桓公
桓無王,其曰王,何也?謹始也。其曰無王,何也?桓弟弒兄、臣弒君,天子不能定,諸侯不能救,百姓不能去,以為無王之道,遂可以至焉爾。元年有王,所以治桓也。
(此の段は《春秋》「元年、春、王正月」を解す)桓公の年間、経文は通常「王」の字を書かず、ここにかえって「王」を書けるはなぜか。始まりを謹み重んずるためなり。彼が「王なし」というはなぜか。桓公は弟の身分をもって兄を殺し、臣子の身分をもって国君を殺し、天子も局面を安んずること能わず、諸侯も救援すること能わず、百姓も彼を除くこと能わず、人々このゆえに天子の法度なしと為し、乃ちこの地步に至りしを得たり。元年に「王」を書くは、正にこれをもって桓公の罪を追究せんとするなり。
繼故不言即位,正也。繼故不言即位之為正,何也?曰:先君不以其道終,則子弟不忍即位也。繼故而言即位,則是與聞乎弒也。繼故而言即位,是為與聞乎弒,何也?曰:先君不以其道終,己正即位之道而即位,是無恩於先君也。
(此の段はなお「即位」を書かざるを解す)先君、変故に死して後継位するに、経文は「即位」を書かず、これ正例なり。なぜこれを正例というか。答えて曰く、先君が善終を得ざれば、子弟は即位の礼を行うに忍びざればなり。先君変故に死したるに経文かえって「即位」を書けば、すなわち新君が弑君の事に参与せしを示す。なぜ「即位」を書けば弑君に参与せしに等しきか。答えて曰く、先君が善終を得ざるに、自ら正常に即位の礼によりて位につくは、これ先君に対し恩義なきなり。
假不言以,言以非假也。非假而曰假,諱易地也。禮,天子在上,諸侯不得以地相與也。無田則無許可知矣。不言許,不與許也。許田者,魯朝宿之邑也。邴者,鄭伯之所受命而祭泰山之邑也。用見魯之不朝於周,而鄭之不祭泰山也。
(此の段は《春秋》「鄭伯、璧をもって許田を仮ぐ」を解す)真に借貸ならば経文は「以」を書かざるなり。「以」を書けば、これ借にあらざるを説明す。本より借にあらざるに、かえって「仮」と書くは、双方の土地を交換するを隠諱するなり。礼によりて、天子上にあれば、諸侯は私に土地をもって互いに授受することを得ず。田なければすなわち「許」なし――これは知るべきなり。「許」を書かざるは、許田を人に与うるを是とせざればなり。許田は魯国が天子に朝見するに住宿する城邑なり。邴は鄭伯が命を受けて泰山の祭に供する城邑なり。かく書くは、魯国が既に周の天子に朝見せず、鄭国もまた泰山を祭らざるに至れるをあらわにせんがためなり。
無事焉,何以書?不遺時也。《春秋》編年,四時具而後為年。
(此の段は《春秋》「夏、四月」を解す)この季に記すべき一事なきに、なぜなお書くか。一季を漏らさざらんがためなり。《春秋》は年によりて編排し、四季写し全うして、乃ち完整なる一年と為す。
二年春,王正月戊申,宋督弒其君與夷。桓無王,其曰王,何也?正與夷之卒也。及其大夫孔父。孔父先死,其曰及,何也?書尊及卑,《春秋》之義也。孔父之先死,何也?督欲弒君而恐不立,於是乎先殺孔父,孔父閒也。何以知其先殺孔父也?曰:子既死,父不忍稱其名;臣既死,君不忍稱其名,以是知君之累之也。孔氏父字,諡也。或曰:其不稱名,蓋為祖諱也。孔子故宋也。
二年春、周歴正月戊申、宋国の督、その君与夷を弑す。桓公の年間は本より「王」を書かず、ここに「王」を書けるはなぜか。与夷の死を正当に鄭重に書かんがためなり。下文にまた「其の大夫孔父に及ぶ」と書く。孔父は国君より先に死せり、なぜなお「及」の字を用うるか。先に尊者を書き、再び「及」をもって卑者に連ねるは、《春秋》の義例なり。孔父なぜ先に死せしか。督、君を弑せんと欲して事の成らざらんを畏れ、まず孔父を殺せり。孔父は中に遮りて国君を護衛する者なればなり。どうして彼の先に殺せるが孔父と知るか。答えて曰く、子既に死せば父は忍びて再び子の名を称せず、臣既に死せば君は忍びて再び臣の名を称せず。これによりて国君の連累せられ併せて遇害せしを知る。「孔氏」にして「父」と称するは、「父」はその字、すなわち諡なり。別の説に、経文がその名を称せざるは祖先のために諱を避くるなり。孔子の祖先は宋国の人なり。
三月,公會齊侯、陳侯、鄭伯於稷,以成宋亂。以者,內為志焉爾。公為志乎成是亂也,此成矣,取不成事之辭而加之焉。於內之惡,而君子無遺焉爾。
三月、桓公、斉侯・陳侯・鄭伯と稷の地に相会し、もって宋国の乱事を成就せんとす。「以」の字を用うるは、これ魯国の側の主動して為さんと欲するを示す。桓公は心にこの乱事を成就せんと存せり。乱事は実は既に成りたれど、経文はかえって「事を為し成す」という此所に用うべからざる措辞を彼の頭に按ず。魯国自らの悪に対しては、君子は一点も見逃さざるなり。
夏,四月,取郜大鼎於宋。戊申,納於太廟。桓內弒其君,外成人之亂,受賂而退,以事其祖,非禮也。其道以周公為弗受也。郜鼎者,郜之所為也。曰宋,取之宋也,以是為討之鼎也。孔子曰:「名從主人,物從中國。」故曰郜大鼎也。
夏四月、宋国より郜国の大鼎を取る。戊申の日、これを太廟に安置す。桓公は内には自らの国君を殺し、外にはまた人の乱事を成就し、賄賂を受けて乃ち兵を退き、取りて來りて自らの祖先を祭るは礼に合せず。正道をもって言えば、周公はこの物を受けざらん。郜鼎は本より郜国の鋳造せしなり。経文はかえって「宋」と言うは、それが宋国より取られたればなり、この鼎を討伐して得たる贓物と為すなり。孔子曰く、「名称は元の主に従い、器物は中原の称呼に従う」と。ゆえにこれを「郜大鼎」と呼ぶ。
秋,七月,紀侯來朝。朝時,此其月,何也?桓內弒其君,外成人之亂,於是為齊侯、陳侯、鄭伯討。數日以賂,己即是事而朝之。惡之,故謹而月之也。
秋七月、紀侯、魯国に來り朝見す。朝見は本より季によりて記すに、ここに月を記し出すはなぜか。桓公は内には自らの国君を殺し、外にはまた人の乱事を成就し、ここに斉侯・陳侯・鄭伯、來りて彼を討たんと欲す。紀侯は日を算えて、この賄賂の事に就きて朝見に來れり。経文は彼を憎み、ゆえに鄭重に月を記し出すなり。
公及戎盟於唐。冬,公至自唐。桓無會而其致,何也?遠之也。
桓公、戎人と唐の地に会盟す。冬、桓公、唐の地より帰る。桓公は本より記すべき会盟なきに、ここにかえって彼の国に帰るを書くはなぜか。行きて遠きに過ぎ、彼のために心配すればなり。
夏,齊侯、衛侯胥命於蒲。胥之為言猶相也。相命而信諭,謹言而退,以是為近古也。是必一人先,其以相言之,何也?不以齊侯命衛侯也。
夏、斉侯と衛侯、蒲の地に相約誓す。「胥」の意はすなわち「互いに」なり。双方約し定め、信義明らかにして、言を謹みて退き返るは、上古の做法に近しと見なす。その中必ず一人の先に口を開く者あれど、経文はかえって「相」をもって言うはなぜか。斉侯が衛侯を命令するがごとく書きたからざればなり。
秋,七月壬辰朔,日有食之,既。言日言朔,食正朔也。既者,盡也,有繼之辭也。
秋七月壬辰の朔、日食起こり、日面完全に見えず。日を記しまた「朔」を記すは、日食の正に初一に発生せしを示す。「既」はすなわち尽くるなり、日食尽きて後なお接続あるを言う――太陽また再び出づべしと。
公子翬如齊逆女。逆女,親者也。使大夫,非正也。
公子翬、斉国に至りて新婦を迎娶す。新婦を迎娶するは、本より夫君自ら行くべきなり。大夫をして往かしむるは正にあらず。
九月,齊侯送姜氏於讙。禮送女,父不下堂,母不出祭門,諸母兄弟不出闕門。父戒之曰:「謹慎從爾舅之言。」母戒之曰:「謹慎從爾姑之言。」諸母般申之曰:「謹慎從爾父母之言。」送女逾竟,非禮也。
九月、斉侯、姜氏を譲の地に送る。礼によりて娘を嫁がせ送るに、父は堂を下りず、母は祭門を出でず、庶母と兄弟は宮門を出でず。父は彼女を戒めて曰く、「謹みて汝が舅の言に聴け」と。母は彼女を戒めて曰く、「謹みて汝が姑の言に聴け」と。庶母は再び彼女に叮嘱して曰く、「謹みて汝が父母の言に聴け」と。娘を直に国境の外まで送るは礼に合せず。
公會齊侯於讙。無譏乎,曰:為禮也。齊侯來也,公之逆而會之可也。
桓公、譲の地に斉侯と相会す。これ豈に譏刺すべきなきや。答えて曰く、これ礼を成さんがためなり。斉侯既に來りたれば、桓公出で迎えて彼と相会するは可なり。
夫人姜氏至自齊。其不言翬之以來,何也?公親受之於齊侯也。子貢曰:「冕而親迎,不已重乎?」孔子曰:「合二姓之好,以繼萬世之後,何謂已重乎!」
夫人姜氏、斉国より魯国に至る。なぜ翬の彼女を帶し來りしと書かざるか。桓公自ら斉侯の手より彼女を接し下したればなり。子貢曰く、「冕を戴きて自ら親を迎うるは、隆重に過ぐるにあらずや」と。孔子曰く、「二つの姓氏の姻好を結合し、もって万世以後の祭祀を接続せんとす、何をか隆重に過ぐると言わん」と。
四年春,正月,公狩於郎。四時之田,皆為宗廟之事也。春曰田,夏曰苗,秋曰搜,冬曰狩。四時之田用三焉,唯其所先得,一為幹豆,二為賓客,三為充君之庖。
四年春正月、桓公、郎の地に冬狩す。四季の田猟は皆宗廟祭祀の事のためなり。春猟を「田」といい、夏猟を「苗」といい、秋猟を「捜」といい、冬猟を「狩」という。四季の田猟は、猟獲を三項の用場に分かち、先に得たるに随いて安排す。第一項は風乾の祭肉と為して豆器に盛りて供祭し、第二項は賓客を招待するに用い、第三項は国君の庖厨を充実す。
五年春,正月甲戌、己丑,陳侯鮑卒。鮑卒何為以二日卒之?《春秋》之義:信以傳信,疑以傳疑。陳侯以甲戌之日出,己丑之日得,不知死之日,故舉二日以包也。
五年春正月甲戌・己丑、陳侯鮑卒す。鮑の死になぜ二つの日をもって記するか。《春秋》の義例は、確かなるは確かのままに伝え、疑わしきは疑わしきのままに伝う。陳侯は甲戌の日に外出し、己丑の日に乃ち遺体を見つけたれば、究竟いずれの日に死せしか知らず。ゆえにこの二つの日を挙げてこの期間を包み入る。
天王使任叔之子來聘。任叔之子者,錄父以使子也。故微其君臣而著其父子,不正父在子代仕之辭也。
周の天子、任叔の子を遣わして魯国に聘問せしむ。「任叔之子」と称するは、父の名を記して、子をして事を弁ぜしむるを記すなり。ゆえに君臣の名分を低微に書き、父子の関係を凸顕す。これは父なお在るに子が彼に代わりて職に任ずるを満たざる書き方なり。
秋,蔡人、衛人、陳人從王伐鄭。舉從者之辭也。其舉從者之辭,何也?為天王諱伐鄭也。鄭,同姓之國也,在乎冀州,於是不服,為天子病矣。
秋、蔡国の人・衛国の人・陳国の人、周の天子に従いて鄭国を攻む。これは随従する人を提出して書く措辞なり。なぜかく書くか。天子のために彼自ら鄭を伐ちに往きしを隠諱せんがためなり。鄭は同姓の国にしてまた冀州の辺にあり、この時に至るまでなお服従せず、これ正に天子の心病なり。
冬,州公如曹。外相如不書,此其書,何也?過我也。
冬、州公、曹国に至る。外国の諸侯の互いに往来するは、経文例により記さず。ここに記せるはなぜか。彼が我が魯国を路過せしがゆえなり。
六年春,正月,寔來。寔來者,是來也。何謂是來?謂州公也。其謂之是來,何也?以其畫我,故簡言之也,諸侯不以過相朝也。
六年春正月、経文はただ「寔來」と書く。「寔來」はすなわち「この人來れり」。言うところは誰の來れしか。言うところは州公なり。なぜただ「この人來れり」と言うか。彼はただ我が魯国を路過せしのみなるがゆえ、簡に従いて書く。諸侯は路過をもって互いの朝見と為すこと能わず。
秋,八月壬午,大閱。大閱者何?閱兵車也。修教明諭,國道也。平而修戎事,非正也。其日以為崇武,故謹而日之,蓋以觀婦人也。
秋八月壬午、大閲を行う。「大閲」とは何か。すなわち兵車を検閲するなり。教訓を修め明らかにし、号令を講じ明らかにするは、国を治むるの正道なり。天下太平なるに軍備を整治するは正にあらず。日を記し出すは、これを武力を尚ぶと見なすがゆえ、鄭重にこの日を記すなり。曰く、また婦人に見せんがためなりと。
蔡人殺陳佗。陳佗者,陳君也,其曰陳佗,何也?匹夫行,故匹夫稱之也。其匹夫行奈何?陳侯喜獵,淫獵於蔡,與蔡人爭禽。蔡人不知其是陳君也而殺之。何以知其是陳君也?兩下相殺不道;其不地,於蔡也。
蔡国の人、陳佗を殺す。陳佗は実は陳国の国君なるに、経文は彼を「陳佗」と称するはなぜか。彼が匹夫の方式によりて行いしゆえ、匹夫をもって彼を称するなり。彼はどうして匹夫によりて行いしか。陳侯は打猟を好み、蔡国の境内に放縦に打猟し、蔡国の人と猟物を争いき。蔡人は彼が陳国の国君なるを知らずして、彼を殺せり。どうして彼が陳国の国君と知るか。地位相当なる者の互いに殺すは、経文例により記さず。ここに地を記さざるは、事が蔡国に発生せしがゆえなり。
九月丁卯,子同生。疑故志之,時曰同乎人也。
九月丁卯、公子同生まる。当時疑慮ありしがゆえ記したり。時の人曰く、この子は普通の人と同じ(桓公の子のごとし)と。
七年春,二月己亥,焚鹹丘。其不言邾鹹丘,何也?疾其以火攻也。
七年春二月己亥、火を放ちて咸丘を焼く。なぜ「邾国の咸丘」と書かざるか。彼らの火攻を用いしを痛恨すればなり。
夏,谷伯綏來朝。鄧侯吾離來朝。其名,何也?失國也。失國則其以朝言之,何也?嘗以諸侯與之接矣。雖失國,弗損吾異日也。
夏、穀伯綏、來り朝見し、鄧侯吾離、來り朝見す。なぜ直に彼らの名を称するか。彼ら既に自らの国を失いしかばなり。国を失えりと雖も、なぜなお「朝」をもって言うか。従前かつて諸侯の身分をもって彼らと交接せしがゆえなり。今国を失えりと雖も、我が魯国の往日彼らを待遇せし礼数を減損せず。
八年春,正月己卯,烝。烝,冬事也,春興之,志不時也。
八年春正月己卯、烝祭を行う。烝は本より冬の祭事なるに、春にこれを為すは、それの時令に合せざるを記すなり。
夏,五月丁丑,烝。烝,冬事也,春、夏興之,黷祀也。志不敬也。
夏五月丁丑、また烝祭を行う。烝は本より冬の祭事なるに、春・夏に相続いでこれを為すは、すなわち祭祀を濫用するなり。この事を記すは、彼の敬わざるを記すなり。
祭公來,遂逆王后於紀。其不言使焉,何也?不正。其以宗廟之大事,即謀於我,故弗與使也。遂,繼事之辭也。其曰「遂逆王后」,故略之也。或曰天子無外,王命之則成矣。
祭公、魯国に來り、続いて紀国に至りて王后を迎娶す。なぜ「天王使」と書かざるか。これが正道に合せざればなり。彼は宗廟の大事を我が魯国に持ち來りて謀劃せしゆえ、彼に「使」の言を与えず。「遂」は続きて事を弁ずる措辞なり。「遂に王后を逆ぐ」と書き成すは、この事を簡略に書くなり。別の説に、天子は外なく、天子一旦命令を下せば事すなわち成立すと。
九年春,紀季姜歸於京師。為之中者歸之也。
九年春、紀国の季姜、京師に嫁ぐ。魯国その中より主を為し、彼女を送り出せしなり。
冬,曹伯使其世子射姑來朝。朝不言使,言使非正也。使世子伉諸侯之禮而來朝,曹伯失正矣!諸侯相見曰朝,以待人父之道待人之子,以內為失正矣!內失正,曹伯失正,世子可以已矣!則是故命也。屍子曰:「夫已,多乎道。」
冬、曹伯、その太子射姑を遣わして魯国に朝見せしむ。朝見は例により「使」を書かず、「使」を書けばすなわち正道に合せず。太子をして諸侯に匹敵する礼を用いて朝見せしむるは、曹伯既に正道を失えり。諸侯相見するを乃ち「朝」と言う。人の父を待遇する礼をもって人の子を待遇するは、我が魯国の側もまた正道を失えり。魯国正を失い、曹伯正を失い、太子は本より止めて來らざるべきかりしを。彼來れり、すなわち父のあの乱命を受けたり。尸子曰く、「止むるを得ば、更に道に近し」と。
十年春,王正月庚申,曹伯終生卒。桓無王,其曰王,何也?正終生之卒也。
十年春、周歴正月庚申、曹伯終生卒す。桓公の年間は本より「王」を書かず、ここに「王」を書けるはなぜか。終生の死を正当に鄭重に書かんがためなり。
秋,公會衛侯於桃丘。弗遇。弗遇者,志不相得也。弗,內辭也。
秋、桓公、桃丘に衛侯と相会せんと欲す。遇わざりき。「弗遇」は双方の心意投合せざるを言う。「弗」は魯国の側について言う措辞なり。
冬,十有二月丙午,齊侯、衛侯、鄭伯來戰於郎。來戰者,前定之戰也。內不言戰,言戰則敗也。不言其人,以吾敗也。不言及者,為內諱也。
冬十二月丙午、斉侯・衛侯・鄭伯、前來して郎の地に交戦す。「來戦」と言うは、事あらかじめ約せし战事なり。およそ魯国自らの战事は、経文は「戦」を書かず。「戦」を書けば、すなわち魯国の敗れしを示す。相手方の将の名を書き出さざるは、我が魯国の敗戦せしがゆえなり。「及」の字を用いざるは、魯国のために隠諱するなり。
十有一年春,正月,齊人、衛人、鄭人盟於惡曹。
十一年春正月、斉国の人・衛国の人・鄭国の人、悪曹に会盟す。
九月,宋人執鄭祭仲。宋人者,宋公也,其曰人,何也?貶之也。
九月、宋国の人、鄭国の祭仲を捉う。「宋人」は実は宋公なるに、経文「人」と称するはなぜか。彼を貶むるなり。
突歸於鄭。曰突,賤之也。曰歸,易辭也。祭仲易其事,權在祭仲也。死君難,臣道也,今立惡而黜正,惡祭仲也。
突、鄭国に帰る。彼を「突」と称するは、彼を賤視するなり。「歸」の字を用うるは、この事の來ること容易なりしを言う。祭仲、事を軽々しく翻し、権柄祭仲の手に在り。国君の危難のために死するは、乃ち臣子の本分なり。今悪人を立て嫡正を廃するは、経文は祭仲を憎む。
鄭忽出奔衛。鄭忽者,世子忽也。其名,失國也。
鄭忽、衛国に逃亡す。鄭忽はすなわち太子忽なり。直にその名を称するは、彼が自らの国を失いしかばなり。
柔會宋公、陳侯、蔡叔盟於折。柔者何?吾大夫之未命者也。
柔、宋公・陳侯・蔡叔と折の地に会盟す。柔とは何者か。我が魯国の未だ爵命を受けざる大夫なり。
十有二月,及鄭師伐宋;丁未,戰於宋。非與所與伐戰也。不言與鄭戰,恥不和也。於伐與戰,敗也。內諱敗,舉其可道者也。
十二月、鄭国の軍隊とともに宋国を攻め、丁未の日、宋国の境内に交戦す。本よりともに兵を出す人と打ち合うべからず。「鄭と戦う」と書かざるは、自らの側の不和なるを恥じればなり。正に宋を伐つにまた打ち合い起これり、魯国の敗れしを説明す。魯国は自らの敗績を隠諱し、ただなお言い出しうる一面を挙げて書く。
己巳,及齊侯、宋公、衛侯、燕人。戰齊師、宋師、衛師、燕師。敗績。其言及者,由內及之也。其曰戰者,由外言之也。戰稱人,敗稱師,重眾也。其不地,於紀也。
己巳の日、桓公、斉侯・宋公・衛侯・燕国の人と交戦す。斉国・宋国・衛国・燕国の軍隊大敗す。「及」の字を用うるは、魯国の側より言い出せしなり。「戦」の字を用うるは、外辺の一面より言えるなり。交戦のときは「人」と称し、敗績を書くときは「師」と称するは、士兵人衆を重んずればなり。地を記さざるは、战事が紀国に発生せしがゆえなり。
夏五。鄭伯使其弟御來盟。諸侯之尊,弟兄不得以屬通。其弟雲者,以其來我舉其貴者也。來盟,前定也。不日,前定之盟不日。孔子曰:「聽遠音者,聞其疾而不聞其舒;望遠者,察其貌而不察其形。立乎定、哀,以指隱、桓,隱、桓之日遠矣。『夏五』傳疑也。」
夏、経文はただ「五」と書けり。鄭伯、その弟御を遣わして魯国に來り結盟せしむ。諸侯は地位尊貴なれば、兄弟の間は親属の名分をもって相称えず。ここに「其弟」と称するは、彼が我が魯国と交接するに來れるがゆえ、その最も尊貴なる身分を挙げて言うなり。「來盟」と言うは、事あらかじめ約せしなり。日を記さず、あらかじめ約せし盟会は日を記さず。孔子曰く、「遠き声を聴くに、急促なるを聴き得て舒緩なるを聴き得ず。遠き人を見るに、輪郭を見清め得て形状を見清め得ず。定公・哀公の時代に立ちて隠公・桓公の事を指すに、隠公・桓公の日子既に遠し。『夏五』の二字は、疑わしきところを原様のままに伝え下せしなり」と。
秋,八月壬申,御廩災。乙亥,嘗。御廩之災不志,此其志何也?以為唯未易災之餘,而嘗可也,志不敬也。天子親耕,以共粢盛;王后親蠶,以共祭服。國非無良農工女也,以為人之所盡,事其祖禰,不若以己所自親者也。何用見其未易災之餘而嘗也?曰甸粟,而內之三宮;三宮米,而藏之御廩。夫嘗必有兼甸之事焉。壬申,御廩災;乙亥,嘗。以為未易災之餘而嘗也。
秋八月壬申、祭粮を蔵する御廩失火す。乙亥、嘗祭を行う。御廩失火は、経文例により記さず。ここに記せるはなぜか。彼らの見るところにては、たとえ未だ火災後の残りの粮を換えざるとも、嘗祭を行うは可なりとせしがゆえなり。この事を記すは、彼の敬わざるを記すなり。天子は自ら耕種してもって祭粮を供給し、王后は自ら養蚕してもって祭服を供給す。国家は良農夫・良女工なきにあらず、ただ以為らく、他人の力を尽くして為せる物を取りて祖先を祭祀するは、終に自ら親手に作り出せるに如かずと。何を凭じて彼らの用いしが未だ換えざる火災後の残粮と見出すか。答えて曰く、甸地より収めたる粟は三宮に送り入れ、三宮にて米に碾き、御廩に蔵め入る。嘗祭を行うに、必ずなお甸地に粮を備うる这一の工序を経るべし。壬申に御廩失火し、乙亥にすなわち嘗祭を行えり。ゆえに彼らの用いしが未だ換えざる火災後の残粮と認定す。
宋人以齊人、蔡人、衛人、陳人伐鄭。以者,不以者也。民者,君之本也。使人以其死,非正也。
宋国の人、斉国の人・蔡国の人・衛国の人・陳国の人を帶して鄭国を攻めに往く。「以」の字を用うるは、正にかく彼らを用うべからざるを示す。百姓は国君の根本なり。他人をして自らのために命を賭せしむるは正道に合せず。
十有五年春,二月,天王使家父來求車。古者諸侯時獻於天子,以其國之所有,故有辭讓,而無徵求。求車,非禮也;求金,甚矣!
十五年春二月、周の天子、家父を遣わして車子を索取せしむ。古時、諸侯は時に按じて本国の所有する物を天子に進献せしゆえ、ただ辞譲ありて征求なかりき。來りて車子を要するは既に礼に合せず、來りて金銭を要するは更に過分なり。
許叔入於許。許叔,許之貴者也,莫宜乎許叔。其曰入,何也?其歸之道,非所以歸也。
許叔、許国に入る。許叔は許国の尊貴なる人にして、許叔より帰るべき者なし。経文はかえって「入」の字を用うるはなぜか。彼の帰り來れる路数は、用いるべき帰国の路数にあらざればなり。
冬,十有一月,公會宋公、衛侯、陳侯、於袲伐鄭。地而後伐,疑辭也,非其疑也。
冬十一月、桓公、宋公・衛侯・陳侯に会合し、袲の地に在りて、然る後に鄭国を攻めに往く。先に地点を書き後に攻むるを書くは、遅疑あるを帯ぶる措辞なり。経文は彼らの遅疑すべからざると為す。
十有六年春,正月,公會宋公、蔡侯、衛侯於曹。
十六年春正月、桓公、宋公・蔡侯・衛侯と曹の地に相会す。
夏,四月,公會宋公、衛侯、陳侯、蔡侯伐鄭。
夏四月、桓公、宋公・衛侯・陳侯・蔡侯に会合して鄭国を攻む。
秋,七月,公至自伐鄭。桓無會,其致何也?危之也。
秋七月、桓公、鄭を伐つ軍より帰る。桓公は本より記すべき会盟なきに、ここにかえって彼の国に帰るを書くはなぜか。彼のために心配すればなり。
十有一月,衛侯朔出奔齊。朔之名,惡也,天子召而不往也。
十一月、衛侯朔、斉国に逃亡す。直に朔の名を書くは、是とせざるを示す。彼が天子に召見されて往かざりしかばなり。
十有七年春,正月丙辰,公會齊侯、紀侯盟於黃。
十七年春正月丙辰、桓公、斉侯・紀侯と黄の地に会盟す。
夏,五月丙午,及齊師戰於郎。內諱敗,舉其可道者也。不言其人,以吾敗也。不言及之者,為內諱也。
夏五月丙午、斉国の軍隊と郎の地に交戦す。魯国は自らの敗績を隠諱し、ただなお言い出しうる一面を挙げて書く。相手方の将の名を書き出さざるは、我が魯国の敗戦せしがゆえなり。「斉侯に及ぶ」と言わざるは、魯国のために隠諱するなり。
秋,八月,蔡季自陳歸於蔡。蔡季,蔡之貴者也。自陳,陳有奉焉爾。
秋八月、蔡季、陳国より蔡国に帰る。蔡季は蔡国の尊貴なる人なり。「陳より」と書くは、陳国の彼に対し護送・帮助ありしを示す。
冬,十月朔,日有食之。言朔不言日,食既朔也。
冬十月初一、日食発生す。ただ「朔」を書きて干支の日子を書かざるは、日食の初一已に過ぎ去りて後に発生せしがゆえなり。
十有八年春,王正月,公會齊侯於濼。公與夫人姜氏遂如齊。濼之會,不言及夫人,何也?以夫人之伉,弗稱數也。
十八年春、周歴正月、桓公、濼の地に斉侯と相会す。桓公、夫人姜氏と続いて斉国に至る。濼の地のあの相会に、なぜ「夫人に及ぶ」と書かざるか。夫人が国君と匹敵する架子を摆出せしゆえ、彼女を列に入れて数えず。
夏,四月丙子,公薨於齊。其地,於外也。薨稱公,舉上也。
夏四月丙子、桓公、斉国にて卒す。地点を記し出すは、彼が国外に死せしがゆえなり。去世になお「公」と称するは、彼の上位に在る名分を挙げて言うなり。
冬,十有二月,己丑,葬我君桓公。葬我君,接上下也。君弒,賊不討不書葬,此其言葬,何也?不責逾國而討於是也。桓公葬而後舉諡,諡所以成德也,於卒事乎加之矣。知者慮,義者行,仁者守。有此三者備,然後可以會矣。
冬十二月己丑、我が魯国の君桓公を安葬す。「我君を葬る」と書くは、上下を皆接ぎ合せしなり。国君弑されて凶手討たれざれば、経文例により葬礼を記さず。ここに葬礼を記せるはなぜか。臣下の国界を越えて斉国に至りて賊を討ちしを責めざればなり。桓公安葬して後に乃ち諡号を標出す。諡は彼の一生の名徳を成就するに用い、喪事弁じ畢るを待ちて乃ち加え上ぐ。智ある者は謀慮し、義ある者は行い、仁ある者は守る。三つを具えて、然る後に境を出で人と会すべし。
(闕文)
(闕文)
