悟真篇 · 第6巻
夫戒定慧者,乃法中之妙用也。佛祖雖嘗有言,而未達者有所執。今略而言之,庶資開悟。然其心境兩忘,一念不動曰戒;覺性圓明,內外瑩徹曰定;隨緣應物,妙用無窮曰慧。此三者相須而成,互為體用。三者未嘗斯須相離也。猶如日假光而能照,光假照以能明。非光則不能照,非照則不能明。原其戒定慧者,本乎一性;光照明者,本乎一日;一尚非一,三復何三?三一俱忘,湛然清淨。
戒・定・慧は、乃ち法中の妙用なり。佛祖雖も曾て言有り、而れど未通達の人は執着有り。今略かに說說して、開悟に助け有らんことを望む。心境兩忘・一念不動を戒と叫び、覺性圓明・內外瑩徹を定と叫び、隨緣應物・妙用無窮を慧と叫ぶ。此の三者は互いに依靠して成り、互いに體用を為す。三者は曾て片刻相離せず。譬えば日は光を借りて能く照らし、光は照らすを借りて能く明らかなり。光無くんば照らす能わず、照らさずんば明らかなる能わず。戒定慧を推原すれば、一性に本づく。光照・明は、一日に本づく。一尚且是れ一に非ず、三は又何曾三ならん。三一都忘して、湛然清淨なり。
西江月(十二首)
西江月十二首。
妄相不復強滅,真如何必希求。本源自性佛齊修,迷悟豈拘前後。悟即剎那成佛,迷兮萬劫淪流。若能一念契真修,滅盡恆沙罪垢。
妄相は必ずしも強滅を要せず、真如何必希求せん。本源自性は佛と齊く修、迷悟あに前後を拘らん。悟れば即ち刹那に佛を成り、迷えば便ち萬劫淪流す。若し能く一念真修に契せば、恒沙の罪垢を滅盡せん。
本是無生無滅,強求生滅區分。只如罪福亦無根,妙體何曾增損。我有一輪明鏡,從來只為蒙昏。今朝磨瑩照乾坤,萬象昭然難隱。
本より是れ無生無滅、強いて生滅の區分を求む。只だ罪福も亦た根無きがごとく、妙體何曾增損せん。我に一輪の明鏡有り、從來只だ蒙昏のためのみ。今朝磨瑩して乾坤を照らせば、萬象昭然として隱藏し難し。
我性入諸佛性,諸方佛性皆然。亭亭寒影照寒泉,一月千潭普現。小即毫毛莫識,大時遍滿三千。高低不約信方圓,說甚長短深淺。
我が性は諸佛性に入り、諸方の佛性は皆此の如し。亭亭たる寒影は寒泉を照らし、一月千潭に普遍顯現す。小なれば即ち毫毛も識り難く、大なる時は遍く三千に滿つ。高低は方圓を約定せず、何の長短・深淺を說かん。
法法法原無法,空空空亦非空。靜喧語默本來同,夢裡何勞說夢。有用用中無用,無功功裡施功。還如果熟自然紅,莫問如何修種。
法法法は原來法無く、空空空も亦た並びに空に非ず。靜喧・語默は本來同、夢裏何ぞ必ずしも夢を說かん。用有りて用中無用、功無きに功裏施功。還た果熟して自然紅なるがごとし、如何に修種するかを問うなかれ。
善惡一時忘念,榮枯都不關心。晦明隱顯任浮沉,隨分飢餐渴飲。神靜湛然常寂,不妨坐臥歌吟。一池秋水碧仍深,風動莫驚盡恁。
善惡は一時に念を忘れ、榮枯は皆心に關らず。晦明・隱顯は浮沉に任せ、分に隨い饑えて飯を喫し渴いて水を飲む。神靜かに湛然として常寂、坐臥・歌吟するを妨げず。一池の秋水は碧にして且つ深し、風動いて驚くなかれ、盡く其の如くに由れ。
對境不須強滅,假名權立菩提。色空明暗本來齊,真妄休分兩體。悟即便明淨土,更無天竺漕溪。誰言極樂在天西,了即彌陀出世。
境に對して必ずしも強滅を要せず、假名は權且菩提個を立つ。色空・明暗は本來齊、真妄は兩體に分かつなかれ。悟れば即便ち淨土を明らかにし、更に天竺・曹溪有らず(底本の「漕」は「曹」に作るべし)。誰か說く極樂は天西に在りと、了了即ち是れ彌陀出世。
人我眾生壽者,寧分彼此高低。法自通照沒吾伊,念念不須尋覓。見是何嘗見是,聞非未必聞非。從來諸用不相知,生死誰能礙你。
人我・衆生・壽者、何ぞ彼此・高低を分かたん。法は自己通照して吾伊無く、念念は必ずしも尋覓を要せず。見是何曾て是を見ん、聞非は未必しも非を聞かず。從來諸用は相知らず、生死誰か你を礙せん。
住相修行佈施,果報不離天人。恰如仰箭射浮云,墜落只緣力盡。爭似無為實相,還元返樸歸淳。境忘情盡任天真,以證無生法忍。
相に住して布施を修行すれば、果報は天人を離れず。恰似仰いで箭を浮雲に射る、墜落するは只だ力盡くるに因る。あに無爲・實相に如かん、元に還り朴に返り淳に歸れ。境忘れ情盡きて天真に任せ、此を以て無生法忍を證せん。
魚兔若還入手,自然忘卻筌蹄。渡河筏子上天梯,到彼悉皆遺棄。未悟須憑言說,悟來言語成非。雖然四句屬無為,此等仍須脫離。
魚兔若し還た手に入れば、自然に筌蹄を忘卻す。河を渡る筏子、天に上る梯、彼岸に到れば便ち皆遺棄す。未悟は須く言說に凭るべく、悟來れば言語は是れ不是を成す。四句雖も無爲に屬すれど、此の等は仍お須く脫離すべし。
悟了莫求寂滅,隨緣且接群迷。斷常知見及提攜,方便指歸實際。五眼三身四智,六度萬行修齊。圓光一顆好摩尼。利物兼能自濟。
悟りて寂滅を求むるなかれ、緣に隨い且く群迷を接引せよ。斷常・知見および提攜、方便して實際に指歸す。五眼・三身・四智、六度・萬行を修齊す。圓光一顆の好き摩尼、物を利して兼ねて自ら濟る能くす。
我見時人說性,只誇口急酬機。及逢境界轉痴迷,又與愚人何異。說的便須行的,方名言行無虧。能將慧劍斬摩尼,此號如來正智。
我見る時人の性を說くは、只だ口急・機に酬るを誇る。境界に逢着するに及びて便ち痴迷に轉ず、又た愚人と何の異かあらん。說く便ち須く行之を、纔かに言行虧無しと名叫す。能く慧劍を將て摩尼を斬る、此れ如來正智と號す。
欲了無生妙道,莫非自見真心。真身無相亦無音,清淨法身只恁。此道非無非有,非中亦莫求尋。二邊俱遣棄中心,見了名為上品。
無生妙道を想了す、非ずや自己の真心を見るに莫し。真身は相無く亦た音無し、清淨法身は只だ此の如し。此の道は非無・非有、非中も亦た求尋を要せず。二邊都遣して中心を棄掉す、見て上品と名づく。
後序
後序
竊以人之生也,皆緣妄情而有其身。有其身則有患;若無其身,患從何有!夫欲免夫患者,莫若體夫至道;欲體夫至道,莫若明夫本心。故心者道之體也,道者心之用也。人能察心觀性,則圓明之體自現,無為之用自成。不假施功,頓超彼岸。此非心鏡朗然,神珠廓明,則何以使諸相頓離,纖塵不染,心源自在,決定無生者哉!然其明心體道之士,身不能累其性,境不能亂其真,則刀兵烏能傷,虎兕烏能害,巨焚大浸烏足為虞?達人心若明境,鑑而不納,隨機應物,和而不唱,故能勝物而無傷也。此所謂無上至真之妙道也。
私わくく以爲す、人の出生は皆妄情に因りて其の身有り。身有れば便ち患有り、若し身無ければ患は何處より來たらん。患を免れんと欲せば、至道を體認するに莫し。至道を體認せんと欲せば、本心を明了するに莫し。故に心是れ道の體、道是れ心の用。人は能く心を察し性を觀れば、則ち圓明之體自ら顯現し、無爲之用自己成就す。功を施すを借らずして、彼岸を頓超す。此れ若し心鏡朗然、神珠廓明に非ざれば、又た何を以て諸相をして頓離せしめ、纖塵も染せず、心源自在にして無生を決定せんや。然れど明心・體道の士は、身は其の性を累すること能わず、境は其の真を亂ること能わず、則ち刀兵あに傷せんや、虎兕あに害せんや、巨焚・大水も又何の憂か足らん。達人の心は明鏡のごとく、鑑照して納入せず、機に隨い物に應じ、和して唱えず、故に能く物に勝ちて傷無し。此れ即ち所謂無上至真の妙道。
原其道本無名,聖人強名;道本無言,聖人強言耳。然則名言若寂,則時流無以識其體而歸其真。是以聖人設教立言以顯其道,故道因言而後顯,言因道而返忘。奈何此道至妙至微,世人根性迷鈍,執其有身而惡死悅生,故卒難了悟。黃老悲其貪著,乃以修生之術,順其所欲,漸次導之。以修生之要在金丹,金丹之要在神水華池,故《道德》、《陰符》之教得以盛行於世矣,蓋人悅其生也。然其言隱而理奧,學者雖諷誦其文,皆莫曉其意,若不遇至人授之口訣,縱揣量百種,終莫能著其功而成其事,豈非學者紛如牛毛,而達者乃如麟角耶!
推原するに道は本來名無し、聖人強いて之に名を爲す。道は本來言無し、聖人強いて言するのみ。然れど名言若し沉寂せば、則ち時流は其の體を認識して其の真に歸るに從無し。故に聖人は教を設け言を立てて以て其の道を顯明す、故に道は言に因りて後に顯れ、言は道に因りて還りて忘れらる。奈何せん此の道は至妙・至微、世人は根性迷鈍にして、有身に執着して死を厭惡し生を喜悅す、故に終に了悟し難し。黃老は彼らの貪着を悲憫し、ここに修生の術を用て其の所欲に順い、漸漸彼らを引導す。修生の要は金丹に在り、金丹の要は神水・華池に在るに因りて、故に《道德》・《陰符》の教は世に盛行するを得たり、是れ人が其の生を喜悅するがためのみ。然れど其の言は隱にして理は奧、學者は其の文を諷誦すと雖も、皆其の意を曉得する能わず、若し至人に遇い口訣を授けられざれば、縱い百種を揣量するも、終に功を著け其の事を成就する能わず、あに學者の紛然として牛毛のごとく、而して達する者は乃ち麟角のごとしと言わざらんや。
伯端向己酉歲於成都遇師,授以丹法,自後三傳非人,三遭禍患,皆不愈兩旬,近憶師之所戒云:“異日有與汝解韁脫鎖者,當宜授之,餘皆不許。”爾後欲解名籍,而患此道人不知信,遂撰此《悟真篇》,敘丹法本末。既出,而求學者湊然而來,觀其意勤,心不忍拒,乃擇而授之。然所授者,皆非有巨勢強力能持危拯溺、慷慨特達、能仁明道之士。初再罹禍患,心猶未知,竟至於三,乃省前過。故知大丹之法至簡至易,雖愚昧小人得而行之,則立超聖地,是以天意秘惜,不許輕傳於匪人也。而伯端不遵師語,屢洩天機,以其有身,故每膺譴患,此天之深戒如此之神且速;敢不恐懼克責。自今以往,當鉗口結舌,雖鼎鑊居前,刀劍加項,亦無復敢言矣。
伯端從前己酉年に於て成都に在り師に遇い、丹法を授けられ、自後三次當を得ざる人に傳え、三次の禍患に遭い、皆兩旬を超えず。近來師の告誡を回憶するに曰く、「他日你に解繮脫鎖する人有らば、當に彼に授くべし、其の餘は皆許さず」と。此の後名籍を解脫せんと欲し、又た此の道を人が信を知らざらんことを擔心し、ここに此の《悟真篇》を撰成して、丹法の本末を敍述す。既に寫出して後、求學の人は凑然として來り、其の意の勤なるを看て、心に拒絕するに忍びず、ここに選擇して之を授く。然れど授くる所は、皆巨勢・強力有りて危を持ち溺を拯い、慷慨・特達して能く仁に明道するの士に非ず。起初再び禍患に罹り、心裏は還た知らず、竟に第三次に至りて、纔かに從前の過錯を省悟す。故に知る、大丹の法は至簡・至易、雖も愚昧の小人得て之を行えば、便ち立ちどころに聖地に超入す、此れに因りて天意は祕惜して、匪人に輕傳するを許さず。而も伯端は師語に遵わず、屢屢天機を泄漏し、身有るに因りて、故に每每譴患を膺受す、此れ上天の深戒の如く神にして且つ速なり。敢えて恐懼し克責せざらんや。自今以後、當に口を鉗み舌を結び、雖も鼎鑊前に在り刀劍項に加わるとも、亦た敢えて言わざらん。
此《悟真篇》中所歌詠大丹、藥物、火候細微之旨,無不備悉。倘好事者夙有仙骨,觀之則智慮自明,可以尋文解義,豈須伯端區區之口授耶。如此,乃天之所賜,非伯端之輒傳也。其如篇末歌頌,談見性之事,即上之所謂無上妙覺之道也。然無為之道,濟物為先,雖顯秘要,終無過咎。奈何凡夫,緣業有厚薄,性根有利鈍,縱聞一音,紛成異見,故釋迦、文殊所演法寶,無非一乘,而聽學者隨量會解,自然成三乘之差。此後若有根性猛利之士,見聞此篇,則知伯端得聞達摩、六祖最上一乘之妙旨,可因一言而悟萬法也;如其習氣尚餘,則歸中下之見,亦非伯端之咎矣。
此の《悟真篇》の中に歌詠する所の大丹・藥物・火候の細微之旨は、備悉せざる無し。倘若好事者夙に仙骨有らば、看れば則ち智慮自ら明白なり、文を尋ね義を解すべく、あに伯端の區區たる口授を須いんや。此の如きは、乃ち天の賜う所にして、伯端の擅自に傳うに非ず。篇末の歌頌に至りては、見性の事を談ず、即ち上面所謂の無上妙覺之道。然れど無爲之道は物を濟うを以て先と爲す、雖も祕要を顯露すとも、終に過咎無し。奈何せん凡夫の緣業は厚薄有り、性根は利鈍有り、縱い同じく一音を聞くとも、紛然として異見を成す、故に釋迦・文殊の演ずる所の法寶は、非ずや一乘のみ、而して聽學の人は量に隨い解に會し、自然に三乘の差別を成す。此の後若し根性猛利の士有らば、此の篇を見聞して、便ち知る伯端は達摩・六祖最上一乘の妙旨を聞得しを、以て一言に因りて萬法を悟るべし。若し習氣還た餘剩あれば、便ち中下之見に歸す、亦た伯端の過錯に非ざるなり。
時元豐改元戊午歲仲夏戊寅日張伯瑞平叔再序。
時は元豐改元戊午年仲夏戊寅日、張伯端平叔再序。
