上巻十八 沒牛出龍、葬皮葬骨
沒水之牛,氣仰而吹,宜乘其氣;出洞之龍,氣直而吐,宜乘其餘。精華外露之氣如花,宜葬其皮;精華內釀之氣如果,宜葬其骨。
水中に沉める牛の如く只鼻を仰起して氣を吹けば氣は便ち全て鼻孔の那一點の上に在り、故に正しく其の那口の氣に乘ずるを要す——緩來の脈は淺乘正取を宜とす。洞を出づる龍の如く氣直に吐き出でて氣焰方に盛んにして冒犯すべからず、只宜しく其の吐出したる餘焰を承接すべし——急來の脈は脫卸緩承を宜とす。精華外露の氣は花に比して英華皆外に在りて其の皮を淺葬るを宜とし、精華內蘊の氣は果に比して滋味皆裏面に釀して其の骨を深葬るを宜とす。此の四句は氣の緩急浮沉を以て葬法の緩急深淺を定む。
此四段以氣之緩急深淺而為葬之緩急深淺,乃作法也。如平坦之龍脈,潛於地而微露毛脊,至結穴處特起一氣,乃吉氣之所起也。其氣從沈緩而僅浮,不宜緩乘,其為緩來,不妨安絕頂乎!譬如牛之沒水,身藏水中而偶露毛脊,特一仰而吹氣,則盡在鼻中,若稍脫之便失氣矣。此緩來之法也。
此の四段は氣の緩急深淺に就て下葬の緩急深淺を定む、作法に屬す。譬へば平坦の龍脈は地下に潜行して只微微と一線の毛脊を露出し、結穴の處に到りて特に一團の氣を起こす、那れは即ち吉氣の起る所の處なり。其の氣は沉緩に由りて僅に浮出せり、宜しく再び緩緩に之を乘ずべからず。既に緩來なれば則ち是れ最高の頂上に安ずとも又復た何の妨げあらん。譬へば水牛は水中に沒して身は水裏に藏れて偶に一線の毛脊を露し、只頭を一たび仰ぎて一口氣を吹けば氣は便ち全て鼻孔の裏に在り、若し稍々一點脫開せば便ち那の口氣を失ふ。これ緩來の脈に應付するの方法なり。
又如高隴之龍,脈行於山而勢奔氣湧,至結穴處,須要脫卸,落在平洋,氣乃沖和,所謂“來不來,坦中裁,住不住,坪中取”也。其氣從盛急而乃舒,不宜急承,其為急來,不怕葬深泥乎。譬如龍之出洞,其氣焰方盛,何可犯之;乃其氣之吐而有餘焰處,則精靈之可掬者也。故宜脫球而葬榜,緩以承之。
又如高壟の龍は脈山中に行りて勢奔り氣涌き、結穴の處に到りて必ず脫卸して來りて平洋に落ちて氣乃ち冲和す、即ち所謂「來不來、坦中裁;住不住、坪中取」なり。其の氣は盛急に由りて舒緩に轉ず、宜しく急急に承ぐべからず。既に急來なれば則ち葬るや泥中に深入するも又何の怕るべきあらん。譬へば龍剛に洞を出づれば氣焰正に盛んにして怎ぞ之を冒犯すべからんや。只其の氣を吐きて後餘焰の及ぶ所の地方こそ乃ち精靈掬むべきの處なり。故に宜しく那一團の氣球を脫開して其の餘を吐くの一段に葬り緩緩に承接するを要す。
又如氣浮於上,而靈光已露,深葬之則氣從上過,故宜淺葬。如木之有華,之之有珠,其英華盡露於外,深之則傷其質矣。又如氣沉於下,而皮膚粗剛,美含於內,不以深取,則氣從下過,故宜深葬。如頑金之開孤取水。厚土之破角見金,皆於深而得之也。譬如果實之味,皮不佳而肉佳,其精釀在內,所宜深取。
又如氣の上に浮きて靈光已に顯露せるは深葬せば氣は棺上より流過す、故に淺葬を宜とす。譬へば樹木の花を開き蚌殼の珠を生ずるが如く英華全て外に露る、葬るや深きは反って其の本質を傷る。又如氣の下に沉みて皮膚粗硬にして美質は裏頭に含着せるは深處に往て取らざれば氣は棺下より流過す、故に深葬を宜とす。頑硬の金體の孤を開き水を取るを要し深厚の土體の角を破り金を見るを要するが如く、皆是れ深處より乃ち得著するなり。譬へば果實の滋味は皮好からずして肉好し、精華は裏面に釀す、那れは則ち應に深の裏に往て取るべし。故に深淺は並びに定法なく、只那股の氣の何處に浮くかを看るのみ。
今人不察氣之浮沉,而概用淺葬深葬者,皆非也。古人謂深葬發遲淺葬發速,所見誠然,但欲速發而概用淺葬,則失古人之意矣。水木龍多易發,正以其氣之可淺葬耳。此又論氣之久遠者不可不知也。
今人は氣の浮沉を體察せずして一概に淺葬を用ゐ或いは一概に深葬を用ゐる、皆是れ對ならず。古人の言に「深葬は發遲く淺葬は發速し」は見解固より錯ならざれど、若し速發を求めんが為に一概に淺葬を用ゐれば那れは即ち古人の本意を失ふ。水體・木體の龍は多半發る易し、正に其等の氣本もと淺葬すべきを以てなり。此れ又福の發する久遠を論ずる人の知らざるべからざるなり。
上巻十九 砂水陰陽、砂水生死
龍穴有陰陽,砂水亦有陰陽;龍穴有生死,砂水亦有生死。
龍と穴とは陰陽を分かち、砂と水とは同樣に陰陽を分かつ。砂は開面舒坦を以て陽と為し反背峻硬を以て陰と為し、水は屈曲悠洋を以て陽と為し直急斜反を以て陰と為す。龍と穴とは生死を分かち、砂と水とは同樣に生死を分かつ。拱揖環抱有りて情有り我に向ふは生と為し、直硬頑悍にして顧みず凝まざるは死と為す。
此以砂水之陰陽生死而論氣者也。龍穴之陰陽生死,前已論之詳矣,砂何以分陰陽乎?亦開面而舒坦者為陽,以反背而峻贈者為陰。譬之人然:其在正面之間,自然開面平坦而為陽,其在背面,自然反背頑硬而為陰。有面則為向我而有惰,無面則為背我而無情。非惟龍穴貴陽,而砂亦貴開陽也。
これは砂水の陰陽生死に就て氣を論ず。龍穴の陰陽生死は前面已に論じ詳盡せり。則ち砂は怎樣に陰陽を分かつや。亦是れ開面して舒坦なるを以て陽と為し反背して峻峭陡硬なるを以て陰と為す。人を拿りて比方を打てば人の正面は自然に開展平坦にして那れは便ち陽なり、人の背面は自然に反背頑硬にして那れは便ち陰なり。面有れば即ち我に朝着して情有り、面無ければ即ち我に背て情無し。故に不只だ龍穴のみ陽を得るを以て貴と為すにあらず、砂も亦開陽を以て貴と為す——砂の陰陽は説き到れば只其の肯んじて面を轉じて穴に對するか否かを看るのみ。
水何以分陰陽乎?如水之來去屈曲,悠悠洋洋,沉沉渾渾,則舒徐沈凝而為陽;其細如繩,其直如矢,其急如瀑布,其斜如反弓,則急透斜反而為陰。譬之人然:其血脈流通條暢,則呼吸之間自然和平,吐納之際自然調適,不疾不徐,無反無逆,乃可無病驟然而入,顛讀而出,不見安閒沉靜,便是病到。非惟砂貴開陽,而水亦貴開陽也。
水は又怎樣に陰陽を分かつや。水の來去屈曲し悠悠洋洋として深沉渾厚なるは、此れ舒緩沉凝にして陽に屬す。細きこと繩の如く直きこと箭の如く急きこと瀑布の如く斜きこと反弓の如きは、此れ急透斜反にして陰に屬す。人を拿りて比方を打てば血脈流通して條暢し呼吸の間自ら和平にして吐納の際自ら調適し、快からず慢ならず反せず逆らずして乃ち無病を得。若し氣の驟然として入り顛倒して出で安閒沉静の樣子を見ざれば、那れは即ち病到りぬ。故に不只だ砂のみ開陽を以て貴と為すにあらず、水も亦開陽を以て貴と為す。根に歸り底に至れば水の陽は即ち舒緩沉蓄して情有り、水の陰は即ち急直斜反して情無し、砂の分法と本もと一理なり。
砂之生死何分也?砂無論龍虎案對只是情。向朝我,有面有目有手有足,拱揖環抱,直若僕之從主,婦之從夫,有唱有隨,有呼有應,豈不是個有情有意有生發的!譬如人之相見,有卑於我而畏敬我者,有等於我而親愛我者,其面目雖各不同,而要一氣喜喜歡歡雍雍肅肅之意,無不同也。看其面目開發,情意頗戀,則為活動而生,否則直硬頑悍,呼之不來,驅之不去,則為無情無氣而死矣。水之死亦以直急返逆,不顧不凝而然。
砂の生死は又怎樣に分かつや。砂は龍虎なりとも案山朝山なりとも論ぜず、看る所は只一個の「情」の字なり。朝して我に向ひ面有り目有り手有り足有りて拱揖環抱し、簡直に僕人の主人に隨ふが如く妻子の丈夫に隨ふが如く、唱有り隨有り呼有り應有り、此れ豈に有情有意・生發の機有るにあらずや。譬へば人と人と相見れば地位于我より低くして我を敬畏する有り、我と平等にして我を親愛する有り、面目神情は各々相同ならざると雖も、那一團の歓歓喜喜・雍容嚴整の意思は一樣なり。其の面目開展・情意留戀を看れば便ち活動して生有り。否れば直硬頑悍にして之を喚べど來らず之を趕べど去らず、那れは即ち無情無氣にして死せり。水の死も亦一樣にして直急返逆・回顧せず凝聚せざるに由るなり。故に砂水の生死は形狀の美醜に在らずして其の穴に對して那の一點の顧戀の意有るや否やに在り。
要之砂水生死又總在陰陽上見。蓋宇宙間物,總是逢陽則生,逢陰則死。又如人之結胎,男精屬陽。女血屬陰,陽貴有餘,陰貴不足,是故精盛則結,血虛則受,一以陽為主也,又如人之既死,母血先敗,父骨猶存,其可收納天地之氣而廕生人者,全在父骨,非一以陽為主乎!
總じて砂水の生死は根に歸り底に至れば還お陰陽の上に見る——宇宙間の萬物は總じて陽に逢へば則ち生じ陰に逢へば則ち死す。譬へば人の結胎は男子の精は陽に屬し女子の血は陰に屬し、陽は貴んで餘有りを以てし陰は貴んで足らざるを以てす。故に精盛んにして乃ち結胎し血虛にして乃ち受胎す、一切は陽を以て主と為す。又譬へば人死して後、母親の血は先に敗壞し父親の骨は還お存留し、能く天地之氣を收納して生人を蔭庇するは全て父骨に在り、此れ不も亦一切陽を以て主と為すか。葬の生氣に乘るの能く後人に蔭及する所以の道理は正に此處に在り。
又如大而天地,天氣為陽,地脈為陰,若非天行至健,頃刻不停,三光為照,雨露為潤,一陽來復,萬筋乃吹,則地何能生乎?是天地一以陽為主,此乃堪輿家論生死之大關係也。古來大哲見實主此間,亦論及而未嘗揭以示人,豈以千古不傳之秘,帳以神會而非以言傳者乎!
再往び大處に説かば天地之間、天氣は陽と為り地脈は陰と為る。若し天行健にして片刻も停まらず、日月星の三光照臨し雨露滋潤し、一陽來復して萬物萌動せざれば、大地は又怎ぞ能く萬物を生養せんや。見るべし、天地も亦一切陽を以て主と為す。此れ正に堪輿家の生死を論ずるの一大關鍵なり。古來の大哲は其の實皆此の道理を主張し、曾て論及するも明白に揭示して出すことなし——大氣之を千古不傳の秘と作して只神會すべくして言傳し難きならんか。
上巻二十 氣之虛實先後
氣有虛實,法當以實投虛,以虛乘實;氣有先後,法當先到失收,後到後收。
氣に虛有り實有り。初めて胎を結ぶ時は陽精を以て主と為し氣盛んにして形還お未だ實ならず、虛に屬し陽に屬し、便ち應に端端正正に中より乘取すべし。胎既に成りて後は陰血を以て主と為し形實にして氣已に斂し、實に屬し陰に屬し、便ち應に脈氣を脫開して旁より承取すべし。氣に先到有り後到有り。先到の一邊は先に收め後到の一邊は後に收め、其の偏倚に隨て左に挨り或いは右に挨る。これ穴場の上の進退饒減の活法なり。
此二段乃以主穴之進退饒減而乘氣為一法。前段言幾風息之成,初結胎時,以陽精為主,氣為勝而形未實,故虛而屬陽,陽則不宜緩承,宜中正以乘之.如平面太陽作金盤堆果、如百般花味總居心之類是也。既成胎後,以陰血為主,形為實而氣已斂,故實而屬陰,陰則不宜急湊,宜脫脈以乘之,如珠則穴其旁、乳不可當頭是也。此以進退虛實之間論者也。
此の兩段は立穴の時の進退饒減を以て氣を乘るの一種の法門なり。前の一段は説く、凡そ風氣止息して穴を成すや、初結胎の時候は陽精を以て主と為し氣が上風を占めて形は還お充實せず、故に是れ「虛」にして陽に屬す。陽に屬すれば則ち緩緩に承るを宜とせず、應に端端正正に中より乘取すべし。平面太陽形の「金盤堆果」の穴と作すが如く百般花朵の滋味總じて花心に在るの類の如く、即ち是の如し。胎既に結成して後は陰血を以て主と為し形已に充實して氣已に收斂す、故に是れ「實」にして陰に屬す。陰に屬すれば則ち急急に湊上するを宜とせず、應に脈氣を脫開して去りて乘ずべし。珠形の穴を旁邊に要し乳形の正當に頭頂たるべからざるが如く、即ち是の如し。これは進退虛實の間に就て講ずるなり。
後段言結穴之所如左插先到,則氣歸於右,則宜挨右以收左砂;如右插先到,則氣歸於左。則宜挨左以收右砂。古人謂兩官齊到中乘平。氣雖耐久而發常遲,先到先收,氣從挨倚.乃迎財就祿而發常速,正是引此意。此乃饒減收放之間而論者也。
後の一段は説く、結穴の地方若し左邊の砂先に插到せば氣は便ち右邊に歸る、則ち應に右邊に挨りて下穴し以て左邊の砂を收むべし。若し右邊の砂先に插到せば氣は便ち左邊に歸る、則ち應に左邊に挨りて下穴し以て右邊の砂を收むべし。古人の言に「兩宮齊しく到中乘平」は此の如き氣は雖も耐久なるも發福常に遲し。先到のは先に收め、氣は挨倚に隨て來る、此れ是れ財を迎へ祿に就きて發福常に快し、説く所は正に此の意なり。これは饒減收放の間に就て講ずるなり。
上巻二十一 傍城借主、就向拗龍
傍城借主,須詳審乎樂托;就向鋤龍,當消詳乎明堂。
側落・翻身落の龍は已に本來の正勢を脫去し、只得羅城・水城或いは祿儲の峰に傍りて立穴し外勢を借りて主星に充當す、此れを「傍城借主」と謂ふ、故に背後の「樂山」と「托山」とを細審するを要す。入首面目無く正向局を成さざるは則ち明堂の哪の一邊に開局するかを看て龍を拗して去りて之に遷就す、此れを「就向拗龍」と謂ふ、故に明堂を細審するを要す。
此二段皆借外氣以乘內氣,乃坐向中之作法。以龍之來不宜正受。有側落。有翻身落,不無脫去本來之勢而傍羅域或旁水城或傍祿儲峰。此皆借樂托以為主,而憑外氣以為聚散者也。故曰傍城借主。
此の兩段は皆外氣を借りて内氣を乘るに坐向の中の作法に屬す。或る來龍は正面より承受するを宜とせず。或るは側落にして或るは翻身して落ち、未免本來の氣勢を脫去し、是に於て羅城に傍り或いは水城に傍り或いは祿儲の峰に傍る。此れ等は皆「樂托」を借りて以て主星に充當し、外面の氣勢を憑りて氣の聚散を決定す、故に「傍城借主」と謂ふ。
又有龍氣直來,似宜正受,乃入首之處無面目,向方之處則無情,使不成局,故當看其明堂何堂開局,便當揪龍而就之,所謂以龍定穴,以水定向者,正謂水之聚處,則有明堂而成局,便當準此以定向方,不必拘拘於正受也。《撥砂經》云:無局不言龍。可見局之所在,即龍之所止,故有就向拗龍之法。
又一種の情形有り。龍氣直來して看似る應に正受すべし、然れども入首の處に面目無く正向の方位又情無し、以致て局を成すこと能はず。此れ則ち應に明堂の哪の一邊に局面を開出するかを看て便ち龍を拗して去りて之に遷就すべし。所謂「龍を以て穴を定め水を以て向を定む」は正に水聚の處に便ち明堂有りて局を成し、便ち應に此を以て向方を定むべく死守して正受を須とせずを説くなり。《撥砂經》に「局無くば龍を言はず」と曰ふ、見るべし局の在る處に龍便ち止まるを、故に「就向拗龍」の法門有り。此れ傍城借主と一樣に皆是れ正受に拘らず外勢を以て内氣を定むるの活法なり。
上巻二十二 三靜一動、百死一生
點穴須求三靜一動。認氣須要百死一生。
穴を點ずるは「三靜一動」を尋ぬるを要す。案對は靜を要し龍虎は靜を要し水城は靜を要し、而も中間の穴場は獨り一脈活動して精神を見る。氣を認るは「百死一生」を尋ぬるを要す。四圍の餘氣盡皆死寂して獨り此の一點に還た生機有り、那れ乃ち真生氣なり。
此以動靜生死而識氣脈之真假,最為關要。何謂三靜?案對要靜,開面朝拱而無壓逼走竄;龍虎要靜。內向懷抱而無他顧飛騰;水城要靜,繞環凝聚而無反背沖激。中間惟見穴場之所。一脈活動而有精神,此則三靜一動,其穴乃真。
これは動靜と生死とを拿りて氣脈の真假を辨識す、最も關鍵なり。何をか「三靜」と謂ふや。案山朝對は靜を要し須く面を開き朝拱して壓逼竄走なきべし。青龍白虎は靜を要し須く内に向ひて懷抱して他顧飛騰なきべし。水城は靜を要し須く環繞凝聚して反背冲激なきべし。四圍皆靜にして中間に只見る穴場の那一脈活潑して精神有り——此れ即ち三靜一動にして穴乃ち真なり。四圍若し亦亂動せば那れは即ち氣未だ止まらず、穴心若し亦死寂せば那れは即ち氣未だ到らず。
而認氣則於穴場中看其精神。何者是其精神發越處?即如孩兒頭一般,頭上之骨皆堅,而怪囪門獨柔,一呼一吸,可浮可沉,此真生意處。古人以化生腦不取象於頭而取象於孩兒頭者,極有味也。他如厚中取薄,薄中取厚,靜中取動,動中取靜,必皆餘氣盡死,而惟此一點獨有生機,乃為生氣。不然則亦今人所稱菩薩面死鱉背之說而已,最宜細察之。
至りて氣を認るは則ち穴場の中に於て其の精神を看るを要す。何處をか精神發越の地方と為すや。即ち小孩の頭の如し。頭上の骨頭は皆是れ堅硬にして唯獨囟門の那一處は最も柔軟にして一呼一吸浮く可く沉む可し、彼處こそ乃ち真正の生意の所在なり。古人の「化生腦」を講ずるは成人の頭に取象せずして小孩の頭に取象す、實に極めて意味有り。其の餘の厚中に薄を取り薄中に厚を取り靜中に動を取り動中に靜を取るの如きも亦必ず是れ四圍の餘氣盡く死して唯獨此の一點に還た生機有らん、那れ乃ち生氣と叫ぶ。若し是の如くならざれば則ち只是れ今人の所謂「菩薩面」「死鱉背」のみなり、最も應に細察すべし。
上巻二十三 弦棱涌凸、認氣葬氣
有弦有稜則形真,若湧若凸則氣到。認氣難於認脈,葬脈豈如葬氣。
穴場の上に弦有り棱有り——蟬翼砂・牛角砂が蟹眼水と蝦鬚水とを界出す——形乃ち真なり。穴心の處涌くに似て凸に似て沉陷せず、氣乃ち到りぬと算す。氣を認るは脈を認るより難し。脈は收斂して脊有り陰に屬し煞を帶び形迹見え易し。氣は平坦にして圓滿し陽に屬して乘る可きも卻て極めて辨認し難し。故に脈を葬るは終竟氣を葬るに如かず。
此乃於入首微茫處認出一點靈光之氣,為堪輿家至要,亦至訣也。前段言一入穴場當先認形,隨即認氣。如穴場必有弦稜,則蟹眼、奸須之水乃見,始能成胎。蟹眼是凸穴,其中圓滿而起,如蟹眼然,外有蟬巽砂為之陰護,而水微見,謂之蟹眼水也。一有蟬翼砂則弦稜成矣。
これは入首微茫の處に於て一點の靈光の氣を認出すに堪輿家の最も緊要の事と為し亦最も要緊の口訣なり。前の一段は説く、一たび穴場に進みて先ず形を認り隨に氣を認る。穴場の上は必定に弦有り棱有りて蟹眼水・蝦鬚水乃ち顯現出來ることを得、乃ち胎を成すことを得。「蟹眼」は凸穴にして中間圓滿隆起し形は蟹の眼睛の如く外面に蟬翼砂の暗暗に護る有りて水微微と見ゆ、故に蟹眼水と謂ふ。一たび蟬翼砂有れば弦棱も亦成る。弦棱は形にして蟹眼水は形の真なる所以の憑證なり。
蝦鬚是窩穴,其中翕聚,如蝦鬚之抱掏然,外有牛角砂為之明護。而水明見,謂之蝦鬚水也。一有牛角砂則弦稜成矣。弦稜成則氣聚而不散,天心自然湧凸,乃成胎息。若天心沉陷,乃是花假,不成穴矣。氣脈何以分別?幾脈之行,必須斂而有脊,乃見草蛇灰線。形雖不甚露,而未嘗無形也。
「蝦鬚」は窩穴にして中間翕然として收聚し蝦鬚の兩邊環抱するが一般の如く、外面に牛角砂の明明に護る有りて水清楚見ゆ、故に蝦鬚水と謂ふ。一たび牛角砂有れば弦棱も亦成る。弦棱一成れば氣は便ち聚まりて散ぜず、穴心自然に涌起微凸し是に於て胎息を結成す。若し穴心反って沉陷し下れば那れは即ち花假の穴にして穴を成すこと能はず。氣と脈とは又怎樣に分別するや。凡そ脈の行走は必定收斂して脊有りて乃ち「草蛇灰線」を見出すことを得。形は雖も十分顯露せざるも之を無形と謂ふこと能はず。
幾形之有脊而斂處便屬陰,陰則有煞不可犯。平坦圓滿則為氣,如人之身服,猶按之有脊氣,則充滿遍而無凝滯,乃屬陽,陽所宜乘也,但脈易見而氣難認耳。謂葬脈不夕葬氣者,正以脈犯陰而氣為陽,當葬氣也。如前所稱太極暈及天輪之說,正是氣體耳。時師多能葬脈而不能葬氣者,以其原未明此,故禍常多而福常少也。夫苟形真穴正,而又能辨乎氣脈,測為人造福,百不失一矣。
凡そ形に脊有りて收斂する地方は便ち陰に屬し、陰に屬せば便ち煞有りて冒犯すべからず。平坦圓滿なるは便ち氣にして人の身軀の如く、按し下げて還お脊有るを覺出し氣便ち充滿周遍して凝滯無し、此れ即ち陽に屬し陽こそ乃ち應に乘ずべきなり。只是れ脈は看見し易くして氣は辨認し難きのみ。所謂脈を葬るは氣を葬るに如かずは正に脈は陰を犯し氣は陽に屬して應に氣を葬るべきを以てなり。前面の所謂「太極暈」と「天輪」の説の如きは講ずる所は正に氣體なり。當今の地師は多半能く脈を葬りて氣を葬ること能はず、只原本此の一層を明白せざるに因り、故に禍を招くこと常に多く福を致すこと常に少なし。若し果然形真穴正にして而又能く氣と脈とを辨清せば、則ち人の為に福を造ること自然百に一の失なし。
上巻二十四 法葬在形裏、會意在形表
法葬之葬,法在形裡;會意之葬,意在形表。
「法葬」は人力を以て剪裁して成る——或いは孤を開き水を取り或いは窩を填め石を墊き、當に培すべきは則ち培し當に削るべきは則ち削り、其の法度は仍お形體の内に在り。「會意の葬」は則ち形體の上に全く窩鉗乳突の憑るべきなく只氣勢精神會聚の意を憑りて去りて穴を定む、其の用意は已に形體の外に在り。
此以穴情變態不一,有穴藏於拙,以人力而剪裁之者,有穴隱於微,以意向而融會之者,此之謂仙蹤,凡論氣者不可不神會也。夫論穴先論形,乃有形不足以成穴者,如頑金而不少開窩,其剛飽豈可言穴,則當細認其中之微凹處,便為生氣,須以開孤法,大用人工,取出水窩以葬之,此全以人力而成,謂之法葬。
これは説く、穴情變化一ならず。或る穴は拙朴の中に藏れて須く人力を用ゐて剪裁すべく、或る穴は微茫の間に隱れて須く意會を用ゐて融通すべし。此れ即ち所謂「仙蹤」にして凡そ氣を論ずる人は用心領會せざるべからず。穴を論ずるは先ず形を論ず、然れども亦形の穴を成すに足らざる有り。頑硬の金體の一點も窩を開かざるが如きは那の剛硬飽滿なるを怎ぞ能く穴と稱せんや。此れ則ち應に其の當中の微微凹陷の地方を細認し彼處は便ち生氣の所在にして須く「開孤」の法を用ゐ大いに人工を費し一水窩を鑿出して下葬すべし。此れ全く人力を靠りて做成するを以て故に「法葬」と謂ふ。
又如水窩太深,乃陽中之陽,不可言穴,然真氣既蓄,必然有結,則宜於窩內或填以土,或墊以石,如龍強,又或墊之以木,須用填實其窩,成個陽中之陰,取披架於其上而葬,此乃虛而實之之法。亦所謂法葬也。他如騎刑剪燥,開孤截蕩,各各有法,亦當培則培,當削則削,宜虛而虛,應實而實之法度也,是以楊公有法葬之條。
又如水窩太深なるは那れは陽中の陽にして亦穴と稱すること能はず。然れども真氣既に此に蓄へば必定結作有り、那れは則ち應に窩裏に於て或いは土を填め或いは石を墊き、若し龍勢强きは還た木を墊く可し、總じて窩を填實して一個の陽中の陰と作り成し、再び蓋板を取りて上に架して下葬す——此れ「虛にして之を實す」の辦法にして亦法葬に屬す。其の餘の騎刑剪燥・開孤截蕩の如きも亦各々其の法度有り。該に培すべきは則ち培し該に削るべきは則ち削り宜しく虛すべきは則ち虛し應に實すべきは則ち實す。故に楊筠松乃ち專ら「法葬」の此の一条を立つ。見るべし形に足らざる處有れば人力盡く補足すべく、只補ふ所は正に那口真氣の出路なり。
又如有真龍正脈盡鍾於此,情勢局面亦盡會於此,乃考之穴情,測無真正入相形穴,古人一惟會其精神所聚之意。如官坑樑上掛金斗地,乃在窮源僻塢高嶺絕頂之上,兩邊山勢俱是不止,行去且有十數里餘,此亦形穴所不相者,但觀其氣勢,則兩邊龍回虎抱,前面朝對,自近案橫欄之外,一望可百里許,遠遠見鵝子尖為正朝,鴉峰峙左,大茅峙右,三陽並聳,萬峰俱朝,去水雖有一二十里,然一折一回之玄,九曲不見其去,穴下餘氣。
又一種の情形有り。真龍正脈全て此に鍾聚し情勢局面も亦全て此に會合す、然れども穴情を考究するに卻て真正相法に合する形穴を看出さず。古人は便ち一味に其の精神の聚まる所の意を領會して去りて穴を定む。譬へば官坑梁上の「挂金斗」の地は即ち窮源僻塢・高嶺絕頂の上に在り、兩邊の山勢皆止住を肯ぜず一直に行出して十幾里を去る、此れ亦形穴の相合すること能はざる所なり。但し其の氣勢を看るに兩邊は青龍回抱し白虎環拱し、前面に朝對有り、近處より橫攔する案山の外を望去れば百里の遠に及ぶべく、遙かに鵞子尖の正朝と為るを見、鴉峰は左に峙立し大茅は右に峙立し、三陽並び聳え萬峰俱に朝す。去水は雖も一二十里あるも卻て一折一回して之玄の形を作り九曲盤繞して其の流走を見ず、穴下に還た餘氣を留む。
亦自成個小明常,如在平地,不見其傾,立在穴內,惟見上聚之派,天清之氣,高朗恢弘,森嚴翕聚,滬然一聖賢清高氣象,故當時則用頂門百會之穴而葬之。龍是橫來,入首處微有土金貼體,取象金斗則亦以意會之耳。
此の餘氣も亦自ら一個の小明堂を成して平地上に在るが如く傾瀉を看出さず。穴内に立てば只見る上聚の一派天清の氣、高朗恢弘・森嚴翕聚、渾然として一副の聖賢清高の氣象なり。故に當時便ち頂門百會の處を用ゐて立穴して葬る。此の龍は横來なり、入首の處に微微と土體・金體貼りて有り、取象して「金斗」と為すも亦不過是れ意を以て會するのみなり。
又如坑口麻榨形,龍自高山脫下平洋,闊有十餘畝,下脈處雖亦有來龍發到,前面卻是一片鋪陽,其於窩鉗乳突四字,全無佐證,又無龍虎渙風掃來,不可為穴,然真龍既到,卻是大結作,當時賴仙只會其中氣正聚之處,大開深槽,闊一二丈,一長有三五丈,深辦五六足許,取象油槽,喝作麻榨形,穴頂槽頭,一取槽溝以聚氣,一取槽溝當作龍虎以蔽其風。若論穴豈有此等?蓋亦會意作之耳,此其法又在形之外矣。
又如坑口の「麻榨形」は龍高山より脫落して平洋に到り寬さ十幾畝あり、下脈の處は雖も亦來龍發到有るも前面は卻て一片鋪開の陽面にして窩・鉗・乳・突の四字に對して全く佐證無く、又龍虎の遮攔無くして風勢涣散して掃來り、本もと穴と作る可からず。然れども真龍既に此に到れば卻て一處の大結作なり。當時賴布衣は只其の中の氣正に聚まる處を領會して一條の深槽を大開し、寬一二丈・長三五丈・深五六尺上下、油榨の槽に取象して形を喝して「麻榨形」と為し、穴を槽頭に定む。此の如く做るは一に槽溝を借りて氣を聚め、二に槽溝を借りて龍虎と當て以て風を遮蔽す。若し常法に按じて穴を論ぜば豈に此の如きの穴有らんや。此れも亦不過意を以て會して作成するのみなり——此種の法門は便ち更に形體の外に在るなり。
上巻二十五 論龍之來處與止處
龍之貴賤以格辨,龍之正餘以祖辨,龍之大小以幹辨,故同龍論格,同格論祖,同祖論幹。龍之去住以局辨,龍之偏正以堂辨,龍之真偽以座辨。故同龍論局,同局論堂,同堂論座。
龍の貴と賤とは「格」の上より分辨す——穴後一節の結成する五腦・三台・華蓋・玉屏・諸軸等の哪の一種の貴格なるかを看る。龍の正と餘とは「祖」の上より分辨す——分祖の處の正降なるか旁出なるかを看る。龍の大と小とは「幹」の上より分辨す——其れ幹中の幹なるか枝中の幹なるかを看る。故に同じ一条の龍にして先ず格を論じ、格相同なれば再び祖を論じ、祖相同なれば再び幹を論ず。龍の去と住とは「局」の上より分辨す——城垣關鎖有りて個の巢穴を成せば龍便ち此に歸宿す。龍の偏と正とは「堂」の上より分辨す——明堂の哪の一邊に在れば正穴便ち哪の一邊に在り。龍の真と僞とは「座」の上より分辨す——入首に真蓋座有りや無しや。故に同じ一条の龍にして先ず局を論じ、局相同なれば再び堂を論じ、堂相同なれば再び座を論ず。前の三句は龍の來處を論じ後の三句は龍の止處を論ず。
前一段論龍之來處,後一段論龍之止處,皆認氣者不可不辨。夫龍何以分貴賤也?如龍之體勢,或以五腦,或以三臺,或以華蓋,或以玉屏,或以諸軸,成何貴格則不論,龍之二三五節,或長或短,而有此狀樣,便以貴論矣。要之以穴後一節為主。廖公云“穴後一節為龍格”是已。
前の一段は龍の來處を論じ後の一段は龍の止處を論ず、皆是れ氣を認る人の辨ぜざるべからざるなり。龍は何を憑りて貴賤を分かつや。譬へば龍の體勢或いは「五腦」と作り或いは「三台」と作り或いは「華蓋」と作り或いは「玉屏」と作り或いは「諸軸」と作り、哪の一種の貴格と成るかは且つ去りて説かず、只龍の兩三節・五節の間に於て長短を論ぜず此の如き形狀有らば便ち「貴」を以て論ずる可し。根に歸り底に至れば穴後一節を以て主と為し、廖瑀の「穴後一節は龍格と為す」は正に此の意なり。
然龍有貴格而官不尊、福不永者,則多承祖分家之處不得其正耳,故須看其分祖之處為正為餘,而後官之尊卑、福之遠近可辨也。分祖之處,必須起祖垂肩,成何星辰,成何品格,方為正降。又有祖龍得其正脈,而貴不列於上卿,富不侔乎敵國者,則其枝中之幹,而非幹中之於,故其力量終不足以攬全勝、當大任耳。
然れども亦龍の貴格を具へて官位尊ならず福澤久しからざる有り、多半是れ祖山を承接し分家して脈を出づるの處其の正を得ざるなり。故に必ず其の分祖の地方の正幹なるか餘枝なるかを看て然して後官の尊卑・福の遠近乃ち辨出することを得。分祖の處は必ず祖を起こし肩を垂れ、個の甚麼星辰・甚麼品格を成して乃ち「正降」と算す。又祖龍雖も正脈を得るも貴は上卿に位列すること能はず富は國に敵すること能はざる有り、那れは其れ只枝中の幹にして幹中の幹に非ざるを以て、故に力量は終竟全局を攬し大任を當るに足らず。格・祖・幹の此の三層は一層比べて一層更に根本なり。
蓋有百里之幹,始收百里之形勝,有千萬里之幹,始收千萬里之形勝,又豈可以眼前之器局分大小也。凡論龍之來處,一當以此為準。龍何以定去住也?夫龍必有巢穴乃播,故凡一到方所,看其城垣關鎖,局面寬圓,成個巢穴,則知龍之歸宿在此,然有於此則為正、於彼則為偏者,以堂在此不在彼也。苦人所謂山歸成龍,水歸成穴,正以堂之聚處為水所歸耳。
知るべし百里長の幹龍有りて乃ち百里の形勝を收住り、千萬里長の幹龍有りて乃ち千萬里の形勝を收住る、豈に只眼前一個の局面の大小を憑りて判斷せんや。凡そ龍の來處を論ずるは一概に此を以て準と為す。龍は又何を憑りて去住を定むるや。龍は必ず巢穴を得て乃ち棲止を肯んず、故に一處の地方に到るごとに其の城垣關鎖・局面寬圓して個の巢穴を成すを看れば、便ち龍の歸宿は此に在るを知る。然れども同一處の地方にして或るは此に正と為り彼に偏と為るは明堂の此に在りて彼に在らざるを以てなり。古人の所謂「山歸して龍を成し水歸して穴を成す」は正に明堂聚水の處を以て衆水の歸する所と為すなり。故に龍の何處に止まり何邊に正たるかを判ずるは先ず局を看、再看堂を看る。
乃又有堂正而穴不真、葬不發者,以入首之蓋座在此不在被也。蓋座如木秀華蓋、i秀冠蓋、金秀寶蓋之類,猶是眾所共倚,又如樂托、祿儲、襯貼之類,亦是顯而易見,只如化生之腦、天輪之蓋、太極之暈,任其左閃右倚,俱有隱隱蓋覆之意,此是入首真蓋座也。必有蓋座而穴乃真。譬如都邑之間以龍之垣局,即城郭也,以龍之穴場,即堂廳也,以龍之座向,即臺座也。凡論龍之止處,一當以此為準。
然れども又明堂雖も正なり而も穴真ならず葬り下りて發せざる有り、那れは入首の「蓋座」が別處に在りて此處に在らざるを以てなり。蓋座は木體秀出の「華蓋」・玉體秀出の「冠蓋」・金體秀出の「寶蓋」の類の如く衆人の共に倚る所なり。又「樂托」「祿儲」「襯貼」の類の如きも亦皆顯然見易し。至りて「化生腦」・「天輪」の蓋・「太極暈」は其の左に閃き右に倚るを任せども總じて隱隱たる蓋覆の意有り、此れこそ乃ち入首の真蓋座なり。必ず蓋座有りて穴乃ち真なり。譬へば都邑の間に在れば龍の垣局は即ち城郭、龍の穴場は即ち堂廳、龍の坐向は即ち臺座なり。凡そ龍の止處を論ずるは一概に此を以て準と為す。局・堂・座の三者は外より内に由り愈々裏面に到るほど愈々真僞を見る。
上巻二十六 凶星有胎有化、吉曜有精有神
凶星不無夾雜,只要有胎有化;吉曜縱然雄聳,亦要有精有神。
龍身の上は凶星を夾雜せざるを免れず、只其れ「胎有り」——凶體の中に微露して相生の意有り、又「化有り」——凶氣能く泄制せられて轉化せば、便ち敗と算せず。反って吉星は縱ひ雄偉高聳すとも亦「精有り神有り」を要す。木は華有るを要し金は色有るを要し火は光有るを要し土は屏を成すを要し水は紋有るを要し、形象の外に還た須く氣象の見出るべし。
此言認生氣於微茫者所當致審也。如五星得共正體無論矣,有如直硬之木而微帶泡節,有水之意,如掃蕩之水,而微露墜塊,有金之意,是為逢胎,則就其母而子有靠,不為敗也,又如火金相戰為天裡,但看其中微有水窩,則從其微窩而大開深取,以成水體。蓋金剛飽而用水以洩之,則以洩而化其凶也;火傷金而以水制之,則以制而化其凶也。此以人力而為化者。
これは説く、微茫の處に於て生氣を認取する人の應に細審すべき所なり。五星若し皆純正の體を得ば那れは自然説くを必とせず。譬へば直硬の木體にして微微と些か泡節を帶び水意を含有し、又如掃蕩の水體にして微微と墜塊を露出し金意を含有す——此れを「逢胎」と謂ふ、母體に就着して子に依靠有るに等しきにして便ち敗と算せず。又如火金相戰は「天罡」と謂ふも、但し其の當中に微微と一個の水窩有るを看て便ち那の微窩に順て大開深取して水體と作り成す。金は剛硬飽滿にして水を用ゐて之を泄るは泄るを以て其の凶を化し、火は金を傷りて水を用ゐて之を制すは制すを以て其の凶を化す。此の一類は人力を靠りて化するなり、所謂「有胎有化」は胎は天生に在り化は人為に在るなり。
又如粗版之土而微露金意,則以生而洩其氣為化,如太陰之角帶火然。金盛而火微,可周以陶熔乎金,而金反粹,則以制而成其美為化,此又生成之自然而化氣者。如出身自不逢胎,又不逢化,則難下手矣。又如沖天之木本美,然望之而險峻,不秀不雅,是木無華。又如獻天之金至聳,然望之而頑蠢,無體無儀,是金無色。
又如粗大板實の土體にして微露して金意有れば、那れは則ち相生を借りて其の氣を泄りて以て化解す。正に太陰金體の角上に火を帶ぶるが一般の如し。金盛んにして火微なれば火は反って金體を陶熔して金を愈々精粹ならしむることを得、此れ是れ制を以て其の美を成すの化法なり。此の一類は天然生成して自ら氣を化すること能くす。至りて出身の處に於て既に胎に逢はず又化に逢はざれば、那れは難く下手す。再び説く、冲天の木體は本もと美格なれど、然れども望み上ぐれば險峻して秀ならず雅ならざれば、那れは即ち木の華彩無きなり。獻天の金體は極めて高聳すれど、然れども望み上ぐれば頑笨蠢重にして體無く儀無ければ、那れは即ち金の光色無きなり。
又如焰天之火亦至難得,然望之而峻贈,非筆非劍,無影無焰,是火無光。又如平天之土、漲天之水,皆是尊貴,然望之而非屏非閣,無波無紋,是土為奎而水為蕩也,何足貴哉!又如貴人在衙,形便要有個堂堂之氣象,將軍接劍,形便要有個威權模樣。又如仙人跨鶴,形便要有個清風高韻,若文而不雅,秀而不嚴,清而不高,便是無精神,亦不發福,何足貴邪!此證星辰者尤當證其精神。大抵山有體魄,有精神,認體魄易,認精神難,此非別有大竅,未易語此。
又如焰天の火體も亦極めて得難し、然れども望み上ぐれば只是れ峻峭陡削にして既に筆に似ず又劍に似ず無影無焰なれば、那れは即ち火の光無きなり。再如平天の土體・漲天の水體は本もと皆尊貴なれど、然れども望み上ぐれば既に屏に似ず又閣に似ず無波無紋なれば、則ち土は便ち只一塊の蠢塊にして水は便ち只一片の浮蕩にして何の貴ぶ可きあらん。又如「貴人在衙」の形は則ち要く一副堂堂の氣象有らん、「將軍接劍」の形は則ち要く一副威權の模樣有らん、「仙人跨鶴」の形は則ち要く一段清風高韻有らん。若し文にして雅ならず秀にして嚴ならず清にして高からざれば、便ち精神無きにして亦福を發せず、何の貴ぶ可きあらん。故に星辰を驗看するは尤も其の精神を驗するを要す。大抵山に體魄有り精神有り、體魄を認るは易く精神を認るは難し。此處に別に一大竅門有りて輕易に人と講說すること能はざるなり。
上巻二十七 造物有時、作用有法
陵谷變遷,山川改色,造物固自有時;控制山川,打動龍神,作用亦自有法。
高岸變じて深谷と為り山川改換して氣色新たならしむは、此れ造化自ら其の時候有りて人力勉强して來るべからず。而も山川形勢を控制し龍神を打動して之を發動せしむるは、前賢の施爲も亦自ら一套の法度有りて並びに荒誕にあらず。上の句の説くは「時」なり、下の句の説くは「法」なり。時到らざれば則ち法施す處なく、法立たざれば則ち時來るも應ぜず。
今人但見先賢作用,有甚奇甚隱又甚;王而不可測度者,便以為幻妄而肆譏說,不知造化尚無定體,尚無全功,不無與時推移,豈以人為而不隨時隨俗以為之裁成者乎!昔人所謂“人不天不因,天不人不成”者,非虛語也。大如黃河南徒而氣運亦南,小如金沙灘出見而牛僧果應內召;又大如黃河清而聖賢出,小如壺,公以時易色而兩郡人材興替隨之,此非造物固自有時乎!
今人は只前賢の施爲の極奇・極隱にして又極神妙測度すべからざるを見て、便ち虛妄荒誕と當てて肆意に譏笑す。知らず造化は本もと定體なく十全の功用なく、時に隨て推移せぬはなく、豈に人為の事は反って時に隨ひ俗に隨て裁成を加ふるを要せざる可けんや。前人の所謂「人は天ならざれば因らず、天は人ならざれば成らず」は並びに空話にあらず。大なるは黄河の南徙して氣運も亦之に隨て南移するが如く、小なるは金沙灘の顯現して牛僧孺果然として應召して朝に入るが如し。又大なるは黄河水の清れて聖賢出世するが如く、小なるは壺公の時に按じて顏色を改換して兩郡人才の興替之に隨て變ずるが如し——此れ正に造物自ら其の時有るにあらずや。見るべし、天時到らざれば人力も亦措手する所なし。
又如微郡之城設努樓以射五鬼,丁源之墓開油槽以應麻榨,楊公所謂如睡如蒙,或發以鍾,廖公所謂滅火滅瘟,則鑿其地,至今其應如響,此非作用亦自有法乎!凡如一枝一派山水,則可眼前而定,至於大形大勢,或以近應,或以遠應,其應驗固自有時。蓋山水既非眼前點檢得盡,則福澤赤非眼前計量得盡也。且如前賢作用,有應之當年,亦有應之數十年及千百年者,皆不可以尋常耳目窺測。磋乎,差乎,自非神心慧識,孰能當此乎?
又如徽州府城は弩樓を設置して「五鬼」を射、丁源の墓は油槽を開鑿して「麻榨」の形に應ず。楊筠松の所説「睡るが如く蒙ふが如き、或いは鐘を以て發す」——沉睡蒙昧の地氣は鐘聲を用ゐて喚醒す可し。廖瑀の所説「火を滅し瘟を滅せば則ち其の地を鑿つ」——火災瘟疫を消除せんと欲せば就中彼の一片の地を鑿開す。今日に到るまで應驗皆回聲の一般に準なり、此れ正に施爲自ら其の法有るにあらずや。凡そ一枝一派の小山小水の如きは眼前に斷定するを得。至りて大形大勢は或るは近處に應じ或るは遠處に應じ、其の應驗は本來自ら時候有り。山水既に眼前點檢し盡くすべきにあらざれば福澤も亦眼前計量し盡くすべきにあらず。再び説く、前賢の施爲に當年に即應驗する有り、亦幾十年乃至千百年にして乃ち應驗する有り、皆是れ尋常の耳目の窺測する所能にあらず。嘆ず可し。若し神明の心・慧悟の識にあらざれば誰か能く此の如きの事に擔當せんや。
