Libo

中说 · 第7巻

隋 · 王通 · 第7巻 / 7

大唐龍飛宇內樂業文中子之教未行扵時後進君子鮮克知之貞觀中魏文公有疾仲父太原府君問焉留宿宴語中夜而嘆太原府君曰何嘆也魏公曰大業之際徴也嘗與諸賢侍文中子謂徴及房杜等曰先輩雖聰明特達然非董薛程仇之比雖逢明王必愧禮樂徴扵時有不平之色文中子笑曰乆乆臨事當自知之及貞觀之始諸賢皆亡而徴也房李溫杜獲攀龍鱗朝廷大議未嘗不參預焉上臨軒謂群臣曰朕自處蕃邸及當宸極卿等每進諫正色鹹雲嘉言良策患人主不行若行之則三皇不足四五帝不足六朕誠虛薄然獨斷亦審矣雖徳非徇齊明謝濬哲至於聞義則服庶防乎古人矣諸公若有長乆之策一一陳之無有所隠房杜等奉詔舞蹈讃揚帝徳上曰止引群公內宴酒方行上曰設法施化貴在經乆秦漢已下不足襲也三代損益何者為當卿等悉心以對不患不行是時群公無敢對者徴在下坐為房杜所目因越席而對曰夏殷之禮既不可詳忠敬之化空聞其説孔子曰周監二代鬱郁乎文哉吾従週週禮公旦所裁詩書仲尼所述雖綱紀頽缺而節制具焉荀孟陳之於前董賈伸之扵後遺談餘義可舉而行若陛下重張皇墳更造帝典則非駑劣所能議及也若擇前代憲章發明王道則臣請以周典唯所施行上大悅翌日又召房杜及徴俱入上曰朕昨夜讀周禮真聖作也首篇雲惟王建國辨方正位體國經野設官分職以為人極誠哉深乎良乆謂徴曰朕思之不井田不封建不肉刑而欲行周公之道不可得也大易之義隨時順人周任有言陳力就列若能一一行之誠朕所願如或不及強希大道畫虎不成為將來所笑公等可盡慮之因詔宿中書省防議數日卒不能定而徴尋請退上雖不復揚言而閒宴之次謂徴曰禮壊樂崩朕甚憫之昔漢章帝眷眷於張純今朕急急於卿等有志不就古人攸悲徴跪奏曰非陛下不能行蓋臣等無素業爾何愧如之然漢文以清靜富邦家孝宣以章程練名實光武責成委吏功臣獲全肅宗重學尊師儒風大舉陛下明徳獨茂兼而有焉雖未冠三代亦千載一時惟陛下雖休勿休則禮樂度數徐思其宜教化之行何慮晚也上曰時難得而易失朕所以遑遑也卿退無有後言徴與房杜等並慙栗再拜而出房謂徴曰齡與公竭力輔國然言及禮樂則非命世大才不足以望陛下清光矣昔文中子不以禮樂賜予良有以也向使董薛在適不至此噫有元首無股肱不無可嘆也十七年魏公薨太原府君哭之慟十九年授餘以中説又以魏公之言告予因敘其事時貞觀二十年九月記

大唐興起して、海内安く居り業を樂む。文中子の教は當時還お未だ施行せず、後進の君子は鮮く能く知る。貞觀年間に魏文公(魏征)病有りて、叔父太原府君前に往きて探問し(底本此の字轉録後に失われた、文義に據るに疾を問う)、留まりて夜を過ぎし談話す。夜半に到りて魏公歎息す。太原府君曰く、「何をか歎ずる」と。魏公曰く、「大業年間に、我魏征曾て諸位の賢人與文中子に侍奉せり。文中子征與房玄齡・杜如晦等に對えて曰く、各位の前輩聰明特達と雖も、卻って董常・薛收・程元・仇璋の比ぶ能う所にあらず。假令明王に遇うと雖も、禮樂に於て必ず愧有らん、と。我當時顏上に不平の色有り。文中子笑いて曰く、日子長ければ、事に臨むの時自ら知るに便る、と。貞觀初年に到りて、彼の幾位の賢人皆亡故して、而して我魏征與房玄齡・李靖・溫大雅・杜如晦と龍鱗に攀附するを得たり。朝廷の大議は參預せざる無し。皇上軒に臨みて群臣に對えて曰く、我藩邸に在りより帝位に登るに到るまで、汝ら進諫する每に皆神色嚴正にして、皆嘉言良策を説いてただ人主の實行せざるを怕る。若し實行せば、三皇は四に稱する足らず、五帝は六に稱する足らず。我確かに虚薄なれども、獨り決斷するも還お審愼なり。德行は迅疾聖智に比ぶる能わずと雖も、聰明も亦深沈の睿哲に遜るも、義を聞きて則ち服するに至りては、蓋し差不多く古人に趕し及ばん。諸公若し長久の策有らば、一一陳述して、隱瞞有る勿れ、と。房・杜等詔を奉じて舞蹈して、帝德を讚揚す。皇上曰く、停まれ、と。群公を引進して内宴す。酒剛うじて巡行して、皇上曰く、法を設け化を施すは、經久を貴ぶ。秦漢以下は沿襲に値せず。三代の損益は、哪一種か妥當なる。卿等心を盡くして回答せよ。我の實行せざるを憂うる必ずしもなし、と。此の時候群公敢えて對答する無し。我下座に坐して、房・杜に眼色を使われて、便ち席を離れて對答して曰く、夏・殷の禮已に詳細に知る能わず、忠與敬の教化は空しく其の説を聞く。孔子曰く、周は二代に監して、郁郁として文なるかな、我周に從う、と。周禮は是れ周公の定むる所、詩書は是れ仲尼の述ぶる所。綱紀殘缺と雖も、節制は卻って具備を還す。荀子・孟子は前に陳述し、董仲舒・賈誼は後に伸張せり。遺談餘義は以て擧げて實行す可し。若し陛下重ねて三皇の墳を張大し、別に五帝の典を造らんと要せば、則ち是れ我が駑劣の才の議論する能う所にあらず。若し前代の憲章を選擇し、王道を發明せば、則ち臣周典を用うるを請い、施行に聽憑せん、と。皇上大いに悅ぶ。第二天に又房・杜與我を召して一起に進ましむ。皇上曰く、朕昨夜《周禮》を讀む。眞に是れ聖人の作。首篇に曰く、ただ王國を建て、方を辨じ位を正し、國を體し野を經、官を設け職を分かち、以て民の極と爲す。誠かな、深きかな、と。久しきを過ぎて我に對えて曰く、朕想うに、井田を實行せず、諸侯を封建せず、肉刑を恢復せず、卻って周公の道を行わんと欲すれば、是れ到らざるなり。《周易》の義は是れ時に隨い人に順う。周任言有り、力を陳べて列に就く、と。若し能く一一實行せば、誠に是れ朕の願望する所なり。若し做る能わざれば、強いて大道を希求して、虎を畫いて成らず、將來に笑わるる所と爲らん。公等以て心を盡くして考慮す可し、と。於是に詔を下して我らをして中書省に留宿して集議する數日せしめて(底本「防議」當に「集議」たるべし)、最終定まる能わず。而して我不久にして引退を請う。皇上復た公に説かずと雖も、閒宴の時候卻って我に對えて曰く、禮壞れ樂崩れり。朕甚だ憫惜す。從前漢章帝は殷殷として張純を眷顧し、如今朕は急切に卿等を期待す。志有りて成就する能わざるは、古人も亦此に悲しむ、と。我跪きて奏して曰く、陛下の行う能わざるにあらず、是れ臣等素來の學業無きなり。何の此より慚愧する有らん。然れども漢文帝は淸靜を用いて邦家を富足せしめ、孝宣帝は章程を用いて名實を練核し、光武は成效を責めて吏事を委任し、功臣全くするを得、肅宗は學を重んじ師を尊びて、儒風大いに興起せり。陛下明德意志獨り盛んにして、此れを兼ねて之を有す。未だ三代に冠する至らずと雖も、亦是れ千載一時なり。ただ願わくは陛下美徳有ると雖も自ら休めざれば、則ち禮樂度數は慢慢として其の適宜を想い、教化の推行は何ぞ必ずしも晚を憂えん、と。皇上曰く、時機は得難くして失い易し。朕遑遑として安からざる所以なり。卿退き下りて後言有る勿れ、と。我與房・杜等皆慚愧戰慄して、再拜して出づ。房玄齡我に對えて曰く、玄齡與公竭力して國を輔くれども、然れども禮樂を談ずれば、則ち命世の大才にあらざれば、以て陛下の淸光を望見するに足らず。從前文中子の禮樂を我らに付せざるは、實に是れ緣故有り。假如董常・薛收還お在らば、恰好此の地步に到らざらん。唉、元首有りて股肱無ければ、歎息せざる可からずかな、と。十七年に魏公去世して、太原府君之を哭するに甚だ慟す。十九年に《中説》を把りて我に授け、又魏公の話を把りて我に告げて、因りて此の事を敍述す。時は貞觀二十年九月に記す。

東臯子荅陳尚書書王福畤撰

東臯子荅陳尚書書 王福畤撰

東臯先生諱績字無功文中子之季弟也棄官不仕耕於東臯自號東臯子貞觀初仲父太原府君為監察御史彈侯君集事連長孫太尉由是獲罪時杜淹為御史大夫密奏仲父直言非辜扵是太尉與杜公有隙而王氏兄弟皆抑而不用矣季父與陳尚書叔達相善陳公方撰隋史季父持文中子世家與陳公編之陳公亦避太尉之權藏而未出重重作書遺季父深言懃懇季父荅書其略曰亡兄昔與諸公逰其言皇王之道至矣僕與仲兄侍側頗聞大義亡兄曰吾周之後也世習禮樂子孫當遇王者得申其道則王業不墜其天乎其天乎時魏文公對曰夫子有後矣天將啟之徴也儻逢明主願翼其道無敢忘之及仲兄出胡蘓令杜大夫嘗扵上前言其朴忠太尉聞之怒而魏公適入奏事見太尉魏公曰君集之事果虛耶御史當反其坐果實耶太尉何疑焉扵是意稍解然杜與仲父抗志不屈魏公亦退朝黙然其後君集果誅且吾家豈不幸而為多言見窮乎抑天實未啟其道乎僕今耕於野有年矣無一言以禆於時無一勢以托其跡沒齒東臯醉醒自適而己然念先文中之述作門人傳受升堂者半在廊廟續經及中説未及講求而行嗟乎足下知心者顧僕何為哉願記亡兄之言庶防不墜足矣謹録世家既去餘在福郊面悉其意幸甚

東皋先生名は績、字は無功、是れ文中子の小弟なり。彼官を棄てて仕えず、東皋に於て耕種して、自ら號して東皋子と爲す。貞觀初年に、叔父太原府君は監察御史と爲りて、侯君集を彈劾せば、事情長孫太尉に牽連して、此に因りて罪を獲たり。當時杜淹は御史大夫と爲りて、密かに叔父の直言は並びに罪過無きを奏せば、於是に太尉與杜公嫌隙有りて、王氏兄弟皆壓抑せられて任用せられず。季父陳尚書叔達與交好せり。陳公正に《隋史》を撰して、季父《文中子世家》を把りて陳公に交して之を編入せしむ。陳公も亦太尉の權勢を避けて、藏めて拿出さざる有りて、一封接一封書信を季父に給いて、話説くこと甚だ懇切なり。季父囘信して、大略曰く、「亡兄從前諸公與交游して、講ずる所の皇王の道は極處に到れり。我與仲兄旁に於て侍奉して、頗る大義を聞き得たり。亡兄曰く、我是れ周朝の後人、世代禮樂を講習す。子孫當に王者に遇い、其の道を申明するを得ば、則ち王業墜落せざらん。是れ天意か、是れ天意か、と。當時魏文公對答して曰く、夫子後人有り。天將に彼を開啓せんとす。我魏征倘も明主に逢わば、其の道を輔翼するを願い、敢えて忘れず、と。及びて仲兄出でて胡蘇令に任ずれば、杜大夫曾て皇上の面前に彼の朴忠を説く。太尉之を聞いて發怒す。魏公恰好進み入りて事を奏して、太尉に見えり。魏公曰く、君集の事果然虚ならば、則ち彼の御史は當に反坐すべし。果然實ならば、太尉何をか疑うや、と。於是に太尉の意思稍稍緩解す。然れども杜公與叔父志を抗して屈せず、魏公朝を退きても亦沉默語らず。後來侯君集果然誅せられり。況んや我ら家は豈に是れ多話を以て困窮せられざる不幸ならんか。還お是れ天天實に還お未だ彼の道を開啓せざらんか。我如今在野耕種する已に多年、一句の話も時に補益せず、一點の勢力も行迹に寄託せず。終老東皋して、醉醒自適の已。然れども先文中子の述作を想到すれば、門人傳受・堂に升るは一半廊廟に在りて、續經與《中説》は還お未だ及びて講求實行する來さず。唉、足下是れ心知の人、我看て我還お能く何をか爲さん。亡兄の話を記下して、庶幾く墜落せざれば、即ち足れり」。謹んで《世家》を把りて録出して送去す。送走の後、我與福郊面前完全に彼の意思を領會して、很に榮幸を感じたり。

録闗子明事

録闗子明事

闗朗字子明河東解人也有經濟大器妙極占筭浮沈鄉里不求官達太和末餘五代祖穆公封晉陽尚書署朗為公府記室穆公與談易各相歎服穆公謂曰足下竒才也不可使天子不識入言於孝文帝帝曰張彛郭祚嘗言之朕以卜筭小道不之見爾穆公曰此人道防言深殆非彛祚能盡識也詔見之帝問老易朗寄發明宗實陳王道諷帝慈儉為本飾之以刑政禮樂帝嘉嘆謂穆公曰先生知人矣昨見子明管樂之器豈占筭而已穆公再拜對曰昔伊尹負鼎於成湯今子明假占筭以謁陛下臣主感遇自有所因後宜任之帝曰且與卿就成筮論既而頻日引見際暮而出防帝有烏丸之役勑子明隨穆公出鎮幷州軍國大議馳驛而聞故穆公易筮往往如神先是穆公之在江左也不平袁粲之死恥食齊粟故蕭氏受禪而穆公北奔即齊建元元年魏太和三年也時穆公春秋五十二矣奏事曰大安四載防臣始生葢宋大明二年也既北逰河東人莫之知惟盧陽烏深竒之曰王佐才也太和八年徴為秘書郎遷給事黃門侍郎以謂孝文有康世之意而經制不立從容閒宴多所奏議帝虛心納之遷都雒邑進用王肅由穆公之潛策也又薦闗子明帝亦敬服謂穆公曰嘉謀長策勿慮不行朕南征還日當共論道以究治體穆公與朗欣然相賀曰千載一時也俄帝崩穆公歸洛逾年而薨朗遂不仕同州府君師之受春秋及易共隠臨汾山景明四年同州府君服闋援琴切切然有憂時之思子明聞之曰何聲之悲乎府君曰彥誠悲先君與先生有志不就也子明曰樂則行之憂則違之府君曰彥聞治亂損益各以數至苟推其運百世可知願先生以筮一為決之何如子明曰占筭幽防多則有惑請命蓍卦以百年為斷府君曰諾扵是揲蓍布卦遇夬之革【兊上幹下】【兊上離下】舍蓍而嘆曰當今大運不過一再傳爾従今甲申二十四歳戊申大亂而禍始宮掖有蕃臣秉政世伏其強若用之以道則桓文之舉也如不以道臣主俱屠地府君曰其人安出朗曰參代之墟有異氣焉若出其在並之郊乎府君曰此人不振蒼生何屬子曰當有二雄舉而中原分府君曰各能成乎朗曰我隙彼動能無成乎若無賢人扶之恐不能成府君曰請刻其歳朗曰始扵甲寅卒扵庚子天之數也府君曰何國先亡朗曰不戰徳而用詐權則舊者先亡也府君曰其後如何朗曰辛丑之歳有恭儉之主起布衣而並六合府君曰其東南乎朗曰必在西北乎大亂者未可以文治必須武定且西北用武之國也東南之俗其弊也剽西北之俗其興也勃又況東南中國之舊主也中國之廢乆矣天之所廢孰能興之府君曰東南之歳可刻乎朗曰東南運厯不出三百大賢大聖不可卒遇能終其運所幸多矣且辛丑明王當興定天下者不出九載己酉江東其危乎府君曰明王既興其道若何朗曰設有始有卒五帝三王之化復矣若非其道則終驕亢而晚節末路有桀紂之主出焉先王之道墜地乆矣苛化虐政其窮必酷故曰大軍之後必有凶年積亂之後必有兇主理當然也府君曰先王之道竟亡乎朗曰何謂亡也夫明王乆曠必有達者生焉行其典禮此三才五常之所繫也孔子曰文王既沒文不在茲乎故王道不能亡也府君曰請推其數朗曰乾坤之策隂陽之數推而行之不過三百六十六引而伸之不過三百八十四天之道也噫朗聞之先聖與卦象相契自魏已降天下無真主故黃初元年庚子至今八十四年更八十二年丙午三百六十六矣達者當生更十八年甲子其與王者合乎用之則王道振不用洙泗之教修矣府君曰其人安出朗曰其唐晉之郊乎昔殷後不王而仲尼生週週後不王則斯人生晉夫生扵周者周公之餘烈也生扵晉者陶唐之遺風也天地冥契其數自然府君曰厥後何如朗曰自甲申至甲子正百年矣過此未或知也府君曰先生説卦皆持二端朗曰何謂也府君曰先生毎及興亡之際必曰用之以道輔之以賢未可量也是非二端乎朗曰夫象生有定數吉凶有前期變而能通故治亂有可易之理是以君子之扵易動則觀其變而玩其占問之而後行考之而後舉欲令天下順時而進知難而退此占筭所以見重扵先王也故曰危者使平易者使傾善人少惡人多暗主眾明君寡堯舜繼禪厯代不逢伊周復辟近古亦絶非運之不可變也化之不可行也道悠世促求才實難或有臣而無君或有君而無臣故全之者鮮矣仲尼曰如有用我者吾其為東周乎此有臣而無君也章帝曰堯作大章一夔足矣此有君而無臣也是以文武之業遂淪扵仲尼禮樂之美不行扵章帝治亂之漸必有厥由而興廢之成終罕所遇易曰功業見乎變此之謂也何謂無二端府君曰周公定鼎於郟鄏卜世三十卜年八百豈亦二端乎朗曰聖人輔相天地凖繩隂陽恢皇綱立人極脩策迥馭長羅逺羈昭治亂扵未然算成敗扵無兆固有不易之數不定之期假使庸主守之賊臣犯之終不促已成之期於未衰之運故曰周徳雖衰天命未改聖人知明王賢相不可必遇聖謀睿策有時而弊故考之典禮稽之策即人事以申天命懸厯數以示將來或有已盛而更衰或過算而不及是故聖人之法所可貴也向使明王繼及良佐踵武則當億萬斯年與天無極豈止三十世八百年而已哉過算餘年者非先王之功即桓文之力也天意人事豈徒然哉府君曰防不出聖謀乎朗曰聖謀定將來之基防告未來之事遞相表裡安有異同府君曰大哉人謨朗曰人謀所以安天下也夫天下大器也置之安地則安置之危地則危是以平路安車狂夫審乎難覆乗奔馭朽童子知其必危豈有周禮既行厯數不延乎八百秦法既立宗祧能逾乎二世噫天命人事其同歸乎府君曰先生所刻治亂興廢果何道也朗曰文質遞用勢運相乗稽損益以驗其時百代無隠考防而研其慮千載可知未之思歟夫何逺之有府君蹶然驚起因書策而蔵之退而學易蓋王氏易道宗扵朗焉其後宣武正始元年歳次甲申至孝文永安元年二十四歳戊申而胡後作亂爾朱榮起幷州君臣相殘繼踵屠地及周齊分覇卒並扵西始扵甲寅終扵庚子皆如其言明年辛丑歳隋髙祖受禪果以恭儉定天下開皇元年安康獻公老扵家謂銅川府君曰闗生殆聖矣其言未來若合符契開皇四年銅川夫人經山梁履巨石而有娠既而生文中子先丙午之期者二載爾獻公筮之曰此子當之矣開皇六年丙午文中子知書矣厥聲載路九年己酉江東平髙祖之政始迨仁夀四年甲子文中子謁見髙祖而道不行大業之政甚扵桀紂扵是文中子曰不可以有為矣遂退居汾陽續詩書論禮樂江都失守文中寢疾嘆曰天將啟堯舜之運而吾不遇焉嗚呼此闗先生所言皆驗也

關朗字は子明、河東解の人。經世濟民の大器有りて、占算精妙極點に到りて、鄉里に沉浮して、官を求め顯達を求めず。太和末年に、我が五代祖穆公晋陽に封ぜられて、尚書關朗を署して公府記室と爲す。穆公彼與《易》を談じて、彼此歎服す。穆公彼に對えて曰く、「足下是れ奇才。天子に認識せしめざる可からず」と。進み入りて孝文帝に對えて説く。帝曰く、「張彝・郭祚曾て説けり。朕以て卜算是れ小道と爲して、彼に見えざるの已」と。穆公曰く、「此の人は道理精微・言語深切にして(底本は「道防言深」と作す、「防」は疑はく「微」)、恐らくは張彝・郭祚の能く完全に認識する所にあらざらん」と。詔を下して召見す。帝《老子》《周易》を問えば、關朗寄托して玄宗を發明し、切實に王道を陳述して、諷勸帝慈儉を以て本と爲し、再び刑政禮樂を用いて以て文飾せよと。帝嘉歎して、穆公に對えて曰く、「先生は能く人を知る。昨天子明に見えり。是れ管仲・樂毅の如きの器局。何ぞただ占算の已」と。穆公再拜して對答して曰く、「從前伊尹は鼎を背にして以て成湯に見ゆ。如今子明は占算を借て以て陛下に進謁す。臣主の感遇は、各お因由有りて、以後當に彼を任用すべし」と。帝曰く、「暫く卿與筮論を成就せん」と。隨後連日引見して、傍晚に到りて纔かに出づ。及びて帝烏丸の役有りて(底本は「防帝」と作す、「防」は「及」の訛)、子明に敕して穆公に隨いて幷州を出鎮せしむ。軍國の大議は驛馬を用いて朝廷に飛報す。故に穆公の《易》筮往往に神の如し。原先穆公江左に在りて、袁粲の死に不平と爲し、齊朝の粟を食むを恥として、故に蕭氏禪を受けて穆公北奔す。彼是れ齊建元元年・魏太和三年なり。當時穆公年紀五十二歲なりて、事を奏して曰く、「大安四年に臣纔かに出生す」と。大約是れ宋大明二年なり。北游して河東の後、人皆彼を知らず、ただ盧陽烏深深として驚異して、曰く、「此れ是れ王佐の才」と。太和八年に徵して祕書郎と爲し、遷りて給事黃門侍郎と爲る。彼以て孝文は人世を康濟するの意思有りと爲すれども、然れども經制未だ建立せず。從容閒宴の時に多所奏議して、帝虚心して採納す。洛陽に遷都し、王肅を進用するは、皆穆公の暗中の策劃に出づ。又關子明を推薦して、帝も亦敬服して、穆公に對えて曰く、「嘉謀長策、必ず憂うる實行する能わざるならず。朕南征囘來の日に、當に共同に道を論じて、以て治治體を窮究せん」と。穆公與關朗欣然として相賀して、曰く、「千載一時かな」と。不久に帝崩ず。穆公洛陽に囘到して、一年を過ぎて去世す。關朗便ち復た官を爲らず。同州府君彼を以て師と爲して、《春秋》與《易》を受けて、一同臨汾山に隱居す。景明四年に、同州府君服喪期满して、琴を彈いて聲音切切として、時を憂うるの心思有り。子明之を聞いて曰く、「何の故に聲音此の如く悲しきや」と。府君曰く、「我王彦實に悲しむ先君與先生の志有りて成就する能わざるを」と。子明曰く、「樂しければ則ち之を行い、憂えば則ち之に違う」と。府君曰く、「彦聞く、治亂損益は各お數に按って到來す。若し彼の運を推算せば、百世皆可以て知る。願わくは先生筮を用いて以て決斷一下せんを」と。子明曰く、「占算幽微にして(底本は「幽防」と作す、「防」は疑はく「微」)、多ければ會に迷惑す。請う我をして蓍を命じて卦を起こして、以て百年を斷と爲さん」と。府君曰く、「好し」と。於是に蓍を揲して卦を布きて、夬卦に遇いて革卦に變ず【兌上乾下】【兌上離下】(底本原有二卦の卦畫、轉録後に失われた)。蓍草を放下して歎息して曰く、「當今の大運は再傳一兩代を過を過ぎず。從今甲申より起こして二十四年にして戊申に到りて、將に大亂有らんとし、而して禍宮掖より始めて發し、藩臣有りて政事を把持して、世上皆其の強橫に屈服す。若し之を道を以て用いれば、便ち齊桓・晉文の如きの擧動。若し道を以て用いざれば、臣主皆屠滅を要被る」と。府君曰く、「彼の人何の處より出で來るや」と。關朗曰く、「參・代の故墟に異氣有り。若し出で來らば、蓋し幷州の郊に在らんか」と。府君曰く、「此の人振作せざれば、蒼生誰に歸屬せん」と。子明曰く、「會に兩箇の雄傑並び起こりて、中原分裂せん」と。府君曰く、「各お能く成功せんか」と。關朗曰く、「我此の邊は縫隙有り、彼の邊は能く動けば、能く成功せざらんか。若し賢人の扶助無ければ、恐らくは能く成功せず」と。府君曰く、「請う彼の年份を刻定せん」と。關朗曰く、「甲寅より始めて、庚子に到りて結束す。是れ天の數なり」と。府君曰く、「哪箇の國家か先に亡びるや」と。關朗曰く、「德を戰わずして詐權を用うるは、舊の先に亡びる」と。府君曰く、「彼の以後如何」と。關朗曰く、「辛丑彼の一年に、恭儉の君主有りて布衣より興起して、六合を併吞せん」と。府君曰く、「東南に在らんか」と。關朗曰く、「必ず西北に在らんか。大亂の時は以て文を以て治むる可からず。必ず武を以て定むるを須つ。況んや西北は是れ武を用うるの國家。東南の風俗は其の弊病は是れ輕剽、西北の風俗は其の興起は是れ勃然。又況んや東南は中國舊日の君主。中國廢弛する已に久し。天の廢する所は、誰か能く之を興さん」と。府君曰く、「東南の年份は以て刻定す可きか」と。關朗曰く、「東南の運歷は三百年を超出せざらん。大賢大聖は倉促に遇上す可からず。能く彼の運を完して過ぐれば、已に是れ幸運多し。況んや辛丑明王當に興らんとして、天下を平定するは九年を超出せざらん。己酉江東蓋し危險かな」と。府君曰く、「明王已に興起せば、其の道如何」と。關朗曰く、「假に始有り終有らば、五帝三王の教化則ち恢復せり。若し彼の道に非ざれば、則ち終に驕亢に至りて、晚節末路桀紂の如きの君出現せん。先王の道墜落して地に在る已に久し。苛化虐政は窮盡すれば一定酷烈なり。故に曰く、大軍の後必ず凶年有り、積亂の後必ず凶主有り、と。道理然りと當に此の如し」と。府君曰く、「先王の道竟然亡びたるか」と。關朗曰く、「何を以て亡びたると謂うや。明王長久出でざれば、必ず通達の人出生して、彼の典禮を實行す。此れ是れ三才五常の維繫する所なり。孔子曰く、文王已に沒せり、文此に在らずや、と。故に王道能く亡びず」と。府君曰く、「請う彼の數を推せん」と。關朗曰く、「乾坤の策・陰陽の數は、推して之を行えば三百六十六を過ぎず、引いて之を伸べれば三百八十四を過ぎず。此れ是れ天道。唉、朗先聖より聞く所は、卦象與相契合す。魏より以來天下眞主無し。故に黄初元年庚子より現在に到る八十四年、再び八十二年を過ぎて丙午、即ち三百六十六なり。通達の人當に出生すべし。再び十八年を過ぎて甲子、蓋し王者與遇合せんか。彼を用いれば則ち王道振作し、用いざれば則ち洙泗の教自ら修明せん」と。府君曰く、「彼の人何の處より出で來るや」と。關朗曰く、「蓋し唐・晉の郊に在らんか。從前殷の後人是れ能く王と爲る能わざれば、而して仲尼は周に生れり。周の後人是れ能く王と爲る能わざれば、則ち此の人晉に生れり。周に生まるるは、是れ周公の餘烈。晉に生まるるは、是れ陶唐の遺風。天地暗裡契合して、彼の數是れ自然なり」と。府君曰く、「彼の以後如何」と。關朗曰く、「甲申より甲子に到るは正好一百年。此を過ぎれば、或いは則ち知らざらん」と。府君曰く、「先生卦を説く皆兩端を抓住す」と。關朗曰く、「何の意ぞや」と。府君曰く、「先生每興亡の際に到れば、必ず之を道を以て用い・之を賢を以て輔けば、便ち未だ量る可からずと説く。此れ兩端にあらざらんか」と。關朗曰く、「象生まれて便ち定數有り、吉凶前期有り。變じて能く通ずれば、故に治亂に改易す可きの道理有り。因此君子の《易》に於けるは、動けば則ち其の變化を觀察し其の占を玩味して、問いて然る後行い、考えて然る後擧ぐ。天下をして時に順い進み、難を知りて退かしめんと欲す。此れ即ち占算の先王に看重せらるる所以の緣故なり。故に曰く、危きを平定せしめ、怠慢を傾覆せしむ、と。善人は少く、惡人は多く、暗主は衆く、明君は寡し。堯舜禪讓相續ぐは、歷代遇上せず。伊尹・周公重新に擁立するは、近古も亦絕迹す。是れ運は變ず可からざるにあらず、亦是れ教化は行う可からざるにあらず。是れ道長遠にして世短促なり。才を求むる實に難し。或いは臣有りて君無く、或いは君有りて臣無し。故に保全するは少し。仲尼曰く、我用うる者有らば、我其れ東周と爲らんか、と。此れ是れ臣有りて君無し。章帝曰く、堯大章を作るは、一夔則ち夠なり、と。此れ是れ君有りて臣無し。因此文王武王の事業便ち仲尼の身上に淪落し、禮樂の美便ち章帝の彼處に實行する能わず。治亂の漸變は必ず其の緣由有りて、而して興廢の完成は終に少く遇上す。《周易》に曰く、功業は變に見る、と。説くは即ち此れ。何ぞ能く兩端無しと謂わん」と。府君曰く、「周公郟鄏に鼎を定めて、世を卜する三十・年を卜する八百。豈に亦是れ兩端ならんか」と。關朗曰く、「聖人は天地を輔相して、陰陽に準繩して、皇綱を恢弘して、人極を建立し、長鞭遠馭し、長網遠套して、治亂を未だ形成せざる之時に昭示し、成敗を兆端無き之處に計算す。固より改易す可からざるの數・豫定する能わざるの期有り。假如庸主之を守り・賊臣之を冒犯すれば、終に已に形成せる期限を以て未だ衰敗せざるの運に催促す可からず。故に曰く、周德衰すと雖も天命未だ改まらず、と。聖人知る明王賢相は必ず遇合する能わざるを、聖謀睿策は時に弊壞有るを。故に之を典禮に考え、之を龜策に稽え、人事に就りて天命を申明し、歷數を懸けて以て將來を指示す。或いは已に盛んなりて再び衰え、或いは推算を超過するも卻って趕し及ばず。故に聖人の法是れ貴ぶ可し。假如明王繼續して到來し・良佐接踵して進めば、則ち當に億萬斯年天與同じく終極無かるべし。何ぞただ三十世・八百年の已。推算を超過して多出の年份は、先王の功勞に非ざれば、便ち齊桓・晉文の力量なり。天意人事、豈に徒然ならんか」と。府君曰く、「龜筮は(底本「龜」字轉録後に失われた)聖謀に出でずや」と。關朗曰く、「聖謀は將來の根基を定め、龜筮は未來の事情を告ぐ。互相表裏す。何の異同有らん」と。府君曰く、「大なるかな、人の謀劃」と。關朗曰く、「人謀は是れ用いて天下を安定するなり。天下是れ大器。安き之處に放けば則ち安く、危き之處に放けば則ち危し。因此平路上の安穩の車子は、狂夫も亦明白に翻覆し難きを知る。奔馬に乘り・朽索を駕馭すれば、童子も亦知る一定危險を。何の周禮已に實行する有りて・歷數卻って延長して八百に及ばず、秦法已に建立する有りて・宗廟卻って能く二世を超過する有らん。唉、天命人事、蓋し同じく歸せんか」と。府君曰く、「先生の刻定する所の治亂興廢は、究竟何の道ぞ」と。關朗曰く、「文與質は交替して用い、勢與運は互相乘承す。損益を稽考して以て彼の時を驗證せば、百代隱藏無し。龜筮を考求して以て彼の慮を研求せば、千載皆可以て知る。是れ之を想去らざるか。何の遠有らん」と。府君蹶然として驚起して、因りて策書を把りて寫下して收藏す。退き下りて《易》を學ぶ。王氏の易道は蓋し關朗を宗奉す。後來宣武正始元年に、歲次甲申、孝明永安元年に到る、二十四年戊申、胡太后亂を作して、爾朱榮幷州より起兵して、君臣互相殘殺して、接連屠滅す。及びて周・齊分裂稱霸して、終に西邊に併入す。甲寅より始めて、庚子に到りて結束す。皆彼の説く所の如し。第二年辛丑歲に、隋高祖禪を受けて、果然恭儉を用いて天下を安定す。開皇元年に、安康獻公家中に在りて年老いて、銅川府君に對えて曰く、「關生幾ほどは是れ聖人。彼未來を説くは符契と相合するが如し」と。開皇四年に、銅川夫人山梁を經過して、巨石を踏んで身孕有りて、隨後文中子を生下す。丙午の期に比して早了兩年。獻公占筮して曰く、「此の孩子是れ彼の數を承當す」と。開皇六年丙午に、文中子已に書を知りて、聲音路に滿つ。九年己酉に、江東平定して、高祖の政始めて迫近す。仁壽四年甲子に、文中子高祖に謁見して而して道實行する能わず。大業の政は桀紂に比して還お厲害なり。於是に文中子曰く、「以て作爲有る可からず」と。便ち汾陽に退居して、《詩》《書》を續き、禮樂を論ず。江都失守して、文中子病に臥して、歎息して曰く、「天將に堯舜の運を開啓せんとして、而して我遇合せず。嗚呼」と。此れ即ち關先生の説く所。皆應驗せり。

王氏家書雜録王福畤撰

王氏家書雜録 王福畤撰

太原府君諱凝字叔恬文中子亞弟也貞觀初君子道亨我先君門人布在廊廟將播厥師訓施於王道遂求其書扵仲父仲父以編寫未就不之出故六經之義代莫得聞仲父釋褐為監察御史時御史大夫杜淹謂仲父曰子聖賢之弟也有異聞乎仲父曰凝忝同氣昔亡兄講道河汾亦嘗預扵斯然六經之外無所聞也淹曰昔門人鹹存記焉蓋薛收姚義綴而名曰中説茲書天下之昌言也防而顯曲而當旁貫大義宏闡教源門人請問之端文中行事之跡則備矣子盍求諸家仲父曰凝以喪亂以來未遑及也退而求之得中説一百餘紙大抵雜記不著篇目首卷及序則蠧絶磨滅未能詮次防仲父黜為胡蘓令嘆曰文中子之教不可不宣也日月逝矣歳不我與乃解印而歸大考六經之目而繕録焉禮論樂論各亡其五篇續詩續書各亡小序惟元經讃易具存焉得六百六十五篇勒成七十五卷分為六部號曰王氏六經仲父謂諸子曰大哉兄之述也以言乎皇綱帝道則大明矣以言乎天地之間則無不至焉自春秋以來未有若斯之述也又謂門人曰不可使文中之後不達扵茲也乃召諸子而授焉貞觀十六年餘二十一歳受六經之義三年頗通大略嗚呼小子何足以知之而有志焉十九年仲父被起為洛州録事又以中説授餘曰先兄之緒言也餘再拜曰中説之為教也務約致深言寡理大其比方論語之記乎孺子奉之無使失墜餘因而辨類分宗編為十編勒成十卷其門人弟子姓字本末則訪諸紀諜列扵外傳以備宗本焉且六經中説於以觀先君之事業建義明道垂則立訓知文中子之所為者其天乎年序寖逺朝廷事異同志淪殂帝閽攸邈文中子之教抑而未行籲可悲哉空傳子孫以為素業云爾時貞觀二十三年正月序

太原府君名は凝、字は叔恬、是れ文中子の二弟なり。貞觀初年に、君子の道亨通して、我先君の門人は廊廟に分布して、將に老師の訓誨を播揚開き去りて、王道に於て施行せんとして、便ち叔父に向い書を求む。叔父因って編寫還お未完成なるを以て、拿出さず。故に六經の義は、當代人能く聞く有らず。叔父釋褐して監察御史と爲るの時、御史大夫杜淹叔父に對えて曰く、「汝是れ聖賢の弟弟。特別に聞く有るか」と。叔父曰く、「我忝くも同胞と爲す。從前亡兄河汾に於て道を講ずるに、我也曾て參預せり。然れども六經の外は、別に聞く無し」と。杜淹曰く、「從前門人皆記録を保存して、蓋し是れ薛收・姚義綴輯せり。名づけて《中説》と爲す。此の部書は是れ天下の昌言。明白にして顯豁、委曲にして恰當、旁ら大義に貫き、宏く教源を闡く。門人請問の端緒・文中子行事の形迹は、皆具備せり。汝何ぞ家裡に向い求めざるや」と。叔父曰く、「我因って喪亂以來、還お未だ閒暇顧みる有らず」と。退き下りて求索して、《中説》一百餘紙を得たり。大抵是れ雜記、篇目を標せず。首卷與序は皆蠹蟲に咬斷せられ、磨損滅沒して、能く詮次する未だ得ず。及びて叔父貶して胡蘇令と爲らるれば、歎息して曰く、「文中子の教は宣揚せざる可からず。日月逝去して、歲我與せず」と。於是に印を解きて歸去して、大力に六經の篇目を考訂して並びに繕録す。《禮論》《樂論》各お五篇を亡佚し、《續詩》《續書》各お小序を亡佚す。ただ《元經》《贊易》のみ完整に保存せり。共に六百六十五篇を得て、勒して七十五卷と成して、分かちて六部と爲して、號して王氏六經と稱す。叔父諸子に對えて曰く、「大なるかな、兄長の述作。皇綱帝道に就りて説けば、已に大明せり。天地の間に就りて説けば、到らざる無し。《春秋》より以來、此の如き述作有る來さず」と。又門人に對えて曰く、「文中子の後人をして此に通達せしめざる能わず」と。於是に諸子を召して傳授す。貞觀十六年に、我二十一歲にして、六經の義を接受して、三年頗る大略に通ず。唉、小子何ぞ以て知るに足らん。然れども志向有り。十九年に叔父起用せられて洛州録事と爲り、又《中説》を把りて我に授けて、曰く、「此れ是れ先兄の緒言」と。我再拜して曰く、「《中説》の教と爲すや、簡約を務めて深に致し、話少くして理大なり。蓋し以て《論語》の記録に比す可きか。孺子之を奉持して、失墜せしめ勿れ」と。我因りて類を辨じ宗を分かちて、編じて十編と爲して、勒して十卷と成す。門人弟子の姓字本末は、則ち譜牒を訪求して、外傳に列して、以て宗本を具備す。而且六經・《中説》は、此より以て先君の事業を觀看す可し、大義を建立し、大道を闡明し、法則を垂下し、訓誨を立定す。文中子の爲す所を知るは、蓋し是れ天意か。年序漸漸遠く、朝廷事勢同じからず、同志淪亡して、宮門悠遠なり。文中子の教は壓抑せられて施行する未だ得ず。唉、悲しむ可きかな。空しく子孫に傳えて以て素業と爲すの已。時は貞觀二十三年正月に序す。

中説卷十

中説卷十

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