朱子の卦変図
《本義》圖說曰:《彖傳》或以卦變為說,今作此圖以明之,蓋易中之一義,非畫卦作易之本指也。
朱熹《周易本義》の図説は講じて曰く、《彖伝》は時に卦変を用いて説を立てるので、今この図を作ってそれを明らかに講じる。これは《易》の中の一つの義理に過ぎず、卦を画き《易》を作った本旨ではない。
凡一陰一陽之卦各六,皆自復、姤而來(五陰五陽卦同圖異):剝、比、豫、謙、師、復;夬、大有、小畜、履、同人、姤。
第一類:およそ一陽の卦と一陰の卦は各六つあって、すべて《復》《姤》の両卦から変わって来る(五陰五陽の卦はこの図と同じで、ただ名目が異なるだけである)。一陽の卦の一行は《剥》《比》《豫》《謙》《師》《復》で、すなわちあの一つの陽爻が上位から逐級に初位まで下るものである。一陰の卦の一行は《夬》《大有》《小畜》《履》《同人》《姤》で、すなわちあの一つの陰爻が上位から逐級に初位まで下るものである。
凡二陰二陽之卦各十有五,皆自臨、遯而來(四陰四陽卦同圖異):頤、屯、震、明夷、臨;蒙、坎、解、升;艮、蹇、小過;晉、萃;觀。大過、鼎、巽、訟、遯;革、離、家人、無妄;兌、睽、中孚;需、大畜;大壯。
第二類:およそ二陽の卦と二陰の卦は各十五あって、すべて《臨》《遯》の両卦から変わって来る(四陰四陽の卦はこの図と同じで、ただ名目が異なるだけである)。《臨》の一系は順次、《頤》《屯》《震》《明夷》《臨》、《蒙》《坎》《解》《升》、《艮》《蹇》《小過》、《晋》《萃》、《観》である。《遯》の一系は順次、《大過》《鼎》《巽》《訟》《遯》、《革》《離》《家人》《无妄》、《兌》《睽》《中孚》、《需》《大畜》、《大壮》である。朱子のこの図は虞翻のように一爻のみ動かすと限定せず、二爻が昇降する種々の可能性を一括して排列したので、類ごとの卦数は虞氏よりはるかに多い。
凡三陰三陽之卦各二十,皆自否、泰而來:損、節、歸妹、泰;賁、既濟、豐;噬嗑、隨;益;蠱、井、恆;未濟、困;渙;旅、咸;漸;否。
第三類:およそ三陽の卦と三陰の卦は各二十あって、すべて《否》《泰》の両卦から変わって来る。《泰》の一系は順次、《損》《節》《帰妹》《泰》、《賁》《既済》《豊》、《噬嗑》《随》、《益》、《蠱》《井》《恒》、《未済》《困》、《渙》、《旅》《咸》、《漸》、《否》である。
咸、旅、漸、否;困、未濟、渙;井、蠱;恆;隨、噬嗑、益;既濟、賁;豐;歸妹;泰。
《否》の一系は順次、《咸》《旅》《漸》《否》、《困》《未済》《渙》、《井》《蠱》、《恒》、《随》《噬嗑》《益》、《既済》《賁》、《豊》、《帰妹》、《泰》である。これを見ると《泰》《否》の両系は彼此交錯し、同一の卦が両辺で重複して出現する。
凡四陰四陽之卦各十有五,皆自大壯、觀而來(二陰二陽圖已見前):大畜、需、大壯;睽、兌;中孚;離、革;益;無妄;鼎、大過;巽;訟;遯。萃、晉、觀;蹇、艮;小過;坎、蒙;解;升;屯、頤;震;明夷;臨。
第四類:およそ四陽の卦と四陰の卦は各十五あって、すべて《大壮》《観》の両卦から変わって来る(これらの卦は前の二陰二陽の図にすでに出現した)。《大壮》の一系は順次、《大畜》《需》《大壮》、《睽》《兌》、《中孚》、《離》《革》、《益》、《无妄》、《鼎》《大過》、《巽》、《訟》、《遯》である。《観》の一系は順次、《萃》《晋》《観》、《蹇》《艮》、《小過》、《坎》《蒙》、《解》、《升》、《屯》《頤》、《震》、《明夷》、《臨》である。
凡五陰五陽之卦各六,皆自夬、剝而來(一陰一陽圖已見前):大有、夬;小畜;履;同人;姤。比、剝;豫;謙;師;復。
第五類:およそ五陽の卦と五陰の卦は各六つあって、すべて《夬》《剥》の両卦から変わって来る(これらの卦は前の一陰一陽の図にすでに出現した)。《夬》の一系は順次、《大有》《夬》、《小畜》、《履》、《同人》、《姤》である。《剥》の一系は順次、《比》《剥》、《豫》、《謙》、《師》、《復》である。
黃氏《象數論》曰:朱子言以《彖傳》考之,說卦變者凡十九卦,蓋言成卦之由,《彖傳》不言成卦之由則不言所變之爻,此是朱子自言其卦變也。《繫辭傳》曰「爻者,言乎變者也」,易中何卦不言變?辭有隠顯,而理無不寓,即證之《彖辭》,亦非止十九卦也。
黄宗羲《易学象数論》は曰く、朱熹が講じるに、《彖伝》をもって考察すれば、卦変を講じるものは合わせて十九卦で、あれは成卦の由来について言ったのである。《彖伝》が成卦の由来を講じないものは、彼は変ずる爻を指し示さない——これは朱子が自ら卦変を講じる体例を述べたものである。しかるに《繋辞伝》は「爻とは、変について言うものなり」と言い、《易》の中で変を講じない卦があろうか。ただ辞に隠顕があるが、理は寓さざるところなし。《彖辞》をもって検証すれば、卦変を講じるものも十九卦に止まらない。
訟「剛來而得中」,以需之反對觀之,彼得正又得中,此但得中不能得正。泰否之往來,所謂反其類。隨「剛來而下柔」,蠱「剛上而柔下」,二卦反對:蠱上之剛自外卦來,初居二三之下;隨初剛自下而上,上柔自上而下。噬嗑「柔得中而上行」,賁「柔來而文剛,分剛上而文柔」:前卦謂六二上行為五,後卦言六五自外卦而入內,初九從下卦而至上。無妄「剛自外而為主於內」,大畜「剛上而尚賢」:無妄之初九自大畜上爻外卦來,為內卦之主;大畜之上九自無妄初爻而上。咸「柔上剛下」,恆「剛上柔下」:咸指上六九三,恆指九四初六。
《訟》は「剛来りて中を得たり」と言う。その反対の卦《需》を見るに、《需》の九五は正を得かつ中を得、《訟》は中を得るのみで正を得ること能わず。《泰》《否》の往来を講じるは、いわゆる「その類を反す」である。《随》は「剛来りて柔を下す」と言い、《蠱》は「剛上りて柔下る」と言う。両卦は互いに反対である。《蠱》の上爻の剛は外卦より下り来たり、初爻は二・三の下に居る。《随》の初爻の剛は下より上り、上爻の柔は上より下る。《噬嗑》は「柔中を得て上行す」と言い、《賁》は「柔来りて剛を文り、剛を分ちて上りて柔を文る」と言う。前の卦は六二が上行して五位に至るを指し、後の卦は六五が外卦より内卦に入り、初九が下卦より上位に升るを言う。《无妄》は「剛外より来りて内に主となす」と言い、《大畜》は「剛上りて賢を尚ぶ」と言う。《无妄》の初九は《大畜》の上爻すなわち外卦より来たって、内卦の主となった。《大畜》の上九は《无妄》の初爻より升ったものである。《咸》は「柔上りて剛下る」と言い、《恒》は「剛上りて柔下る」と言う。《咸》は上六と九三を指し、《恒》は九四と初六を指す。
晉「柔進而上行」,明夷之六二上行為六五;睽「柔進而上行」,家人之六二上行為六五。蹇「往得中也」,解「其來復吉,乃得中也」:蹇之九五自解內卦,故曰往;解之九二自蹇外卦,故曰來。升「柔以時升」,升上卦之柔皆萃卦所升。鼎「柔進而上行」,鼎五由萃二而上。漸「進得位」,漸九五當歸妹居二為不得位。渙「剛來而不窮」者,節五來二;「柔得位乎外而上同」者,柔在三失位,在四得位。此朱子所謂十九卦之《彖辭》,皆以反對為義者也。
《晋》は「柔進みて上行す」と言う。これは《明夷》の六二が上行して六五となるである。《睽》は「柔進みて上行す」と言う。これは《家人》の六二が上行して六五となるである。《蹇》は「往きて中を得」と言い、《解》は「その来復は吉、すなわち中を得」と言う。《蹇》の九五は《解》の内卦より往ったので「往」と言い、《解》の九二は《蹇》の外卦より来たので「来」と言う。《升》は「柔時を以て升る」と言い、《升》の上卦の柔はすべて《萃》卦より升り来たものである。《鼎》は「柔進みて上行す」と言い、《鼎》の五爻は《萃》の二爻より升ったものである。《漸》は「進みて位を得」と言い、《漸》の九五は《帰妹》の中では二位に居り、まさに位を得ざるである。《渙》は「剛来りて窮まらず」と言う。これは《節》の五爻が来りて二位に居るである。また「柔外に位を得て上同じくす」と言うのは、あの柔が三位にあれば位を失い、四位にあれば位を得るということである。これらがすなわち朱子の言う十九卦の《彖辞》で、実はすべて反対をもって義を立て得るのである。
需「位乎天位以正中也」,自訟九二而來,得中又得正。損「損下益上,其道上行」,益「損上益下,自上下下」:由損觀之,似以三爻益上爻;由益觀之,似以四爻益初爻。小畜「密雲不雨」,反對為履,履下之兌澤氣成云,故曰宻雲;兌變而巽,風以散之,故曰不雨。大有「應乎天而時行」,方其同人在二之時應乎天也,今時行而居其位。謙「地道卑而上行」,地道指坤,豫在下卦為卑,謙在上卦為上行。臨「至于八月」,觀二陽在上,臨二陽在下,自臨至觀歴八爻,故言八月。復「七日來復」,剝一陽在上,復一陽在下,自剝至復歴七爻,故言七日。
《需》は「天位に位し、正中を以てす」と言う。これは《訟》の九二より来たので、中を得かつ正を得る。《損》は「下を損して上を益す、その道上行す」と言い、《益》は「上を損して下を益し、上より下る」と言う。《損》より見れば、三爻を以て上爻を増益するが如く、《益》より見れば、四爻を以て初爻を増益するが如し。《小畜》は「密雲雨らず」と言う。その反対は《履》である。《履》の下体の兌は沢を為し、沢気は上升して雲を成す。故に「密雲」と言い、兌は巽に変じて風が雲を吹き散らす。故に「雨らず」と言う。《大有》は「天に応じて時に行く」と言う。それがまだ《同人》で柔が二位に居る時はまさに「天に応じ」、今時に順いて行えば五位に居る。《謙》は「地道は卑にして上行す」と言う。「地道」とは坤を指し、坤は《豫》にあって下卦を為すので「卑」であり、《謙》にあって上卦を為すので「上行」である。《臨》は「八月に至りて凶あり」と言う。《観》は両陽が上にあり、《臨》は両陽が下にあり、《臨》より《観》に数えて八爻を経る。故に八月と言う。《復》は「七日にして来復す」と言う。《剥》は一陽が上にあり、《復》は一陽が下にあり、《剥》より《復》に数えて七爻を経る。故に七日と言う。
明夷「初登于天」言晉,「後入于地」言明夷。夬「所尚乃窮」,對姤為言。井「改邑不改井」,兌為剛滷之地,變而為巽則「近利市三倍」,是改邑也;坎不變,是不改井也,皆對困言之。歸妹「征凶,位不當也」,漸之二五皆當位,至歸妹皆不當。旅「柔得中乎外」,在豐為得中乎內。巽「柔皆順乎剛」,兌「剛中而柔外」,兌柔不順乎剛,巽柔中而剛外,二卦相反。既濟「剛正而位當」,未濟不當位,二卦亦相反。此朱子十九卦以外亦皆以反對為義者也。反對之窮而反其竒偶以配之,又未嘗不暗相反對於其間:如中孚上爻之翰音,反對即為小過初爻之飛鳥;頤之口實,由大過之兌;大過士夫、老夫,由頤之艮震。此序卦之不可易也,奈何諸儒之為卦變紛然雜出而不能歸一乎?
《明夷》は「初め天に登り」というのは《晋》について言い、「後に地に入る」というのは《明夷》について言う。《夬》は「尚ぶ所すなわち窮まる」というのは《姤》に対して言う。《井》は「邑を改めて井を改めず」と言う。兌は塩鹵の地を為し、巽に変ずれば「利市三倍に近し」、これが「邑を改む」である。坎体は変わらず、これが「井を改めず」である。いずれも《困》に対して言う。《帰妹》は「征けば凶、位当たらざればなり」と言う。《漸》の二・五両爻は皆位に当たるが、《帰妹》に至ればいずれも位に当たらず。《旅》は「柔外に中を得」と言うが、《豊》にあっては内に中を得る。《巽》は「柔皆剛に順う」と言い、《兌》は「剛中にして柔外」と言う。兌の柔は剛に順わず、巽は柔が中にして剛が外にあり、両卦は正に相反する。《既済》は「剛柔正しく位当たる」と言い、《未済》は位に当たらず、両卦もまた正に相反する。これらは朱子の十九卦以外で、同じく反対を以て義を立てるものである。反対の法が窮まり、奇偶の爻をことごとく顛倒して相配せざるを得ないあの八つの卦にいたっても、その間にもまた暗に反対を含まぬではない。例えば《中孚》上爻の「翰音天に登る」は、反対し来れば正に《小過》初爻の「飛鳥以て凶」であり、《頤》の講じる「口実」は《大過》の兌口より来たり、《大過》の講じる「士夫」「老夫」は《頤》の艮・震より来る。これがまさに《序卦》の次第が更改できぬ所以である。あきない、諸儒の卦変を講じるや、紛々として雑出し、終始して一説に帰することが能わず。
朱子變卦圖,一陰一陽與五陰五陽相重出,二陰二陽與四陰四陽相重出,泰與否相重出,除乾坤之外,其為卦百二十有四,蓋已不勝其煩矣。易之上下往來皆以一爻升降為言,既有重出,則每卦必有二來,從其一則必舍其一,以《彖傳》附會之,有一合必有一不合。就其所謂一來者,尚有兩爻俱動,並其二來,則動者四爻矣。
朱子の卦変図は、一陰一陽と五陰五陽が彼此重出し、二陰二陽と四陰四陽が彼此重出し、《泰》と《否》もまた重出する。乾・坤両卦を除くほか、列せるものはなんと百二十四卦にのぼり、実に煩瑣にして堪えられない。《易》のいう上下往来は、いずれも一爻の昇降について言ったものである。重出がある以上、卦ごとに必ず二つの来歴があり、その一つに依従すれば必ず他の一つを捨てなければならず、《彖伝》に附会すれば、一カ所合えば必ず一カ所合わぬものがある。彼の言うあの一つの来歴について見ても、なお二爻が並び動くことを要する。二つの来歴を合わせて算すれば、動くものは四爻になる。
原諸儒卦變之意,所以明其自復、姤、臨、遯、否、泰、大壯、觀、夬、剝而來者,以其卦惟此一爻之故變為別卦,是以脈絡可尋而定為主變。使一卦之中頭緒紛然,爻爻各操其柄,則彼卦之體已不復存,猶可認其自某所而來乎?
諸儒が卦変を講じる本意を推究すれば、某卦は《復》《姤》《臨》《遯》《否》《泰》《大壮》《観》《夬》《剥》より変わって来たと指し示す所以は、これらの卦はこの一爻を変動するだけで別の卦を成すから、脈絡に跡があって尋ねるべく、故にそれらを主変の卦と定めたのである。もし一卦の中に頭緒が紛然として、爻ごとに各々変動の権を握るならば、その卦の本体はすでに存せず、なおどこから来たかを弁認できようか。
朱子雖為此圖,亦自知其決不可用,所釋十九卦《彖辭》盡舍主變之卦,以兩爻相比者互換為變:訟則自遯(二三相換),泰則自歸妹(三四相換),否則自漸(三四相換),隨則自困(初二相換)、自噬嗑(五上相換)、自未濟(初與二、五與上相換),蠱則自賁(初二相換)、自井(五上相換)、自既濟(初與二、五與上相換),噬嗑則自益(四五相換),賁則自損(二三相換)、自既濟(五上相換),無妄則自訟(初二相換),大畜則自需(五上相換),咸則自旅(五上相換),恆則自豐(初二相換),晉則自觀(四五相換),睽則自離(二三相換)、自中孚(四五相換)、自家人(二與三、四與五相換),蹇則自小過(四五相換),解則自升、升則自解(皆三四相換),鼎則自巽(四五相換),漸則自渙(二三相換)、自旅(四五相換),渙則自漸(二三相換)。凡十九卦,而主變者二十有七,或來自一卦,或來自兩卦三卦,多寡不倫,絶無義例。
朱子はこの図を作ったが、自らも決して用いるべからざるを知り、あの十九卦の《彖辞》を解するに当たり、ことごとく図中の主変の卦を撤き去り、隣接する二爻の互換を改めて用いて変を講じた。《訟》は《遯》より来る(二・三互換)、《泰》は《帰妹》より来る(三・四互換)、《否》は《漸》より来る(三・四互換)、《随》は《困》より来る(初・二互換)、《噬嗑》より来る(五・上互換)、《未済》より来る(初と二・五と上互換)、《蠱》は《賁》より来る(初・二互換)、《井》より来る(五・上互換)、《既済》より来る(初と二・五と上互換)、《噬嗑》は《益》より来る(四・五互換)、《賁》は《損》より来る(二・三互換)、《既済》より来る(五・上互換)、《无妄》は《訟》より来る(初・二互換)、《大畜》は《需》より来る(五・上互換)、《咸》は《旅》より来る(五・上互換)、《恒》は《豊》より来る(初・二互換)、《晋》は《観》より来る(四・五互換)、《睽》は《離》より来る(二・三互換)、《中孚》より来る(四・五互換)、《家人》より来る(二と三・四と五互換)、《蹇》は《小過》より来る(四・五互換)、《解》は《升》より来り《升》は《解》より来る(いずれも三・四互換)、《鼎》は《巽》より来る(四・五互換)、《漸》は《渙》より来る(二・三互換)、《旅》より来る(四・五互換)、《渙》は《漸》より来る(二・三互換)。釈せるものは合わせて十九卦にして、主変に充つるものはかえって二十七卦あり、あるいは一卦より来り、あるいは両卦三卦より来り、多寡は参差不齊、まったく義例に循うべきものなし。すなわち、彼が図上に定めたあれらの主変の卦は、経を解くに至ってはなんと一条も用いられなかったのである。
就以其法推之,此十九卦中朱子之所舉者亦有未盡:訟之自無妄(初二相換)、自巽(三四相換),隨之自既濟(三四相換),蠱之自未濟(三四相換),噬嗑之自未濟(初二相換)、自賁(三四相換)、自隨(五上相換),賁之自蠱(初二相換)、自噬嗑(三四相換),無妄之自家人(三四相換),大畜之自睽(三四相換),咸之自困(二三相換),恆之自井(四五相換),晉之自艮(三四相換)、自萃(五上相換),睽之自大畜(三四相換)、自兌(五上相換),蹇之自坎(二三相換)、自萃(三四相換)、自艮(五上相換),解之自震(初二相換)、自小過(二三相換)、自坎(四五相換),升之自明夷(初二相換),鼎之自離(初二相換)、自大過(五上相換),漸之自否(三四相換),渙之自益(初二相換)、自未濟(四五相換)。復得二十九卦,而兼之者不與焉。
彼のこの套の弁法に照らして下へ推せば、この十九卦の中に朱子の挙げたものはなお甚だ不完備である。《訟》はさらに《无妄》より来り得(初・二互換)、《巽》より来り得(三・四互換)、《随》はさらに《既済》より来り得(三・四互換)、《蠱》はさらに《未済》より来り得(三・四互換)、《噬嗑》はさらに《未済》より来り得(初・二互換)、《賁》より来り得(三・四互換)、《随》より来り得(五・上互換)、《賁》はさらに《蠱》より来り得(初・二互換)、《噬嗑》より来り得(三・四互換)、《无妄》はさらに《家人》より来り得(三・四互換)、《大畜》はさらに《睽》より来り得(三・四互換)、《咸》はさらに《困》より来り得(二・三互換)、《恒》はさらに《井》より来り得(四・五互換)、《晋》はさらに《艮》より来り得(三・四互換)、《萃》より来り得(五・上互換)、《睽》はさらに《大畜》より来り得(三・四互換)、《兌》より来り得(五・上互換)、《蹇》はさらに《坎》より来り得(二・三互換)、《萃》より来り得(三・四互換)、《艮》より来り得(五・上互換)、《解》はさらに《震》より来り得(初・二互換)、《小過》より来り得(二・三互換)、《坎》より来り得(四・五互換)、《升》はさらに《明夷》より来り得(初・二互換)、《鼎》はさらに《離》より来り得(初・二互換)、《大過》より来り得(五・上互換)、《漸》はさらに《否》より来り得(三・四互換)、《渙》はさらに《益》より来り得(初・二互換)、《未済》より来り得(四・五互換)。こうしてさらに二十九卦を増出し、なお兼ねて幾つかの来歴をもつものを算入しない。
此二十九卦者,以為有用乎,則為《彖辭》之所不及;以為無用乎,不應同一卦變,在一卦中,其可以附會《彖辭》者從而取之,其不可以附會《彖辭》者從而置之。朱子云「某之說卻覺得有自然氣象」者安在也?且易所謂往來上下者,自內之外謂往,自外之內謂來,上者上卦也,下者下卦也。今兩爻互換,同在內卦而謂之往,同在外卦而謂之來,同在上卦而曰下,同在下卦而曰上,即欲附會之而有所不能矣。是朱子之卦變兩者俱為無當,宜乎其說之不能歸一也。
この二十九卦は、用があると言えば?《彖辞》はまったく言及していない。用がないと言えば?同じく卦変でありながら、何を以て一卦の中で、《彖辞》に附会できるものは取用し、《彖辞》に附会できぬものは擱置して問わないのか。朱子は自らの講法を「却って自然の気象ありと覚ゆ」と言うが、その自然の気象は一体どこにあるのか。況んや《易》のいう往来上下は、内卦より外卦へ行くを「往」と言い、外卦より内卦へ来るを「来」と言い、「上」は上卦を指し、「下」は下卦を指す。今二爻を互換して、同じく内卦にありながら「往」と言い、同じく外卦にありながら「来」と言い、同じく上卦にありながら「下」と言い、同じく下卦にありながら「上」と言うのは、附会せんと欲しても附会し得ない。これを以て朱子の卦変は、図上に定めた主変の卦にせよ、経を解くに当たり別に立てた二爻互換の法にせよ、両方面とも講じ通せず、彼の説が終始一致に帰せぬも無理はない。
按:邵子言重卦不易者八,反覆者二十八,以三十六變而為六十四,卦變之義數言盡之矣,據此以釋《彖傳》亦足矣。李挺之相生圖已傷煩碎,況朱子之所定乎?棃洲一一指擿,無微不彰。但朱子専取十九卦者,第就《彖傳》所謂剛柔往來上下內外者而求之,其它則未暇及。棃洲續舉諸卦中,唯損、益二卦似不當遺,何也?《彖傳》曰「損剛益柔」,又曰「損下益土,其道上行」,又曰「損上益下,自上下下」,則剛柔上下之義備矣,正可與十九卦並舉,何獨遺之?其它只言剛柔而不言往來上下,則其義即本卦可見,不必求之卦變,固不在此例。
胡渭按語:邵雍は重卦の中に変易すべからざるもの八つあり、反復倒転し得るもの二十八対あり、三十六変を用いて六十四卦を成すと言う——卦変の義理は、数言にして説き尽くされ、これに拠って《彖伝》を解釈すれば足用である。李之才の相生図はすでに煩瑣に失し、況んや朱子の釐定したこの一套をや。黄宗羲(梨洲)が一條々々指摘するや、微に至りて顕れざるなし。ただ朱子が十九卦のみを取ったのは、専ら《彖伝》の講じる剛柔往来上下内外の処に就いて寻求したので、其余は顧みるに及ばなかったのである。梨洲が続けて挙げたあの卦の中で、《損》《益》両卦のみは遺漏すべからざるが如きは、何を以てか。《彖伝》は「剛を損して柔を益す」と言い、また「下を損して上を益す、その道上行す」と言い(原文の「上」は誤って「土」と作る)、また「上を損して下を益し、上より下る」と言い、剛柔上下の義はすでに完備し、まさにあの十九卦と並び挙ぐべきなのに、何を以て単にそれらを漏らすか。其余の卦は剛柔のみ講じて往来上下を講じざれば、その意は本卦上に見るべく、卦変の中に求むるを要せず、もともとこの例の内に在らず。
然朱子欲以卦變附先天之後,當仍用李氏反對圖,猶不失希夷本指;今乃據相生圖以更定其法,煩碎甚於李氏,而及其釋經也,則又舍反對之卦,而泛泛焉以兩爻相比者互換為變,往來上下訖無定法,亦安用此圖為也?
しかるに朱子は卦変を先天諸図の後に附せんと欲する以上、なお旧来の通り李之才の《変卦反対図》を採用すべきで、さすればなお陳抟一系の本旨を失わざるに、今却って《六十四卦相生図》に依拠して別に一套の弁法を定め、李之才よりさらに煩瑣にして、実際に経を解くに至っては、また反対の卦を抛き去り、泛泛として隣接二爻の互換を以て変を講じ、往来上下は終始定法なし——さらばこの図を要して何の用かあらん。
經於六十四卦之首各列二體六畫,即卦變圖也,剛柔往來之義開卷瞭然,何以別圖為?或曰:誠用反對,則每卦必顛倒視之而後可以知《彖傳》之所謂,不亦勞乎?余曰:人之眼光雖至短,兩卦相去尺幅間,豈不能兼矚,而必須顛倒以視之?此言真兒童之見,疑乎其所不足疑。
経文は六十四卦の卦ごとの冒頭に、各々上下両体・六画の卦形を列出す。それ自体が一幅の卦変図で、剛柔往来の義は書を開けば一目瞭然、何ぞ必ずしも別に図を画かん。ある人問うて曰く、果たして反対の法を採用せば、卦ごとに皆倒して看て、然る後に《彖伝》の講じる所を解すべく、あに太だ事を費やさざらん。我答えて曰く、人の眼光は再び短しとも、両卦相隔つるは尺幅の間に過ぎず、あに併せ見る能わずして、必ず書を倒転して看るを要せんや。この種の話は真に児童の見で、もともと疑うに足らぬ事を取りて疑うものである。
右論朱子卦變。
以上の一節は、朱熹《周易本義》の定めた卦変図の煩瑣と疏失を考弁するものである。
易図明辯 巻十 徳清胡渭撰
象数流弊
《本義》圖說曰:「右《易》之圖九。有天地自然之易,有伏羲之易,有文王、周公之易,有孔子之易。自伏羲以上皆無文字,只有圖畫,最宜深玩,可見作《易》本原精微之意。文王以下方有文字,即今之《周易》。然讀者亦宜各就本文消息,不可便以孔子之說為文王之說也。」
南宋の朱熹が《周易本義》巻首の九幅の図の後に作った総説は講じて曰く、以上に列せる《易》図は合わせて九幅。易学は幾つかの層次に分かれる:天地自然に生成する易あり、伏羲が卦を画いた易あり、文王・周公が辞を繫いだ易あり、孔子が伝を作った易あり。伏羲より上は未だ文字なく、図画のみあり、この一層は最も深く玩味すべく、その中より聖人が《易》を創作した本原と精微なる用心を見出すべし。文王以下より文字あり、これがすなわち今伝わる《周易》である。ただ《易》を読む者もまた各々層ごとの本文に就いてその中の消長の義理を体会すべく、径く孔子の説法を以て文王の説法と為すこと能わざる。
震川歸氏《易圖論》曰:「夏為《連山》,商為《歸藏》,周為《周易》,經別之卦,其數皆同。雖三代異名,而伏羲之易,即《連山》而在《連山》,即《歸藏》而在《歸藏》,即《周易》而在《周易》,未嘗別有所謂伏羲之易也。後之求之者,即其散見於《周易》之六十四卦者是已。」又曰:「以圖說《易》自邵子始。吾怪夫儒者不敢以文王之易為伏羲之易,而乃以伏羲之易為邵子之易也。」
明代の震川先生帰有光は《易図論》の中に曰く、夏代の易は《連山》と言い、商代の易は《帰蔵》と言い、周代の易は《周易》と言い、正経と別卦の数は皆相同じ。三代は名称こそ異なれど、伏羲の易はその中に寄寓する——《連山》に就いて言えば《連山》の中に在り、《帰蔵》に就いて言えば《帰蔵》の中に在り、《周易》に就いて言えば《周易》の中に在り、従来別に単独に存在するいわゆる伏羲の易はない。後人が伏羲の易を寻求せんとすれば、《周易》六十四卦の中に散見する処に求めればよいのである。帰有光また曰く、図を以て《易》を解説するは、北宋の邵雍に始まる。我はあの儒者たちが文王の易を以て伏羲の易と為すを敢てせず、却って偏に伏羲の易を以て邵雍の易と為すを怪しむ。
按:《本義》卷首列九圖於前,而總為之說。所謂天地自然之易,《河圖》《洛書》也;伏羲之易,先天八卦及六十四卦次序、方位也;文王之易,後天八卦次序、方位及六十四卦之卦變也(《本義》卦變圖,朱子為釋《彖傳》而作,非康節反對之旨,故屬之後天)。是皆著為圖者。
胡渭按語:《周易本義》は巻首にまず九幅の図を列して、然る後に総べて説明を加えた。朱熹の言う「天地自然の易」は、《河図》と《洛書》を指す。言う所の「伏羲の易」は、先天八卦および六十四卦の次序図・方位図を指す。言う所の「文王の易」は、後天八卦の次序図・方位図および六十四卦の卦変図を指す(《本義》の中の卦変図は、朱熹が《彖伝》を解釈するが為に作ったもので、邵雍のあの両卦が相互に顛倒する「反対」の義ではない。故に後天の一類に帰する)。これらはいずれも図に画かれた部分である。
伏羲有畫而無辭,文王擊彖,周公繫爻,孔子作十翼,皆遞相發揮以盡其義,故曰「聖人之情見乎辭」。辭者,所以明象數之難明者也。而朱子顧以為三聖人之易専言義理,而象數闕焉,是何說與?且易之所謂象數,蓍卦焉而已。卦主象,蓍主數;二體六畫,剛柔雜居者,象也;大衍五十,四營成易者,數也。經文粲然,不待圖而明。若朱子所列九圖,乃希夷、康節、劉牧之象數,非易之所謂象數也,三聖人之言胡為而及此乎?
伏羲は卦画のみあって文辞なく、文王は卦辞を撰作し、周公は爻辞を繫げ、孔子は《十翼》を書き成して、一層々々継ぎて発揮し、易理を講じ尽くした。故に《繋辞伝》は「聖人の情は辞に見る」と言う。文辞はまさに象と数の中の明らかにし難き処を説明するに用いるものである。しかるに朱熹は却って文王・周公・孔子三位の聖人の易は専ら義理を講じ、象数はこれを闕如に付すと認めるとは、これは何の説法か。況んや《易》のいう象と数は、蓍と卦に過ぎぬ。卦は象を主管し、蓍は数を主管す。上下両体・六爻の画に剛爻柔爻交錯排列するは、これがすなわち「象」であり、大衍の数五十にして四つの程序を経て一変を成すは、これがすなわち「数」である。経文は明白白々、図に頼らずとも読み通せる。朱熹の列せる九幅の図に至っては、あれは陳抟・邵雍・劉牧一系の象数で、《易》自体の言う象数ではない。三位の聖人の言はかつてこの上に説き及んだことがあろうか。
伏羲之世,書契未興,故有畫而無辭。延及中古,情偽漸啟,憂患滋多,故文王繫彖以發明伏羲未盡之意,周公又係爻以發明文王未盡之辭,一脈相承,若合符節。至於孔子,紹聞知之統,集群聖之大成,論者以為生民所未有。使伏羲、文王、周公之意而孔子有所不知,何以為孔子?既已知之而別自為說以求異於伏羲、文王、周公,非述而不作之指也。然則伏羲之象得辭而益彰,縱令深玩圖畫而得其精微,亦不外乎文王、周公、孔子所言之理,豈百家眾技之說所得而竄入其中哉?九圖雖妙,聴其為易外別傳,勿以冠經首可也。
伏羲の時代は文字書契が未だ興らず、故に卦画のみあって文辞なし。中古に至り、人情の真偽は漸く滋生し、憂患もまた一天天に増多し、故に文王は卦辞を撰作して伏羲の言い尽くさざる用意を闡発し、周公はまた爻辞を繫げて文王の言い尽くさざる言を闡発し、前後一脈相承けて、符節の相合するが如く厳然として隙なし。孔子に至っては、前聖の聞知する所の統緒を承け、衆聖の大成を集め、論ずる者は生民以来未だ曾て有らざる人物と為す。仮に伏羲・文王・周公の用意を孔子が竟に知らざる所あらば、彼は何を以て孔子と称せん。もしすでに知りて、却って別に一套の説法を立てて伏羲・文王・周公に異を求めんとすれば、則ち彼の「述べて作らず」の宗旨に合わぬ。これを以て見れば、伏羲の卦象は文辞あるが故にいよいよ顕豁となり、たとえ深く図画を玩してその中の精微を領会するも、文王・周公・孔子の講じた道理を超出せず、諸子百家の方術の説はまたどうして羼雑し入ることを得んや。九幅の図はたとえ精妙なるも、それを《易》以外の別伝としておけばよい。これを経文の前頭に冠する勿れ。
右論四聖之易。
以上の一節は、伏羲・文王・周公・孔子四位の聖人の易の伝承関係を弁論するものである。
《宋史·隠逸傳》:陳摶字圖南,亳州真源人。始四五歲,戲渦水岸側,有青衣媼乳之,自是聰悟日益。及長,讀經史百家之言,一見成誦,悉無遺忘,頗以詩名。後唐長興中,舉進士不第,遂不求祿仕,以山水為樂。自言嘗遇孫君仿、麞皮處士二人者,髙尚之人也,語摶曰:「武當山九室巖可以隠居。」摶往棲焉,因服氣辟穀,歴二十餘年,但日飲酒數杯。移居華山雲臺觀,又止少華石室,每寢處多百餘日不起。
《宋史・隠逸伝》に記載す:陳抟は字を図南といい、亳州真源県の人。彼は四五歳の時に渦水の岸辺で戯れて、一人の青衣を着た老婦が彼に乳を飲ませ、これより一天天に聡明頴悟となった。長じて後、経書・史書および諸子百家の著作を読み、一遍見れば即ち誦じ得て、まったく遺忘せず、詩にも頗る名声あり。後唐長興年間、彼は進士の試験に参加して中せず、遂に官禄を謀ることを再びせず、山水を游賞するを以て楽しみと為す。彼自ら言うに、曾て孫君仿・麞皮処士两位の高尚の士に遇い、あの両人は彼に対し、「武当山の九室岩は隠居すべし」と言った。陳抟は即ち往きてその中に栖身し、これより服気の術を修習し、穀食を断絶し、前後二十余年、毎日ただ数杯の酒を飲むのみ。後に華山雲台観に移居し、また少華山の石室に住み、躺臥安寝するごとに往々にして百余日も起身せず。
周世宗好黃白術,有以摶名聞者。顯徳三年,命華州送至闕下,留止禁中月餘,從容問其術。摶對曰:「陛下為四海之主,當以致治為念,奈何留意黃白之事乎?」世宗不之責,命為諫議大夫,固辭不受。既知其無他術,放還所止,詔本州島長吏歲時存問。
後周の世宗柴栄は金銀を焼錬する「黄白術」を好み、ある人が陳抟の名声を彼に報告した。顕徳三年、世宗は華州に命じて陳抟を京城に送らせ、宮中に留住すること一箇月余、从容として彼の方術を詢問した。陳抟は答えて曰く、「陛下は四海の主たり、天下を治理するを以て心に置くべし、何ぞ却って金銀を焼錬するこの類の事に留意せんや」と。世宗は彼を責めず、諫議大夫に任命したが、彼は堅く推辞して受けず。世宗は彼に別の方術なきを弄清楚し、彼を原の住処に放して帰し、併せて詔を下して本州の長官に時節に按じて前に慰问せよと命じた。
太平興國中來朝,太宗待之甚厚。九年復來朝,上益加禮重,謂宰相宋琪等曰:「摶獨善其身,不乾勢利,所謂方外之士也。摶居華山已四十餘年,度其年經百歲。自言經承五代離亂,幸天下太平,故來朝覲。與之語甚可聴。」因遣中使送至中書。
太平興国年間に陳抟は入朝し、宋太宗は彼を待つこと非常に優厚なり。太平興国九年に彼は再び入朝し、太宗はいよいよ礼遇し看重し、宰相の宋琪らに対し曰く、「陳抟はただ独りその身を善くするを求め、権勢利禄を追逐せず、いわゆる方外の士なり。彼の華山に住するやすでに四十余年、年紀を估算すれば百歳を過ぐ。彼自ら言うに、身自ら五代の離乱を経歴し、今天下の太平なるを幸い、故に前に朝見し来ると。彼と談話するは甚だ聴くに値す」と。遂に宮中の使者を遣わして彼を中書省に送らしめた。
琪等從容問曰:「先生得玄黙修養之道,可以教人乎?」對曰:「摶山野之人,於時無用,亦不知神仙黃白之事、吐納養生之理,非有方術可傳。假令白日沖天,亦何益於世?今聖上龍顏秀異,有天人之表,博達古今,深究治亂,真有道仁聖之主也。正君臣協心同徳、興化致治之秋,勤行修煉,無出於此。」琪等稱善,以其語白上,上益重之。下詔賜號希夷先生,仍賜紫衣一襲,留摶闕下數月,放還山。
宋琪らは从容として問うて曰く、「先生は玄黙修養の道法を得たり、人に教え授くべきか」と。陳抟は答えて曰く、「我は山野の人、当世に対し用なく、また神仙焼錬の事および吐納養生の理を解せず、併せて传授すべき方術なし。たとい白日飛升し得るとも、世道に対し何の益かあらん。今聖上は龍顔秀異にして天人の儀表あり、古今に博通し、治乱の理を深究す、真に有道の仁聖の君なり。まさに君臣同心同徳にして教化を振興し、治世を成就すべき時に当たり、勤行修錬を言わば、これより要緊なるはなし」と。宋琪らは彼の言うを善しと称し、この番の話を太宗に報告す。太宗はいよいよ彼を看重した。遂に詔を下して「希夷先生」の号を賜い、また紫衣一領を賜い、陳抟を京城に留めること数箇月にして、才めて彼を山に放ち帰した。
端拱初,忽謂弟子蔣徳升曰:「汝可於張超谷鑿石為室,吾將憩焉。」二年秋七月,石室成。摶手書數百言為表,其略曰:「臣摶大數有終,聖朝難戀,已於今月二十二日化形於蓮華峰下張超谷中。」如期而卒,經七日支體猶溫,有五色雲蔽塞洞口,彌月不散。
端拱初年、陳抟は忽然として弟子の蒋徳升に対し曰く、「汝は張超谷に至りて石を鑿ちて室と為すべし。我はまさにあそこに安息せんとす」と。端拱二年秋七月、石室は鑿成した。陳抟は親ら数百字を写して上表と為し、大意は曰く、「臣陳抟は大限すでに至り、聖朝に眷恋すと雖も久留し難く、すでに本月二十二日に蓮華峰下の張超谷中に化形して去れり」と。彼は果たして期の如く去世し、七日を過ぐとも肢体はなお温く、五色の祥雲ありて洞口を遮り、整整一箇月も散らず。
摶好讀《易》,手不釋卷,常自號扶搖子,著《指玄篇》八十一章,言導養及還丹之事,宰相王溥亦著八十一章以箋其指。摶能逆知人意。齋中有大瓢掛壁上,道士賈休復心欲之,摶已知其意,謂休復曰:「子來非有他,蓋欲吾瓢耳。」呼侍者取以與之,休復大驚,以為神。
陳抟は《易》を読むを好み、手に巻を釈かず、常に自ら「扶揺子」と号し、《指玄篇》八十一章を著し、講ずる所は導引養生および還丹を錬るの事で、宰相の王溥もまた八十一章を写してその意旨を注釈した。陳抟は能く予め人の心の中に想う所を知る。彼の書斎の中に一隻の大葫蘆ありて壁上に挂り、道士の賈休復は心の中にこれを欲し、陳抟はすでに彼の心思を看破し、彼に対し曰く、「汝の来るは別の事なく、過ぎず我のこの隻の葫蘆を欲するのみ」と。便ち侍者を叫んで取り下げて彼に与えしめ、賈休復は大いに驚き、彼を以て神人と為した。
有郭沆者,少居華陰,夜宿雲臺觀,摶中夜呼令趣歸,沆未決,有頃復曰:「可勿歸矣。」明日沆還家,果中夜母暴得心痛幾死,食頃而愈。華陰隠十李琪,自言唐開元中郎官,已數百歲,人罕見者。闗西逸人呂洞賓有劍術,百餘歲而童顏,步履輕疾,頃刻數百里,世以為神仙,皆數來摶齋中,人咸異之。
郭沆と叫ぶ人あり、年少の時に華陰に住し、一夜雲台観に留宿すれば、陳抟は夜半に彼を叫んで速やかに家に帰れと言い、郭沆は猶豫定まらず、しばらくして陳抟また曰く、「帰らざるを必せざる可し」と。翌日郭沆は家に帰り着き、果たして夜半に彼の母は突然心痛してほとんど死せんとし、一頓の飯の工夫を過ぎてまた好くなった。華陰の隠士李琪は、自ら唐代開元年間の郎官と称し、すでに数百歳を活き、人に見られること少なし。関西の逸人呂洞賓は剣術あり、百余歳にして面色童子の如く、走ること軽捷迅疾にして、頃刻の間に数百里を行き得て、世人は皆彼を以て神仙と為す。これらの人は皆屢々陳抟の書斎に来至り、当時の人は奇異を感ぜざるなし。
錢希白《洞微志》曰:上即位初,鄧州觀察使錢太博若水,雍容文雅,亦近世竒士,堅乞罷樞務,遂拜禮部貳卿,充集賢院學士。其日晚,餘往謁賀,諸客退,獨相留後廳同坐,因云:某初應舉欲求解,遂往華陰謁陳先生,通刺後蒙倒屣相迎。臨出執手,約後十日卻相訪。至期徑往,迎入山齋,地爐中已先有一僧擁衲對坐,某揖之,寒暄之禮亦甚簡傲。少年壯氣,頗不平之。良久,僧熟視某而謂陳曰:「無此骨法。」二公皆微笑,雖驚異其言而不敢詢問。更有他客至,乃逡巡先退。
北宋の銭易(字は希白)は《洞微志》の中に記載す:今上が剛く即位した時、鄧州観察使・太子中允の銭若水は気度雍容にして文雅観るべく、また近世の奇士なり。彼は堅く枢密の職を解除せんことを請い、遂に礼部侍郎に改授し、集賢院学士を充任した。その日の傍晚、我は前に往きて賀を道い、別の客人は皆退下した後、彼は単独に我を後厅に留めて一起に坐り、遂に言うて曰く、我は当初挙に応じて解送の資格を求めんと欲し、便ち華陰に至りて陳抟先生を拝謁し、名帖を遞上すれば、彼に倒屣して出迎へるを蒙った。臨去の時彼は我の手を握り、約定して十日以後再び来りて相訪せよと。期に至り我は径く前に往き、山斎に迎え入れられ、ただ地炉の辺にすでに先に一人の僧人ありて衲衣を披りて対坐するを見、我は彼に揖を作して礼を行えば、彼の寒暄の礼数もまた十分に簡慢傲然たり。我はあの時年少気盛にして、心の中に頗る平らならず。好くしばらく過ぎて、あの僧人は仔細に我を端詳し、陳抟に対し曰く、「この副の骨相なし」と。两位は皆微微として一笑し、我はこの話に驚異すと雖も、敢て追問せず。この時また別の客人到來すれば、我は便ち遅疑して先に告退した。
次日,某獨往見陳,且問僧名及言者何事。陳曰:「此即白閣道者也,道行髙潔,學通天人,至於知人尤為有神仙之鑑。欲勸留學道,中心不決,遂請道者質疑。他云:見足下非神仙骨法,學道亦不能成,但卻得好官,能於急流中勇退耳。又云:他本在太白山,累歲方一到此。」某再求見,終不可得。人生萬事,知不可以力取。(張端義《貴耳集》云:僧即麻衣道者。)
翌日、我は独り陳抟に見え、併せてあの僧人の名字および彼のあの話を言うは何の意かを問うた。陳抟は曰く、「あれはすなわち白閣道者、道行は高潔にして、学問は天人を貫通し、識鑑人物に至っては、尤も神仙の如き眼力あり。我本より汝を勧めて留めて道を学ばんと欲したが、心の中に主意を拿えず、便ち道者を請うて我に疑を解かしめた。彼曰く、足下を看るに併せて神仙の骨相なく、道を学ぶも成就する能わず、ただ好き官を做すことを得るのみ、併せて能く急流の中に勇退し得べしと。彼また曰く、自ら本来太白山に住し、数年好くして才来りて此処に一度来ると」。銭若水は再びあの僧人に見えんことを求めたが、終に見うること能わず。人生の万事、これを以て気力を憑みて強く求めて得るにあらざるを知るべし。(南宋の張端義《貴耳集》は曰く、あの僧人はすなわち麻衣道者なり。)
按:希夷,老氏之徒也。著《指玄篇》,言導養還丹之事,則其能養生也可知矣。觀賈、郭二事及預決亡日,則其能知來也可知矣。養生,魏伯陽之學也;知來,管輅、郭璞之術也。至所與遊者多異人,化形之後有異徵,則其為神仙者流又可知矣。先天圖於造化陰陽之妙,不無所窺見,要之為道家之易,而非聖人之易,其可以亂吾經邪?
胡渭按語:陳抟は道家の老子一派の人物である。彼が《指玄篇》を著して、導引養生および還丹を錬るの事を講ずるを見れば、彼が養生に擅長なるを知るべし。彼の賈休復・郭沆両件を看破し、および予め自らの去世の日を算定するを見れば、彼が未来を預知し得るを知るべし。養生は、東漢の魏伯陽《周易参同契》一路の学問である。未来を預知するは、三国の管輅・晋代の郭璞あの一路の術数である。彼と交往するは多く異人にして、死後にまた異常の兆ありとすれば、則ち彼の神仙一流に属するもまた想い知るべし。先天図は造化陰陽の奥妙に対し、まったく窺見なしとは言えざれど、帰根到柢すればあれは道家の易で、聖人の易にあらず、どうしてこれを以て我らの経書を攪乱せんことを得んや。
朱子《答蔡季通書》曰:陰君丹訣,見濓溪有詩及之,當是此書(《雲笈七籖》載《陰真君傳》,言陰長生者,新野人也,師事馬明生,受太清金液神丹,白日昇天,臨去著書九篇。又陰真君自序曰:惟漢延光元年,新野山之子受仙君神丹要訣,道成去世,副之名山。蓋即此所謂陰君丹訣也。濂溪學本希夷,留心丹道,此亦其一證)。
朱熹が蔡元定(字は季通)に回復する信の中に曰く、いわゆる「陰君丹訣」は、我は周敦頤にそれを提到する詩あるを見、まさにこの部の書なるべし。(胡渭注:《雲笈七籤》に《陰真君伝》を載せ、陰長生は新野の人にして、馬明生を師と拝し、太清金液神丹の法を授けられ、白日に飛升し、臨去の時に書を著して九篇と言う。また陰真君の自序は曰く、漢代の延光元年に新野山の子は仙君の神丹要訣を領受し、道成りて去世し、別に一本を抄して名山に蔵すと。これは大概此処の言う「陰君丹訣」ならん。周敦頤の学は本より陳抟より出で、丹道に留心するも、これもまた一条の証拠である。)
彼之行此而壽考,乃吃豬肉而飽者。吾人所知,蓋不止此,乃不免於衰病,豈坐談龍肉而實未得嘗之比邪?《魏書》一哥已刻就,前日寄來此,必寄去矣。校得頗精,字義音韻皆頗有據依,逺勝世俗傳本,只欠教外別傳一句耳。
あの人々がこの如く修錬して高寿を得たるは、真に豚肉を喫りて飽き足りた人である。我らの懂得する道理はもともとこれに止まらず、なお衰老多病を免れざるは、これあに正に坐して空しく龍肉を談じて実際には一口も嘗めたことなき人に似ずや。魏伯陽のあの部の書(すなわち《周易参同契》)は、一哥はすでに刻成し、先日我が処に寄到せり、想你にもまたすでに寄り到せり。校勘は相当に精審にして、字義音韻は皆大いに依拠あり、世間に通行する本子に遥かに勝り、ただ教外別伝のあの一句を欠缺するのみ。
《書周易參同契考異後》曰:魏君,後漢人。篇題蓋仿緯書之目,詞韻皆古,與雅難通,讀者淺聞,妄輒更改,故比他書尤多舛誤。今合諸本更相讎正,其間尚多疑晦,未能盡祛,姑據所知寫成定本,其諸同異因悉存之,以備參訂雲。空同道士鄒欣。
朱熹《書周易参同契考異後》は曰く、魏伯陽は後漢の人。この部の書の篇題は大概緯書の名目を模倣し、文詞声韻は皆甚だ古奥にして、雅正の文体と貫通し難く、読者は見聞浅陋にして、往々にして擅自更改するを以て、別の書より錯訛は尤も多し。今各種の本子を合せて互相に校勘訂正し、その中になお少なからず疑難晦澀の処ありて、未だ全部祛除する能わざれば、姑く自ら知る所に依拠して定本を写し、各本の異同は則ち一併に保存して、参考訂正に備ふ。文末の落款は「空同道士鄒欣」と題す。
(雙湖胡氏曰:鄒欣即公姓名。向解者以為「鄒」者「朱」之轉,「欣」者「熹」之轉耳。後據《考異》本原有注云:按鄒本春秋邾子之國,《樂記》云「天地欣合」,鄭氏注「欣」當作「熹」,則「鄒欣」二字即「朱熹」二字,他人不解也。)
(胡渭注:元代の双湖先生胡一桂は曰く、「鄒欣」はすなわち朱熹本人の姓名である。昔これを解する者は「鄒」は「朱」の音転、「欣」は「熹」の音転と以為す。後に《参同契考異》の本子のもとある注文に拠れば曰く、鄒はもともと春秋時の邾子の国の国名で、《礼記・楽記》に「天地欣合」の一語あり、鄭玄の注は「欣」はまさに「熹」と作るべしと言い、さらば「鄒欣」の二字はすなわち「朱熹」の二字で、ただ別人は看懂せざるのみ。)
《題袁機仲所校參同契後》曰:予頃年經行順昌,憩篔簹鋪,見有題「煌煌靈芝,一年三秀,予獨何為,有志不就」之語於壁間者,三復其詞而悲之,不知題者何人,適興予意會也。慶元丁巳八月七日(時朱子年六十八),再過其處,舊題固不復見,而屈指歲月,忽忽餘四十年,此志真不就矣。道間偶讀此書,並感前事,戲題絶句:「鼎鼎百年能幾時,靈芝三秀欲何為。金丹歲晚無消息,重嘆篔簹壁上詩。」晦翁。
朱熹《題袁機仲所校参同契後》は曰く、我は往年順昌を路過し、篔筜鋪に歇脚して、墻壁上に「煌煌たる霊芝は、一年に三秀す、予独り何を為さん、志有りて就らず」の幾句の題するを見、反復して三度吟誦して之が為に感傷し、題写するは何人なるかを知らず、恰好我と心意相合せり。慶元丁巳年八月初七(その時朱熹は六十八歳)、我は再びあそこを経過すれば、旧日の題字は自然にすでに看るべからず、屈指して算えば、忽忽としてすでに四十余年を過ぎ、この志向は真に実現せざりき。途中偶然《参同契》のこの部の書を読み、また往事を感慨して、戯れに一首の絶句を題す:匆匆たる百年は能く幾久あらん、霊芝は一年に三秀してまた何を為さんと要す、金丹の事は晚年に至るもなお消息なく、ただ能く再び篔筜鋪壁上のあの詩を為に嘆息するのみ。署名は晦翁。
《調息箴》曰:鼻端有白,我其觀之。隨時隨處,容與猗移。靜極而噓,如春沼魚;動極而翕,如百蟲蟄。氤氳開闢,其妙無窮,孰其尸之,不宰之功。雲臥天行,非予敢議,守一處和,千二百歲。
朱熹《調息箴》は曰く、鼻尖の上に一点の白あり、我は即ち神を凝らしてそれを観照す。時に随い処に随い、从容自在にして舒緩に運転す。静の極処に至りて呼気すれば、春天池沼の中の魚の吐息するが如く、動の極処に至りて吸気すれば、百虫の蟄伏する時の収斂するが如し。一氤一氲、一閉一開、その中の妙用は無窮、是れ誰か之を主宰する。あれは正に主宰する所なき自然の功なり。雲の如く高卧し天の如く運行する境界は、我が敢て妄りに議論せざる所、ただこの「一」を守りて中和に安処すれば、能く寿一千二百歳を享くべし。
《答王子耕書》曰:病中不宜思慮,凡百可且一切放下,専以存心養氣為務,但跏趺靜坐,目視鼻端,注心臍腹之下,久自溫暖,即漸見功效矣。
朱熹《答王子耕書》は曰く、生病の期間は多く思慮するに適せず、一切の事情は皆暫く放下すべく、専ら心神を存養し元気を涵養するを以て要務と為せ。ただ跏趺を結んで静坐し、両眼は鼻尖を注視し、心念を臍腹以下に凝注せば、時間一久しければあそこは自然に温暖し起りて、即ち漸々に効功を見るに至る。
按:養生、知來,皆希夷之能事,而朱子獨有取於養生者,蓋衰年病侵,欲藉是以卻之,使徳業更有所進耳。觀鼻端之白,嘆壁上之詩,疑龍鮓之難嘗,羨豬肉之易飽,所謂寓意於物而不留意於物也。故金丹之訣,不惟知之,而身欲試之。撰《參同契考異》,託名空同道士鄒欣;而序《啟蒙》則曰云臺真逸,跋《道徳經》則曰云臺子;及其奉祠雲臺也,又寄陸子靜書云:「熹衰病,幸叨祠祿,遂為希夷直下諸孫,良以自慶。」其嚮慕之誠如此,此《太極真圖》所以期於必得也。坎離龍虎,未必非易中之一義,但不可謂易専為是而作耳。
胡渭按語:養生と未来を預知するは、皆陳抟の看家の本領にして、朱熹は単にその中の養生の一項を取用す、大概は年老多病なるが為、これを借りて病を駆き去りて、徳業をしてなお長進有らしめんと欲するのみ。彼の鼻端の白を凝視し壁上の詩を嘆息し、「龍肉」は嘗め難しと懐疑し「豚肉」は飽き易しと羨慕するを看れば、これがすなわちいわゆる「物に意を寓して物に意を留めず」である。故に金丹の口訣に対しては、彼はただ知るのみならず、なお親身に一試せんと欲す。彼が《周易参同契考異》を撰すに、名を托して「空同道士鄒欣」と為し、《易学啓蒙》の序を作れば則ち自ら「雲台真逸」と署し、《道徳経》の為に跋を作れば則ち自ら「雲台子」と署し、彼が雲台観の祠禄を主管するに及ぶに至っては、また陸九淵に信を寄せて曰く、「我は衰老多病にして、幸いに忝くも祠禄を領し、遂に希夷先生の嫡系の子孫と為り、実に自慶に値す」と。彼が陳抟を傾慕する誠意はこの地步に至る、これがすなわち彼の《太極真図》に対し必ず手に入れんと要する所以である。坎離龍虎あの一套は、必ずしも《易》の中の一層の義理と算せざるにあらず、ただ《易》は専らこの為に作られたと言う能わざるのみ。
右論陳希夷。
以上の一節は、陳抟その人その学と《易》図との関係を弁論するものである。
《宋史·道學傳》:邵雍字堯夫,其先范陽人,父古徙衡漳,又徙共城。雍年二十遊河南,葬其親伊水上,遂為河南人。雍少時自雄其才,慷慨欲樹功名,於書無所不讀。始為學,即堅苦刻厲,寒不爐,暑不扇,夜不就席者數年。已而嘆曰:「昔人尚友于古,而吾獨未及四方。」於是踰河、汾,涉淮、漢,周流齊、魯、宋、鄭之墟。久之,幡然來歸曰:「道在是矣。」遂不復出。
《宋史・道学伝》に記載す:邵雍は字を堯夫といい、祖先は范陽の人、父の邵古は衡漳に遷り、後にまた共城に遷った。邵雍は二十歳の時に河南を游歴し、父母を伊水の上に安葬し、遂に河南の人となった。邵雍は年少の時に自ら其の才に負い、慷慨激昂して功名を建立せんと欲し、書を読むに渉猟せざるなし。彼の学を始るや、即ち艱苦刻厲にして、冷たき天に炉火を生せず、熱き天に扇子を用いず、夜に上床して睡らず、此の如くにして数年を過ごした。後に彼は嘆息して曰く、「古人はなお上に古人を友とし、我は而も四方を走り歩いたことすらなし」と。遂に黄河・汾水を渡り、淮河・漢水を跋涉し、斉・魯・宋・鄭の故地を遍く游歴した。久しく過ぎて、彼は幡然として醒悟して帰り来りて曰く、「道は即ち此処に在り」と。これより再び外出せず。
北海李之才攝共城令,聞雍好學,嘗造其廬,謂曰:「子亦聞物理性命之學乎?」雍對曰:「幸受教。」乃事之才,受《河圖》《洛書》、宓羲八卦六十四卦圖象。之才之傳,逺有端緒,而雍探賾索隠,妙悟神契,洞徹蘊奧,汪洋浩博,德其所自得者。及其學益老,徳益劭,玩心髙明,以觀天地之運化、陰陽之消長,逺而古今世變,微而走飛草木之性情,深造曲暢,庶幾所謂不惑,而非依仿象類、億則屢中者。遂衍宓羲先天之旨,著書十餘萬言行於世,然世之知其道者鮮矣。
北海の人李之才は共城県令を代理し、邵雍の学を好むを聞き、曾て門に登りて造訪し、彼に対し曰く、「汝は物理性命の学問を研究することを聞いたことあるか」と。邵雍は答えて曰く、「領教せんことを願う」と。遂に李之才を師と拝し、《河図》《洛書》および伏羲八卦・六十四卦の図象を接受した。李之才のこの一系の伝授は、源流久遠にして頭緒の尋ねるべきあり、邵雍は幽深を探究し隠微を索求し、妙悟神会して、その中の蘊奥を徹底に看透し、学問は汪洋浩博にして、多くは彼自ら体悟して得たる所なり。彼の学問の愈々老練し徳行の愈々美盛なるに及び、高明の境に用心して、以て天地の運化・陰陽の消長を観察し、遠くは古今世事の変遷、細は飛禽走獣草木の性情に至るまで、皆钻研すること深透にして曲尽し、差不多ばいわゆる「不惑」ならんと、而もあの依様に物類を比附し猜测を憑みて屢々言中する路数にあらず。遂に彼は伏羲先天の学の宗旨を推衍し、書を著すこと十余万字にして世に流行す、然るに世の中に彼の学問を懂得する者は少なし。
熙寧十年卒,年六十七,贈秘書省著作郎,元佑中賜諡康節。雍髙明英邁,迥出千古,而坦夷渾厚,不見圭印,是以清而不激,和而不流,人與交久,益尊信之。河南程顥初侍其父識雍,議論終日,退而嘆曰:「堯夫,內聖外王之學也。」
邵雍は熙寧十年に去世し、享年六十七歳、朝廷は追贈して秘書省著作郎と為し、元祐年間に諡号「康節」を賜う。邵雍は高明英邁にして、遥かに千古の上を超出す、然るに人と為るは平易渾厚にして、鋒芒棱角を露さず、故に清高にして偏激せず、随和にして同流合汚せず、人々は彼と交往すること愈々久しければ、愈々尊敬信服す。河南の人程顥は当初父亲の程珦に陪侍して邵雍を結識しに往き、両人は議論すること一整天にして、程顥は退下して後に嘆息して曰く、「堯夫の学問は、是れ内聖外王の学なり」と。
雍知慮絶人,遇事能前知。程頤嘗曰:「其心虛明,自能知之。」當時學者因雍超詣之識,務髙雍所為,至謂雍有玩世之意;又因雍之前知,謂雍於凡物聲氣之所感觸,輒以其動而推其變焉,於是摭世事之已然者,皆以雍言先之,雍蓋未必然也。
邵雍の見識思慮は常人を超越し、事に遇い能く予め知る。程頤は曾て曰く、「彼は心地虚明にして、自然に即ち知る能し」と。当時の学者は邵雍の見識超絶なるが為に、一味に彼の所作所為を高き処に往きて推許し、甚だしきは彼に玩世の意ありと言い、また彼が能く預知するが為に、彼はおよそ万物の声音気息に接触到れば、即ち其の動向に拠りて其の変化を推断すと言い、遂に世上のすでに発生した事を拈出して、皆邵雍が事先に講じたと说成す。其実邵雍は必ずしも真に此の如しにあらず。
所著書曰《皇極經世》《觀物內外篇》《漁樵問對》,詩曰《伊川擊壤集》。邵子《無名公傳》曰:朝廷授之官,雖不強免,亦不強起。晚有二子,教之以仁義,授之以六經。舉世尚虛談,未嘗掛一言;舉世尚竒事,未嘗立異行。故其詩曰:「不佞禪伯,不諛方士,不出戶庭,直遊天地。」家素業儒,口未嘗不道儒言,身未嘗不行儒行。故其詩曰:「心無妄思,足無妄走,人無妄交,物無妄受。炎炎論之,甘處其陋;綽綽言之,無出其右。」羲、軒之書未嘗去手,堯、舜之談未嘗離口。當中和天,同樂易友,吟自在詩,飲歡喜酒。百年昇平,不為不偶;七十康強,不為不壽。此其無名公之行乎。
邵雍の著する所の書は《皇極経世》《観物内外篇》《漁樵問対》あり、詩集は《伊川撃壤集》と叫ぶ。邵雍の自撰する《無名公伝》は曰く、朝廷は彼に官職を授け、彼は既に硬く推辞するを要せず、また強いて出仕せず。晚年に两箇の児子あり、仁義を以て彼らを教導し、六経を以て彼らに伝授す。挙世は空虚玄談を崇尚すれど、彼は曾て一句も言わず、挙世は奇特の事を崇尚すれど、彼は曾て一件の異行も做さず。故に彼の詩は曰く、禅門宗匠に諂媚せず、方術の士に阿諛せず、足は戸庭を出ず、而も径く天地を遨游すと。彼の家は世々儒を業とし、口は曾て儒者の話を言わざるなく、身は曾て儒者の事を行わざるなし。故に彼の詩は曰く、心の中に虚妄の念頭を起さず、脚下に虚妄の路を走らず、人を待るに虚妄の結交を作らず、物を接するに虚妄の饋贈を受けず、別人が気勢炎炎として高談闊論する時、彼は甘んじて簡陋の中に安処し、而も从容寛舒として道理を講じ起れば、また彼に圧倒し得る人なしと。伏羲・軒轅の書は曾て手を離れず、堯・舜の話題は曾て口を離れず。中和の世に身を処し、和楽平易の朋友と交わり、自在の詩を吟じ、歓喜の酒を飲む。百年の間天下升平にして、好き機遇にあらずと言う能わず、七十歳にしてなお康健強壮にして、長寿と算せざると言う能わず。これは大概あの「無名公」の行事ならん。
明道先生志康節之墓曰:昔七十子學於仲尼,其傳可見者,惟曽子告子思,所以授孟子者耳。其餘門人,各以其材之所宜為學,雖同尊聖人,所因而入者,門戸則眾矣。況後此千餘歲,師道不立,學者莫知其從來,獨先生之學為有傳也。先生得之於李挺之,挺之得於穆伯長,推其源流,逺有端緒,今穆、李之言及其行事,概可見矣。而先生醇一不雜,汪洋浩大,乃其所自得者多矣。然而名其學者,豈所謂門戶之眾各有所因而入者歟?語成徳者,昔難其居,若先生之道,就其至而論之,可謂安且成矣。
程顥が邵雍の為に作る墓誌銘は曰く、昔孔子の門下の七十弟子は、伝承の線索は考見し得る所、ただ曾子が子思に伝え、子思が再び孟子に伝えたこの一支のみ。其余の弟子は各々自ら才性の適宜なる方面に就いて学を為し、同じく聖人を尊奉すと雖も、而も以て入門する路径は是れ众多なり。況んや此の後一千余年、師道立たず、学者は自らの学問の何処より来るかすら言い清すこと能わず、独り邵先生の学のみ是れ伝授有りと。先生はこれを李之才(字は挺之)より得、李之才はこれを穆修(字は伯長)より得たり。其の源流を推究すれば、久遠にして端緒の尋ねるべきあり、今穆修・李之才の言論および行事は、大略はなお看るべし。而も先生は純一にして雑らず、汪洋浩大にして、あれは多分は彼自ら体悟して得たる所なり。此の如くにして言えば、彼の学問に名目を定めんに、あに即ちいわゆる入門の路径众多にして各々因る所有りて入るの一种にあらずや。徳行有りて成る人に談ずれば、昔は甚だ此の称許に当たること難し、而も先生の道の如きは、其の造詣の極処に就いて評論すれば、既に安穏にして且つ成就ありと言うべし。
《程氏遺書》曰:堯夫之學,先從理上推意,言象數言天下之理,須出於四者,推到理處,曰:「我得此大者,則萬事由我,無有不定。」然未必有術,要之亦難以治天下國家。其為人則直是無禮不恭,惟是侮玩,雖天地亦為之侮玩。如《無名公傳》言「問諸天地,天地不對」「弄丸餘暇,時往時來」之類。
《程氏遺書》は曰く、邵雍の学問は、先ず「理」の上に推求して意旨を求め、象数を講じ天下の理を講ずるに、皆元・会・運・世あの四者より推出することを要す。理の処に推究して至りて、彼曰く、「我はこの最大の根本を掌握せば、則ち万事は皆我より作主を為し、安定せざる能わざるなし」と。然るに彼は必ずしも真に可行の弁法有らず、総じて言えばまたこれを以て天下国家を治理するに拿げ難し。其の人と為るは則ち简直に無礼にして恭敬せず、ただ一味に戯侮玩弄するのみ、天地すらも彼に拿げられて戯侮玩弄せらる。《無名公伝》の中の言う「天地に諸を問えば、天地対えず」「弄丸の余暇に、時に往き時に来る」の此の類の話の如し。
君實篤厚,晦叔謹嚴,堯夫放曠。又曰:堯夫道雖偏駁,然卷舒作用極熟,又能謹細行。又曰:堯夫襟懷放曠,如空中樓閣,四通八達也。伯淳言邵堯夫病革,且言試與觀化一遭。子厚言觀化他人便觀得,自家又如何觀得化?嘗觀堯夫詩意,才做得識道理,卻於儒術未見所得。
程氏また曰く、司馬光(字は君実)は篤実厚重にして、呂希哲(字は晦叔)は謹慎厳正にして、邵雍(字は堯夫)は疏放曠達なり。また曰く、邵雍の道は駁雑不純と雖も、而も収放運用は極めて純熟にして、また能く細行を謹守す。また曰く、邵雍の胸襟は疏放曠達にして、空中の楼閣の如く、四通八達す。程顥(字は伯淳)は邵雍の病危なるを説きて、なお妨げず試みに造化の変化を観察せんと言う。張載(字は子厚)は曰く、造化を観察するは、別人を観察するを以て可なり、自らの死はまたどうして観察し得んや。我は曾て邵雍の詩の中の意を看れば、才めて道理を些か識得するを做したに過ぎず、儒者の学に至っては則ち彼に何等の心得あるを看出さずと。
世人之學,博聞強識者豈少?其終無有不入禪學者,就其間特立不惑,無如子厚、堯夫,然其說之流,恐未免此弊。邵堯夫數法出於李挺之,至堯夫推數方及理。邵堯夫臨終時只是諧謔,須臾而去。以聖人觀之則亦未是,蓋猶有意也;比之常人,甚懸絶矣。他疾甚革,某往視之,因警之曰:「堯夫平生所學,今日無事否?」他氣微不能答。次日見之,卻有聲如絲髮來大,答云:「你道生薑樹上生,我亦只得依你說。」
世人が学を為すに、博聞強記の人はあに少なからんや。然るに最終には禅学に滑入せざるなし。此の中間に特立独行して惑われざる者は、張載と邵雍に比すべきなし、然るに彼らの学説は流伝して下れば、恐らく此の毛病を免れず。邵雍の数学の法は李之才より出で、邵雍に至りて才めて数を推すより進みて理に講じ至る。邵雍は臨終の時にただ一味に説笑するのみ、转眼の間に即ち去世した。聖人の標準を以て看れば、此れはなお到家と算せず、是れなお有意に為すの成分を帯びるを以てなり。ただ常人に比すれば、あれは遥かに超出せり。彼の病勢は危重なる時、我(程頤)は前に往きて探視し、即ち彼に提醒して曰く、「堯夫平生の学ぶ所は、今天に把握有りて事なきか」と。彼は気息微弱にして答え得上がらず。翌日再び彼を看れば、才めて一丝細かきこと髪丝の如き声音有りて回答して曰く、「汝は生姜が樹上に長ずと言う、我もまた只好く汝の説法に依るのみ」と。
尹子曰:邵堯夫家以墓誌屬明道,太中、伊川不欲。因步月於庭,明道曰:「顥已得堯夫墓誌矣,堯夫之學可謂安且成。」太中乃許。
程門の弟子尹焞は曰く、邵雍の家は墓誌を撰写する事を程顥に托付し、程顥の父亲程珦(官は太中大夫に至る)と弟弟程頤は皆贊成せず。一度庭中の月下に散步して、程顥は曰く、「我はすでに堯夫の墓誌はどう写すべきかを想好せり——堯夫の学は既に安穏にして且つ成就ありと言うべし」と。程珦はこれに才めて応允した。
《上蔡語録》曰:堯夫易數甚精,自來推長厯者,至久必差,惟堯夫不然,指一二近事,當面可驗。明道云:「待要傳與某兄弟。」某兄弟那得功夫?要學須是二十年功夫。明道聞說甚熟,一日因監試無事,以其說推算之,皆合。出謂堯夫曰:「堯夫之數,只是加一倍法,以此知《太玄》都不濟事。」堯夫驚,撫其背曰:「大哥,你恁聰明。」伊川謂:「堯夫知易數為知天,知易理為知人。」堯夫云:「還須知易理為知天。」因說今年雷起甚處,伊川云:「堯夫怎知?某便知。」又問某處起,伊川云:「起處起。」堯夫愕然。他日伊川問明道曰:「加倍之數何如?」曰:「都忘之矣。」因嘆其心無偏繫如此。
程門の弟子謝良佐の《上蔡語録》は曰く、邵雍の易数は極めて精妙にして、歴来長暦を推算する者は、時間一久しければ必ず誤差を出現す、独り邵雍のみ会せず、随に手を指して一两件の近期の事を出せば、当面に即ち検証し得。程顥は曰く、「彼は此の套の本事を我ら兄弟に伝えんと欲す」と。我ら兄弟はあの工夫あらんや。学ばば非ずんば二十年の功夫を下せざる可し。程顥は彼の説法を聴くこと甚だ熟く、ある日監考の為に事なきに因り、即ち彼の説法を用いて推算すれば、結果は皆合せり。出でて邵雍に対して曰く、「堯夫の数は、過ぎず一倍を加るの方法なり、これを以て揚雄《太玄》は全く事を済さざるを知るべし」と。邵雍は喫驚して、彼の背を拍して曰く、「大哥、汝は此の如く聡明なり」と。程頤は曰く、「堯夫は易数を懂得すれば即ち天を知り、易理を懂得すれば即ち人を知ると認めり」と。邵雍は曰く、「なお易理を懂得すれば才めて天を知ると算すと言うを要す」と。一度今年の雷の打つは何の処より起るかに説き及べば、程頤は曰く、「堯夫はどうして知らんや。我は即ち知る」と。邵雍はまた何処より起るかを問えば、程頤は曰く、「起る処より起る」と。邵雍は愕然として語なし。後のある日程頤は程顥に問うて曰く、「あの一倍を加るの数は究竟如何なるか」と。程顥は曰く、「全く忘れり」と。程頤はこれに因りて彼の心の中に偏執系恋せざること此の地步に至るを讃嘆した。
《朱子語類》:問:「康節學到不惑處否?」曰:「康節又別是一般。聖人知天命以理,它只是以術,然到得術之精處,亦非術之所能盡,然其初只術耳。」又曰:「想它看見天下之事,才上手來便成四截了,其先後緩急莫不有定,動中機會,事到面前便處置得下矣。只是用時須差異,須有些機權術數也。」老子窺見天下之事,卻討便宜,置身於安閒之地,雲清靜自治,邵康節亦有些小似他。問:「《淵源録》中何故有康節傳?」曰:「書坊自増耳。」(見《孟子》「楊子取為我」章下。)
《朱子語類》に記載す:ある人問うて曰く、「邵雍の学問は不惑の地步に至ったか否や」と。朱熹は曰く、「邵雍はまた別外の一路なり。聖人は理を憑みて天命を知る、彼はただ術を憑むのみ。ただ術精微の処に至れば、また術の能く窮尽する所にあらず、然るに彼の最初に憑みたるはただ術のみなり」と。朱熹また曰く、「想うに彼は天下の事を看るに、一到手にすれば即ち四截に分作し、先後緩急は悉く定准有りて、行動は機会に切中し、事情は眼前に到れば即ち処置停当し得。ただ運用し起れば須らく与众不同を顯し、総じて些か機変権謀・術数の成分を帯びたり」と。老子は天下の事を看透しながら、却って専ら便宜を揀び、自らを安閑の地に安置し、何ぞ清静自治を言うや、邵雍もまた彼に些か似たり。ある人問うて曰く、「《伊洛淵源録》の中に何を以て邵雍の伝有るか」と。朱熹は曰く、「あれは書坊が自ら添え入れたるなり」と。(此の条は《孟子》「楊子取為我」の章の下に見ゆ。)
《答汪尚書書》曰:程、邵之學固不同,然二先生所以推尊康節者至矣。蓋以其信道不惑,不雜異端,班於溫公、橫渠之間,則亦未可以其道不同而遽貶之也。和靖之言,恐如孟子言伯夷、伊尹之於孔子為不同道之比,妄意其然,不識臺意以為然否?抑康節之學,抉摘窈微,與佛老之言豈無一二相似,而卓然自信,無所汙染,此其所見必有端的處,比之溫公欲護名教而不言者,又有間矣。
朱熹《答汪尚書書》は曰く、程氏兄弟と邵雍の学問は固然として相同じからず、然るに二程は邵雍を推尊することすでに極点に至れり。大概彼の道を信ずる堅定不惑にして、異端を夾雑せざるが為、司馬光と張載の間に排すべく、則ち路数不同なるが為に便ち一下子に彼を貶低する能わざるなり。尹焞(号は和靖)の説法は、恐らく孟子の伯夷・伊尹と孔子の「道を同じくせず」と言うが如き意思ならん、我は姑く此の如く揣测す、閣下は然りと為すか否やを知らず。再び邵雍の学に言えば、幽深微妙の処を剔髪して、仏老の説法とあに一两分相似なからんや、而も彼は卓然として自信し、沾染を受けず、此れ彼の見る所は必ず実在着落の処有るを説明し、司馬光のあの名教を維護するが為に干脆と談ぜざる態度に比すれば、また高く一層に出でたり。
厚齋王氏曰:張文饒云:「處心不可著(直略切,下同),著則偏;作事不可盡,盡則窮。」先天之學止是此二語,天之道也。愚謂邵子詩「夏去休言暑,冬來始講寒」,則心不著矣;「美酒飲教微醉後,好花看到半開時」,則事不盡矣。
南宋の厚斎先生王応麟は曰く、張行成(字は文饒)が講ずるに、「心を用うるに執着する可からず(「着」は直略切と読む、下同じ)、執着すれば即ち偏なり。事を做すに做し尽す可からず、做し尽せば即ち走投無路なり」と。先天の学は過ぎず此の両句の話なり、此れ即ち天道なり。王応麟は自ら認めて曰く、邵雍の詩の中の「夏去れば暑を言うを休め、冬来たれば寒を講じ始む」は、即ち心を用うるに執着せざるなり。「美酒は飲ませて微酔の後、好花は看て半開の時」は、即ち事を做すに尽さざるなり。
