日之時卦
三百六十時為一周,每一時用四爻,每二刻用一爻,仍分節氣蔵閏,一時準一日三十時,兩日半準一月,每月初一日子時至初五日亥時為二月,每一月準一年,而月之大則三十日準一月,月之小則二十九時準一月,蓋月之大則一月三百六十時(十二個三十也)月小則—月三百四十八時,(十二個二十九)此經世書引而伸之一元之內,閏大小皆不差矣。
三百六十個の時辰を一週とし、每一个時辰は四爻を用い、每两刻は一爻を用い、仍旧節気に按じ蔵閏す。一个時辰は一天に折合し、三十個時辰すなわち两天半は一个月に折合す。每月初一子時より初五亥時に至るまでを两个月と算作し、每一个月は一年に折合す。大月は三十日を以て一月に折合し、小月は二十九時を以て一月に折合す:大月の一个月は三百六十時(十二個の三十)あり、小月の一个月は三百四十八時(十二個の二十九)あるがゆえに。《経世書》のこのごとく引申するは、一元の内に在りて、閏の大小はみな差錯あらざらんことを期す。
日之時卦,只以年之月卦為用,但有起寅字之異耳,年之月卦,則以五虎元遁,而寅月起升蒙蠱井,張行成作經世書,通變不分大小運,皆起升蒙蠱井,蓋只得半無邪,所謂卦起升蒙蠱井之一句耳,不知康節先生以元會運世年為大運,起泰、損、大蓄、節。月為小運,起升、蒙、蠱、井之要訣也。
日の時卦は、ただ年の月卦を借りて推る。差別はただ起卦は寅字より起こるに在るのみ。年の月卦は、「五虎遁」の口訣に按じ、寅月より《升》《蒙》《蠱》《井》を起す。張行成は《経世》之書を作り、通変を講ずるに大運小運を分かたず、一律に《升》《蒙》《蠱》《井》を起す。あれはただ一半を得たのみ、いわゆる「卦起升蒙蠱井」の这一句のみである。彼は知らず、康節先生の要訣は:元・会・運・世・年は大運に属し、《泰》《損》《大畜》《節》を起し、月は小運に属して、はじめて《升》《蒙》《蠱》《井》を起す、なることを。
皇極起卦法(およそ三条)
皇極起卦有四法,天數起於會之子,冬至甲子卦自泰行也。人數起於運之甲,驚蟄己卯方起泰卦,地起於世之子,大寒甲己仲用泰值事,物數起於月之寅,春分起泰而用甲己孟,各各不用起冬至者,天運子也起大寒者。地運丑也起驚蟄者,人建寅也,而積一氣在正月之終氣也,起春分者,帝出於震也。天地人物各用一元,皆首於泰卦,
《皇極》の起卦に四種の办法あり。天数は会の子位に起り、冬至甲子は《泰》卦より運行を始む。人数は運の甲位に起り、驚蟄己卯にしてはじめて《泰》卦を起す。地数は世の子位に起り、大寒甲己之仲は《泰》卦をもって当値と為す。物数は月の寅位に起り、春分に《泰》卦を起して甲己之孟を用う。各家の起す所の不同:冬至を起すは、天運の子に在るを取る。大寒を起すは、地運の丑に在るを取る。驚蟄を起すは、人統の寅に建つを取るも、而して累積の一气は正に正月の終気に在る。春分を起すは、「帝出乎震」之義を取る。天・地・人・物は各々一元を用い、みな《泰》卦を首と為す。
自干與坤分太極為易之門,一變而為四象,二變而為八卦,三變而為十六位,四變而為六十四卦,至四變而耦之,則先天大圖一百二十八卦也。四變而四之,則掛一圖二百五十六卦也。四變而八則既濟圖,五百一十二卦也。四變而六之,則既濟陰陽圖之細數,各一千二十四卦也,八八之卦亦四變而為用,故日月星辰有天,水火土石之在地,土農工商之在人,無非四也。
《乾》《坤》は太極を分判し、《易》の門戸と為る。一変して四象を成し、二変して八卦を成し、三変して十六位を成し、四変して六十四卦を成す。四変の後さらに加倍すれば、すなわち先天大図の一百二十八卦。四変の後四を乗ずれば、すなわち「挂一図」の二百五十六卦。四変の後八を乗ずれば、すなわち《既済》図の五百一十二卦。四変の後さらに二を乗ずれば(原文「六之」と作る)、すなわち《既済》陰陽図の細数、各々一千零二十四卦を得る。八八六十四卦もみな四変を経てはじめて作用を起す。ゆえに天に日・月・星・辰あり、地に水・火・土・石あり、人間に士・農・工・商あり、一として四ならざるなし。
皇極之法妙在方圓曲直,行以園生物,以方平行則直斜行則曲,所以成變化而行鬼神,乘除消長是由此而分也。先天以方圓二象合為一圖,分二圖別之為二,此元經會,會經運,會經世,皆圓圖之用也。
《皇極》之法の妙処は方・円・曲・直に在り:運行は円を用い、生物は方を用う。平に走れば直線と成り、斜に走れば曲線と成る。変化はこれより成り、鬼神はこれより行い、乗・除・消・長もこれより分かつ。先天は方・円両個の象を一幅の図に合成し、また分けて両幅の図と為すを得る。いわゆる「以元経会」「以会経運」「以運経世」(原文「会経世」は「運経世」と作るべし)は、みな円図の用法である。
乾坤為大父母,其卦皆右行,從太陽也。復姤為小父母,其卦皆左行,從四時也。右從之卦,皆一生二,二生四,四生十六,十六生三十二,三十二生六十四,至於反生一十七卦,而復會無極之數,即元終復有元之理也。左行之卦,自一而二,笫笫相承,如環無端,即歲運又攺歲之理也。二者順逆異行,其數之差,至於萬萬極,陽舒陰縮也。
《乾》《坤》は大父母、それらの生ずる卦はみな右に行き、太陽に跟随す。《復》《姤》は小父母、それらの生ずる卦はみな左に行き、四時に跟随す。右に行く卦は、みな一生二・二生四・四生十六・十六生三十二・三十二生六十四、反生の一十七卦に至るまで、また無極之数に帰会す。これはすなわち一元終りてまた一元あるの理。左に行く卦は、一より二へ、層層相承け、円環のごとく起訖なし。これはすなわち一年過ぎてまた新年に改まるの理。両者は順逆方向同じからず、数目の相差は大いに万万の極に至るを得る。あれは陽気の舒展・陰気の収縮の致す所である。
皇極二百五十六卦,只用內貞外悔二象之外無爻義,故分兩圖,只用一二三四五六七八之數,而定卦分兩圖變既濟圖,皆以內外之數繫卦為卦,一卦以數取成二百五十六卦,其卦又自袓於先圓圖也。觀物外篇言:乾兌離震,用陽爻一百八十,巽坎艮坤,用陰爻一百八十,又並陽侵陰旦侵夜數,又取坎艮之陽爻四十,共三百五十六爻,即掛一卦所袓也,是以摘爻明義,以所得卦為吉凶也。
《皇極》の二百五十六卦は、ただ内卦を「貞」・外卦を「悔」とする両個の象を用うるのみで、このほか爻義を講ぜず。ゆえに両幅の図に分け、ただ一・二・三・四・五・六・七・八の几个の数をもって卦を定む。両図を分けて再び《既済》図に変ずるも、みな内外の数を卦に係して卦を成すを以てす。一卦は数に按じ取り用い、共に二百五十六卦を成し、而してこれらの卦はまたみな先天円図を祖述す。《観物外篇》に言う:《乾》《兌》《離》《震》は陽爻一百八十を用い、《巽》《坎》《艮》《坤》は陰爻一百八十を用い、さらに陽侵陰・昼侵夜の数を合し、また《坎》《艮》の陽爻四十を取り、共に三百五十六爻、これすなわち「挂一卦」の祖述する来源。ゆえに爻位を摘取して義理を闡明し、所得の卦を以て吉凶を判断せんとす。
元会運世入図歌訣
既濟卦皆以尊居左,以卑居右,如運與會,則運為尊,運為世,則會為尊也。位置左卦有是地卦者變為天,如坤變乾,巽變震是也,又看右卦有是天卦變為地,如震變巽,離變坎是也。各變合天地之位了,乃取之方合既濟圖,植物卦亦然。 元經會觀天也,會經運觀地也,運經世觀人也。聲音律呂則又以之而觀物矣。
《既済》図の卦は、みな尊者を左辺に・卑者を右辺に放つ:たとえば運と会と相配せば、すなわち運を以て尊と為し、運と世と相配せば、すなわち会を以て尊と為す(この両句の原文は疑わしく互倒あり)。安放する時は左辺の卦を看、もし地卦なればすなわち天卦に変ず、《坤》の《乾》に変ずるごとく、《巽》の《震》に変ずるごとし。さらに右辺の卦を看、もし天卦なればすなわち地卦に変ず、《震》の《巽》に変ずるごとく、《離》の《坎》に変ずるごとし。各々変じて天地の位次に合するの後、取り来りてはじめて《既済》図の格局に合す。植物類の卦もこれに照じて办理す。「以元経会」は天を観、「以会経運」は地を観、「以運経世」は人を観る。声音律呂に至っては、すなわち物を観るに用う。
經世之篇起唐堯,用編年法分三百六十年為一周,積為十運也。欲見三百六十年值年卦同而應驗,所以異者在於值運值世者之卦,處互成章,不可為典常也,
《経世》各篇は唐尭より紀年を起こし、編年之法を用い、三百六十年を一周と算作し、累積して十運と為す。値年の卦は每三百六十年に一度重複すれど、応験は各々相同じからず、分別はすなわち値運・値世の卦の上に在り。それらは交錯して文と成り、一成不変の常法と作るべからず。
如泰否兩卦,泰在否中則吉,否在泰中則凶。是小不勝大也。然泰在否中而否,自屯來夬剝等卦,來則仍主凶,否在泰中,而泰自大有謙,無妄來則不能為災矣。是弱不能敵強也。天理人事本不相遠,陽多則為德,為君子,為平治,為豐大,陰多則為刑,為小人,為難危,為廹促,觀康節論大過之義,則逢大過卦者,豈可便為棟橈凶哉,謙無凶而夬剝無吉,恐亦未然,如謙當閉物,何吉之有。
《泰》《否》両卦を以て例と為せば:《泰》が《否》の大局の中に処すれば吉、《否》が《泰》の大局の中に処すれば凶。これは小の大に敵せざるなり。しかし《泰》は《否》の中に処するも、もしあの《否》が《屯》《夬》《剥》等の卦より転来すれば、仍旧凶を主とす。《否》は《泰》の中に処するも、もしあの《泰》が《大有》《謙》《无妄》より転来すれば、災を成す能わず。これは弱の強に敵せざるなり。天理と人事は本来相去遠からず:陽多ければ徳と現れ・君子と現れ・太平と現れ・豊大と現る。陰多ければ刑と現れ・小人と現れ・艱危と現れ・窘迫と現る。康節の《大過》を論ずる意を看れば、およそ《大過》卦に遇う者、何ぞ必ずしも「棟橈」之凶ならんや。《謙》卦は全く凶なく《夬》《剥》は全く吉なしと言うも、恐らく未だ必ずしも然らず:《謙》卦もし正に閉物の時に当たらば、また何の吉か言わんや。
皇極起例(およそ六条)
皇極用卦之法出於方外丹經之道意,其詞曰:“用卦不用卦,須向卦中作,及其用卦時,用卦還是錯。”此以所得之卦變而合位。不用原卦是用卦不用卦也。又並兩卦相合而交取其貞與悔各以一卦以既濟卦之四象,此須向卦中作也,得四矣又也入卦一卦而後用之,猶以用既濟卦為錯也,
《皇極》の用卦の方法は、方外丹経の意旨より出ず。その口訣に言う:「用卦不用卦、須向卦中作。及其用卦時、用卦還是錯。」これは求め得た卦を変化を加えて位次に合わしめ、元来の卦を用いざるを言い、これを「用卦不用卦」と言う。また両卦を相合して交互に内卦(貞)と外卦(悔)を取り出し、各々一卦を成し、《既済》卦の四象に配す。これを「須向卦中作」と言う。四象を得出して後、さらに再び卦に入りて一卦を取りて然る後に使用す。ゆえに単に《既済》卦を用いるは仍旧錯なりと言う。
今附例於後假如人來說少字,就用少字算少字,是古沼切在二十七筱字,韻聲屬上聲,音屬齒音之第四聲,屬日月,聲輕乃夬卦,音屬收齒輕乃比卦,以夬卦居左比卦居右,二卦相併其外卦是兌與坎合成困卦,其內卦是干與坤合成否卦則臺既濟圖是會之元之運之元困否入卦,一個乃大有卦也,斷之曰:吉。其數六兆五千萬億,笫四聲屬丁齒音,四屬亥,四巽十得五十六數,去三十而用二十六,乘之則得一百兆之數也,數內隱天山遯卦,乃成功身退之象也。
いま例を後に附す。たとえば人ありて来りて一個の「少」字を言わば、すなわち「少」字をもって起算す。「少」は古沼切、二十七篠韻に属し、声調は上声、読音は歯音の第四声に属す。声の上においては日月に属し、声軽く、《夬》卦を得る。音の上においては収歯にして軽く、《比》卦を得る。そこで《夬》卦を左辺に放ち、《比》卦を右辺に放つ。両卦并合し、外卦は《兌》と《坎》と合して《困》卦を成し、内卦は《乾》と《坤》と合して《否》卦を成す。さらに《既済》図に合し、会之元・運之元を得る。《困》《否》を卦に入れ、一卦を取ればすなわち《大有》卦、断語は吉。その数は六兆五千億。第四声は丁に属し歯音に属し、四はまた亥に属し、四と《巽》の十と相加して五十六を得、三十を減じて二十六を用い、これをもって相乗すれば一百兆之数を得る。数中に暗に《天山遯》卦を蔵す。正に功成身退の象。
假如有事在心,忽聞牛叫,就用叫字算,是古吊切在十八嘨字韻,聲屬去聲,音屬舌音之笫一,是聲屬月辰,乃屬隨卦,音屬唇音輕閉,乃觀卦。便以隨卦居左,觀卦居右,二卦順並其外卦是兌,與巽合為大過卦,其內卦是震與坤合為豫卦,則合既濟圖是會之世之元,大過豫而入掛一圖,乃既濟卦也。斷之曰:其事已成在秋季,尤吉。
またたとえば心裏に正に一件事を想うに、忽然として牛の叫ぶを聞かば、すなわちこの「叫」字をもって起算す。「叫」は古吊切、十八啸韻に属し、声調は去声、読音は舌音の第一等に属す。声の上においては月辰に属し、《随》卦を得る。音の上においては唇音にして軽閉、《観》卦を得る。そこで《随》卦を左辺に放ち、《観》卦を右辺に放つ。両卦順次并合し、外卦は《兌》と《巽》と合して《大過》卦を成し、内卦は《震》と《坤》と合して《豫》卦を成す。さらに《既済》図に合し、会之世之元を得る。《大過》《豫》を「挂一図」に代入すれば、すなわち《既済》卦。断語は:此事すでに办成し、秋季に応じ、尤も吉利、と。
其數一萬二千五百九十七億一千二百萬,其叫字屬笫三聲,丙子四音已是二十八數,復以二十八因之,則得其事之數,三十五萬二千九百一十九億三千六百萬。又斷之曰:笫三位空,其事難成於同乾人中,有不足。又數內八百二十億為地澤臨,此八月終之卦,全於八月,有凶也。
その数は一万二千五百九十七億一千二百万。「叫」字は第三声に属し、丙子四音はすでに二十八之数に合し、さらに二十八を以て乗ずれば、すなわち此事之数を得る:三十五万二千九百十九億三千六百万。また断じて曰く:第三位は落空し、此事は同伙の人の中において办成し難く、その中に欠缺あり、と。数裏にはさらに八百二十億を含みて《地沢臨》卦と為る。これは八月末の卦、事情は整个八月に落ち、すなわち凶険あり。
巻二(《図書集成》版本)
問数答語
于越李子問曰:余留心數學久矣, 凡高賢名術未嘗不起疑,以探其薀,而驗者恆少不驗者恆多,未有如先生之奇,而多中神而多驗也,果有所秘傳耶?獨得之妙耶?何不垂筆,以示不朽。
越地(今の浙江一帯)の李子が請教して曰く:私は数学に留心すること已久しく、およそ高明之士・著名之術に遇えば、疑問を提出しその中の蘊奥を深探せざるなし。しかし応験するは常に少なく、応験せざるは常に多し。未だかつて先生のごとき奇妙を見ず——推断多く中り屢々神験す。これは究竟秘密の伝授あるか、それともあなた独得の妙悟か。何ぞ写下して、以て不朽に伝えざらんや、と。
楊子曰:具天地陰陽之理者易也,所以體天地陰陽之理,隨時變易以從道者心也,心不能靜無以決天下之疑。釋天下之疑矣。學數之要,必先掃除雜念,收斂身心,以有為應跡,以明覺為自然,久而行之,則志氣清明義理昭著,而數理自然貫通矣。
楊子が回答して曰く:完整地に天地陰陽之理を含具するは、《易》なり。よく天地陰陽之理を体認し、随時変易して大道に順従するは、心なり。心もし静ならざれば、天下の疑難を決断し天下の疑惑を解除する能わず。数を学ぶ要領は、必ず先に雑念を掃除し身心を収斂し、有意の作為をもって事跡に応付し、清明の覚照をもって本然状態と為さねばならず。このごとく長久に為し続ければ、志気は自然に清明、義理は自然に昭著、数理もまた自然に貫通す、と。
李子曰:飬靜之說,吾嘗聞其既矣,敢問變之說何如? 揚子曰:易者,隨時變易以從其道也。易書雖為卜筮而作,而義理未嘗不該苟專於卜筮,以求易則得其形,而下者遺其形,而上者殆非體用一原,顯微無間之道矣。苟專於義理以求易,則無以定天下之吉凶,決天下之得失,豈聖人所謂無大過而吉凶,而吉凶與民同患之意哉,故易卦雖有一定之名,而氣陏時轉,不無衰旺之萬,論卦不論氣,則局於象,昩於時,得其影響而不能真知灼見矣。若能看得卦氣透徹,不惟知吉凶而亦能識造化之根源也。
李子曰く:養静の道理は、私すでに聴明白せり。請う、「変」の道理はまた如何、と。楊子曰く:いわゆる《易》とは、すなわち随時変易して其道に順従する。《易》の書は卜筮のために作られたるも、義理は備わらざる所なし。もし一味に卜筮より《易》を求めれば、ただ形而下の一面を得て、形而上の一面を丢掉す。すなわち「体用一源・顕微无間」の道理に合せず。もし一味に義理より《易》を求めれば、また天下の吉凶を判定し天下の得失を決断する能わず。どこにか聖人のいう「无大過」にして「吉凶与民同患」の本意あらんや。ゆえに卦は各々固定の名称あれど、気は随時転移し、衰旺の差別ある能わず。ただ卦を論じて気を論ぜざれば、すなわち卦象に局限され时令に昏昧、ただ影子回声ばかりを得て、真知灼見と談ずるに足らず。もし卦気を透徹に看れば、すなわち吉凶を知るに止まらず、さらに造化の根源を認識し得る、と。
李子曰:卦氣之外,無仍別有機乎? 楊子曰:數固天地盈虛往來一定之理,而此心之靈不假思慮,不勞卜度,有以開天下之物成天下之務者,惟寂然不動而已矣。
李子曰く:卦気の外、さらに別に機要あるか否や、と。楊子曰く:数は固より天地盈虚往来の一定之理なれど、此心の霊明は必ずしも思慮に依頼せず、必ずしも力を費やして揣度せず、よく天下之物を開通し天下之務を成就す。拠る所はただ《繋辞》のいう「寂然不動」の四個字のみ、と。
昔張子厚為商洛令時,屢過康節之蘆,拜而問曰:此學幾日可盡?先生曰:本無多事,以子之才,頃刻可盡。須棄卻仕宦,靜養十年,使塵慮消散,自然有得。
从前張子厚(張載)商洛県令と為るや、屢々康節の草廬に到り拜訪し、礼を行い請教して曰く:この門の学問は多少の天を要して学尽くすを得るか、と。康節曰く:本来事多少あらず、あなたの才分に凭れば、頃刻の間に学尽くすを得。ただあなたは必ず仕宦を拠開し、十年静養し、塵世の雑念を消散干浄せしめば、自然所得あらん、と。
邢叔和來學引古今不已先生曰:姑置是先天未有許多語,且當虛心使胷中蕩然無一事,方可。 詩曰:若論先天一字無。 又曰:身在天地後,心在天地先。 又曰:天向一中分造化,人從心上起經綸。
邢叔和来り学を求め、一開口すれば古今を引証し、説き止まず。康節曰く:これらは先に放して置け。先天之学は本来あれほど多くの話あらず。あなたはしばらく心を虚にして、胸中を空蕩蕩として一事を存さずしてこそ、学ぶ可し、と。彼の詩に曰く:先天を論ずれば、一個字すらなし、と。また曰く:身は天地生成の後に在り、心は天地開闢の先に在り、と。また曰く:天は「一」の中に造化を分け、人は「心」の上に経綸を建立す、と。
他日又曰:數學非十年則不成。由此觀之學數以靜養為先,卦氣為要也。也靜則胷次玲瓏,物來順應,魯齊有云:先天之學純乎天者也,非純乎其天之人不可輕授,蓋以此數蘊神仙之秘訣,洩造化之元機,得之者當重,非其人不傳。故康節不授邢叔和而願授程明道,豈無所見而然焉。 李子曰:命之矣。敢不勤。 諸然觀物必有筌蹄,請書於後。
後に彼また曰く:数学は十年の功夫を下さざれば学成らず、と。これより見れば、数を学ぶは静養を以て先と為し、卦気を以て要と為す。心一たび静まれば、胸中は通透玲瓏、事物来れば自然順応す。魯斎言いし:先天之学は純乎天然の学問、心地純乎天然の人にあらずんば、軽易に伝授す可からず。この套の数の裏に神仙の秘訣を藴含し、造化の元機を泄露すればなり。これを得る人は応に郑重たるべし、その人にあらざれば伝えず、と。ゆえに康節は邢叔和に伝えるを肯んぜず、却って程明道に伝えるを情とす。豈に見地なくしてこのごとく為さんや。李子曰く:謹んで教を受けん、あえて勤勉せざらんや。すでにこの然れば、観物は総じて入手の門径あるべし、請い後に写下されよ、と。
観物筌蹄
一曰論動靜。夫動靜者。吉凶悔吝之本。蓋嗜慾將至有開。必先朕兆之萌。其端可測。一動一靜之間有自然之數。不動不占。不因事不占。故皇極之數專在動上求之。
第一条、動静を論ず。動と静は吉・凶・悔・吝の根本。嗜欲将に至らんとする時は必ず開端あり、事情発生の前は必ず先に征兆萌動あり、あの端倪は測知し得る。一動一静の間に、自ずから天然之数あり。ゆえに動ぜざれば占せず、具体の事情に因らざれば占せず。《皇極》之数は専ら「動」の上に求めんとす。
(星光注:“專在動上求之”也是《梅花易數》的大旨。《河洛精蘊》提到此意時有這樣一段文:“邵子《易》數甚精,如通一物,超數算之。便可知是物何時而始,何時而終。但必有動處,方能起算。如見一葉落,便從落葉之時起算”。
(星光按:「専在動上求之」もまた《梅花易数》の宗旨なり。《河洛精蘊》がこの層の意思を講ずるにこのような一段の話あり:邵子の《易》数は極めて精、たとえば一件の東西に遇えば、常規を超越して推算し、よくこの東西のいつ開始し何時終結するを知るを得。ただし必ず「動」処ありて、はじめて起算し得べし。たとえば一片の葉の落下を見れば、すなわち落葉の那一刻より起算す、と。
故在“大定根源”章節中有“先從動處起元機。次下今年月日時”之語。“動”是預測學中普遍推行的準則,六爻求動爻,六壬以沖剋為發用,遁甲以身宮為發動,皇極數以年干克為動減策數等等無不以動為旨。
ゆえに《大定根源》一章の中に「先ず動処より元機を起し、次に今年月日時を下す」の話あり。「動」は予測之学の普遍通行の準則:六爻卦は動爻を找求し、六壬は冲克を以て発用を取り、奇門遁甲は身宮を以て発動と為し、皇極数は年干相克を以て動と為して策数を減去す。このごとき等は、ことごとく「動」を宗旨と為さざるなし。
故楊子曰:“易卦雖有一定之名,而氣陏時轉,不無衰旺之萬,論卦不論氣,則局於象,昩於時,得其影響而不能真知灼見矣。若能看得卦氣透徹,不惟知吉凶而亦能識造化之根源也。”所謂“卦氣”亦是隨時流動,亦是“動‘意矣。)
ゆえに楊子曰く:卦は各々固定の名称あれど、気は随時転移し、衰旺の差別ある能わず。ただ卦を論じて気を論ぜざれば、すなわち卦象に局限され时令に昏昧、ただ影子回声ばかりを得て、真知灼見と談ずるに足らず。もし卦気を透徹に看れば、すなわち吉凶を知るに止まらず、さらに造化の根源を認識し得る、と。見るべし、いわゆる「卦気」もまた随時流動して、同じく「動」の意思を含む、と。)
凡意所萌動。務以先聞先見之動物為主。因動而起則禍福可前知矣。 (星光注:見某網友發貼其觀點能見至象皆憑自己隨意取象皆可,竊為不可,還是按“務以先聞先見之動物為主”為準則。否則失去“欲將至有開。必先朕兆之萌”之意蘊也。)
およそ心念一たび動けば、必ず最も早く聞き最も早く見たあの動の事物を以て準と為すべし。この「動」に依って卦を起せば、禍福はあらかじめ知るべし。(星光按:かつて某網友の発帖を見て、およそ見得る象はみな随意に選取し得ると主張す。私は私下に不可と思う。なお「務めて先聞先見の動物を以て主と為す」を以て準則と為すべし。さもなくば「嗜欲将至有開、必先朕兆之萌」の句の意蘊を失わん。)
故以二動合為一卦。或一動則不可算。一動一靜則可算。蓋動靜相連亦是數也。若所動者既雜。則以先聞先見者算之。其餘不可用。 (星光注:提出二動可成卦,二靜則不可算,還是圍繞以“動”為主題。在《先後天辨》論述的更為詳細:“先朕兆之萌。其端可測。一動一靜之間有自然之數。不動不占。不因事不占。故皇極之數專在動上求之。凡意所萌動。務以先聞先見之動物為主。因動而起則禍福可前知矣。故以二動合為一卦。或一動則不可算。一動一靜則可算。蓋動靜相連亦是數也。若所動者既雜。則以先聞先見者算之。其餘不可用。”)
ゆえに両個の「動」を合して一卦と為すを要す。もし一個の動のみあれば、すなわち起算する能わず。一動一静配合せば、却って起算し得べし。動と静の相連もまた数を構成すればなり。もし動する事物太り雑乱なれば、すなわち最も早く聞き最も早く見た一個を取りて算え。その余はみな用いる能わず。(星光按:ここに両動の一卦を成す可く・両静はすなわち起算する能わざるを提出す。仍旧「動」なる主題を囲繞す。《先後天辨》一篇はさらに詳しく講ず、その文に曰く:事情発生の前は必ず先に征兆萌動あり、あの端倪は測知し得る。一動一静の間に自ずから天然之数あり。動ぜざれば占せず、事に因らざれば占せず。ゆえに《皇極》之数は専ら動の上に求む。およそ心念の萌動は、必ず最も早く聞き最も早く見た動物を主と為し、動に依って卦を起せば、禍福はすなわち予知し得べし。ゆえに二動を以て一卦に合す。ただ一動あればすなわち算えず、一動一静なればすなわち算え得べし。動静相連もまた数なればなり。もし動する所太り雑なれば、すなわち先聞先見を用いて算え。その余は用うべからず、と。)
凡看動物。以先者為上卦。後得者為下卦。次加年月日時。又次加陰陽之策。共成若干。仍以克太歲之卦除之。然後方成一數。如以手執筆。筆動而手亦動也。如以手取刀裁紙。乃是三件物。未將刀到紙邊時。只以手與刀兩件算數。若已將刀正裁紙時。只算刀與紙。不可算手。此是二動連屬之義。
およそ動の事物を観察するに、先に出現するを上卦と為し、後に出現するを下卦と為す。然る後に年・月・日・時之数を加え、さらに陰陽の策数を加え、合計して若干を得、さらに太歳を克する卦数を以て除す。これにはじめて一個の可用の数と為る。たとえば手裏に筆を拿れば、筆は動き手もまた動く。または手を用いて刀を拿り紙を裁つごとく、これは三件の東西:刀は未だ紙辺に靠らざる時、ただ手と刀の両件を算うのみ。刀すでに正に紙を裁つ時、すなわちただ刀と紙を算うのみ、再び手を算え得ず。これすなわち「二動相連属」の意思。
一動一靜者。如以手拍棹。則手動棹不動。如抬棹則是二者俱動也。如以腳震地。腳動而地不動。此是一動一靜連屬之義。須要動靜相關。然後可用。舉此為例。餘可類推。
いわゆる一動一静、たとえば手を以て桌子を拍すれば、手は動きて桌子は動かず。もし桌子を抬起せば、あれは両件みな動くなり。また脚を以て地を跺すれば、脚は動きて地は動かず。これすなわち「一動一静相連属」の意思。総じて動と静彼此相関ありて、然る後に用い得べし。これらを挙げて例と為す。その余は類推し得べし。
然動靜之中難以取舍。有自己之數。有他人之數。有物之數。如自己算數。心下主定何事。靜坐自看我身上如何動。或頭動。或手足動。或沿衣而動。須是無心之動便可取而下數。已得動數或再有動不可用。只以先動者為主。如有人來我。須從那人來問時。觀他身上動靜而下數方是親切。如算物取物動處而下數。要在澄心取動。動取不真則數不驗矣。
ただし動静の間は取捨し難し:自己の数あり、別人の数あり、物の数あり。もし自己のために起算せば、先に心裏に問う所の何事を定め、静坐して自己身上の如何に動くを看る:あるいは頭動、あるいは手脚動、あるいは衣服に順いて動かん。必ず無心之動なりて、はじめて取りて数を起す可し。すでに動数を取得した後、たとい再び動あるも用い得ず、ただ最も早く動いたを以て主と為す。もし人ありて来りて我に問わば、すなわちあの人の開口して来り問う時より、彼身上の動静を観察して数を起す。これはじめて貼切なり。もし物のために起算せば、すなわち物の動く処を取りて数を起す。総じて心念を澄清して動を取るを要す。動の取ること真ならざれば、数は応験せざらん。
星光注;此段文聯接上文更為詳談動與靜的關係,根據《梅花易數》“萬物賦”言:“觀物理者,靜則乎地,動則乎天,原夫萬物有數,易算無窮,動靜可知。”取其動靜連屬之義應在此乎。
星光按:この段は上文に接し、さらに詳しく動と静の関係を談ず。《梅花易数》の《万物賦》に曰く:物理を観察する者は、静時は地に取法し、動時は天に取法す。万物は本来数あり、《易》の推算は無窮無尽、動静みな知り得べし、と。いわゆる「動静連属」の意思は、大概ここに在る。
另外“次加年月日時,又次加陰陽之策”是成卦與數的綜合判斷方法。《梅花易數》雖然有列出策數、軌數之數據,但如何應用沒有交待,所謂年月日時,即測時的四柱數,即神數術中稱為“大定數”,據其干支納甲歸屬於何卦算出策數。實際數與卦的關係有二種方法取得,一是用成卦直接利用成卦陰陽策數若干即為“身數”,取動爻因十加卦數、正數、動爻數,組成千百十零為數。另一種利用四柱干支化策數組成千百十零為數。關於數的應用那是後話了。
另外、「次に年月日時を加え、又次に陰陽之策を加う」は、成卦と成数を合して判断する方法なり。《梅花易数》は策数・軌数の数据を列出すれど、如何に運用するを交代せず。いわゆる年月日時とは、すなわち起課時の四柱之数、神数一類の術法中には「大定数」と言い、干支納甲の帰属する哪一卦に拠って策数を算出すべし。実際数と卦の関係には両種の取法あり:一は直接に成卦の陰陽策数若干を以て「身数」と為し、再び動爻を取りて十を乗じ、卦数・正数・動爻数を加え、千・百・十・零の四位の数を組成す。另一は四柱干支を化して策数と為し、千・百・十・零の四位の数を組成す。数の如何に運用するに至っては、あれは後話なり。
論卦象 二曰論卦象。夫卦象者。聖人仰觀俯察。近取諸身。遠取諸物之象也。故乾健坤順、乾馬坤牛之屬。易中備載不能盡述。明理者以象推之。今略以同類者辨焉。且如干兌皆屬金。何以分別。蓋乾乃貴重圓健之物。兌乃毀傷破缺之物。坤艮皆屬土。蓋坤為地艮為山。或在高山或在平地自是不同。震巽皆屬木。蓋震為陽木。巽為陰木。其發生茂盛萌芽者震也。枯槁憔悴者巽也。又有棹凳床櫃之類為巽。蒼筤萑竹之類為震。內虛外實者為離。內實外虛者為坎。日亦為離。月亦為坎。凡起動數。當以此卦算數。
以下卦象を論ず。第二条、卦象を論ず。卦象は聖人の仰ぎ天文を観・俯ねて地理を察し、近処は自身に取り遠処は万物に取りて得たる象なり。ゆえに《乾》は健と為し《坤》は順と為し、《乾》は馬と為し《坤》は牛と為るの類は、《易》中に記載完備、説き尽くし得べからず。道理を明白する者は象に照じて類推し得べし。ここではただ同類難分なるに就きて略かに辨別す。たとえば《乾》《兌》はみな金に属す、如何に区別せん。《乾》は貴重・円満・剛健の物、《兌》は毀傷・破缺の物。《坤》《艮》はみな土に属す、《坤》は地と為し《艮》は山と為る。一は高山・一は平地に在り、自然同じからず。《震》《巽》はみな木に属す、《震》は陽木・《巽》は陰木:発生茂盛・抽芽吐葉するは《震》に属し、枯槁憔悴するは《巽》に属す。このほか桌凳床櫃の類は《巽》に属し、青竹蘆荻の類は《震》に属す。内虚外実なるは《離》と為り、内実外虚なるは《坎》と為る。日もまた《離》に属し、月もまた《坎》に属す。およそ動数を起すは、みなこれらの卦に依って数を算すべし。
星光注;歷來易學的流派的二大支流是象數與義理,作為我們能在術數論壇上留連的易友,我想應注重“象數”,以“象數”為主,易的符號就是二個,陰和陽,你說他簡也夠簡易的,你說他複雜也可以,萬象在其中。象電腦一樣,只有0和1,可做的事可多了,就看你怎麼利用了。古人學易常稱“玩占”、“玩辭”等,看你怎麼玩了。
星光按:歴来易学の両大支流は象数と義理。常に術数論壇に流连する易友たる者として、私は応に象数に側重し象数を以て主と為すべしと思う。《易》の符号はただ両個——陰と陽。それを簡と言えば、確かに簡易。それを複雑と言うも、未だかつて可ならざるなし。万象はみなその中に含まる。ちょうど計算機は零と一のみあるも、為し得る事は多々あるごとく、全くあなたの如何に運用するを看る。古人の《易》を学ぶに常に「玩占」「玩辞」と言うも、亦たあなたの如何に玩ぶを看る(ここの「玩」は反復体味・揣摩の意思)。
象數派認為爻辭是用來“明象”的。《梅花易數》雖屬“先天”之學,不尙“辭”,但是在取象時,也利用“爻辭”作參考,如在“占物類例”中:“凡看物數,看其成卦,觀其爻辭,如得乾曰,潛龍無用,乃曰無用之物,見龍在田,乃曰田中之物”云云, 此段主旨指明“同類”的卦象應如何區分,簡略舉例了卦象,以情性取,以形取,以陰陽所屬取,以卦義取,以卦氣取,手法諸多,多看卦例,可豐富自己的經驗。
象数一派は爻辞を以て卦象を闡明するに用うと認む。《梅花易数》は先天之学に属して卦爻辞を崇尚せざるも、取象する時はまた爻辞を拿りて参考と為す。たとえば《占物類例》の裏に言う:およそ物数を看るは、先に所成の卦を看、再びその爻辞を看る。もし《乾》卦初九「潜龍勿用」を得れば、すなわちこれを無用之物と言う。九二「見龍在田」を得れば、すなわちこれを田裏の東西と言う。このごとき等、と。上面のこの一段の主旨は、同類の卦象を応に如何に区分すべきを指明し、併せて略かに取象の門径を挙出す:情性より取るあり、形状より取るあり、陰陽所属より取るあり、卦義より取るあり、卦気より取るあり、手法は很多。多く卦例を看れば、自己の経験を豊富にし得べし。
三曰論卦氣。夫卦氣者。旺相休囚之氣也。維天之命於穆不已。故春木夏火秋金冬木。土旺四季。無非生長收藏之氣。卦名不易。而氣隨時轉。自有真假、進退、元耗、浮沉之殊。占斷之際。當按時審氣。不可拘於卦名。
第三条、卦気を論ず。卦気すなわち旺・相・休・囚之气。《詩経》に「維天之命、于穆不已」と言う。天命は運行停止せず。ゆえに春は木に属し、夏は火に属し、秋は金に属し、冬は水に属し(原文「冬木」は「冬水」と作るべし)、土は四季之末に旺す。无非れ生・長・収・蔵之气なり。卦名は固定して変わらず、気は随時転移す。自然に真と假・進と退・元と耗・浮と沈の分別あり。占断する時は、応に時令に按じ気を審察し、卦名に拘泥すべからず。
故當時用事者謂之真。背時無氣者謂之假。氣候將臨者謂之進。氣候已往者謂之退。四植生扶者謂之元。四植洩氣者謂之耗。不當令而日辰生旺者謂之浮。死休囚廢而受制於時者謂之沉。沉氣則欲速則不達。浮氣則當權而不久。耗氣則隨得隨失。元氣則根深而福厚。退氣則有今而罔後。進氣則方興而未艾。假氣則虛多而實少。真氣則成始而成終。審此而斷之。則禍福如懸鑑矣。
ゆえに当令用事するを「真」と言い、背時無気なるを「假」と言う。気候将に来臨せんとするを「進」と言い、気候已に過去するを「退」と言う。四値(年月日時)のそれを生扶するを「元」と言い、四値のそれの気を泄するを「耗」と言う。不当令にして日辰より生旺するを「浮」と言い、死・休・囚・廃に処して時令の克制を受くるを「沈」と言う。沈気すればすなわち速ならんと欲して達せず。浮気すればすなわち一時当権して不久長。耗気すればすなわち随得随失。元気すればすなわち根深にして福厚。退気すればすなわち眼前ありて以後なし。進気すればすなわち方興にして未だ艾まらず。假気すればすなわち虚多く実少。真気すればすなわち有始有終。これらに按じて審察判断せば、禍福はすなわち鏡を照るがごとく清楚なり。
星光注; 此旺相休囚之氣,任何術數都應用的準則,三式,六爻,河洛理數,四柱八字,都講四時之氣,八字的“強弱”,在網上爭的不亦樂乎。《梅花易數》也不例外,如“諸事響應歌”曰:“大扺體宜用卦生、旺、相,謀為終有益”。此生、旺、相即卦氣也。
星光按:この套の旺相休囚之气は、如何なる術数もみな応用すべき準則なり。三式(太乙・奇門・六壬)・六爻・河洛理数・四柱八字は、みな四時之气を講ず。八字のいわゆる「強弱」は、網上の争論して已まざる所。《梅花易数》もまた例外にあらず、《諸事響応歌》のごとく曰く:大抵体卦は応に用卦より生を得、応に旺・相之地に処すべし。謀る所の事は終に益あらん、と。ここの生・旺・相、講ずる所まさに卦気なり。
此段對真假、進退、元耗、浮沉術語作了明瞭的說明。當然作為梅易倒沒必要像孟氏、京氏、邵氏所講的卦氣分到“爻”程度,只要參考《易隱》所列的卦氣就夠了。今錄出供易友參考; 附:八卦配節氣旺衰式
この一段は真偽・進退・元耗・浮沈の幾個の術語を解釈して甚だ清楚。当然、梅花易に就いて言えば、却って孟喜・京房・邵雍のごとく卦気を細分して「爻」の程度に至る必須なく、ただ《易隠》の列する卦気を参考すれば足れり。いま抄録して易友の参考に供す。附:八卦配節気旺衰表。
旺相胎沒死囚休廢 旺相胎沒死囚休廢 立冬:乾坎艮震巽離坤兌 冬至:坎艮震巽離坤兌乾 立春:艮震巽離坤兌乾坎 春分:震巽離坤兌乾坎艮 立夏:巽離坤兌乾坎艮震 夏至:離坤兌乾坎艮震巽 立秋:坤兌乾坎艮震巽離 秋分:兌乾坎艮震巽離坤 四值即測時的四柱支也。但四值的用法是在數上所得之卦,即“連山”卦序,作為梅易沒有用到數的情況下,此參數可忽略。
表中両欄はみな「旺・相・胎・没・死・囚・休・廃」の八個の等級に依って排列す。立冬の時は依次乾・坎・艮・震・巽・離・坤・兌。冬至の時は依次坎・艮・震・巽・離・坤・兌・乾。立春の時は依次艮・震・巽・離・坤・兌・乾・坎。春分の時は依次震・巽・離・坤・兌・乾・坎・艮。立夏の時は依次巽・離・坤・兌・乾・坎・艮・震。夏至の時は依次離・坤・兌・乾・坎・艮・震・巽。立秋の時は依次坤・兌・乾・坎・艮・震・巽・離。秋分の時は依次兌・乾・坎・艮・震・巽・離・坤。いわゆる「四値」は、すなわち起課時の四柱の地支。ただし四値の用法の針対するは数より推得する卦、すなわち《連山》卦序なり。梅花易もし数を用いざれば、この参数は忽略し得べし。
四曰論審機。夫審機者。觀之語默動靜之機也。人來求我之際。言雖未出於口。而形於身見於事者。自有動靜往來真假虛實之機。入門之際。當審其機。觀其氣色之憂喜。而參之以卦象之休旺。則事之可否亦可得而前知矣。
第四条、審機を論ず。いわゆる審機とは、すなわち対方の言語と沈黙・挙動と安静の間の機兆を観察するなり。人の来りて我に求問する時、話は未だ口に出せざるも、彼身上に顕現・事上に表露するは、自然に動と静・往と来・真と假・虚と実の機兆を帯ぶ。彼一たび門に進入すれば、応にこれらの機兆を審察し、彼の神色の憂か喜かを看、再び卦象の休と旺に参照せば、事情の成り得る成り得ざるもまたあらかじめ知るべし。
蓋臨事之際。見物偶然起者謂之動。偶然安息者謂之靜。人物之去謂之往。人物之至謂之來。布帛穀粟之類謂之真。紙花木果之類謂之假。有聲無形謂之虛。有形有象者謂之實。動則其事速。靜則其事遲。凶事欲其去。吉事喜其來。求官問利愛其真。問事尋人怕其假。興詞訟訴嫌其虛。作事謀為利其實。以此八機合前八氣化而裁之。變而通之。則未來已往之事皆可得而前知矣。人之氣色必於動物觀之。蓋氣從中出為內卦。色見於外為外卦。人有喜怒舒慘。不若動處起之為有準也。
事に臨む時、東西の偶然動き出ずるを見るを「動」と言い、偶然安静下来るを「静」と言う。人あるいは物の離去するを「往」と言い、人あるいは物の到来するを「来」と言う。布帛穀粟の一類の実用之物を「真」と言い、紙花木果の一類の仿造之物を「假」と言う。声音ありて形体なきを「虚」と言い、有形有象なるを「実」と言う。動なれば事情は快、静なれば事情は慢。凶事はその離去を希望し、吉事はその到来を喜ぶ。官を求め利を問うは「真」に遇うを喜び、事を問い人を尋ねるは「假」に遇うを怕れ、官司告状は「虚」に遇うを嫌い、事を為し謀を划するは「実」に遇うに利あり。この八種の機兆を前面のいう八種の気に合し、化裁・変通を加えれば、未来と已往の事はみなあらかじめ知るべし。人の気色は必ず動の事物の上より観察すべし:気は内裏より発出し、内卦に属す。色は外に顕現し、外卦に属す。人に喜・怒・舒・惨の神情あり、終に動処より卦を起すの来得たる准确には如かず。
星光注; 此段論述“外應”的觀察技巧,分為真假、虛實,往來、動靜,結合所測類別區別應用,至於“外應”也正是《梅花易數》預測的特色與必須掌握的技巧。
星光按:この一段の講ずるは「外応」を観察する技巧、分けて真偽・虚実・往来・動静の幾組と為し、測する所の事類に結合して分別運用すべし。「外応」正に《梅花易数》占測の特色、また必ず掌握すべき技巧なり。
《萬物賦》云:“未成卦以前,必虛心而求應。即成卦以後,觀刻應以為斷。聲音言語,傍人識兆,當遇形影往來,我心指實皆是,及其六爻以定,三天既生,始尋卦象之端,終測刻應之理,是以逢吉兆,而終知有喜。見凶識而不兔乎凶,故欲知他人家之事。必須憑我耳目之聞見,未成卦而聞見之,乃已生之事既定。卦而觀察之,乃未來之機”。
《万物賦》に曰く:卦は未だ成らざる前、必ず虚心を以て感応を等候すべし。卦すでに成りて後、すなわち当時の刻応を看て判断す。声音言語・旁人の透露する兆頭、および所遇形影の往来、およそ我心の当下に指認して実と為すは、みな数と算う。六爻すでに定まり三才之象すでに生ずに及び、先に卦象の上より頭緒を尋ね、最後に再び刻応之理を以て推測す。ゆえに吉兆に遇えば、終に喜事あらん。凶兆を見れば、亦た免れがたき凶あらん。このゆえに別人家の事を知らんと欲せば、必ず自己の耳聞目見に凭れ。卦未成の前の所聞所見は、已に発生した事なり。卦既成の後に観察したるは、はじめて未来の機兆なり、と。
講的正是此理,故其外應的真、假、虛、實概念值的《梅易》借鑑應用於實測。如班主測一婦女人問病,見老婦女與小孩,當時我見此貼憑其外觀象,缺一夫的凶兆,再進一歩,可研其二人是向測者來或往,外應技巧多多也。
講ずる所まさにこの道理なり。ゆえに外応中の真・假・虚・実の幾個の概念は、梅花易の借鑑し実測に用いるに値する。たとえば版主が一位の婦女のために病を測るに、当時一個の老婦人と一個の小孩を見たり。私はあの帖子を見、ただこの外象に凭り、すなわち缺少丈夫の凶兆あると断出せり。さらに一歩進めば、またあの両人の求測者に朝着して来るか走開くかを研究し得べし。外応の技巧は甚だ多し。
“人之氣色必於動物觀之”。“氣”是很難掌握的。看相術高層次的精斷叫“善觀氣色”,所以看相術最難學的即“氣色”的應用。如為“喜、怒、舒、慘”倒不是很難,關於氣就憑測者的社會經歷與悟性了。
「人之気色必ず動物に於て之を観る」の一句の裏、「気」は甚だ掌握し難し。相術中の高層次の精細判断を「善く気色を観る」と言う。ゆえに相術の最も学び難きは気色の運用なり。「喜・怒・舒・惨」の外露出の神情に至っては、却って太り難と算えず。而して「気」のこの一層は、すなわち全く占測者自己の社会閲歴と悟性に凭るのみ。
五曰論卦義。夫卦義者。文王周公孔子所繫之辭。自有深意存乎其中也。如干為剛健亦為亢滯。君子來之多吉。小人得之多凶。坤為厚實亦為重濁。有得之而富貴者。有得之而愚頑者。坎有潤物之功。亦有陷溺之象。離有文明之意。亦有乖離之理。兌為和悅亦為詭隨。艮為靜止亦為時行。震為震動亦為驚恐。巽乃巽順亦為不果。
第五条、卦義を論ず。卦義すなわち文王・周公・孔子の係したる卦爻辞、その中自ずから深意あり。たとえば《乾》は剛健と為すも、また亢極停滞たり得べし。君子は占い得れば多吉、小人は得れば多凶。《坤》は厚実と為すも、また重濁たり得べし:これを得て富貴なる者あり、これを得て愚頑なる者もあり。《坎》に万物を滋潤する功あり、また陥溺沈淪の象あり。《離》に文明の意あり、また乖違背離の理あり。《兌》は和悦と為すも、また曲意逢迎たり得べし。《艮》は静止と為すも、また応時而行たり得べし。《震》は震動と為すも、また驚懼恐慌たり得べし。《巽》は遜順と為すも、また優柔不決たり得べし。
又乾為君父之道。坤為臣子之道。咸姤利於婚姻。鼎革利於更改。待於需。進於晉。行師於師。爭訟於訟。聚於萃。散於渙。退於遁。守於困。安於恆泰。厄於蹇夷。盈於豐有。壞於損蠱。家人之在室。旅之在途。此皆卦象之義也。
またたとえば《乾》は君父之道を代表し、《坤》は臣子之道を代表す。《咸》《姤》は婚姻に利あり、《鼎》《革》は変更改易に利あり。等待は《需》を看、前進は《晋》を看、出兵は《師》を看、争訟は《訟》を看、聚合は《萃》を看、離散は《渙》を看、退避は《遯》を看、困守は《困》を看、安穏は《恒》《泰》を看、厄難は《蹇》《明夷》を看、盈満は《豊》《大有》を看、敗壞は《損》《蠱》を看。《家人》は家中に在るを主とし、《旅》は旅途中に在るを主とす。これらはみな卦象の含む意義なり。
起數之時。不可執一。當隨其機之吉凶、日辰之休旺而言之。蓋身數旺則福可成。否則福變為禍矣。故曰。君子修之吉。小人悖之凶。有人為之何如耳。堯夫之言亦有觀世之間。學數者當深致其思。
数を起す時は一端に執着す可からず、応に機兆の吉凶・日辰の休旺に随いて論を立てべし。身数旺なれば、福気ははじめて成就し得べし。さもなくば福もまた禍と変成せん。ゆえに曰く:君子は理に依って修養すれば吉、小人は事理に違背すれば凶、全く人の自己如何に為すを看るのみ。尭夫(邵雍)の話裏にもまた世道を観察するの意思を含む。数を学ぶ者は応に深入体会すべし。
星光注;其論卦義是謂大象,其一意含反對之情,同樣乾卦,“君子來之多吉。小人得之多凶”,物有相反之情也。《梅花易數》專有一篇“諸卦反對性情”論文,講的也是這道理。如《河洛理數》也同樣看具體用於何人物,有君子、在仕、在庶之分,得之如何如何,有“看人”之嫌,但畢竟是卦理,不能說它是“投機取巧”。
星光按:ここに論ずる所の卦義は大象を指し、その中の一層の意思は相反之情を含有す。同じく《乾》卦、「君子来る多吉、小人得之多凶」、見るべし事物は本来相反の両面あり。《梅花易数》に専ら一篇の《諸卦反対性情》あり、講ずるもまたこの道理。《河洛理数》も同じく具体何人の身上に用いるを看、君子・在仕・在庶幾等に分かち、この卦を得る如何如何、と。この看似るに「人因りて異る」の嫌ありとも、畢竟是れ卦理、それを投机取巧とは言えず。
《象數舉隅》云:“八卦取義者,有一卦專論取者,有分論各爻取者,有以全體、互體、上下體取者,有以陽爻稱陽物陰爻稱陰物者,取義不同,取象也異也。”這段論述引伸了取義的範圍,《梅花易數》取象亦有“體用互變”之斷法,體也不是一成不變,也要靈活多樣,有的卦例是綜合互卦、變卦等卦象,以得最多的卦象為體。拘泥於大象是死法,故凡泥象不通者尚究於斯。
《象数挙隅》に曰く:八卦の取義の办法は、専ら整卦に就きて立論するあり、分かちて各爻に就きて立論するあり、全体・互体・上下体に依って取るあり、亦た陽爻を陽物・陰爻を陰物と称するあり。取義同じからざれば、取象もまた各々異る。这段话は取義の範囲を拓寛す。《梅花易数》の取象にもまた「体・用・互・変」の断法あり、体卦は一一成不変に非ず、同じく霊活多様を要す。ある卦例は互卦・変卦等の卦象を綜合し、出現最も多きあの卦象を以て体と為す。大象を死守するは死法なり。ゆえにおよそ象に拘泥して講通せざるは、なお応にここより推究すべし。
六曰論生克。夫生克者。八卦相生相剋之義也。大抵卦貴生不貴克。克則凶生則吉共理。以日干為主。以數為賓。一數之內又以運為主。元會世為賓。最要賓生主。又生日辰為妙。
第六条、生克を論ず。生克すなわち八卦相生相克の道理。大体において、卦は相生を以て貴と為し相克を以て忌と為す:克を受ければすなわち凶、生を得ればすなわち吉、これは通例。推断するは日干を以て主と為し数を以て賓と為す。一個の数の内に在りては、また「運」を以て主と為し、元・会・世を以て賓と為す。最も要緊なるは賓の来生主、もし再び日辰を生じ得ればさらに妙なり。
元會世生扶運爻則吉。元會世生運。、運又生日辰者為上吉。日辰與運數相生相合而元會世來克運者。則事雖好而機不及時、為人所制伏。若元會世俱來生運。運與日辰不相生者。此好中不足之數。
元・会・世の運爻を生扶すればすなわち吉。元・会・世の運を生じ、運また転じて日辰を生ずるは、あれは上等の吉。もし日辰と運数相生相合して、元・会・世かえって運を克せば、すなわち事情は好といえど、時機は趕上せず、さらに人の壓制を受けん。もし元・会・世みな来りて運を生じ、運と日辰の間は却って相生せざれば、これすなわち好中带欠缺之数なり。
凡卦生要生回。克宜克出。逆克者耗氣。如算一年則以年干斷。淺近之事則以日干斷。此皇極之通論也。大抵日辰尤為緊要。縱觀年月。亦要參看日辰。兩下俱吉則吉。兩下俱凶則凶。此四柱歸一之論。
およそ卦は生に逢うは生じて回るを要し、克に逢うは克して出ずるを要す。反って克を受くるは、耗気なり。一整年を推算するは、すなわち年干を以て断ず。浅近の小事は、すなわち日干を以て断ず。これは《皇極》の通例。大体において日辰は最も緊要:縦い年を看月を看とも、また日辰を参看すべし。両辺ともに吉なればはじめて吉、両辺ともに凶なればすなわち凶。これすなわち四柱帰一の道理。
蓋運者。一數之領袖。元會世或有歸還魁貴祿馬來生扶運數。運數又逢吉曜是謂逢吉。為官者升遷。為士者登笠。為商者進財。或得上人提撥。如會世好數來生運。運雖不旺。亦為有救。若會世之數帶煞克運。運逢生旺帶吉曜者。當招不義之財。得小人之力。好數克身則福淺。惡數克身則禍至。若身數更不吉斯為下矣。
「運」は一個の数の中の領袖なり。元・会・世の中にもし魁星・貴人・禄・馬の帰来して運数を生扶し、運数また吉星に碰上せば、これを逢吉と言う:官を為るは升遷し、書を読むは登第し、商を経るは財を進め、あるいは上級の提拔を得るを得べし。もし会・世の好数の来りて運を生ずれば、運は旺ならざるも、亦た救ありと算え得べし。もし会・世之数の凶煞を帯びて運を克し、而して運本身は生旺に逢いまた吉星を帯ぶれば、あれは不義之財を招来し、小人の助力を得ん。
然後以升降錯綜乘除之數審之。仍以卦之爻變佐之。數為卦之體。卦為數之用。體用俱吉為上。體重用輕數若不好則卦亦徒好也。初下之數論事體之本末。升降觀事體之中。錯綜乘除觀事體之終。有先吉後凶者。有先凶後吉者。以數論之。
然る後に再び升降・錯綜・乗除之数を以て審核し、併せて卦の爻変を以て判断を輔助す。数は卦の体、卦は数の用。体と用ともに吉なればはじめて上等。体重にして用軽く、数もし不好なれば、卦は再び好なるも亦た白好なり。最初に起出したる数は、事情の本末を看る。升降之数は、事情の中段を看る。錯綜乗除之数は、事情の結局を看る。先吉後凶あるあり、先凶後吉あるあり、みな数に凭りて論定すべし。
星光注; 我的《易象匯聚》貼出後,有的易友認為那是五行屬性,並且多象易亂,說盧氏象多幾十倍。八卦含有天地,包羅萬象,我的易象匯聚簡直一牛毛,再說卦不納五行,生克旺相休囚以何為據?故此易友偏頻了點,不講生克,方術好象斷了主心骨一樣。六曰論生克,雖然講的“皇極數”,其數亦要用卦作依據,否則是一克二還是二克一,當然數本身就蘊涵著令人著迷的許多奧秘,特別河洛之數,方陣化出的奧妙更是燦爛如煌。
星光按:我が《易象汇聚》貼出して後、ある易友はあれはただ五行属性にすぎず、且つ象多ければ容易に乱ると認め、盧氏の象はそれより多きこと数十倍と言う。実は八卦は天地を含摂し万象を包羅す。我があの点の汇聚は簡直にただ一根の牛毛なり。況んや卦もし五行を納せざれば、生克旺相休囚はまた何を凭りて判断せんや。ゆえにあの位の易友の看法は偏頗些かなり——生克を講ぜざれば、術数はすなわち主心骨を断れたるがごとし。第六条の論ずる生克は、「皇極数」を講ずるなれど、あの数もまた卦を用いて依据と為さねばならず。さもなくば究竟是一克二か還是二克一か。当然数本身は藴含して多くの着迷せしむる奥秘あり、特別に河洛之数、方陣より推演出す妙処はさらに燦爛輝煌なり。
這裡所講的“皇極數”牽涉面較多,術語、概念多,但是提醒大家,元、會、運、世代表年月日時,即千百十零,要化為卦的時候,應用《連山》卦序,即是洪範的九疇數。不能用先天或後天之序數代之。
ここに講ずる所の「皇極数」は牽渉面較広、術語と概念もまた多し。大家に提醒せんと欲するは:元・会・運・世は分別に年・月・日・時を代表し、すなわち千位・百位・十位・個位なり。それらを化して卦と為す時は、《連山》の卦序、すなわち《洪範》九畴之数を用いねばならず、先天あるいは後天の序数を拿りて代替す可からず、と。
七曰論沖合:夫沖合者,日辰與卦象相沖相合也,沖者其事敗,合者其事成。各有所用,不可以一例論之。
第七条、冲合を論ず。冲合すなわち日辰と卦象の間の相冲と相合:相冲すればすなわち事情失敗し、相合すればすなわち事情成功す。両者は各々各々の用処あり、一概に論じ得べからず。
沖者沖動其事,沖百與零他人動,沖十自己動,十零與日辰相沖者,作事散失。沖年為一歲之事,沖月為—月之事,沖日為一日之事。凡數與年月日時相沖為不吉,與運數相沖者次之,合年一年之吉,合月一月之吉,合日一日之吉,合百零與他人相合,十與自己相好,十零與日辰相合,所為皆成。若數來合運,人來求我,運去合數,我去求人。日辰合運有上人尋我,或好事臨身,沖者反是。
いわゆる冲とは、事情を冲動せしむるなり。百位と個位を冲すは、別人動くなり。十位を冲すは、自己動くなり。十位・個位と日辰相冲せば、事を為せば散失落空せん。年を冲するは一年之事を主とし、月を冲するは一月之事を主とし、日を冲するは一日之事を主とす。およそ数と年・月・日・時相冲するはみな不吉、運数と相冲するの程度は稍軽し。年に合するは一年之吉を主とし、月に合するは一月之吉を主とし、日に合するは一日之吉を主とす。百位と個位に合するは、別人と相合するなり、十位に合するは自己順遂なり。十位・個位と日辰相合せば、為す所の事はみな办成し得べし。もし数の来りて運に合せば、すなわち別人の来りて我を求むるなり。運の去りて数に合せば、すなわち我の去りて人を求むるなり。日辰の運に合せば、上級の来りて我を找するあらん、あるいは好事の身に臨まん。相冲の情形はすなわち正反対なり。
