Libo

白虎通义 · 第6巻

东汉 · 班固 · 第6巻 / 9

三微者,何謂也?陽氣始施,黃泉,萬物動微而未著也。十一月之時,陽氣始養根株,黃泉之下,萬物皆赤。赤者,盛陽之氣也,故周為天正,色尚赤也。十二月之時,萬物始牙而白。白者陰氣,故殷為地正,色尚白也。十三月之時,萬物始達,孚由而出,皆黑,人得加功,故夏為人正,色尚黑。《尚書大傳》曰:“夏以孟春月為正,殷以季冬月為正,周以仲冬月為正。夏以十三月為正,色尚黑,以平旦為朔。殷以十二月為正,色尚白,以雞鳴為朔。周以十一月為正,色尚赤,以夜半為朔。”不以二月後為正者,萬物不齊,莫適所統,故必以三微之月也。三正之相承,若順連環也。孔子承周之弊,行夏之陸,知繼十一月正者當用十三月也。

三微とは何の意か。陽気始めて施行し、黄泉に在り、万物は発動して微細にして未だ顕著ならず。十一月の時は、陽気始めて根株を養い、黄泉の下に在り、万物皆赤なり。赤は盛陽の気なり、故に周は天正にして、色は赤を崇尚す。十二月の時は、万物始めて萌芽して白なり。白は陰気なり、故に殷は地正にして、色は白を崇尚す。十三月の時は、万物始めて通達し、孚甲して出で、皆黒なり、人は能く加工す、故に夏は人正にして、色は黒を崇尚す。《尚書大伝》に「夏は孟春月を以て正と為し、殷は季冬月を以て正と為し、周は仲冬月を以て正と為す。夏は十三月を以て正と為し、色は黒を崇尚し、平旦を以て朔と為す。殷は十二月を以て正と為し、色は白を崇尚し、鶏鳴を以て朔と為す。周は十一月を以て正と為し、色は赤を崇尚し、夜半を以て朔と為す」とあります。二月以後を用いて正と為さざるは、万物斉からず、適従して統する所なければ、故に必ず三微の月を用う。三正は互相承接す、連環に順うがごとし。孔子は周の弊に承接し、夏の正を実行す、十一月の正に接続するは當に十三月を用うべきを知るなり。

天道左旋,改正者右行何也?改正者,非改天道也,但改日月耳。日月右行,故改正亦右行也。

天道は左旋す、正を改むるは却って右行するはなぜでしょうか。正を改むるは天道を改むるに非ず、ただ日月を改むるのみ。日月は右行す、故に正を改むるもまた右行す。

日尊於月,不言正日言正月何也?積日成月,物隨月而變,故據物為正也。

日は月より尊し、正日と言わずして正月と言うはなぜでしょうか。日を積みて月と成り、物は月に随いて変化す、故に物に依拠して以て正を為す。

天質地文,質者據質,文者據文,周反統天正何也?質文再而復,正朔三而改,三微、質文數不相配,故正不隨質文也。

天は質にして地は文なり、質は質に依拠し文は文に依拠す、周は反りて天正に統するはなぜでしょうか。質文は再にして復り、正朔は三にして改まり、三微と質文の数は相配せず、故に正は質文に隨従せず。

王者受命而起,或有所不改者何也?王者有改道之文,無改道之質。如君南面,臣北面,皮弁素積,聲味不可變,哀慼不可改,百王不易之道也。

王者が命を受けて興るに、或るは改めざる所有るはなぜでしょうか。王者に道を改むるの文あり、道を改むるの質なし。君の南面・臣の北面の如く、皮弁素積、声味は変ずべからず、哀戚は改むべからず、是れ百王の易えざるの道なり。

王者所以存二王之後何也?所以尊先王,通天下之三統也。明天下非一家之有,謹敬謙讓之至也。故封之百里,使得服其正色,用其禮樂,永事先祖。《論語》曰:“夏禮吾能言之,杞不足徵也;殷禮吾能言之,宋不足徵也。”《春秋傳》曰:“王者存二王之後,使服其正色,行其禮樂。”《詩》曰:“厥作將,常服黼旱。”言微子服殷之冠,助祭於周也。《周頌》曰:“有客有客,亦白其馬。”此微子朝周也。二王之後若有聖德受命而王,當因其改之耶?天下之所安得受命耶,非其運次者。

王者が二王の後を存する所以はなぜでしょうか。先王を尊び天下の三統を貫通せんがためなり。天下は一家の有に非ざるを表明し、是れ謹敬謙譲の極まるなり。故に彼らを百里に封じ、彼らをして能く其の正色を服し、其の礼楽を用い、永く先祖に事奉せしむ。《論語》に「夏礼は吾能く之を言う、杞は徴するに足らず。殷礼は吾能く之を言う、宋は徴するに足らず」とあり、《春秋伝》に「王者は二王の後を存し、彼らをして其の正色を服し其の礼楽を行わしむ」とあり、《詩経》に「厥、祼将を作し、常に黼冔を服す」とあるは、微子が殷の冠を着て周に於て助祭することを言うなり。《周頌》に「客あり客あり、亦た其の馬白し」とあるは、是れ微子が周に朝するなり。二王の後若し聖徳ありて命を受けて王と称せば、當に因りて之を改むべきか。天下の安んずる所は能く命を受くべきか。其の運次に非ず。

王者,必一質一文何?以承天地,順陰陽。陽之道極則陰道受,陰之道極則陽道受,明二陰二陽不能相繼也。質法天、文法地而已,故天為質,地受而化之,養而成之,故為文。《尚書大傳》曰:“王者一質一文,據天地之道。”《禮三正記》曰:“質法天,文法地也。”帝王始起,先質後文者,順天下之道、本末之義、先後之序也。事莫不先有質性,乃後有文章也。

王者は必ず一質一文なるはなぜでしょうか。以て天地を承け、陰陽に順うなり。陽の道極まれば則ち陰道之を受け、陰の道極まれば則ち陽道之を受く、二陰二陽は相継ぐこと能わざるを表明す。質は天に取法し文は地に取法するのみ、故に天は質と為し、地は受けて之を化し、養い而して之を成就す、故に文と為す。《尚書大伝》に「王者は一質一文、天地の道に依拠す」とあり、《礼三正記》に「質は天に取法し、文は地に取法す」とあります。帝王剛く興るに、先に質して後に文するは、天下の道・本末の義・先後の序に順うなり。事は先に質性ありて然る後に文章あるならざるなし。

○三教

○三教

王者設三教何?承衰救弊,欲民反正道也。三王之有失,故立三教,以相指受。夏人之王教以忠,其失野,救野之失莫如敬。殷人之王教以敬,其失鬼,救鬼之失莫如文。周人之王教以文,其失薄,救薄之失莫如忠。繼周尚黑,制與夏同。三者如順連環,周而復始,窮則反本。

王者が三教を設立するはなぜでしょうか。衰敗を承接し弊病を挽救し、民をして正道に帰らしめんと欲するなり。三王各々缺失あり、故に三教を設立し、以て互相指し示し授受す。夏人の王は忠を以て教え、缺失は野なり、野の缺失を救うに敬より善きはなし。殷人の王は敬を以て教え、缺失は鬼なり、鬼の缺失を救うに文より善きはなし。周人の王は文を以て教え、缺失は薄なり、薄の缺失を救うに忠より善きはなし。周に継ぐは黒を崇尚し、制度は夏と同じ。三者は連環に順うが如く、周して復た始め、窮すれば則ち本に帰る。

《樂稽耀嘉》曰:“顏回向三教變,虞夏何如?”曰:教者,所以追補敗政,靡弊溷濁,謂之治也。舜之承堯,無為易也。”或曰:三教改易,夏后氏始。高宗亦承弊,所以不改教何?明子無改父之道也。何以知高宗不改之?以周之教承以文也。三教所以先忠者,行之本也。三教一體而分,不可單行,故王者行之有先後。何以言三教並施、不可單行也?以忠、敬、文無可去者也。

《楽稽耀嘉》に「顔回、三教の変を問う、虞夏は如何」とあり、曰く、教は、以て敗政を追補し靡弊溷濁するを、治と謂う。舜は尭に承接し、改易すべきの作為なし。或る人曰く、三教の改易は、夏后氏より始まる。高宗もまた弊に承接せり、故に教を改めざるはなぜでしょうか。子は父の道を改めざるを表明す。何を以て高宗の改めざるを知るや。周の教が承接して文を用うるを以てなり。三教が忠を先とする所以は、行の本なればなり。三教は一体にして分かる、独り施行すべからず、故に王者の実行に先後あり。何を以て三教并施にして独り施行すべからざると言うや。忠・敬・文は去るべきなければなり。

教所以三何?法天、地、人,內忠外敬,文飾之,故三而備也。即法天、地、人,各何施?忠法人,敬法地,文法天。人道主忠,人以至道教人,忠之至也;人以忠教,故忠為人教也。地道謙卑,天之所生,地敬養之,以敬為地教也。

教が三種なる所以はなぜでしょうか。天・地・人に取法し、内に忠し外に敬し、再用して文を以て修飾す、故に三にして完備す。すでに天・地・人に取法すれば、各々何処に用いるか。忠は人に取法し、敬は地に取法し、文は天に取法す。人道は忠を主管す、人は至道を以て人を教う、是れ忠の極まるなり。人は忠を以て教う、故に忠は人教なり。地道は謙卑なり、天の生ずる所を、地は敬して之を養う、故に敬を以て地教と為す。

教者,何謂也?教者,效也。上為之,下效之,民有質樸,不教而成。故《孝經》曰:“先王見教之可以化民。”《論語》曰:“不教民戰,是謂棄之。”《尚書》曰:“以教祗德。”《詩》云:“爾之教矣,欲民斯效。”

教とは何の意か。教は效なり。上之を為し、下之を效法す。民に質朴あり、教えずとも能く成就す。故に《孝経》に「先王、教の以て民を化すべきを見る」とあり、《論語》に「民を教えずして戦わしむるは、是れ之を棄つと謂う」とあり、《尚書》に「教を以て徳を祗れ」とあり、《詩経》に「爾之を教えん、民の斯に效わんことを欲す」とあります。

忠形於悃誠,故失野;敬形於祭祀,故失鬼;文形於飾兒,故失薄。

忠は悃誠に表わる、故に缺失は野なり。敬は祭祀に表わる、故に缺失は鬼なり。文は容儀を修飾するに表わる、故に缺失は薄なり。

夏后氏用明器,殷人用祭器,周人兼用之何?謂曰:夏后氏教以忠,故先明器,以奪孝子之心也。殷教以敬,故先祭器,敬之至也。周人教以文,故兼用之,周人意至文也。孔子曰:“之死而致死之,不仁而不可為也;之死而致生之,不知而不可為也。”故有死道焉,以奪孝子之心也;有生道焉,使人勿倍也。故竹器不成用,木器不成斫,瓦器不成沫,琴瑟張而不平,竽笙備而不和,有鐘磬而無иね縣,示備物而不可用也。孔子曰:“為明器者善,為俑者不仁。塗車羞靈,自古有之。言今古皆然也。”

夏后氏は明器を用い、殷人は祭器を用い、周人は兼ねて用うるはなぜでしょうか。曰く、夏后氏は忠を以て教う、故に先に明器を用い、以て孝子の心を奪去す。殷は敬を以て教う、故に先に祭器を用う、是れ敬の極まるなり。周人は文を以て教う、故に兼ねて用う、周人の意は文に至るなり。孔子曰く「之に死して之を死に致すは、不仁にして為すべからず。之に死して之を生に致すは、不知にして為すべからず」と。故に死道あり、以て孝子の心を奪去す。生道あり、人をして背叛せしめざらしむ。故に竹器は成すれども用うべからず、木器は成すれども砍削を加えず、瓦器は成すれども光潔に打磨せず、琴瑟は弦を張るれども平ならず、竽笙は具備すれども和せず、鐘磬ありて簨虡を以て懸挂するなし、物を備えて用うべからざるを表す。孔子曰く「明器を作るは善なり、俑を作るは不仁なり。塗車芻靈は、古自ら之あり。是れ今古皆此の如しを言う」と。

○三綱六紀

○三綱六紀

三綱者何謂也?謂君臣、父子、夫婦也。六紀者,謂諸父、兄弟、族人、諸舅、師長、朋友也。故君為臣綱,夫為妻綱。又曰:“敬諸父兄,六紀道行,諸舅有義,族人有序,昆弟有親,師長有尊,朋友有舊。”何謂綱紀?綱者,張也;紀者,理也。大者為綱,小者為紀,所以張理上下,整齊人道也。人皆懷五常之性,有親愛之心,是以綱紀為化,若羅綱之有紀綱而萬目張也。《詩》云:“我王,綱紀四方。”

三綱とは何か。是れ君臣・父子・夫婦を言うなり。六紀は諸父・兄弟・族人・諸舅・師長・朋友を言うなり。故に君は臣の綱と為り、夫は妻の綱と為る。また曰く「諸父兄を敬し、六紀の道施行すれば、諸舅に義あり、族人に序あり、昆弟に親あり、師長に尊あり、朋友に旧あり」と。綱紀とは何か。綱は張なり、紀は理なり。大なるを綱と為し小なるを紀と為し、以て上下を張理し、人道を斉整す。人は皆五常の性を懐き、親愛の心あり、これに因りて綱紀を以て教化す、羅網に紀綱ありて万目張るがごとし。《詩経》に「「(底本の此字は生僻字)」「(底本の此字は生僻字)」我が王、四方を綱紀す」とあります。

君臣,父子,夫婦,六人也,所以稱三綱何?一陰一陽謂之道。陽得陰而成,陰得陽而序,剛柔相配,故六人為三綱。

君臣・父子・夫婦は六人なり、三綱と称する所以はなぜでしょうか。一陰一陽を道と謂う。陽は陰を得て成就し、陰は陽を得て有序あり、剛柔相配す、故に六人は三綱と為る。

三綱法天、地、人,六紀法六合。君臣法天,取象日月屈信歸功天也。父子法地,取象五行轉相生也。夫婦法人,取象人合陰陽有施化端也。六紀者為三綱之紀者也。師長君臣之紀也,以其皆成己也;諸父兄弟父子之紀也,以其有親恩連也;諸舅朋友夫婦之紀也,以其皆有同志為紀助也。

三綱は天・地・人に取法し、六紀は六合に取法す。君臣は天に取法し、日月の屈伸に取象し功を天に帰す。父子は地に取法し、五行の輾転相生に取象す。夫婦は人に取法し、人の陰陽を会合し施化の端倪有るに取象す。六紀は三綱の紀なり。師長は君臣の紀なり、皆己を成就すればなり。諸父兄弟は父子の紀なり、親恩相連有ればなり。諸舅朋友は夫婦の紀なり、皆同志を以て紀の輔助を為すればなり。

君臣者,何謂也?君,群也,下之所歸心;臣者,糹堅也,屬志自堅固。《春秋傳》曰:“君處此,臣請歸也。”

君臣とは何の意か。君は群なり、下の帰心する所なり。臣は「(底本の此字は生僻字)」堅なり、志を属して自ら堅固なり。《春秋伝》に「君ここに処れ、臣は請う帰らん」とあります。

父子者,何謂也?父者,矩也,以法度教子;子者,孳孳無已也。故《孝經》曰:“父有爭子,則身不陷於不義。”夫婦者,何謂也?夫者,扶也,以道扶接也;婦者,服也,以禮屈服。《昏禮》曰:“夫親脫婦之纓。”《傳》曰:“夫婦判合也。”朋友者,何謂也?朋者,黨也;友者,有也。《禮記》曰:“同門曰朋,同志曰友。”朋友之交,近則謗其言,遠則不相訕。一人有善,其心好之;一人有惡,其心痛之。貨則通而不計,共憂患而相救。生不屬,死不託。故《論語》曰:“子路云:‘願車馬衣輕裘,與朋友共敝之。’”又曰:“朋友無所歸,生於我乎,死於我乎殯。”朋友之道,親存不得行者二:不得許友以其身,不得專通財之恩。友飢則白之於父兄,父兄許之,乃稱父兄與之,不聽則止。故曰:友飢為之減餐,大寒為之不重裘。故《論語》曰:“有父兄在,如之何其聞斯行之也!”

父子とは何の意か。父は矩なり、法度を以て子を教う。子は孳孳已まざるなり。故に《孝経》に「父に争子あれば、則ち身は不義に陥らず」とあります。夫婦とは何の意か。夫は扶なり、道を以て扶接す。婦は服なり、礼に按じて屈服す。《昏礼》に「夫、親ら婦の纓を解く」とあり、《伝》に「夫婦は判合なり」とあります。朋友とは何の意か。朋は党なり、友は有なり。《礼記》に「門を同じくするを朋と曰い、志を同じくするを友と曰う」とあります。朋友の交は、近ければ則ち其の言語の過を指出し、遠ければ則ち相訕謗せず。一人善あれば、心に喜好し、一人悪あれば、心に痛惜す。財貨は則ち流通して計較せず、憂患を共にして相救う。生きるるは囑託せず、死するは寄托せず。故に《論語》に「子路曰く『願わくば車馬衣軽裘、朋友と共に之を敝わん』」とあり、また曰く「朋友、帰する所なければ、生きるは我に由り、死するは我に由りて殯せよ」と。朋友の道は、双親なお在れば為すべからざる二件あり。自身を以て朋友に許すべからず、財を通ずるの恩を専行すべからず。朋友飢餓すれば則ち父兄に告げ、父兄許可せば、乃ち父兄を称して以て彼に与え、聴かざれば則ち止む。故に曰く、朋友飢餓すれば則ち此のために餐食を減少し、大寒なれば則ち此のために裘を二重に著せず。故に《論語》に「父兄在り、之を聞きて斯に之を行わんや如何」とあります。

男稱兄弟,女稱姊妹何?男女異姓,故別其稱也。何以言之?《禮親屬記》曰:“男子先生稱兄,後生稱弟;女子先生為姊,後生為妹。”父之昆弟不俱謂之世叔,父之女昆弟俱謂之姑,何也?以為諸父曰內,親也,故別稱之也;姑當外適人,疏,故總言之也。至姊妹亦當外適人,所以別諸姊妹何?以為事諸姑禮等,可以外出又同,故稱略也;至姊妹雖欲有略之,姊尊妹卑,其禮異也。《詩》云:“問我諸姑,遂及伯姊。”謂之舅姑者何?舅者,舊也;姑者,故也。舊、故之者,老人之稱也。謂之姊妹何?姊者,諮也;妹者,末也。謂之兄弟何?兄者,況也;況父法也;弟者,悌也,心順行篤也。稱夫之父母謂之舅姑何?尊如父而非父者,舅也;親如母而非母者,姑也。故稱夫之父母為舅姑也。

男は兄弟と称し女は姉妹と称するはなぜでしょうか。男女は姓を異にする、故に称呼を分別す。何を以て此の如く言うや。《礼親属記》に「男子の先生を兄と称し、後生を弟と称す。女子の先生を姉と為し、後生を妹と為す」とあります。父の昆弟は皆世叔と曰わず、父の女昆弟は皆姑と曰うはなぜでしょうか。諸父は内を言い是れ親なりと考え、故に称呼を分別す。姑は當に外嫁すべく、疏なり、故に総じて言う。姊妹に至りてもまた當に外嫁すべし、諸姊妹を分別する所以はなぜでしょうか。諸姑に事奉する礼は相等しく、外出すること能くまた同じと考え、故に称呼は簡略す。姊妹に至りては簡略せんと欲するといえども、姉は尊く妹は卑し、礼同じからず。《詩経》に「我が諸姑に問い、遂に伯姉に及ぶ」とあります。舅姑と曰うはなぜでしょうか。舅は旧なり、姑は故なり。旧・故は、老人の称なり。姉妹と曰うはなぜでしょうか。姉は咨なり、妹は末なり。兄弟と曰うはなぜでしょうか。兄は況なり、父の法を比況す。弟は悌なり、心順にして行篤し。夫の父母を称して舅姑と曰うはなぜでしょうか。父の如く尊しと雖も父に非ざるは舅なり、母の如く親しと雖も母に非ざるは姑なり。故に夫の父母を称して舅姑と為す。

●卷八

●巻八

○性情

○性情

性情者,何謂也?性者,陽之施;情者,陰之化也。人稟陰陽氣而生,故內懷五性六情。情者,靜也,性者,生也,此人所稟六氣以生者也。故《鉤命決》曰:“情生於陰,欲以時念也;性生於陽,以就理也。陽氣者仁,陰氣者貪,故情有利慾,性有仁也。”

性情とは何の意か。性は陽の施予なり、情は陰の変化なり。人は陰陽の気を禀受して生ず、故に内に五性六情を懐く。情は静なり、性は生なり、是れ人の禀受する所の六气を以て生ずるなり。故に《鉤命決》に「情は陰に生じ、欲望は時に按じて思念す。性は陽に生じ、以て理に就く。陽気は仁なり、陰気は貪なり、故に情に利欲あり、性に仁あり」とあります。

五性者何?謂仁、義、禮、智、信也。仁者,不忍也,施生愛人也;義者,宜也,斷決得中也;禮者,履也,履道成文也;智者,知也,獨見前聞,不惑於事,見微者也;信者,誠也,專一不移也。故人生而應八卦之體,得五氣以為常,仁、義、禮、智、信是也。六情者,何謂也?喜、怒、哀、樂、愛、惡謂六情,所以扶成五性。性所以五,情所以六者何?人本含六律五行氣而生,故內有五藏六府,此情性之所由出入也。《樂動聲儀》曰:“官有六府,人有五藏。”

五性とは何か。是れ仁・義・礼・智・信を言うなり。仁は不忍なり、生を施し人を愛す。義は宜なり、断決して中を得。礼は履なり、道を履行して文を成す。智は知なり、独自に預見し預め聞き、事に惑わされず、微を見ること能くす。信は誠なり、専一にして移らず。故に人は生まれて八卦の体に応じ、五气を得て常と為す、仁・義・礼・智・信即ち是れ。六情とは何か。喜・怒・哀・楽・愛・悪を六情と曰う、以て五性を扶助して成就す。性が五なる所以・情が六なる所以はなぜでしょうか。人はもともと六律・五行の気を含みて生ず、故に内に五蔵六府あり、是れ情性の出入するの途なり。《楽動声儀》に「官に六府あり、人に五蔵あり」とあります。

五藏者何也?謂肝、心、肺、腎、脾也。肝之為言幹也;肺之為言費也,情動得序;心之為言任也,任於恩也;腎之為言寫也,以竅寫也;脾之為言辨也,所以積精稟氣也。五藏,肝仁,肺義,心禮,腎智,脾信也。

五蔵とは何か。是れ肝・心・肺・腎・脾を言うなり。肝の意は干なり。肺の意は費なり、情の発動して次序を得。心の意は任なり、恩に任ず。腎の意は瀉なり、竅を以て瀉す。脾の意は辨なり、以て精を積み気を禀す。五蔵:肝は仁、肺は義、心は礼、腎は智、脾は信なり。

肝所以仁者何?肝,木之精也;仁者,好生。東方者陽也,萬物始生,故肝象木,色青而有枝葉。目為之候何?目能出淚而不能內物,木亦能出枝葉不能有所內也。

肝が仁なる所以はなぜでしょうか。肝は木の精なり。仁は生を好む。東方は陽にして万物始めて生長す、故に肝は木に象り、色は青にして枝葉あり。目は其の候を為すはなぜでしょうか。目は能く涙を流出せども物を納入すること能わず、木もまた能く枝葉を長出せども納入する所有らず。

肺所以義者何?肺者,金之精;義者,斷決。西方亦金,成萬物也,故肺象金,色白也。鼻為之候何?鼻出入氣,高而有竅,山亦有金石累積,亦有孔穴,出雲布雨以潤天下,雨則雲消,鼻能出納氣也。

肺が義なる所以はなぜでしょうか。肺は金の精なり。義は断決なり。西方もまた金にして万物を成就す、故に肺は金に象り、色は白なり。鼻は其の候を為すはなぜでしょうか。鼻は気を出入し、高くして竅あり、山もまた金石累積し、また孔穴あり、雲を出し雨を布きて以て天下を潤し、雨止まれば則ち雲消ゆ、鼻は能く気を出納す。

心所以為禮何?心,火之精也。南方尊陽在上,卑陰在下,禮有尊卑,故心象火,色赤而銳也,人有道尊,天本在上,故心下銳也。耳為之候何?耳能遍內外、別音語,火照有似於禮,上下分明。

心が礼と為る所以はなぜでしょうか。心は火の精なり。南方は陽を尊びて上に在り、陰を卑しめて下に在り、礼に尊卑あり、故に心は火に象り、色は赤にして鋭し。人に道尊あり、天はもともと上に在り、故に心は下鋭なり。耳は其の候を為すはなぜでしょうか。耳は能く内外に遍くして音語を分別す、火の照るは礼に似たる有り、上下分明なり。

腎所以智何?腎者,水之精。智者,進而止無所疑惑。水亦進而不惑,北方水,故腎色黑;水陰,故腎雙。竅為之候何?竅能瀉水,亦能流濡。

腎が智なる所以はなぜでしょうか。腎は水の精なり。智は進み而して止まり疑惑なきなり。水もまた進みて惑わず。北方は水なり、故に腎の色は黒なり。水は陰なり、故に腎は双を成す。竅は其の候を為すはなぜでしょうか。竅は能く水を瀉し、また能く流濡す。

脾所以信何?脾者,土之精也。土尚任養萬物為之象,生物無所私,信之至也。故脾象土,色黃也。口為之候何?口能啖嘗,舌能知味,亦能出音聲,吐滋液。

脾が信なる所以はなぜでしょうか。脾は土の精なり。土は万物を任養するを崇尚して其の象と為す、物を生ずるに私なし、是れ信の極まるなり。故に脾は土に象り、色は黄なり。口は其の候を為すはなぜでしょうか。口は能く啖嘗し、舌は能く味を知り、また能く音声を発出し、滋液を吐出す。

故《元命苞》曰:“目者肝之使,肝者木之精,蒼龍之位也。鼻者肺之使,肺者金之精,制割立斷。耳者心之候,心者火之精,上為張星。陰者腎之寫,腎者水之精,上為虛危。口者脾之門戶,脾者土之精,上為北斗,主變化者也。”或曰:口者心之候,耳者腎之候。或曰:肝繫於目,肺繫於鼻,心繫於口,脾繫於舌,腎繫於耳。

故に《元命苞》に「目は肝の使なり、肝は木の精、蒼龍の位。鼻は肺の使なり、肺は金の精、割を制して断を立つ。耳は心の候なり、心は火の精、上は張星と為る。陰は腎の瀉なり、腎は水の精、上は虚危と為る。口は脾の門戸なり、脾は土の精、上は北斗と為り、変化を主管す」とあります。或る人曰く、口は心の候、耳は腎の候。或る人曰く、肝は目に繋り、肺は鼻に繋り、心は口に繋り、脾は舌に繋り、腎は耳に繋る。

六府者,何謂也?謂大腸、小腸、胃、膀胱、三焦、膽也。府者,謂五藏宮府也。故《禮運》記曰:“六情所以扶成五性也。”

六府とは何か。是れ大腸・小腸・胃・膀胱・三焦・胆を言うなり。府とは、五蔵の宮府を言うなり。故に《礼運》記に「六情は以て五性を扶助して成就す」とあります。

胃者,脾之府也,脾主稟氣;胃者,谷之委也,故脾稟氣也。

胃は脾の府なり。脾は気を禀ぐるを主管す。胃は穀の委積なり、故に脾は気を禀ぐ。

膀胱者,腎之府也。腎者,主瀉,膀胱常能有熱,故先決難也。

膀胱は腎の府なり。腎は瀉を主管し、膀胱は常に能く熱有り、故に先に難を決す。

三焦者,包絡府也。水谷之道路,氣之所終始也。故上焦若竅,中焦若編,下焦若瀆。

三焦は包絡の府なり。是れ水穀の道路、気の終始なり。故に上焦は竅の如く、中焦は編の如く、下焦は瀆の如し。

膽者,肝之府也。肝者,木之精也,主仁。仁者不忍,故以膽斷也,是以肝膽二者必有勇也。肝膽異趣,何以知相為府也?肝者,木之精也,木之為言牧也,人怒無不色青目腋張者,是其效也。

胆は肝の府なり。肝は木の精にして、仁を主管す。仁者は忍びず、故に胆を以て決断す、これに因りて肝胆の二者に必ず勇あり。肝胆の趨向同じからず、何を以て互いに府と為るを知るや。肝は木の精にして、木の意は牧なり、人が怒を発するに色青く目眦張開せざるなし、是れ効験なり。

小腸、大腸,心肺之府也,主禮義,禮義者有分理,腸之大小相承受也。腸為心肺主,心為皮體主,故為兩府也。目為心視,口為心談,耳為心聽,鼻為心嗅,是其支體主也。

小腸・大腸は心・肺の府にして、礼義を主管す。礼義に分理あり、腸の大小は相承受す。腸は心肺の主と為り、心は肢体の主と為る、故に是れ両府なり。目は心のために看、口は心のために談じ、耳は心のために聴き、鼻は心のために嗅ぐ、是れ肢体の主なり。

喜在西方,怒在東方,好在北方,惡在南方,哀在下,樂在上何?以西方萬物之成,故喜;東方萬物之生,故怒;北方陽氣始施,故好;南方陰氣始起,故惡;上多樂,下多哀也。

喜は西方に在り、怒は東方に在り、好は北方に在り、悪は南方に在り、哀は下に在り、楽は上に在るはなぜでしょうか。西方は万物成就すれば、故に喜。東方は万物生長すれば、故に怒。北方は陽気始めて施行すれば、故に好。南方は陰気始めて興れば、故に悪。上は多く楽しみ、下は多く哀るるを以てなり。

魂魄者,何謂也?魂猶亻雲亻雲也,行不休於外也。主於情。魄者,迫然著人主於性也。魂者,芸也,情以除穢;魄者,白也,性以治內。

魂魄とは何の意か。魂は云云に猶ほ、外に在りて行くこと止まず。情を主管す。魄は迫然として人に附着し、性を主管す。魂は芸なり、情は以て穢を除去す。魄は白なり、性は以て内を治理す。

精神者,何謂也?精者,靜也,太陰施化之氣也。象火之化,任生也,神者恍惚,太陰之氣也,間松雲支體,萬化之本也。

精神とは何の意か。精は静なり、是れ太陰の施化の気なり。火の化に象り、生育を担任す。神は恍惚にして、是れ太陽の気なり、雲気・肢体を間隔松散し、是れ万化の根本なり。

○壽命

○寿命

命者,何謂也?人之壽也,天命己使生者也。命有三科以記驗:有壽命以保度,有遭命以遇暴,有隨命以應行。習壽命者,上命也,若言文王受命唯中身,享國五十年。隨命者,隨行為命,若言怠棄三正,天用剿絕其命矣。又欲使民務仁立義,無滔天。滔天則司命舉過,言則用以弊之。遭命者逢世殘賊,若上逢亂君,下必災變暴至,夭絕人命,沙鹿崩於受邑是也。

命とは何の意か。是れ人の寿命にして、天命すでに彼をして生ぜしむるなり。命に三科ありて以て記験す。寿命ありて以て度を保し、遭命ありて以て暴虐に遭遇し、随命ありて以て行に応ず。寿命を習うは、是れ上命なり、文王が命を受けてただ中身に在りて国を享けること五十年の如しを言う。随命は、行に随いて命を成す、怠弃して三正なれば、天因りて其の命を剿絶するが如し。また民をして仁を務め義を立て、天に滔せざらしめんと欲す。天に滔せば則ち司命は過失を挙出し、言語は以て彼を弊敗せしむ。遭命は残賊の世に逢上するなり、上に乱君に逢えば、下に必ず災変暴至して人命を夭絶す、沙鹿が受邑に於て崩塌するがごとき是れ。

冉伯牛危言正行而遭惡疾,孔子曰:“命矣夫!斯人也而有斯疾也!夫子過鄭與弟子相失獨立郭門外,或謂子貢曰:東門有一人,其頭似堯,其頸似皋繇,其肩似子產,然自腰以下不及禹三寸,儡儡如喪家之狗,子貢以告孔子,孔子喟然而笑,曰:“形狀未也,如喪家之狗。然哉乎,然哉乎。””

冉伯牛は危言正行なれども悪疾に遭遇す、孔子曰く「命なりか。斯の人にして斯の疾あるや」と。夫子が鄭を経過し、弟子と走散し、独自に郭門の外に立つ。或る人子貢に対して曰く、東門に一人あり、頭は尭に似、頸は皐陶に似、肩は子産に似たり、然るに腰より以下は禹に及ばざること三寸、儡儡として喪家の狗の如しと。子貢、孔子に告ぐ。孔子喟然として笑いて曰く「形状は未だ尽くさず、喪家の狗に似たり。是の然るかな、是の然るかな」と。

○宗族

○宗族

宗者,何謂也?宗尊也,為先祖主也,宗人之所尊也。《禮》曰:“宗人將有事,族人皆侍。”聖者所以必有宗何也?所以長和睦也。大宗能率小宗;小宗能率群弟,通於有無,所以紀理族人者也。宗其為始祖後者為大宗,此百世之所宗也。宗其為高祖後者,五世而遷者也,高祖遷於上,宗則易於下。”宗其為曾祖後者為曾祖宗,宗其為祖後者為祖宗,宗其為父後者為父宗。以上至高祖皆為小宗,以其轉遷,別於大宗也。別子者,自為其子孫為祖,繼別也,各自為宗。小宗有四,大宗有一,凡有五。宗人之親,所以備矣。諸侯奪宗,明尊者宜之。大夫不得奪宗何?曰:諸侯世世傳子孫,故奪宗;大夫不傳子孫,故不宗也。《喪服經》曰:“大夫為宗子。”不言諸侯為宗子也。

宗とは何の意か。宗は尊なり、先祖の主を為し、是れ宗人の尊ぶ所なり。《礼》に「宗人將に事有らんとすれば、族人皆侍奉す」とあります。聖人に必ず宗ある所以はなぜでしょうか。以て和睦を長養す。大宗は能く小宗を率い、小宗は能く群弟を率い、有無相通用して、以て族人を紀理す。始祖の後を為すを宗するは大宗にして、是れ百世の宗とする所なり。高祖の後を為すを宗するは、五世にして遷り、高祖は上に遷り、宗は則ち下に於て改易す。曾祖の後を為すを宗するは曾祖宗なり、祖の後を為すを宗するは祖宗なり、父の後を為すを宗するは父宗なり。以上高祖に至るまで皆小宗なり、輾転遷徙し、大宗と別有るを以てなり。別子は、自ら其の子孫の祖と為り、別を継ぎ、各々宗と為る。小宗に四あり、大宗に一あり、共に五あり。宗人の親は、これに因りて完備す。諸侯は宗を奪うは、尊者の宜しきを表明す。大夫は宗を奪うこと能わざるはなぜでしょうか。曰く、諸侯は世世子孫に伝う、故に宗を奪う。大夫は子孫に伝えず、故に宗とせず。《喪服経》に「大夫は宗子と為る」とあり、諸侯は宗子と為ると言わず。

族者何也?族者,湊也,聚也,謂恩愛相流湊也。生相親愛,死相哀痛,有會聚之道,故謂之族。《尚書》曰:“以親九族。”

族とは何か。族は湊なり、聚なり、是れ恩愛の互相流湊するを言うなり。生きれば相亲愛し、死すれば相哀痛し、会聚の道有り、故に族と曰う。《尚書》に「以て九族を親しむ」とあります。

族所以九何?九之為言究也,親疏恩愛究竟也,謂父族四,母族三,妻族二。父族四者,謂父之姓一族也,父女昆弟適人有子為二族也,身女昆弟適人有子為三族也,身女子適人有子為四族也;母族三者,母之父母一族也,母之昆弟二族也,母昆弟子三族也;母昆弟者男女皆在外親,故合言之。妻族二者,妻之父為一族,妻之母為二族,妻之親略故父母各一族。《禮》曰:“惟氏三族之不虞。”《尚書》曰:“以親九族,義同也。”一說合言九族者,欲明堯時俱三也,禮所以獨父族四何?欲言周承二弊之後,民人皆厚於末,故興禮母族,妻之黨廢,禮母族父之族,足以貶妻族,以附父族也。或言九者,據有交接之恩也。若“邢侯之姊,覃公惟私”也。言四者,據有服耳,不相害所異也。

族が九なる所以はなぜでしょうか。九の意は究なり、親疏恩愛は究竟に至る、是れ父族四・母族三・妻族二を言うなり。父族四:父の姓は一族、父の女昆弟が人に嫁して子有るは二族、己の女昆弟が人に嫁して子有るは三族、己の女子が人に嫁して子有るは四族。母族三:母の父母は一族、母の昆弟は二族、母の昆弟の子は三族。母の昆弟男女は皆外親に在り、故に合せて言う。妻族二:妻の父は一族、妻の母は二族、妻の親は簡略なれば、故に父母各々一族と為す。《礼》に「惟れ氏三族の不虞」とあり、《尚書》に「以て九族を親しむ」とあり、義は相同じ。一説に、合せて九族と言うは、尭の時皆三なるを表明せんと欲するなり。礼が独り父族を四とする所以はなぜでしょうか。周が両種の弊の後に承接して、民人皆末に厚ければ、故に礼を興して母族とし、妻之党は廃し、母族・父之族を礼すれば、妻族を貶低するに足り、以て父族に依附せんと欲するなり。或るは九と曰うは、交接の恩有るに依拠す。「邢侯之姊、譚公惟れ私」の如し。或るは四と曰うは、服有るに依拠するのみ、相妨害する所の同じからざるなし。

○姓名

○姓名

人所以有姓者何?所以崇恩愛、厚親親、遠禽獸、別婚姻也。故世別類,使生相愛,死相哀,同姓不得相娶,皆為重人倫也。姓生也,人所稟天氣所以生者也。《詩》云:“天生民。”《尚書》曰:“平章百姓。”姓所以有百者何?以為古者聖人吹律定姓,以紀其族。人含五常而生,聲有五音,宮、商、角、徵、羽,轉而相雜,五五二十五,轉生四時,故百而異也。氣殊音悉備,故殊百也。

人に姓ある所以はなぜでしょうか。以て恩愛を崇尚し、親親を厚待し、禽獣を遠離し、婚姻を分別す。故に世々類別を分別し、生きれば相爱し死すれば相哀せしめ、同姓は相娶ることを得ず、皆人倫を重んずるなり。姓は生なり、人の禀受する所の天气の以て生ずるなり。《詩経》に「天、生「(底本の此字は生僻字)」民」とあり、《尚書》に「百姓を平章す」とあります。姓に百ある所以はなぜでしょうか。古は聖人が律を吹きて姓を定め、以て其の族を紀理したると考えるなり。人は五常を含みて生じ、声に五音あり、宮・商・角・徵・羽、輾転相雑り、五五二十五、転じて四時を生ず、故に百にして同じからず。気同じからず音皆具備す、故に殊異して百と為る。

所以有氏者何?所以貴功德,賤伎力。或氏其官,或氏其事。聞其氏即可知,其所以勉人為善也。或氏王父字何?所以別諸侯之後,為興滅國、繼絕世也。諸侯之子稱公子,公子之子稱公孫,公孫之子各以其王父字為氏。故魯有仲孫、季,楚有昭、屈原,齊有高國、崔立氏三,以知其為子孫也。王者之後二稱王子,兄弟立而皆封也。或曰王孫上稱王孫也。堯知命,表稷、契,賜生子、姓,皋陶典刑不表姓,言天任德遠刑。”禹姓姒氏,祖以億生。殷姓子氏,祖以玄鳥子也。周姓姬氏,祖以履大人跡生也。

氏ある所以はなぜでしょうか。以て功徳を貴び伎力を賤む。或るは官を以て氏と為し、或るは事を以て氏と為す。其の氏を聞けば即ち知るべし、以て人を勉励して善を為さしむ。或るは王父の字を以て氏と為すはなぜでしょうか。以て諸侯の後を分別し、滅国を興し絶世を継がんがためなり。諸侯の子は公子と称し、公子の子は公孫と称し、公孫の子は各々王父の字を以て氏と為す。故に魯に仲孫・季あり、楚に昭・屈原あり、斉に高・国・崔あり、氏を立てて三と為す、以て子孫なるを知る。王者の後に両種の王子と称する有り、兄弟立ちて皆封ず。或る人曰く、王孫は上は王孫と称す。尭は命を知り、稷・契を表彰し、姓を賜い、皐陶は刑法を主管して姓を表彰せず、是れ天が徳を任用し刑を遠離するを言うなり。禹の姓は姒氏、祖は薏に因りて生ず。殷の姓は子氏、祖は玄鳥の子に因る。周の姓は姫氏、祖は大人の足迹を踩みて以て生ず。

人必有名何?所以吐情自紀,尊事人者也。《論語》曰:“名不正,則言不順。”

人に必ず名あるはなぜでしょうか。以て情を吐露し、自ら紀理し、人を尊事す。《論語》に「名正しからざれば、則ち言順ならず」とあります。

三月名之何?天道一時,物有變,人生三月,目煦亦能笑,與人相更答,故因其始有知而名之。故《禮服傳》曰:“子生三月,則父名之於祖廟。”於祖廟者,謂子之親廟也,明當為宗廟主也。

三箇月にして彼に名を与うるはなぜでしょうか。天道一時令にして物に変化あり、人は三箇月生じ、目煖かにしてまた能く笑み、人と互いに応答す、故に其の始めて知あるに趁りて命名す。故に《礼服伝》に「子生れて三月なれば、則ち父祖廟に於て彼に名を与う」とあります。祖廟に於てするは、子の親廟を言い、當に宗廟の主を為すべきを表明す。

一說名之於燕寢。名者,幼小卑賤之稱也,寡略,故於燕寢。《禮?內則》曰:“子生,君沐浴朝服,夫人亦如之。立於阼階西南,世婦抱子,升自西階,君命之士。嫡子執其右手,庶子撫其首。君曰‘欽有帥’,夫人曰‘記有成’。告於四境。”四境者,所以遏絕萌芽,禁備未然。故《曾子問》曰:“世子生,三月以名,告於祖禰。”《內則》記曰:“以名告于山川、社稷、四境,天子太子使士負子於南郊。”

一説に燕寝に於て命名す。名は幼小卑賤の称呼にして、簡略なれば、故に燕寝に於てす。《礼・内則》に「子生まれ、君は沐浴して朝服し、夫人もまた此の如し。阼階の西南に立ち、世婦は子を抱き、西階より升り、君は士に命令す。嫡子は其の右手を執り、庶子は其の頭を撫す。君曰く『欽に帥有れ』、夫人曰く『記して成有れ』。四境に告ぐ」とあります。四境は、以て萌芽を遏絶し、未然を禁備す。故に《曾子問》に「世子生まれ、三箇月にして名を以て祖禰に告ぐ」とあり、《内則》記に「名を以て山川・社稷・四境に告ぐ、天子の太子は士をして子を背負わしめて南郊に至らしむ」とあります。

以桑弧蓬矢六射者何也?此男子之事也,故先表其事,然後食其祿。必桑弧何?桑者,相逢接之道也。《保傅》曰:“天子生,舉之以禮,使士負之者何,齊肅端綏,之郊見於天。”《韓詩內傳》曰:“太子生,以桑弧蓬矢六,射上下四方。”明當有事天地四方也。

桑弧・蓬矢六支を以て射るはなぜでしょうか。是れ男子の事なれば、故に先に其の事を表彰し、然る後に其の禄を食む。必ず桑弧を用うるはなぜでしょうか。桑は相逢接の道なり。《保傅》に「天子生まれ、礼に按じて挙げ、士をして背負わしむるはなぜか。斉粛端正にして綏帯し、郊に至りて天に見えんがためなり」とあり、《韓詩内伝》に「太子生まれ、桑弧・蓬矢六支を以て、上下四方を射る」とあるは、當に天地四方に事あるべきを表明す。

殷以生日名子何?殷家質,故直以生日名子也。以《尚書》道殷家太甲、帝武丁也。於臣民亦得以生日名子何?亦不止也,以《尚書》道殷臣有巫咸,有祖己也。何以知諸侯不象王者以生日名子也?以太王名甫、王季名歷,此殷之諸侯也。《易》曰“帝乙”,謂成湯。帝乙謂六代孫也。

殷は生日を以て子に起名するはなぜでしょうか。殷家は質朴なれば、故に直ちに生日を以て子に起名す。《尚書》が殷家の太甲・帝武丁を称道するを以てなり。臣民に対してもまた能く生日を以て子に起名するはなぜでしょうか。亦た禁止せず、《尚書》が殷臣に巫咸あり祖己ありと称道するを以てなり。何を以て諸侯は王者に取象して生日を以て子に起名せざるを知るや。太王の名は「(底本の此字は生僻字)」甫、王季の名は暦なれば、是れ殷の諸侯なり。《易》に「帝乙」と曰うは、成湯を言うなり。帝乙が言うは六代孫なり。

湯生於夏世,何以用甲乙為名?曰:湯王后乃更變名,子孫法耳。本名履,故《論語》曰:“予小子履。”履,湯名也。

湯は夏世に生まれ、何を以て甲乙を以て名と為すや。曰く、湯は王と称して後に始めて改名し、是れ子孫の法なりのみ。本名は履なり、故に《論語》に「予小子履」とあり、履は湯の名なり。

不以子丑何?曰:甲乙者,幹也;子丑者,枝也。幹為本,本質,故以甲乙為名也。

子丑を用いざるはなぜでしょうか。曰く、甲乙は干なり、子丑は枝なり。干は本にして本質なれば、故に甲乙を以て名と為す。

名或兼或單何?示非一也。或聽其聲,以律定其名;或依事、旁其形。故名或兼或單也。依其事者,若后稷是也。棄之,因名為棄也。旁其形者,孔子首類國尼丘山,故名為丘。

名に或るは兼、或るは単なるはなぜでしょうか。一種に非ざるを表す。或るは其の声を聴き、律を以て其の名を定め、或るは事に依り其の形に依傍す。故に名に或るは兼、或るは単なり。事に依るは、后稷の如し。彼を抛弃し、因りて名を弃と為す。形に依傍するは、孔子の頭は尼丘山に象る、故に名を丘と為す。

或旁其名為之字者,聞名即知其字,聞字即知其名,若名賜字,子貢名鯉,字伯魚。

或るは其の名に依傍して以て字を為す、名を聞けば即ち其の字を知り、字を聞けば即ち其の名を知る、名を賜し字を子貢とし、名を鯉とし字を伯魚とするがごとし。

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