Libo

解蔽篇第二十一

战国 · 荀况 · 第8巻 / 12

凡人之患,蔽於一曲,而闇於大理。治則復經,兩疑則惑矣。天下無二道,聖人無兩心。今諸侯異政,百家異說,則必或是或非,或治或亂。亂國之君,亂家之人,此其誠心,莫不求正而以自為也。妒繆於道,而人誘其所迨也。私其所積,唯恐聞其惡也。倚其所私,以觀異術,唯恐聞其美也。是以與治雖走,而是己不輟也。豈不蔽於一曲,而失正求也哉!心不使焉,則白黑在前而目不見,雷鼓在側而耳不聞,況於使者乎?德道之人,亂國之君非之上,亂家之人非之下,豈不哀哉!

およそ人の禍患は、一偏に蒙蔽せられて、而して大理を明白せず。治まれば則ち經常に回复し、両端皆疑えば則ち迷惑せり。天下に両条の道���く、聖人に両樣の心なし。如今諸侯は政教同じからず、百家は学説同じからざれば、則ち必ずあるもの是あるもの非あり、あるもの治あるもの乱あり。乱国の君、乱家の人は、彼らの誠心は、正を求めずして自ら為すなし。道に對して妒嫉謬誤して、而して别人はその接近する所を引誘す。その積累する所を偏私して、その惡を聞かんことを唯恐れ、その偏私する所に倚靠して、不同の方術を看て、その美を聞かんことを唯恐る。これに因って治と背道而馳して、而して自ら是と為して停止せず。豈に一偏に蒙蔽せられて、而して正求を失うにあらざらんや。心はこの上に役使せざれば、則ち黑白は面前に在りて而して目は見ず、雷鼓は旁边に在りて而して耳は聴かず。況んやあの心を役使するに於いてをや。道を得る人は、乱国の君は上に在りて彼を非議し、乱家の人は下に在りて彼を非議す。豈に悲哀ならざらんや。

故為蔽:欲為蔽,惡為蔽,始為蔽,終為蔽,遠為蔽,近為蔽,博為蔽,淺為蔽,古為蔽,今為蔽。凡萬物異則莫不相為蔽,此心術之公患也。

だから蔽と為るは、欲は蔽と為り、惡は蔽と為り、始は蔽と為り、終は蔽と為り、遠は蔽と為り、近は蔽と為り、博は蔽と為り、淺は蔽と為り、古は蔽と為り、今は蔽と為る。およそ万物に差異有れば則ち互相いに蔽と為らざるなし。これは心術の公共禍患なり。

昔人君之蔽者,夏桀殷紂是也。桀蔽於末喜斯觀,而不知關龍逢,以惑其心,而亂其行。桀蔽於妲己、飛廉,而不知微子啟,以惑其心,而亂其行。故群臣去忠而事私,百姓怨非而不用,賢良退處而隱逃,此其所以喪九牧之地,而虛宗廟之國也。桀死於鬲山,紂縣於赤旆。身不先知,人又莫之諫,此蔽塞之禍也。成湯監於夏桀,故主其心而慎治之,是以能長用伊尹,而身不失道,此其所以代夏王而受九有也。文王監於殷紂,故主其心而慎治之,是以能長用呂望,而身不失道,此其所以代殷王而受九牧也。遠方莫不致其珍;故目視備色,耳聽備聲,口食備味,形居備宮,名受備號,生則天下歌,死則四海哭。夫是之謂至盛。詩曰:"鳳凰秋秋,其翼若干,其聲若簫。有鳳有凰,樂帝之心。"此不蔽之福也。

從前人君は蒙蔽せられしは、夏桀殷紂は即ちこれなり。桀は末喜・斯觀に蒙蔽せられて、而して關龍逢を知らず、因ってその心を迷惑して、而してその行為を擾乱せり。紂は妲已・飛廉に蒙蔽せられて、而して微子啓を知らず(底本は後の一句を「桀蔽于妲已」と作るも、「桀」は「紂」の訛り)、因ってその心を迷惑して、而してその行為を擾乱せり。だから群臣は忠を離れて私に事え、百姓は怨恨非議して用いられず、賢良は退處して隱逃す。これは彼らの九州牧守の地を喪失して、而して宗廟の国を空虚にする所以なり。桀は鬲山に死し、紂の頭は赤旗に懸挂せり。自身は能く預かり知らず、别人はまた彼を勸諫せず。これは蔽塞の禍なり。成湯は夏桀に鑑戒して、だからその心を主宰して謹慎に治理して、これに因って能く伊尹を長久に任用して、而して自身は道を失わず。これは彼の夏王に代替して九州を接受する所以なり。文王は殷紂に鑑戒して、だからその心を主宰して謹慎に治理して、これに因って能く呂望を長久に任用して、而して自身は道を失わず。これは彼の殷王に代替して九州牧守を接受する所以なり。遠方は珍宝を送來せざるなし。だから目は完備の色彩を看、耳は完備の聲音を聴き、口は完備の滋味を吃し、形體は完備の宮室に居り、名號は完備の称号を受く。生きれば則ち天下は歌唱し、死せば則ち四海は哭泣す。これを至盛という。『詩経』に言う。「鳳凰は翩翩として、その翅膀は盾牌のごとく、その聲音は簫のごとし。鳳あり凰あり、帝の心を娯楽す」と。これは不蔽の福なり。

昔人臣之蔽者,唐鞅奚齊是也。唐鞅蔽於欲權而逐載子,奚齊蔽於欲國而罪申生;唐鞅戮於宋,奚齊戮於晉。逐賢相而罪孝兄,身為刑戮,然而不知,此蔽塞之禍也。故以貪鄙、背叛、爭權而不危辱滅亡者,自古及今,未嘗有之也。鮑叔、甯戚、隰朋仁知且不蔽,故能持管仲,而名利福祿與管仲齊。召公、呂望仁知且不蔽,故能持周公而名利福祿與周公齊。傳曰:"知賢之為明,輔賢之謂能,勉之強之,其福必長。"此之謂也。此不蔽之福也。

從前人臣は蒙蔽せられしは、唐鞅・奚齊は即ちこれなり。唐鞅は権を欲するに蒙蔽せられて載子を放逐し、奚齊は国を欲するに蒙蔽せられて申生に罪を加えり。唐鞅は宋に殺され、奚齊は晋に殺さる。賢相を放逐して孝兄に罪を加えて、自身は刑戮せられて、然りて知らず。これは蔽塞の禍なり。だから貪鄙・背叛・争権に因って危辱滅亡せざるは、古より今に至りて、未だ嘗て有らず。鮑叔・寧戚・隰朋は仁智にして而且不蔽にして、だから能く管仲を持守して、而して名利福禄は管仲と斉等なり。召公・呂望は仁智にして而且不蔽にして、だから能く周公を持守して、而して名利福禄は周公と斉等なり。傳記に言う。「賢を知るを明といい、賢を輔佐するを能といい、それを勉勵してそれを強固にすれば、あの福は必ず長久なり」と。これを言うのである。これは不蔽の福なり。

昔賓孟之蔽者,亂家是也。墨子蔽於用而不知文。宋子蔽於欲而不知得。慎子蔽於法而不知賢。申子蔽於埶而不知知。惠子蔽於辭而不知實。莊子蔽於天而不知人。故由用謂之道,盡利矣。由欲謂之道,盡嗛矣。由法謂之道,盡數矣。由埶謂之道,盡便矣。由辭謂之道,盡論矣。由天謂之道,盡因矣。此數具者,皆道之一隅也。夫道者體常而盡變,一隅不足以舉之。曲知之人,觀於道之一隅,而未之能識也。故以為足而飾之,內以自亂,外以惑人,上以蔽下,下以蔽上,此蔽塞之禍也。孔子仁知且不蔽,故學亂術足以為先王者也。一家得周道,舉而用之,不蔽於成積也。故德與周公齊,名與三王並,此不蔽之福也。

從前游士は蒙蔽せられしは、乱家は即ちこれなり。墨子は「用」に蒙蔽せられて文を知らず。宋子は「欲」に蒙蔽せられて得を知らず。慎子は「法」に蒙蔽せられて賢を知らず。申子は「勢」に蒙蔽せられて智を知らず。惠子は「辭」に蒙蔽せられて實を知らず。荘子は「天」に蒙蔽せられて人を知らず。だから用より道を說けば、即ち全是利なり。欲より道を說けば、即ち全是滿足なり。法より道を說けば、即ち全是数なり。勢より道を說けば、即ち全是便利なり。辭より道を說けば、即ち全是論辯なり。天より道を說けば、即ち全是因任なり。これら幾項は、皆道の一隅なり。道は體常にして變化を窮尽するにして、一隅は以てそれを擧出するに足らず。一偏の知の人は、道の一隅を見て、而して未だそれを認識する能わず。だから以て充足と為してそれを文飾して、内は以て自ら擾乱し、外は以て人を迷惑し、上は以て下を蒙蔽し、下は以て上を蒙蔽す。これは蔽塞の禍なり。孔子は仁智にして而且不蔽にして、だから治理の方術を学习して以て先王のごとき人を為すに足る。一家は周備の道を得て、それを擧起してそれを任用して、已成の積習に蒙蔽せられず。だから徳は周公と斉等にして、名は三王と並列す。これは不蔽の福なり。

聖人知心術之患,見蔽塞之禍,故無慾、無惡、無始、無終、無近、無遠、無博、無淺、無古、無今,兼陳萬物而中縣衡焉。是故眾異不得相蔽以亂其倫也。

聖人は心術の禍患を知りて、蔽塞の禍を見て、だから欲なく、惡なく、始なく、終なく、近なく、遠なく、博なく、淺なく、古なく、今なくして、兼ねて万物を陳列して中間に衡器を懸挂す。これに因って衆多の差異は能く互相いに蒙蔽してあの倫類を擾乱する能わず。

何謂衡?曰:道。故心不可以不知道;心不知道,則不可道,而可非道。人孰欲得恣,而守其所不可,以禁其所可?以其不可道之心取人,則必合於不道人,而不合於道人。以其不可道之心與不道人論道人,亂之本也。夫何以知?曰:心知道,然後可道;可道然後守道以禁非道。以其可道之心取人,則合於道人,而不合於不道之人矣。以其可道之心與道人論非道,治之要也。何患不知?故治之要在於知道。

何を衡という。曰く、道なり。だから心は知らざるべからず。心知らざれば、則ち道を認可せずして、而して非道を認可す。人は誰か放縱を得んと欲して、却ってその認可せざる所を守りて、以てその認可する所を禁止せんや。あの道を認可せざるの心を以て人を選取すれば、則ち必ず不道の人に合して、而して有道の人に合せず。あの道を認可せざるの心を以て不道の人と有道の人を議論するは、乱の根本なり。何を凭って知らん。曰く、心知れば、然る後に以て道を認可すべし。道を認可して然る後に道を守りて以て非道を禁止す。あの道を認可するの心を以て人を選取すれば、則ち有道の人に合して、而して不道の人に合せず。あの道を認可するの心を以て有道の人と非道を議論するは、治の要約なり。何ぞ必ずしも知らざるを憂患せん。だから治の要約は知に在り。

人何以知道?曰:心。心何以知?曰:虛壹而靜。心未嘗不臧也,然而有所謂虛;心未嘗不兩也,然而有所謂壹;心未嘗不動也,然而有所謂靜。人生而有知,知而有志;志也者,臧也;然而有所謂虛;不以所已臧害所將受謂之虛。心生而有知,知而有異;異也者,同時兼知之;同時兼知之,兩也;然而有所謂一;不以夫一害此一謂之壹。心臥則夢,偷則自行,使之則謀;故心未嘗不動也;然而有所謂靜;不以夢劇亂知謂之靜。未得道而求道者,謂之虛壹而靜。作之:則將須道者之虛則人,將事道者之壹則盡,盡將思道者靜則察。知道察,知道行,體道者也。虛壹而靜,謂之大清明。萬物莫形而不見,莫見而不論,莫論而失位。坐於室而見四海,處於今而論久遠。疏觀萬物而知其情,參稽治亂而通其度,經緯天地而材官萬物,制割大理而宇宙裡矣。恢恢廣廣,孰知其極?睪睪廣廣,孰知其德?涫涫紛紛,孰知其形?明參日月,大滿八極,夫是之謂大人。夫惡有蔽矣哉!

人は何を凭って知る。曰く、心なり。心は何を凭って知る。曰く、虚・壹・静なり。心は未だ嘗て藏せざらざるなく、然りて所謂虚有り。心は未だ嘗て両端なからざるなく、然りて所謂壹有り。心は未だ嘗て動かざるなく、然りて所謂静有り。人は生まれ來れば則ち知有り、知して而して記憶有り。記憶は、即ち藏なり。然りて所謂虚有り。已に藏する所に因って將に接受せんとするを妨害せざるを虚という。心は生まれ來れば則ち知有り、知して而して差異有り。差異は、同時に彼らを兼知するなり。同時に彼らを兼知するは、即ち両端なり。然りて所謂一有り。あの一個に因ってこ一個を妨害せざるを壹という。心は睡れば則ち夢を為し、鬆懈すれば則ち自行し、それを役使すれば則ち謀劃す。だから心は未だ嘗て動かざるなし。然りて所謂静有り。夢と劇烈に因って知を擾乱せざるを静という。未だ嘗て道を得ずして道を求むるは、虚・壹・静せんと要す。之を作さば、將に道を待たんとする者は、虚なれば則ち能く進入す。將に道に事えんとする者は、壹なれば則ち能く窮尽す。將に道を思索せんとする者は、静なれば則ち能く察す。知りて察して、知りて行うは、體道の人なり。虚・壹・静は、これを大清明という。万物は形有りて見えざるなく、見えて論列せられざるなく、論列せられて位置を失うなし。室中に坐して四海を見て、當今に處りて久遠を論列す。疏通して万物を觀察してその情を知り、治乱を參驗考核してあの度を通達し、天地を經緯して万物を裁成し、大理を裁制して而して宇宙の理は得たり。(底本は「里」と作るも、「里」は「理」の訛り。)恢恢廣廣として、誰かその極致を知らん。浩浩廣廣として、誰かその徳を知らん。滾滾紛紛として、誰かその形を知らん。光明は日月に比して、盛大は八極に充滿す。これを大人という。どうしてまた蔽かあらん。

心者,形之君也,而神明之主也,出令而無所受令。自禁也,自使也,自奪也,自取也,自行也,自止也。故口可劫而使墨云,形可劫而使詘申,心不可劫而使易意,是之則受,非之則辭。故曰:心容--其擇也無禁,必自現,其物也雜博,其情之至也不貳。詩云:"采采卷耳,不盈傾筐。嗟我懷人,寘彼周行。"傾筐易滿也,卷耳易得也,然而不可以貳周行。故曰:心枝則無知,傾則不精,貳則疑惑。以贊稽之,萬物可兼知也。身盡其故則美。類不可兩也,故知者擇一而壹焉。

心は、形體の君にして、神明の主宰なり。命令を發出して命令を接受せず。自ら禁止し、自ら役使し、自ら奪い、自ら取り、自ら行い、自ら止む。だから口は脅迫して以てそれを沉默あるいは説話せしむべく、形體は脅迫して以てそれを屈伸せしむべく、心は脅迫して以てそれの意を改變せしむべからず。以て是と為せば接受し、以て非と為せば辭謝す。だから言う、心の狀態――その選擇は禁止なく、必ず自ら顯現し、その對象は駁雜廣博にして、その情は極致すれば則ち貳せず、と。『詩経・周南・卷耳』に言う。「采んでまた采る卷耳は、斜口筐に充滿せず。嘆息する我が想念する人を、彼を周朝の行列に置く」と。斜口筐は滿ち易く、卷耳は得易し。然りて以て周朝の行列に貳心すべからず。だから言う、心は分枝すれば則ち無知にして、傾斜すれば則ち精ならず、貳すれば則ち疑惑す、と。輔助を以て考核すれば、万物は以て兼知すべし。自身はあの故を窮尽すれば美なり。類は以て両屬すべからず。だから智者は一個を選擇してそれに専一す。

農精於田,而不可以為田師;賈精於市,而不可以為市師;工精於器,而不可以為器師。有人也,不能此三技,而可使治三官。曰:精於道者也。精於物者也。精於物者以物物,精於道者兼物物。故君子壹於道,而以贊稽物。壹於道則正,以贊稽物則察;以正志行察論,則萬物官矣。昔者舜之治天下也,不以事詔而萬物成。處一危之,其榮滿側;養一之微,榮矣而未知。故道經曰:"人心之危,道心之微。"危微之幾,惟明君子而後能知之。故人心譬如盤水,正錯而勿動,則湛濁在下,而清明在上,則足以見鬒眉而察理矣。微風過之,湛濁動乎下,清明亂於上,則不可以得大形之正也。心亦如是矣。故導之以理,養之以清,物莫之傾,則足以定是非決嫌疑矣。小物引之,則其正外易,其心內傾,則不足以決麤理矣。故好書者眾矣,而倉頡獨傳者,壹也;好稼者眾矣,而後稷獨傳者,壹也。好樂者眾矣,而夔獨傳者,壹也;好義者眾矣,而舜獨傳者,壹也。倕作弓,浮游作矢,而羿精於射;奚仲作車,乘杜作乘馬,而造父精於御:自古及今,未嘗有兩而能精者也。曾子曰:"是其庭可以搏鼠,惡能與我歌矣!"

農人は田に精するも、而して以て田師と為すべからず。商人は市に精するも、而して以て市師と為すべからず。工人は器に精するも、而して以て器師と為すべからず。一種の人有りて、この三種の技能を能くせずして、而して彼をしてこの三種の官職を治理せしむべし。曰く、これは道に精する者なり。これは物に精する者なり。物に精する者は物を以て物を物使して、道に精する者は兼ねて能く物を物使す。だから君子は道に専一して、而して以て物を輔助考核す。道に専一すれば則ち正しく、以て物を輔助考核すれば則ち察す。正の志を以て察の論を實行すれば、則ち万物は皆官任を得たり。從前舜は天下を治理して、事事に詔吿を用いずして万物は成就せり。専一に處りてそれを戒懼せば、あの栄は身旁に充滿す。専一を養護して隱微なれば、栄えて而して己は猶知らず。だから『道經』に言う。「人心は危殆にして、道心は隱微なり」と。危と微の幾兆は、ただ明君子のみ然る後に能く知る。だから人心は盤中の水のごとく、端正に放置して動かざれば、則ち沉濁は下に在りて、而して清明は上に在りて、以て鬢眉を見て肌理を觀察するに足る。微風はそれを經過せば、沉濁は下に動き、清明は上に乱れば、則ち以て大形の正を得べからず。心もまたこのごとし。だから理を以てそれを引導し、清を以てそれを養護して、物はそれを傾斜せしむる能くするなければ、則ち以て是非を判定し嫌疑を決斷するに足る。小物はそれを牽引すれば、則ちその正外表は改變し、その心は内部に傾斜して、則ち以て粗淺の理を決斷するに足らず。だから書を喜好する者は多しとも、而して倉頡は独り流傳す。これは専一なり。稼穡を喜好する者は多しとも、而して后稷は独り流傳す。これは専一なり。楽を喜好する者は多しとも、而して夔は独り流傳す。これは専一なり。義を喜好する者は多しとも、而して舜は独り流傳す。これは専一なり。倕は弓を為し、浮游は箭を為して、而して羿は射に精す。奚仲は車を為し、乘杜は乘馬を發明して、而して造父は駕馭に精す。古より今に至りて、未だ嘗て両樣皆精なる有らず。曾子曰く。「あの庭院を看れば鼠を打つべし。どうして能く我とともに歌唱せんや」と。

空石之中有人焉,其名曰觙。其為人也,善射以好思。耳目之欲接,則敗其思;蚊虻之聲聞,則挫其精。是以闢耳目之欲,而遠蚊虻之聲,閒居靜思則通。思仁若是,可謂微乎?孟子惡敗而出妻,可謂能自強矣,未及思也;有子惡臥而焠掌,可謂能自忍矣;未及好也。闢耳目之欲,遠蚊虻之聲,可謂危矣;未可謂微也。夫微者,至人也。至人也,何忍!何強!何危!故濁明外景,清明內景,聖人縱其欲,兼其情,而制焉者理矣;夫何強!何忍!何危!故仁者之行道也,無為也;聖人之行道也,無強也。仁者之思也恭,聖者之思也樂。此治心之道也。

空石の中に人有り。その名は觙という。彼の人と為りは、射に善くして思索を喜好す。耳目の欲望は一たび接觸すれば、則ち彼の思を敗壞し、蚊虻の聲音は一たび聽聞すれば、則ち彼の精を挫折す。これに因って耳目の欲望を避開して、而して蚊虻の聲音を遠離して、閑居静思すれば則ち通達す。仁を思索するはこのごとく、以て微と称すべけんや。孟子は敗壞を厭惡して妻を休したり。以て能く自ら強と言うべくも、いまだ思の地步に至らず。有子は睡るを厭惡して手掌を燙したり。以て能く自ら忍と言うべくも、いまだ喜好の地步に至らず。耳目の欲望を避開して、蚊虻の聲音を遠離するは、以て危と言うべくも、いまだ以て微と言うべからず。あの微は、至人なり。至人は、また何を忍ばん。また何を強せん。また何を危せん。だから濁の明は外光にして、清の明は内光なり。聖人はその欲望を放縱し、その情を兼用して、而してそれを制約するは理なり。また何を強せん。また何を忍ばん。また何を危せん。だから仁者は道を實行するは、無為なり。聖人は道を實行するは、勉强なし。仁者の思索は恭敬にして、聖者の思索は快楽なり。これは心を治理するの道なり。

凡觀物有疑,中心不定,則外物不清。吾慮不清,未可定然否也。冥冥而行者,見寢石以為伏虎也,見植林以為後人也:冥冥蔽其明也。醉者越百步之溝,以為蹞步之澮也;俯而出城門,以為小之閨也:酒亂其神也。厭目而視者,視一為兩;掩耳而聽者,聽漠漠而以為哅哅:埶亂其官也。故從山上望牛者若羊,而求羊者不下牽也:遠蔽其大也。從山下望木者,十仞之木若箸,而求箸者不上折也:高蔽其長也。水動而景搖,人不以定美惡:水埶玄也。瞽者仰視而不見星,人不以定有無:用精惑也。有人焉以此時定物,則世之愚者也。彼愚者之定物,以疑決疑,決必不當。夫苟不當,安能無過乎?

およそ物を觀察するに疑惑有りて、心中定まらざれば、則ち外物は清楚ならず。我が思慮は清楚ならざれば、以て然否を判定すべからず。昏暗中に行走する者は、躺臥の石を見て以て趴著の虎と為し、直立の樹林を見て以て後面の人と為す。昏暗は彼の明を蒙蔽せり。酔に醉たる者は百歩の溝を跨越して、以て半歩の小溝と為し、頭を俯して城門を走出して、以て小の閨門と為す。酒は彼の神を擾乱せり。目を按じて看る者は、一個を看成して二個と為し、耳を捂じて聴く者は、寂静を聴きて以て喧譁と為す。勢は彼の感官を擾乱せり。だから山上より牛を望むは羊に象りて、而して羊を求むる者は下山して牽引せず。遠はその大を蒙蔽せり。山下より樹を望む者は、十仞の樹は筷子に象りて、而して筷子を求むる者は上山して折らず。高はその長を蒙蔽せり。水動きて影子搖れど、人はこれを以て美惡を判定せず。水勢は眩乱なり。盲人は頭を擡げて星を見ずとも、人はこれを以て有無を判定せず。用は精明を迷惑せり。人あるいはこの種の時に物を判定すれば、則ち是れ世の愚者なり。あの愚者は物を判定するに、疑惑を以て疑惑を決斷して、決斷は必ず當ならず。もし當ならざれば、どうして能く過錯なからん。

夏首之南有人焉;曰涓蜀梁。其為人也,愚而善畏。明月而宵行,俯見其影,以為伏鬼也;仰視其發,以為立魅也。背而走,比至其家,失氣而死。豈不哀哉!凡人之有鬼也,必以其感忽之間,疑玄之時定之。此人之所以無有而有無之時也,而己以定事。故傷於溼而痺,痺而擊鼓烹豚,則必有敝鼓喪豚之費矣,而未有俞疾之福也。故雖不在夏首之南,則無以異矣。

夏首の南辺に人有り。涓蜀梁と名づく。彼の人と為りは、愚にして怕れ易し。明月下に夜行走して、頭を俯してその影子を見れば、以て趴著の鬼と為し、頭を擡げてその頭髮を見れば、以て站著の魅と為す。身を背轉して跑りて、家に回到るを待てば、氣を斷たれて死せり。豈に悲哀ならざらんや。およそ人は以て鬼有りと為すは、必ず彼の恍惚の間、疑惑眩乱の時に判定するなり。これは人の以て無を以て有と為し、有を以て無と為する時に���て、而して自ら以て事情を判定するなり。だから濕に傷られて麻痺せば、麻痺すれば則ち鼓を擊ち豬を煮る。則ち必ず鼓を打破し豬を喪失するの花費有りて、而して病愈の福なし。だからたとえ夏首の南辺に在らずとも、不同なからず。

凡以知,人之性也;可以知,物之理也。以可以知人之性,求可以知物之理,而無所疑止之,則沒世窮年不能無也。其所以貫理焉雖億萬,已不足浹萬物之變,與愚者若一。學、老身長子,而與愚者若一,猶不知錯,夫是之謂妄人。故學也者,固學止之也。惡乎止之?曰:止諸至足。曷謂至足?曰:聖王。聖也者,盡倫者也;王也者,盡制者也;兩盡者,足以為天下極矣。故學者以聖王為師,案以聖王之製為法,法其法以求其統類,以務象效其人。向是而務,士也;類是而幾,君子也;知之,聖人也。故有知非以慮是,則謂之懼;有勇非以持是,則謂之賊;察孰非以分是,則謂之篡;多能非以修蕩是,則謂之知;辯利非以言是,則謂之詍。傳曰:"天下有二:非察是,是察非。"謂合王制不合王制也。天下不以是為隆正也,然而猶有能分是非、治曲直者邪?

およそ以て知る所は、人の性なり。以て知られべきは、物の理なり。以て知る人の性を以て、以て知る物の理を求めて、而して疑止するの地方なければ、則ち終身窮年して窮尽する能わず。彼の以て理を貫通する所はたとえ億万なりとも、已に以て万物の變化を周遍するに足らずして、愚者と一樣のごとし。学習して己老い子長く成るに至りて、而して愚者と一樣のごとく、猶放下を知らざれば、これを妄人という。だから学は、本來はあの止る所を学ぶなり。止るは何處に在る。曰く、至足に止まる。何を至足という。曰く、聖王なり。聖は、倫を窮尽するなり。王は、制を窮尽するなり。両樣皆窮尽すれば、以て天下の極致と為すに足る。だから学者は聖王を以て師と為し、ここに聖王の制を以て法と為し、あの法を取法してあの統類を求めて、あの人を努力仿效す。これに向かいて努力するは、士なり。これに類似して接近するは、君子なり。これを知るは、聖人なり。だから知有りて以てこれを思慮せざるは、これを懼という。勇有りて以てこれを持守せざるは、これを賊という。察辨精熟有りて以てこれを分別せざるは、これを篡という。多能有りて以てこれを修治發揚せざるは、これを巧智という。辯説流利好りて以てこれを言説せざるは、これを多嘴という。傳記に言う。「天下に両面あり――非を以て是を察し、是を以て非を察す」と。言う所は王制に合するか王制に合せざるかなり。天下はこれを以て隆盛の準則と為さざれば、然りて猶能く是非を分別し曲直を治理せんや。

若夫非分是非,非治曲直,非辨治亂,非治人道,雖能之無益於人,不能無損於人;案直將治怪說,玩奇辭,以相撓滑也;案強鉗而利口,厚顏而忍詬,無正而恣孳,妄辨而幾利;不好辭讓,不敬禮節,而好相推擠:此亂世奸人之說也,則天下之治說者,方多然矣。傳曰:"析辭而為察,言物而為辨,君子賤之。博聞強志,不合王制,君子賤之。"此之謂也。

是非を分別せず、曲直を治理せず、治乱を辨別せず、人道を治理せずに至れば、たとえ能くするも人に益なく、能くせざるも人に損なし。ただ將に怪説を治理して、奇辭を玩弄して、以て互相いに擾乱せんとす。強橫鉗制して口齒鋒利にして、厚顔面皮して詬罵を忍受し、正なくして放縱孳生し、妄りに辯説を加えて而して利を求むるに近し。辭讓を喜好せず、礼節を敬せずして、而して互相いに排擠するを喜好す。これは乱世奸人の説法にして、而して天下の学説を治理する人は、正に多くはこのごとし。傳記に言う。「辭句を分析して以て察と為し、名物を言説して以て辨と為すは、君子はこれを賤視す。見聞は廣博して記憶は強くとも、王制に合せざれば、君子はこれを賤視す」と。これを言うのである。

為之無益於成也,求之無益於得也,憂戚之無益於幾也,則廣焉能棄之矣,不以自妨也,不少頃幹之胸中。不慕往,不閔來,無邑憐之心,當時則動,物至而應,事起而辨,治亂可否,昭然明矣。

それを為しても成就に益なく、それを求めても得到に益なく、それを憂戚しても危殆の幾兆に益なければ、則ち遠くして能くこれを拋棄せり。以て己を妨害せず、片刻胸中に干預せず。以往を羨慕せず、未來を憫惜せず、悒郁憐惜の心なくして、時機に當れば則ち動き、物到来すれば則ち應じ、事興起すれば則ち辨別す。治乱可否は、昭然として明白せり。

周而成,洩而敗,明君無之有也。宣而成,隱而敗,闇君無之有也。故人君者,周則讒言至矣,直言反矣;小人邇而君子遠矣!詩云:"墨以為明,狐狸而蒼。"此言上幽而下險也。君人者,宣則直言至矣,而讒言反矣;君子邇而小人遠矣!詩云:"明明在下,赫赫在上。"此言上明而下化也。

隱密して成功し、泄漏して失敗するは、明君はこの事なし。公開して成功し、隱藏して失敗するは、昏君はこの事なし。だから人君と為るは、隱密すれば則ち讒言は到來して、直言は返回去し、小人近くして君子遠し。『詩経』に言う。「黑暗を以て光明と為せば、狐狸もまた蒼色と成る」と。これは言う、上幽暗にして下險詐なり、と。人君と為るは、公開すれば則ち直言は到來して、而して讒言は返回去し、君子近くして小人遠し。『詩経・大雅・大明』に言う。「下に在りて明明として、上に在りて赫赫たり」と。これは言う、上光明にして下感化す、と。

正名篇第二十二

后王之成名:刑名從商,爵名從周,文名從禮,散名之加於萬物者,則從諸夏之成俗曲期,遠方異俗之鄉,則因之而為通。

後王の既定の名称は、刑罰の名称は商に依從し、爵位の名称は周に依從し、礼儀文飾の名称は礼に依從し、万物の上に加うるの散名称は、則ち諸夏の既成の習俗と共同約定に依從して、遠方の習俗同じからざる鄕は、則ちこれを憑借して以て溝通す。

散名之在人者:生之所以然者謂之性;性之和所生,精合感應,不事而自然謂之性。性之好、惡、喜、怒、哀、樂謂之情。情然而心為之擇謂之慮。心慮而能為之動謂之偽;慮積焉,能習焉,而後成謂之偽。正利而為謂之事。正義而為謂之行。所以知之在人者謂之知;知有所合謂之智。所以能之在人者謂之能;能有所合謂之能。性傷謂之病。節遇謂之命:是散名之在人者也,是后王之成名也。

人の身の上に在るの散名称は、生まれ來りてこのごとくなる所以をこれを性という。性の和氣の生ずる所、精神の相合感應して、作為を經ずして自然なるをこれを性という。性の好・惡・喜・怒・哀・楽をこれを情という。情はこのごとくして心はそれのために選擇するをこれを慮という。心慮して能くそれのために動作するをこれを僞という。慮は積累して、能は練習して、然る後に成就するをこれを僞という。正当の利のために為すをこれを事という。正当の義のために為すをこれを行という。以て知る人の身の上に在るをこれを知という。知は符合する所有るをこれを智という。以て能くする人の身の上に在るをこれを能という。能は符合する所有るもまた���れを能という。性は傷害を受くるをこれを病という。時運は遭遇するをこれを命という。これは人の身の上に在るの散名称にして、これは後王の既定の名称なり。

故王者之制名,名定而實辨,道行而志通,則慎率民而一焉。故析辭擅作名,以亂正名,使民疑惑,人多辨訟,則謂之大奸。其罪猶為符節度量之罪也。故其民莫敢托為奇辭以亂正名,故其民愨;愨則易使,易使則公。其民莫敢托為奇辭以亂正名,故壹於道法,而謹於循令矣。如是則其跡長矣。跡長功成,治之極也。是謹於守名約之功也。今聖王沒,名守慢,奇辭起,名實亂,是非之形不明,則雖守法之吏,誦數之儒,亦皆亂也。若有王者起,必將有循於舊名,有作於新名。然則所為有名,與所緣以同異,與制名之樞要,不可不察也。

だから王者は名称を制定して、名称は確定して實物は辨別し、道は實行して意志は通達して、則ち謹慎に民を率領して斉一す。だから辭句を分析して擅自に名称を制作して、以て正名を擾乱して、民をして疑惑せしめ、人は多く辯訟するを、これを大奸という。その罪は僞造符節度量の罪のごとし。だからその民は敢えて奇僻の辭を假託して以て正名を擾乱するなし。だからその民は樸實にして、樸實なれば則ち役使し易く、役使し易ければ則ち公正なり。その民は敢えて奇僻の辭を假託して以て正名を擾乱するなし。だから道法に専一して、而して謹慎に命令を遵循せり。これのごとくなれば則ち功業は長久なり。功業長久して功績成就するは、治の極致なり。これは謹慎に名称の約定を守住するの功效なり。如今聖王沒して、名を守るは怠慢にして、奇僻の辭は興起し、名と實は混乱して、是非の形は顯明ならざれば、則ちたとえ法を守るの吏、度数を誦習するの儒なりとも、皆乱れたり。もし王者の興起有らば、必ず將に旧名に於いて遵循する所有り、新名に於いて制作する所有らん。然れば則ち以て名称有る所以と、以て同異と為るの憑借と、名称を制定するの樞要は、審察せざるべからず。

異形離心交喻,異物名實玄紐,貴賤不明,同異不別;如是,則志必有不喻之患,而事必有困廢之禍。故知者為之分別制名以指實,上以明貴賤,下以辨同異。貴賤明,同異別,如是則志無不喻之患,事無困廢之禍,此所為有名也。

不同の形狀は心を離れて互相いに説明し、不同の物名と實は昏乱紐結して、貴賤は顯明せず、同異は分別せず。これのごとくなれば、則ち意志は必ず曉喻する能わざるの禍患有りて、而して事情は必ず困頓廢棄の禍有り。だから智者は彼らのために分別して名称を制定して以て實を指称して、上は以て貴賤を顯明にし、下は以て同異を辨別す。貴賤顯明にして、同異分別して、これのごとくなれば則ち意志は曉喻する能わざるの禍患なく、事情は困頓廢棄の禍なし。これは以て名称有る所以なり。

然則何緣而以同異?曰:緣天官。凡同類同情者,其天官之意物也同。故比方之疑似而通,是所以共其約名以相期也。形體、色理以目異;聲音清濁、調竽、奇聲以耳異;甘、苦、鹹、淡、辛、酸、奇味以口異;香、臭、芬、鬱、腥、臊、漏庮、奇臭以鼻異;疾、癢、凔、熱、滑、鈹、輕、重以形體異;說、故、喜、怒、哀、樂、愛、惡、欲以心異。心有徵知。徵知,則緣耳而知聲可也,緣目而知形可也。然而徵知必將待天官之當簿其類,然後可也。五官簿之而不知,心徵知而無說,則人莫不然謂之不知。此所緣而以同異也。

然れば則ち何を凭って而して同異有らん。曰く、天生の感官に憑借す。およそ同類同情のは、彼らの天生感官は物を意會するは相同じし。だからあの疑似を比方すれば則ち以て相通ず。これは以て共同にあの約定の名称をして以て互相いに期會する所以なり。形體・色澤文理は目を以て差異し、聲音清濁・和諧の楽音・奇異の聲音は耳を以て差異し、甘・苦・鹹・淡・辛・酸・奇異の味は口を以て差異し、香・臭・芬・郁・腥・臊・漏臭・奇異の氣味は鼻を以て差異し、痛・痒・冷・熱・滑・澁・輕・重は形體を以て差異し、悅・故・喜・怒・哀・楽・愛・惡・欲は心を以て差異す。心は驗證して而して知る。驗證して而して知れば、則ち耳を憑借して而して聲音を知れば即ち可なり、目を憑借して而して形狀を知れば即ち可なり。然りて驗證して而して知るは必ず天生感官の恰当にあの一類を記錄するを待ちて、然る後に可ならん。五官は記錄して而して知らざれば、心は驗證して而して知るも而して説辭なければ、則ち人は彼を不知と言わざるなし。これは以て憑借して而して同異有る所以なり。

然後隨而命之,同則同之,異則異之。單足以喻則單,單不足以喻則兼;單與兼無所相避則共;雖共不為害矣。知異實者之異名也,故使異實者莫不異名也,不可亂也,猶使同實者莫不同名也。

然る後に随いてそれに命名して、相同なれば則ち相同の名を給し、相異なれば則ち相異の名を給す。單名は以て曉喻するに足れば則ち單名を用い、單名は以て曉喻するに足らざれば則ち複名を用い、單名と複名は互相いに回避するなければ則ち共用す。たとえ共用するも為害と為さず。不同の實は不同の名有るべきを知りて、だから不同の實をして不同の名なからしむるは、以て乱るべからず、相同の實をして不同の名なからしむるがごとし。

故萬物雖眾,有時而欲無舉之,故謂之物;物也者,大共名也。推而共之,共則有共,至於無共然後止。有時而欲偏舉之,故謂之鳥獸。鳥獸也者,大別名也。推而別之,別則有別,至於無別然後至。

だから万物はたとえ衆多なりとも、時にそれらを遺漏なく擧出せんと欲するは、だからこれを物という。物は、大共名なり。推開して共用して、共して而して猶共有りて、共なきに至りて然る後に止まる。時にそれらを偏擧せんと欲するは、だからこれを鳥獣という。鳥獣は、大別名なり。推開して分別して、分別して而して猶分別有りて、分別なきに至りて然る後に止まる。

名無固宜,約之以命,約定俗成謂之宜,異於約則謂之不宜。名無固實,約之以命實,約定俗成,謂之實名。名有固善,徑易而不拂,謂之善名。

名称は本來適宜なるなく、約定して以て命名して、約定俗成してこれを適宜といい、約定と同じからざれば則ちこれを不適宜という。名称は本來對應する實なく、約定して以てあの實を命名して、約定俗成して、これを實名という。名称は本來善き有りて、直接平易して違背せざるを、これを善名という。

物有同狀而異所者,有異狀而同所者,可別也。狀同而為異所者,雖可合,謂之二實。狀變而實無別而為異者,謂之化。有化而無別,謂之一實。此事之所以稽實定數也。此制名之樞要也。后王之成名,不可不察也。

物は形狀同じくして處所同じからざる有り、形狀同じからずして處所同じき有りて、以て分別すべし。形狀同じくして處所同じからざるは、たとえ以て合称すべくとも、これを兩個の實という。形狀は變じて實は分別せずして而して不同と成るを、これを化という。化有りて而して分別なきは、これを一個の實という。これは事の以て實を考核し数を確定する所以なり。これは名称を制定するの樞要なり。後王の既定の名称は、審察せざるべからず。

"見侮不辱","聖人不愛己","殺盜非殺人也",此惑於用名以亂名者也。驗之所為有名,而觀其孰行,則能禁之矣。"山淵平","情慾寡","芻豢不加甘,大鐘不加樂",此惑於用實,以亂名者也。驗之所緣以同異,而觀其孰調,則能禁之矣。"非而謁楹","有牛馬非馬也,"此惑於用名以亂實者也。驗之名約,以其所受,悖其所辭,則能禁之矣。

「欺侮せられて而して辱と以為せず」、「聖人は己を愛せず」、「盗を殺すは人を殺すにあらず」。これらは用を以て名を擾乱するに迷惑するなり。これを以て名称有る所以に驗して、而してどの一種か行い通ずるを看れば、則ち能くこれを禁止せり。「山と淵は一樣に平なり」、「情欲は少なり」、「肉食は加えて更に甘ならず、大鐘は加えて更に楽ならず」。これらは實を以て名を擾乱するに迷惑するなり。これを以て同異の憑借に驗して、而してどの一種か調適するを看れば、則ち能くこれを禁止せり。「非して楹を謁し」、「牛馬有りて馬にあらず」。これらは名を以て實を擾乱するに迷惑するなり。これを名称の約定に驗して、彼の接受する所を以て、以て彼の推辭する所に悖反せば、則ち能くこれを禁止せり。

凡邪說辟言之離正道而擅作者,無不類於三惑者矣。故明君知其分而不與辨也。夫民易一以道,而不可與共故。故明君臨之以埶,道之以道,申之以命,章之以論,禁之以刑。故民之化道也如神,辨說惡用矣哉!今聖王沒,天下亂,奸言起,君子無埶以臨之,無刑以禁之,故辨說也。實不喻,然後命,命不喻,然後期,期不喻,然後說,說不喻,然後辨。故期命辨說也者,用之大文也,而王業之始也。名聞而實喻,名之用也。累而成文,名之麗也。用麗俱得,謂之知名。名也者,所以期累實也。辭也者,兼異實之名以論一意也。辨說也者,不異實名以喻動靜之道也。期命也者,辨說之用也。辨說也者,心之象道也。心也者,道之工宰也。道也者,治之經理也。心合於道,說合於心,辭合於說。正名而期,質請而喻,辨異而不過,推類而不悖。聽則合文,辨則盡故。以正道而辨奸,猶引繩以持曲直。是故邪說不能亂,百家無所竄。有兼聽之明,而無矜奮之容;有兼覆之厚,而無伐德之色。說行則天下正,說不行則白道而冥窮。是聖人之辨說也。詩曰:"顒顒卬卬,如圭如璋,令聞令望,豈弟君子,四方為綱。"此之謂也。

およそ邪説僻言は正道を離れて擅自に制作するは、こ三种の迷惑に類似せざるなし。だから明君はあの分際を知りて彼らと辯せず。民は以て道に斉一し易くして、而して彼らと故を共論すべからず。だから明君は勢を以て彼らに臨照し、道を以て彼らを引導し、命令を以て申明し、議論を以て彰明し、刑罰を以て禁止す。だから民は道に感化するは神のごとし。辯説はどうしてまた用いられんや。如今聖王沒して、天下乱り、奸言興起して、君子は勢なくて以て臨照し、刑なくて以て禁止せず。だから乃ち辯説す。實は能く曉喻せざれば、然る後に命名し、名は能く曉喻せざれば、然る後に期會し、期會は能く曉喻せざれば、然る後に解説し、解説は能く曉喻せざれば、然る後に辯す。だから期會・命名・辯説は、用の大文にして、而して王業の開始なり。名称は聞かれて而して實は曉喻せらるるは、名の用なり。積累して文辭と成るは、名の配合なり。用と配合は皆恰当なるを、これを名を知るという。名は、以て實を期會積累するなり。辭は、兼ねて不同實の名を用いて以て一個の意思を論説するなり。辯説は、實名を差異せしめずして以て動静の道を曉喻するなり。期會と命名は、辯説の用なり。辯説は、心の道に對する效法なり。心は、道の主宰なり。道は、治の經常條理なり。心は道に合し、説は心に合し、辭は説に合す。名称を端正して期會して、實情に質して曉喻して、差異を辨別して而して過分せず、類推して而して悖乱せず。聴けば則ち文に合し、辯すれば則ち故を窮尽す。正道を以て奸を辨別するは、繩墨を拉して以て曲直を持守するがごとし。これに因って邪説は能く擾乱せず、百家は逃竄する處なし。兼聴の明有りて、而して驕矜奮發の容なく、兼覆の厚有りて、而して徳を誇耀するの神色なし。説實行せば則ち天下正しく、説説實行せざれば則ち道を彰明して自ら隱居窮處す。これは聖人の辯説なり。『詩経・大雅・卷阿』に言う。「温恭昂揚として、圭のごとく璋のごとく、美好の名声と威望、愷悌君子は、四方の準則」と。これを言うのである。

辭讓之節得矣,長少之理順矣;忌諱不稱,祅辭不出。以仁心說,以學心聽,以公心辨。不動乎眾人之非譽,不治觀者之耳目,不賂貴者之權埶,不利傳闢者之辭。故能處道而不貳,咄而不奪,利而不流,貴公正而賤鄙爭,是士君子之辨說也。詩曰:"長夜漫兮,永思騫兮,大古之不慢兮,禮義之不愆兮,何恤人之言兮!"此之謂也。

辭讓の節は得当せば、長少の理は順從す。忌諱は称説せず、妖邪の辭は口に出でず。仁心を以て説し、学心を以て聴き、公心を以て辯す。衆人の非議称誉に動搖せられず、傍觀者の耳目に修飾して看せず、貴者の権勢に賄賂せず、僻言者の辭を傳布せんと貪図せず。だから能く道に處りて貳せず、困頓して奪せられず、順利して放蕩せず、公正を看重して鄙陋の争を賤視す。これは士君子の辯説なり。『詩経』に言う。「長夜漫漫として、長久にあの虧損を思索し、遠古の怠慢ならざる、礼義の愆過なからざる、何ぞ必ず别人の話を憂慮せん」と。これを言うのである。

君子之言,涉然而精,俛然而類,差差然而齊。彼正其名,當其辭,以務白其志義者也。彼名辭也者,志義之使也,足以相通,則舍之矣。苟之,奸也。故名足以指實,辭足以見極,則舍之矣。外是者,謂之訒,是君子之所棄,而愚者拾以為己寶。故愚者之言,芴然而粗,嘖然而不類,誻誻然而沸,彼誘其名,眩其辭,而無深於其志義者也。故窮借而無極,甚勞而無功,貪而無名。故知者之言也,慮之易知也,行之易安也,持之易立也,成則必得其所好,而不遇其所惡焉。而愚者反是。詩曰:"為鬼為蜮,則不可得。有靦面目,視人罔極。作此好歌,以極反側。"此之謂也。

君子の言は、深入して精しく、俯就して倫類有り、參差して而して斉整なり。彼はあの名称を端正して、あの辭を得当にして、以てその志義を顯白することを努力す。あの名称と辭は、志義の使者にして、以て相通ずるに足れば、則ち止まる。苟且に多を求むるは、奸なり。だから名称は以て實を指称するに足りて、辭は以て極致を見るに足れば、則ち止まる。これの外のは、これを言出し遅難という。これは君子の拋棄する所にして、而して愚者はこれを拾集して以て己の宝貝と為す。だから愚者の言は、恍惚して粗く、喧鬧して倫類なく、嘈雑して沸騰して、彼はあの名称を誘乱し、あの辭を眩惑して、而してその志義に深きなし。だから假借を窮尽して極致なく、非常に労苦して功なく、貪求して名なし。だから智者の言は、それを思慮すれば知り易く、それを實行すれば安んじ易く、それを持守すれば立ち易く、成就すれば則ち必ずその喜好する所を得て、而してその厭惡する所に遇上せず。而して愚者はこれと相反る。『詩経・小雅・何人斯』に言う。「是れ鬼か蜮か、則ち得べからず。あの靦靦の面目有りて、人を看れば準則なし。この好歌を作して、以てあの反側を窮尽せん」と。これを言うのである。

凡語治而待去欲者,無以道欲而困於有欲者也。凡語治而待寡慾者,無以節慾而困於多欲者也。有欲無慾,異類也,生死也,非治亂也。欲之多寡,異類也,情之數也,非治亂也。欲不待可得,而求者從所可。欲不待可得,所受乎天也;求者從所可,所受乎心也。所受乎天之一欲,制於所受乎心之多,固難類所受乎天也。人之所欲生甚矣,人之惡死甚矣;然而人有從生成死者,非不欲生而欲死也,不可以生而可以死也。故欲過之而動不及,心止之也。心之所可中理,則欲雖多,奚傷於治?欲不及而動過之,心使之也。心之所可失理,則欲雖寡,奚止於亂?故治亂在於心之所可,亡於情之所欲。不求之其所在,而求之其所亡,雖曰我得之,失之矣。

およそ治を談論して欲望を去掉せんを待つは、以て欲望を引導するなきにして、而して欲望有るに困るなり。およそ治を談論して欲望を減少せんを待つは、以て欲望を節制するなきにして、而して多欲望に困るなり。欲望有ると欲望なきとは、不同類にして、生と死なり。治と乱にあらず。欲望の多少は、不同類にして、情の数なり。治と乱にあらず。欲望は以て得べくを待たずして、而して求取する者は認可する所に隨從す。欲望は以て得べくを待たざるは、天より接受するなり。求取する者は認可する所に隨從するは、心より接受するなり。天より接受するあの一種の欲望は、心より接受するの許多に制約せられて、本來天より接受するに類似し難し。人の欲望する生は甚だ厲しく、人の厭惡する死は甚だ厲し。然りて人は生に從いて而して死に走向する有りて、生を欲望せざる而して死を欲望するにあらずして、以て生くべからずして以て死すべきなり。だから欲望は超過して而して動作は趕不上するは、心はそれを制止せり。心の認可する所は理に合せば、則ち欲望はたとえ多しとも、どうして治を妨害せん。欲望は趕不上して而して動作は超過するは、心はそれを役使せり。心の認可する所は理を失えば、則ち欲望はたとえ少しとも、どうして能く乱を制止せん。だから治乱は心の認可する所に在りて、情の欲望する所に在らず。それの在る所に求めずして、而してそれの在らざる所に求むれば、たとえ我は得之と言うとも、亦失えり。

性者、天之就也;情者、性之質也;欲者、情之應也。以所欲為可得而求之,情之所必不免也。以為可而道之,知所必出也。故雖為守門,欲不可去,性之具也。雖為天子,欲不可盡。欲雖不可盡,可以近盡也。欲雖不可去,求可節也。所欲雖不可盡,求者猶近盡;欲雖不可去,所求不得,慮者欲節求也。道者、進則近盡,退則節求,天下莫之若也。

性は、天の成就する所。情は、性の質地。欲は、情の應和なり。欲望する所を以て以て得べきと為してそれを求取するは、情の一定に免れざる所なり。以て可と為してそれを引導するは、知の一定に發する所なり。だからたとえ門人を為るとも、欲望は以て去掉すべからず。これは性の具備する所なり。たとえ天子を為るとも、欲望は以て窮尽すべからず。欲望はたとえ以て窮尽すべからずとも、以て窮尽に接近すべし。欲望はたとえ以て去掉すべからずとも、求取は以て節制すべし。欲望する所はたとえ以て窮尽すべからずとも、求取する者は猶窮尽に接近す。欲望はたとえ以て去掉すべからずとも、求取する所は得られざれば、思慮する者は求取を節制せんと欲す。道は、進めば則ち窮尽に接近し、退けば則ち求取を節制す。天下は以てそれに比敵するなし。

凡人莫不從其所可,而去其所不可。知道之莫之若也,而不從道者,無之有也。假之有人而欲南,無多;而惡北,無寡,豈為夫南之不可盡也,離南行而北走也哉!今人所欲,無多;所惡,無寡,豈為夫所欲之不可盡也,離得欲之道,而取所惡也哉!故可道而從之,奚以損之而亂?不可道而離之,奚以益之而治?故知者論道而已矣,小家珍說之所願者皆衰矣。凡人之取也,所欲未嘗粹而來也;其去也,所惡未嘗粹而往也。故人無動而不可以不與權俱。衡不正,則重縣於仰,而人以為輕;輕縣於俛,而人以為重;此人所以惑於輕重也。權不正,則禍托於欲,而人以為福;福托於惡,而人以為禍;此亦人所以惑於禍福也。道者,古今之正權也;離道而內自擇,則不知禍福之所託。易者,以一易一,人曰:無得亦無喪也,以一易兩,人曰:無喪而有得也。以兩易一,人曰:無得而有喪也。計者取所多,謀者從所可。以兩易一,人莫之為,明其數也。從道而出,猶以一易兩也,奚喪!離道而內自擇,是猶以兩易一也,奚得!其累百年之慾,易一時之嫌,然且為之,不明其數也。

およそ人はその認可する所に隨從せざるなく、而してその認可せざる所を離去す。道を知りて以て比敵するなく、而して道に隨從せざるは、これは有らざるなり。假如人あるいは南に向かわんと欲して、多を嫌まず。而して北に向かうを厭惡して、少を嫌まず。豈に南に向かうは以て窮尽すべからざるに因って、則ち南に向かいて走るを離れて北に奔向せんや。如今人の欲望する所は、多を嫌まず。厭惡する所は、少を嫌まず。豈に欲望する所は以て窮尽すべからざるに因って、則ち欲望を得るの道を離れて、而して厭惡する所を取らんや。だから以て道を認可してそれに隨從すれば、どうしてそれを減損して乱らん。以て道を認可すべからずしてそれを離去すれば、どうしてそれを増益して治まらん。だから智者はただ道を論ずるのみ。小家珍奇の説法の願望する所は皆衰微せり。およそ人の取は、欲望する所は未だ嘗て純粹して來らず。その去は、厭惡する所は未だ嘗て純粹して往かず。だから人は動作して而して権衡とともに在らざるべからず。衡は端正ならざれば、則ち重の懸挂は却って揚起して、而して人は以て輕と為し、輕の懸挂は却って低下して、而して人は以て重と為す。これは人の輕重に迷惑する所以なり。権は端正ならざれば、則ち禍は欲望の上に寄托して、而して人は以て福と為し、福は厭惡の上に寄托して、而して人は以て禍と為す。これもまた人の禍福に迷惑する所以なり。道は、古今の正権なり。道を離れて内心自ら選擇すれば、則ち禍福の寄托する所を知らず。交換は、一を以て一を換うれば、人は言う、得なく喪なしと。一を以て兩を換うれば、人は言う、喪なくして得有りと。兩を以て一を換うれば、人は言う、得なくして喪有りと。計算する者は多き所を取り、謀劃する者は認可する所に從う。兩を以て一を換うるは、人は為すなし。これはあの数を明白するなり。道より出發するは、一を以て兩を換うるがごとし。どうして喪かあらん。道を離れて内心自ら選擇するは、兩を以て一を換うるがごとし。どうして得かあらん。百年の欲望を積累して、一時の嫌惡を換うるも、然りて猶それを為すは、あの数を明白せざるなり。

有嘗試深觀其隱而難者:志輕理而不重物者,無之有也;外重物而不內憂者,無之有也;行離理而不外危者,無之有也;外危而不內恐者,無之有也。心憂恐,則口銜芻豢而不知其味,耳聽鐘鼓而不知其聲,目視黼黻而不知其狀,輕暖平簟而體不知其安。故向萬物之美而不能嗛也。假而得間而嗛之,則不能離也。故向萬物之美而盛憂,兼萬物之美而盛害,如此者,其求物也,養生也?粥壽也?故欲養其欲而縱其情,欲養其性而危其形,欲養其樂而攻其心,欲養其名而亂其行,如此者,雖封侯稱君,其與夫盜無以異;乘軒戴絻,其與無足無以異。夫是之謂以己為物役矣。

我は嘗て試みにあの隱微にして難きを深入觀察せり。志向は理を輕視して物を看重せざるは、これは有らざるなり。外は物を看重して内心は憂えざるは、これは有らざるなり。行為は理を離れて外は危ならざるは、これは有らざるなり。外は危うくして内心は恐れざるは、これは有らざるなり。心は憂恐すれば、則ち口は肉食を含みて而してその味を知らず、耳は鐘鼓を聴きて而してその聲を知らず、目は���黻を看て而してその狀を知らず、輕暖平且の席にして身體はその安を知らず。だから万物の美を享有して而して能く滿足せず。たとえ間断して滿足を得るとも、能く離去せず。だから万物の美を享有して盛憂して、万物の害を兼有して盛害するは、このごときは、彼は物を求むるは、生を養うか。それとも壽を出賣するか。だからその欲望を養わんと欲してその情を放縱し、その性を養わんと欲してその形を危害し、その楽を養わんと欲してその心を攻撃し、その名を養わんと欲してその行為を擾乱す。このごときは、たとえ侯を封じ君と称するとも、彼はあの盗と不同なし。軒車に乘り冕を戴くも、彼は足を立足するの地なきと不同なし。これを己をして物に役使せしむるという。

心平愉,則色不及傭而可以養目,聲不及傭而可以養耳,蔬食菜羹而可以養口,麤布之衣,麤紃之履,而可以養體。局室、蘆簾、稿蓐、敝機筵,而可以養形。故雖無萬物之美而可以養樂,無埶列之位而可以養名。如是而加天下焉,其為天下多,其私樂少矣。夫是之謂重己役物。

心は平正愉悅なれば、則ち色彩は平常に及ばざるも以て目を養うべし。聲音は平常に及ばざるも以て耳を養うべし。蔬食菜羹は以て口を養うべし。粗布の衣・粗繩の鞋は、而して以て體を養うべし。狹小の室・蘆葦の簾・稻草の墊・破損の几筵は、而して以て形を養うべし。だからたとえ万物の美なくとも以て楽を養うべし。勢位の列なくとも以て名を養うべし。このごとくして而して天下を彼に加えば、彼は天下のために多く、彼は私人の楽を少くす。これを己を看重して物を役使するという。

無稽之言,不見之行,不聞之謀,君子慎之。

考核なきの言論、見れどなきの行為、聴説なきの謀劃は、君子は謹慎に對待す。

性惡篇第二十三

人之性惡,其善者偽也。--今人之性,生而有好利焉,順是,故爭奪生而辭讓亡焉;生而有疾惡焉,順是,故殘賊生而忠信亡焉;生而有耳目之欲,有好聲色焉,順是,故淫亂生而禮義文理亡焉。然則從人之性,順人之情,必出於HTTP/1.0502犯分亂理,而歸於暴。故必將有師法之化,禮義之道,然後出於辭讓,合於文理,而歸於治。用此觀之,人之性惡明矣,其善者偽也。

人の性は惡なり。あの善は僞なり。如今人の性は、生まれ來れば則ち利を好みて、これに順えば、だから争奪は產生して辭讓は亡失す。生まれ來れば則ち嫉惡有りて、これに順えば、だから殘賊は產生して忠信は亡失す。生まれ來れば則ち耳目の欲望有りて、聲色を喜好して、これに順えば、だから淫乱は產生して礼義文理は亡失す。既にこのごとく、人の性を放縱し、人の情に順えば、則ち必ず争奪より出でて、名分を冒犯して條理を擾乱して、而して暴乱に歸結す。(底本は「HTTP/1.0502」と作るも、抓取の殘渣なり。當に「争奪」に從うべし。)だから必ず將に師法の教化、礼義の引導有りて、然る後に辭讓より出でて、文理に合して、而して治に歸結す。これより觀れば、人の性惡は明白なり。あの善は僞なり。

故枸木必將待檃栝、烝矯然後直;鈍金必將待礱厲然後利;今人之性惡,必將待師法然後正,得禮義然後治,今人無師法,則偏險而不正;無禮義,則悖亂而不治,古者聖王以人性惡,以為偏險而不正,悖亂而不治,是以為之起禮義,製法度,以矯飾人之情性而正之,以擾化人之情性而導之也,始皆出於治,合於道者也。今人之化師法,積文學,道禮義者為君子;縱性情,安恣孳,而違禮義者為小人。用此觀之,人之性惡明矣,其善者偽也。

だから彎曲の木は必ず矯正器・蒸烤矯揉を待ちて然る後に直なり。鈍の金屬は必ず磨礪を待ちて然る後に利なり。如今人の性惡は、必ず師法を待ちて然る後に正しく、礼義を得て然る後に治まる。如今人は師法なければ、則ち偏邪險して正ならず。礼義なければ、則ち悖乱して治まらず。古時聖王は人性惡に因って、以て偏邪險して正ならず、悖乱して治まらずと為して、これに因って彼らのために礼義を興起し、法度を制定して、以て人の情性を矯飾してそれを端正にし、以て人の情性を馴化してそれを引導して、乃ち皆治より出でて、道に合せしむ。如今人は師法に感化し、文学を積累して、礼義を實行するは君子なり。性情を放縱して、恣肆に安んじて、而して礼義に違背するは小人なり。これより觀れば、人の性惡は明白なり。あの善は僞なり。

孟子曰:"今之學者,其性善。"

孟子曰く、「如今学を求むる人は、彼らの性は善なり」と。

曰:是不然。是不及知人之性,而不察乎人之性偽之分者也。凡性者,天之就也,不可學,不可事。禮義者,聖人之所生也,人之所學而能,所事而成者也。不可學,不可事,而在人者,謂之性;可學而能,可事而成之在人者,謂之偽。是性偽之分也。今人之性,目可以見,耳可以聽;夫可以見之明不離目,可以聽之聰不離耳,目明而耳聰,不可學明矣。

曰く、これはこれにあらず。これはいまだ人の性を知るに至らずして、而して人の性と僞の分別を審察せざるなり。およそ性は、天の成就する所にして、以て学ぶべからず、以て作為すべからず。礼義は、聖人の生ずる所にして、人の学びて能くして作為して成就する所なり。以て学ぶべからず、以て作為すべからずして、而して人の身の上に在るを、これを性という。以て学びて能くし、以て作為して成就して人の身の上に在るを、これを僞という。これは性と僞の分別なり。如今人の性は、目は以て見るべく、耳は以て聴くべし。あの以て見るべき明は目を離れず、以て聴くべき聰は耳を離れず、目明にして耳聰なるは、以て学ぶべからざるは明白なり。

孟子曰:"今人之性善,將皆失喪其性故也。"

孟子曰く、「如今人の性善は、將に皆その性を喪失するの故なり」と。

曰:若是則過矣。今人之性,生而離其樸,離其資,必失而喪之。用此觀之,然則人之性惡明矣。所謂性善者,不離其樸而美之,不離其資而利之也。使夫資樸之於美,心意之於善,若夫可以見之明不離目,可以聽之聰不離耳,故曰目明而耳聰也。今人之性,飢而欲飽,寒而欲暖,勞而欲休,此人之情性也。今人見長而不敢先食者,將有所讓也;勞而不敢求息者,將有所代也。夫子之讓乎父,弟之讓乎兄,子之代乎父,弟之代乎兄,此二行者,皆反於性而悖於情也;然而孝子之道,禮義之文理也。故順情性則不辭讓矣,辭讓則悖於情性矣。用此觀之,人之性惡明矣,其善者偽也。

曰く、このごとくなれば則ち錯えり。如今人の性は、生まれ來れば則ちその樸を離れ、その資質を離れて、必ずそれを喪失す。これより觀れば、然れば則ち人の性惡は明白なり。所謂性善は、その樸を離れずしてそれを美にし、その資質を離れずしてそれを利にするなり。あの資質樸をして美に於いて、心意をして善に於いて、以て見るべき明は目を離れず、以て聴くべき聰は耳を離れざるがごとくせしむれば、だから言う、目明にして耳聰なり、と。如今人の性は、餓えれば則ち飽を想い、冷えれば則ち暖を想い、労累すれば則ち休息を想う。これは人の情性なり。如今人は長���を見て而して先に吃を敢えてせざるは、將に謙讓する所有らんとす。労累して而して休息を求めを敢えてせざるは、將に代労する所有らんとす。兒子は父に對して謙讓し、弟弟は兄長に對して謙讓し、兒子は父に代りて労し、弟弟は兄長に代りて労す。こ兩樣の行為は、皆性に違反而情に悖る。然りて是れ孝子の道にして、礼義の文理なり。だから情性に順えば則ち辭讓せずして、辭讓すれば則ち情性に悖る。これより觀れば、人の性惡は明白なり。あの善は僞なり。

問者曰:"人之性惡,則禮義惡生?"

問う者は曰く、「人の性は惡なり。然れば則ち礼義は何處より生ぜん」と。

應之曰:凡禮義者,是生於聖人之偽,非故生於人之性也。故陶人埏埴而為器,然則器生於陶人之偽,非故生於人之性也。故工人斲木而成器,然則器生於工人之偽,非故生於人之性也。聖人積思慮,習偽故,以生禮義而起法度,然則禮義法度者,是生於聖人之偽,非故生於人之性也。若夫目好色,耳好聽,口好味,心好利,骨體膚理好愉佚,是皆生於人之情性者也;感而自然,不待事而後生之者也。夫感而不能然,必且待事而後然者,謂之生於偽。是性偽之所生,其不同之徵也。

彼に回答して曰く、およそ礼義は、聖人の僞より生ずるにして、本來人の性より生ずるにあらず。だから陶人は粘土を揉ねて而して器を做成すれば、則ち器は陶人の僞より生じて、本來人の性より生ずるにあらず。だから工人は木頭を砍きて而して器を做成すれば、則ち器は工人の僞より生じて、本來人の性より生ずるにあらず。聖人は思慮を積累して、人為の故事を熟習して、以て礼義を生出して法度を興起せば、則ち礼義法度は、聖人の僞より生じて、本來人の性より生ずるにあらず。目は色を喜好し、耳は聴を喜好し、口は味を喜好し、心は利を喜好し、骨體膚理は安逸を喜好するに至れば、これら皆人の情性より生ずるなり。感應して自然にして、作為を待たずして然る後に生出するなり。あの感應して能くこのごとくせざるは、必ず作為を待ちて然る後にこのごとくなるを、これを僞より生ずるという。これは性と僞の生出する所にして、彼らの同じからざるの征驗なり。

故聖人化性而起偽,偽起而生禮義,禮義生而製法度;然則禮義法度者,是聖人之所生也。故聖人之所以同於眾,其不異於眾者,性也;所以異而過眾者,偽也。夫好利而欲得者,此人之情性也。假之有弟兄資財而分者,且順情性,好利而欲得,若是,則兄弟相拂奪矣;且化禮義之文理,若是,則讓乎國人矣。故順情性則弟兄爭矣,化禮義則讓乎國人矣。

だから聖人は性を變化して僞を興起して、僞興起して礼義を生出し、礼義生出して法度を制定す。然れば則ち礼義法度は、聖人の生ずる所なり。だから聖人の衆人に同じき所以、彼の衆人に異ならざるは、性なり。同じからずして衆人に超過するは、僞なり。あの利を好みて得んと欲するは、これは人の情性なり。假如兄弟は財產を分かたんとすれば、もし情性に順い、利を好みて得んと欲せば、このごとくなれば、則ち兄弟は互相いに争奪せり。もし礼義の文理に化せば、このごとくなれば、則ち国人に對しても皆謙讓せり。だから情性に順えば則ち兄弟は争えり。礼義に化せば則ち国人に對して謙讓せり。

凡人之慾為善者,為性惡也。夫薄願厚,惡願美,狹願廣,貧願富,賤願貴,苟無之中者,必求於外。故富而不願財,貴而不願埶,苟有之中者,必不及於外。用此觀之,人之慾為善者,為性惡也。今人之性,固無禮義,故強學而求有之也;性不知禮義,故思慮而求知之也。然則性而已,則人無禮義,不知禮義。人無禮義則亂,不知禮義則悖。然則性而已,則悖亂在己。用此觀之,人之性惡明矣,其善者偽也。

およそ人は善を為さんと欲するは、性惡に因るなり。あの薄のは厚を愿望し、惡のは美を愿望し、狹のは廣を愿望し、貧のは富を愿望し、賤のは貴を愿望するは、もし自身の中になければ、必ず外にこれを求む。だから富ければ則ち財を愿望せず、貴ければ則ち勢を愿望せず。もし自身の中に有れば、必ず外にこれを求めず。これより觀れば、人は善を為さんと欲するは、性惡に因るなり。如今人の性は、本來礼義なし。だから努力学習して而してそれを擁有せんと求む。性は礼義を知らず。だから思慮して而してそれを知らんと求む。然れば則ちただ性のみは、則ち人は礼義なく、礼義を知らず。人は礼義なければ乱り、礼義を知らざれば悖る。然れば則ちただ性のみは、則ち悖乱は己に在り。これより觀れば、人の性惡は明白なり。あの善は僞なり。

孟子曰:"人之性善。"

孟子曰く、「人の性は善なり」と。

曰:是不然。凡古今天下之所謂善者,正理平治也;所謂惡者,偏險悖亂也:是善惡之分也矣。今誠以人之性固正理平治邪,則有惡用聖王,惡用禮義哉?雖有聖王禮義,將曷加於正理平治也哉?今不然,人之性惡。故古者聖人以人之性惡,以為偏險而不正,悖亂而不治,故為之立君上之埶以臨之,明禮義以化之,起法正以治之,重刑罰以禁之,使天下皆出於治,合於善也。是聖王之治而禮義之化也。今當試去君上之埶,無禮義之化,去法正之治,無刑罰之禁,倚而觀天下民人之相與也。若是,則夫強者害弱而奪之,眾者暴寡而譁之,天下悖亂而相亡,不待頃矣。用此觀之,然則人之性惡明矣,其善者偽也。

曰く、これはこれにあらず。およそ古今天下の所謂善は、正理平治なり。所謂惡は、偏邪險悖乱なり。これは善惡の分別なり。如今真に以て人の性は本來即ち正理平治ならんか。然れば則ち何ぞ必ずしも聖王を用いん、何ぞ必ずしも礼義を用いん。たとえ聖王礼義有るとも、將に何を正理平治の上に添加せん。如今はこれにあらず、人の性惡なり。だから古時聖人は人の性惡に因って、以て偏邪險して正ならず、悖乱して治まらずと為して、だから彼らのために君上の勢を設立して以て臨照し、礼義を彰明にして以て教化し、法正を興起して以て治理し、刑罰を加重して以て禁止して、天下をして皆治より出でて、善に合せしむ。これは聖王の治にして礼義の教化なり。如今試みに君上の勢を去掉し、礼義の教化なく、法正の治理を去掉し、刑罰の禁止なくして、倚りて天下の民人の相處を觀看せん。このごとくなれば、則ちあの強のは弱を侵害して奪取し、人多のは人少を暴虐して喧譁して、天下は悖乱して互相いに滅亡して、片刻を待たず。これより觀れば、然れば則ち人の性惡は明白なり。あの善は僞なり。

故善言古者,必有節於今;善言天者,必有徵於人。凡論者貴其有辨合,有符驗。故坐而言之,起而可設,張而可施行。今孟子曰:"人之性善。"無辨合符驗,坐而言之,起而不可設,張而不可施行,豈不過甚矣哉!故性善則去聖王,息禮義矣。性惡則與聖王,貴禮義矣。故檃栝之生,為枸木也;繩墨之起,為不直也;立君上,明禮義,為性惡也。用此觀之,然則人之性惡明矣,其善者偽也。

だから古を説くに善きは、必ず今に驗證有り。天を説くに善きは、必ず人に征驗有り。およそ議論はそれに合符の辨別有り、符節の驗證有るを看重す。だから坐して説きて、起ちて以て設置すべく、張開して以て施行すべし。如今孟子曰く、「人の性は善なり」と。合符の辨別と驗證なく、坐して説きて、起ちて以て設置すべからず、張開して以て施行すべからず。豈に錯の過分甚だしきにあらざらんや。だから性善なれば則ち聖王を去掉し、礼義を止息せり。性惡なれば則ち聖王を許贊し、礼義を看重せり。だから矯正器の產生は、彎曲の木のためなり。繩墨の興起は、不直のためなり。君上を設立し、礼義を彰明にするは、性惡に因るなり。これより觀れば、然れば則ち人の性惡は明白なり。あの善は僞なり。

直木不待檃栝而直者,其性直也。枸木必將待檃栝烝矯然後直者,以其性不直也。今人之性惡,必將待聖王之治,禮義之化,然後始出於治,合於善也。用此觀之,人之性惡明矣,其善者偽也。

直の木は矯正器を待たずして直なるは、その性は直なり。彎曲の木は必ず矯正器・蒸烤矯揉を待ちて然る後に直なるは、その性は直ならざるに因るなり。如今人の性惡は、必ず聖王の治理、礼義の教化を待ちて、然る後に治より出でて、善に合す。これより觀れば、人の性惡は明白なり。あの善は僞なり。

問者曰:"禮義積偽者,是人之性,故聖人能生之也。"

問う者は曰く、「礼義と積累の人為は、人の性なり。だから聖人は能くそれを生出す」と。

應之曰:是不然。夫陶人埏埴而生瓦,然則瓦埴豈陶人之性也哉?工人斲木而生器,然則器木豈工人之性也哉?夫聖人之於禮義也,闢則陶埏而生之也。然則禮義積偽者,豈人之本性也哉!凡人之性者,堯舜之與桀蹠,其性一也;君子之與小人,其性一也。今將以禮義積偽為人之性邪?然則有曷貴堯禹,曷貴君子矣哉!凡貴堯禹君子者,能化性,能起偽,偽起而生禮義。然則聖人之於禮義積偽也,亦猶陶埏而為之也。用此觀之,然則禮義積偽者,豈人之性也哉!所賤於桀蹠小人者,從其性,順其情,安恣孳,以出乎貪利爭奪。故人之性惡明矣,其善者偽也。天非私曾騫孝己而外眾人也,然而曾騫孝己獨厚於孝之實,而全於孝之名者,何也?以綦於禮義故也。天非私齊魯之民而外秦人也,然而於父子之義,夫婦之別,不如齊魯之孝具敬文者,何也?以秦人從情性,安恣孳,慢於禮義故也,豈其性異矣哉!

彼に回答して曰く、これはこれにあらず。陶人は粘土を揉ねて而して瓦を生出すれば、則ち瓦と粘土は豈に陶人の性ならんや。工人は木頭を砍きて而して器を生出すれば、則ち器と木頭は豈に工人の性ならんや。聖人は礼義に於いては、比方すれば則ち陶人の粘土を揉ねて而してそれを生出するがごとし。然れば則ち礼義積累の人為は、豈に人の本性ならんや。およそ人の性は、尭舜と桀跖とは、その性は一樣なり。君子と小人とは、その性は一樣なり。如今將に礼義積累の人為を以て人の性と為さんとするか。然れば則ちまた何ぞ必ずしも尭禹を看重し、何ぞ必ずしも君子を看重せんや。およそ尭禹君子を看重するは、能く性を變化し、能く人為を興起し、人為興起して而して礼義を生出するに因るなり。然れば則ち聖人は礼義積累の人為に於いても、また陶人の粘土を揉ねて而してそれを為すがごとし。これより觀れば、然れば則ち礼義積累の人為は、豈に人の性ならんや。だから桀跖小人を賤視するは、彼らの性を放縱し、彼らの情に順い、恣肆に安んじて、以て貪利争奪より出づるに因るなり。だから人の性惡は明白なり。あの善は僞なり。天は並びに曾參・閔子騫・孝己を偏私して衆人を疎遠するにあらざれど、然りて曾參・閔子騫・孝己は独り孝の實際に豊厚にして、而して孝の名声に保全せり。何ぞや。礼義に極力するの故なり。天は並びに齊魯の民を偏私して秦人を疎遠するにあらざれど、然りて父子の義・夫婦の分別に於いては、齊魯のごとき孝道具備して恭敬に文あるに如かず。何ぞや。秦人は情性を放縱して、恣肆に安んじて、礼義に怠慢するの故なり。豈に彼らの性は同じからざらんや。

"塗之人可以為禹。"曷謂也?

「路上の人は以て禹を為すべし」。この句話はどう講ずる。

曰:凡禹之所以為禹者,以其為仁義法正也。然則仁義法正有可知可能之理。然而塗之人也,皆有可以知仁義法正之質,皆有可以能仁義法正之具,然則其可以為禹明矣。今以仁義法正為固無可知可能之理邪?然則唯禹不知仁義法正,不能仁義法正也。將使塗之人固無可以知仁義法正之質,而固無可以能仁義法正之具邪?然則塗之人也,且內不可以知父子之義,外不可以知君臣之正。今不然。塗之人者,皆內可以知父子之義,外可以知君臣之正,然則其可以知之質,可以能之具,其在塗之人明矣。今使塗之人者,以其可以知之質,可以能之具,本夫仁義法正之可知可能之理,可能之具,然則其可以為禹明矣。今使塗之人伏術為學,專心一志,思索孰察,加日縣久,積善而不息,則通於神明,參於天地矣。故聖人者,人之所積而致矣。

曰く、およそ禹の禹と成る所以は、彼が仁義法正を實行するに因るなり。然れば則ち仁義法正は以て知るべく以て為るべきの理有り。然りて路上の人は、皆以て仁義法正を知るべきの資質有りて、皆以て仁義法正を為るべきの器具有れば、則ち彼は以て禹を為すべきは明白なり。如今以て仁義法正は本來以て知るべく以て為るべきの理なしと為さんか。然れば則ち禹なりとも仁義法正を知らずして、能く仁義法正を實行せざらん。將に路上の人をして本來以て仁義法正を知るべきの資質なく、而して本來以て仁義法正を為るべきの器具なからしめんか。然れば則ち路上の人は、内は將に以て父子の義を知るべからず、外は將に以て君臣の正を知るべからず。如今はこれにあらず。路上の人は、皆内は以て父子の義を知るべく、外は以て君臣の正を知るべし。然れば則ちあの以て知るべきの資質、以て為るべきの器具は、路上の人の身の上に明白なり。如今路上の人をして方術を伏習して学習せしめて、心を専一して志を一にし、思索して精察して、日は一日を復して積得長久にして、善を積累して停息せざれば、則ち神明に通達して、天地と相參す。だから聖人は、人の積累して到達する所なり。

曰:"聖可積而致,然而皆不可積,何也?"

曰く、「聖人は以て積累して到達すべくも、然りて人們は皆能く積累せず。何ぞや」と。

曰:可以而不可使也。故小人可以為君子,而不肯為君子;君子可以為小人,而不肯為小人。小人君子者,未嘗不可以相為也,然而不相為者,可以而不可使也。故塗之人可以為禹,則然;塗之人能為禹,則未必然也。雖不能為禹,無害可以為禹。足可以遍行天下,然而未嘗有遍行天下者也。夫工匠農賈,未嘗不可以相為事也,然而未嘗能相為事也。用此觀之,然則可以為,未必能也;雖不能,無害可以為。然則能不能之與可不可,其不同遠矣,其不可以相為明矣。

曰く、可なり。而して以て強迫して為らしむべからず。だから小人は以て君子を為すべくも、而して君子を為るを肯んぜず。君子は以て小人を為すべくも、而して小人を為るを肯んぜず。小人君子は、未だ嘗て以て互相いに為るべからざるなく、然りて互相いに為らざるは、可にして而して以て強迫して為らしむべからざるなり。だから路上の人は以て禹を為すべきは、これのごとし。路上の人は能く禹を為成せば、則ち必ずしもこのごとくならず。たとえ能く禹を為成せずとも、以て禹を為すべきを妨害せず。脚は以て天下を走遍すべくも、然りて未だ嘗て天下を走遍する人有らず。工匠農商は、未だ嘗て以て互相いに事を為るべからざるなく、然りて未だ嘗て能く互相いに事を為らず。これより觀れば、然れば則ち以て為すべきは、未必能く為成せず。たとえ能く為成せずとも、以て為すべきを妨害せず。然れば則ち能と不能と、可と不可とは、彼らの同じからざるは遠し。彼らは以て互相いに替代すべからざるは明白なり。

堯問於舜曰:"人情何如?"舜對曰:"人情甚不美,又何問焉!妻子具而孝衰於親,嗜慾得而信衰於友,爵祿盈而忠衰於君。人之情乎!人之情乎!甚不美,又何問焉!唯賢者為不然。"

尭は舜に問うて曰く、「人情は如何ぞや」と。舜は回答して曰く、「人情は甚だ美ならず。またそれを問うて何を為さん。妻子は具備せば、則ち雙親に對する孝は衰減す。嗜欲は得れば、則ち朋友に對する信は衰減す。爵禄は滿れば、則ち君に對する忠は衰減す。人の情や。人の情や。甚だ美ならず。またそれを問うて何を為さん。ただ賢者のみはこれにあらず」と。

有聖人之知者,有士君子之知者,有小人之知者,有役夫之知者。多言則文而類,終日議其所以,言之千舉萬變,其統類一也:是聖人之知也。少言則徑而省,論而法,若佚之以繩:是士君子之知也。其言也諂,其行也悖,其舉事多悔:是小人之知也。齊給便敏而無類,雜能旁魄而無用,析速粹孰而不急,不恤是非,不論曲直,以期勝人為意,是役夫之知也。

聖人の智有り、士君子の智有り、小人の智有り、役夫の智有り。話は多くして而して文有りて倫類有りて、終日にあのこのごとくなるの故を議論して、説きて千擧万變すとも、あの統類は一貫なり。これは聖人の智なり。話は少なくして則ち直接して簡省して、議論して而して法有りて、繩墨を以て牽引するがごとし。これは士君子の智なり。その言は諂媚して、その行は悖乱して、彼は事を為して後悔多し。これは小人の智なり。口齒敏捷して而して倫類なく、雜能は廣博して而して用なく、分析は迅速精熟して而して切急務にあらず、是非を顧みず、曲直を論ぜず、以て别人に勝るを期望するを以て心意と為す。これは役夫の智なり。

有上勇者,有中勇者,有下勇者。天下有中,敢直其身;先王有道,敢行其意;上不循於亂世之君,下不俗於亂世之民;仁之所在無貧窮,仁之所亡無富貴;天下知之,則欲與天下同苦樂之;天下不知之,則傀然獨立天地之間而不畏:是上勇也。禮恭而意儉,大齊信焉,而輕貨財;賢者敢推而尚之,不肖者敢援而廢之:是中勇也。輕身而重貨,恬禍而廣解苟免,不恤是非然不然之情,以期勝人為意:是下勇也。

上等の勇有り、中等の勇有り、下等の勇有り。天下に中正有れば、敢えてその身を挺直す。先王に道有れば、敢えてその意を實行す。上は亂世の君に因循せず、下は亂世の民に混同せず。仁の在る所は以て貧窮と為さず、仁の亡失する所は以て富貴と為さず。天下は彼を知れば、則ち天下と苦楽を同じくせんと欲す。天下は彼を知らざれば、則ち巋然として天地の間に獨立して畏懼せず。これは上等の勇なり。礼は恭敬して意は謙儉にして、大いに斉一誠信して、而して貨財を看輕す。賢者に對しては敢えて推擧して彼を上に在らしめ、不肖者に對しては敢えて牽引して彼を廢す。これは中等の勇なり。身を看輕して貨を看重し、禍に安んじて廣く解脱して苟且に免��求め、是非然否の實情を顧みず、以て别人に勝るを期望するを以て心意と為す。これは下等の勇なり。

繁弱、鉅黍古之良弓也;然而不得排檠則不能自正。桓公之蔥,太公之闕,文王之錄,莊君之曶,闔閭之干將、莫邪、鉅闕、闢閭,此皆古之良劍也;然而不加砥厲則不能利,不得人力則不能斷。驊騮、騹驥、纖離、綠耳,此皆古之良馬也;然而必前有銜轡之制,後有鞭策之威,加之以造父之駛,然後一日而致千里也。夫人雖有性質美而心辯知,必將求賢師而事之,擇良友而友之。得賢師而事之,則所聞者堯舜禹湯之道也;得良友而友之,則所見者忠信敬讓之行也。身日進於仁義而不自知也者,靡使然也。今與不善人處,則所聞者欺誣詐偽也,所見者汙漫淫邪貪利之行也,身且加於刑戮而不自知者,靡使然也。傳曰:"不知其子視其友,不知其君視其左右。"靡而已矣!靡而已矣!

繁弱・鉅黍は古時の良弓なり。然りて矯正器を得ざれば則ち自ら正する能わず。桓公の葱・太公の闕・文王の録・荘君の曶・闔閭の干將・莫邪・鉅闕・辟閭は、これら皆古時の良劍なり。然りて磨礪を加えざれば則ち能く利ならず、人力を得を得ざれば則ち能く斷たず。驊騮・騏驥・纖離・綠耳は、これら皆古時の良馬なり。然りて必ず前に銜轡の制約有りて、後に鞭策の威有りて、造父の駕馭を加えて、然る後に一日は千里に到達す。人はたとえ性質美好して而して心は辯知能あるとも、必ず將に賢師を求めて彼に事えて、良友を選擇して彼と交友す。賢師を得て彼に事えれば、則ち聽聞する所は尭舜禹湯の道なり。良友を得て彼と交友すれば、則ち看見する所は忠信敬讓の行為なり。自身は日々に仁義に進入して而して自ら知らずは、漸染は彼をこのごとくせしむるなり。如今不善の人と相處すれば、則ち聽聞する所は欺誣詐僞にして、看見する所は污漫淫邪貪利の行為にして、自身は將に刑戮を加上せられて而して自ら知らずは、漸染は彼をこのごとくせしむるなり。傳記に言う。「子を知らざればその友を看よ、君を知らざればその左右を看よ」と。ただ漸染のみ。ただ漸染のみ。

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