朱子の卦変図
按:邵子之學源出希夷,實老莊之宗派。但希夷一言一動,無非神仙面目;而邵子則不尚虛談,不立異行,不落禪機,不溺丹道,粹然儒者氣象,故二程樂與之遊。然觀其平日所論,微有不滿於邵子者:曰放曠,曰偏駁,曰無禮不恭,曰空中樓閣,曰儒術未見所得,曰其說之流有弊。瑕瑜不相揜,亦未可謂推尊之至也。
胡渭按語:邵雍の学問は源は陳抟より出で、実際には老荘一派に属す。ただ陳抟は一言一動はなにしろ神仙家の面目にあらざるなし、而も邵雍は則ち空虚玄談を崇尚せず、標新立異の行を做さず、禅家の機鋒に落入せず、丹道に沉溺せず、一派純粋の儒者気象なり。故に二程は彼と交往するを楽しむ。然るに二程平日の議論を看れば、其実微微として邵雍に対する不満を含む:彼を「放曠」と言い、彼を「偏駁」と言い、彼を「無礼不恭」と言い、彼を「空中楼閣」の如しと言い、彼を「儒術は未だ所得を見ず」と言い、彼の学説は流伝して下れば弊病有るべしと言う。瑕と瑜は彼此掩盖する能わず、また二程が彼を推尊すること極点に至ると言う能わざるなり。
及其為墓誌,則謂得之穆、李者,特因其材之所宜以為入道之門戸,則固以象數為一家之學矣。雖云自得者多,不止穆、李之所傳,然終不離乎象數。易道之大,無所不包,執一家之學而以為伏羲之精意全在於此,豈理也哉!
程顥が彼に替わりて墓誌を写るに至っては、則ち彼が穆修・李之才より得たる所は、過ぎず彼の才性の適宜なるに因りて、入道の一箇の門径と為すのみと言う——此れ即ち分明に象数を以て一家の学と看作すなり。彼自ら体悟して得たる所は多く居ると言うと雖も、穆・李の伝する所に限らず、而も終に象数を離れず。易道は博大にして包まざる所なし、一家の学を抓住して伏羲の精微なる用意は全く此の中に在りと認定せんは、あに此の道理あらんや。
朱子於先天方位得養生之要,於加一倍法見數學之精,篤信季通,意固有在,吾何敢輕議,但不當列諸經首以為伏羲之易耳。明道適僧舍,見其方食而曰「三代威儀盡在是矣」,此偶然語也;設有人焉,掇浮屠之戒律冠於《禮經》之首,則荒矣。胡文定於內典獨稱《楞嚴》《圓覺》,亦謂彼教中有可取者耳;設有人焉,舉二書於《中庸》《論語》合為一編,則悖矣。故吾以為邵子之易與聖人之易,離之則雙美,合之則兩傷,學者不可以不審也。
朱熹は先天方位図の中より養生の要領を悟り得、一倍を加る法の中より数学の精妙を見出し、蔡元定の説法を篤信して、用意は自ら存する所有り、我はあに敢て軽々しく議論せんや。ただ此れらの図を経文の首に列して、以て伏羲の易と為すべからざるのみ。程顥は僧舎に至りて、僧人がまさに飯を用うるを見、便ち「三代の威儀は全く此の中に在り」と言う——此れは過ぎず偶然感慨の話なり。仮に人有りて此れに因りて仏教の戒律を摘出して《礼経》の前面に冠せば、則ち荒唐なり。胡安国(諡は文定)は仏典の中に単独《楞厳経》《円覚経》を称許す、亦ただあの教の中に猶お取るべき処あるを言うのみ。仮に人有りて此の両部の書を《中庸》《論語》と合編して一書と為せば、則ち悖謬なり。故に我は邵雍の易と聖人の易は、分かれて言えば則ち両者各々其の美を得、合わせて言えば則ち両者皆損傷を受くと認め、学者は審慎に弁別せざる可からず。
右論邵康節。
以上の一節は、邵雍の学と先天図書との関係を弁論するものである。
《宋史·隠逸傳》:譙定字天授,涪陵人。少喜學佛,折其禮歸於儒,後學《易》於郭曩氏,自見乃謂之象,一語以入。郭曩氏者,世家南平,始祖在漢為嚴君平之師,世傳易學,蓋象數之學也。定一日至汴,聞伊川程頤講道於洛,潔衣往見,棄其學而學焉,遂得聞精義,造詣愈至,浩然而歸。
《宋史・隠逸伝》に記載す:譙定は字を天授といい、涪陵の人。年少の時に仏を学ぶを好み、後に礼教に折服して儒学に帰依し、此の後郭曩氏に跟いて《易》を学び、自ら見る所有れば即ち之を「象」と称し、一句话にして門径に切入した。郭曩氏の一族は世々南平に居を為し、其の始祖は漢代に厳君平の老師を做したこと有り、世々易学を伝習し、走る所は象数の一路なり。譙定はある日汴京に至り、程頤(世は伊川先生と称す)が洛陽に在りて道を講ずるを聞き、即ち衣冠を潔斎して前に往きて拝見し、原先の学ぶ所を抛開して改めて程頤に従い、遂に精微の義理を聴き、造詣は愈々深進して、浩然として帰った。
其後頤貶涪,實定之鄉也。北山有巖,師友游泳其中,涪人名之曰讀易洞。靖康初,呂好問薦之,欽宗召為崇政殿說書,以論弗合,辭不就。髙宗即位,定猶在汴,右丞許翰又薦之,詔宗澤津遣詣行在。至維揚,寓邸舍,窶甚,一中貴人偶與鄰,饋之食不受,與之衣亦不受,委金而去,定袖而歸之。其自立之操類此。
後に程頤は涪州に貶せられ、あれは正に譙定の家郷なり。北山に一処の山岩有りて、師徒二人は其の中に優游して講習し、涪州人は之を「読易洞」と称す。靖康初年、呂好問は譙定を推薦し、欽宗は彼を召して崇政殿説書を做らしめんとしたが、議論相合せざるを以て、彼は辞謝して就任せず。高宗即位する時、譙定はなお汴京に在りて、尚書右丞の許翰はまた彼を推薦し、朝廷は詔を下して宗沢に舟車を備弁して彼を行在に送らしめた。維揚に到りて、彼は客舎に寄住し、窮困すること甚だし。一位の宦官は恰好彼と隣り為り、彼に食物を送れば彼は接受せず、彼に衣服を送れば亦た接受せず、あの人は銭を放下して即ち走り去り、譙定は衣袖を以て銭を兜りて還し帰った。彼の自立自守の操行は大概此の如し。
上將用之,會金兵至,失定所在,復歸蜀,愛青城大酉之勝,棲遁其中。蜀人指其地曰譙巖,敬定而不敢名,稱之曰譙夫子,有繪像祀之者,久而不衰。定易學得之程頤,授之胡憲、劉勉之,而馮時行、張行成則得定之餘意者也。定後不知所終,樵夫牧童往往有見之者,世傳其為仙雲。
高宗はまさに彼を任用せんとするに、恰逢して金兵は打ち来り、譙定は去向を知らず、また蜀地に帰り、青城山・大酉山の勝景を喜愛して、即ちあそこに隠居した。蜀人は彼の隠居する処を指して「譙岩」と叫び、彼を敬重して敢て其の名を直呼せず、彼を「譙夫子」と称し、なお人有りて画像を為して供奉し、久しくして衰えず。譙定の易学は程頤より得、また胡憲・劉勉之に伝え、而も馮時行・張行成は則ち譙定の余緒を得たる者なり。譙定は後に終る所を知らず、樵夫牧童は常々彼を見る者あり、世上は彼が仙を成したと伝説す。
初,程頤之父珦嘗守廣漢,頤與兄顥皆隨侍,遊成都,見治篾篐桶者挾冊,就視之則《易》也。欲擬議致詰,而蔑者先曰:「若嘗學此乎?」因指「未濟男之窮」以發問,二程遜而問之,則曰:「三陽皆失位。」兄弟渙然有所省,翌日再過之,則去矣。
当初、程頤の父亲程珦は曾て広漢太守を任じ、程頤と哥哥程顥は皆側に随侍し、一度成都を游れど、一箇の竹篾箍桶を做る人が一本の書を挟むを見、走近して看れば、元来是れ《周易》なり。程氏兄弟はまさに措辞去を斟酌して請教せんと欲すれば、あの篾匠は先に口を開いて曰く、「汝らは曾て此れを学んだことあるか」と。遂に《序卦伝》の「未済、男の窮なり」の一句を指して発問すれば、二程は謙遜に彼に請教し、彼は便ち曰く、「未済卦の三箇の陽爻は皆位に当たらざるを以てなり」と。兄弟二人は豁然として醒悟する所有り。翌日再び彼を找しに往けば、人はすでに走り去れり。
其後袁滋入洛,問《易》於頤,頤曰:「易學在蜀耳,盍往求之?」滋入蜀訪問,久無所遇,已而見賣醬薛翁於眉、卭間,與語大有所得,不知所得何語也。憲、勉之、滋皆閩人,時行、行成蜀人,郭曩氏及篾叟、醬翁皆蜀之隠君子也。
後に袁滋は洛陽に到り、程頤に向かって《易》を問えば、程頤は曰く、「易学は蜀地に在り、何ぞあそこに到りて尋訪せざらん」と。袁滋は蜀地に入りて訪求するも、久しく遇わず、後に眉州・邛州の間に一位の醤を売る薛老翁に見え、彼と交談して大いに得る所有り、ただ得たる所は何れの話なるかを知らず。胡憲・劉勉之・袁滋は皆福建の人、馮時行・張行成は蜀の人、郭曩氏とあの位の篾匠老人・醤を売る老翁は、皆蜀地の隠君子なり。
朱子《籍溪先生胡公行狀》曰:先生學《易》於涪陵處士譙公天授,久未有得。天授曰:「是固當然,蓋心為物漬,故不能有見,唯學乃可明耳。」先生於是喟然嘆曰:「所謂學者,非克己工夫也邪?」自是一意下學,不求人知,一旦揖諸生,歸隠於故山。
朱熹《籍谿先生胡公行状》は曰く、胡憲先生は涪陵の処士譙定に跟いて《易》を学び、久しく心得なし。譙定は曰く、「此れは本来即ち此の如くなるべし、人心は外物に浸染せらるるを以て、故に見る所有る能わず、ただ学を為すのみ能く明白ならん」と。胡先生は遂に喟然として嘆じて曰く、「いわゆる学は、あに即ち己を克つの工夫にあらずや」と。此れより一心に下学の処に用功して、人の知るを求めず、ある日諸生に向かって揖を作して告別し、故郷の山中に帰りて隠居し去れり。
《與汪尚書書》曰:郭子和雲譙天授亦伊川黨事後門人。熹見胡、劉二丈說親見譙公自言,識伊川於涪陵,約以同居洛中,及其至洛,則伊川已下世矣。問以伊川易學,意似不以為然,至考其它言行,又頗雜於佛老子之學者,恐未得以門人稱也。以此一事及其所著象學文字推之,則恐其於程門亦有未純師者,不知其所謂卒業者果何事邪?
朱熹《与汪尚書書》は曰く、郭雍(字は子和)は譙定はまた程頤の党禁の後の門人なりと言う。我は曾て胡憲・劉勉之両位の長者に聴き、親ら譙定が自ら講じるを耳にし、彼は涪陵に在りて程頤を結識し、約定して日後洛陽に同住せんとし、彼が洛陽に到るを待つや、程頤はすでに去世せりと。彼に対して程頤の易学を如何に看るかを問えば、彼の意思は似乎と賛同せず。再び彼の其他の言行を考察すれば、また相当に仏家と老子の学を夾雑し、恐らく程門の弟子と称作する能わず。此の一件の事および彼の著する所の象学の著作を以て推断すれば、恐らく彼は程門に対してもまた純粋の師承と算上する能わず、いわゆる「卒業」は究竟何の事を指すかを知らず。
按:朱子此言,則譙定僅識伊川於涪陵,而入洛則不及見,史稱先受《易》於洛,後復從遊於其鄉者,妄也。徽宗朝蔡京用事,禁毋得挾元佑書,自是伊洛之學不行。時胡、劉二公皆在太學,而定適至,聞其嘗與伊川遊,故慨然師事之。所欲聞者義理也,而定本象數之學,不能有所益。定於伊川不純師,二公於定亦未純師也。
胡渭按語:朱熹の此の番の話に照れば、譙定はただ涪陵に在りて程頤を結識し、洛陽に到る時はすでに見るに及ばず、《宋史》は彼が先に洛陽に在りて《易》を受け、後にまた家郷に在りて程頤に随いて游学したと言うは、是れ不実の詞なり。徽宗朝に蔡京は権を当り、元祐年間の書を私蔵するを禁止し、此れより伊洛の学は流行する能わず。当時胡憲・劉勉之両位は皆太学に在り、恰好譙定来至り、彼らは彼が曾て程頤と交游したことを聞き、故に慨然として彼を師と拝した。彼らの聴かんと欲するは義理なり、而も譙定は本是れ象数一路の学問にして、彼らに何等の幇助を与うる能わざりき。譙定は程頤に対して純粋の師承と算上せず、胡・劉両位もまた譙定に対して純粋の師承と算上せざりき。
故朱子雖遊二公之門,而不得見希夷之真圖,晚使蔡季通入峽乃購得之。「易學在蜀」亦必非伊川語,蓋其徒知象數非儒者所尚,故自附伊川之易以張其學,修史者不能裁擇,因而書之以為傳,實不然也。昔嚴君平著《老子指歸》,而郭曩氏始祖為其師,然則定所受者乃老子之易,其於聖人之道猶爝火之於日月也,何足選哉?何足選哉?
故に朱熹は胡・劉両位の門に出入すと雖も、而も陳抟の真図を見ず、晚年に蔡元定を派して三峡地区に入らしめて才めて買い得たり。「易学は蜀に在り」の此の句话もまた一定に程頤の言う所にあらず、大概是れあの一派の門徒は象数は儒者の推崇する所にあらざるを知りて、故に程頤の易学に攀附して自らの此の門を張大せんとし、史を修する者は裁断取舍する能わず、即ち照抄して伝の中に写入す、其実は併せて此の如しにあらず。昔厳君平は《老子指帰》を著し、而も郭曩氏の始祖は彼の老師なり、さらば譙定の承受する所は乃是れ老子の易にして、聖人の道に比すれば、小火把の日月に比するが如く、何ぞ称道するに足らん。何ぞ称道するに足らん。
右論蜀隠者。
以上の一節は、譙定および蜀中の隠者一系の易学の来歴を弁論するものである。
李潛《麻衣道者正易心法序》曰:此書頃得之廬山一異人(或云許堅)。或有疑而問者,餘應之云:何疑之有?顧其議論可也。昔《黃帝素問》《孔子易大傳》,世尚有疑之,嘗曰:世固有能作《素問》者乎?固有能作《易大傳》者乎?雖非本真,是亦黃帝、孔子之徒也。餘於《正易心法》亦曰:世固有能作之者乎?雖非麻衣,是乃麻衣之徒也。胡不觀其文辭議論乎?一滴真金,源流天造,前無古人,後無來者,翩然於羲皇心地上馳騁,實物外真仙之書也。讀來十年方悟,浸漬觸類,以知易道之大如是也。得其人當與共之。
北宋の廬山隠者李潜が《麻衣道者正易心法》の為に作る序は曰く、此の部の書は我が不久前に廬山の一位の異人の手の中より得たるなり(ある人はあの人は許堅と叫ぶと言う)。人有りて懐疑して来りて発問す、我は彼に回答して曰く、何の疑うべき有らん。ただ其の議論の如何を看るのみ是れなりと。昔《黄帝素問》《孔子易大伝》は、世上なお人の懐疑する有り、我は曾て曰く、世上にあに真に《素問》を写り出す能くする人あらんや。真に《易大伝》を写り出す能くする人あらんや。たとい本人の真作にあらずとも、あれはまた黄帝・孔子一派の人の写したるなり。我は《正易心法》に対してもまた此の如く言う、世上にあに真に此の書を写り出す能くする人あらんや。たとい麻衣道者にあらずとも、あれはまた麻衣一派の人なり。何ぞ其の文辞議論を看ざらん。真に一滴の真金の如く、源流は天造より出で、前に古人なく後に来者なく、翩然として伏羲の心地の上に馳騁し、実在是れ物外真仙の書なり。我は読むこと十年にして才めて領悟し、一層々々浸潤して類に触れて旁通し、才めて易道の大なること此の地步に至るを知れり。適合の人に遇えば、まさに彼と共享すべし。
《正易心法》曰:卦象示人,本無文字,使人消息,吉凶嘿會。易道不傳,乃有周孔;周孔孤行,易道復晦。又曰:易道彌滿,九流可入,當知活法,要須自悟。又曰:世俗學解,浸漬舊聞,失其本始,易道淺狹。(卷首題云:希夷先生受並消息。)
《正易心法》は曰く、卦象は人に昭示す、本来文字なく、人をして自ら消長を体察せしめ、吉凶は黙会の中に領悟す。易道は失伝し、才めて周公・孔子の文辞有り。周公・孔子の説は単独流行し、易道は却ってまた晦暗なり。また曰く、易道は弥漫充満し、諸子九流は皆此れより入門し得、活法を懂得すべく、関鍵はなお須らく自ら覚悟すべし。また曰く、世俗の解説は旧聞に浸染せられ、本原を丢失し、易道は遂に浅薄狭窄となれりと。(該書の巻首には「希夷先生受并消息」と題す。)
跋曰:五代李守正叛河中,周太祖親征,麻衣語趙韓王曰:「李侍中安得久?其城中有三天子氣。」未幾城陷,時周世宗與本朝太祖侍行。錢文僖公若水,陳希夷每見以其神觀清粹,謂可學仙,有升舉之分,見之未精,使麻衣決之,麻衣雲無仙骨,但可作貴公卿耳。夫以神仙與帝王之相,豈易識哉!麻衣一見決之,則其識為何如也。即其識神仙、識帝王眼目以論易,則其出於尋常萬萬也,固不容於其言矣。乾道元年冬十有一月初七日,玉溪戴師愈孔文撰。
該書の跋文は曰く、五代の時に李守正は河中に在りて叛乱し、後周の太祖郭威は親ら征討し、麻衣道者は趙普(後に韓王に封ぜらる)に対し曰く、「李侍中はあに能く久しからん。あの城の中に三位の天子の気有り」と。不久して城は陥落し、当時後周の世宗と本朝の太祖趙匡胤は皆軍中に随行せり。文僖公銭若水は、陳抟は彼に見る毎に彼の神観清粋を覚え、以て仙を学ぶ可しと為し、飛升の分数有りと。ただ自ら看得は精準に足らざるを覚え、便ち麻衣道者を請うて来りて決断せしめ、麻衣は彼に神仙の骨なしと言い、ただ能く顕貴の公卿を做るのみと。神仙の相と帝王の相は、あに容易に識別する所あらん。麻衣は一見すれば即ち断定し得、さらば彼の識見はまさに何等了得なるべし。就憑じて彼の神仙を識り帝王を識るの此の副の眼力を以て《易》を論ずれば、あれは自然に尋常人の万万倍を超出し、彼の話は本来即ち置疑を容れざるなり。乾道元年冬十一月初七日、玉溪戴師愈(字は孔文)撰。
南軒張氏曰:嗚呼,此真麻衣道者之書也。其說獨本於羲皇之畫,推乾坤之自然,考卦脈之流動,論反對變復之際深矣,其自得者歟!希夷隠君實傳其學,二公髙視塵外,皆有長往不來之願,抑列御冦、莊周之徒歟?
南宋の南軒先生張栻は曰く、ああ、此れ真に麻衣道者の書なり。其の説法は独独伏羲の卦画に本し、乾坤の自然の理を推究し、卦脉の流動を考察し、反対・変復の際に論ずるや甚だ深度有り、大概是れ自ら体悟して得たる所ならん。陳抟此の位の隠君子は実際に彼の学問を伝承し、两位は皆塵世の外に高視し、皆一去不返の心願を存し、大概是れ列御寇・荘周一流の人ならん。
雖然,概以吾聖門之法則未也。形而下者謂之器,或者有未察歟?其說曰:「六十四卦,惟乾與坤本之自然,是名真體。」又曰:「六子重卦,乾坤雜氣,悉是假合,無有定實。」餘則以為六子重卦,皆乾坤雜氣之妙用,真實自然,非假合也。希夷述其說曰:「學者當於羲皇心地上馳騁,無於周孔腳跡下盤旋。」予則以為學《易》者須於周孔腳跡下尋求,然後羲皇心地上可得而識。推此可概見矣。然其書之傳,固非牽於文義、鑿於私意者所可同年而語也。
話は此の如しと雖も、もし一概に我ら聖門の法度を以て衡量せば、之はなお格に足らず。「形而下者之を器と謂う」の此の層の道理は、作者は或いは未だ考察清楚せざらん。書の中に曰く、「六十四卦の中にただ乾と坤のみ自然に本づく、此れ才めて真体と叫ぶ」と。また曰く、「六子と重卦は皆乾坤の雑気にして、全是れ假合にして、定准実体なし」と。我は却って六子と重卦は皆乾坤雑気の妙用にして、真実にして自然、併せて假合にあらずと認む。陳抟は其の説法を転述して曰く、「学者はまさに伏羲の心地の上に馳騁すべく、周公・孔子の脚印の下に盤旋する要らざれ」と。我は却って《易》を学ぶ人は必ず周公・孔子の脚印の下に寻求し、然る後に伏羲の心地は才めて認識せらると認む。此れより推して去れば、大略は即ち看て出づべし。ただ此の部の書の能く流伝するは、本来もまたあの文義に拘牽し私意に穿凿する著作の相提併論する能くする所にあらず。
朱子《書麻衣心易後》曰:此書詞意凡近,不類一二百年前文字。如所謂「雷自天下而發,山自天上而墜」,皆無理之妄談;所謂「一陽生於子月而應在夘月」,乃術家之小數;所謂「由破體煉之乃成全體」,則爐火之末技;所謂「人間萬事悉是假合」,又佛者之幻語耳。其它此比非一,不容悉舉。
朱熹は《書麻衣心易後》の中に曰く、此の部の書の詞句意旨は平庸浅近にして、一二百年以前の文字に似ず。例えば書の中のいわゆる「雷は天下より発出し、山は天上より墜落す」は、皆是れ事理に合わざる妄談なり。いわゆる「一陽は子月に生じて卯月に応験す」は、あれは過ぎず術士の時日を推算する小把戯なり。いわゆる「破体より錬成して全体と為る」は、あれは丹家の炉火焼錬の末流技芸なり。いわゆる「人間万事は全是れ假合」は、また過ぎず仏家の講ずる虚幻の語のみなり。書の中の此の類の例子はなお一処両処に止まらず、多くして一々列挙して出すに法なし。
要必近年術數末流,道聴塗說,掇拾老佛醫卜諸說之陋者以成其書;而其所以託名於此人,則以近世言象數者必宗邵氏,而邵氏之學出於希夷,於是又求希夷之所敬,得所謂麻衣而托之。以為若是,則凡出於邵氏之流者莫敢議已,而不自知其說之陋,不足以自附於陳、邵之間也。
柢を言えば、此れは一定に近年の術数末流の輩にして、道聴途説して、老・仏・医・卜各家の中の浅陋の説法を拾掇して凑成して此の部の書と為し、何を以て麻衣道者の身上に托名するかに至っては、あれは近世の象数を講ずる人は必ず邵雍を尊奉し、而も邵雍の学は陳抟より出づるが為に、遂にまた陳抟の敬重する人を找して、いわゆる麻衣道者を找着して、便ち彼に托名す。彼らは此の如くすれば、およそ邵雍一派より出づる人は皆敢て議論せざらんと以為す、而も自らの説法の鄙陋にして、根本に陳抟・邵雍の間に攀附するに配せざるを知らず。
《再跋麻衣易說後》曰:予既為此說,後二年假守南康,始至,有前湘陰主簿戴師愈者來謁,老且蹩,使其壻自掖而前。坐語未久,即及麻衣易說,問其師傳所自,則曰得之隠者;問隠者誰氏,則曰:「彼不欲世人知其姓名,不敢言也。」既復問之邦人,則皆曰書獨出戴氏,莫有知其所自來者。
朱熹《再跋麻衣易説後》は曰く、我は前面のあの篇の跋を写した後二年、暫く南康軍の知軍を任じ、剛く到任して、一位の従前に湘陰主簿を做したこと有る戴師愈は前に来りて拝謁し、人はすでに老邁にして且つ脚は跛み、彼の女婿をして搀扶して上前せしむ。坐りて談じること多久ならずして、即ち麻衣易説に説き及べば、我は彼に此の書の師承は何処より来るかを問えば、彼は是れ一位の隠者の処より得たと言う。あの隠者は何と姓するかを問えば、彼は即ち曰く、「あの人は世人に彼の姓名を知らるを願わず、我は敢て言わず」と。後に我はまた当地の人に問えば、皆此の書はただ戴家より出づるのみ、人其れ何処より来るかを知る者なしと言う。
予後至其家,見幾間有所著雜書一編,取而讀之,則其詞語氣象宛然麻衣易也。予以是始疑前時所料三五十年以來人者,即是此老。既歸即取觀之,則最後跋語固其所為,而一書四人之文,體制規模乃出一手,然後深信所疑之不妄。
我は後に彼の家に到り、几案の上に彼の著する所の雑書一編有るを見、取りて来りて一読すれば、あの詞語気象は活脱として即ち麻衣易の口吻なり。我は此れに因りて才めて先前に推断したる「三五十年以来の人」は、即ち此の位の老先生なるを懐疑す。帰りて以後即ちあの書を拿げて来りて看れば、果たして最後の跋語は本来是れ彼の写したるなり、而も一部の書の中の四箇の人の文字は、体制規模は竟に一人の手より出づ、此れ才めて自らの懐疑は妄断にあらざるを深信す。
是時戴病已昏,不久即死,遂不復可窮詰。獨得其易圖數卷,閱之又皆鄙陋瑣碎,穿穴無稽,如小兒嬉戲之為者。欲以其事馳報敬夫,則敬夫亦已下世。因以書語呂伯恭曰:「吾病廢有年,乃復為吏,然不為他郡而獨來此,豈天固疾此書之妄,而欲使我親究其實邪?」
あの時戴師愈はすでに病んで神志昏昧し、不久して即ち死し、遂に再び追問して下るに法なし。ただ彼の易図数巻を弄到し、看て過ぎて後にまた皆鄙陋瑣碎にして、穿凿附会して根拠なく、小孩子の游戯を做るが一般なり。我は此の件の事を趕緊に張栻(字は敬夫)に告げんと欲すれど、張栻もまたすでに去世せり。遂に信を写して呂祖謙(字は伯恭)に告げて曰く、「我は病に因りて廃置する多年、今また出でて官を做る、然るに別の郡に往かずして偏に此処に来る、あに上天は本来此の部の書の荒妄を憎悪して、我をして親ら真相を查明せしめんと欲するにあらずや」と。
時當塗守李壽翁侍郎雅好此書,伯恭因以餘言告之。李亟以書來曰:「即如君言,斯人而能為此言,亦吾所願見也,幸為津致使其一來。」予適以所見聞報之,而李已得謝西歸,遂不復出,不知竟以餘言為何如也。
当時太平州(治所は当涂に在り)の知州・侍郎李椿(字は寿翁)は一向此の部の書を喜好し、呂祖謙は便ち我の話を彼に告げた。李椿は馬上に信を写して来りて曰く、「たとい您の言うが如くとも、此の人は竟に此の如くの話を言い出す能くすれば、亦た是れ我の願わくは一見せん所なり、煩わしく我が為に引荐し、彼をして一趟来らしめよ」と。我はまさに見聞する所を彼に回復せんとするに、而も李椿はすでに官を辞して西帰し、此れより再び出仕せず、彼が究竟我の話に対して如何の評価を作すかを知らず。
《陳氏書録解題》曰:舊傳麻衣道者授希夷先生,崇寧間廬山隠者李潛得之,凡四十二章,蓋依託也。朱侍講云:南康主簿戴師愈撰,乃不唧溜底禪,不唧溜底修養法,不唧溜底時日法。
南宋の陳振孫《直斎書録解題》は曰く、旧来相伝えて此の書は麻衣道者が希夷先生陳抟に伝授したと言い、崇寧年間に廬山隠者李潜は之を得、共に四十二章、其実是れ依托偽造なり。朱熹(曾て侍講を任ず)は曰く、此れは南康主簿戴師愈の撰する所、是れ不高明の禅学・不高明の修養法・不高明の時日を選擇する法なりと。
王炎曰:洛水李壽翁侍郎喜論《易》,炎嘗問曰:「侍郎在當塗板行麻衣新說如何?」李曰:「程沙隨見屬。」炎曰:「恐託名麻衣耳。以撲錢背面喻八卦陰陽純駁,此鄙說也;以泉雲雨為陽水,以澤為陰水,與夫子不合。」李曰:「然。然亦有兩語佳。」炎曰:「豈非『學者當於羲皇心地上馳騁,不當於周孔腳跡下盤旋』邪?然此二語亦非也。無周孔之辭,則羲皇心地學者何從探之?」李無語。
王炎は曰く、洛水の人・侍郎李椿(字は寿翁)は《易》を談ずるを喜び、我は曾て彼に問うて曰く、「侍郎は当涂に在りて刻板刊行した麻衣新説は如何なるか」と。李椿は曰く、「是れ程迥(号は沙随)が我に嘱托して刻らしめたるなり」と。我は曰く、「恐らく是れ麻衣に托名するのみ。銅銭を擲る正面反面を以て八卦陰陽の純と駁を比喻するは、是れ浅鄙の説法なり。泉・雲・雨を以て陽水と算し、沢を以て陰水と算するは、孔子の説法ともまた合わず」と。李椿は曰く、「是れ此の如し。ただ其の中にまた両句の話好し」と。我は曰く、「あに即ち『学者はまさに伏羲の心地の上に馳騁すべく、周公・孔子の脚印の下に盤旋する要らざれ』にあらずや。然るに此の両句の話もまた正しからず。周公・孔子の文辞なくんば、伏羲の心地は、学者はまた何処より探求せんと往かん」と。李椿は答うべき話なし。
按:是書託名麻衣,序跋與書及注同出一手,其它踳駁之說無論,獨李壽翁所賞二語,貽誤學者不淺。然其言實出希夷,《觀物外篇》曰:「先天學,心法也。圖雖無文,吾終日言而未嘗離乎是。」亦即所謂「羲皇心地上馳騁,不於周孔腳跡下盤旋」也。麻衣,小說家以為即白閣僧相錢若水者,其人蓋孫君仿、麞皮處士之流,縱令是書真出麻衣,吾亦深惡而痛絶之,況戴師愈乎?
胡渭按語:この部の書は麻衣道者に名を託し、序・跋と正文・注文は同じく一人の手より出で、其の他の駁雑錯乱の説法は姑く論ぜず、単に李椿の賞識したあの両句の話だけでも、学者に貽誤すること浅からず。しかるにあの話は実は陳抟より出で、《皇極経世・観物外篇》に曰く、「先天の学は、是れ心法なり。図は文字なしと雖も、我は終日講論して曾てそれを離れたことなし」と——これがすなわちいわゆる「伏羲の心地の上に馳騁し、周孔の脚印の下に盤旋せず」である。麻衣に至っては、小説家は彼を以てすなわちあの白閣で銭若水に相を見た僧人と為し、此の人は大概孫君仿・麞皮処士一流であろう。たといこの書が真に麻衣の手より出たとしても、我はなお深く悪み痛絶するであろう。況んやそれが戴師愈の手より出たものをや。
右論麻衣道者。
以上の一節は、《麻衣道者正易心法》という書の偽託の来歴を弁論するものである。
潛溪宋氏《溟涬生贊序》曰:溟涬生者,旴江廖應淮海學也。抱負竒氣,好研摩運世推移及方技諸家學。年三十遊杭,上疏言丁大全誤國狀,大全怒,中以法,配漢陽軍。生荷校行歌出都門,道旁觀者嘖嘖壯之。
明初の潜谿先生宋濂《溟涬生賛》の序は曰く、溟涬生という人は、即ち旴江の廖応淮で、字は海学。彼は奇気を抱負し、世運推移の説および各家の方技の学を钻研するを好んだ。三十歳の年に杭州を游歴し、上疏して丁大全の国を誤る情状を掲発すると、丁大全は大怒して、法令を以て彼を中傷し、彼を漢陽軍に刺配した。廖応淮は枷を戴き、一路歌を唱いて京城の城門を出で、路旁の囲観する人は皆啧啧として彼を豪壮と称賛した。
抵漢江濱,遇蜀道士杜可大,揖曰:「子非廖應淮邪?」生愕然曰:「道士何自知之?」可大曰:「宇宙太虛一塵耳,人生其間為塵幾何?是茫茫者尚瞭然心目間,矧吾子邪?然自邵堯夫以先天學授王豫天悅,天悅死無所授,同葬玉枕中。未百年而吳曦叛,盜發其冢,得《皇極經世體要》一篇、《內外觀象》數十篇,餘賄盜得之,今餘五十年,數當授子,吾俟子亦久矣。」
彼は漢江の辺に走り至り、蜀地の道士杜可大に遇い、杜可大は揖を作して曰く、「汝は廖応淮にあらずや」と。廖応淮は驚愕して曰く、「道士はどこよりこれを知ったか」と。杜可大は曰く、「宇宙は太虚の中では一粒の微塵に過ぎず、人生はその間にあってまた幾許の微塵を算えよう。あの如く茫茫無際のものを我がなお清清楚楚に看るに、況んや是れ汝をや。ただ邵雍が先天の学を王豫(字は天悦)に伝えてより、王豫は死する時に伝うべき人なく、即ち書を一同に玉枕の中に葬った。百年に満たざるに呉曦叛乱し、盗墓賊は彼の墳を掘開いて、《皇極経世体要》一篇・《内観外象》数十篇を得たり。我は財物を以て盗賊に向かってそれを買い下げ、今すでに五十年を過ぎ、数に按ずれば汝に伝うべし。我が汝を待つもまた甚だ久し」と。
乃言於上官,脫其籍,盡教以冢中書。其算由聲音起,生神鑑穎利,可大指畫未到者,生已先意逆悟,可大自以為不及。學既成,去隠宣、歙間。遇餘安裕弋陽,將教之,安裕勸生業《中庸》,生瞠目厲聲曰:「俗儒幾辱吾康節於地下矣。」
遂に杜可大は上級の官員に情を通じて、廖応淮の為に刑徒の名籍を除去し、墓中に得た書を全部彼に教えた。その套の推算は声音より起算するもので、廖応淮の心思は神明にして頴悟鋭利にして、杜可大が未だ指点の及ばざる処に、彼は先んじて一歩領悟し、杜可大は自ら彼に及ばざると認めた。学が成るの後、彼はあそこを離れて宣州・歙州の間に隠居した。弋陽に在りて余安裕に遇い、まさに彼に教えんとしたが、余安裕は却って彼に《中庸》を研习せよと勧め、廖応淮は眼を瞪らして厳声に曰く、「汝のこの俗儒、ほとんど九泉の下に我が邵康節を侮辱せんとす」と。
復去之杭,客賀外史家,晝市大衍數,夜沽酒痛飲,飲即吐,吐即飲,不醉如泥不休。醉中嘗大叫曰:「天非宋天,地非宋地,奈何奈何。」語聞賈似道,遣客叩之,生曰:「毋多言,浙水西地髮白時是其祥也。」似道未解,復召至,屏人與語,生曰:「明公宜自愛,不久宋鼎移矣。」似道惡其言,掩耳走。
彼はまたあそこを離れて杭州に至り、賀外史の家に寄居し、昼は大衍推数の卜術を売り、夜は酒を買いて痛飲し、飲めば即ち吐き、吐き尽くして再び飲み、爛酔して泥の如くならざれば肯んじて罷めず。酔う中に曾て大声に叫喊して曰く、「天は宋朝の天にあらず、地は宋朝の地にあらず、どうせんかどうせんか」と。この話は賈似道の耳に伝到り、門客を派して探問せしめれば、廖応淮は曰く、「多く言うを必とせず、浙水以西の地上の草木が白く変ずる時、即ちそれがその兆なり」と。賈似道は明白せず、また彼を召して往き、旁人を屏退して彼と交談せしめれば、廖応淮は曰く、「明公はまさに自愛すべし、不久して宋朝の鼎祚はまさに転移せんとす」と。賈似道はこの話を悪み、耳を捂いで走り去った。
生亦徑出,過曽淵子家索酒轟飲,酒酣作嬰兒啼曰:「大廈將焚,燕猶呢喃未已邪。」復賦歌以見意,都人士聞之,競指以為怪民,不與接,獨太學生熊睎聖猶時造其廬。生私執熊手謂曰:「吾端居層樓,聞空中戎馬百萬來,人鬼作哭泣聲。壬申襄樊陷,甲戌宮車晏駕,乙亥長江飛渡,似道亦殛死臨漳,丙子三宮播遷,諸王大臣皆南北亂走,噓吸事耳,子不去欲何為?」居亡何,宋事日非,沿江州郡望風奔潰。生大慟曰:「殺氣又入閩廣中,吾不知死所矣。」遂遁去,其言無一不驗。
廖応淮もまた径く出でて、曽淵子の家を路過して酒を討いて痛飲し、酒酣の時に嬰児の啼哭を学んで曰く、「大厦はまさに焼き起らんとす、燕子はなお呢喃として罷まざらんや」と。又た歌を作りて以て心意を表出した。京城の士人は之を聞き、争相いて彼を指して怪民と為し、肯んじて彼と来往せず、ただ太学生熊睎聖のみなお時々彼の住処に到る。廖応淮は私かに熊睎聖の手を握りて曰く、「我は高楼の上に静居し、空中に百万の兵馬の涌来するを聴き、人も鬼も皆哭泣せり。壬申の年に襄陽・樊城は陥落し、甲戌の年に皇帝は駕崩し、乙亥の年に元軍は長江を飛渡し賈似道もまた臨漳に処死せられ、丙子の年に三宮は迫られて遷徙し、諸王大臣は皆南北に乱窜せん——これらは過ぎず转眼の間の事なり。汝は走らずしてなお何を為さんと欲するか」と。過ぐること甚だ久しからずして、宋朝の局勢は一天不如一天となり、沿江の州郡は風を望んで潰散した。廖応淮は大慟して曰く、「殺気はまた閩・広一帯に進入せり。我は何処に死するかを知らず」と。遂に逃遁して去った。彼の話は一句として応験せざるなし。
後四年病死處州學中,年五十二,無子,一義女從之。生宗堯夫先天之學,頗自謂知《易》,每見諸易師傳疏,不問淺深,輒訕駁以為樂。及論後天,則尊羲畫為經,彖爻繋辭為傳,黜《文言》《彖》《象》二傳為九師之言,且謂《說卦》非聖筆不能作,上下《繫》乃門人所述,《序卦》直漢儒記耳。蓋生聰明絶人,未聞道而驟語數,故其論經多失中。
四年以後に彼は病死して処州の州学の中にあり、享年五十二歳、児子なく、ただ一箇の義女有りて随侍す。廖応淮は邵雍の先天の学を宗奉し、頗る《易》を懂得するを以て自負し、各家の易学師承の伝・疏を見る毎に、深浅を問わず、動くに即ち譏訕駁斥して以て楽しみと為した。後天の易に談ずれば、則ち伏羲の卦画を尊んで経と為し、卦辞・爻辞・《繋辞》を以て伝と算し、《文言》および《彖》《象》二伝を貶めて漢代の九家易師の話と為し、また《説卦》は聖人の手筆にあらざれば写り出す能わずと言い、上下《繋辞》は門人の記述する所、《序卦》は简直にただ漢儒の記録のみと為す。大概廖応淮は聡明人に絶すれど、道を聞かざるに驟りに数を講ずるを以て、故に彼の経を論ずるは多く中道に合わず。
然性使酒難近,又好訐人陰私,人面頸發赤不顧,罕有從其學者,唯國子簿吳浚、進士彭復樂師之。浚不卒業,復屢受唾斥不怨。生將遁時,召復至,口發例,手布籌,雖平昔所靳若終身不示人者,一舉授復。復後又授鄱陽傅立雲。
ただ彼は性情酒を借りて気を使い、人をして近親し難からしめ、また人の隠私を掲発するを好み、人家をして満面満脖子漲紅せしめても顧みず、これに因りて彼に跟学する者甚だ少なく、ただ国子監主簿呉浚・進士彭復は楽しんで彼を師と拝した。呉浚は学び完わず、彭復は屢々彼の唾罵叱責を挨んでも怨まず。廖応淮はまさに逃げ走らんとする時、彭復を叫んで来らしめ、口は推算の条例を講じ、手は算籌を布き、あの平日吝惜して将に終身人に示さざらんとするが如きものを、一下子に全部彭復に伝えた。彭復は後にまた鄱陽の傅立雲に伝えた。
或曰:生瀕死語女曰:「吾死後一月,朝中命山姓鳥名使者來徵吾及傅立,立當過吾門,汝可出藏書示之,立當以此致大官。」後皆如其言。所謂山姓鳥名,崔鵬飛也。生所著書有《玄玄集》《厯髓》《星野指南》《象滋綂會》《聲譜》《畫前妙旨》,數十萬言,今猶間傳於世。(贊不録。)
ある人曰く、廖応淮は臨死の時に義女に対して曰く、「我が死する後一箇月、朝廷は一位の姓の中に山を帯び名の中に鳥を帯びた使者を派して我と傅立を徴召せん。傅立は我が家門口を路過せん。汝は蔵書を拿出して彼に看せよ。彼は将にこれを憑りて大官を做らん」と。後に皆彼の言うが如し。いわゆる姓の中に山を帯び名の中に鳥を帯びるは、即ち崔鵬飛なり。廖応淮の著する所の書は《玄玄集》《暦髄》《星野指南》《象滋統会》《声譜》《画前妙旨》有り、共に几十万字、今なお偶偶世に流伝す。(宋濂の賛詞は此処に録せず。)
余自幼即見長老談溟涬生事,近見李淦性學及戚光子實所造文,又知生為詳。以生之精藝如此,而修《宋史》者不列之《方技傳》中,殊可恨也,故予愍之,特序之,又傷易道之微,激而贊之。惜乎予文蕪陋,不能永生也,然餘情亦至矣。濂志。
宋濂また曰く、我は小より長輩が溟涬生の事を談ずるを聴き、近来李淦(字は性学)および戚光(字は子実)の写した文章を見て、彼の生平に対する了解はいよいよ詳細なり。彼の技芸は精妙なること此の地步に至るを憑みて、而も《宋史》を修する者は竟に彼を《方技伝》に列入せず、実に人をして痛惜せしむ。故に我は彼を怜惜して、特に彼の為に序を作り、また易道の衰微を感傷して、此れに激して彼の為に賛を作る。可惜しむらくは我の文字は蕪雑鄙陋にして、彼の名声をして久しく流伝せしむる能わず、ただ我の心意もまた尽くしたと算するのみ。宋濂記。
按:程可久云「易以道義配禍福,得正而斃則吉,詭遇獲禽則凶」,此千古格言也。嚴君平精於卜筮,與人子言依於孝,與人臣言依於忠,猶不失開物成務之意。管輅善言《易》,亦嘗以謙、壯諷何晏,請上追文王六爻之旨,下思尼父彖象之義,未嘗近舍周孔,逺宗羲畫也。
胡渭按語:程迥(字は可久)の言う「《易》は道義を以て禍福に配するなり、正を守りて死すれば即ち吉、不正当の手段を以て禽獣を猟獲すれば即ち凶」は、是れ千古の格言なり。厳君平は卜筮に精し、人家の児子と話すれば即ち孝に帰本し、人家の臣子と話すれば即ち忠に帰本して、なお《易》の「物を開き務を成す」の本意を失わず。管輅は《易》を談ずるに善く、亦た曾て《謙》卦・《大壮》卦を以て何晏を諷諫し、彼に上は文王六爻の意旨を追い、下は孔子《彖》《象》の義理を思えと請うて、曾て身辺の周公・孔子を撇開して遠く伏羲の卦画を宗奉することせず。
自先天之學興,而易道之蓁蕪甚矣。廖應淮自謂得康節真傳,而其所談者唯禍福,無一字及於道義,罔知忌諱,屢觸危機,其不為京房、郭璞,特幸而免耳。驗之最大者莫如宋亡,而究竟分毫無補,亦安用前知為也?
先天の学が興起してより、易道は荒草に塞がれて様子を成さざるに至った。廖応淮は自ら邵雍の真伝を得たと称するも、しかるに彼の談ずる所はただ禍福のみにして、道義に涉及するは一字もなく、全く避忌を知らず、屢々危機を触犯した。彼は京房・郭璞の如き下場を得ずに済んだのは、過ぎず僥幸に禍を免れたのみ。彼の応験した最大の一事は宋朝の滅亡に如くなし、しかるに結果は時局に対し絲毫の補いもなし、さらば予め知るもまた何の用かあらん。
餘安裕勸讀《中庸》,蓋以索隠行怪,聖人之所不為,而無道不黙,亦非明哲保身之事,故微辭以規之,而應淮不自覺寤,詆為俗儒。其於《易》也,訕侮程、張,卑視周、孔,二篇獨尊羲畫,十翼専取《說卦》,鄙倍之論,全無忌憚,豈僅失中而已邪?
余安裕が彼に《中庸》を読めと勧めたのは、あれは隠僻を探求し行為怪異するは聖人の為さざる所であり、而も無道の世に緘黙せざるを肯んぜざるも、また明哲保身の做法にあらざるを以て、故に委婉の話を以て彼を規勧したのに、廖応淮は自ら毫も覚悟せず、却って人家を俗儒と罵った。彼の《易》に対しては、程頤・張載を譏訕軽侮し、周公・孔子を鄙薄し、上下二篇にはただ伏羲の卦画を推尊し、《十翼》の中にはただ《説卦》を取るのみ、あの粗鄙にして理に背く議論は、全く一点の顧忌もなし、あにただ「中道に合わず」のみならんや。
世俗溺於所聞,爭言象數,黃口小兒人人慾為邵子,而二篇十翼束之髙閣,邪說橫行,聖真滅息矣。雖曰末流之極弊,抑先天心法之傳有以導之使然也。其後劉秉忠、李俊民等専治《皇極經世》數,而顧以《易》鳴,唯資中黃澤楚望謂當因孔子之言上求文王、周公之意,可謂粹然一出於正。然非屏棄九圖,則黃霧不披,青天白日終不可得而見也。
世俗の人は聞く所の一套に沉溺し、争相て象数を談論し、黄口の小児に至るまで人人邵雍を做らんと欲し、而も《易》の上下二篇および《十翼》は却って高閣に束ねられ、邪説は横行して、聖人の真意は就中湮没す。此れは末流の極弊と言うべしと雖も、然るにまた是れ先天心法の伝授の引導して出した結果なり。此の後劉秉忠・李俊民らは専門に《皇極経世》の数を研治して、却って《易》を以て名家と為し、唯だ資中の黄沢(字は楚望)は孔子の言に依拠して上は文王・周公の本意を求むべしと主張し、純粋に正道より出でたりと言うべし。然るに若しあの九幅の図を摒棄せざれば、黄霧散らず、青天白日は終じて看る能わざるなり。
右論溟涬生。
以上の一節は、廖応淮一派の専ら禍福を言う流弊を弁論するものである。
王氏弼《周易略例·明象篇》曰:夫象者,出意者也;言者,明象者也。盡意莫若象,盡象莫若言。言主於象,故可尋言以觀象;象主於意,故可尋象以觀意。意以象盡,象以言著,故言者所以明象,得象而忘言;象者所以存意,得意而忘象。猶蹄者所以在兔,得兔而忘蹄;筌者所以在魚,得魚而忘筌也。然則言者,兔之蹄也;象者,魚之筌也。
魏人王弼《周易略例・明象篇》は曰く、いわゆる「象」は、以て意を表出するに用いる。いわゆる「言」は、以て象を闡明するに用いる。意を窮めんには、象より良きはなし。象を窮めんには、言より良きはなし。言は象に依托し、故に言に循いて以て象を観るべし。象は意に依托し、故に象に循いて以て意を観るべし。意は象を以て窮まり、象は言を以て著る。故に言は以て象を闡明する者、象を得れば即ち言を忘るべし。象は以て意を存留する者、意を得れば即ち象を忘るべし。此れは猶お兔蹄(兔を捕る器具)の以て兔を捕るに用いるが如く、兔を捉得すれば即ち兔蹄を忘る。魚筌は以て魚を捕るに用い、魚を捉得すれば即ち魚筌を忘る。此の如くにして言えば、言は即ち兔を捕る蹄、象は即ち魚を捕る筌なり。
是故存言者,非得象者也;存象者,非得意者也。象生於意而存象焉,則所存者乃非其象(所存者在意)也;言生於象而存言焉,則所存者乃非其言也(所存者在象)。然則忘象者,乃得意者也;忘言者,乃得象者也。得意在忘象,得象在忘言。故立象以盡意,而象可忘;重畫以盡情,而畫可忘也(盡和同之意,忘其天火之象;得同志之心,拔茅之畫可棄)。
故に言を拘守する者は、併せて真に象を得ず。象を拘守する者は、併せて真に意を得ず。象は意より生じて、而も象を拘守せば、則ち拘守する所は是れ真の象にあらず(唐代の邢璹注:真の象は意の中に在り)。言は象より生じて、而も言を拘守せば、則ち拘守する所は是れ真の言にあらず(注:真の言は象の中に在り)。此の如くにして言えば、能く象を忘るる者は、才是れ意を得る人。能く言を忘るる者は、才是れ象を得る人。意を得るは即ち象を忘るるに在り、象を得るは即ち言を忘るるに在り。故に聖人は象を立てて以て意を尽くすも、而も象は是れ忘るべし。卦画を重畳して以て情を尽くすも、而も卦画もまた是れ忘るべし(注:《同人》の和同の意を領会すれば、即ちその離下乾上の「天火」の象を忘るべし。同心同志の心を得れば、《泰》卦の「茅を拔く」の爻画もまた棄置すべし)。
是故觸類可為其象,合義可為其徵。義苟在健,何必馬乎?類苟在順,何必牛乎?(《大壯》九三有乾亦云羝羊,《坤》卦無乾彖亦云牝馬。)爻苟合順,何必坤乃為牛?義苟應健,何必乾乃為馬?(《遯》無坤,六三亦稱牛;《明夷》無乾,六二亦稱馬。)而或者定馬於乾,案文責卦,有馬無乾,則偽說滋漫,難可紀矣。互體不足,遂及卦變;變又不足,推致五行。一失其原,巧愈彌甚,縱復或值,而義無所取,蓋存象忘意之由也(失魚兔則空守筌蹄,遺健順則空說龍馬)。忘象以求其意,義斯見矣。
故に類に触れて旁通するは皆可なりて以て其の象を立て、義理相合するは皆可なりて以て其の徴験を為す。義理はただ剛健に在らば、何ぞ必ずしも馬を用いざるを得ん。物類はただ柔順に在らば、何ぞ必ずしも牛を用いざるを得ん。(注:《大壮》九三は乾体有りても亦た「羝羊」と言い、《坤》卦は乾体なくして卦辞もまた「牝馬」と言う。)爻はただ柔順に合せば、何ぞ必ずしも坤ならざれば牛を為さん。義はただ剛健に応ずれば、何ぞ必ずしも乾ならざれば馬を為さん。(注:《遯》卦は坤なくして六三もまた牛と称し、《明夷》は乾なくして六二もまた馬と称す。)然るに人有りて偏に馬を死に乾の上に定めて、文辞に照らして卦体を責求し、馬有りて乾なきに遇えば、則ち偽説泛濫して多く記して來れず。互体は講じ通せざれば、即ち卦変を搬出し、卦変もなお講じ通せざれば、即ち五行の上に推到す。一旦本原を失うや、弄する愈々巧くなるほど愈々糟くなり、たとい偶偶碰對するも、義理の上に取るべき処なし。此れ皆象を拘守して意を遺忘するの造成する所なり(注:魚と兔を丟えば則ちただ空しく筌と蹄を守り、剛健柔順を遺棄すれば則ちただ空しく龍と馬を談ず)。象を忘れて其の中の意を求めれば、義理は即ち自然に顕現す。
陵陽李氏心傳《丙子學易編》曰:自周之衰,言《易》者寖失羲、文之意,而牽合破碎,或反資以為亂,故夫子作《十翼》,専以義理明之。其後讖緯之學興,而飛伏、互體之文,壬遁、九宮之說,紛紛然並出,皆托《易》以行世。至王輔嗣乃獨辭而闢之,其視兩漢諸儒可謂賢矣,惜其溺於時好,乃取莊、老之妄以亂周、孔之實,故《易》之道終不明於世。
南宋の陵陽人李心伝《丙子学易編》は曰く、周室が衰微してより、《易》を講ずる人は漸々伏羲・文王の本意を失い、牽強附会・支離破碎して、あるいは却って作乱の憑借を為すに拿げられ、故に孔子は《十翼》を作り、専ら義理を以て之を闡明した。此の後讖緯の学が興起し、飛伏・互体の文字、六壬遁甲・九宮の説法は、紛紛として一起に冒出して、皆《易》を假托して以て世に流行した。王弼(字は輔嗣)に至りて才めて独り著文して以て排斥を加え、両漢の諸儒に比すれば賢明と言うべし。可惜しむべくは彼は当時の風尚に沉溺して、竟に荘子・老子の虚妄の説を取りて周公・孔子の実理を攪乱し、故に《易》道は終じて世に大明する能わざりき。
按:王氏筌蹄之喻,雖出於莊子而其義不同。其所謂忘言忘象者,亦謂學《易》者觀象玩辭,期於自得,久之當有所融釋脫落耳,非若為先天之學者欲盡棄周孔之言,専於羲皇心地上馳騁也。即其卦爻之解,間有涉於虛無者,亦皆莊老之微旨,與坎離龍虎之說精觕相去逺矣。故伊川教人且看王輔嗣、胡翼之、王介甫三家《易》,以其所主在義理,不為百家眾技所惑也。宋人奉陳、邵為伏羲,而顧斥輔嗣為莊老,吾不知其何說矣。
胡渭按語:王弼の筌蹄の比喻は《荘子》より出づると雖も、含義は相同じからず。彼の言う忘言忘象も、亦た過ぎず《易》を学ぶ人が象を観じ辞を玩みて、自得に期し、日子一久しければ自然に融通脱落する所有らんを言うのみ、併せて先天の学を搞する人の如く、周公・孔子の話を全部拋棄して、専ら伏羲の心地の上に馳騁せんとするに似ず。たとい彼が卦爻を解釈する時に偶々虚无に涉及する処有るも、あれは皆荘・老の微旨にして、坎離龍虎あの套の丹家の説とは精粗の上に相去ること甚だ遠し。故に程頤は人に教えて姑く先ず王弼・胡瑗(字は翼之)・王安石(字は介甫)三家の《易》を看よと為す、彼らの主とする所は義理に在りて、諸子百家の方技に迷惑せられざるを以てなり。宋人は陳抟・邵雍を奉じて伏羲と為し、却って王弼を斥責して荘老と為す、我は真に此れ何の説法なるかを知らず。
程子《易傳序》曰:《易》,變易也,隨時變易以從道也。其為書也,廣大悉備,將以順性命之理,通幽明之故,盡事物之情,而示開物成務之道也。聖人之憂患後世,可謂至矣。去古雖逺,遺經尚存,然而前儒失意以傳言,後學誦言而忘味,自秦而下,蓋無傳矣。予生千載之後,悼斯文之湮晦,將俾後人沿流而求源,此傳所以作也。
程頤《周易程氏伝》の序は曰く、いわゆる《易》は、即ち変易なり、時勢に随いて変易して以て道に順従す。此の部の書は広大にして備らざる所なし、以て性命の理に順応し、幽明の故を貫通し、事物の情を窮尽し、従りて「物を開き務を成す」の道理を昭示す。聖人は後世の為に憂慮し、極点に至ったと言うべし。古代より距ること久遠と雖も、遺留の経文はなお在り、然るに先前の儒者は本意を丟掉してただ文句を伝え、後来の学者は文句を誦読して意味を忘掉し、秦より以後、真の伝承なしと言うべし。我は千年の後に生れ、此の文脉の湮没晦暗なるを痛惜し、後人をして支流に沿いて源頭を追尋せしめんと欲す。此の伝は即ち此の為に作る所なり。
《易》有聖人之道四焉:以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占。吉凶消長之理,進退存亡之道,備於辭,推辭考卦,可以知變,象占在其中矣。君子居則觀其象而玩其辭,動則觀其變而玩其占。得於辭不達其意者有矣,未有不得於辭而能通其意者也。至微者理也,至著者象也,體用一源,顯微無間。觀會通以行其典禮,則辭無所不備。故善學者求言必自近,易於近者非知言者也。予所傳者辭也,由辭以得其意,則在乎人焉。
《易》は聖人の道の四つの方面を包含す:之を以て講論する者は其の辞を重んじ、之を以て行動する者は其の変を重んじ、之を以て器物を制作する者は其の象を重んじ、之を以て卜筮する者は其の占を重んず。吉凶消長の道理・進退存亡の方法は、皆完備に辞の中に体現す。辞を推求し卦を考察すれば、即ち変を知るべく、象と占もまた其の中に包含す。君子は平居すれば即ち其の象を観察して其の辞を玩味し、行動有らば即ち其の変を観察して其の占を玩味す。人有りて辞を得て其の中の意に通達する能わざるは有れど、従来辞を得ざりて能く其の意に通ずる人はなし。最も幽微なるは理、最も顕著なるは象、体と用は同一の源より出で、顕と微の間に間隔なし。事理の会通の処を観察して其の典章礼制を施行せば、則ち辞は備らざる所なし。故に善く学を為す者は文辞を求解するに必ず切近の処より入手す、切近の処を軽視する者は是れ言辞を懂得する者にあらず。我の伝述する所は辞なり、辞より以て其の中の意を領会せんに至っては、則ち各人自らに在り。
《遺書》:張閎中以書問「《易》之義本起於數」,程子答曰:謂義起數則非也。有理而後有象,有象而後有數。《易》因象以知數,得其義則象數在其中矣。必欲窮象之隠微,盡數之毫忽,乃尋流逐末,術家所尚,非儒者之務也,管輅、郭璞之學是已。又曰:理無形也,故因象以明理;理見乎辭者也,則可由辭以觀象,故曰「得其義則象數在其中矣」。
《程氏遺書》に記載す:張閎中は信を写して「《易》の義理は本来数より起る」と問う。程頤は回答して曰く、義理は数より起ると言うは、あれは是れ是ならず。先に理有りて後に象有り、先に象有りて後に数有り。《易》は象を憑借して以て数を知る、其の義を得れば、象と数は皆其の中に在り。若し必ず象の隠微を窮究し数の毫忽を算尽せば、則ち是れ流を尋ね末を逐うにして、術士の崇尚する所にして、儒者の正事にあらず、管輅・郭璞あの一路の学問は即ち此の如し。程頤また曰く、理は形体なく、故に象を借助して以て理を闡明す。理は辞の上に顕現す、故に辞より以て象を観るべし。故に「其の義を得れば、象と数は皆其の中に在り」と言う。
朱子曰:自秦漢以來,考象辭者泥於術數,而不得其弘通簡易之法;談義理者淪於空寂,而不適乎仁義中正之歸。求其因時立教,以承三聖,不同於法而同於道者,則惟伊川先生程氏之書而已。後之君子誠能日取其一卦若一爻者熟復而深玩之,如已有疑將決於筮而得之者,虛心端意,推之於事而反之於身,以求其所以處此之實,則于吉凶消長之理、進退存亡之道,將無所求而不得,邇之事父,逺之事君,亦無處而不當矣。
朱熹は曰く、秦漢より以来、象と辞を考求する人は術数に拘泥して、あの弘大通達・簡易明白の法門を得ず。義理を談論する人はまた空虚寂滅に淪して、仁義中正の帰宿に達せず。一位の能く時に因りて教を設け、上は伏羲・文王・孔子三聖を承け、方法同じからずして同じくする所は道に在る者を找せんとすれば、則ちただ伊川先生程頤の書のみ有り。後世の君子若し真能く毎日其の中の一卦あるいは一爻を取りて反復熟読し深く玩味を加え、自ら心の中に疑難有りて将に占筮を通じて決断せんとするに恰好此の一卦一爻を得るが如く、虚心端意して、之を事に推して身に反求し、眼前の処境に応対する実理を寻求せば、則ち吉凶消長の道理・進退存亡の方法に対し、将に求めて得ざるなからん。近くは父亲に事奉し、遠くは君主に事奉し、亦た一処として合宜ならざるなし。
鄱陽馬氏端臨曰:按伊川之《易》,精於義理而略於卜筮象數,此固先儒之說。然愚嘗以為《易》之象數卜筮,豈出於義理之外?蓋有此理則有此象、有此數,而卜筮之說,其所謂趨吉避凶、恵迪從逆雲者,又未嘗不一出於義理。平時本諸踐履,則觀象玩辭,此義理也;一旦謀及卜筮,則觀變玩占,亦此義理也,初不必岐而二之。
元代の鄱陽人馬端臨は曰く、程頤の《周易程氏伝》に按ずれば、義理に精しくして卜筮象数には講ずること簡略なるは、此れ本来前輩儒者の定評なり。然るに我は曾て《易》の象数と卜筮は、あに能く義理の外に走り出でんやと認めり。既に此の理有れば、即ち此の象有り此の数有り。而も卜筮のあの套の説法は、いわゆる吉に趨り凶を避け、善道に順従すれば則ち吉、善道に違逆すれば則ち凶の話は、又た何ぞ一概に義理の中より出でざらん。平日に躬行践履を以て根本と為し、即ち象を観じ辞を玩むは、此れ義理なり。一旦事有りて卜筮に謀れば、即ち変を観じ占を玩むは、此れ同じくなお義理なり。本来即ち両者を分けて両截と為して看るを必とせざるなり。
項氏《周易玩辭》自序曰:「君子居則觀其象而玩其辭,動則觀其變而玩其占」,讀《易》之法盡於此矣。《易》之道四,其實則二,象與辭是也。變則象之進退也,占則辭之吉凶也。不識其象,何以知其變?不通其辭,何以決其占?然而聖人因象以措辭,後學因辭而測象,則今之讀《易》,所當反覆紬繹、精思而深味者,莫辭若也。於是作《周易玩辭》。
南宋の項安世《周易玩辞》の自序は曰く、「君子は平居すれば即ち其の象を観察して其の辞を玩味し、行動有らば即ち其の変を観察して其の占を玩味す」と、《易》を読むの方法は尽くして此処に在り。《易》の道は四項有りて、其実はただ両項のみ有り、即ち象と辞なり。変は、是れ象の進退。占は、是れ辞の吉凶。其の象を認識せざれば、どうして其の変を知らん。其の辞を通暁せざれば、どうして其の占を決断せん。然るに聖人は象に依拠して文辞を措置し、後学は則ち文辞に依拠して象を推測す。さらば今天《易》を読むに、最も反復抽繹し精思深味すべきは、文辞より更要緊なるはなし。遂に此の部の《周易玩辞》を写し出せり。
又曰:程子平生所著,獨《易傳》為全書,安世受而讀之三十年矣。今以其所得於《易傳》者述為此書,而其文無與《易傳》合者,合則無用述此書矣。世之友朋,以《易傳》之理觀吾書,本末條貫,無一不本於《易傳》者;以《易傳》之文觀吾書,則未免有「使西河之民疑汝於夫子」之怒。知我者此書也,罪我者此書也。
項安世また曰く、程頤の一生に著する所は、ただ《易伝》のみ是れ完整の書なり。我は之を領受して誦読するやすでに三十年なり。今《易伝》より得たる所の心得を撰述して此の部の書と為すも、而も書の中の文字は《易伝》と相同じる一処なし。若し相同じれば、則ち此の部の書を再び写すを用いざるなり。世上の朋友、若し《易伝》の義理を以て我が書を看れば、本より末まで条理貫通して、《易伝》に本づかざる一処なし。若し《易伝》の文字を以て我が書を看れば、則ち免れず「西河の民をして汝を夫子に疑わしむ」の如き責怪を招来せん。我を理解するは是れ此の部の書、我を怪罪するも亦是れ此の部の書。
鄱陽馬氏《周易玩辭序》曰:《易》有聖人之道四,變與象居其二焉。自義理之學大明,而變象之說幾晦,先儒欲救其弊,則曰:「聖人當時自可別作一書明言義理以詔後世,何用假託卦爻,為此艱深隠晦之辭乎?」愚嘗以為變之說不一:有隨時之變,如彖、象、小象、文言、繫辭各自一義是也;有逐爻之變,如九六七八、陰陽老少是也;有逐卦之變,如剛柔往來、互體飛伏是也。
馬端臨が項安世《周易玩辞》の為に作る序は曰く、《易》は聖人の道四項を包含し、「変」と「象」は即ち其の中の両項を占む。義理の学が大いに昌明してより、変を講じ象を講ずる説法はほとんど晦暗にして彰らず、前輩の儒者は此の偏失を補救せんと欲して、就中反問して曰く、「聖人は当時尽くして別に一部の書を写し、明明白白に義理を講じて以て後世に告示すべく、何ぞ必ずしも卦爻を假托して、此の種の艱深隠晦の文辞を写り出さんや」と。我は曾て「変」の説法は一种に止まらずと認めり:随時に言うの変有り、例えば《彖伝》《大象》《小象》《文言》《繋辞》は各々一層の意義を成就する如し。逐爻に言うの変有り、例えば九・六・七・八および陰陽老少の分は如し。逐卦に言うの変有り、例えば剛柔往来・互体飛伏此の一類は如し。
象之說亦不一:有卦畫之象,陰陽竒耦、三連六斷是也;有大象之象,天地風雷、山澤水火是也;有《說卦》之象,乾為馬、坤為牛、乾為首、坤為腹之類是也。至簡要者隨時之變也,至支離者逐卦之變也,至精微者卦畫之象也,至瑣碎者《說卦》之象也。必研究其簡要精微者,而不拘泥其支離瑣碎者,則曰象曰變,固無非精義至理之所寄也,豈有二哉?
「象」の説法も亦た同じく一种に止まらず:卦画の象有り、陰陽の奇画と偶画・三画相連の乾と六画中断の坤は如し。大象の象有り、天・地・風・雷・山・沢・水・火此の八种の物象は如し。《説卦》の象有り、乾は馬を為し坤は牛を為し乾は首を為し坤は腹を為す此の一類の取譬は如し。此の幾種の中に在りて、最も簡明扼要なるは是れ随時の変、最も支離なるは是れ逐卦の変。最も精微なるは是れ卦画の象、最も瑣碎なるは是れ《説卦》の象。ただあの簡要精微の部分を用心研究し、而もあの支離瑣碎の部分に拘泥せざれば、則ちいわゆる「象」・いわゆる「変」は、本来精深なる義理の寄托する所にあらざるなしにして、あに截然として両回事ならんや。
按:象、辭、變、占四者,說《易》之綱領也。伊川歸重於辭,平庵因之。愚則謂辭本乎象,象尤不可忽,故夫子曰「聖人立象以盡意,繫辭焉以盡其言」,又曰「八卦以象告,爻彖以情言」。象者,二體六爻之畫是也,而王輔嗣以乾牛坤馬之類當之。朱子謂如「初九潛龍勿用」一辭中四者俱備:初九,變也;潛龍,象也;勿用,占也。愚則謂潛龍、牝馬等語,若詩之比興,總謂之辭,非夫子之所謂象。平庵云:凡卦辭皆曰彖,凡卦畫皆曰象,未畫則其象隠,已畫則其象著,故指畫為象,非謂物象也;大象總論六畫之義,小象各論一畫之義,故皆謂之象;其曰天、曰龍者,自因有象之後推引物類以明之耳,本稱《易》象,非此之謂也。斯言可以正諸儒之失。未筮謂之辭,筮得其辭謂之占,亦非但「勿用」二字為占也。
胡渭按語:象・辞・変・占四項は、是れ《易》を解説する綱領なり。程頤は重心を辞の上に帰し、項安世(号は平庵)は其の説法に沿袭す。我は則ち辞は象に本づき、象は尤も忽略すべからずと認む。故に孔子は「聖人は象を立てて以て意を尽くし、辞を繫げ焉して以て其の言を尽くす」と言い、また「八卦は象を以て告げ、爻彖は情を以て言う」と言う。いわゆる象は、上下二体・六爻の卦画を指すのに、而も王弼は却って乾は牛を為し坤は馬を為す此の一類を拿げて以て之に充当す。朱熹は「初九潜龍勿用」の如き一句の辞の中に四者皆斉備すと認む:「初九」は是れ変、「潜龍」は是れ象、「勿用」は是れ占。我は則ち潜龍・牝馬此の類の語句は、《詩経》の比興に比すべく、帰根して皆辞と算す、併せて孔子の言う象にあらずと認む。項安世は曰く、およそ卦辞は皆彖と叫び、およそ卦画は皆象と叫ぶ。未だ画り出さざる時はあの象は是れ隠にして、画り出せばあの象は顕なり。故に卦画を指して象と為す、併せて物象を言うにあらず。《大象》は総じて六画の義理を論じ、《小象》は分かちて一画の義理を論ず。故に皆象と称す。天を言い龍を言うに至っては、あれは卦画の象有るの後に物類を推引して以て之を説明するのみ、本来称する所の《易》象は、指す所は此れにあらず。此の番の話は以て諸儒の失誤を匡正すべし。占筮せざる時は之を辞と叫び、占筮してあの句の辞を得れば即ち之を占と叫ぶ、亦た単に「勿用」両箇の字のみ才めて占と算するにあらず。
京山郝氏敬《談經》曰:羲畫始呈玄旨,苞絡如夜半子,陽初動,晨光未熹。夏、商之易不可覩矣,然使其無憾,文王必不更演《易》。至文王、周公抽厥玄緒,但其辭旨深約,如平旦昧爽,曲房晏起,尚未知曙。迨夫子《十翼》,讚揚幽隠,畢達揭日月而行康莊,大明中天矣。旋罹秦火,六籍散越而《易》獨存,後生捧完璧,誠斯文大幸。奈何更生異端,稂莠其真苗,磔裂其同體,妄謂羲聖有不傳之秘,使緯稗蠭起,詆夫子《十翼》為一家言,離經叛道莫此為甚。
明代の京山人郝敬は《談経》の中に曰く、伏羲の卦画は初めて玄妙の意旨を呈現し、万有を包罗するも半夜子時の如く、陽気は剛く萌動し、晨光はなお未だ明亮ならず。夏・商両代の易はすでに看る能わざるも、然るに仮にあの時の易が毫も遺憾なからば、文王は必ず再び《易》を推演せざらん。文王・周公が其の中の玄妙の線索を抽繹するに至るも、然るに彼らの文辞意旨は深奥簡約にして、平旦天色微明に比すべく、深屋の中に睡り晩れた人はなお已に天亮したるを知らず。孔子が《十翼》を作るに及ぶに至りて、幽深隠微の処を一々闡揚し、全部通達して、日月を挙げて康庄大道の上に行走するが如く、太陽は空に当たりて光明大盛なり。随后に秦代の焚書に遭遇し、六経は散失して独り《易》のみ保存を得たり。後生は此の塊の完璧を捧ぐ、実在是れ斯文の大幸なり。あきない、また異端を生出して、莠草を以て其の真苗を雑乱し、其れ本来一体のものを撕裂開きて、妄りに伏羲は別に伝えざる秘旨有りと説きて、緯書稗説をして蜂擁して起らしめ、孔子の《十翼》を詆毀してただ一家の言と為すは、経に離れ道に叛くは此れより厲害なるはなし。
近時博士家承邵、朱之說,謂三聖不同易,病分經合傳之非古,歸咎王弼,此不能三年之喪而緦小功之察也。夫謂經傳不可合者,以書同而道異、言同而人異,如《春秋》諸傳於經,則誠未可合也;羲、文、周、孔,奚不合之有?由孔子視三聖為古,自視為傳;由今視四聖,則皆古也,皆經也。孔子何遂不如左、公、谷傳《春秋》?世儒不病左、公、谷合《春秋》,而病《十翼》合《易》,以伸「四聖不同易」之說,謬也。
近来経を講ずる博士らは邵雍・朱熹の説法を承襲して、伏羲・文王・孔子三聖の易は各々相同じからずと認め、経と伝を合せるは古制に合わずと指責して、過錯を王弼の身上に帰す。此れは譬えば三年之喪すら行う能わざるに、却って緦麻・小功あの些細の処を講究するが如し。経と伝は合併すべからずと言うは、是れ書は同じと雖も道は相異なり、話は同じと雖も人は相異なるが為、《春秋》諸家の伝は経に対し、あれは確かに合併すべからざるなり。伏羲・文王・周公・孔子に至っては、何の合併すべからざる有らん。孔子の角度より看れば、三聖は是れ古人、自ら作る所は是れ伝。今天より四位の聖人を看れば、あれは皆古人、亦た皆経なり。孔子はあに却って左氏・公羊・穀梁が《春秋》の為に伝を作るに及ばざらんや。世儒は左・公・穀三伝が《春秋》と合刻するを非議せずして、却って《十翼》が《易》と合編するを非議し、此れを以て「四聖同じ易ならず」の説法を伸張す、此れ是れ荒謬なり。
