说苑 · 第3巻
周頌曰:“豐年多黍多稌,亦有高廩,萬億及秭,為酒為醴,烝畀祖妣,以洽百禮,降福孔偕。”禮記曰:“上牲損則用下牲,下牲損則祭不備物。”以其舛之為不樂也。故聖人之於天下也,譬猶一堂之上也,今有滿堂飲酒者,有一人獨索然向隅而泣,則一堂之人皆不樂矣;聖人之於天下也,譬猶一堂之上也,有一人不得其所,則孝子不敢以其物薦進。
『周頌』に言う。「豊年に黍多く稌多く、また高大の倉あり、萬億秭に至り、酒を為し醴を為し、祖妣に進献し、百礼に配合し、福を降らすこと甚だ遍し。」『礼記』に言う。「上牲が損缺すれば下牲を用い、下牲が損缺すれば祭祀の物を具えず。」差錯によってそれを楽しませないのです。ゆえに聖人の天下に対するは、一堂の上にいるが如し。いま満堂に飲酒する人があり、一人が独り索然として隅に向かい泣けば、一堂の人はみな楽しまない。聖人の天下に対するは、一堂の上にいるが如く、一人その所を得なければ、孝子は敢えてその物を進献しないのです。
魏武侯浮西河而下,中流顧謂吳起曰:“美哉乎!河山之固也,此魏國之寶也。”吳起對曰:“在德不在險。昔三苗氏左洞庭,右彭蠡,德義不修,而禹滅之;夏桀之居,左河濟,右太華,伊闕在其南,羊腸在其北,修政不仁,湯放之;殷紂之國,左孟門而右太行,常山在其北,太河經其南,修政不德,武王伐之。由此觀之,在德不在險。若君不修德,船中之人盡敵國也。”武侯曰:“善!”
魏武侯が西河を浮かべて下り、中流に至り回顧して呉起に言った。「美しいなあ!河山の険固、これは魏国の宝だ。」呉起は答えた。「徳にあって険にあらず。昔、三苗氏は左に洞庭、右に彭蠡を有したが、徳義を修治せず、禹がこれを滅ぼした。夏桀の居処は左に河済、右に太華、伊闕が南にあり、羊腸が北にあったが、政を修め仁ならず、湯が彼を放逐した。殷紂の国は左に孟門、右に太行、常山が北にあり、大河が南を経たが、政を修め徳ならず、武王が彼を伐った。これを見れば、徳にあって険にあらず。もし君が徳を修めなければ、船の中の人はみな敵国です。」武侯は言った。「よい!」
武王克殷,召太公而問曰:“將奈其士眾何?”太公對曰:“臣聞愛其人者,兼屋上之烏;憎其人者,惡其餘胥;鹹劉厥敵,使靡有餘,何如?”王曰:“不可。”太公出,邵公入,王曰:“為之奈何?”邵公對曰:“有罪者殺之,無罪者活之,何如?”王曰:“不可。”邵公出,周公入,王曰:“為之奈何?”周公曰:“使各居其宅,田其田,無變舊新,唯仁是親,百姓有過,在予一人!”武王曰:“廣大乎,平天下矣。凡所以貴士君子者,以其仁而有德也!”
武王が殷を克ち、太公を召して問うた。「その士衆をどう扱おうか。」太公は答えた。「臣が聞くに、その人を愛すれば屋上の烏に及び、その人を憎めばその余胥に及ぶと。敵をことごとく殺して余りなからしめるは如何。」王は言った。「いけない。」太公が出て、邵公が入り、王は言った。「どうすべきか。」邵公は答えた。「罪ある者は殺し、罪なき者は生かすは如何。」王は言った。「いけない。」邵公が出て、周公が入り、王は言った。「どうすべきか。」周公は言った。「各々その宅に居らせ、その田を耕させ、旧も新も変えず、ただ仁に親しむ。百姓に過失あれば、我が一人にあり!」武王は言った。「広大なるかな、天下を平げたり。およそ士君子を重んずる所以は、彼が仁にして徳あるがゆえだ!」
孔子曰:“里仁為美,擇不處仁,焉得智!”夫仁者,必恕然後行,行一不義,殺一無罪,雖以得高官大位,仁者不為也。夫大仁者,愛近以及遠,及其有所不諧,則虧小仁以就大仁。大仁者,恩及四海;小仁者,止於妻子。妻子者,以其知營利,以婦人之恩撫之,飾其內情,雕畫其偽,孰知其非真,雖當時蒙榮,然士君子以為大辱,故共工、驩兜、符裡、鄧析,其智非無所識也,然而為聖王所誅者,以無德而苟利也。豎刁、易牙,毀體殺子以幹利,卒為賊於齊。故人臣不仁,篡弒之亂生;人臣而仁,國治主榮;明主察焉,宗廟大寧,夫人臣猶貴仁,況於人主乎!故桀紂以不仁失天下,湯武以積德有海土,是以聖王貴德而務行之。孟子曰:“推恩足以及四海;不推恩不足以保妻子。古人所以大過人者無他焉,善推其所有而已。”
孔子は言った。「里の中に仁あるは美なり。住処を択んで仁に処らざれば、どうして智と言えよう!」仁者は必ず恕を推して後に行う。一つの不義を為し一人の無罪を殺して、これによって高官大位を得ても、仁者は為さない。大仁は、近くを愛し遠くに推し及ぼし、相諧わぬものがあれば小仁を損して大仁を成す。大仁は恩が四海に及び、小仁は妻子に止まる。妻子は、彼によって営利を知り、婦人の恩で撫慰し、内情を飾り、虚偽を雕る。誰がそれが真でないと知ろう。当時は栄を蒙っても、士君子は大辱とする。ゆえに共工・驩兜・符里・鄧析は、彼らの智に見識がないのではなかったが聖王に誅された。徳なくして苟且に利を求めたからである。竪刁・易牙は、身を毀り子を殺して利を求め、ついに斉で賊となった。ゆえに人臣が仁でなければ、篡弑の乱が生ずる。人臣が仁ならば、国は治まり主は栄える。明主がこれを察すれば、宗廟は大いに安んじる。人臣でさえ仁を重んずる。いわんや人主をや!ゆえに桀・紂は不仁で天下を失い、湯・武は徳を積んで海内の土地を据えた。これにより聖王は徳を重んじ務めて行う。孟子は言った。「恩を推し広めれば四海に達するに足る。恩を推し広めなければ妻子を保つに足らず。古人が大いに人に過ぎたのは他なし、よくその有する所を推し広めただけだ。」
晏子飲景公酒,令器必新,家老曰:“財不足,請斂於民。”晏子曰:“止。夫樂者,上下同之,故天子與天下,諸侯與境內,自大夫以下各與其僚,無有獨樂;今上樂其樂,下傷其費,是獨樂者也,不可。”
晏子が景公に酒を請い、器具を必ず新たにせよと命じた。家老は言った。「財物が足りません。民に収斂させてください。」晏子は言った。「止めよ。楽は上下共にするものだ。ゆえに天子は天下と、諸侯は境内と、大夫以下は各々その僚属と楽を共にし、独り楽しむことなし。いま上はその楽を享け、下は費用を損なわれる。これは独り楽しむことであり、いけない。」
齊桓公北伐山戎氏,其道過燕,燕君逆而出境,桓公問管仲曰:“諸侯相逆固出境乎?”管仲曰:“非天子不出境。”桓公曰:“然則燕君畏而失禮也,寡人不道而使燕君失禮,乃割燕君所至之地以與燕君。”諸侯聞之,皆朝於齊。詩云:“靖恭爾位,好是正直,神之聽之,介爾景福。”此之謂也。
斉桓公が北に山戎氏を伐ち、道は燕を経た。燕君が迎えて境を出た。桓公は管仲に問うた。「諸侯が相迎えるのは本来境を出るものか。」管仲は言った。「天子でなければ境を出ません。」桓公は言った。「ならば燕君は私を畏れて礼を失した。寡人が無道で燕君に礼を失わせた。」そこで燕君が至った地を割いて燕君に与えた。諸侯はこれを聞き、みな斉に朝した。『詩経』に言う。「静かに敬してその位を守り、この正直を好めば、神これを聞いて大いなる福を介す。」これを言うのです。
景公探爵鷇,鷇弱故反之,晏子聞之,不待請而入見,景公汗出惕然,晏子曰:“君胡為者也?”景公曰:“我採爵鷇,鷇弱故反之。”晏子逡巡北面再拜而賀之:“吾君有聖王之道矣。”景公曰:“寡人入探爵鷇,鷇弱故反之,其當聖王之道者何也?”晏子對曰:“君探爵鷇,鷇弱故反之,是長幼也;吾君仁愛,禽獸之加焉,而況於人乎?此聖王之道也。”
景公が雀の雛を探り取り、雛が弱小なので放ち返した。晏子はこれを聞き、請いを待たず入りて見えた。景公は汗をかき驚懼した。晏子は言った。「君は何をしていますか。」景公は言った。「我は雀の雛を探り取ったが、雛が弱小なので放ち返した。」晏子は逡巡して北に向かい再拝して賀した。「吾君は聖王の道を持たれた。」景公は言った。「寡人は入って雀の雛を探り取り、雛が弱小なので放ち返した。それが聖王の道に当たるとは何か。」晏子は答えた。「君が雀の雛を探り取り、雛が弱小なので放ち返した。これは幼いものを長養することです。吾君の仁愛は禽獣に及ぶ。いわんや人に対してをや!これが聖王の道です。」
景公睹嬰兒有乞於途者,公曰:“是無歸夫?”晏子對曰:“君存何為無歸,使養之,可立而以聞。”
景公が道で乞う嬰児を見て言った。「これは帰る所がないのか。」晏子は答えた。「君が在るのに、どうして帰る所がないのですか。人に養わせれば、立って君に聞こえることができます。」
景公遊於壽宮,睹長年負薪而有飢色,公悲之,喟然嘆曰:“令吏養之。”晏子曰:“臣聞之,樂賢而哀不肖,守國之本也;今君愛老而恩無不逮,治國之本也。”公笑有喜色。晏子曰:“聖王見賢以樂賢,見不肖以哀不肖;今請求老弱之不養,鰥寡之不室者,論而供秩焉。”景公曰:“諾。”於是老弱有養,鰥寡有室。
景公が寿宮で遊び、老人が薪を負い飢色があるのを見た。公は悲しみ、喟然と嘆息して言った。「吏に養わせよ。」晏子は言った。「臣が聞くに、賢を楽しみ不肖を哀れむは、国を守る本です。いま君は老を愛護して恩の届かぬなし。これは国を治める本です。」公は笑み喜色を見せた。晏子は言った。「聖王は賢を見れば賢を楽しみ、不肖を見れば不肖を哀れみます。いま老弱で奉養のない者、鰥寡で家室のない者を論列して俸秩を供給させてください。」景公は言った。「よし。」そこで老弱に奉養があり、鰥寡に家室があった。
桓公之平陵,見家人有年老而自養者,公問其故,對曰:“吾有子九人,家貧無以妻之,吾使傭而未返也。”桓公取外御者五人妻之,管仲入見曰:“公之施惠不亦小矣。”公曰:“何也?”對曰:“公待所見而施惠焉,則齊國之有妻者少矣。”公曰:“若何?”管仲曰:“令國丈夫三十而室,女子十五而嫁。”
桓公が平陵に至り、家に年老いて自ら養う者を見た。公は故を問い、答えた。「私に息子が九人おり、家が貧しく彼らに妻を娶るものがありません。彼らを雇わせてまだ戻っていません。」桓公は宮外の侍御五人を取って彼らに妻とした。管仲が入りて見えて言った。「公の恩を施すは小さくないですか。」公は言った。「何故か。」答えた。「公が自ら目で見て後に恩を施すなら、斉国に妻子ある者は少なくなります。」公は言った。「どうすべきか。」管仲は言った。「国中の男子に三十にして家室を持たせ、女子に十五にして嫁がせよと命じてください。」
孝宣皇帝初即位,守廷尉吏路溫舒上書,言尚德緩刑,其詞曰:“陛下初即至尊,與天合符,宜改前世之失,正始受之統,滌煩文,除民疾,存亡繼絕,以應天德,天下幸甚。臣聞往者秦有十失,其一尚存,治獄吏是也;昔秦之時,滅文學,好武勇,賤仁義之士,貴治獄之吏,正言謂之誹謗,謁過謂之妖言,故盛服先生,不用於世,忠良切言,皆鬱於胸,譽諛之聲,日滿於耳,虛美燻心,實禍蔽塞,此乃秦之所以亡天下也。方今海內賴陛下厚恩,無金革之危,飢寒之患,父子夫婦戮力安家,天下幸甚;然太平之未洽者,獄亂之也。夫獄天下之命,死者不可生,斷者不可屬,書曰:‘與其殺不辜,寧失不經。’今治獄吏則不然,上下相驅,以刻為明,深者獲公名,平者多後患;故治獄吏皆欲人死,非憎人也,自安之道,在人之死,是以死人之血,流離於市;被刑之徒,比肩而立,大辟之計,歲以萬數,此聖人所以傷太平之未洽。凡以是也。人情安則樂生,痛則思死,捶楚之下,何求而不得;故囚人不勝痛,則飾誣詞以示之,吏治者利其然,則指道以明之,上奏恐卻,則鍛鍊而周內之,蓋奏當之成,雖皋陶聽之,猶以為死有餘罪,何則?成煉之者眾而文致之罪明也。是以獄吏專為深刻,殘賊而無理,偷為一切,不顧國患,此世之大賊也,故俗語云:‘畫地作獄,議不可入;刻本為吏,期不可對。’此皆疾吏之風,悲痛之辭也。故天下之患,莫深於獄,敗法亂政,離親塞道,莫甚乎治獄之吏,此臣所謂一尚存也。臣聞鳥鷇之卵不毀,而後鳳凰集;誹謗之罪不誅,而後良言進,故傳曰:‘山藪藏矣,川澤納汙。’國君含垢,天之道也。臣昧死上聞,願陛下察誹謗,聽切言,開天下之口,廣箴諫之路,改亡秦之一失,遵文武之嘉德,省法制,寬刑罰,以廢煩獄;
孝宣皇帝が即位したての時、廷尉吏を守った路温舒が上書して、徳を崇び刑罰を緩めることを講した。その文辞に言う。「陛下は初めて至尊に登り、天に符合します。前世の過失を改正し、始めて承ける統緒を端正し、煩瑣の条文を洗滌し、民の疾苦を除き、亡を存し絶を継いで、以て天徳に応合すべきです。天下は幸いです。臣が聞くに、昔秦に十の過失があって、その一つはなお存します。治獄の吏です。昔秦の時、文学を滅絶し、武勇を愛好し、仁義の士を軽んじ、治獄の吏を重んじ、正直の言を誹謗といい、過失を指すを妖言としました。ゆえに衣冠整った先生は世に用いられず、忠良懇切の言は皆胸中に鬱結し、称誉諂諛の声は日に耳に満ち、虚偽の美は心を薫し、実際の禍は遮蔽され塞がれました。これが秦の天下を失った所以です。いま海内は陛下の厚恩に頼り、金革の危も飢寒の憂もなく、父子夫婦は力を合わせ家を安んじ、天下は幸いです。しかし太平が未だ洽いのは、獄がこれを乱すからです。獄は天下の命です。死んだ者は復活できず、断たれた者は接げません。『尚書』に言う。『無辜を殺すより、常法に失するを寧ろせよ』と。いま治獄の吏はこれと違い、上下互いに駆使して、刻薄を明察とし、深刻は公正の名を得、平允は後患が多い。ゆえに治獄の吏は皆人を死なせたがる。人を憎むのではなく、自ら安を求める道が人の死にあるからです。ゆえに死人の血は市に流離し、刑を受ける者は肩を並べて立ち、大辟の計数は歳に万を以てす。これは聖人が太平の未だ洽わぬを痛む所以です。およそこれのためです。人情は安ければ生を楽しみ、痛ければ死を思う。捶楚の下では、何を求めても得られぬことなし。ゆえに囚人は痛みに堪えず、誣枉の言を編みて彼に見せ、治獄の吏はこれを利用して指点誘導しそれを坐実し、奏上して駁回を怕れれば、文辞を錬煉して周密に彼を陥れる。およそ奏当が既に成れば、皋陶が来て聴いても、なお死に余罪あると思う。何故か。錬煉を成す者が多く、文辞の羅織する罪が明白だからです。これにより獄吏は専ら深刻を為し、残害にして理なく、苟且に一時の事を為し、国家の患を顧みない。これは世の大賊です。ゆえに俗語に言う。『地に画して牢獄を為せば、議っても入るべからず。木を刻んで吏を為せば、約しても対すべからず。』これらは皆獄吏を痛恨する風気、悲痛の言辞です。ゆえに天下の患は獄より深きはなく、法を敗び政を乱し、親を離し道を塞ぐは、治獄の吏より甚しきはなし。これが臣の言うなお存する一つです。臣が聞くに、鳥鷇の卵が毀されなければ、然る後に鳳凰が集まり、誹謗の罪が誅されなければ、然る後に良言が入ると。ゆえに伝えに言う。『山林藪沢は疾を隠し、川沢は汚濁を納る。』国君が垢恥を含容するは天の道です。臣は死を冒して上聞します。願わくは陛下は誹謗を審察し、懇切の言を聴き、天下の口を開き、箴諫の路を広げ、亡秦の一つの過失を改正し、文・武の嘉徳に循い、法制を減省し、刑罰を寛し、以て煩苛の獄を廃止せんことを。
則太平之風可與於世,福履和樂,與天地無極,天下幸甚。”書奏,皇帝善之,後卒於臨淮太守。
然らば太平の風気は世に興ることができ、福禄和楽は天地と共に終極なし。天下は幸いです。」書が奏上されると、皇帝は善しとし、後に臨淮太守の任で世を去った。
晉平公春築臺,叔向曰:“不可。古者聖王貴德而務施,緩刑辟而趨民時;今春築臺,是奪民時也。夫德不施,則民不歸;刑不緩,則百姓愁。使不歸之民,役愁怨之百姓,而又奪其時,是重竭也;夫牧百姓,養育之而重竭之,豈所以安命安存,而稱為人君於後世哉!”平公曰:“善!”乃罷臺役。
晋平公が春に台を築いた。叔向は言った。「いけない。古の聖王は徳を重んじ務めて施し、刑罰を緩めて民時に趨きました。いま春に台を築くは民時を奪うことです。徳が施されなければ民は帰附せず、刑が緩められなければ百姓は愁えます。帰附せぬ民を役し、愁怨する百姓を役して、またその時令を奪うは、枯竭を加重することです。百姓を牧養し、彼らを養育して枯竭を加重するは、命を安んじ生を安んじて後世に人君と称えられる所以ではありません!」平公は言った。「よし!」そこで台を築く労役を止めた。
趙簡子春築臺於邯鄲,天雨而不息,謂左右曰:“可無趨種乎?”尹鐸對曰:“公事急,厝種而懸之臺;夫雖欲趨種,不能得也。”簡子惕然,乃釋臺罷役曰:“我以臺為急,不如民之急也,民以不為臺,故知吾之愛也。”
趙簡子が春に邯鄲で台を築き、天が雨して止まない。左右に言った。「耕作を急がなくてよいか。」尹鐸は答えた。「公事が急で、耕作を擱置して台上に懸けています。耕作を急ぎたく思っても、できません。」簡子は驚懼し、そこで台を放ち労役を停止して言った。「私は台を急としたが、民の急には及ばない。民は台を築かぬことによって、ゆえに我が愛を知る。」
中行獻子將伐鄭,範文子曰:“不可。得志於鄭,諸侯讎我,憂必滋長。”卻至又曰:“得鄭是兼國也,兼國則王,王者固多憂乎?”文子曰:“王者盛其德而遠人歸,故無憂;今我寡德而有王者之功,故多憂。今子見無土而欲富者樂乎哉?”
中行献子が鄭を伐��うとした。范文子は言った。「いけない。鄭で志を得れば、諸侯は我を仇視し、憂患は必ず滋長します。」郤至はまた言った。「鄭を得るは国を兼倂することであり、国を兼倂すれば王たり。王者はもともと憂いが多いのですか。」文子は言った。「王者はその徳を盛んにして遠人を帰附させる。ゆえに憂いがない。いま我が徳は少なく王者の功がある。ゆえに憂いが多い。いまあなたは、土地なしに富もうとする者が楽しいのを見たことがあるか。」
季康子謂子游曰:“仁者愛人乎?”子游曰:“然。”“人亦愛之乎?”子游曰:“然。”康子曰:“鄭子產死,鄭人丈夫舍玦佩,婦人舍珠珥,夫婦巷哭,三月不聞竽琴之聲。仲尼之死,吾不閒魯國之愛夫子奚也?”子游曰:“譬子產之與夫子,其猶浸水之與天雨乎?浸水所及則生,不及則死,斯民之生也必以時雨,既以生,莫愛其賜,故曰:譬子產之與夫子也,猶浸水之與天雨乎?”
季康子が子游に言った。「仁者は人を愛するか。」子游は言った。「はい。」「人も彼を愛するか。」子游は言った。「はい。」康子は言った。「鄭の子産が死んだ時、鄭人の丈夫は玦佩を放ち、婦人は珠珥を放ち、夫婦は巷で哭き、三箇月竽琴の声が聞こえなかった。仲尼が死んでも、私は魯人が夫子を愛するのをどのようにしたか見ない。」子游は言った。「子産と夫子を譬えるなら、浸水と天雨のようです。浸水の至る所は生き、至らぬ所は死ぬ。これらの民の生は必ず時雨に頼る。すでにこれによって生きた後には、あの賜を愛する者はいない。ゆえに言う、子産と夫子を譬えるなら、浸水と天雨のようです。」
中行穆子圍鼓,鼓人有以城反者,不許,軍吏曰:“師徒不勤,可得城,奚故不受?”曰:“有以吾城反者,吾所甚惡也;人以城來,我獨奚好焉?賞所甚惡,有失賞也,若所好何?不賞,是失信也,奚以示民?”鼓人又請降,使人視之,其民尚有食也,不聽,鼓人告食盡力竭而後取之,克鼓而反,不戮一人。
中行穆子が鼓を囲んだ。鼓人に城を献じて反する者がいたが、許さなかった。軍吏は言った。「軍は労苦せず、城を得ることができます。どうして受けないのですか。」言った。「吾が城を以て反する者は、我の大いに悪む所です。人が城を以て来るのに、我独りどうして好もうか。大いに悪む所に賞せば、賞を失する。好む所にはどうするか。賞せなければ信を失う。何を以て民に示さん。」鼓人はまた降を請うた。人を遣わして見ると、そこの民にまだ食糧があった。聴かなかった。鼓人が糧尽き力竭きたと報じて後に攻め取った。鼓を克てて帰り、一人も殺さなかった。
孔子之楚,有漁者獻魚甚強,孔子不受,獻魚者曰:“天暑遠市賣之不售,思欲棄之,不若獻之君子。”孔子再拜受,使弟子掃除將祭之,弟子曰:“夫人將棄之,今吾子將祭之,何也?”孔子曰:“吾聞之,務施而不腐餘財者,聖人也,今受聖人之賜,可無祭乎?”
孔子が楚に至り、漁人が魚を献じて執拗だった。孔子は受けなかった。献魚の人は言った。「天が暑く市が遠く、売れません。これを捨てようと思いますが、君子に献ずるに及びません。」孔子は再拝して受け、弟子に掃除させて祭ろうとした。弟子は言った。「あの人はそれを捨てようとしたのに、いま吾子は祭ろうとする。何故ですか。」孔子は言った。「務めて施与し余りの財を腐らせない者は聖人だと聞く。いま聖人の賜を受けた。祭らずにおれようか。」
鄭伐宋,宋人將與戰,華元殺羊食士,其御羊斟不與焉,及戰,曰:“疇昔之羊羹,子為政;今日之事,我為政。”與華元馳入鄭師,宋人敗績。
鄭が宋を伐ち、宋人が交戦しようとした。華元が羊を殺して士に食わせたが、その御者羊斟はその中にいなかった。交戦に及び、言った。「日前の羊羹は、あなたが主だった。今日の事は、私が主だ。」華元と共に鄭の軍中に馳せ入り、宋人は大敗した。
楚王問莊辛曰:“君子之行奈何?”莊辛對曰:“居不為垣牆,人莫能毀傷;行不從周衛,人莫能暴君。此君子之行也。”楚王復問君子之富奈何?對曰:“君子之富,假貸人不德也,不責也;其食飲人不使也,不役也;親戚愛之,眾人喜之,不肖者事之;皆欲其壽樂而不傷於患。此君子之富也。”楚王曰善。
楚王が荘辛に問うた。「君子の行はどうあるべきか。」荘辛は答えた。「住んで垣墻を築かず、人は毀傷できない。出行して周密の衛に従わず、人は君に暴を施せない。これが君子の行です。」楚王はまた君子の富はどうあるべきか問うた。答えた。「君子の富は、人に貸しても自ら徳ありとせず、また責め求めない。人に飲食を与えても彼を役せず、また役させない。親戚は彼を愛し、衆人は彼を喜び、不肖の人は彼に仕える。皆彼の長寿安楽で禍患に傷られぬことを欲する。これが君子の富です。」楚王は善しとした。
丞相西平侯於定國者,東海下邳人也,其父號曰於公,為縣獄吏決曹掾;決獄平法,未嘗有所冤,郡中離文法者,於公所決,皆不敢隱情,東海郡中為於公生立祠,命曰於公祠。東海有孝婦,無子,少寡,養其姑甚謹,其姑欲嫁之,終不肯,其姑告鄰之人曰:“孝婦養我甚謹,我哀其無子,守寡日久,我老累丁壯奈何?”其後母自經死,母女告吏曰:“孝婦殺我母。”吏捕孝婦,孝婦辭不殺姑,吏欲毒治,孝婦自誣服,具獄以上府,於公以為養姑十年之孝聞,此不殺姑也,太守不聽,數爭不能得,於是於公辭疾去吏,太守竟殺孝婦。郡中枯旱三年,後太守至,卜求其故,於公曰:“孝婦不當死,前太守強殺之,咎當在此。”於是殺牛祭孝婦冢,太守以下自至焉,天立大雨,歲豐熟,郡中以此益敬重於公。於公築治廬舍,謂匠人曰:“為我高門,我治獄未嘗有所冤,我後世必有封者,令容高蓋駟馬車。”及子封為西平侯。
丞相西平侯于定国は東海下邳の人。その父は于公と号し、県の獄吏決曹掾を為した。獄を決め法を執ること平允で、かつて冤枉がなかった。郡中で文法に触れた者は、于公が判決すれば、皆実情を隠さなかった。東海郡中は于公に生きたまま祠を立て、名を于公祠といった。東海に孝婦がいて、子がなく年少で寡となり、姑を養うこと甚だ慎しかった。姑は彼女に再嫁させたいと思ったが、終始肯んじなかった。姑は隣人に告げて言った。「孝婦は私を養うこと甚だ慎しい。私は彼女が子なく寡の日が久しいのを哀れむ。私は老いて丁壮を累わしてどうしよう。」後に姑は自ら縊れて死んだ。婆家の娘が吏に告げて言った。「孝婦が我が母を殺しました。」吏は孝婦を捕え、孝婦は姑を殺していないと供したが、吏は毒刑で拷問しようとし、孝婦は自ら誣服した。獄案を具えて府に上報した。于公は姑を十年養って孝で聞こえた者は姑を殺す者ではないとしたが、太守は聴かず、屢々争うも得られず、そこで于公は病を称して吏職を辞した。太守はついに孝婦を殺した。郡中は三年枯旱した。後任の太守が至り、卜を問い故を求めた。于公は言った。「孝婦は死すべきでなかった。前任の太守は強いて彼女を殺した。咎はここにあるべきです。」そこで牛を殺して孝婦の墳を祭り、太守以下は自ら場に至った。天はたちまち大雨し、年は豊熟し、郡中はこれによっていっそう于公を敬重した。于公は房舍を脩築し、匠人に言った。「私のために門を高く造れ。私は獄を治めてかつて冤枉がなかった。私の後世は必ず封を受ける者がある。高い蓋の駟馬車を容れられるようにせよ。」子が封を受けて西平侯となった。
孟簡子相梁幷衛,有罪而走齊,管仲迎而問之曰:“吾子相梁幷衛之時,門下使者幾何人矣?”孟簡子曰:“門下使者有三千餘人。”管仲曰:“今與幾何人來?”對曰:“臣與三人俱。”仲曰:“是何也?”對曰:“其一人父死無以葬,我為葬之;一人母死無以葬,亦為葬之;一人兄有獄,我為出之。是以得三人來。”管仲上車曰:“嗟茲乎!我窮必矣,吾不能以春風風人;吾不能以夏雨雨人,吾窮必矣。”
孟簡子が梁と衛の相を為していたが、罪があり斉に逃げた。管仲が迎えて彼に問うた。「吾子が梁と衛の相であった時、門下の使者は何人いたか。」孟簡子は言った。「門下の使者は三千余人いました。」管仲は言った。「いま何人と来たか。」答えた。「臣は三人と来ました。」仲は言った。「これは何故か。」答えた。「その一人は父が死んで葬るものがなかったので、私が葬ってやりました。一人は母が死んで葬るものがなかったので、また葬ってやりました。一人は兄が獄にあったので、私が脱し出してやりました。これによって三人と来ることを得ました。」管仲は車に上がって言った。「嘆くべきかな!我が困窮は一定だ。我は春風で人を吹くことができず、夏雨で人を潤すことができない。我が困窮は一定だ。」
凡人之性,莫不欲善其德,然而不能為善德者,利敗之也;故君子羞言利名,言利名尚羞之,況居而求利者也。
およそ人の本性で、その徳を善ならしめたいと思わぬ者はいない。しかし善徳を成せないのは、利がこれを敗るからである。ゆえに君子は利と名を談ずるを恥とする。利と名を談ずるでさえ恥とする。いわんや安んじ居て利を求める者をや。
周天子使家父毛伯求金於諸侯,春秋譏之;故天子好利則諸侯貪,諸侯貪則大夫鄙,大夫鄙則庶人盜,上之變下,猶風之靡草也,故為人君者明貴德而賤利以道下,下之為惡,尚不可止;今隱公貪利而身自漁,濟上而行八佾,以此化於國人,國人安得不解於義,解於義而縱其欲,則災害起而臣下僻矣,故其元年始書螟,言災將起,國家將亂云爾。
周天子が家父・毛伯を遣わして諸侯に金を求めた。『春秋』はこれを譏刺した。ゆえに天子が利を好めば諸侯は貪り、諸侯が貪れば大夫は鄙陋になり、大夫が鄙陋なれば庶人は盗竊する。上が下を変えるは、風が草を倒すが如し。ゆえに人君たる者が徳を顕重し利を軽んじて下を導くのに、下が悪を為せばなお止められない。いま隠公は利を貪って自ら魚を打ち、名分を越えて八佾を用いた。これを以て国人を感化するなら、国人はどうして義に懈らずにおれよう。義に懈り欲を縦にすれば、災害は興り臣下は邪僻になる。ゆえにその元年に螟を記した。これは災害が将に興らんとし、国家が将に乱れんとすることを言う。ただこれのみ。
孫卿曰:“夫鬥者忘其身者也,忘其親者也,忘其君者也;行須臾之怒,而鬥終身之禍,然乃為之,是忘其身也;家室離散,親戚被戮,然乃為之,是忘其親也;君上之所致惡,刑法上所大禁也,然乃犯之,是忘其君也。今禽獸猶知近父母,不忘其親也;人而忘其身,內忘其親,上忘其君,是不若禽獸之仁也。凡鬥者皆自以為是而以他人為非,己誠是也,人誠非也,則是己君子而彼小人也;夫以君子而與小人相賊害,是人之所謂以狐亡補犬羊,身塗其炭,豈不過甚矣哉!以為智乎,則愚莫大焉;以為利乎,則害莫大焉;以為榮乎,則辱莫大焉;人之有鬥何哉?比之狂惑疾病乎,則不可面目人也,而好惡多同,人之鬥誠愚惑夫道者也。詩云:‘式號式呼,俾晝作夜’,言鬥行也。”
孫卿は言った。「争闘する者は身を忘れる者、両親を忘れる者、君を忘れる者である。片刻の怒を発して、終身の禍に争闘する。しかも為す。これは身を忘れることだ。家室が離散し親戚が殺される。しかも為す。これは両親を忘れることだ。君の上が力を致して悪む所、刑法の上が大いに禁ずる所に、しかも犯す。これは君を忘れることだ。いま禽獣でさえ父母に親しむことを知り、両親を忘れない。人は身を忘れ、内は両親を忘れ、上は君を忘れる。これは禽獣の仁にも及ばない。およそ争闘する者は皆自ら是として人を非とする。自ら果たして是で、人が果たして非なら、即ち自らを君子として相手を小人とする。君子と小人とを以て互いに賊害する。これは人の言う狐を以て犬羊を補い、身に炭を塗ることだ。あまりに過ぎないか!智とするか、ならば愚なることこれより大きなし。利とするか、ならば害なることこれより大きなし。栄とするか、ならば辱なることこれより大きなし。人に争闘あるは何故か。これを狂惑の疾病に比すか。しかし不可。面目はなお人であり、好悪は大多同じ。人の争闘は実に道に惑う者である。『詩経』に言う。『また号しまた呼び、昼を夜とせしむ』と。これは争闘の行を言う。」
子路持劍,孔子問曰:“由,安用此乎?”子路曰:“善,古者固以善之;不善,古者固以自衛。”孔子曰:“君子以忠為質,以仁為衛,不出環堵之內,而聞千里之外;不善以忠化寇,暴以仁圍,何必持劍乎?”子路曰:“由也請攝齊以事先生矣。”
子路が剣を持っていた。孔子が問うた。「由よ、どこにこれを用いるのか。」子路は言った。「善なる者は、古来これで善を成しました。善��らぬ者は、古来これで自衛しました。」孔子は言った。「君子は忠を以て質地とし、仁を以て護衛とする。環堵の内を出なくても、名は千里之外に聞こえる。善ならぬ者は忠で寇を感じ、暴なる者は仁で囲む。どうして剣を持つ必要があろう。」子路は言った。「由は襟を提げて先生に仕えることを請います。」
樂羊為魏將,以攻中山,其子在中山,中山縣其子示樂羊,樂羊不為衰志,攻之愈急,中山因烹其子而遺之,樂羊食之盡一杯,中山見其誠也,不忍與之戰,果下之,遂為魏文侯開地,文侯賞其功而疑其心。孟孫獵得麑,使秦西巴持歸,其母隨而鳴,秦西巴不忍,縱而與之,孟孫怒逐秦西巴,居一年召以為太子侍,左右曰:“夫秦巴有罪於君,今以為太子傅,何也?”孟孫曰:“夫以一麑而不忍,又將能忍吾子乎?故曰:‘巧詐不如拙誠’,樂羊以有功而見疑,秦西巴以有罪而益信;由仁與不仁也。”
楽羊が魏の将となり、中山を攻めに来た。その子は中山にいた。中山はその子を懸けて楽羊に見せたが、楽羊はこれによって志を衰えさせず、攻めはいっそう急だった。中山はそこでその子を烹って彼に送った。楽羊は一杯を食べ尽くした。中山は彼の誠を見て、彼と交戦するに忍びず、果たしてこれを攻め下した。そこで魏文侯のために土地を開拓した。文侯は彼の功を賞したがその心を疑った。孟孫が獵して麑を得、秦西巴に持ち帰らせた。その母はついて叫んだ。秦西巴は忍びず、放して彼に返した。孟孫は怒り秦西巴を逐った。一年過ぎて召して太子の侍従とした。左右は言った。「あの秦西巴は君に罪があります。いま彼を以て太子の傅とするは何故ですか。」孟孫は言った。「一つの麑にさえ忍びない者が、また我が子に忍ぶことができようか。ゆえに言う、巧詐は拙誠に及ばない、と。楽羊は功あって疑われ、秦西巴は罪あっていっそう信じられた。仁と不仁によるのです。」
智伯還自衛,三卿燕於藍臺,智襄子戲韓康子而侮段規,智果聞之諫曰:“主弗備難,難必至。”曰:“難將由我,我不為難,誰敢興之。”對曰:“異於是,夫郄氏有車轅之難,趙有孟姬之讒,欒有叔祁之訴,範中行有函冶之難,皆主之所知也。夏書有之曰:‘一人三失,怨豈在明,不見是圖。’周書有之曰:‘怨不在大,亦不在小。’夫君子能勤小物,故無大患;今主一謀而媿人君、相,又弗備,曰不敢興難,毋乃不可乎?嘻!不可不懼,蚋蟻蜂蠆皆能害人,況君相乎?”不聽,自是五年而有晉陽之難,段規反而殺智伯於師,遂滅智氏。
智伯が衛から帰り、三卿が藍台で宴飲した。智襄子が韓康子を戯弄し段規を侮辱した。智果はこれを聞き進諫して言った。「主が災難に備えなければ、災難は必ず至ります。」言った。「災難は我から将にある。我が難を為さねば、誰がこれを興さん。」答えた。「これと異なります。郄氏には車轅の難があり、趙には孟姫の讒言があり、欒には叔祁の訴えがあり、范・中行には函冶の難があり、皆主の知る所です。『夏書』に言あり。『一人に三度の過失あれば、怨はどこに明かなるか、見えぬ所こそ謀るべし。』『周書』に言あり。『怨は大にあらず、また小にあらず。』君子は小事物に勤勉なれば大患なし。いま主は一度謀りて人の君・相を辱め、また備えず、敢えて難を興さぬという。おそらく不可でしょう?噫!懼れざるべからず。蚋蟻蜂蠆も皆人を害する。いわんや君・相をや!」聴かず、これより五年にして晋陽の難あり、段規が反して軍中で智伯を殺し、そこで智氏を滅ぼした。
智襄子為室美,士茁夕焉,智伯曰:“室美矣夫!”對曰:“美則美矣,抑臣亦有懼也。”智伯曰:“何懼?”對曰:“臣以秉筆事君,記有之曰:高山浚源,不生草木,松柏之地,其土不肥,今土木勝,人臣懼其不安人也。”室成三年而智氏亡。
智襄子が居室を華美に作った。士茁が夕方そこにいた。智伯は言った。「居室は美しいな!」答えた。「美しいには美しいが、臣にも懼れることがあります。」智伯は言った。「何を懼れるのか。」答えた。「臣は筆を執りて君に仕えます。記に言あり。『高山深源には草木を生ぜず、松柏の地はその土肥えず』と。いま土木が勝れました。人臣はそれが人を安んじられないことを懼れます。」居室が成って三年にして智氏は滅びた。
卷六復恩
巻六 復恩
孔子曰:“德不孤,必有鄰。”夫施德者貴不德,受恩者尚必報;是故臣勞勤以為君而不求其賞,君持施以牧下而無所德,故易曰:“勞而不怨,有功而不德,厚之至也。”君臣相與以市道接,君縣祿以待之,臣竭力以報之;逮臣有不測之功,則主加之以重賞,如主有超異之恩,則臣必死以復之。孔子曰:北方有獸,其名曰蟨,前足鼠,後足兔,是獸也,甚矣其愛蛩蛩巨虛也,食得甘草,必齧以遺蛩蛩巨虛,蛩蛩巨虛見人將來,必負蟨以走,蟨非性之愛蛩蛩巨虛也,為其假足之故也,二獸者亦非性之愛蟨也,為其得甘草而遺之故也。夫禽獸昆蟲猶知比假而相有報也,況於士君子之慾與名利於天下者乎!夫臣不復君之恩而苟營其私門,禍之源也;君不能報臣之功而憚刑賞者,亦亂之基也。夫禍亂之原基,由不報恩生矣。
孔子は言った。「徳は孤ならず、必ず隣あり。」徳を施す者は自ら徳ありとせぬを重んじ、恩を受ける者は必ず報いるを崇ぶ。ゆえに臣は労苦勤勉して君のためにすれどもその賞を求めず、君は施与を持って下を牧養して自ら徳ありとする所なし。ゆえに『周易』に言う。「労苦して怨まず、功ありて自ら徳ありとせずは、厚の極なり。」君臣は互いに市道を以て交接する。君は俸禄を懸けて待ち、臣は力を竭して報いる。臣に測度し難い功あれば、主は重賞を加え、主に超異の恩あれば、臣は必ず死を以て報いる。孔子は言った。北方に獣あり、名を蟨という。前足は鼠に似て後足は兎に似る。この獣は、蛩蛩巨虚を愛すること甚だしい。甘草を食えば、必ず咬みて蛩蛩巨虚に残し、蛩蛩巨虚は人が将に来らんとするを見れば、必ず蟨を負いて走る。蟨は本性で蛩蛩巨虚を愛するのではなく、それが脚を借る故であり、あの二獣も本性で蟨を愛するのではなく、それが甘草を得て彼らに残す故である。禽獣昆虫でさえ互いに凭藉して報いることを知る。いわんや士君子の天下に名利を求めんとする者をや!臣が君の恩に報いず苟且に己の私門を営むは、禍の源である。君が臣の功に報いず刑賞を用いるを怕れるも、乱の基である。禍乱の源と基は、恩に報いぬことから生ずる。
趙襄子見圍於晉陽,罷圍,賞有功之臣五人,高赫無功而受上賞,五人皆怒,張孟談謂襄子曰:“晉陽之中,赫無大功,今與之上賞,何也?”襄子曰:“吾在拘厄之中,不失臣主之禮唯赫也。子雖有功皆驕,寡人與赫上賞,不亦可乎?”仲尼聞之曰:“趙襄子可謂善賞士乎!賞一人而天下之人臣,莫敢失君臣之禮矣。”
趙襄子が晋襄子が晋陽で囲まれ、囲が解けた後、功ある臣五人を賞した。高赫は功ないのに上賞を受け、五人は皆怒った。張孟談が襄子に言った。「晋陽の中で、赫に大功はありません。いま彼に上賞を与えるは何故ですか。」襄子は言った。「我が拘困の中で、臣主の礼を失わなかったのは赫のみ。お前たちは功あっても皆驕る。寡人が赫に上賞するは、よくないか。」仲尼はこれを聞いて言った。「趙襄子は善く士を賞すと称すべきだ!一人を賞して天下の人臣、敢えて君臣の礼を失う者なくなった。」
晉文公亡時,陶叔狐從,文公反國,行三賞而不及陶叔狐,陶叔狐見咎犯曰:“吾從君而亡十有三年,顏色黎黑,手足胼胝,今君反國行三賞而不及我也,意者君忘我與!我有大故與!子試為我言之君。”咎犯言之文公,文公曰:“嘻,我豈忘是子哉!夫高明至賢,德行全誠,耽我以道,說我以仁,暴浣我行,昭明我名,使我為成人者,吾以為上賞;防我以禮,諫我以誼,蕃援我使我不得為非,數引我而請於賢人之門,吾以為次賞;夫勇壯強御,難在前則居前,難在後則居後,免我於患難之中者,吾又以為之次。且子獨不聞乎?死人者,不如存人之身;亡人者,不如存人之國;三行賞之後,而勞苦之士次之,夫勞苦之士,是子固為首矣,豈敢忘子哉!”周內史叔輿聞之曰:“文公其霸乎!昔聖王先德而後力,文公其當之矣,詩云:‘率履不越’,此之謂也。”晉文公入國,至於河,令棄籩豆茵席,顏色黎黑,手足胼胝者在後,咎犯聞之,中夜而哭,文公曰:“吾亡也十有九年矣,今將反國,夫子不喜而哭,何也?其不欲吾反國乎?”對曰:“籩豆茵席,所以官者也,而棄之;顏色黎黑,手足胼胝,所以執勞苦,而皆後之;臣聞國君蔽士,無所取忠臣;大夫蔽遊,無所取忠友;今至於國,臣在所蔽之中矣,不勝其哀,故哭也。”文公曰:“禍福利害不與咎氏同之者,有如白水!”祝之,刀沈璧而盟。介子推曰:“獻公之子九人,唯君在耳,天未絕晉,必將有主,主晉祀者非君而何?唯二三子者以為己力,不亦誣乎?”文公即位,賞不及推,推母曰:“盍亦求之?”推曰:“尤而效之,罪又甚焉。且出怨言,不食其食。”其母曰:“亦使知之。”推曰:“言,身之文也;身將隱,安用文?”其母曰:“能如是,與若俱隱。
晋文公が出亡した時、陶叔狐が従った。文公が国に帰り、三度賞を行ったが陶叔狐に及ばなかった。陶叔狐は咎犯に見えて言った。「私は君に従って出亡し十有三年、顔色は黎黑し手足に繭が生じた。いま君が国に帰り三度賞を行ったが私に及ばない。思うに君は私を忘れたか!私に大過失があるか!あなたは試みに私のために君に言ってください。」咎犯が文公に言った。文公は言った。「噫、我がどうしてこの人を忘れよう!高明至賢で、徳行は完全にして誠、道を以て我を沉浸させ、仁を以て我を説き、我が行を洗濯し、我が名を顕揚し、我を成人たらしめた者は、我は上賞とす。礼を以て我を防護し、誼を以て我に進諫し、蕃殖して我を援助して我に非を為さしめず、屢々我を導いて賢人の門に請う者は、我は次賞とす。勇壮強禦で、難が前にあれば前に居り、難が後にあれば後に居り、我を患難の中より免れしめた者は、我はまた次とす。さらにあなたは聞かないのか。人を死なせるは、人の身を存するに及ばず。人を逃亡させるは、人の国を存するに及ばず。三度賞を行った後、労苦の士が続く。あの労苦の士は、この人はもともと首となる者だ。どうしてあなたを忘れよう!」周内史叔輿はこれを聞いて言った。「文公は覇を称すだろう!昔の聖王は徳を先にして力を後にした。文公はほぼこれに当たる。『詩経』に言う。『礼に循いて越えず』と。これを言う。」晋文公が国境に入り、河に至り、籩豆茵席を棄てよと命じた。顔色黎黑・手足生繭の者は後に置かれた。咎犯はこれを聞き、夜半に哭いた。文公は言った。「我の出亡も十有九年だ。いま国に帰ろうとするに、夫子は喜悦せず哭く。何故か。私が国に帰るを思わぬのか。」答えた。「籩豆茵席は、官を為すに用いるものですが、それを棄てました。顔色黎黑・手足生繭は、労苦を執るに用いるものですが、皆後に置かれました。臣が聞くに、国君が士を蔽えば忠臣を取る由なし、大夫が交游を蔽えば忠友を取る由なし。いま国に至り、臣は蔽われる中にあります。あの哀痛に堪えず、ゆえに哭きます。」文公は言った。「禍福利害が咎氏と同じからぬ者は、白水を以て証とせん!」祝禱し、刀を以て璧を沈めて盟した。介子推は言った。「献公の子は九人、君のみ在り。天は晋を絶たず、必ず主があらん。晋の祭祀を主るは君でなくて誰か。ただ二三人が己の力とするは、誣妄ではないか。」文公が即位し、賞が推に及ばなかった。推の母は言った。「どうして求めないのか。」推は言った。「責めてそれを傚うは、罪がまた甚しい。さらに怨言を出して、その食を食むべきでない。」その母は言った。「彼に知らせもせよ。」推は言った。「言は身の文飾。身は将に隠れんとする。どこに文飾を用いよう。」その母は言った。「このようになら、あなたと共に隠れよう。」
”至死不復見推,從者憐之,乃懸書宮門曰:“有龍矯矯,頃失其所,五蛇從之,周遍天下,龍飢無食,一蛇割股,龍反其淵,安其壤土,四蛇入穴,皆有處所,一蛇無穴,號於中野。”文公出見書曰:“嗟此介子推也。吾方憂王室未圖其功。”使人召之則亡,遂求其所在,聞其入綿上山中。於是文公表綿上山中而封之,以為介推田,號曰介山。
死まで再び現れなかった。推の従者は彼を憐れみ、そこで宮門に文書を懸けて言った。「竜あり矯々として、頃刻に居を失う。蛇五條従い、天下を走り遍す。竜は飢えて食なく、一蛇が股を割く。竜は深淵に返り、その壤土を安んず。蛇四條穴に入り、皆処所有り。一蛇は穴なく、曠野に号哭す。」文公が出て文書を見て言った。「これは介子推か。我は王室を憂えてまだ彼の功を謀っていなかった。」人を遣わして召したがすでに逃亡していた。そこで彼の在所を求め、彼が綿上山中に入ったと聞いた。そこで文公は綿上山中を表して封とし、介推の田として、号を介山という。
晉文公出亡,周流天下,舟之僑去虞而從焉,文公反國,擇可爵而爵之,擇可祿而祿之,舟之僑獨不與焉,文公酌諸大夫酒,酒酣,文公曰:“二三子盍為寡人賦乎?”舟之僑曰:“君子為賦,小人請陳其辭,辭曰:有龍矯矯,頃失其所;一蛇從之,周流天下,龍反其淵,安寧其處,一蛇耆幹,獨不得其所。”文公瞿然曰:“子欲爵耶?請待旦日之期;子欲祿邪?請今命廩人。”舟之僑曰:“請而得其賞,廉者不受也;言盡而名至,仁者不為也。今天油然作云,沛然下雨,則曲草興起,莫之能御。今為一人言施一人,猶為一塊土下雨也,土亦不生之矣。”遂歷階而去。文公求之不得,終身誦甫田之詩。
晋文公が出亡し、天下を周流した。舟之僑は虞を離れて従った。文公が国に帰り、爵を賜うべき者を択んで爵を賜い、禄を給すべき者を択んで禄を給したが、舟之僑は独りその中にいなかった。文公は諸大夫に酒を斟った。酒が暢快に至り、文公は言った。「二三子は寡人に賦をしなければならぬ。」舟之僑は言った。「君子は賦を為し、小人は文辞を陳することを請う。文辞に言う、竜あり矯々として、頃刻に居を失う。一蛇従い、天下を周流す。竜は深淵に返り、その処所を安寧す。一蛇は躯を老やし、独りその所を得ず。」文公は驚いて見て言った。「あなたは爵が欲しいか。明日を待て。あなたは禄が欲しいか。いま倉を管る者に命じよう。」舟之僑は言った。「請うて賞を得るは、廉の者の受ける所にあらず。言を尽くして名至るは、仁者の為す所にあらず。いま天は油然と雲を興し、沛然と雨を下せば、曲がる草も興り、能く禦ぐ者なし。いま一人のために言を為して一人に施すは、一つの土のために雨する如く、土もまた生じません。」そこで階を蹴って去った。文公は彼を求めて得られず、終身『甫田』の詩を誦した。
邴吉有陰德於孝宣皇帝微時,孝宣皇帝即位,眾莫知,吉亦不言,吉從大將軍長史轉遷至御史大夫,宣帝聞之,將封之,會吉病甚,將使人加紳而封之,及其生也,太子太傅夏侯勝曰:“此未死也,臣聞之,有陰德者必饗其樂以及其子孫;今此未獲其樂而病甚,非具死病也。”後病果愈,封為博陽侯,終饗其樂。
邴吉は孝宣皇帝が微賤の時に陰徳があった。孝宣皇帝が即位しても、衆人は知る者なく、吉も言わなかった。吉は大将軍長史より御史大夫に転遷した。宣帝はこれを聞き、彼を封じようとしたが、ちょうど吉が重病だった。人を遣わして紳帯を加えて封じ、彼の生きているうちにしようとした。太子太傅夏侯勝は言った。「これはまだ死ではない。臣が聞くに、陰徳ある者は必ずその楽を享けて子孫に延びる。いまこの人はまだ楽を得ず重病なり。死すべき病にあらず。」後に病は果たして愈え、博陽侯に封じられ、終にその楽を享けた。
魏文侯攻中山,樂羊將,已得中山,還反報文侯,有喜功之色,文侯命主書曰:“群臣賓客所獻書操以進。”主書者舉兩篋以進,令將軍視之,盡難中山之事也,將軍還走北面而再拜曰:“中山之舉也,非臣之力,君之功也。”
魏文侯が中山を攻め、楽羊を将とした。すでに中山を得て帰り文侯に報じると、功を誇る色があった。文侯は主書に命じた。「群臣賓客が献じた書を取って進上せよ。」主書は箱二つを挙げて進上し、将軍に見せた。すべて中山を攻めるを責難する事だった。将軍は退き北に向かい再拝して言った。「中山の攻取は、臣の力にあらず、君の功です。」
平原君既歸趙,楚使春申君將兵救趙,魏信陵君亦矯奪晉鄙軍往救趙,未至,秦急圍邯鄲,邯鄲急且降,平原君患之,邯鄲傳舍吏子李談謂平原君曰:“君不憂趙亡乎?”平原君曰:“趙亡即勝虜,何為不憂?”李談曰:“邯鄲之民,炊骨易子而食之,可謂至困;而君之後宮數百,婦妾荷綺縠,廚餘粱肉;士民兵盡,或剡木為矛戟;而君之器物鐘磬自恣,若使秦破趙,君安得有此?使趙而全,君何患無有?君誠能令夫人以下,編於士卒間,分工而作之,家所有盡散以饗食士,方其危苦時易為惠耳。”於是平原君如其計,而勇敢之士三千人皆出死,因從李談赴秦軍,秦軍為卻三十里,亦會楚魏救至,秦軍遂罷。李談死,封其父為孝侯。
平原君がすでに趙に帰り、楚は春申君を遣わして兵を率い趙を救い、魏の信陵君も命令を假託して晋鄙の軍を奪い趙を救いに行った。まだ至らぬうち、秦は急いで邯鄲を囲み、邯鄲は危急で降ろうとした。平原君は憂えた。邯鄲の伝舍吏の子李談が平原君に言った。「君は趙の亡を憂えませんか。」平原君は言った。「趙が亡びれば俘となる。どうして憂えぬか。」李談は言った。「邯鄲の民は、骨を以て薪とし、子女を交換して食む。困の極と言えます。しかるに君の後宮は数百人、婦妾は綺縠を着、廚房には粱肉が余る。士民は兵器を尽くし、ある者は木を削って矛戟を為す。しかるに君の器物鐘磬は自ら縦にする。もし秦に趙を破られれば、君はどうしてまたこれを持たん。もし趙が全うされば、君は何を患えて無からん。君が果たして夫人以下を士卒の中に編み、労作を分派し、家の所有を尽数散じて士に食わせれば、危苦の時に当たり恩を為し易し。」そこで平原君はその計に従い、勇敢の士三千人は皆出て死を決した。そこで李談に従い秦軍に赴くと、秦軍はこれによって三十里退却した。ちょうど楚・魏の救兵が至るに及び、秦軍はそこで止まった。李談は死に、その父を孝侯に封じた。
秦繆公嚐出,而亡其駿馬,自往求之,見人已殺其馬,方共食其肉,繆公謂曰:“是吾駿馬也。”諸人皆懼而起,繆公曰:“吾聞食駿馬肉,不飲酒者殺人。”即以次飲之酒,殺馬者皆慚而去。居三年,晉攻秦繆公,圍之,往時食馬肉者,相謂曰:“可以出死報食馬得酒之恩矣。”遂潰圍。繆公卒得以解難,勝晉獲惠公以歸,此德出而福反也。
秦繆公はかつて出行して駿馬を失い、自ら往きて尋ね、人がすでにその馬を殺し、共にその肉を食うのを見た。繆公は言った。「これは我が駿馬だ。」その人々は皆怕れて起ち上がった。繆公は言った。「我が聞くに、駿馬の肉を食って酒を飲まぬは人を死なせる。」そこで次いで彼らに酒を飲ませた。馬を殺した人々は皆愧じて去った。三年過ぎ、晋が秦繆公を攻め、彼を囲んだ。昔馬肉を食った人々は相言った。「出て死して馬を食って酒を得た恩に報いるべし。」そこで囲を衝破した。繆公は終に難を解き、晋に勝ち惠公を俘にして帰った。これは徳が出でて福が返ったものだ。
楚莊王賜群臣酒,日暮酒酣,燈燭滅,乃有人引美人之衣者,美人援絕其冠纓,告王曰:“今者燭滅,有引妾衣者,妾援得其冠纓持之,趣火來上,視絕纓者。”王曰:“賜人酒,使醉失禮,奈何欲顯婦人之節而辱士乎?”乃命左右曰:“今日與寡人飲,不絕冠纓者不歡。”群臣百有餘人皆絕去其冠纓而上火,卒盡歡而罷。居三年,晉與楚戰,有一臣常在前,五合五奮,首卻敵,卒得勝之,莊王怪而問曰:“寡人德薄,又未嘗異子,子何故出死不疑如是?”對曰:“臣當死,往者醉失禮,王隱忍不加誅也;臣終不敢以蔭蔽之德而不顯報王也,常願肝腦塗地,用頸血湔敵久矣,臣乃夜絕纓者。”遂敗晉軍,楚得以強,此有陰德者必有陽報也。
楚荘王が群臣に酒を賜った。天が暮れ酒が暢快に至り、灯燭が滅した。そこに美人の衣を引く者あり、美人はその冠纓を絶ち、王に告げて言った。「さきほど燭が滅び、妾の衣を引く者あり、妾はその冠纓を絶ち得て持っています。速く火を取りて、その冠纓を絶たれた者を見てください。」王は言った。「人に酒を賜い、彼を醉わせて礼を失わせた。どうして婦人の節を顕して士を辱めようか。」そこで左右に命じて言った。「今日寡人と飲酒し、冠纓を絶たぬ者は歡ばず。」群臣百余人は皆冠纓を絶ちて後に火を上げ、終に歡を尽くして罷んだ。三年過ぎ、晋と楚が交戦した。ある臣が常に前にあり、五度会合し五度奮進し、先に敵を退け、終に勝ちを得た。荘王は怪しんで問うた。「寡人は徳薄く、またかつて特にあなたに遇していない。あなたは何故このように死を出して疑わぬのか。」答えた。「臣は死すべきです。昔醉いて礼を失い、王は隠忍して誅を加えませんでした。臣は終始敢えて蔭蔽の徳を以て王に明かに報いずにおらず、常に肝脳を地に塗り、頸上の血を敵に濺がんことを願って久しい。臣は即ち夜に冠纓を絶たれた者です。」そこで晋軍を敗り、楚は強を得た。これは陰徳ある者に必ず陽報あるものだ。
趙宣孟將上之絳,見翳桑下有臥餓人不能動,宣孟止車為之下,餐自含而餔之,餓人再咽而能食,宣孟問:“爾何為飢若此?”對曰:“臣居於絳,歸而糧絕,羞行乞而憎自致,以故至若此。”宣孟與之壺餐,脯二胊,再拜頓首受之,不敢食,問其故,對曰:“曏者食之而美,臣有老母,將以貢之。”宣孟曰:“子斯食之,吾更與汝。”乃復為之簞食,以脯二束與錢百。去之絳,居三年,晉靈公欲殺宣孟,置伏士於房中,召宣孟而飲之酒,宣孟知之,中飲而出,靈公命房中士疾追殺之,一人追疾,既及宣孟,向宣孟之面曰:“今固是君邪!請為君反,死。”宣孟曰:“子名為誰?”及是且對曰:“何以名為?臣是夫桑下之餓人也。”遂鬥,而死,宣孟得以活,此所謂德惠也。故惠君子,君子得其福;惠小人,小人盡其力;夫德一人活其身,而況置惠於萬人乎?故曰德無細,怨無小,豈可無樹德而除怨,務利於人哉!利施者福報,怨往者禍來,形於內者應於外,不可不慎也,此書之所謂德無小者也。詩云:“赳赳武夫,公侯干城。”“濟濟多士,文王以寧。”人君胡可不務愛士乎!
趙宣孟が絳に上ろうとして、翳桑の下に倒れて動けない飢えた人を見た。宣孟は車を停めて彼のために下り、飯を自分の口に含んで彼に食わせた。飢人は二度咽んで食べることができた。宣孟は問うた。「お前はどうしてこんなに飢えたのか。」答えた。「臣は絳に住み、帰ると食糧が絶えました。乞うことを恥じ、自ら死を求めるを憎み、これによってこうなりました。」宣孟は彼に壺餐、干肉二胊を与えた。再拝叩頭して受けたが、敢えて食べなかった。故を問うと答えた。「さきほど食べて美しいと思いました。臣に老母がいるので、これを以て進献しようと思います。」宣孟は言った。「お前はこれを食べよ。私がまた与えよう。」そこでまた彼に飯一簞、干肉二束と銭百を与えた。去って絳に至った。三年過ぎ、晋靈公は宣孟を殺そうと思い、房中に武士を埋伏させ、宣孟を召して酒を飲ませた。宣孟はこれを知り、半ば飲んで出た。靈公は房中の士に速く追い殺せと命じた。一人が追うこと速く、すでに宣孟に及んだ。宣孟の顔に向かって言った。「いま果たして君か!君のために返りて死なん。」宣孟は言った。「お前の名は誰か。」この時に至って初めて答えた。「名を要して何を為す。臣は即ちあの桑下の餓人です。」そこで搏闘して死に、宣孟は活きることを得た。これがいわゆる徳恵である。ゆえに君子に恵を施せば君子は福を得、小人に恵を施せば小人はその力を尽くす。一人に徳を施せば自身を活かす。いわんや恵を万人に置くをや!ゆえに言う、徳は微細なし、怨は微小なし。どうして徳を樹てず怨を除くことができよう。務めて人に利あるべきか!利を施し出せば福が来て報い、怨を送り出せば禍が至る。内に形成するは外に応験す。慎まざるべからず。これが書に言う徳は小なきものだ。『詩経』に言う。「赳赳たる武夫は、公侯の扞衛。」「賢士は済済として多く、文王はこれによって寧んず。」人君はどうして士を愛することを務めなくてよかろうか!
孝景時,吳楚反,袁盎以太常使吳,吳王欲使將不肯,欲殺之,使一都尉以五百人圍守盎;盎為吳相時,從史與盎侍兒私通,盎知之不洩,遇之如故人,有告從史,從史懼亡歸,盎自追,遂以侍兒賄之,復為從史。及盎使吳見圍守,從史適為守盎校司馬,夜引盎起曰:“君可以去矣,吳王期旦日斬君。”盎不信,曰:“公何為者也?”司馬曰:“臣故為君從史盜侍兒者也。”盎乃敬對曰:“公見親,吾不足以累公。”司馬曰:“君去,臣亦且亡避,吾親君,何患!”乃以刀決帳,率徒卒道出,令皆去,盎遂歸報。
孝景の時、呉・楚が反した。袁盎は太常として呉に使いした。呉王は彼を将にしようとしたが肯んじず、彼を殺そうとして、一都尉を遣わして五百人で盎を囲守させた。盎が呉相の時、従史が盎の侍児と私通していた。盎はこれを知っても洩らさず、彼を遇すること前の人の如くだった。ある人が従史に告げ、従史は怕れて逃げ帰った。盎は自ら追い、そこで侍児を彼に賜い、再び従史とした。盎が呉に使いして囲守された時、従史はちょうど盎を守る校司馬を為していた。夜に盎を引き起こして言った。「君は去るべきです。呉王は明日君を斬ると約しました。」盎は信じず、言った。「公は何を為す者か。」司馬は言った。「臣は昔、君の従史で、侍児を偸んだ者です。」盎はそこで敬して答えた。「公は親しく遇せられている。私は公を累わすに足らぬ。」司馬は言った。「君が去れば、臣もまた逃亡し避けます。私は君に親しい。何を怕れよう!」そこで刀を以て帳幕を割き、徒卒を率いて道路より出て、彼らを皆去らせた。盎はそこで帰りて報じた。
智伯與趙襄子戰於晉陽下而死,智伯之臣豫讓者怒,以其精氣能使襄主動心,乃漆身變形,吞炭更聲,襄主將出,豫讓偽為死人,處於梁下,駟馬驚不進,襄主動心,使使視梁下得豫讓,襄主重其義不殺也。又盜,為抵罪,被刑人赭衣,入繕宮,襄主動心,則曰必豫讓也,襄主執而問之曰:“子始事中行君,智伯殺中行君,子不能死,還反事之;今吾殺智伯,乃漆身為癘,吞炭為啞,欲殺寡人,何與先行異也?”豫讓曰:“中行君眾人畜臣,臣亦眾人事之;智伯朝士待臣,臣亦朝士為之用。”襄子曰:“非義也?子壯士也!”乃自置車庫中,水漿毋入口者三,日以禮豫讓,讓自知,遂自殺也。
智伯と趙襄子が晋陽下で交戦して死んだ。智伯の臣豫譲は怒り、彼の精気が襄主の心を動かせるとした。そこで身に漆を塗って形貌を変え、炭を呑んで声音を変えた。襄主が出行しようとし、豫譲は死人を装い橋下に処った。駟馬が驚懼して進まず、襄主は心を動かし、人を遣わして橋下を看ると豫譲を得た。襄主は彼の義を重んじて殺さなかった。また盗竊して罪に抵当し、刑人の赭衣を着て宮殿を修繕する中に入った。襄主は心を動かし、必ず豫譲だと言い、襄主は彼を捉えて問うた。「お前は初め中行君に仕え、智伯が中行君を殺した。お前は死ぬことができず、反って彼に仕えた。いま我が智伯を殺したのに、お前は身に漆を塗って癩を成し、炭を呑んで唖を成し、寡人を殺そうとする。先前の行と何故異なるのか。」豫譲は言った。「中行君は衆人として臣を畜い、臣もまた衆人として彼に仕えました。智伯は朝士として臣に遇し、臣もまた朝士として彼に力を效しました。」襄子は言った。「義ではないか。お前は壮士だ!」そこで自ら車庫の中に置き、水漿が口に入らぬこと三度、日に従い礼を以て豫譲に遇し、自らを以て知らしめ、そこで自殺した。
晉逐欒盈之族,命其家臣有敢從者死,其臣曰:“辛俞從之。”吏得而將殺之,君曰:“命汝無得從,敢從何也?”辛俞對曰:“臣聞三世仕於家者君之,二世者主之;事君以死,事主以勤,為之賜之多也。今臣三世於欒氏,受其賜多矣,臣敢畏死而忘三世之恩哉?”晉君釋之。
晋が欒盈の族を逐い、その家臣に敢えて従う者は処刑すと命じた。その臣は言った。「辛兪は従います。」吏が彼を捉えて殺そうとした。君は言った。「お前に従うなと命じたのに、敢えて従うは何故か。」辛兪は答えた。「臣が聞くに、三世大夫の家に官する者は彼を君とし、二世は彼を主とします。君に仕えるは死を以てし、主に仕えるは勤を以てす。彼の賜予が多いからです。いま臣は三世欒氏におり、彼の賜予を受けること多い。臣は敢えて死を怕れて三世の恩を忘れようか。」晋君は彼を釈放した。
留侯張良之大父開地相韓昭侯、宣惠王、襄哀王。父平相釐王、悼惠王。悼惠王二十三年平卒,二十歲秦滅韓,良年少未宦事韓。韓破,浪家童三百人,弟死不葬,良悉以家財求刺客刺秦王,為韓報仇,以大父、父,五世相韓故,遂學禮淮陽,東見滄海君,得力士為鐵椎,重百二十斤,秦皇帝東遊,良與客狙擊秦皇帝於博浪沙,誤中副車,秦皇帝大怒,大索天下,求購甚急,良更易姓名,深亡匿,後卒隨漢報秦。
留侯張良の祖父開地は韓昭侯・宣惠王・襄哀王の相を為した。父平は釐王・悼惠王の相を為した。悼惠王二十三年に平が卒し、二十年過ぎて秦が韓を滅ぼした。良は年少でまだ官して韓に仕えなかった。韓が破れ、良の家は童僕三百人あった。弟が死んでも葬らず、良は家財を尽数して刺客を求め秦王を刺し、韓のために讐を報いようとした。祖父・父が五世韓の相であった故である。そこで淮陽で礼を学び、東に滄海君を見、力士を得て鉄椎を作らせた。重さ百二十斤。秦皇帝が東遊し、良と門客が博浪沙で秦皇帝を狙撃したが、誤って副車に中った。秦皇帝は大いに怒り、天下で大いに索し、賞を懸けて購うこと甚だ急だった。良は姓名を改換し、深く逃亡し藏匿し、後に終に漢に従って秦に報復した。
鮑叔死,管仲舉上衽而哭之,泣下如雨,從者曰:“非君父子也,此亦有說乎?”管仲曰:“非夫子所知也,吾嘗與鮑子負販於南陽,吾三辱於市,鮑子不以我為怯,知我之慾有所明也;鮑子嘗與我有所說王者,而三不見聽,鮑子不以我為不肖,知我之不遇明君也;鮑子嘗與我臨財分貨,吾自取多者三,鮑子不以我為貪,知我之不足於財也。生我者父母,知我者鮑子也。士為知己者死,而況為之哀乎!”
鮑叔が死んだ。管仲は衣襟を提げて彼を哭き、涙は雨の如く落ちた。従者は言った。「君の父子でないのに、これにも説法がありますか。」管仲は言った。「夫子の知る所能にあらず。私はかつて鮑子と南陽で荷を負いて販った。私は三度市で辱を受けたが、鮑子は私を怯とせず、私が顕明せんと欲するを知っていた。鮑子はかつて私と王者に遊説し、三度聴かれなかったが、鮑子は私を不肖とせず、私が明君に遇わぬを知っていた。鮑子はかつて私と財物に臨み貨利を分かち、私は自ら多取すること三度だったが、鮑子は私を貪とせず、私の財用の足らぬを��っていた。私を生んだのは父母、私を知るのは鮑子だ。士は己を知る者のために死す。いわんや彼のために哀痛せんをや!」
晉趙盾舉韓厥,晉君以為中軍尉;趙盾死,子朔嗣為卿。至景公三年,趙朔為晉將,朔取成公姊為夫人,大夫屠岸賈,欲誅趙氏,初趙盾在夢見叔帶持龜要而哭甚悲,已而笑拊手且歌,盾卜之占,垂絕而後好,趙史援占曰:此甚惡非君之身,及君之子,然亦君之咎也。至子趙朔,世益衰,屠岸賈者,始有寵於靈公,及至於晉景公,而賈為司寇,將作難,乃治靈公之賊以至,趙盾遍告諸將曰:“趙穿弒靈公,盾雖不知猶為首賊,臣殺君,子孫在朝,何以懲罪,請誅之!”韓厥曰:“靈公遇賊,趙盾在外,吾先君以為無罪,故不誅;今諸君將誅其後,是非先君之意而後妄誅;妄誅謂之亂臣,有大事而君不聞,是無君也。”屠岸賈不聽,厥告趙朔趨亡,趙朔不肯,曰:“子必不絕趙祀,朔死且不恨。”韓厥許諾,稱疾不出,賈不請而擅與諸將攻趙氏於下宮,殺趙朔、趙括。趙嬰齊,皆滅其族;朔妻成公姊有遺腹,走公宮匿,後生男乳,朔客程嬰持亡匿山中,居十五年,晉景公疾,卜之曰:“大業之後不遂者為祟。”景公疾問韓厥,韓厥知趙孤在,乃曰:“大業之後,在晉絕祀者,其趙氏乎!夫自中行衍皆嬴姓也,中衍人面鳥喙,降佐殷帝太戊及周天子,皆有明德,下及幽厲無道,而叔帶去周適晉,事先君文侯,至於成公,世有立功,未嘗有絕祀;今及吾君獨滅之,趙宗國人哀之,故見龜策,唯君圖之。”景公問曰:“趙尚有後子孫乎?”韓厥具以實對,於是景公乃與韓厥謀立趙孤兒,召而匿之宮中,諸將入問疾,景公因韓厥之眾,以脅諸將而見趙孤,孤名曰武,諸將不得已乃曰:“昔下官之難屠岸賈為之,矯以君令,幷命群臣,非然孰敢作難,微君之疾,群臣固且請立趙後,今君有令,群臣之願也。”於是召趙武、程嬰遍拜諸將軍,將軍遂返與程嬰趙武攻屠岸賈,滅其族,復與趙武田邑如故。
晋の趙盾は韓厥を挙薦し、晋君は彼を以て中軍尉とした。趙盾が死に、子朔が嗣ぎ卿となった。景公三年に至り、趙朔は晋の将となり、朔は成公の姉を娶って夫人とした。大夫屠岸賈は趙氏を誅殺せんと欲した。初め趙盾は夢で叔帯が亀の腰を握りて哭くこと甚だ悲しきを見、随いて笑い手を拊りて歌った。盾はこの夢を卜い、占辞は将に絶えんとして後に好転すとあった。趙の史援が占して言った。これは甚だ悪い。君の身にあらず、君の子に至る。しかしまた君の咎である。子趙朔に至り、世道はいよいよ衰えた。屠岸賈は初め靈公の所で寵があった。晋景公に及び、賈は司寇を為し、難を発せんとして、そこで靈公の賊を追究して此に至った。趙盾は諸将に遍く告げて言った。「趙穿が靈公を弑した。盾は知らざるもなお首の賊なり。臣が君を殺し、子孫は朝に在り。何を以て罪を懲らさん。誅殺を請う!」韓厥は言った。「靈公が賊に遇い、趙盾は外に在り。我らの先君は罪なしとし、ゆえに誅せず。いま諸君はその後を誅殺せんとする。これは先君の意にあらずして後に妄りに誅す。妄誅を乱臣という。大事あって君に聞こえざるは、君なきに同じ。」屠岸賈は聴かなかった。厥は趙朔に速く逃亡せよと告げたが、趙朔は肯んじず、言った。「あなたは必ず趙の祭祀を絶たしめぬように。朔は死んでも恨まない。」韓厥は許諾し、病を称して出なかった。賈は請いずして擅りに諸将と下宮で趙氏を攻め、趙朔・趙括・趙嬰斉を殺し、皆その族を滅ぼした。朔の妻は成公の姉で、遺腹があった。公宮に逃れて藏匿し、後に男を生んで乳した。朔の門客程嬰はこれを帯びて山中に逃亡し匿れ、十五年住んだ。晋景公が病み、卜に問うと「大業の後で順遂せぬ者が祟を為す」とあった。景公は急いで韓厥に問う。韓厥は趙の孤がまだ在るを知り、言った。「大業の後で、晋に祭祀を絶たれたは、おそらく趙氏でしょう!中衍より皆嬴姓、中衍は人面鳥嘴、降りて殷帝太戊および周天子を輔佐し、皆明徳あり。下って幽・厲は無道、しかして叔帯は周を去り晋に至り、先君文侯に仕え、成公に至るまで、世々功を立て、かつて祭祀の絶えしことなし。いま吾君に至り独りこれを滅ぼした。趙の宗も国人も哀痛す。ゆえに亀策より顕現す。ただ君の謀を請う。」景公は問うた。「趙にまだ後嗣の子孫あるか。」韓厥は悉く実を以て稟告した。そこで景公は即ち韓厥と謀りて趙の孤児を立て、召して宮中に藏した。諸将が入りて病を問う。景公は韓厥の部衆に頼って諸将を脅迫して趙の孤を接見させた。孤の名は武。諸将は已むを得ず言った。「昔、下宮の難は屠岸賈の為したところ。君命を假託し、併せて群臣に命じた。然らざれば誰が難を作さん。君の病なかりせば、群臣はもとより趙の後を立てんことを請わんとした。いま君の命あり。群臣の願いなり。」そこで趙武・程嬰を召して諸将軍に遍拝させ、将軍は即ち返りて程嬰・趙武と屠岸賈を攻め、その族を滅ぼし、趙武に田邑を復して前の如く与えた。
故人安可以無恩,夫有恩於此故復於彼;非程嬰則趙孤不全,非韓厥則趙後不復。韓厥可謂不忘恩矣。
ゆえに人はどうして恩なくてよかろう。ここに恩あればゆえにかしこに報ず。程嬰なくんば趙の孤は全うせず、韓厥なくんば趙の後は復せざるべし。韓厥は恩を忘れぬと称すべし。
北郭騷踵見晏子曰:“竊悅先生之義,願乞所以養母者。”晏子使人分倉粟府金而遺之,辭金而受粟。有間,晏子見疑於景公,出奔,北郭子召其友而告之曰:“吾悅晏子之義而嘗乞所以養母者。吾聞之曰:養其親者,身更其難;今晏子見疑,吾將以身白之。”遂造公庭求復者曰:“晏子天下之賢者也,今去齊國,齊國必侵矣,方必見國之侵也,不若先死請絕頸以白晏子。”逡巡而退,因自殺也。公聞之大駭,乘馳而自追晏子,及之國郊,請而反之,晏子不得已而反之,聞北郭子之以死白己也,太息而嘆曰:“嬰不肖,罪過固其所也,而士以身明之,哀哉!”
北郭騒が踵に従って晏子に見えて言った。「私は先生の義を喜び、願わくは母を養うものを乞いたい。」晏子は人を遣わして倉の粟・府の金を分けて彼に送った。金を辞して粟を受けた。ある時を過ぎ、晏子は景公に疑われ、出奔した。北郭子はその友を召して告げて言った。「私は晏子の義を喜んでかつて母を養うものを乞うた。我が聞くに、両親を養う者は、身がその難を承当す。いま晏子が疑われた。私は身を以て弁白せん。」そこで公庭に至り復者を求めて言った。「晏子は天下の賢者です。いま斉国を離れれば、斉国は必ず侵される。必ず国の侵されるを見るより、先に死するに及ばず。頸を断ちて晏子を弁白せんことを請う。」逡巡して後退し、そこで自殺した。公はこれを聞き大いに驚き、車に乗り奔して自ら晏子を追い、国郊で及んだ。彼を請いて返らせた。晏子は已むを得ず返り、北郭子が死を以て己を弁白したを聞き、長嘆して言った。「嬰は不肖、罪はもともと彼が当たるべきものだったのに、士は身を以て明らかにす。哀しきかな!」
吳赤市使於智氏,假道於衛,寧文子具紵絺三百制,將以送之,大夫豹曰:“吳雖大國也,不壞交假之道,則亦敬矣,又何禮焉!”寧文子不聽,遂致之吳赤市。至於智氏,既得事,將歸吳,智伯命造舟為梁,吳赤市曰:“吾聞之,天子濟於水,造舟為梁,諸侯維舟為梁,大夫方舟。方舟,臣之職也,且敬太甚必有故。”使人視之,視則用兵在後矣,將亦襲衛。吳赤市曰:“衛假吾道而厚贈我,我見難而不告,是與為謀也。”稱疾而留,使人告衛,衛人警戒,智伯聞之,乃止。
呉の赤市が智氏に使いし、衛に道を借りた。寧文子は紵と細葛三百制を具え、将に彼に送らんとした。大夫豹は言った。「呉は大国といえども、邦交を毀らず道を借りるは、恭敬に足る。また何を礼遇せん!」寧文子は聴かず、そこで呉赤市に送った。智氏に至り、すでに事を畢え、呉に帰らんとした。智伯は舟を造りて橋梁とせよと命じた。呉赤市は言った。「我が聞くに、天子が水を渡るは造舟して橋梁とし、諸侯は舟を維繋して橋梁とし、大夫は方舟を用いる。方舟は臣の職分なり。さらに恭敬の過ぎたるは必ず故あり。」人を遣わして見ると、後に兵を用いて将に衛を襲わんとしていた。呉赤市は言った。「衛は我に道路を借し厚く我に贈った。我は災難を見て告げざるは、謀に与ることだ。」病を称して留まり、人を遣わして衛に告げた。衛人は警戒し、智伯はこれを聞き、そこで止んだ。
楚魏會於晉陽,將以伐齊,齊王患之,使人召淳于髡曰:“楚魏謀欲伐齊。願先生與寡人共憂之。”淳于髡大笑而不應,王后問之,又復大笑而不應,三問而不應,王怫然作色曰:“先生以寡人國為戲乎?”淳于髡對曰:“臣不敢以王國為戲也,臣笑臣鄰之祠田也,以奩飯與一鮒魚。其祝曰:下田洿邪,得谷百車,蟹堁者宜禾。臣笑其所以祠者少而所求者多。”王曰善,賜之千金,革車百乘,立為上卿。
楚・魏が晋陽で会い、将に斉を伐たんとした。斉王は憂え、人を遣わして淳于髠を召して言った。「楚・魏は斉を伐たんと謀る。先生と寡人と共に憂えんことを願う。」淳于髠は大いに笑い応えず。王は後に問い、また再び大いに笑い応えず、三度問うて応えず。王は勃然として色を変えて言った。「先生は寡人の国を戯弄とするか。」淳于髠は答えた。「臣は敢えて王の国を戯弄としません。臣は臣の隣人が田を祭るのを笑います。一奩の飯と一條の鮒魚を以てす。彼が祝禱して言うには、下き田・水の積る邪地に穀物百車を得、蟹穴の土は禾に宜しと。臣は彼の祭るに用いる少なく求むる多きを笑うのです。」王は善しとし、彼に千金・革車百乗を賜い、上卿に立てた。
陽虎得罪於衛,北見簡子曰:“自今以來,不復樹人矣。”簡子曰:“何哉?”陽虎對曰:“夫堂上之人,臣所樹者過半矣;朝廷之吏,臣所立者亦過半矣;邊境之士,臣所立者亦過半矣。今夫堂上之人,親郄臣於君;朝廷之吏,親危臣於眾;邊境之士,親劫臣於兵。”簡子曰:“唯賢者為能報恩,不肖者不能。夫樹桃李者,夏得休息,秋得食焉。樹蒺藜者,夏不得休息,秋得其刺焉。今子之所樹者,蒺藜也,自今以來,擇人而樹,毋已樹而擇之。”
陽虎が衛で罪を得、北に上がり簡子に見えて言った。「今より後、再び人を培植しません。」簡子は言った。「何故か。」陽虎は答えた。「堂上の人は、臣の培植せし者が半ばを過ぎました。朝廷の吏は、臣の立てし者が半ばを過ぎました。辺境の士は、臣の立てし者が半ばを過ぎました。いま堂上の人は、自ら君の所で臣を排擠し、朝廷の吏は、自ら衆人の所で臣を危害し、辺境の士は、自ら兵を以て臣を劫します。」簡子は言った。「ただ賢者のみ恩に報いる能あり、不肖の人は能くせず。桃李を種る者は、夏に休を得、秋に食を得る。蒺藜を種る者は、夏に休を得ず、秋に刺を得る。いまあなたの種ったは蒺藜なり。今より後、人を択んで後に培植し、すでに培植して後に択ぶことなかれ。」
魏文侯與田子方語,有兩僮子衣青白衣,而侍於君前,子方曰:“此君之寵子乎!”文侯曰:“非也,其父死於戰,此其幼孤也,寡人收之。”子方曰:“臣以君之賊心為足矣,今滋甚,君之寵此子也,又且以誰之父殺之乎?”文侯愍然曰:“寡人受令矣。”自是以後,兵革不用。
魏文侯が田子方と談話し、二人の僮子が青白衣を着て君の前に侍していた。子方は言った。「これは君の寵愛する子か!」文侯は言った。「非ず。彼らの父は戦で死んだ。これは幼孤であり、寡人が彼らを収養した。」子方は言った。「臣は君の賊害する心はすでに足りたと思った。いまいっそう甚しい。君はこれらの子を寵愛する。また誰の父を以て彼らを殺さんとするか。」文侯は憫然として言った。「寡人は教令を受けました。」これより以後、兵革を用いず。
吳起為魏將,攻中山,軍人有病疽者,吳子自吮其膿,其母泣之,旁人曰:“將軍於而子如是,尚何為泣?”對曰:“吳子吮此子父之創而殺之於注水之戰,戰不旋踵而死;今又吮之,安知是子何戰而死,是以哭之矣!”
呉起が魏の将を為し、中山を攻めた。軍人に疽を生ずる者あり、呉子は自らその膿を吮った。その母はこれのために哭いた。傍の人は言った。「将軍がお前の子にこのようであるのに、また何を哭くのか。」答えた。「呉子はかつてこの子の父の創口を吮い、注水の戦で彼を殺しました。交戦して身を回らず死しました。いままたこれを吮う。どうしてこの子がどの戦で死ぬか知ろう。ゆえに彼を哭くのです!」
東閭子嘗富貴而後乞,人問之,曰:“公何為如是?”曰:“吾自知吾嘗相六七年未嘗薦一人也;吾嘗富三千萬者再,未嘗富一人;不知士出身之咎然也。孔子曰:‘物之難矣,小大多少各有怨惡,數之理也,人而得之,在於外假之也。’”
東閭子はかつて富貴で後に乞うた。人は彼に問い、言った。「公は何故こうなったのか。」言った。「私は自ら知る。私はかつて相を為すこと六七年、かつて一人を挙薦せず。私はかつて富みて三千万に至ること二回、かつて一人を富ならしめず。士が身から出る咎を知らなかったのはこのようだ。孔子は言った。『物の難は、小大多少各々怨悪あり。これは数の理。人がこれを得るは、外より假借するに在り。』」
齊懿公之為公子也,與邴歜之父爭田,不勝。及即位,乃掘而刖之,而使歜為僕;奪庸織之妻,而使織為參乘;公遊於申池,二人浴於池,歜以鞭抶織,織怒,歜曰:“人奪女妻,而不敢怒;一抶女,庸何傷!”織曰:“孰與刖其父而不病,奚若?”乃謀殺公,納之竹中。
斉懿公が公子の時、邴歜の父と田を争い、勝てなかった。即位に及び、そこで屍を掘り出して足を斬り、歜を以て僕とし、庸織の妻を奪い、織を以て参乗とした。公が申池で遊んだ時、二人は池中で浴していた。歜が鞭で織を打ち、織は怒った。歜は言った。「人がお前の妻を奪ってもお前は敢えて怒らず。お前を一打するのに、どこに傷があろう!」織は言った。「彼の父の足を斬られて痛まないのと比べてどうか。」そこで公を謀殺し、彼を竹の中に納れた。
楚人獻黿於鄭靈公,公子家見公子宋之食指動,謂公子家曰:“我如是必嘗異味。”及食大夫黿,召公子宋而不與;公子宋怒,染指於鼎,嘗之而出,公怒欲殺之。公子宋與公子家先遂殺靈公。子夏曰:“春秋者,記君不君,臣不臣,父不父,子不子者也;此非一日之事也,有漸以至焉。”
楚人が鄭靈公に黿を献じた。公子家が公子宋の食指の動くを見た。公子宋は公子家に言った。「私はこのようにあれば必ず異味を嘗める。」大夫に黒を食わせるに及び、公子宋を召したが彼に与えなかった。公子宋は怒り、指を鼎の中に蘸して、嘗めて出た。公は怒り彼を殺そうとした。公子宋と公子家は先んじて手を下し、そこで靈公を殺した。子夏は言った。「『春秋』は君が君に似ず、臣が臣に似ず、父が父に似ず、子が子に似ざるを記するものだ。これは一日の事にあらず、漸進ありて此に至った。」
卷七政理
巻七 政理
政有三品:王者之政化之,霸者之政威之,強者之政脅之,夫此三者各有所施,而化之為貴矣。夫化之不變而後威之,威之不變而後脅之,脅之不變而後刑之;夫至於刑者,則非王者之所得已也。是以聖王先德教而後刑罰,立榮恥而明防禁;崇禮義之節以示之,賤貨利之弊以變之;修近理內政橛機之禮,壹妃匹之際;則莫不慕義禮之榮,而惡貪亂之恥。其所由致之者,化使然也。
政に三品あり。王者の政は教化を用い、覇者の政は威を用い、強者の政は脅迫を用いる。この三者は各々施す所有るも、教化を以て貴しとす。教化が変わらざれば然る後に威を用い、威が変わらざれば然る後に脅迫を用い、脅迫が変わらざれば然る後に刑を用いる。刑を用いるに至れば、王者の得已とする所にあらず。これにより聖王は徳教を先にして刑罰を後にし、栄恥を樹立して防禁を標明す。礼義の節を崇びて以て示し、貨利の弊を看軽して以て変革し、近きを修治し内政を理め、枢機の礼を端正し、妃匹の際を専一にすれば、義礼の栄を慕わず、貪乱の恥を悪まざる者なし。ゆえに能くこのに達するは、教化がこれを為さしむるなり。
季孫問於孔子曰:“如殺無道,以就有道,何如?”孔子曰:“子為政,焉用殺,子欲善而民善矣。君子之德,風也;小人之德,草也;草上之風必偃。”言明其化而已矣,治國有二機,刑德是也;王者尚其德而布其刑,霸者刑德並湊,強國先其刑而後德。夫刑德者,化之所由興也。德者,養善而進闕者也;刑者,懲惡而禁後者也;故德化之崇者至於賞,刑罰之甚者至於誅;夫誅賞者,所以別賢不肖,而列有功與無功也。故誅賞不可以繆,誅賞繆則善惡亂矣。夫有功而不賞,則善不勸,有過而不誅,則惡不懼,善不勸而能以行化乎天下者,未嘗聞也。書曰:‘畢協賞罰’,此之謂也。
季孫が孔子に問うた。「もし無道を殺して、有道を成就するは如何。」孔子は言った。「あなたが政を為すに、どうして殺を用いよう。あなたが善を欲すれば民は善となる。君子の徳は風、小人の徳は草。草上に風あれば必ず偃く。」これはあの教化を顕明するのみ。国を治むるに二つの機枢あり、即ち刑と徳なり。王者はその徳を崇びてその刑を公布し、覇者は刑徳を併せ湊集し、強国は刑を先にして徳を後にす。刑と徳は、教化の興起する所以なり。徳は善を養いて缺漏を進め、刑は悪を懲して後を禁ず。ゆえに徳化の崇高なるは賞に至り、刑罰の厲きは誅に至る。誅と賞は、賢不肖を別ち、有功と無功とを排列するに用いる。ゆえに誅賞は錯缪すべからず。誅賞が錯缪すれば善悪は乱る。功ありて賞せざれば善は勧められず、過ありて誅せざれば悪は懼れず、善が勧められずして行を以て天下を教化し得るは、かつて聞かず。『尚書』に言う。「賞罰咸に協せり。」これを言う。
