王が周室の九鼎宝器を奪ったとき、河図は一緒に秦に帰し、項羽が秦の宮室を焼いたときに府庫とともに灰燼と化したので、流伝しなかったのだと思っていた。今年、私は京城に客居し、四明の人・万斯同(字は季野、明史館の史学の名家)とこの事を談じたところ、万君がいう:周幽王が犬戎の禍に遭い、周室はやむなく東遷し、諸々の大宝器は必ずあの時に亡失した。河図は言うまでもなく、おそらく孔子でさえ親しく見られなかったであろう。私は聞いて大いに然りとした。近ごろ《史記・周本紀》を査するに、犬戎が驪山の下で幽王を殺し、褒姒を掠め取り、周室の財宝を掻き集め尽くして去ったとある――「賂」とは珍宝財貨である。これを見れば河図は確かにこの時に亡びた。だから周平王・周桓王以降、およそ《顧命》に陳列したあの宝器は、一件も伝記に再び見えない。そして王子朝が乱を起こして出奔したとき挟帯して出たのは、周室の宝圭と典籍だけで、天府の蔵する大宝器は一件もなかった。(宝圭は典瑞の官が掌管し、典籍は太史が掌管する。いずれも「大宝器」に属さない。)

河圗亡已久,雖老聃、萇弘之徒亦未經目覩,故夫子適周無從訪問,贊《易》有其名而無其義,所謂「疑者丘葢不言」也。若夫天地之數,夫子未嘗指為河圗,故自漢魏以迄隋唐,言河圗者或以為九宮,或以為九篇,未有指五十五數為河圗者。《乾鑿度》《參同契》雖皆以九宮為河圗,而終不敢摹一象名之曰河圗以附於其書。陳摶生於五季,去古彌逺,何從得其本真而繪圗以授人乎?漢景帝云「食肉不食馬肝,未為不知味」,今言《易》而不言河圗,亦未為不知道也。

河図の亡佚は久しく、老聃・萇弘らの周室の旧臣でさえ親しく見たことがなく、だから孔子が周室に赴いても訪ね求め問う術がなかった。彼が《周易》を賛述したとき、河図という名目があることだけを知り、その実義を明らかにしなかったのは、まさに彼のいう「疑いある所は、我が孔丘は存して論ぜず」である。一から十までの天地之数について、孔子はかつてそれが河図であると指認しなかった。だから漢魏から隋唐まで、河図を語る者は、あるいはそれを九宮と見なし、あるいは九篇の緯書と見なし、かつて「五十五」という数目を河図と指した者はいない。《易緯乾鑿度》と《周易参同契》はいずれも九宮を河図としたが、ついに一つの図象を摸画して「河図」と題して自書に附することを敢えてしなかった。陳摶は五代に生まれた。上古よりさらに遠く離れて、どこから河図の本来の面目を得て、図式に画き成して人に伝授したであろうか。漢景帝は「肉を食らって馬肝を食らわざるは、味を知らざると謂わず」と言った。今日《周易》を講じて河図を講ぜざるも、《易》道を知らざると謂わない。この一段は胡渭の全書の関鍵たる推論である:河図は早くも西周の末年に実物として亡佚し、孔子は見たことがなく、五十五点之図は宋人・陳摶の一系の後起之説で、断じて古河図ではない。

右論古河圗之器。

以上の一節は、古代文献の中の実物・器具としての河図を考弁した。これは胡渭が毎節の末に自ら加えた標目で、本节の論題の範囲を標明するためのものである。

《書·洪範》:箕子乃言曰:「我聞在昔,鯀陻洪水,汨陳其五行。帝乃震怒,不畀洪範九疇,彝倫攸斁。鯀則殛死,禹乃嗣興,天乃錫禹洪範九疇,彝倫攸敘。初一曰五行,次二曰敬用五事,次三曰農用八政,次四曰協用五紀,次五曰建用皇極,次六曰又用三德,次七曰明用稽疑,次八曰念用庶徵,次九曰向用五福、威用六極。」

《尚書・洪範》に記す。箕子(商紂王の叔父。周武王が商を滅ぼした後、彼に治国の大法を請うた)がいう:私が聞くに、昔、鯀が塞き止める方法で洪水を治め、水火木金土の五行の次序を乱したので、上帝はこれに震怒し、「洪範九疇」という九類の大法を彼に賜らず、人倫の常道はこれによって敗れた。鯀は処死され、大禹が継起して水を治め、上天はここに洪範九疇を禹に賜り、人倫の常道はこれによって順理された。第一類を五行といい、第二類を敬慎に五事を施行するといい、第三類を努力して八政を辦ずるといい、第四類を協調して五紀を用いるといい、第五類を皇極を建立するといい、第六類を治理に三徳を運用するといい、第七類を明習に卜筮を用いて疑いを決するといい、第八類を諸種の徴兆に留心するといい、第九類を五福をもって勧勉し六極をもって警戒するという。この経文は洛書公案の総綱である。留意すべきは、それが通篇ただ「洪範九疇」だけを講じ、「洛書」の字様が一つもないことである。

孔氏安國曰:「天與禹,洛出書,神龜負文而出,列於背,有數至於九。禹遂因而第之,以成九類常道,所以次敘。」

孔安国がこの一条に注していう:上天が大禹を賜うとき、洛水に書が出て、神亀が文字を背負って水面に浮出し、文字は亀の背に排列して数は九まで達した。大禹はそこでそれに依って次序を排定し、九類の治国常道を形成し、人倫の次序はこれによって確立した。孔安国のこの注は、《洪範》の「天錫禹洪範九疇」と《繋辞》の「洛出書」とを正式に掛け繋げた第一歩で、後世の「神亀負書」の説はみな��れ��由来する。

孔氏穎達曰:「《易·繫辭》云『河出圗,洛出書,聖人則之』,九類各有文字,即是書也。《漢書·五行志》劉歆以為『禹治洪水,錫洛書,法而陳之,洪範是也』,先達共為此說。龜負洛書,經無其事,《中候》及諸緯多說黃帝、堯、舜、禹、湯、文、武受圗書之事,皆云龍負圗、龜負書。緯候不知誰作,通人討核,謂偽起哀、平。雖復前漢之末始有此書,以前學者必相傳此說,故孔以九類是神龜負文而出,列於背有數,從一而至於九也。」

孔穎達がいう:《周易・繋辞》に「黄河より図が出、洛水より書が出、聖人はそれらを取り法した」と講ずる。九類の大法にそれぞれ文字があれば、それがいわゆる「書」である。《漢書・五行志》に劉歆が「禹は洪水を治め、上天が彼に洛書を賜り、禹は法に依って陳べ出したのが《洪範》である」としたと載せ、前代の通儒はみなこの説を持つ。神亀の洛書を背負うことは、経書の中にはない事である。《尚書中候》と諸種の緯書は多く黄帝・堯・舜・禹・湯・文王・武王が図書を承けた事を講じ、いずれも龍は図を背負い亀は書を背負うと言う。緯書・候書は誰の作か知られず、通達の士は考核して漢哀帝・平帝の際に偽造されたものと認めた。ただしこれらの書がたとえ西漢の末年に至って出たとしても、それ以前に学者たちは必ずすでに転々としてこの説を相传していたので、孔安国はこそ九類は神亀が文字を背負って浮出し、背上に排列して数があり、一より九に至ると認定したのである。

「言『禹第之』者,以天神言語必當簡要,不應曲有次第丁寧若此,故以為禹次第之。又曰『初一』已下至『六極』,傳言此禹所第敘,不知洛書本有幾字。《五行志》悉載此一章,乃云『凡此六十五字皆洛書本文』。計天言簡要,必無次第之數,故孔以『第』是禹之所為,『初一曰』等二十七字必是禹加之也。其『敬用』『農用』等二十八字,大劉及顧氏以為龜背先有,總三十八字;小劉以為『敬用』等亦禹所第敘,其龜文惟有二十字。並無明據,未知孰是,故兩存焉。」(顧氏名彪,大劉名焯,小劉名炫,皆隋人。)

孔穎達は続いていう:「禹がそれに次序を排定した」と講ずる所以は、天神の言語は必ず簡要で、曲折周詳・叮咛にこの程に至るべきでないので、次序は禹の編んだものと断定した。また「初一」以下から「六極」までを、孔伝は禹の排定叙述と見なしたが、洛書の原本にいくつの字があったかは知る術がない。《漢書・五行志》はこの章を全文鈔録し、「この六十五字はみな洛書の本文」と言った。しかし上天の言語は必ず簡要と推想され、「第一」「第二」の類の序数を帯びるはずがないので、孔安国は「第」を禹の所作と見なし、「初一曰」などの二十七字は必ず禹の添加したものである。「敬用」「農用」などの二十八字については、隋の劉焯(大劉)と顧彪は亀背に原からあったと認め、合わせて三十八字とした。劉炫(小劉)は「敬用」などの字も禹の排定叙述と認め、亀背の原文は二十字にすぎないとした。両説とも明確な証拠がなく、どちらが正しいか知れないので併存する。(顧氏は名を彪、大劉は名を焯、小劉は名を炫。いずれも隋代人。)

按:《隋志》云「濟南伏生之傳,唯劉向父子所著《五行傳》是其本法」。歆以洛書為文字,葢亦本伏生。伏生嘗為秦博士,習聞古訓,洛書即九疇,必三代以來相傳之學,非臆說也。天地之文理當簡要,劉炫謂本文惟有二十字,是為得之。

胡渭の按:《隋書・経籍志》に「済南・伏生の《尚書》の伝授には、ただ劉向父子の著した《洪範五行伝》だけがその本来の方法である」という。劉歆が洛書を文字と認めたのも、おそらく伏生に本づく。伏生は秦の博士を務め、古代の旧訓に熟習していた。彼が洛書を九疇と講じたのは、必ず夏・商・周三代以来相传の旧学で、憑空の臆説ではない。天地の顕示する文理は簡要であるべきで、劉炫が洛書の本文はただ二十字と言ったのは、この判断は正しい。

但孔疏云「天神言語」,世或疑焉,以為如此則頗似崔浩稱寇謙之所受《錄圗真經》「人神接對,手筆粲然」者,事涉妖妄,不可以說經。故林之奇《書傳》云「『帝乃震怒,不畀洪範九疇』猶言天奪之鑑,『天乃錫禹洪範九疇』猶言天誘其衷」,而趙汝楳《易雅》謂「不過如『天錫王勇智』『天錫公純嘏』之類,非真有物負之以錫諸人也」。王褘祖述其意,極論禹無受洛書之事,而據《繫辭傳》以為河圗、洛書皆伏羲所則以作《易》。總由「天神言語」四字有以滋其疑而莫之釋耳。孔子曰:「天何言哉?四時行焉,百物生焉。」孟子曰:「天不言,以行與事示之而已矣。」禹治水得其道,天錫之洛書以昭瑞應,此實「時行物生」「以行與事示之」之理。洛書,文也,非言也,而穎達以為天神之言語,則誣矣。

ただ孔穎達《正義》が「天神の言語」と講じたことは、世人に疑いを生じさせ、これでは北魏の崔浩が寇謙之の受けた《録図真経》を称うる「人と神が当面して対答し、親筆の書写が明らか」といった類に似て、事が荒誕に渉り、経を解くに用いられないと考えられた。だから南宋の林之奇《尚書全解》にいう:「上帝が震怒して洪範九疇を鯀に与えない」は、上天が彼の明察を奪い去ったと言うに等しい。「上天がここに洪範九疇を禹に賜る」は、上天が彼の心志を啓迪したと言うに等しい。趙汝楳《易雅》もまたいう:これは経書の「上天が王に勇気と智慧を賜る」「上天が公に大福を賜る」の類の説法にすぎず、本当に九疇を馱して人に賜る一物があったのではない。元の王禕はこの意を承襲し、力を尽くして禹は洛書を承けた事はなかったと論証し、かえって《繋辞伝》に依拠して河図・洛書はみな伏羲が取り法して《周易》を作ったものと断定した。これらの疑いは、帰するところみな「天神言語」の四字に引き起こされたのに、ついに誰もそれに代わって解き明かさなかった。孔子がいう:「天は何を言ったか。四季は同じく運行し、万物は同じく生長する。」孟子がいう:「天は語らず、ただ行いと事実をもって顕示するにすぎない。」大禹が水を治めて正道に合ったので、上天は彼に洛書を賜って祥瑞の感応を昭示した。これがまさに「四時運行・百物生長」「行いと事実をもって顕示する」の理である。洛書は「文」であって「言」ではない。孔穎達はそれを天神の言語と説いたので、誤りを説いたのである。

《說文》序云:「倉頡之初作書,葢依類象形,故謂之文;其後形聲相益,即謂之字。字者,言孳乳而浸多也。」然則文與字不同,文之點畫少,字之點畫多。洛書之文,葢與蒼頡初制相類。《左傳》:仲子有文在手,曰「為魯夫人」;成季、唐叔有文在手,曰「友」、曰「虞」。《正義》曰:「石經古文『虞』作□,『魯』作表,手文容或似之。」朱子亦云「古字畫少,恐或有模樣」。觀於此言,可以悟洛書成文之理矣。

《説文解字》の序言にいう:倉頡が初めて書契を造ったとき、ほぼ事物の類別に依って形象を描き摸したので「文」と称した。後に形旁・声旁が互いに配合して「字」と称した。「字」の意味は、それが生育繁衍のごとくますます多くなることを言う。このように見れば「文」と「字」は同じではない。「文」は笔画が少なく、「字」は笔画が多い。洛書の上の「文」は、おそらく倉頡の初造したあの「文」と同一の類に属する。《左伝》に記す:宋仲子は生まれたとき手上に紋路があり、「為魯夫人」の字様と成った。魯の成季(季友)・晋の唐叔虞も、生まれたとき手上に紋路があり、一は「友」の字と成り、一は「虞」の字と成った。《正義》にいう:石経古文の「虞」の字は某の形に作り、「魯」の字は某の形に作る。手上の紋路は或いはこれと相似ていたかもしれない。朱熹もまた「古字は笔画が少ないので、おそらく真にあのような模様があった」という。これらの言葉を見れば、洛書がどのように「文を成す」かの道理に悟り得る。

馬圗見於《禮運》,人不以為怪;龜書見於緯候,世或疑其妄。然天地間耳目之所不及,未可斷以為必無。《魏志》明帝青龍四年,張掖有寶石負圗,狀像靈龜,文字告命,粲然著明;《水經注》引車頻《秦書》,苻堅建元十二年,髙陸縣民穿井得龜,大二尺六寸,背文負八卦古字。物固有然,無足怪者。

馬図は《礼記・礼運》に見えるが、人々は奇怪に思わない。亀書は緯書・候書に見えるが、世人はそれを荒誕と疑う。しかし天地の間で耳目の及ばない事は、必ず無いと断定できない。《三国志・魏志》に載せる。魏明帝の青龍四年、張掖に図紋を背負った宝石が出て、形は霊亀に似て、上の文字は天命の告示のごとく鮮明にして弁別できた。《水経注》に車頻《秦書》を引いて載せる。前秦・苻堅の建元十二年、高陸県の百姓が井を穿ち、一隻の亀を掘り当てた。長さ二尺六寸、背の花紋に八卦の形状を帯びた古字があった。この類の事物はもともとあるもので、大驚小怪するに値しない。

然世風衰薄,間有作偽之事。如三國吳孫晧時,鄱陽歴陵山石文理成字凡二十,乃人以朱書石作之,言天下當太平。(《吳志》:孫晧天璽元年,鄱陽言歴陵山石文理成字凡二十,曰「楚九州島渚,吳九州島都,揚州士,作天子,四世治,太平始」。注:《江表傳》曰:歴陵長上言石印發,晧遣使以太牢祭之。巫言石印三郎說天下方太平。使者作髙梯上看印文,詐以朱書石作二十字,還以啟晧,晧大喜。)

ただし世風が衰薄し、その中に確かに作偽の事もあった。たとえば三国呉主・孫皓の時、鄱陽の暦陵山に一つの石の紋理が二十字を湊成したが、実はある人が朱砂をもって石上に書いて偽造したもので、内容は天下がまさに太平せんとするというものであった。(《三国志・呉志》に載せる:孫皓の天璽元年、鄱陽が暦陵山の石に紋理が字と成ったと上報し、合わせて二十字で、「楚九州渚、呉九州都、揚州士、作天子、四世治、太平始」といった。裴松之の注に《江表伝》を引いていう:暦陵県長が「石印発」を上報し、孫皓は使者を遣わして太牢をもって祭祀した。巫師は石印三郎が天下まさに太平せんとするを宣告したと言った。使者は高い梯子を架して上り印文を見、暗に朱砂をもって石上に二十字を書き、帰って孫皓に禀報し、孫皓は大いに喜んだ。)

臨朝,武承嗣使鑿白石為文凡八字以獻,稱獲之於洛水,太后命其石曰「寶圗」。(《通鑑》:唐垂拱元年,武承嗣使鑿白石為文,曰「聖母臨人,永昌帝業」,末紫石雜藥物填之,使雍州人唐同泰奉表以獻,稱獲之於洛水。太后喜,命其石曰「寶圗」,尋更命為「天授聖圗」。十二月己酉,太后拜洛受圗。)

またたとえば武則天が朝に臨んで制を称したとき、武承嗣が人をして白石上に八字を鑿ちて献じ、洛水の中で得たと偽り称した。太后はこの石に「宝図」と名づけた。(《資治通鑑》に載せる:唐の垂拱元年、武承嗣が人をして白石上に「聖母臨人、永昌帝業」の八字を鑿ち、鑿痕の末を紫石に薬物を攙えて填平し、雍州人・唐同泰をして上表して進献せしめ、洛水より得たと声言した。太后は大いに喜び、この石に「宝図」と命名し、まもなくまた「天授聖図」と改名した。その年十二月己酉、太后は自ら洛水に臨んでこの図を拝受した。)按:原文の「臨朝」二字の上には、「唐武后」の類の主語があるべきで、今本はそれを脱した。

林少穎、趙汝楳、王子充有見於此類,故深斥洛書。然以末世之偽而疑上古之真,不可也。《東都事略·杜鎬傳》:王欽若勸真宗為祥瑞以鎮服四夷,真宗疑焉,因問鎬「河出圗,洛出書,果何事」,鎬遽對曰:「此聖人以神道設敎耳。」真宗意遂決。是猶曹丕簒漢而以為舜、禹之事當亦如此也。鎬之言,不惟成君之惡,且大得罪於聖人矣。

林之奇(字は少穎)・趙汝楳・王禕(字は子充)はまさにこの類の偽造を見たので、力を尽くして洛書を排斥した。しかし末世の偽造をもって上古の真物を疑うのは、してはならない。《東都事略・杜鎬伝》に記す:王欽若は宋真宗に祥瑞を造って四方を震懾するよう勧め、真宗は遅疑して杜鎬に問うた。「河出図・洛出書とは、いったいどういう事か。」杜鎬は脱口して答えた。「これは聖人が神道に仮借して教化を施行したにすぎません。」真宗はここに祥瑞を造る決心を定めた。これは曹丕が漢室を簒奪しながら、なお当年の舜・禹の禅譲もこのようにやったと認定したに等しい。杜鎬のこの一言は、君主の悪行を助成しただけでなく、聖人をも大いに得罪させた。

《仲氏易》曰:「考禹治河所得,名為洪範九疇,不名洛書。觀《書》云『天乃錫禹洪範九疇』,並不及洛書,可驗也。若云天所錫者洛書,禹因而衍之,始名洪範九疇,則《書》又云『天不畀鯀洪範九疇』,是以禹所更定之名而天反豫竊之也,可乎?」

清初の毛奇齢《仲氏易》にいう:大禹が河を治めて得たものを考察するに、「洪範九疇」と名づき、「洛書」とは名づかない。《尚書》のいう「上天がここに洪範九疇を禹に賜る」を見れば、全然洛書に言及していない。これをもって検証できる。もし上天の賜ったものがもともと洛書で、禹がそれに拠って推演してはじめて洪範九疇と名づけたと言うなら、《尚書》はまた「上天が洪範九疇を鯀に与えない」と言う。これは上天が禹が後になって定めた名称をあらかじめ盗用したことにならないか。これは通じるか。

渭按:《洪範》者,《尚書》之篇名也。《書序》云「武王勝殷,以箕子歸,作《洪範》」,是《洪範》乃箕子之所命,以其為治天下之大法,故謂之《洪範》。其「九疇」則大禹所命,亦猶包犧之八卦耳。羲皇受河圗而始作八卦,文王演之,其書名《易》,不名《河圗》;大禹第洛書為九疇,箕子演之,其書名《洪範》,不名《洛書》,其義一也。

胡渭の按:《洪範》は《尚書》の中の一篇の篇名である。《書序》に「武王が殷商に勝ち、箕子を連れ帰り、《洪範》を作る」という。これを見れば「洪範」という名称は箕子の起したもので、それが天下を治める大法であるので《洪範》という。「九疇」という名目は大禹の定めたもので、ちょうど伏羲が「八卦」と定名したのと同じである。伏羲は河図を承けてはじめて八卦を画き、文王がそれを推演した。その書は《周易》と呼び、《河図》とは呼ばない。大禹は洛書を九疇に排定し、箕子がそれを推演した。その書は《洪範》と呼び、《洛書》とは呼ばない――二つの事の道理は全く同じである。毛奇齢が「経文の中に洛書の名が見えない」ことをもって洛書を否定するのは、まさに「書名」と「本とした物」を混同して論じたものである。

葢河圗、洛書乃《易》《洪範》所由作,非即《易》《洪範》也。以彖、爻無河圗之文而疑八卦非感河圗而作,以《洪範》無洛書之文而疑九疇非法洛書而陳,然則夫子所謂「聖人則之」者,果何所則而何所作邪?至於「天不畀鯀洪範九疇」而「錫禹洪範九疇」,此箕子追序之辭,謂鯀失治水之道,天不錫之以洛書;禹得治水之道,天乃錫之以洛書耳。而顧以辭害意,謂禹所更定之名而天反豫竊之也,不已戲乎!

知るべきである。河図・洛書は《周易》と《洪範》がそれに依拠して生じた源であって、《周易》と《洪範》そのものに等しいわけではない。もし卦辞・爻辞の中に「河図」の二字がないがゆえに八卦は河図に感じて作られたのではないと疑い、《洪範》の中に「洛書」の二字がないがゆえに九疇は洛書を取り法して陳べたのではないと疑うなら、孔子のいう「聖人はそれらを取り法した」とは、いったい何を取り法し、何を作り出したのか。「上天が洪範九疇を鯀に与えない」が「禹に洪範九疇を賜る」というのは、箕子が事後に追述した際の措辞で、意は鯀が治水の道を失い上天が彼に洛書を賜らず、禹は治水の道を掌握し上天がこそ彼に洛書を賜ったにすぎない。毛奇齢は字面に拘泥して本意を妨げ、上天が禹が後になって改め定めた名称をあらかじめ盗用したかのように言う。なんと児戯に類することか。

總之,河圗、洛書特推原當時《易》《範》所由作。今欲明《易》,八卦具在,焉用河圗?欲明《範》,九章具在,焉用洛書?宋人崇尚圗書,自以為補苴罅漏,張皇幽渺,若非此則無以明《易》《範》,遂成千古笑柄。然「河圗洛書」三語實出於夫子,又不可如歐公軰斥之以妖妄,故不得不一核其源流。

要するに、河図・洛書は当年《周易》と《洪範》が生じた源頭を遡ったにすぎない。今日《周易》を会得しようとするなら、八卦はすべて具わっている。どうして河図を用いる必要があろうか。《洪範》を会得しようとするなら、九章はすべて具わっている。どうして洛書を用いる必要があろうか。宋人は図書の学を推崇し、自らは経典の缺漏を補い幽深玄妙の義を発揮していると思い、それに依らなければ《易》と《範》を講明できないかのようであったが、結局千古の笑柄と成った。ただ「河出図、洛出書、聖人則之」の数句は確かに孔子の口から出たので、欧陽脩らの輩のように妖妄と斥けるわけにもいかない。ゆえにその源流を徹底的に考核し尽くさざるを得ない――これがまさに胡渭の全書の立場である。宋人の図を信じず、かつ孔子の言を廃しない。

侏儒問天髙於修人,修人曰「不知」。侏儒曰:「子雖不知,猶近於我。」孔安國、劉歆,修人也;陳摶、劉牧,侏儒也。天髙幾許,豈修人所能知?然必無修人不知而侏儒反知之理。況修人所言畧有端倪,而侏儒所言無非夢囈,又安得不舍侏儒而從修人邪!

一つの譬喩がある。矮子が高身の者に天の高さを問うと、高身の者は「知らない」と言う。矮子がいう。「あなたは知らないが、どうせ私より天に近い。」孔安国・劉歆はあの高身の者であり、陳摶・劉牧はあの矮子である。天がいったいどれほど高いかは、高身の者に知れるはずがない。しかし高身の者が知らず矮子がかえって知るという道理は決してない。しかも高身の者の講ずる所はなお幾ばくかの眉目があり、矮子の講ずる所はすべて夢言である。どうして矮子を捨てて高身の者に従わぬことがあろうか。

右論古洛書之文。

以上の一節は、古代文献の中の文字としての洛書を考弁した。これは胡渭が本节のために加えた標目である。

易図明辨巻二 徳清・胡渭撰

五行

《書·洪範》曰:「一、五行:一曰水,二曰火,三曰木,四曰金,五曰土。」

《尚書・洪範》にいう:九疇の第一疇は「五行」――第一は水、第二は火、第三は木、第四は金、第五は土。これは「五行」という名とその固定の次序が経書に現れた最も早い出所で、後世の一切の「五行生数・成数」の説はこの五つの数字から生発した。ゆえに胡渭が図書の学を弁ずるに、まずここから弁じ起こす。

《正義》曰:「萬物成形,以微著為漸;五行先後,亦以微著為次。水最微為一,火漸著為二,木形實為三,金體固為四,土質大為五。」

孔穎達《尚書正義》がこの次序を解していう:万物が形を成すのは、みな細微より漸く顕著に向かう。五行の先後もまた微より著への順に排する。水が最も細微なので第一に排し、火はやや顕著で第二、木は実の形体があり第三、金は体質が堅固で第四、土は質地が厚大で第五とする。これを見れば一至五が講ずるのは形質の軽重であって、いわゆる「生数」「成数」とは毛のほども関わりがない。

按:五行之名肇見於《洪範》,其一二三四五以微著輕重為次,自氣而形而質具在其中,未見此但為生數而必待六七八九十以成之也。《易》有四象而無五行,此與天地、大衍之數絶無交涉。

胡渭の按:「五行」という名目が最も早く見えるのは《洪範》である。その一・二・三・四・五は微より著へ、軽より重への順に排したもので、気より形、形より質へと、すでにすべてこの次序の中に包まれている。これら五つの数がいわゆる「生数」にすぎず、六七八九十が来てはじめてそれらを「成」さなければならないなどとは見えない。《周易》には太陽・太陰・少陽・少陰の四象があるだけで、五行はない。ゆえに《洪範》の五行之数は、《繋辞》の「天地之数」(一至十)および「大衍之数」(五十)と全く無関係である。この一条は胡渭が宋人の河図五十五点之説を破る第一の立足点である。

右論古五行之序。

以上の一節は、古代の五行次序の本義を考弁した。

《漢書·五行志》:《左氏傳》鄭裨灶曰「火,水妃也,妃以五成」(妃音配,或讀如字)。說曰:「天以一生水,地以二生火,天以三生木,地以四生金,天以五生土。五位皆以五而合,而陰陽易位,故曰『妃以五成』。然則水之大數六,火七,木八,金九,土十。故水以天一為火二牡,木以天三為土十牡,土以天五為水六牡,火以天七為金四牡,金以天九為木八牡。陽奇為牡,陰耦為妃,故曰『水,火之牡也』(左傳魯梓慎語),『火,水妃也』。於《易》,坎為水、為中男,離為火、為中女,葢取諸此也。」

《漢書・五行志》に《左伝》の鄭国の大夫・裨竈の言を引いていう:火は水の配偶であり、配偶は「五」に依ってはじめて配が成る。(「妃」は「配」と読む。また本字のまま読む者もある。)《五行志》が申していう:上天は一をもって水を生じ、大地は二をもって火を生じ、上天は三をもって木を生じ、大地は四をもって金を生じ、上天は五をもって土を生ず。この五つの方位はいずれも「五」を加えてはじめて配合し、配合の後に陰陽が位置を互換するので「配偶は五をもって配成す」という。こうして水の大数は六、火は七、木は八、金は九、土は十である。ゆえに水は天一を取って火二の「牡」(雄)とし、木は天三を取って土十の牡とし、土は天五を取って水六の牡とし、火は天七を取って金四の牡とし、金は天九を取って木八の牡とする。陽数は奇で「牡」、陰数は偶で「妃」である。ゆえに《左伝》に「水は火の牡」(これは魯国の大夫・梓慎の言)、「火は水の妃」という。《周易》では坎は水・中男、離は火・中女であり、おそらくここに義を取ったのであろう。

白雲郭氏雍曰:「《漢志》言『天以一生水,地以二生火,天以三生木,地以四生金,天以五生土』,故或謂天一至天五為五行生數,地六至地十為五行成數。雖有此五行之說,而於《易》無所見,故五行之說出於歴數之學,非《易》之道也。」

南宋の郭雍(号は白雲先生、《郭氏伝家易説》を著す)がいう:《漢書・五行志》の講ずる「天以一生水、地以二生火、天以三生木、地以四生金、天以五生土」に依って、ある者は天一より天五までを五行の「生数」と呼び、地六より地十までを五行の「成数」と呼ぶ。この一套の五行の講法はあるが、《周易》の中にはその影は根本的に見つからない。これを見れば五行之説は暦法算数の一系の学問から出たもので、《易》の道理ではない。

梨洲黃氏宗羲《象數論》曰:「世之言五行者,莫不本於生成之數,皆以為造化之自然,無容複議也。某則以九流之失,由此數失之於始。夫太虛絪縕相感,止有一氣,無所謂天氣也,無所謂地氣也。自其清通而不可見,則謂之天;自其凝滯而有形象,則謂之地。故曰『資始』『資生』,又曰『天施地生』,言天倡而不和,地和而不倡。今所謂『生』者倡也,所謂『成』者和也。一三五,天之生數;六八十,地之成數;二四,地之生數;七九,天之成數。是天倡而復和,地和而復倡,真若太虛之申兩氣並行,天氣、地氣其為物貳矣。

明末清初の黄宗羲(号は梨洲)は《易学象数論》の中でいう:世に五行を講ずる者は「生数・成数」をもって根本としない者はなく、皆これを造化の自然と思い��異議を容れることを許さない。私は思うに、九流百家の差錯は、まさにこの一套の数字の冒頭から誤っている。太虚の中に二気が絪緼交感するが、ただ一股の気であって、何の「天気」もなく、何の「地気」もない。それが清虚にして通暢し見えない面についていえば、これを天という。それが凝聚滞礙して形象ある面についていえば、これを地という。ゆえに《易》は「乾資始、坤資生」といい、また「天施地生」という。意は天はただ倡を主として応せず、地はただ応を主として倡しないということである。いまいわゆる「生」はすなわち倡で、いわゆる「成」はすなわち応である。一・三・五は天の生数で、六・八・十は地の成数。二・四はまた地の生数と成り、七・九はまた天の成数と成った。こうなれば、天は倡を主としつつ応もし、地は応を主としつつ倡もすることになり、まさに太虚の中に二股の気が伸び出して並行不悖のごときで、天気・地気を二つの物と見なしたことになる。

是故一氣之流行,無時而息。溫之殺而涼為秋,是金之行;涼之至而寒為冬,是水之行;寒之殺則又和。木火金水之化生萬物,其凝之之性即土。葢木火金水土,目雖五而氣則一,皆天也;其成形而為萬物,皆地也。若以水木土天之所生,火金地之所生,則春冬屬天,夏秋屬地,五行各有分屬,一氣循環,忽截而為天,忽截而為地,恐無此法象矣。

ゆえに言う、この一股の気の流行は一刻も休まない。温熱が漸く消退して涼爽に転ずれば秋となり、これが金の運行。涼爽が極に至り寒冷に転ずれば冬となり、これが水の運行。寒冷が漸く消退し、また温和に転回する。木・火・金・水は万物を化育生成し、万物を凝結して形を成さしめるあの性質がすなわち土である。これを見れば木火金水土は、名目は五つあるが、気はただ一つで、みな天に属する。それらが凝じて形体と成り万物に化するのは、みな地に属する。もし水・木・土は天の生じる所、火・金は地の生じる所と言うなら、春と冬は天に帰し、夏と秋は地に帰する。五行はそれぞれ帰属があり、一股の気は循環して已まないのに、忽ちにして天と切割され、忽ちにして地と切割される。天地の間にこのような法象はおそらくない。

原其『一水二火三木四金五土』,不過以質之輕重為數之多寡,第之先後,故土重於金,金重於木,木重於火,火重於水。然方其為氣,豈有輕重之可言?未聞涼重於溫、寒重於和也。則知天一至地十之數,於五行無與矣。是故言五行天生地成可也,言地生天成不可也;言奇數屬天、偶數屬地可也,言某行屬奇數、某行屬偶數不可也。此千古不解之惑,儒者不免,況於術數家乎!」

「一水・二火・三木・四金・五土」の本意を追究すれば、形質の軽重によって数目の多少を定め、先後を排したにすぎない。ゆえに土は金より重く、金は木より重く、木は火より重く、火は水より重い。しかしそれらがまだ気であったとき、どうして軽重を論じ得ようか。涼気が温気より重いとか、寒気が和気より重いとは聞いたことがない。これによって知れる。天一より地十のこの数目は、五行と毛のほども関わりがない。ゆえに五行は天より生じ地より成ると言うのは可であるが、ある者は地より生じ天より成ると言うのは不可である。奇数は天に属し偶数は地に属すと言うのは可であるが、ある行は奇数に属しある行は偶数に属すと言うのは不可である。これは千百年の解けない迷惑で、儒者ですら免れないのに、ましてあの術数家をや。

按:《大傳》曰「在天成象,在地成形」,又曰「乾知大始,坤作成物」,又曰「成象之謂乾,效法之謂坤」,然則氣象皆在天,形質皆在地。地道無成而代有終,五行無地生天成之理也。梨洲之言,可謂明且清矣。

胡渭の按:《繋辞大伝》に「天にあって象と成り、地にあって形と成る」といい、また「乾は万物の開端を主宰し、坤は万物を作り成すことを司る」といい、また「象を顕現するを乾といい、効法して形を成すを坤という」という。このように見れば、気と象はみな天に帰し、形と質はみな地に帰する。《坤卦・文言》は地道は自ら成功に居らず、ただ天に代わって終局を完成すると講ずる。ゆえに五行に「地より生じ天より成る」の理は断じてない。黄宗羲のこの言は、明白かつ透彻に講じたと言える。

《禮記·月令》孟春之月曰「天氣下降,地氣上騰,天地和同,草木萌動」,孟冬之月曰「天氣上騰,地氣下降,天地不通,閉塞而成冬」,是固有天氣、地氣之說矣。然地氣即向之所受於天而藏焉者也,以其在地,因謂之地氣,猶臣子受君父之賜予以為己有,不可謂其物本吾之所有也。故朱子謂「地二而虛,所以其中容得天許多氣」,豈天氣之外別有所為地氣哉!《孔子閒居》謂子夏曰「地載神氣,神氣風霆,風霆流行,庶物露生」,其所謂神氣,即天之氣也。況太虛之中、絪縕之始,安得地氣與天氣並行邪?

《礼記・月令》に孟春之月は「天気下降し、地気上昇し、天地交和して草木が萌発す」と講じ、孟冬之月は「天気上昇し、地気下降し、天地通ぜずして閉塞して冬と成る」と講ずる。これは確かに「天気」「地気」の説法がある。しかしいわゆる地気とは、もともと先に天から承受して地中に儲蔵した気で、それが地の中にあるがゆえに地気と呼ぶのであって、ちょうど臣子が君父の賞賜を受けて取って己の物と為しても、それがもともと己に属するとは言えないのと同じである。ゆえに朱熹は「地は二に属して中間は虚なので、天の多くの気を容納し得る」と言った。どうして天気のほかに別に地気と呼ぶ一物があろうか。《礼記・孔子閑居》に孔子が子夏に言う:「大地は神気を承載し、神気は風雷に化し、風雷は流行し、万物は顕露して生ず。」そこにいう「神気」は、すなわち天の気である。まして太虚の中・絪緼の初始の際に、どうして地気が天気と並行し得ようか。

《左傳》昭九年裨灶曰「火,水妃也,妃以五成」,注云「火畏水,故謂之妃。妃,合也。五行各相妃合,得五而成」。疏云:「陰陽之書有五行妃合之說:甲乙木也,丙丁火也,戊巳土也,庚辛金也,壬癸水也。木克土,土克水,水克火,火克金,金克木。木畏金,以乙為庚妃也;金畏火,以辛為丙妃也;火畏水,以丁為壬妃也;水畏土,以癸為戊妃也;土畏木,以己為甲妃也。」杜用此說,故云「火畏水,故為之妃」。

《左伝》昭公九年に裨竈が「火は水の配偶で、配偶は五をもって配成す」と記し、杜預の注に「火は水を畏れるので、これを水の配偶と称す。『妃』はすなわち配合。五行は各自相互に配合して、いずれも『五』を得てはじめて配成する」という。孔穎達の疏に解していう:陰陽家の書に一套の五行配合の説がある――甲乙は木に属し、丙丁は火に属し、戊己は土に属し、庚辛は金に属し、壬癸は水に属す。木は土を克し、土は水を克し、水は火を���し、火は金を克し、金は木を克す。木は金を畏れるので、乙を取って庚の配偶と為す。金は火を畏れるので、辛を取って丙の配偶と為す。火は水を畏れるので、丁を取って壬の配偶と為す。水は土を畏れるので、癸を取って戊の配偶と為す。土は木を畏れるので、己を取って甲の配偶と為す。杜預が用いたのはまさにこの説で、ゆえに「火は水を畏れるので、その配偶を作る」という。

十八年梓慎曰「水,火之牡也」,注云「牡,雄也」。疏云:「陰陽之書有五行嫁娶之法:火畏水,故以丁為壬妃,是水為火之雄。」今按此文,則水妃火牡,辭雖不同,理實一致。陰陽家五行嫁娶之法,取十於妃合為義:甲與己合,乙與庚合,丙與辛合,丁與壬合,戊與癸合,是為「妃以五成」。此皆陰陽家言,與《易》道本不相謀,而《漢志》以天一地二之數釋「火牡水妃」之義,又證之於卦,以坎為火牡、離為水妃,是則然矣。獨不思乾兊之金、坤艮之土、震巽之木,將孰為牡而孰為妃邪?豈乾兊之金可以牡震巽之木,震巽之木可以牡坤艮之土邪?就其言推之,己有不可得通者,而後之人顧猶據以為洛書,爭以為河圗,真不足當劍首之一吷矣。

昭公十八年に梓慎が「水は火の牡」と言い、杜預の注に「牡はすなわち雄」という。孔疏に解していう:陰陽家の書に一套の五行嫁娶の法があり、火は水を畏れるので、丁を取って壬の配偶と為す。これがすなわち水が火の雄を作ることである。いまこの二条を見るに、一は「水妃火牡」といい、一は「火妃水牡」という。措辞は異なるが、道理は実は一致する。陰陽家の五行嫁娶の法は、十天干の配合を取って義とする。甲は己と合し、乙は庚と合し、丙は辛と合し、丁は壬と合し、戊は癸と合する――両干の相隔たるがちょうど五位で、これを「配偶は五をもって配成す」という。これらはすべて陰陽家の説法で、《周易》の道とはもともと関わりがない。ところが《漢書・五行志》は天一・地二のあの数目を取り上げて「火牡水妃」の含義を解釈し、また卦をもって印証して、坎をもって火の牡、離をもって水の妃とした。見たところ講じ通るようだが、彼はあえて考えない。乾兌は金に属し、坤艮は土に属し、震巽は木に属すが、これらはまた誰が牡を為し誰が妃を為すか。まさか乾兌の金が震巽の木の牡を為し得、震巽の木が坤艮の土の牡を為し得ようか。彼の言に従って推し下れば、それ自体ですでに通らない。後人はついにこれに拠って洛書と認め、争って河図と��い立てた。まことに一息を費して理会するに値しない。

鄭氏《易注》曰:「天地之氣各有五。五行之次,一曰水,天數也;二曰火,地數也;三曰木,天數也;四曰金,地數也;五曰土,天數也。此五者,陰無匹,陽無耦,故又合之:地六為天一匹也,天七為地二耦也,地八為天三匹也,天九為地四耦也,地十為天五匹也。二五陰陽各有合,然後氣相得施化行也。」(注「五位」。)

東漢の鄭玄《周易注》にいう:天地之気は各々五つある。五行の次序は、第一は水で天数に属し、第二は火で地数に属し、第三は木で天数に属し、第四は金で地数に属し、第五は土で天数に属す。この五つの数は、陰は配偶なく、陽は対子なし。ゆえにまたそれらに各々一つを配す。地六を天以一の配偶と為し、天七を地二の対子と為し、地八を天三の配偶と為し、天九を地四の対子と為し、地十を天五の配偶と為す。両組の五つの数・陰陽は各々配合あり、そうして気が相投じ、生化が推行し得る。(これは鄭玄が《繋辞》「五位相得而各有合」の句に注したもの。)

又曰:「凡五行減五,大衍又減一,故四十九也。天一生水於北,地二生火於南,天三生木於東,地四生金於西,天五生土於中,陽無耦,陰無配,未得相成。地六成水於北,與天一併;天七成火於南,與地二並;地八成木於東,與天三並;天九成金於西,與地四並;地十成土於中,與天五並也。」(注「大衍」。)

鄭玄はまたいう:五行之数の五十五から五を減じ、大衍之数の五十からさらに一を減じるので、実際には四十九本の蓍草を用いる。天一は北方で水を生じ、地二は南方で火を生じ、天三は東方で木を生じ、地四は西方で金を生じ、天五は中央で土を生ず。このとき陽数に対子なく、陰数に配偶なく、まだ相互に成就できない。そこで地六は北方で水を成就して天一と相并し、天七は南方で火を成就して地二と相并し、地八は東方で木を成就して天三と相并し、天九は西方で金を成就して地四と相并し、地十は中央で土を成就して天五と相并する。(これは鄭玄が《繋辞》「大衍之数五十」の句に注したもの。)

按:《漢志》說本劉歆《洪範五行傳》,但據天一至地十之數以釋《左氏》水妃火牡之文,初不為《易》而設,亦未有五方之位也。自康成取以注《易》,而七八九六為《易》之四象,水北火南木東金西土中,一生一成各為配耦(亦是配以五成,然但取生成,不取克畏,與《漢志》小異),雖未寫以為圗而圗已具,此與揚子《玄圗》皆偽《闗易》、河圗之粉本也。

胡渭の按:《漢書・五行志》の説法は劉歆の《洪範五行伝》に本づき、ただ天一より地十のあの数目を取って《左伝》「水妃火牡」の文句を解釈したもので、もともと《周易》のために設けられたのではなく、また東南西北中の五方之位にも配していなかった。鄭康成がそれを取り来って《周易》に注して以来、七・八・九・六がはじめて《易》の四象と成り、水は北・火は南・木は東・金は西・土は中と成り、一つの生数に一つの成数を配した(これも「五をもって配成す」だが、ただ鄭玄は生成の関係だけを取り、相克相畏を取らない。《漢志》とやや異なる)。鄭玄はそれを図に画いてはいないが、図の形制はすでに完全に具備していた。この鄭注に揚雄の《玄図》を加えれば、まさに後の偽《関朗易伝》と宋人のいわゆる「河図」の底本である――これは胡渭が宋図の来歴を追査する関鍵の一環である。

《禮記·月令》:孟春之月,其日甲乙,其數八,立春盛德在木,迎春於東郊;孟夏之月,其日丙丁,其數七,立夏盛德在火,迎夏於南郊;季夏之月中央土,其日戊巳,其數五;孟秋之月,其日庚辛,其數九,立秋盛德在金,迎秋於西郊;孟冬之月,其日壬癸,其數六,立冬盛德在水,迎冬於北郊。

《礼記・月令》に記す:孟春之月は、配する天干は甲乙、配する数は八。立春の日、盛徳は木にあり、天子は東郊に赴き迎春之礼を行う。孟夏之月は、配する天干は丙丁、配する数は七。立夏の日、盛徳は火にあり、南郊に赴き夏を迎える。季夏之月は中央土に属し、配する天干は戊己、配する数は五。孟秋之月は、配する天干は庚辛、配する数は九。立秋の日、盛徳は金にあり、西郊に赴き秋を迎える。孟冬之月は、配する天干は壬癸、配する数は六。立冬の日、盛徳は水にあり、北郊に赴き冬を迎える。

按:《月令》,呂不韋作也,而東木之數八,南火之數七,中土之數五,西金之數九,北水之數六,則似戰國時已有以天地之數附會於《洪範》而為五行生成之說者矣,不待劉歆、班固也。其於木火金水皆以成數言之,而土則獨言生數者,葢舉五以例其餘,以見六七八九之尚有一二三四也。

胡渭の按:《月令》は秦の相・呂不韋が主持して編み成したもので、その中で東方木の数は八、南方火の数は七、中央土の数は五、西方金の数は九、北方水の数は六である。これを見れば戦国の時期にすでに《繋辞》の天地之数を《洪範》の五行に附会して「生数・成数」の説を造り出す者があり、劉歆・班固を待たなければならなかったのではないことが分かる。それは木・火・金・水にはみな成数をもって講じ、ただ土にのみ生数を用いる。おそらく「五」を挙げてその余を類推させ、人に六七八九の中にまだ一二三四が蔵れていることを見出させようとしたのであろう。

且一乘五即為六,二乘五即為七,三乘五即為八,四乘五即為九,五者六七八九之所由成也;六除五即為一,七除五即為二,八除五即為三,九除五即為四,六七八九者又一二三四之所藏也;五乘五即為十,十除五即為五,其數互相備,雖不言十而十在其中矣。鄭康成以木火金水為四象,實本於此。唐仲友《經世圗譜》云「《月令》,河圗之數也,故土藏十」,此據劉牧之《龍圗》而為言耳。然《龍圗》九宮之數也,南九西七,而《月令》以七居南、以九居西,則固與九宮易位矣。以是知不韋所言乃五行生成之數,非明堂九室縱橫十五之數也。(中央言五不言十,與《玄圗》同。)

しかも一加五はすなわち六、二加五はすなわち七、三加五はすなわち八、四加五はすなわち九。これを見れば「五」はまさに六七八九の生成し得る関鍵である。六減五はすなわち一、七減五はすなわち二、八減五はすなわち三、九減五はすなわち四。これを見れば六七八九の中にまた一二三四が蔵れている。五加五はすなわち十、十減五はまた五に還元する。これらの数は互いに包含する。《月令》は十に言及しないが、十は実はすでにその中にある。鄭康成が木火金水を四象に配したのは、実はここに本づく。南宋の唐仲友《経世図譜》に「《月令》の用いる所は河図之数で、ゆえに土の里に十が蔵れている」というが、これは劉牧の《龍図》に依拠して論を立てたにすぎない。しかし《龍図》が用いるのは九宮之数で、九は南に居り七は西に居る。《月令》は七を南に置き九を西に置く。方位は九宮とちょうど互換している。これによって知れる。呂不韋の講じたのは五行生成之数であって、明堂九室のあの縦横相加して皆十五を得る数ではない。(《月令》の中央はただ五を言い十を言わない。これは揚雄《玄図》と同じである。)

揚子雄《太玄·玄圗》篇曰:「一與六共宗(范望解云:在北方也),二與七為朋(在南方也),三與八成友(在東方也),四與九同道(在西方也),五與五相守(在中央也)。」

西漢の揚雄《太玄経・玄図》篇にいう:一と六は同宗(三国呉の人・范望が注解して、北に居るを指すという)、二と七は友と為る(南に居る)、三と八は伴を結ぶ(東に居る)、四と九は同道(西に居る)、五と五は相守する(中央に居る)。この四句はまさに後の宋人のいわゆる「河図」の白黒点位次の文字上の源頭である。胡渭は下文で宋図がここから翻造されたと証明しようとしている。

張子曰:「天下之數止於十,窮則自十而反一。又數當止於九,其言十者,九之耦也。揚雄亦曰『五復守於五』者,葢地數無過天數之理,孰有地大於天乎?故知數止於九,九是陽極也;十也者,姑為五之耦焉耳。」

北宋の張載(世に横渠先生と称す)がいう:天下の数は十に至って止み、尽きれば十より一に返る。さらに言えば数は実は九に至って止むべきで、十に及んだのはただ九に対子を配するにすぎない。揚雄も「五がまた五を守る」と言った。これは地数が天数を超える理がないためである――どうして地が天より大きいことがあろうか。ゆえに数は九に至って止むと知るべきで、九は陽の極点である。十に至っては、ただ姑く五のために配偶を作ったにすぎない。

按:《太玄》演五行之數,不曰「五與十相守」而曰「五與五相守」,隠其十而不言,何也?葢子云覃思渾天,參摹而四分之,極於九九八十一首,每首九贊,以五行之數分隸九贊之下,勢不得復用十矣。故其說曰「鴻本五行,九位施重」,此十之所以隠而不言也與。(今九九算法遇十則變為一十,常隠而不見,即是此理。)

胡渭の按:《太玄》が五行之数を推演するに、「五与十相守」と言わず「五与五相守」と言い、「十」を隠して言わないのは、どういう故か。おそらく揚雄(字は子雲)は渾天の学に潜心し、「三摹而四分」の方法で推衍して、最終的に九九八十一首を得、各首の下に九条の「賛」を設けて、五行之数を九賛の下に分派しようとすれば、形勢上もはや「十」を用いることができなかったのであろう。ゆえに彼自身が「宏大なる根本は五行にあり、九つの位次を層層に叠加する」と言った。これが「十」が隠されて言われない所以であろう。(今日の九九乗除の算法でも、十に逢えば位を進めて「一十」と変え、十自身は常に隠没して見えない。まさに同じ道理である。)

劉、鄭五行配合之說與天地之數相符,然未嘗名之曰圗也。至《太玄》始有《玄圗》篇,而其所謂「一六共宗,二七為朋,三八成友,四九同道,五五相守」者,葢即其圗也。圗雖不見於今,既名為圗,則圗固具是矣,而奇偶各配與劉、鄭同,惟五不配十為小異耳。

劉歆・鄭玄のあの五行配合の説は《繋辞》の天地之数と合するが、彼らはかつてそれを「図」と称しなかった。《太玄》に至って《玄図》一篇がはじめてあるが、それのいう「一六同宗、二七為友、三八結伴、四九同道、五五相守」は、おそらくあの図の内容であろう。図は今日すでに見られないが、「図」と名づく以上、図の様子もまたこの数句の中に尽きている。それの奇数偶数が各自相配するのは劉歆・鄭玄と同じで、ただ五が十を配しないこの一点のみが略々小異である。

范諤昌以是為伏羲復位生成之位,而劉牧目之曰洛書;闗子明以是為龍馬所授伏羲之數,而蔡元定宗之為河圗。其粉本皆用《太玄》而加以地十。然《玄》雖擬《易》,實老子之學,本名《玄圗》,非河圗也,安得附會《大傳》,指為聖人之所則哉!奇白偶黑之點,非子云意中所有,今欲示共宗同道之形,姑借《龍圗》之法以立象爾。

北宋の范諤昌はこの数を伏羲の「復位生成」の方位と説き、劉牧はそれに「洛書」という名を取った。関子明に託名する書はそれを龍馬が伏羲に授けた数と説き、蔡元定(朱熹の学侶で、《易学啓蒙》の実際の執筆人)はそれを「河図」として尊奉した。彼らの底本はみな《太玄》より取り、ただ一つの「地十」を添えたにすぎない。しかし《太玄》は《周易》を模擬したとはいえ、骨子は老子の学で、そのこの篇は本名を《玄図》といい、河図ではない。どうして《繋辞大伝》に附会して、硬く聖人の取り法した物と説くことができようか。白点をもって奇数を表し黒点をもって偶数を表すことも、また揚雄の心目中にあったものではない。いま「共宗」「同道」の形状を顕示するために、ただ姑く《龍図》の画法を借用して一つの象を立てたにすぎない。

自春秋以迄兩漢,言五行者,禆灶、梓慎主占候,呂不韋主時令,劉向主災異,劉歆兼主歴數,揚雄草《玄》亦與《泰初歴》相應,雖皆言生成之數,卻非為《易》而設。至鄭康成始援以注《易》,而四象之義乃定,要之未有以此數為河圗洛書者。

春秋より両漢に至るまで、五行を講じた者はそれぞれ側重があった。裨竈・梓慎は占卜候気を主とし、呂不韋は時令月序を主とし、劉向は災異を主とし、劉歆は暦法算数を兼ね主とした。揚雄の《太玄》の撰もまた《太初暦》と相配するものであった。彼らはみな生数成数を講じたが、いずれも《周易》を解くために設けたのではなかった。鄭康成に至ってはじめてこの数を援引して《易》に注し、四象の含義はこれによって定まった。要するに、これらの人の中にはまだ一人としてこの数目を河図か洛書と指認した者はいない。

何則?劉歆以河圗為八卦,洛書為九章;鄭康成以九篇為河圗,六篇為洛書;劉瑜以《乾鑿度》九宮之數為河圗;蜀隠者以希夷之先天太極為河圗。彼既自有其圗書,必不於其外更標一圗書可知也。自偽《龍圗》出,而始以五十有五為羲皇復位之數矣;自偽《闗易》出,而直以五行生成為龍馬所負之圗矣。劉牧、蔡元定從而揚其波,抑又甚焉。自此以後,劉、蔡迭為興廢,或以此為河圗,或以此為洛書,謬種流傳,變怪百出,原其弊,實《漢志》有以啟之。愚故先辨五行,次及九宮、《參同契》、先天太極,而以《龍圗》《鉤隠》《啟蒙》終焉。

なぜこのように言うか。劉歆は河図を八卦、洛書を九疇と認定し、鄭康成は緯書の九篇を河図、六篇を洛書と認定し、東漢の劉瑜は《乾鑿度》の九宮之数を河図とし、蜀中の隠者は陳摶(号は希夷先生)の先天図・太極図を河図としたからである。彼ら各人はすでに自らの一套の「図書」を持っていたので、必ずこのほかに別に一套を立てることはなかった。これは明白に見られる。偽造の《龍図》が出るに至って、はじめて「五十五」を伏羲復位之数と説いた。偽造の《関朗易伝》が出るに至って、はじめて直ちに五行生成之数を龍馬の背負う図と説いた。劉牧・蔡元定がこれに随って波を助け勢いを推し、いよいよ变本加厉と成った。これ以後、劉牧の一派と蔡元定の一派が此伏彼起し、ある者はこの数を河図に充て、ある者はそれを洛書に充て、謬種は流伝し、花样は百出した。この流弊の源頭を追究すれば、実に《漢書・五行志》が開いた端である。ゆえに私はまず五行を弁じ、次に九宮・《周易参同契》・先天図と太極図に及び、最後に《龍図》《鈎隠図》《易学啓蒙》をもって結びとする――これが全書の辨偽の次第である。

右論洪範五行傳生成之數。

以上の一節は、《洪範五行伝》の講ずる生数と成数を考弁した。

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