二十一、星辰は格局に關らざるを論ず
作盤ガイド: 八字作盤
八字格局,專以月令配四柱,至於星辰好歹,既不能為生克之用,又何以操成敗之權?況於局有礙,即財官美物,尚不能濟,何論吉星?於局有用,即七煞傷官,何謂凶神乎?是以格局既成,即使滿盤孤辰入煞,何損其貴?格局既破,即使満盤天德貴人,何以為功?今人不知輕重,見是吉星,遂致拋卻用神,不管四柱,妄論貴賤,謬談禍福,甚可笑也。
沈氏の原文は言います。八字の格局は專ら月令に頼って四柱を配します。神煞星辰の善惡については、それらは五行の生剋作用に參與もしないのに、何をもって格局の成敗を左右できましょうか。何况格局に妨げのあるものは、たとえ財官のような美物でも、なお局を救えないのに、いわんや吉星をや。格局に用のあるものは、たとえ七煞・傷官でも、どうして凶神と呼べましょうか。だから格局が一旦成立すれば、たとえ滿盤が孤辰・入煞の類の惡名であっても、その貴に損はありません。格局が一旦破れれば、たとえ滿盤が天德・貴人であっても、何の作用を起こせましょうか。今の人は軽重を分かち辨えず、吉星と見れば、用神を抛却して四柱の配合を顧みず、胡乱に貴賤を評斷し荒謬に禍福を談ずるのは、実に可笑しいです。
況書中所云祿貴,往往指正官而言,不是祿堂貴人。如正財得傷貴為奇,傷貴也,傷官乃生財之具,正財得之,所以為奇,若指貴人,則傷貴為何物乎?又若因得祿而避位,得祿者,得官也,運得官鄉,宜乎進爵,然如財用傷官食神,運透官則格條,正官運又遇官則重,凡此之類,只可避位也。若作祿堂,不獨無是理,抑且得祿避位,文法上下相顧。古人作書,何至不通若是!
沈氏の原文は言います。何况命書に講ずる「祿」「貴」は、往々にして正官を指し、祿堂・貴人という神煞ではありません。たとえば「正財得傷貴為奇」という句、いわゆる「傷貴」は傷官で、傷官こそ財を生ずる工具で、正財がそれを得たので奇と稱します。もし「貴」を貴人と講ずれば、あの「傷貴」はまた何物でしょうか。また「因得祿而避位」という句、いわゆる「得祿」は官を得ることです。理から言えば行運が官鄕に至れば、まさに爵を進め官を升るべきですが、しかし財格が傷官食神を用いる類は、運に官が透せば格局を駁雜にし(底本の「格條」は「格雜」の誤り)、正官格の行運がまた官に遇えば官星が重すぎるので、この類の情形はただ位を退き避けるほかありません。もし「祿」を祿堂とすれば、講じ通らないばかりか、「得祿」と「避位」という上下の二句はもともと文意が相顧みるべきなのです――古人が書を著すに、どうして不通がこの地步に至りましょうか!
又若女命,有云「貴眾則舞裙歌扇」。貴眾者,官眾也,女以官為夫,正夫豈可疊出乎?一女眾夫,舞裙歌扇,理固然也。若作貴人,乃是天星,並非夫主,何礙於眾,而必為娼妓乎?
沈氏の原文は言います。また女命について「貴衆則舞裙歌扇」という言葉があります。いわゆる「貴衆」とは、官星が多すぎることです。女子は官星を夫とするので、正夫はどうして重ね重ね出現できましょうか。一人の女子で衆多の夫があれば、歌舞して客を待ち迎える境地に落ちるのは道理が自然にそうです。もし「貴」を貴人とすれば、それはただ天上の星名であって夫主ではなく、幾つか多くても何の妨げがありましょう、どうして必ず娼妓に淪落するでありましょうか?
然星辰命書,亦有談及,不善看書者執之也。如「貴人頭上帶財官,門充駟馬」,蓋財官如人美貌,貴人如人衣服,貌之美者,衣服美則現。其實財官成格,即非貴人頭上,怕不門充駟馬!又局清貴,又帶二德,必受榮封。若專主二德,則何不竟云帶二德受兩國之封,而必先曰無煞乎?若云命逢險格,柱有二德,逢凶有救,有免於危,則亦有之,然終無關於格局之貴賤也。
沈氏の原文は言います。ただし命書にも確かに神煞を談じたところがありますが、善く讀書しない者が死んだように抱えて離さないだけです。たとえば「貴人頭上帶財官、門充駟馬」という句、財官は人の美貌のようなもので、貴人は人の衣服のようなものです。容貌がもともと美しければ、さらに良い衣服を着れば自然にいっそう顯れます。実はただ財官が格を成せば、たとえ貴人の頭上になくても、どうして門前に四馬の車を排列できないでありましょうか。また「局面清貴、又帶天月二德、必受榮封」と言いますが(底本の引文は節略あり)、もし真に二德を主とするなら、どうして「二德を帶びれば兩國の封を受く」と言い切らず、必ず先に前提を言うのでしょうか。もし命に險惡の格局に逢い、柱中に二德があって、凶に遇って救いがあって危難を免れられる、というならこれは確かにその事はありますが、終じて格局の貴賤とは關りません。
二十二、外格の用舍を論ず
八字用神既專主月令,何以又有外格乎?外格者,蓋因月令無用,權而用之,故曰外格也。如春木冬水、土生四季之類,日與月同,難以作用,類象、屬象、沖財、會祿、刑合、遙迎、井欄、朝陽諸格,皆可用也。若月令自有用神,豈可另尋外格?又或春木冬水,干頭已有財官七煞,而棄之以就外格,亦太謬矣。是故干頭有財,何用沖財?干頭有官,何用合祿?書云「提綱有用提綱重」,又曰「有官莫尋格局」,不易之論也。
沈氏の原文は言います。八字の用神はすでに專ら月令を主とするのに、なぜまた「外格」があるのでしょうか。いわゆる外格は、月令の中に用神を取り出せず、權宜のうち別に一路を求めるので、外格と言います。たとえば春の木・冬の水・土が辰戌丑未の四季月に生まれる類は、日主と月令が同氣で比劫を用神に當てられないので、類象・屬象・衝財・會祿・刑合・遙迎・井欄・朝陽という諸格を、みな採用できます。もし月令にもともと用神があれば、どうして別に外格を尋ねることができましょうか。またあるいは春木冬水であっても、天干の上にすでに財・官・七煞があって取れるのに、それらを抛却して外格を湊り合わせれば、なおさら荒謬です。だから言います、天干の上に財があれば、何の「衝財」をする必要があろう。天干の上に官があれば、何の「合祿」をする必要があろう、と。書に「提綱有用提綱重」と言い、また「有官莫尋格局」と言うのは、みな移易できない定論です。
然所謂月令無用者,原是月令本無用神,而今人不知,往往以財被劫官被傷之類。用神已破,皆以為月令無取,而棄之以就外格,則謬之又謬矣。
沈氏の原文は補正します。しかし「月令無用」というのは、もともと月令の中にもともと用神を取り出せないことを指します。今の人はこの一点を明らかにせず、往々にして財が比劫に奪われ、官が傷官に剋壞されるという類の情形も、月令無用と算します。実はそれは用神が破壞されたのであって、月令に用神がないのではありません。それなのにこれによって月令に取るべきなしと斷定し、それを抛却して外格を湊り合わせる――それはまことに錯に錯を重ねることです。
二十三、宮分の用神に六親を配するを論ず
人有六親,配之八字,亦存於命。其由宮分配之者,則年月日時,自上而下,祖父妻子,亦自上而下。以地相配,適得其宜,不易之位也。
沈氏の原文は言います。人には父母・兄弟・夫妻・子女という六親があり、それらを八字に配れば、みな命の中に存在します。まず「宮位」に準じて配するのを言います。年・月・日・時の四柱は上から下へ排列し、祖輩・父母・妻室・子女という幾層かの関係もまた上から下へ順に對應します。地位の高下をもって相配すれば、ちょうど各々その宜しきを得ます。これは移易できない位次です。
其由用神配之者,則正印也母,身所自出,取其生我也。若偏財受我剋制,何反為父?偏財者,母之正夫也,正印為母,則偏財為父矣。正財為妻,受我剋制,夫為妻綱,妻則從夫。若官煞則剋制乎我,何以反為子女也?官煞者,財所生也,財為妻妾,則官煞為子女矣。至於比肩為兄弟,又理之顯然者。
沈氏の原文は言います。次に「用神」の十神に準じて配するのを言います。正印は母親です。我が身が彼女から出たので、その我を生ずる意を取るのです。偏財は我に剋されるものなのに、どうしてかえって父親とするのでしょうか。偏財は母親の正夫だからです――正印がすでに母なら、偏財は自然に父です。正財は妻子で、我に剋されるもので、「夫は妻の綱、妻は夫に從うべし」の意を取ります。官煞は我を剋制するものなのに、どうしてかえって子女とするのでしょうか。官煞は財の生ずる所だからです――財がすでに妻妾なら、官煞は自然に子女です。比肩が兄弟であるに至っては、なおさら一目で分かる道理です。
其間有無得力,或吉或凶,則以四柱所存或年月或日時財官傷刃,繫是何物,然後以六親配之用神。局中作何喜忌,參而配之,可以瞭然矣。
沈氏の原文は言います。これらの六親が得力か不得力か、吉か凶かは、四柱の中の、年月にあろうと日時にあろうと、そこに擺かれた財・官・傷・刃が一体何物であるかを見ます。そして六親の名分と十神の用神を一つずつ對應させ、さらにそれが全局にあって喜か忌かを參照し、合わせて推敲すれば、六親の情形は一清二楚です。
二十四、妻子を論ず
大凡命中吉凶,於人愈近,其驗益靈。富貴貧賤,本身之事,無論矣,至於六親,妻以配身,子為後嗣,亦是切身之事。故看命者,妻財子提綱得力,或年干有用,皆主父母身所自出,亦自有驗。所以提綱得力,或年干有用,皆主父母雙全得力。至於祖宗兄弟,不甚驗矣。
沈氏の原文は言います。およそ命の吉凶は、本人に關係が貼り近いほど應驗が靈験です。富貴貧賤は自身の上の事なので言うまでもなく、六親については、妻子は自身と相配し、兒子は自分の後嗣で、みな切身の事です。だから命を看る者は妻と子を最も重んじます。月令の提綱が得力するか、あるいは年干に用があれば、父母が俱全してしかも得力を主とします。父母は自分の出所の根源なので、この層もまた自ら應驗があります(底本のこの段は竄文が重出、「妻財子提綱得力」の句の下に「亦有驗」の意を接すべき)。祖宗・兄弟というやや遠い関係に至っては、あまり靈驗ではありません。
以妻論之,坐下財官,妻當賢貴;然亦有坐財官而妻不利,逢傷刃而妻反吉者,何也?此蓋月令用神,配成喜忌。如妻宮坐財,吉也,而印格逢之,反為不美。妻坐官,吉也,而傷官逢之,豈能順意?妻坐傷官,凶也,而財格逢之,可以生財,煞格逢之,可以制煞,反主妻能內助。妻坐陽刃,凶也,而或財官煞傷等格,四柱已成格局,而日主無氣,全憑日刃幫身,則妻必能相關。其理不可執一。
沈氏の原文は言います。まず妻子について論じます。日支に財または官が坐すれば、妻子は当然賢慧で身分があります。しかし財官に坐して妻がかえって不利であったり、傷官・陽刃に遇って妻がかえって吉利であったりするものがあるのはなぜでしょうか。これは月令の用神が配されて喜か忌かを見なければなりません。たとえば妻宮に財が坐するのはもともと吉ですが、印格がそれに遇えば財が來て印を壞すのでかえって美しくありません。妻宮に官が坐するのはもともと吉ですが、傷官格がそれに遇えば傷官見官で、どうして稱心できましょうか。妻宮に傷官が坐するのはもともと凶ですが、財格がそれに遇えば傷官はちょうど財を生じ、煞格がそれに遇えば傷官はちょうど煞を制して、かえって妻子が内助できるを主とします。妻宮に陽刃が坐するのはもともと凶ですが、もし財・官・煞・傷などの格で四柱がすでに成局していて、日主自身に氣がなく、全く日支の刃に頼って身を助けるなら、妻子は必ず自分に助力を與えられます(底本の「相關」は「相幫」の誤り)。この道理は一端に執定できません。
既看妻宮,又看妻星。妻星者,干頭之財也。妻透而成局,若官格透財、印多逢財、食傷透財為用之類,即坐下無用,亦主內助。妻透而破格,若印輕財露、食神傷官、透煞逢財之類,即坐下有用,亦防刑剋。又有妻透成格,或妻宮有用而坐下刑沖,未免得美妻而難偕老。又若妻星兩透,偏正雜出,何一夫而多妻?亦防刑剋之道也。
沈氏の原文は言います。妻宮を見るだけでなく、妻星も見なければなりません。いわゆる妻星とは、天干上の財です。妻星が透して格を成すのに助けとなるもの――たとえば官格が財を透して官を生じ、印が多くて財に逢ってその太過を損じ、食傷が財を透して財を用とする類――なら、たとえ日支に坐するものに用がなくても、妻の内助を得るを主とします。妻星が透してかえって格局を破壞するもの――たとえば印が軽く財が露して印を壞し、食神格が財を透してまた七煞を帶び、煞を透して財に逢って煞を黨する類――なら、たとえ日支に坐するものに用があっても、刑剋を提防しなければなりません。また妻星が透して格を成すか、あるいは妻宮がもともと有用なのに、偏に日支が刑され衝されれば、好い妻を娶っても白頭偕老できないことを免れません。さらにもし妻星が二つとも透して正財・偏財が雜然と併せて出れば、一人の夫にどうしてこれほど多くの妻がありましょう。これも刑剋を提防する一つの路数です。
至於子息,其看宮分與星所透喜忌,理與論妻略同。但看子息,長生沐浴之歌,亦當熟讀,如「長生四子中旬半,沐浴一雙保吉祥,冠帶臨官三子位,旺中五子自成行,衰中二子病中一,死中至老沒兒郞,除非養取他之子,入墓之時命夭亡,受氣為絕一個子,胎中頭產養姑娘,養中三子只留一,男子宮中子細詳」是也。
沈氏の原文は言います。子女に至っては、時柱の宮位と透する子星の喜忌を見れば、道理は妻を論ずるのと大略同じです。ただ子息を見るには、長生沐浴のあの歌訣も暗誦すべきで、すなわちこの一首です。子星が長生に臨めば四個の兒子、中旬なら減半。沐浴に臨めば一雙を得て吉祥を保てる。冠帶・臨官に臨めば各々三子を主る。帝旺に臨めば五子で行列を自ら成す。衰に臨めば二子を主り、病に臨めばただ一子。死に臨めば老いて兒郎なく、他人の子を過繼しない限り。墓に臨めば子は夭亡が多い。絕に臨めば受氣の初めで一子を得るのみ。胎に臨めば頭胎は女兒を生む。養に臨めば三子あっても終に留めるは一つ。およそ男命の子女宮を看るにはみなこのように細かく推詳すべきです。
然長生論法,用陽而不用陰。如甲乙日只用庚金長生,巳酉丑順數之局,而不用辛金逆數之子申辰。雖書有官為女煞為男之說,然終不可以甲用庚男而用陽局,乙用辛男而陰局。蓋木為日主,不問甲乙,總以庚為男辛為女,其理為然,拘於官煞,其能驗乎?
沈氏の原文は言います。ただし長生訣で子女を推すには、陽干のみを用い陰干は用いません。たとえば甲日・乙日はともにただ庚金の長生に準じて數え、庚は巳に長生して酉丑へと順行します。辛金の逆數する子・申・辰のあれは用いません。書には「官星は女、七煞は男」という説がありますが、結局は甲が庚を男とするから陽干の順局を用い、乙が辛を男とするから陰干の逆局を用いるというわけにはいきません。日主はすでに木なのだから、それが甲であれ乙であれ、総じて庚金を男、辛金を女とする、この道理こそ講じ通ります。官煞の陰陽分配を死んだように泥んでも、どうして應驗できましょうか?
所以八字到手,要看子息,先看時支。如甲乙生日,其時果係庚金何宮?或生旺,或死絕,其多寡已有定數,然後以時干子星配之。如財格而時干透食,官格而時干透財之類,皆謂時干有用,即使時逢死絕,亦主子貴,但不甚繁耳。若又逢生旺,則麟兒繞膝,豈可量乎?若時干不好,子透破局,即逢生旺,難為子息。若又死絕,無所望矣。此論妻子之大略也。
沈氏の原文は言います。だから八字が手に入れば、子女を見るにはまず時支を見ます。たとえば甲乙日生の人は、時支が一体庚金の十二宮のどの位に落ちるかを見ます。生旺か死絕か――子女の多寡はすでに一つの定數があります。それから時干の上の子星をもってそれに配します。たとえば財格で時干に食神を透す、官格で時干に財を透すという類は、みな時干に用があると算します。このようにすれば、たとえ時支が死絕の地に落ちても、子女が貴顯するを主とし、ただ數目が多くないだけです。もし時支がまた生旺に逢えば、兒孫が堂に滿ちて限量できません。反対に、もし時干が好くなくて、透した子星が格局を破れば、たとえ時支が生旺に逢っても好い子息は難しいです。もし時支がさらに死絕に落ちれば、なおさら何の指望もありません。以上が妻を論じ子を論ずる大略です。
二十五、行運を論ず
論運與看命無二法也。看命以四柱干支,配月令之喜忌,而取運則又以運之干,配八字之喜忌。故運中每運行一字,即必以此一字,配命中干支而統觀之,為喜為忌,吉凶判然矣。
沈氏の原文は言います。大運を推すのと本命を看るのに二套の方法はありません。本命を看るのは四柱の干支をもって月令の定めた喜忌に配します。大運を取るのは運の上の干支をもってさらに八字全体の喜忌に配します。だから大運で一つの字を走るごとに、必ずこの字と命中の干支を合わせて通盤に觀察しなければなりません。それが喜神か忌神か、吉凶は自然に分明です。
何為喜?命中所喜之神,我得而助之者是也。如官用印以制傷,而運助印;財生官而身輕,而運助身;印帶財以為忌,而運劫財;食帶煞以成格,身輕而運逢印,煞重而運助食;傷官佩印,而運行官煞;陽刃用官,而運助財鄉;月劫用財,而運行傷食。如此之類,皆美運也。
沈氏の原文は言います。何を喜と言うのでしょうか。命中が喜ぶあの神を、運がそれを助ければ、それが喜です。たとえば官格が印を用いて傷官を制すれば、運がまた印を助けます。財が官を生じえて日主が偏に輕ければ、運が來て身を助けます。印格の中に財を帶びるのが忌神なら、運が比劫を走ってあの財を奪います。食神が煞を帶びて格を成すとき、身が輕ければ運が印に逢って身を助け、煞が重ければ運が食神を助けて煞を制させます。傷官が印を佩びれば、運が官煞を行じて印を生じさせます。陽刃格が官を用いて刃を制すれば、運が財鄕を助けて官を生じさせます。月劫格が財を用いれば、運が食傷を行じて劫を化して財を生じさせます。この類はみな美運です。
何謂忌?命中所忌,我逆而施之者是也。如正官無印,而運行傷;財不透食,而運行煞;印綬用官,而運合官;食神帶煞,而運行財;七煞食制,而運逢梟;傷官佩印,而運行財;陽刃用煞,而運逢食;建祿用官,而運逢傷。如此之類,皆敗運也。
沈氏の原文は言います。何を忌と言うのでしょうか。命中が忌むあの一路に、運が偏に逆らって來てそれに加われば、それが忌です。たとえば正官格に印が來て官を護るものがないのに、運が傷官を走れば。財格が食神を透して通關させないのに、運が七煞を走れば。印綬格が官を用いて印を生じさせるのに、運が官を合し去れば。食神格が七煞を帶びて食神でそれを制するのに頼るのに、運が財を走って煞を黨すれば。七煞がすでに食神の制伏を得たのに、運が梟神に逢って食を奪えば。傷官が印を佩びるのに、運が財を走って印を壞せば。陽刃格が煞を用いて刃を制するのに、運が食神に逢ってあの煞を制し去れば。建祿格が官を用いるのに、運が傷官に逢って官を剋せば。この類はみな敗運です。
其有似喜而實忌者,何也?如官逢印運,而本命有合,印逢官運,而本命用煞之類是也。有似忌而實喜者,何也?如官逢傷運,而命透印,財行煞運,而命透食之類是也。
沈氏の原文は言います。また喜のように見えて実は忌であるものがあるのはなぜでしょうか。たとえば官格が印運を走るのはもともと喜のはずですが、本命の中に別の一文字があってこの印を合し去れば、印は助けに及びません。また印格が官運を走るのはもともと喜のはずですが、本命がもともと七煞を用いて印を生じさせていたのに、官が來ればかえって官煞混雜となります。反対に、忌のように見えて実は喜であるものもあります。たとえば官格が傷官運を走るのはもともと忌のはずですが、命中に印が透していれば、印は傷を制して官を護れます。また財格が七煞運を走るのはもともと忌のはずですが、命中に食神が透していれば、食神は煞を制して財を生じえます。
又有行干而不行支者,何也?如丙生子月亥年,逢丙丁則幫身,逢巳午則相沖是也。又有行支而不行干者,何也?如甲生酉月,辛金透而官猶弱,逢申酉則官植根,逢庚辛則混煞重官之類是也。
沈氏の原文は言います。また天干を走るのは宜しく地支を走るのは宜しくないものがあるのはなぜでしょうか。たとえば丙火が子月に生まれ年支が亥で、水が旺して身が弱ければ、運が丙丁の天干に逢えば身を助けられます。しかし運が巳午の地支に逢えば、命中の亥・子と相衝して、衝激してかえって禍を生じます。また地支を走るのは宜しく天干を走るのは宜しくないものもあります。たとえば甲木が酉月に生まれ、辛金は透しても官星がなお弱いと嫌われれば、運が申酉の地支に逢えば官星は根を下ろせます。しかし運が庚辛の天干に逢えば、庚は七煞であり、さらに一つの辛が來ればまた官が重いと嫌われ、混煞か重官かです。
又有干同一類而不兩行者,何也?如丁生亥月,而年透壬官,逢丙則幫身,逢丁則合官之類是也。又有支同一類而不兩行者,何也?如戊生卯月,丑年,逢申則自坐長生,逢酉則會丑以傷官之類是也。
沈氏の原文は言います。また天干が同じ類に屬するのに一概に論じられないものがあるのはなぜでしょうか。たとえば丁火が亥月に生まれ、年干に壬水を透して正官とするとき、運が丙火に逢えば身を助けられますが、同じ火でも丁火に逢えば、丁は行って壬と合して官星を合し去ってしまいます。また地支が同じ類に屬するのに一概に論じられないものもあります。たとえば戊土が卯月に生まれ年支が丑で、運が申に逢えば、戊土は自ら長生に坐して氣を得ます。同じ金の支でも酉に逢えば、酉は丑と會して金局を成し、かえって傷官となって卯中の官星を剋しに行きます。
又有同是相沖而分緩急者,何也?沖年月則急,沖日時則緩也。又有同是相沖而分輕重者,何也?運本美而逢沖則輕,運既忌而又沖則重也。
沈氏の原文は言います。また同じく相衝なのに緩急を分けるものがあるのはなぜでしょうか。年月の两柱に衝すれば急であり、日時の两柱に衝すれば緩です。年月は提綱の根本の所在だからです。また同じく相衝なのに軽重を分けるものもあります。運自体が美運なら、衝に逢っても為害は軽いです。運自体がすでに忌運なら、さらに衝が加わって、為害は重いです。
又有逢沖而不沖,何也?如甲用酉官,行卯則沖,而本命巳酉相會,則沖無力;年支亥未,則卯逢年會而不沖月官之類是也。又有一沖而得兩沖者,何也?如乙用申官,兩申並而不沖一寅,運又逢寅,則運與本命,合成二寅,以沖二申之類是也。
沈氏の原文は言います。また明らかに衝に遇ったのに衝が動かないものがあるのはなぜでしょうか。たとえば甲木が酉中の辛金を官と用い、運が卯を行じて酉を衝しようとしても、本命の地支にすでに巳と酉が相會して金局を成していれば、酉に助け手があって衝の力は弱まります。また年支に亥または未があれば、運の卯は先に年支に引かれて會して木局を成し、月令の官星を衝するに及ばなくなります。反対に、また一つの衝が二重の衝に變るものがあります。たとえば乙木が申中の庚金を官と用い、命に二つの申が併列して力が分散し、一つの寅を衝して動かせません。運にさらに一つの寅が來れば、運と本命が湊って二つの寅を成し、ちょうどあの二つの申を衝しに行って、衝力は倍になります。
二十六、行運の成格變格を論ず
命之格局,成於八字,然配之以運,亦有成格變格之要權。其成格變格,較之喜忌禍福尤重。何為成格?本命用神,成而未全,從而就之者是也。如丁生辰月,透壬為官,而運逢申子以會之;乙生辰月,或申或子會印成局,而運逢壬癸以透之。如此之類,皆成格也。
沈氏の原文は言います。命の格局は八字で定まりますが、しかし一たび大運を配せば、なお「成格」「變格」という一層の緊要な權衡があります。この層は、ただ運の喜忌禍福を論ずるよりもさらに緊要です。何を成格と言うのでしょうか。本命の用神にすでに雛形がありながらまだ完全でないとき、大運に頼ってそれを湊り成すことを、成格と言います。たとえば丁火が辰月に生まれ、壬水を透して正官とすれば、官星は未だ單薄を免れませんが、運が申または子に逢って辰と會して水局を成せば、官星は厚くなります。また乙木が辰月に生まれ、地支にすでに申または子があって會して水局を成して印とし、運にちょうど壬癸を透して印を天干上に明らかに擺します。この類はみな成格です。
何為變格?如丁生辰月,透壬為官,而運逢戌,透出辰中傷官;壬生戌月,丁己並透,而支又會寅會午,作財旺生官矣,而運逢戊土,透出戌中七煞;壬生亥月,透己為用,作建祿用官矣,而運逢卯未,會亥成本,又化建祿為傷。如此之類,皆變格也。
沈氏の原文は言います。何を變格と言うのでしょうか。たとえば丁火が辰月に生まれ、壬を透して官とするのに、運が戌に逢って辰を衝し、辰中に藏する乙木の傷官を衝き出せば、官格は變わります。また壬水が戌月に生まれ、丁火と己土が併せて透し、地支がまた寅と會し午と會して火局を成し、もともと「財旺生官」と看るのに、運が戊土に逢って戌中に藏する七煞を透し出せば、官格は變じて煞格となります。また壬水が亥月に生まれ、己土を透して用とし、もともと「建祿用官」と看るのに、運が卯または未に逢って亥と會して木局を成せば(底本の「成本」は「成木」の誤り)、建祿は化して傷官となってあの己官を剋しに行きます。この類はみな變格です。
然亦有逢成格而不喜者,何也?如壬生午月,運透己官,而本命有甲乙之類是也。又有逢變格而不忌者,何也?如丁生辰月,透壬用官,逢戊而命有甲;壬生亥月,透己用官,運逢卯未,而命有庚辛之類是也。成格變格,關係甚大,取運者其細詳之。
沈氏の原文は言います。しかし成格に逢いながら必ずしも可喜でないものもあるのはなぜでしょうか。たとえば壬水が午月に生まれ、運に己土を透して官とすれば、本應成格ですが、本命の中に甲乙木があれば、木が一たび來れば己官を剋壞して、成しても徒に成です。また變格に逢いながら必ずしも忌むに足りないものもあります。たとえば丁火が辰月に生まれ壬を透して官を用い、運が戊土に逢って壬を剋すのに、命中に甲木があって戊を制しえれば、官星は恙ありません。また壬水が亥月に生まれ己を透して官を用い、運が卯未に逢って會して木局を成して官を傷ろうとするのに、命中に庚辛金があって木を制しえれば、官星も保てます。成格と變格の關係は極めて大きいことが見えます。運を取る者は務めて細かく推詳しなければなりません。
二十七、喜忌は干支に別あるを論ず
命中喜忌,雖支干俱有,而干主天,動而有為,支主地,靜以待用,且干主一而支藏多,為福為禍,安不得殊?譬如甲用酉官,逢庚辛則官煞雜,而申酉不作此例。申亦辛之旺地,辛坐申酉,如府官又掌道印也。逢二辛則官犯重,而二酉不作此例。辛坐二酉,如一府而攝二郡也,透丁則傷官,而逢午不作此例。丁動而午靜,且丁己並藏,安知其為財也?
沈氏の原文は言います。命中の喜神・忌神は、天干にも地支にもあります。しかし天干は天に屬して動いて作為があり、地支は地に屬して靜かに人の取用を待ちます。しかも天干の一位はただ一物を主り、地支の一位は幾人元かを藏します。こうである以上、それらがもたらす福と禍にどうして分別がないでありましょうか。たとえば甲木が酉中の辛金を官と用いる場合、天干に庚辛に遇えば、庚は煞・辛は官で、官煞混雜となります。しかし地支に申酉に遇えばこのようには算できません。申もまた辛金の旺地で、辛が申酉に坐するのは、知府がまた道台の印信を兼掌するようなもので、官星が有力であって混煞ではありません。また天干に二つの辛に遇えば官星が重すぎると嫌いますが、地支に二つの酉があればこのようには算できません。辛が二つの酉に坐するのは、一人の知府が二郡を兼管するようなもので、依然として一つの官です。また天干に丁を透せば傷官ですが、地支に午に逢えばこのようには算できません。丁は天干にあっては動、午は地支にあっては靜であり、何况午中の丁火は己土と同藏して、誰がそれを必ず傷であって財でないと言えましょうか。
然亦有支而能作禍福者,何也?如甲用酉官,逢午酉未能傷,而又遇寅遇戌,不隔二位,二者合而火動,亦能傷矣。即此反觀,如甲生申月,午不制煞,會寅會戌,二者清局而火動,亦能傷矣。然必會有動,是正與干有別也。即此一端,餘者可知。
沈氏の原文は言います。しかし地支にもまた禍を興し福を致すことができるのはなぜでしょうか。たとえば甲木が酉官を用い、ただ一つの午に逢うだけでは、まだ酉を傷れません。しかしもしさらに寅に遇い戌に遇い、しかも彼此が隔たり遠からず、寅午戌が會合して火局を成せば、火が一たび動き起これば、照樣に官星を傷れます。反対に見れば、甲木が申月に生まれ、申中の庚金が七煞で、ただ一つの午ではまだ煞を制えませんが、寅と會し戌と會して火局を成せば、火が一たび動き起これば、照樣に煞を制えます。地支は會合に頼ってはじめて動き起これることが見えます。これこそ天干と異なるところです。一を挙げて三を返せば、残りの道理も明らかになります。
二十八、支中の喜忌が運に逢いて透清するを論ず
支中喜忌,固與干有別矣,而運逢透清,則靜而待用者,正得其用,而喜忌之驗,於此乃見。何謂透清?如甲用酉官,逢辰未即為財,而運透戊,逢午未即為傷,而運透丁之類是也。
沈氏の原文は言います。地支中の喜忌は確かに天干と別がありますが、一たび大運がその藏する人元を透し出して清楚分明となれば、それらもともと靜かに用を待っていたものは、ちょうど用場に遇い、喜忌の應驗もまたこの時に顯現します。何を「透清」と言うのでしょうか。たとえば甲木が酉官を用い、命に辰に遇い未に遇えば、辰未の中にはみな戊己土の財を藏し、もともと隱れて顯れませんが、運に戊土を透せば財は明らかに擺れます。また命に午に遇い未に遇えば、午未の中にはみな丁火の傷官を藏し、もともと隱れて顯れませんが、運に丁火を透せば傷官は明らかに擺れます。
故凡一八字到手,必須逐干逐支,上下統看。支為干之生地,干為支之發用。如命中有一甲字,則統觀四支,有寅亥卯未等字否,有一字,皆甲木之根也。有一亥字,則統觀四支,有壬甲二字否。有壬,則亥為壬祿,以壬水用;用甲,則亥為甲長生,以甲木用;用壬甲俱全,則一以祿為根,一以長生為根,二者並用。取運亦用此術,將本命八字,逐干支配之而已。
沈氏の原文は言います。だからおよそ一つの八字が手に入れば、必ず天干一つずつ地支一つずつ過し、上下を通盤に見なければなりません。地支は天干が根を下ろす地であり、天干は地支が作用を發揮する出口です。たとえば命中に一つの甲字があれば、四つの地支を通看して、寅・亥・卯・未という字があるかどうかを見ます。一つでもあれば、それはみな甲木の根です。また地支に一つの亥字があれば、四つの天干を通看して(底本は「統觀四支」、「統觀四干」の誤り)、壬・甲という二つの字があるかどうかを見ます。壬があれば亥は壬の祿で、壬水を用いられます。甲があれば亥は甲の長生で、甲木を用いられます。壬甲が二つともあれば、一つは祿を根とし一つは長生を根として、两者を併用します。大運を取るのもこの辦法に照らして、本命の八字を逐一に運の上の干支をもってそれに配する、ただそれだけです。
二十九、時說が格局に拘泥するを論ず
八字用神專憑月令,月無用神,徐尋格局。月令,本也;外格,末也。今人不知輕重,拘泥格局,執假失真。故戊生甲寅之月,時上庚甲,不以為明煞有制,而以為專食之格,逢甲減福。
沈氏の原文は言います。八字の用神は專ら月令に憑って定まり、月令の中に用神を取れないときにのみ、別に格局を尋ねます(底本の「徐尋」は「始尋」の誤り)。月令は本であり、外格は末です。今の人は本末・軽重を分かち辨えず、一味に外格の名目に拘泥し、假を抱えて真を棄てます。たとえば戊土が甲寅月に生まれ、寅中の甲木は七煞で月干に明らかに透し、時上にまた庚金がある――庚は食神で、ちょうど煞を制します。もともと「七煞有制」の美格と斷ずべきなのに、彼は偏にこれを「專食之格」と言い、しかも甲木に遇えば福を減ずとまで言います。
丙生子月,時逢巳祿,不以為正官之格,歸祿幫身,而以為日祿歸時,逢官破局。辛日透丙,時遇戊子,不以為辛日得官逢印,而以為朝陽之格,因丙無成。
沈氏の原文は言います。また丙火が子月に生まれ、子中の癸水は正官で、時支に巳に逢うのは丙の祿です。もともと正官格と斷じて歸祿が身を助けるべきなのに、彼は偏にこれを「日祿歸時」と言い、官星を見れば破局だと言います。また辛金の日主が天干に丙を透して正官とし、時柱が戊子に遇う――戊は正印、子は食神で、もともと辛日が官を得てまた印に相護されると斷ずべきなのに、彼は偏にこれを「六陰朝陽格」と言い、丙火があるがゆえに格を成せないと言います。
財逢時煞,不以為生煞攻身,而以為時上偏官。癸生巳月,時遇甲寅,不以為暗官受破,而以為刑合成格。
沈氏の原文は言います。また財格で時上に七煞に逢うのは、もともとこれが財が去って煞を生じ煞が來て身を攻する凶兆と看るべきなのに、彼は偏にこれを「時上偏官」の貴格と言います。また癸水が巳月に生まれ、巳中の戊土は癸の正官で、藏して露れません。時柱が甲寅に遇う――甲木は傷官で、寅はまた巳を刑します。もともと暗藏の官星が破られたと斷ずべきなのに、彼は偏にこれを「刑合成格」と言います。
癸生冬月,酉日亥時,透戊坐戌,不以為月劫建祿,用官通根,而以為拱戌之格,填實不利。辛日坐丑,寅年,亥月,卯時,不以為正財之格,而以為填實拱貴。乙逢寅月,時遇丙子,不以為木火通明,而以為格成鼠貴。
沈氏の原文は言います。また癸水が冬月に生まれ、日支が酉、時支が亥で、天干に戊土を透して官とし戌上に坐して根がある――もともと月劫建祿格で官星を用い官がまた根に通ずと斷ずべきなのに、彼は偏にこれを「拱戌の格」と言い、しかも戌字が塡實されてかえって不利だと嫌います。また辛金の日主が丑に坐し、年支が寅、月支が亥、時支が卯で、寅亥卯はみな木、木は辛の財――もともと正財格と斷ずべきなのに、彼は偏にこれを拱貴が塡實されたと言います。また乙木が寅月に生まれ、時柱が丙子に遇う――丙火は傷官吐秀で、もともと「木火通明」と斷ずべきなのに、彼は偏にこれを「六乙鼠貴」格と言います。
三十、時說が訛をもって訛を傳えるを論ず
八字本有定理,理之不明,遂生異端,妄言妄聽,牢不可破。如論干支,則不知陰陽之理,而以俗書體象歌訣為確論;論格局,則不知專尋月令,而以拘泥外格為活變;論生克,則不察喜忌,而以傷旺扶弱為定法;論行運,則不問同中有導,而以干支相類為一例。
沈氏の原文は言います。八字にはもともと一定の道理があり、道理が明らかでなければ、種種の異端が生じます。説く者は亂に説き、聞く者は亂に聞き、積習は破り難いほど牢です。たとえば干支を論ずれば、陰陽の理を懂らずして、俗書のあの「甲は大林、乙は微苗」の體象歌訣を定論とします。格局を論ずれば、專ら月令の中に尋ねることを懂らずして、外格の名目に死抠するを靈活變通とします。生克を論ずれば、全局の喜忌を細察せずして、「旺すれば損、弱ければ扶」を死法とします。行運を論ずれば、同類の中にさらに引導の差別あるを分辨せずして(底本の「同中有導」は、同類の中に別に分別ありを謂う)、干支の同じ類に屬するものを一概に等同と見ます。
究其緣由,一則書中用字輕重,不知其意,而謬生偏見;一則以鵒書無知妄作,誤會其說,而深入迷途;一則論命取運,偶然湊合,而遂以己見為不易,一則以古人命式,亦有誤收,即收之不誤,又以己意入外格,尤為害人不淺。
沈氏の原文はこれらの謬誤の由來を推究します。一つは書中の用字に輕重があり、讀む者がその意味を明らかにせず、因って偏見を生じます。一つは坊間のあの通じない書が口を信じて妄造し、讀む者がその說法を誤會して、ますます陷り深くなります(底本の「鵒書」の字は訛誤で、俗書を指すべき)。一つは自ら論命取運して偶然一囘當てただけで、一己の見を移易しがたい定法とします。一つは古人の載せた命式にもともと取り違えがあり、取り得たが正しくても、後人がまた自意に照らしてそれを硬くある外格に塞ぎ込む――この條はことに人を害すること淺からざるです。
如壬申、癸丑、己丑、甲戌,本雜氣財旺生官也,而以為乙亥時,作時上偏官論,豈知旺財生煞,將救死之不暇,於何取貴?此類甚多,皆誤收格局也。如己未、壬申、戊子、庚申,本食神生財也,而欲棄月令,以為戊日庚申合祿之格,豈知本身自有財食,豈不甚美?又何勞以庚合乙,求局外之官乎,此類甚多,皆硬入外格也。
沈氏の原文は例を挙げて言います。たとえば壬申年・癸丑月・己丑日・甲戌時という一造は、己土日主が丑月に生まれ、丑は雜氣で、壬癸水は財・甲木は官、もともと「雜氣財旺生官」です。ある人は時柱を誤って乙亥と記して、「時上偏官」として論じます。どうして知らない、旺財が去って七煞を生じれば、命を救うに及ばず、どこで貴を取るに足ることがありましょうか。この類は多く、みな格局を収め損なったものです。また己未年・壬申月・戊子日・庚申時という一造は、戊土が申月に生まれ、庚金の食神が當令し壬水は財、もともと「食神生財」です。ある人はあえて月令を丢けて、これを戊日が庚申を見る「合祿格」と言います。どうして知らない、本命自身に財があり食がある、豈にすでに美ではありませんか。何のためにまた庚金を勞して乙木を合しに行き、局外にて一つの官星を求めますか。この類もまた多く、みな硬く外格に塞ぎ込むものです。
人苟中無定見,察理不精,睹此謬論,豈能無惑?何況近日貴格不可解者,亦往往有之乎?豈知行術之人,必以貴命為指歸,或將風聞為實據,或探其生日,而即以己意加之生時,謬造貴格,其人之八字,時多未確,即彼本身,亦不自知。若看命者不究其本,而徒以彼既富貴遷就其說以相從,無惑乎終身無解日矣!
沈氏の原文は言います。人がもし心中に定見なく察理が精細でなければ、これらの謬論を見て、どうして惑わされずにいられましょうか。何况近來また常に貴人の命造があって、理に照らせばどうしても講じ通りません。知るべし、江湖術士はいつも貴命を招牌とします。あるものは道聽塗說を實據とし、あるものはただ人の生日を聞いただけで、自意に憑って彼のために一つの生時を安じ、硬く一つの貴格を造り出します。その人の八字は、生時は多く確實でなく、彼本人もまた必ずしも知りません。命を看る者がもしこの根本を追究せず、ただ人がすでに富貴であるがゆえにあの說法に遷就して附和すれば、一生に解惑の日がないのも怪しむに足りません。
三十一、正官を論ず
官以克身,雖與七煞有別,終受彼制,何以切忌刑沖破害,尊之若是乎?豈知人生天地間,必無矯焉自尊之理,雖貴極天子,亦有天祖臨之。正官者分所當尊,如在國有君,在家有親,刑沖破害,以下犯上,烏乎可乎?
沈氏の原文は言います。官星は我を剋する者で、七煞と分別はあるものの、終局我がそれの管制を受けます。なぜかえって最も刑衝破害を忌み、それをこの地步に尊崇するのでしょうか。須知、人は天地の間に生まれ、矯然と自尊して目中に人なしの道理は断じてありません。貴が天子と為っても、頭上にはなお上天と祖宗があります。正官こそ名分上尊奉すべきものです。國には君があり、家には親があります。刑衝破害をもってそれに對付するは、即ち下をもって上に犯すで、どうして可でありましょうか。
以刑沖破害為忌,則以生之護之為喜矣。存其喜而去其忌則貴,而貴之中又有高低者,何也?以財印並透者論之,兩不相礙,其貴也大。如薛相公命,甲申、壬申、乙巳、戊寅,壬印戊財,以乙隔之,水與土不相礙,故為大貴。若壬戌、丁未、戊甲、乙卯,雜氣正官,透干會支,最為貴格,而壬財丁印,二者相合,仍以孤官無輔論,所以不上七品。
沈氏の原文は言います。すでに刑衝破害を忌とすれば、すなわち官を生じ官を護るを喜とします。喜する所を留め忌する所を去れば、便ち貴を主ります。しかし貴の中にまた高低の分があるのはなぜでしょうか。財と印が併透するものをもって言えば、両者が擺り開き互いに妨げなければ、貴は大です。たとえば薛相公の命。甲申年・壬申月・乙巳日・戊寅時。乙木日主が申月に生まれ、申中の庚金は正官です。月干の壬水は正印、時干の戊土は正財で、中間に乙日主が隔って、水と土は合一わず、財は印を壞せず印は財を沒せず、所以に大貴です。反対に、壬戌年・丁未月・戊申日・乙卯時という一造(底本の「戊甲」は「戊申」の誤り)は、戊土が未月に生まれ、未は雜氣で、乙木の正官はすでに時干に透してまた卯と會して木局を成し、もともと最上等の貴格です。奈何、年干の壬水偏財と月干の丁火正印が兩兩相合し、財印が同じく歸於盡で、依然として「孤官無輔」に照らして論ずるほかなく、所以に官位は七品に上りません。
若財印不以兩用,則單用印不若單用財,以印能護官,亦能洩官,而財生官也。若化官為印而透財,則又為甚秀,大貴之格也。如金狀元命,乙卯、丁亥、丁未、庚戌,此並用財印,無傷官而不雜煞,所謂去其忌而存其喜者也。
沈氏の原文は言います。假令財と印が同時に併用できなければ、單に印を用いるは單に財を用いるに如きません。印は確かに官を護れますが、同時に官の氣を泄しもするのに、財は專ら官を生じに來るものだからです。もし官を化して印としながら財を透し出せば、それは格外に清秀で、大貴の格です。たとえば金狀元の命。乙卯年・丁亥月・丁未日・庚戌時。丁火日主が亥月に生まれ、亥中の壬水はもともと正官ですが、地支の亥卯未が三合して木局を成し、官は便ち化して印となります。時干の庚金は正財で、透し出てまた水の官を生じられます。これがすなわち財印併用で、傷官が來て官を剋することもなく、七煞が來て混雜することもなく、正に所謂忌する所を去り喜する所を留めるです。
然而遇傷在於佩印,混煞貴乎取清。如宣參國命,己卯、辛未、壬寅、辛亥,未中己官透干用清,支會木局,兩辛解之,是遇傷而佩印也。李參政命,庚寅、乙酉、甲子、戊辰,甲用酉官,庚金混雜,乙以合之,合煞留官,是雜煞而取清也。
沈氏の原文は言います。官格が傷官に遇うのは、全く印を佩んで傷を制するに賴ります。官中に七煞が混じったのは、取清に貴びがあります。たとえば宣參國の命。己卯年・辛未月・壬寅日・辛亥時。壬水日主が未月に生まれ、未中の己土は正官で年干に透し、取用は清純です。しかし地支の亥卯未が會して木局を成して傷官となって來て官を剋しますが、幸いに月干・時干の二つの辛金の正印が木局を制住します。これがすなわち傷に遇えて印を佩むです。また李參政の命。庚寅年・乙酉月・甲子日・戊辰時。甲木が酉中の辛金を正官と用い、年干の庚金は七煞が來て混雜し、月干の乙木は庚金と相合して煞を合し去り官を留めます。これがすなわち煞に雜りて清を取るです。
至於官格透傷用印者,又忌見財,以財能去印,未能生官,而適以護傷故也。然亦有逢財而反大貴者,如范太傅命,丁丑、壬寅、己巳、丙寅,支具巳丑,會金傷官,丙丁解之,透壬豈非破格?卻不知丙丁並透,用一而足,以丁合壬而財去,以丙制傷而官清,無情而愈有情。此正造化之妙,變幻無窮,焉得不貴?
沈氏の原文は言います。官格が傷官を透して印を以て制する者は、また最も財を見るを忌みます。財は印を去りえ、官を生ずるどころか、反って傷官を保護するに等しいからです。しかし財に逢ってかえって大貴となるものもあります。たとえば范太傅の命。丁丑年・壬寅月・己巳日・丙寅時。己土日主が寅月に生まれ、寅中の甲木は正官です。地支の巳と丑が會して金局を成して、即ち傷官が來て官を剋しますが、幸いに年干の丁火・時干の丙火の两層の印綬が金局を制住します。しかし月干にまた壬水を透して財とし、財は印を壞しうるのに、豈に破格ではありませんか。知らざるか、丙丁の两印が併透し、一つ用いればすでに足ります。丁火が去って壬水と相合して財を合掉し、丙火が留まって專ら傷官を制すれば、官星は便ち清です。無情に見えて、反っていよいよ有情です。これぞ造化の巧妙、變幻無窮で、どうして貴ならざるを得ましょうか。
