Libo

说苑 · 第8巻

西汉 · 刘向 · 第8巻 / 12

趙簡子使人以明白之乘六,先以一璧,為遺於衛。衛叔文子曰:“見不意,可以生,故此小之所以事大也。今我未以往,而簡子先以來,必有故。”於是斬林除圍,聚斂蓄積,而後遣使者。簡子曰:“吾舉也,為不可知也。今既已知之矣,乃輟圍衛也。”

趙簡子は人を派して明白の乘馬六匹を以て、先に一塊の璧を以て衛に送らしめたり。衛叔文子は曰く「意外を見れば、以て生存すべし。ゆえにこれは小の以て大に事奉する所以なり。いま我は前往せざるに、而して簡子は先に前來せり。必ず緣故有り。」そこで林木を砍伐し圍困を除去し、蓄積を聚集し、然る後に使者を派遣せり。簡子は曰く「我が擧動するは、知るべからざるのためなり。いま已に知られぬ。そこで衛を圍うを停止せり。」

鄭桓公將欲襲鄶,先問鄶之辨智果敢之士,書其名姓,擇鄶之良臣而與之,為官爵之名而書之,因為設壇於門外而埋之。釁之以猳,若盟狀。鄶君以為內難也,盡殺其良臣。桓公因襲之,遂取鄶。

鄭桓公は将に鄶を襲擊せんとし、先に鄶の辯智果敢の士を問い、彼らの姓名を寫下し、鄶の良臣を択取して彼らに與え、官爵の名を為成して寫下し、そこで門外に於て壇を設けて埋下せり。公豬を以て釁し、結盟するの樣子の如し。鄶君は以て內部に難有りとし、良臣を全部殺掉せり。桓公は此を趁りて襲擊し、終に鄶を取得せり。

鄭桓公東會封於鄭,暮舍於宋東之逆旅,逆旅之叟從外來,曰:“客將焉之?”曰:“會封於鄭。”逆旅之叟曰:“吾聞之:時難得而易失也。今客之寢安,殆非封也。”鄭桓公聞之,援轡自駕,其僕接淅而載之,行十日夜而至。釐何與之爭封。故以鄭桓公之賢,微逆旅之叟,幾不會封也。

鄭桓公は東に向かい鄭に封を接受せんとす。傍晚に宋東の旅舍に住む。旅舍の老人は外面より來りて曰く「客人は将にどこに往かん。」曰く「鄭に至りて封を接受せん。」旅舍の老人は曰く「我が聞くに、時は得難くして失い易しと。いま客人は安穩に睡る。ほぼ封にあらず。」鄭桓公はこれを聞き、辔を挽きて自ら車を駕り、其の仆人は淘ぐ米を撈起して車に裝せり。十天十夜を走りて到達せり。厘何は彼と封を争えり。ゆえに鄭桓公の賢を凭るも、旅舍の老人なからば、ほぼ能く封を接受せざりしなり。

晉文公伐衛,入郭,坐士令食,曰:“今日必得大垣。”公子慮俛而笑之。文公曰:“奚笑?”對曰:“臣之妻歸,臣送之,反見桑者而助之。顧臣之妻則亦有送之者矣。”文公懼,還師而歸,至國,而貉人攻其地。

晋文公は衛を攻伐し、外城に入り、士をして坐して飯を食わしめて曰く「今日は必ず大垣を得ん。」公子慮は頭を低めて笑えり。文公は曰く「何を笑うか。」答え曰く「臣の妻は娘家に歸り、臣は彼女を送りて、返回して采桑するを見て彼女を幫助せり。回頭して臣の妻を看れば、則ちまた彼女を送る人有り。」文公は恐懼し、師を回して返回し、國に至るに、而して貉人は彼の地を攻打せり。

卷十四至公

巻十四 至公

書曰:“不偏不黨,王道蕩蕩。”言至公也。古有行大公者,帝堯是也。貴為天子,富有天下,得舜而傳之,不私於其子孫也。去天下若遺,於天下猶然,況其細於天下乎?非帝堯孰能行之?孔子曰:“巍巍乎!惟天為大,惟堯則之。”易曰:“無首,吉。”此蓋人君之至公也。夫以公與天下,其德大矣。推之於此,刑之於彼,萬姓之所戴,後世之所則也。彼人臣之公,治官事則不營私家,在公門則不言貨利,當公法則不阿親戚,奉公舉賢則不避仇讎,忠於事君,仁於利下,推之以恕道,行之以不黨,伊呂是也。故顯名存於今,是之謂公。詩云:“周道如砥,其直如矢,君子所履,小人所視。”此之謂也。夫公生明,偏生暗,端愨生達,詐偽生塞,誠信生神,夸誕生惑,此六者,君子之所慎也,而禹桀之所以分也。詩云:“疾威上帝,其命多僻。”言不公也。

『尚書』に曰く「偏私せず、結黨せず。王道は寛廣にして平坦なり。」これを言うは至公なり。古來大公を實行する者有りて、帝堯は即ち是なり。貴きは天子と為り、富めるは天下を有し、舜を得て彼に傳え、自らの子孫に私せず。天下を丟開するや一隻の破鞋を丟くるが如し。天下に對してなおこの如し。いわんや天下より細小なるをや。帝堯に非ずんば誰か能く到らん。孔子は曰く「巍巍として高大なるかな!ただ天のみ最大、ただ堯のみ能くそれに取法す。」『周易』に曰く「自らを最前に擺さざれば、吉。」これはほぼ人君の至公なり。公を以て天下に給與せば、あの徳は即ち大なり。ここに於て推行し、あそこに於て典範と為し、是れ萬民の擁戴する所・後世の取法する所なり。あの人臣の公は、官事を辦理すれば即ち私家を經營せず、公門に在れば即ち貨利を談ぜず、公法に面對すれば即ち親戚を偏袒せず、公を奉じて賢人を舉薦すれば即ち仇敵を避開せず。忠にして君に事奉し、仁にして下に利を施し、恕道を以て推行し、結黨せざるを以て實行す。伊尹・呂尚は即ちこの如し。ゆえに顯赫の名声は今に存す。これを公と曰う。『詩経』に曰く「周の大道は磨刀石の如く、其の直きは箭の如し。君子の行走する所、小人の注視する所。」これを言う。公は明を產生し、偏は暗を產生し、端正誠實は通達を產生し、詐僞は壅塞を產生し、誠信は神明を產生し、虛夸荒誕は迷惑を產生す。この六件事は、君子の謹慎すべき所にして、また禹と桀の以て分開するの緣故なり。『詩経』に曰く「暴虐の上帝、其の命令は多く偏邪なり。」これを言うは不公なり。

吳王壽夢有四子,長曰謁,次曰餘祭,次曰夷昧,次曰季札,號曰:延陵季子。最賢,三兄皆知之。於是王壽夢薨,謁以位讓季子,季子終不肯當,謁乃為約曰:“季子賢,使國及季子,則吳可以興。”乃兄弟相繼,飲食必祝曰:“使吾早死,令國及季子。”謁死,餘祭立;餘祭死,夷昧立;夷昧死,次及季子。季子時使行不在。庶兄僚曰:“我亦兄也。”乃自立為吳王。季子使還,復事如故。謁子光曰:“以吾父之意,則國當歸季子,以繼嗣之法,則我適也,當代之君,僚何為也?”乃使專諸刺僚殺之,以位讓季子,季子曰:“爾殺吾君,吾受爾國,則吾與爾為共篡也。爾殺吾兄,吾又殺汝,則是昆弟父子相殺無已時也。”卒去之延陵,終身不入吳。君子以其不殺為仁,以其不取國為義。夫不以國私身,捐千乘而不恨,棄尊位而無忿,可以庶幾矣。

呉王壽夢に四個の兒子有り。長子は謁と曰い、次子は余祭と曰い、再次は夷昧と曰い、最小は季札にして、延陵季子と号す。最も賢能にして、三個の哥哥は皆知れり。そこで王壽夢は去世し、謁は位子を季子に讓らんとす。季子は始終當る肯んぜず。謁は即ち約定して曰く「季子は賢なり。國を讓りて季子に傳へば、呉は即ち以て興盛せん。」そこで兄弟は相繼いで君と為り、飯を食うに必ず祝禱して曰く「我をして早く死せしめ、國をして季子に傳らしめよ。」謁は死し、余祭は立ち、余祭は死し、夷昧は立ち、夷昧は死し、次序に按じて季子に輪れり。季子はあの時出使して外に在りて不在なり。庶兄僚は曰く「我もまた兄長なり。」即ち自ら呉王と立てり。季子は出使して歸り來り、舊の如く彼に事奉せり。謁の兒子光は曰く「我が父親の心意を按ずれば、國は当に季子に歸すべし。繼嗣の法を按ずれば、我は嫡子、当に接代して君と為るべし。僚は何を算せん。」即ち專諸を派して僚を刺殺し、彼を殺して、位子を季子に讓れり。季子は曰く「お前は我が君を殺し、我はお前の國を受くれば、あれは我とお前とは一同に位を篡むなり。お前は我が兄長を殺し、我はまたお前を殺せば、即ち是れ兄弟父子の互相殺して停止の時なし。」終に離れ去りて延陵に至り、終身呉に進まず。君子は以て彼の殺さざるは仁、國を取らざるは義とす。國を拿りて自らに私せず、千乘を丟掉して遺憾なく、尊位を抛弃して忿恨なし。以て近しと算すべし。

諸侯之義死社稷,大王委國而去,何也?夫聖人不欲強暴侵陵百姓,故使諸侯死國守其民。大王有至仁之恩,不忍戰百姓,故事勳育戎氏以犬馬珍幣,而伐不止。問其所欲者,土地也。於是屬其群臣耆老,而告之曰:“土地者,所以養人也,不以所以養而害其慈也,吾將去之。”遂居岐山之下。邠人負幼扶老從之,如歸父母。三遷而民五倍其初者,皆興仁義趣上之事。君子守國安民,非特鬥兵罷殺士眾而已。不私其身惟民,足用保民,蓋所以去國之義也,是謂至公耳。

諸侯の義は社稷のために死するなり。大王は卻って國を丟下して離去せり。何故か。聖人は強暴が百姓を侵陵するを願わざるなり。ゆえに諸侯をして國家のために死し其の民を守らしむ。大王に至仁の恩有り、百姓をして戰わしむるに忍びず。ゆえに勛育戎氏に事奉するを以てし、犬馬珍寶幣帛を以てせり。しかるに攻伐は併せて停止せず。彼らの所要を問えば、是れ土地なり。そこで群臣耆老に嘱咐して、彼らに告げて曰く「土地は以て人を養活するなり。人を養活する物を以て愛する所を傷害するなかれ。我は将にここを離れん。」そこで岐山の下に住めり。邠人は幼児を背負い老人を扶えて彼に跟隨し、父母に歸向するが如し。三次遷徙して民は起初の五倍なり。皆仁義を興起し、在上者の事に趨向せり。君子は國を守り民を安んずるに、ただ兵を用い争鬥して士衆を疲憊殺害せしむるのみにあらず。自らの身子を私せず、ただ民を思うのみ。以て民を保するに足れり。これはほぼ國を離れるの義なり。これを至公と曰う。

辛櫟見魯穆公曰:“周公不如太公之賢也。”穆公曰:“子何以言之?”辛櫟對曰:“周公擇地而封曲阜;太公擇地而封營丘,爵士等,其地不若營丘之美,人民不如營丘之眾。不徒若是,營丘又有天固。”穆公心慚,不能應也。辛櫟趨而出。南宮邊子入,穆公具以辛櫟之言語南宮邊子。南宮邊子曰:“昔周成王之卜居成周也。其命龜曰:‘予一人兼有天下,闢就百姓,敢無中土乎?使予有罪,則四方伐之,無難得也。’周公卜居曲阜,其命龜曰:‘作邑乎山之陽,賢則茂昌,不賢則速亡。’季孫行父之戒其子也,曰:‘吾欲室之俠於兩社之間也。使吾後世有不能事上者,使其替之益速。’如是則曰:‘賢則茂昌,不賢則速亡。’安在擇地而封哉?或示有天固也。辛櫟之言小人也,子無複道也。”

辛櫟は魯穆公に見えて曰く「周公は太公に如かず賢なり。」穆公は曰く「お前は何を凭りてこのように説くか。」辛櫟は答え曰く「周公は土地を択んで曲阜に封ぜられ、太公は土地を択んで營丘に封ぜられたり。爵と封土は相等しいに、曲阜の地は營丘に如かず美しく、人民は營丘に如かず多し。ただこの如きのみにあらず、營丘はまた天然の險固有り。」穆公は心裏慚愧して、應答する能わず。辛櫟は快步して出でたり。南宮邊子は進みて入りて、穆公は辛櫟の話を一一に南宮邊子に告げたり。南宮邊子は曰く「昔、周成王は成周に居るを占卜して、其の龜に命じて曰く『我一人は天下を兼有し、開闢して百姓に接近す。敢えて中央の土地なからんや。仮に我が罪有れば、四方は來りて伐たん。則ち得難からざらん』と。周公は曲阜に居るを占卜して、其の龜に命じて曰く『山の南面に於て城邑を建立すれば、賢なれば即ち茂盛昌盛し、不賢なれば即ち迅速に滅亡せん』と。季孫行父は其の兒子を告誡して曰く『我は住宅を兩社の間に夾まんと欲す。仮に我が後世に能く上に事奉せざる有らば、彼をして廢せられて更に速からしめよ』と。この如きは即ち説く『賢なれば即ち茂盛昌盛し、不賢なれば即ち迅速に滅亡せん』と。どこに土地を択んで以て封ぜんに在らんや。あるいは是れ天然の險固有るを顯示せり。辛櫟の話は小人の話なり。あなたは再び説くなかれ。」

秦始皇帝既吞天下,乃召群臣而議曰:“古者五帝禪賢,三王世繼,孰是?將為之。”博士七十人未對。鮑白令之對曰:“天下官,則讓賢是也;天下家,則世繼是也。故五帝以天下為官,三王以天下為家。”秦始皇帝仰天而嘆曰:“吾德出於五帝,吾將官天下,誰可使代我後者。”鮑白令之對曰:“陛下行桀紂之道,欲為五帝之禪,非陛下所能行也。”秦始皇帝大怒曰:“令之前,若何以言我行桀紂之道也。趣說之,不解則死。”令之對曰:“臣請說之,陛下築臺幹云,宮殿五里,建千石之鐘,萬石之■,婦女連百,倡優累千,興作驪山宮室至雍,相繼不絕,所以自奉者,殫天下,竭民力,偏駁自私,不能以及人,陛下所謂自營僅存之主也。何暇比德五帝,欲官天下哉?”始皇闇然無以應之,面有慚色。久之,曰:“令之之言,乃令眾醜我。”遂罷謀,無禪意也。

秦始皇帝は已に天下を吞并し、即ち群臣を召集して商議して曰く「古時五帝は位子を賢人に禪讓し、三王は父子世代相繼せり。どれが對か。我は将に照らして為さん。」博士七十人は回答せず。鮑白令之は回答して曰く「天下を官職と當れば、賢に讓るが對なり。天下を私家と當れば、世代相繼ぐが對なり。ゆえに五帝は天下を以て官職と當り、三王は天下を以て私家と當れり。」秦始皇帝は天を仰ぎて嘆息して曰く「我が徳は五帝より出づ。我は将に天下を以て官職と為さん。誰か以て彼をして我に代えて後に在らしめん。」鮑白令之は回答して曰く「陛下の行うは桀紂の道なり。五帝の禪讓を為さんと欲するは、陛下の能く行う所にあらず。」秦始皇帝は大いに怒りて曰く「令之は上前せよ。お前は何を凭りて我が桀紂の道を行うと説くか。速やかに清楚に説け。清楚に説かざれば死せん。」令之は回答して曰く「臣は説くを請う。陛下は台を築きて高く雲に入り、宮殿は綿延して五里、千石の鐘・萬石の虡を建て、婦女は相連なること上百、倡優は累積すること上千、驪山宮室を興建して雍に至るまで、相繼いで斷えず。以て自らを奉養するは、天下を用盡し民力を竭盡し、偏頗駁雜してただ自らを顧りて、能く人に推及せず。陛下は所説ただ自らを經營し僅かに自存する主なり。どこに閑暇あって五帝に德を比して天下を以て官職と為さんと欲せんや。」始皇は黯然として應答する話なく、臉上に慚愧の神色有り。良久を過ぎて、曰く「令之の話は、竟に衆人をして我を以て醜陋と看作せしめり。」そこで謀劃を停止し、禪讓の意思なかりき。

齊景公嘗賞賜及後宮,文繡被臺榭,菽粟食鳧鴈。出而見殣,謂晏子曰:“此何為而死?”晏子對曰:“此餧而死。”公曰:“嘻!寡人之無德也,何甚矣!”晏子對曰:“君之德著而彰,何為無德也?”景公曰:“何謂也?”對曰:“君之德及後宮與臺榭,君之玩物,衣以文繡,君之鳧鴈,食以菽粟,君之營內自樂,延及後宮之族,何為其無德也?顧臣願有請於君,由君之意,自樂之心,推而與百姓同之,則何殣之有?君不推此而苟營內好私,使財貨偏有所聚,菽粟幣帛腐於囷府,惠不遍加於百姓,公心不周乎國,則桀紂之所以亡也。夫士民之所以叛,由偏之也。君如察臣嬰之言,推君之盛德,公佈之於天下,則湯武可為也,一殣何足恤哉?”

斉景公はかつて後宮に賞賜するに至りて、文繍は台榭を覆蓋し、菽粟は野鴨と大雁に喂食せり。門を出でて餓死する人を見て、晏子に對して曰く「この人は何故死せりか。」晏子は答え曰く「これは餓死��り��」公は曰く「唉!寡人の無徳、何と厲きか。」晏子は答え曰く「君の徳は顯著にして彰明なり。何故無徳と説くか。」景公は曰く「何の意思か。」答え曰く「君の徳は後宮と台榭に至り、君の玩物は文繍を以て穿き、君の野鴨と大雁は菽粟を以て喂る。君は宮內を經營して自ら快樂し、後宮の族人に延及す。何故無徳と説くか。ただ臣は君に向かい請求せんと希望す。君の心意・自ら快樂する心に由りて、推廣して百姓と一同に享有せば、あれにまた何の餓死する人あらん。君はこれを推廣せずして、卻ってただ宮內を經營して私利を喜好し、財貨をして一處に偏聚集せしめ、菽粟幣帛は糧倉府庫の裏に腐爛せしめ、恩惠は普遍に百姓の身に加わらず、公心は國に周遍せず。あれは即ち桀紂の以て滅亡するの緣故なり。士民の以て叛離するは、偏私に由るなり。君がもし臣嬰の話を體察して、君の盛徳を推廣し、公正に天下に公布せば、ならば湯武は皆到るべし。一個の餓死する人はどこに憂恤するに値せんや。」

楚共王出獵而遺其弓,左右請求之,共王曰:“止,楚人遺弓,楚人得之,又何求焉?”仲尼聞之,曰:“惜乎其不大,亦曰:‘人遺弓,人得之而已,何必楚也!’”仲尼所謂大公也。

楚共王は出でて打獵して弓を丟掉せり。左右の人は去找するを請求せり。共王は曰く「停まれ。楚人は弓を丟掉し、楚人はそれを得ん。又何ぞ找らん。」仲尼はこれを聞きて、曰く「可惜や、其の器量は大ならず。また当に説くべし『人は弓を丟掉し、人はそれを得るのみ。何ぞ楚ならんや!』と。」仲尼の所説は即ち大公なり。

萬章問曰:“孔子於衛主雍睢,於齊主寺人脊環,有諸?”孟子曰:“否!不然。好事者為之也。於衛主顏讎由,彌子之妻與子路之妻,兄弟也。彌子謂子路曰:‘孔子主我,衛卿可得也。’子路以告。孔子曰:‘有命。’孔子進之以禮,退之以義,得之不得曰有命,而主雍睢與寺人脊環,是無命也。孔子不說於魯衛,將適宋,遭桓司馬,將要而殺之,微服過宋,是孔子嘗阨,主司城貞子,為陳侯周臣。吾聞之,觀近臣以其所為之主,觀遠臣以其所主,如孔子主雍睢與寺人脊環,何以為孔子乎?”

萬章は問うた「孔子は衛に於て雍睢の家に寄住し、斉に於て寺人脊環の家に寄住せり。この事有るか。」孟子は曰く「不!この如くあらず。是れ好事の人の編出する所なり。衛に於ては顔讐由の家に寄住せり。彌子の妻子と子路の妻子は姐妹なり。彌子は子路に對して曰く『孔子は我が所に寄住せば、衛の卿は即ち以て得べし』と。子路はこの話を以て孔子に告げたり。孔子は曰く『命有り。』孔子は進用するに礼に依り、退處するに義に依り。得ると得ざると皆命有りと曰う。卻って雍睢と寺人脊環の家に寄住せば、あれは即ち命なきなり。孔子は魯・衛に於て愉快ならず、将に宋に至らんとして、桓司馬に遇い、将に攔截して彼を殺害せんとせり。平民の衣服を換えて宋を經過せり。これは孔子がかつて困厄せり。司城貞子の家に寄住し、陳侯周の臣を為せり。我が聞くに、近臣を觀察するは其の寄住する主人を看よ。遠來の臣を觀察するは其の寄住するは誰なるを看よ。もし孔子が雍睢と寺人脊環の家に寄住せば、なお何を凭りて孔子を為さん。」

夫子行說七十諸侯無定處,意欲使天下之民各得其所,而道不行。退而修春秋,採毫毛之善,貶纖介之惡,人事浹,王道備,精和聖制,上通於天而麟至,此天之知夫子也。於是喟然而嘆曰:“天以至明為不可蔽乎?日何為而食也?地以至安為不可危乎?地何為而動?”天地尚有動蔽,是故賢聖說於世而不得行其道,故災異並作也。夫子曰:“不怨天,不尤人,下學而上達,知我者其天乎!”

夫子は七十個の諸侯を游説して固定の住處なし。心意は天下の民をして各々其所を得しめんと欲するなり。しかるに道は推行する能わず。退きて『春秋』を修訂し、毫毛の如き善を采取し、細微の惡を貶斥す。人事は周遍し、王道は具備し、精微は聖王の制度に和諧し、上は天に通じて麒麟至れり。これは天の夫子を知るなり。そこで喟然として嘆息して曰く「天は極明を以て遮蔽すべからずと為すか。太陽は何故に虧食するか。地は極安を以て傾危すべからずと為すか。地は何故に動くか。」天地はなお尚且震動と遮蔽有り。ゆえに賢聖は当世に向かい游説するも能く其の道を推行せず。そこで災異は一齊に出現せり。夫子は曰く「天を怨まず、人を尤めず、下は人事を學習し上は天命に通達す。我を知るはほぼ天か!」

孔子生於亂世,莫之能容也。故言行於君,澤加於民,然後仕。言不行於君,澤不加於民則處。孔子懷天覆之心,挾仁聖之德,憫時俗之汙泥,傷紀綱之廢壞,服重歷遠,周流應聘,乃俟幸施道以子百姓,而當世諸侯莫能任用,是以德積而不肆,大道屈而不伸,海內不蒙其化,群生不被其恩,故喟然而嘆曰:“而有用我者,則吾其為東周乎!”故孔子行說,非欲私身,運德於一城,將欲舒之於天下,而建之於群生者耳。

孔子は乱世に生れ、能く彼を容納する無し。ゆえに言論は能く君の所に於て實行し、恩澤は能く民の身に加うる、然る後に乃ち官を為れり。言論は能く君の所に於て實行せず、恩澤は能く民の身に加わらざれば、即ち隱處せり。孔子は天の萬物を覆蓋する心を懷き、仁聖の徳を挾び、時俗の污浊を憐憫し、紀綱の廢壞を傷痛し、重任を背負いて遠き路を走り、周流して聘に應じ、僥倖して道を施行するを待ちて以て百姓を對待するや兒子の如くせり。しかるに当世の諸侯は能く彼を任用する無し。これにより徳は積蓄するも能く施展せず、大道は屈曲して能く伸直せず、海內は能く其の教化を蒙受せず、群生は能く其の恩を被らず。ゆえに喟然として嘆息して曰く「もし我を用いる有らば、あれは我がほぼ東周を復興せんか!」ゆえに孔子の出行游説するは、私利自らを想い徳を一座の城に運轉せんと欲するにあらず。是れそれを天下に舒展し群生の身に建立せんと欲するなり。

秦晉戰交敵,秦使人謂晉將軍曰:“三軍之士皆未息,明日請復戰。”臾駢曰:“使者目動而言肆,懼我,將遁矣,迫之河,必敗之。”趙盾曰:“死傷未收而棄之,不惠也。不待期而迫人於險,無勇也,請待。”秦人夜遁。

秦・晋は交戦して互いに敵手と為せり。秦は人を派して晋の將軍に言わしめて曰く「三軍の士は皆未だ休息せず。明日は請う再び戰わん。」臾駢は曰く「使者は眼を轉動して説話放肆せり。是れ我らを怕れて、将に逃げ去らんとす。彼らを河邊に逼れば、必ず能く彼らを打敗せん。」趙盾は曰く「死傷の未だ收拾せざるに卻って彼らを抛弃するは、不惠なり。約期に等到せずして人を險處に逼るは、無勇なり。請う、待たん。」秦人は夜に逃げ去れり。

子胥將之吳,辭其友申包胥曰:“後三年,楚不亡,吾不見子矣!”申包胥曰:“子其勉之!吾未可以助子,助子是伐宗廟也;止子是無以為友。雖然,子亡之,我存之,於是乎觀楚一存一亡也。”後三年,吳師伐楚,昭王出走,申包胥不受命西見秦伯曰:“吳無道,兵強人眾,將徵天下,始於楚,寡君出走,居雲夢,使下臣告急。”哀公曰:“諾,吾固將圖之。”申包胥不罷朝,立於秦庭,晝夜哭,七日七夜不絕聲。哀公曰:“有臣如此,可不救乎?”興師救楚,吳人聞之,引兵而還,昭王反,復欲封申包胥,申包胥辭曰:“救亡非為名也,功成受賜,是賣勇也。”辭不受,遂退隱,終身不見。詩云:“凡民有喪,匍匐救之。”

子胥は将に呉に至らんとし、其の朋友申包胥に向かい辭別して曰く「三年の後、楚は滅亡せざれば、我は即ち不再びお前に見えん!」申包胥は曰く「お前は努力せよ!我は能くお前を幫助せず、お前を幫助すれば即ち宗廟を攻伐するなり。お前を制止すれば即ち朋友を為るに法なし。然りといえども、お前はそれを亡ならしめ、我はそれを存せしめん。即ちこの事の上に於て楚の一存一亡を看ん。」三年の後、呉の軍隊は楚を攻伐せり。昭王は出走せり。申包胥は受命せずして、西に向かい秦伯に見えて曰く「呉は無道、兵は強く人は多し。将に天下を征討せんとし、楚より始めん。寡君は出走して雲夢に住み、下臣を派して來りて急を告げしむ。」哀公は曰く「よし。我は本來即ちこの事を謀劃せんとす。」申包胥は朝を退かず、秦の朝廷の上に立ちて、晝夜哭泣し、七日七夜にして聲音斷えず。哀公は曰く「この如き臣有れば、以て救わざるべからんや。」兵を起して楚を救えり。呉人はこれを聞きて、兵を帶びて歸れり。昭王は返回し、また申包胥を封せんと欲す。申包胥は推辞して曰く「亡を救うは名のためならず。功が成りて賞賜を接受するは、即ち勇力を出賣するなり。」推辞して受けず、そこで退隱して、終身不再び出現せず。『詩経』に曰く「およそ民に喪事有らば、爬いて往きて彼を救え。」

楚令尹虞丘子復於莊王曰:“臣聞奉公行法,可以得榮,能淺行薄,無望上位,不名仁智,無求顯榮,才之所不著,無當其處。臣為令尹十年矣,國不加治,獄訟不息,處士不升,淫禍不討,久踐高位,妨群賢路,尸祿素餐,貪慾無●,臣之罪當稽於理,臣竊選國俊下里之士孫叔敖,秀羸多能,其性無慾,君舉而授之政,則國可使治而士民可使附。”莊王曰:“子輔寡人,寡人得以長於中國,令行於絕域,遂霸諸侯,非子如何?”虞丘子曰:“久固祿位者,貪也;不進賢達能者,誣也;不讓以位者,不廉也;不能三者,不忠也。為人臣不忠,君王又何以為忠?臣願固辭。”莊王從之,賜虞子采地三百,號曰“國老”,以孫叔敖為令尹。少焉,虞丘子家幹法,孫叔敖執而戮之。虞丘子喜,入見於王曰:“臣言孫叔敖果可使持國政,奉國法而不黨,施刑戮而不骫,可謂公平。”莊王曰:“夫子之賜也已!”

楚令尹虞丘子は荘王に向かい回報して曰く「臣が聞くに、公を奉じて法を行うは以て榮を得べし。才能淺く行為薄ければ則ち上位を指望するなかれ。仁智と称せられざれば則ち顯榮を求むるなかれ。才能の能く顯著せざる所は、あの位子に處るなかれと。臣は令尹を為ること十年なり。國は更に治理せず、獄訟は停止せず、處士は提升せられず、淫禍は討伐せられず。長久に高位を踐踏し、群賢の路を妨碍し、空しく俸禄を受け白く飯を食えり。貪欲は滿足なし。臣の罪は当に法官に交付して考核せらるべし。臣は私に國內俊秀の鄉里之士孫叔敖を択取せり。清瘦にして多能、其の性は欲望なし。君は舉用して政を彼に交付せば、即ち以て國を治理し士民を歸附せしむべし。」荘王は曰く「お前は寡人を輔佐し、寡人は中國に於て首と為るを得、政令は極遠の地域に行きて、そこで諸侯に稱覇せり。お前に非ずんばまた誰か。」虞丘子は曰く「長久に禄位を固守するは、貪なり。賢達有能の人を進薦せざるは、欺誣なり。位子を讓出せざるは、不廉なり。この三樣は皆能わざるは、不忠なり。人臣を為りて不忠なれば、君王はまた何を凭りて以て忠と為さん。臣は堅く推辞せんを希望す。」荘王は聽從したり。虞子に采地三百を賜い、「國老」と号して、孫叔敖を以て令尹と為せり。ほどなく、虞丘子の家裏に人ありて法令を觸犯せり。孫叔敖は捉えて殺せり。虞丘子は高興し、進みて王に見えて曰く「臣の説きし孫叔敖は果して彼をして國政を主持せしむべし。國法を奉行して結黨せず、刑戮を施行して枉曲せず。以て公平と称すべし。」荘王は曰く「これは夫子の賜與か!」

趙宣子言韓獻子於晉侯曰:“其為人不黨,治眾不亂,臨死不恐。”晉侯以為中軍尉。河曲之役,趙宣子之車幹行,韓獻子戮其僕,人皆曰:“韓獻子必死矣,其主朝升之,而暮戮其僕,誰能待之!”役罷,趙宣子觴大夫,爵三行曰:“二三子可以賀我。”二三子曰:“不知所賀。”宣子曰:“我言韓厥於君,言之而不當,必受其刑。今吾車失次而戮之僕,可謂不黨矣。是吾言當也。”二三子再拜稽首曰:“不惟晉國適享之,乃唐叔是賴之,敢不再拜稽首乎?”

趙宣子は晋侯に向かい韓献子を称説して曰く「彼は人と為りて黨を正さず、衆人を治理して乱れず、死に臨面して恐懼せず。」晋侯は彼を以て中軍尉と為せり。河曲のあの一仗に、趙宣子の車子は行列を扰乱せり。韓献子は其の御者を殺せり。人は皆曰く「韓献子は必ず死を得ん。其の主は朝に彼を提升し、晚に即ち彼の御者を殺す。誰か能く容忍せん。」戰役は結束し、趙宣子は大夫に酒を請いて、爵を三次行いて曰く「二三子は以て我を慶賀すべし。」二三子は曰く「何を慶賀するかを知らず。」宣子は曰く「我は君に向かい韓厥を称説せり。説きて得當せざれば、必ず刑を受けん。いま我が車子は次序を失い、彼は即ち御者を殺せり。以て黨を正さずと称すべし。これは我が説きて得當せるなり。」二三子は再拜叩頭して曰く「ただ晋國のみ正好してこのを享有するにあらず、唐叔に連なるもこのに依頼す。敢えて再拜叩頭せざらんや。」

晉文公問於咎犯曰:“誰可使為西河守者?”咎犯對曰:“虞子羔可也。”公曰:“非汝之讎也?”對曰:“君問可為守者,非問臣之讎也。”羔見咎犯而謝之曰:“幸赦臣之過,薦之於君,得為西河守。”咎犯曰:“薦子者公也,怨子者私也,吾不以私事害公事,子其去矣,顧吾射子也!”

晋文公は咎犯に問うた「誰か以て派して西河守を為らしむべきか。」咎犯は答え曰く「虞子羔は以て可なり。」公は曰く「彼はお前の仇人にあらずや。」答え曰く「君の問うは以て守を為るべき人なり。臣の仇人を問うにあらず。」羔は咎犯に見えて彼に道謝して曰く「幸いに臣の過錯を赦免して、臣を君に薦げて、西河守を為るを得たり。」咎犯は曰く「お前を薦ぐるは公なり。お前を怨むは私なり。我は私事を以て公事を妨害せず。お前は走れ。回頭して我は可是れお前を射ん!」

楚文王伐鄧,使王子革王子靈共捃菜,二子出採,見老丈人載畚,乞焉,不與,搏而奪之。王聞之,令皆拘二子,將殺之。大夫辭曰:“取畚信有罪,然殺之非其罪也,君若何殺之?”言卒,丈人造軍而言曰:“鄧為無道,故伐之,今君公之子搏而奪吾畚,無道甚於鄧。”呼天而號,君聞之,群臣恐,君見之曰:“討有罪而橫奪,非所以禁暴也;恃力虐老,非所以教幼也;愛子棄法,非所以保國也;私二子、滅三行,非所以從政也,丈人舍之矣。”謝之軍門之外耳。

楚文王は鄧を伐ち、王子革・王子靈を派してともに菜を拾わしめた。二子は出でて采るに、一位の老丈人が車を以て畚箕を載せるを見て、彼に求むるも與えず。即ち彼を毆打して奪取せり。王はこれを聞き、令を下して二子を皆拘え、将に殺掉せんとす。大夫は勸解して曰く「畚箕を奪取するは確かに罪あり。しかるに彼らを殺すは彼らの罪にあらず。君は何故彼らを殺すか。」話は畢りて、丈人は軍中に至りて曰く「鄧は無道、ゆえにそれを討伐す。いま君公の兒子は我が畚箕を毆打奪取す。無道は鄧より更に厲し。」天を呼びて號哭せり。君はこれを聞き、群臣は恐懼せり。君は彼を接見して曰く「罪有るを討伐して卻って橫暴に奪取するは、以て暴を禁止するにあらず。力氣を仗りて老人を虐待するは、以て幼小を教導するにあらず。兒子を愛して法を抛弃するは、以て國を保するにあらず。兩個の兒子を私護し三種の品行を毀滅するは、以て政に從するにあらず。丈人は彼らを原諒せよ。」ただ軍門の外に於て彼に道歉せり。

楚令尹子文之族有幹法者,廷理拘之,聞其令尹之族也而釋之。子文召廷理而責之曰:“凡立廷理者將以司犯王令而察觸國法也。夫直士持法,柔而不撓;剛而不折。今棄法而背令而釋犯法者,是為理不端,懷心不公也。豈吾營私之意也,何廷理之駁於法也!吾在上位以率士民,士民或怨,而吾不能免之於法。今吾族犯法甚明,而使廷理因緣吾心而釋之,是吾不公之心,明著於國也。執一國之柄而以私聞,與吾生不以義,不若吾死也。遂致其族人於廷理曰:“不是刑也,吾將死!”廷理懼,遂刑其族人。成王聞之,不及履而至於子文之室曰:“寡人幼少,置理失其人,以違夫子之意。”於是黜廷理而尊子文,使及內政。國人聞之,曰:“若令尹之公也,吾黨何憂乎?”乃相與作歌曰:“子文之族,犯國法程,廷理釋之,子文不聽,恤顧怨萌,方正公平。”

楚令尹子文の族人に法令を觸犯する者あり。廷理は彼を捉え、令尹の族人和聞きて即ち放せり。子文は廷理を召して彼を責備して曰く「およそ廷理を設立するは、以て王令と國法を觸犯するを督察せんと欲す。正直の士は法を執りて、柔和にして彎曲せず、剛強にして折斷せず。いま法を抛弃し令を違背して法を犯す人を放掉するは、これは法官を為りて端正ならず、心裏に不公を懷くなり。豈に是れ我が私を營するの意思か。廷理は法に對して何と駁雜なるか!我は上位に處りて以て士民を率領す。士民あるいは怨恨有るも、我は能く彼を法より免れしめず。いま我が族人は法を犯すこと甚だ明白にして、卻って廷理をして我が心意に迎合して放掉せしむ。これは我が不公の心の國中に顯明するなり。一國の權柄を執掌して卻って私を以て聞こゆ。其の我が生きて義に合わざるより、我が死するに如かず。」そこで其の族人を廷理の所に送りて曰く「彼に刑を用いざれば、我は将に死せん!」廷理は恐懼し、終に彼の族人に刑を用いたり。成王はこれを聞きて、鞋を穿くに及ばずして子文の屋子に至りて曰く「寡人は幼小、法官を設置して人を錯用し、以致りて夫子の心意に違背せり。」そこで廷理を罷黜して子文を尊重し、彼をして內政に參与せしめたり。國人はこれを聞きて、曰く「令尹の如く公なれば、我らこれらの人はまた何を憂慮せん。」そこで一齊に歌を作して曰く「子文の族人、國法章程に觸犯し、廷理は彼を放掉し、子文は答應せず。怨恨の萌芽を顧念し、方正公平なり。」

楚莊王有茅門者法曰:“群臣大夫諸公子入朝,馬蹄蹂溜者斬其輈而戮其御。”太子入朝,馬蹄蹂溜。廷理斬其輈而戮其御。太子大怒,入為王泣曰:“為我誅廷理。”王曰:“法者所以敬宗廟,尊社稷,故能立法從令尊敬社稷者,社稷之臣也,安可以加誅?夫犯法廢令,不尊敬社稷,是臣棄君,下陵上也。臣棄君則主失威,下陵上則上位危,社稷不守,吾何以遺子?”太子乃還走避舍,再拜請死。

楚荘王に茅門の法令有りて曰く「群臣・大夫・各位の公子が朝に入るに、馬蹄が屋檐の下の水溝を踩む者は、車轅を斬斷して併せて御者を殺せ。」太子は朝に入りて、馬蹄は屋檐の下の水溝を踩めり。廷理は車轅を斬斷して併せて御者を殺せり。太子は大いに怒り、進みて王に對して哭泣して曰く「我がために廷理を殺せ。」王は曰く「法は以て宗廟を敬い社稷を尊するなり。ゆえに能く法を立て令に從い社稷を尊敬するは、社稷之臣なり。どうして以て誅殺を加えんや。法を犯し令を廢して社稷を尊敬せざるは、臣は君を抛弃し在下は在上を陵越すなり。臣が君を抛弃すれば則ち主は威を失い、在下が在上を陵越すれば則ち上位は危険なり。社稷は守る能わず、我は何を以て兒子に留せん。」太子はそこで退走して正寝を避け、再拜して死を受けんことを請求せり。

楚莊王之時,太子車立於茅門之內,少師慶逐之,太子怒,入謁王曰:“少師慶逐臣之車。王曰:“舍之,老君在前而不踰,少君在後而不豫,是國之寶臣也。”

楚荘王の時、太子の車子は茅門の內に停めり。少師慶はそれを趕走せり。太子は發怒し、進みて王に謁見して曰く「少師慶は臣の車子を趕走せり。」王は曰く「彼を放過せよ。老君は前に在りて分を越えず、少君は後ろに在りて豫め討好せず。これは國の寶臣なり。」

吳王闔廬為伍子胥興師復讎於楚。子胥諫曰:“諸侯不為匹夫興師,且事君猶事父也,虧君之義,復父之讎,臣不為也。”於是止。其後因事而後復其父讎也,如子胥可謂不以公事趨私矣。

呉王闔廬は伍子胥のために兵を起して楚に向かい仇を報いんとせり。子胥は進諫して曰く「諸侯は匹夫のために兵を起さず。さらに君に事奉するは父に事奉するが如く、君の義を虧損して以て父の仇に報ゆるは、臣は為さず。」そこで停止せり。後に別の事を藉りて乃ち彼の父の仇を報いたり。子胥の如きは、以て公事を拿りて私に趨就せざると称すべし。

孔子為魯司寇,聽獄必師斷,敦敦然皆立,然後君子進曰:“某子以為何若,某子以為云云。”又曰:“某子以為何若,某子曰云雲。”辯矣。然後君子幾當從某子云云乎,以君子之知,豈必待某子之云云,然後知所以斷獄哉?君子之敬讓也,文辭有可與人共之者,君子不獨有也。

孔子は魯の司寇を為り、獄訟を審理するに必ず衆人とともに裁斷し、皆敦厚にして立ちて、然る後に君子は進前して曰く「某子は以て如何、某子は以て如何如何。」また曰く「某子は以て如何、某子は説く如何如何。」已に辯明せり。然る後に君子は乃ち説く、ほぼ当に某子の如何如何に依從すべきかと。君子の智を凭れば、どうして必ず某子の如何如何を待ちて、然る後に乃ちどう獄を斷ずるを知らんや。これは君子の敬讓なり。文辭に以て人と共同して有るべき有り。君子は獨自占有せず。

子羔為衛政,刖人之足。衛之君臣亂,子羔走郭門,郭門閉,刖者守門,曰:“於彼有缺!”子羔曰:“君子不踰。”曰:“於彼有竇。”子羔曰:“君子不遂。”曰:“於此有室。”子羔入,追者罷。子羔將去,謂刖者曰:“吾不能虧損主之法令而親刖子之足,吾在難中,此乃子之報怨時也,何故逃我?”刖者曰:“斷足固我罪也,無可奈何。君之治臣也,傾側法令,先後臣以法,欲臣之免於法也,臣知之。獄決罪定,臨當論刑,君愀然不樂,見於顏色,臣又知之。君豈私臣哉?天生仁人之心,其固然也。此臣之所以脫君也。”孔子聞之,曰:“善為吏者樹德,不善為吏者樹怨。公行之也,其子羔之謂歟?”

子羔は衛に於て執政し、人の脚を砍れり。衛の君臣は亂を作し、子羔は郭門に向かい逃げ、郭門は關せられ、脚を砍られた人は門を守りて曰く「あそこに缺口あり!」子羔は曰く「君子は翻越せず。」曰く「あそこに洞あり。」子羔は曰く「君子は洞を钻がず。」曰く「ここに屋子あり。」子羔は入りて、追う人は停止せり。子羔は将に離開せんとし、脚を砍られた人に對して曰く「我は能く主上の法令を虧損して自らお前の脚を砍りぬ。我は患難の中に在り。これは正にお前が仇を報ずる時なり。何故我をして逃走せしむか。」脚を砍られた人は曰く「脚を斷たれたは本來我が罪、如何ともすべきなし。君が臣を治理する時、反復して法令を推敲し、法を臣の先後に置き、臣をして法を免れしめんと欲せり。臣は知れり。獄は已に判決し罪は已に定められ、刑を論ずるに臨んで、君は愀然として樂しまず、臉色に顯れり。臣はまた知れり。君は豈に臣を私護せんや。天は仁人の心を生ず。本來この如し。これが臣の以て君をして身を脱がしむるの緣故なり。」孔子はこれを聞きて、曰く「吏を為るに善きは徳を樹立し、吏を為るに善からざるは怨を樹立す。公正に實行するは、ほぼ子羔を言うか。」

卷十五指武

巻十五 指武

司馬法曰:“國雖大,好戰必亡;天下雖安,忘戰必危。”易曰:“君子以除戎器,戒不虞。”夫兵不可玩,玩則無威;兵不可廢,廢則召寇。昔吳王夫差好戰而亡,徐偃王無武亦滅。故明王之制國也,上不玩兵,下不廢武。易曰:“存不忘亡,是以身安而國家可保也。”

『司馬法』に曰く「國は大なりといえども、戰を好めば必ず滅亡す。天下は安定すといえども、戰爭を忘れば必ず危險なり。」『周易』に曰く「君子は兵��を修治し、意外を戒備す。」兵器は玩弄すべからず、玩弄すれば即ち威無し。兵器は廢棄すべからず、廢棄すれば即ち寇敵を招來す。昔、呉王夫差は戰を好みて滅亡し、徐偃王は武備なくしてまた滅亡せり。ゆえに明王は國家を治理して、上は兵器を玩弄せず、下は武備を廢棄せず。『周易』に曰く「生存して滅亡を忘れず、これにより自身は安定して國家は以て保全すべし。」

秦昭王中朝而嘆曰:“夫楚劍利、倡優拙。夫劍利則士多慓悍,倡優拙則思慮遠也,吾恐楚之謀秦也。”此謂當吉念兇,而存不忘亡也,卒以成霸焉。

秦昭王は朝廷の上に於て嘆息して曰く「楚の劍は鋒利にして、倡優は笨拙なり。劍が鋒利なれば則ち士は多く強悍し、倡優が笨拙なれば則ち思慮は深遠なり。我は楚が秦を謀劃するを怕る。」これを吉の裏に處りて凶を想い、生存して滅亡を忘れずと曰い、終にこれにより霸業を成就せり。

王孫厲謂楚文王曰:“徐偃王好行仁義之道,漢東諸侯三十二國盡服矣!王若不伐,楚必事徐。”王曰:“若信有道,不可伐也。”對曰:“大之伐小,強之伐弱,猶大魚之吞小魚也,若虎之食豚也,惡有其不得理?”文王興師伐徐,殘之。徐偃王將死,曰:“吾賴於文德而不明武備,好行仁義之道而不知詐人之心,以至於此。”夫古之王者其有備乎?

王孫厲は楚文王に對して曰く「徐偃王は仁義之道を實行するを喜好す。漢水以東の諸侯三十二國は皆歸服せり!王がもし往きて伐たざれば、楚は必ず徐に事奉するを得ん。」王は曰く「もし彼が真に道有らば、伐つべからず。」答え曰く「大は小を伐ち、強は弱を伐つ。猶お大魚の小魚を吞むが如く、虎の小豬を食むが如し。どこに理を得ざるあらん。」文王は兵を起して徐を伐ち、それを殘破せり。徐偃王は将に死せんとして曰く「我は文徳に依頼して武備を明白せず、仁義之道を實行するを喜好して欺詐の人心を知らず。以致りてこの歩に至れり。」古代王と称する人は、ほぼ皆武備有りしか!

吳起為苑守,行縣適息,問屈宜臼曰:“王不知起不肖,以為苑守,先生將何以教之?”屈公不對。居一年,王以為令尹,行縣適息。問屈宜臼曰:“起問先生,先生不教。今王不知起不肖,以為令尹,先生試觀起為之也!”屈公曰:“子將奈何?”吳起曰:“將均楚國之爵而平其祿,損其有餘而繼其不足,厲甲兵以時爭於天下。”屈公曰:“吾聞昔善治國家者不變故,不易常。今子將均楚國之爵而平其祿,損其有餘而繼其不足,是變其故而易其常也。且吾聞兵者兇器也,爭者逆德也。今子陰謀逆德,好用兇器,殆人所棄,逆之至也,淫泆之事也,行者不利。且子用魯兵不宜得志於齊而得志焉;子用魏兵不宜得志於秦而得志焉。吾聞之曰:‘非禍人不能成禍。’吾固怪吾主之數逆天道,至今無禍。嘻!且待夫子也。”吳起惕然曰:“尚可更乎?”屈公曰:“不可。”吳起曰:“起之為人謀。”屈公曰:“成刑之徒不可更已!子不如敦處而篤行之,楚國無貴於舉賢。”

呉起は苑地の守を為り、屬縣を巡行して息に至り、屈宜臼に問うて曰く「王は起が不肖なるを知らず、我を以て苑守と為せり。先生は将に何を以て我を教導せん。」屈公は答えず。一年を過ぎて、王は彼を以て令尹と為せり。屬縣を巡行して息に至り、屈宜臼に問うて曰く「起は先生に問うて、先生は教導せず。いま王は起が不肖なるを知らず、我を以て令尹と為せり。先生は試みに起がどう為すを看よ!」屈公は曰く「お前は将にどうせん。」呉起は曰く「将に楚國の爵を均平にし其の禄を齊平にし、餘有るを減損し不足を接濟し、甲兵を磨礪して時を按じて天下に向かい争奪せん。」屈公は曰く「我が聞くに、昔の國家を治理するに善きは舊法を改變せず、常規を改易せずと。いまお前は将に楚國の爵を均平にし其の禄を齊平にし、餘有るを減損し不足を接濟せんとす。これは舊法を改變し常規を改易するなり。さらに我が聞くに、兵器は凶器にして、争奪は逆徳なり。いまお前は暗中に逆徳を謀劃し、凶器を使用するを喜好す。これはほぼ人の抛弃する所、逆は極に至り、是れ淫泆の事、為す人は利あらず。さらにお前は魯の兵を用いて本來斉に於て志を得べからざるに得たり。お前は魏の兵を用いて本來秦に於て志を得べからざるに得たり。我が聞くに『禍を為さざる人に非ざれば能く禍を構成せず』と。我は本來我が主が屢々天道に逆らうに到るまで禍なきを怪しめり。唉!将に夫子に等到せん。」呉起は警惕して曰く「なお以て更改すべきか。」屈公は曰く「以て可ならず。」呉起は曰く「起は人のために謀劃す。」屈公は曰く「已に成形せる人は再び更改すべからず!お前は敦厚にして自處し切實に實行するに如かず。楚國は賢人を舉用するより貴きなし。」

春秋記國家存亡,以察來世,雖有廣土眾民,堅甲利兵,威猛之將,士卒不親附,不可以戰勝取功。晉侯獲於韓;楚子玉得臣敗於城濮;蔡不待敵而眾潰。故語曰:“文王不能使不附之民;先軫不能戰不教之卒;造父王良不能以弊車不作之馬,趨疾而致遠;羿逄蒙不能以枉矢弱弓,射遠中微;故強弱成敗之要,在乎附士卒,教習之而已。”

『春秋』は國家の存亡を記載し、以て來世を察看す。たとえ廣大の土地・衆多の民・堅甲利兵・威猛の將あるも、士卒が親附せざれば、また以て戰勝して功を立つべからず。晋侯は韓に於て俘獲せられ、楚の子玉得臣は城濮に於て戰敗せり。蔡は敵人の到來を等到せずして部衆は即ち潰散せり。ゆえに俗語に曰く「文王は能く親附せざる民を役使せず、先軫は能く未だ教練せざる卒を以て戰いに往かせず、造父・王良は能く破車と振作せざる馬を以て、速く走りて遠方に到達せず、羿・逄蒙は能く彎曲の箭・軟弱の弓を以て、遠處に射て細微に射中せず。ゆえに強弱成敗の要害は、士卒を親附し教練演習するに在るのみ。」

內治未得,不可以正外,本惠未襲,不可以制末,是以春秋先京師而後諸夏,先諸華而後夷狄。及周惠王,以遭亂世,繼先王之體,而強楚稱王,諸侯背叛,欲申先王之命,一統天下。不先廣養京師,以及諸夏,諸夏以及夷狄,內治未得,忿則不料力,權得失,興兵而徵強楚,師大敗,撙辱不行,大為天下笑。幸逢齊桓公以得安尊,故內治未得不可以正外,本惠未襲,不可以制末。

內部の治理は未だ得當せざれば、以て外部を端正するに往くべからず。根本の恩惠は未だ沾潤せざれば、以て末梢を控制するに往くべからず。これにより『春秋』は京師を先にして諸夏を後にし、華夏を先にして夷狄を後にす。周惠王に至りて、乱世に遭遇し、先王の體統を繼承するに、而して強楚は王を称し、諸侯は背叛せり。先王の命令を申明し、天下を一統せんと欲す。先に廣く京師を供養せずして、再び諸夏に推及し、諸夏に由りて再び夷狄に推及せず。內部の治理は未だ得當せざるに、忿怒して即ち力量を估量せず得失を權衡せず、兵を起して前往して強楚を征討し、軍隊は大敗し、受挫して辱を受け成行する能わず、大大に天下に恥笑せられたり。幸いに斉桓公に遇うを得て乃ち尊位を安定するを得たり。ゆえに內部の治理は未だ得當せざれば、以て外部を端正するに往くべからず。根本の恩惠は未���沾潤せざれば、以て末梢を控制するに往くべからず。

將帥受命者,將帥入,軍吏畢入,皆北面再拜稽首受命。天子南面而授之鉞,東行,西面而揖之,示弗御也。故受命而出忘其國,即戎忘其家,聞枹鼓之聲,唯恐不勝忘其身,故必死。必死不如樂死,樂死不如甘死,甘死不如義死,義死不如視死如歸,此之謂也。故一人必死,十人弗能待也;十人必死,百人弗能待也;百人必死,千人不能待也;千人必死,萬人弗能待也;萬人必死,橫行乎天下,令行禁止,王者之師也。

將帥は命令を接受するの時、將帥は進みて入り、軍吏は全都進みて入り、皆北に向かい再拜叩頭して命令を接受せり。天子は南に向かい鉞を彼に授け、東に向かい走り、西に向かい揖を作し、以て不再び彼を駕馭するを表示せり。ゆえに命令を接受して出ずれば即ち自らの國を忘れ、軍中に至れば即ち自らの家を忘れ、鼓槌鼓聲を聞けば、ただ能く取勝せざるを怕れて自身を忘る。ゆえに必ず死を拼す。必ず死を拼するは死を樂しむに如かず、死を樂しむは心に甘んじて死するに如かず、心に甘んじて死するは義のために死するに如かず、義のために死するは死を視て歸るが如くするに如かず。これを言う。ゆえに一人が必ず死を拼すれば、十人は能く抵擋せず。十人が必ず死を拼すれば、百人は能く抵擋せず。百人が必ず死を拼すれば、千人は能く抵擋せず。千人が必ず死を拼すれば、萬人は能く抵擋せず。萬人が必ず死を拼すれば、即ち以て天下を橫行すべく、令有れば即ち行い禁有れば即ち止まる。これは王者の軍隊なり。

田單為齊上將軍,興師十萬,將以攻翟,往見魯仲連子。仲連子曰:“將軍之攻翟,必不能下矣!”田將軍曰:“單以五里之城,十里之郭,復齊之國,何為攻翟不能下?”去上車不與言。決攻翟,三月而不能下,齊嬰兒謠之曰:“大冠如箕,長劍拄頤,攻翟不能下,壘於梧丘。”於是田將軍恐駭,往見仲連子曰:“先生何以知單之攻翟不能下也?”仲連子曰:“夫將軍在即墨之時,坐則織蕢,立則杖臿為士卒倡曰:‘宗廟亡矣,魂魄喪矣,歸何黨矣。’故將有死之心,士卒無生之氣。今將軍東有掖邑之封,西有淄上之寶,金銀黃帶,馳騁乎淄澠之間,是以樂生而惡死也。”田將軍明日結髮,徑立矢石之所,乃引枹而鼓之,翟人下之。故將軍者,士之心也,士者將之枝體也,心猶與則枝體不用,田將軍之謂乎!

田單は斉の上將軍を為り、兵を起すこと十萬、将に翟を攻めんとし、前去して魯仲連子に見えたり。仲連子は曰く「將軍は翟を攻むるに、必ず能く攻下せざらん!」田將軍は曰く「單は五里の城・十里の郭を凭りて、斉國を恢復せり。何故翟を攻めて攻下する能わざらん。」車に上りて離れ去り、彼と話さず。決意して翟を攻むるも、三個月にして攻下する能わず。斉の兒童の歌謡に曰く「大帽子は簸箕の如く、長劍は下巴を支え、翟を攻めて下さず、營壘は梧丘に扎む。」そこで田將軍は恐懼驚駭し、前去して仲連子に見えて曰く「先生は何を凭り���單が翟を攻めて攻下する能わざるを知るか。」仲連子は曰く「將軍が即墨の時、坐れば即ち草筐を編織し、起てば即ち鐵鍬を拄き、士卒に帶頭して曰く『宗廟は亡び、魂魄は喪えり。どこに歸向せん』と。ゆえに將に死を拼する心有り、士卒に生を偷む氣なし。いま將軍は東邊に掖邑の封地有り、西邊に淄上の財寶有り、金銀黃帶して、淄・澠の間に於て馳騁す。これにより生を樂しみて死を厭惡す。」田將軍は明日に頭髪を束ね、徑直に箭石の到る所に立ち、そこで鼓槌を拿りて鼓を撃つ。翟人は攻下せられたり。ゆえに將軍は士の心にして、士は將の肢體なり。心はなお猶豫すれば則ち肢體は用いる能わず。ほぼ田將軍を言うか!

晉智伯伐鄭,齊田恆救之,有登蓋必身立焉,車徒有不進者必令助之。壘合而後敢處,井灶成而後敢食。智伯曰:“吾聞田恆新得國而愛其民,內同其財,外同其勤勞,治軍若此,其得眾也,不可待也。”乃去之耳。

晋の智伯は鄭を伐ち、斉の田恒は往きて救えり。車に登り蓋を張るに必ず自らあそこに立ち、車徒に前進せざる有れば必ず令を下して幫助せしめたり。營壘は合圍して然る後に乃ち敢えて居住し、井竈は做成して然る後に乃ち敢えて飯を食えり。智伯は曰く「我が聞くに、田恒は新近國を得て彼の民を愛し、內に於て財用を一同し、外に於て勤勞を一同す。軍隊を治理するにこの如し。彼は部衆を得たり。抵擋すべからず。」そこで離開せり。

太公兵法曰:“致慈愛之心,立武威之戰,以畢其眾;練其精銳,砥礪其節,以高其氣。分為五選,異其旗章,勿使冒亂;堅其行陣,連其什伍,以禁淫非。”壘陳之次,車騎之處,勒兵之勢,軍之法令,賞罰之數。使士赴火蹈刃,陷陣取將,死不旋踵者,多異於今之將也。

『太公兵法』に曰く「慈愛の心を招致し、武威の戰陣を建立し、以て彼の部衆を團結せよ。彼の精銳を訓練し、彼の節操を磨礪し、以て彼の氣を提高せよ。五選に分け、旗章を異ならしめ、彼らを混雑錯亂せしむるなかれ。彼の行列陣勢を堅固にし、彼の什伍を連結し、以て淫邪を禁止せよ。」營壘陣列の次序、車騎の位置、軍隊を統率する形勢、軍中の法令、賞罰の數目。士をして湯に赴き火を蹈み敵陣に陷入り敵將を斬取せしめ、死するも脚跟を掉轉せざるは、多くいまの將と同じからず。

孝昭皇帝時,北軍監御史為奸,穿北門垣以為賈區。胡建守北軍尉,貧無車馬,常步,與走卒起居,所以慰愛走卒甚厚。建欲誅監御史,乃約其走卒曰:“我欲與公有所誅,吾言取之則取之;斬之則斬之。”於是當選士馬日,護軍諸校列坐堂皇上,監御史亦坐。建從走卒趨至堂下拜謁,因上堂,走卒皆上,建跪指監御史曰:“取彼。”走卒前拽下堂。建曰:“斬之。”遂斬監御史,護軍及諸校皆愕驚,不知所以。建亦已有成奏在其懷。遂上奏以聞,曰:“臣聞軍法立武以威眾,誅惡以禁邪。今北軍監御史公穿軍垣以求賈利,買賣以與士市,不立剛武之心,勇猛之意,以率先士大夫,尤失理不公。臣聞黃帝理法曰:‘壘壁已具,行不由路,謂之奸人,奸人者殺。’臣謹以斬之,昧死以聞。”制曰:“司馬法曰:‘國容不入軍,軍容不入國也。’建有何疑焉?”建由是名興,後至渭城令,死。至今渭城有其祠也。

孝昭皇帝の時、北軍監御史は奸事を為し、北門の牆垣を鑿穿して賣買の攤子を為せり。胡建は北軍尉を代理し、貧窮にして車馬なく、常に步行し、走卒と起居を同じくし、以て走卒を撫慰愛護すること非常に優厚なり。建は監御史を誅殺せんと想い、即ち走卒と約定して曰く「我はお前たちと誅殺する所有らんと欲す。我は彼を抓れと言えば即ち彼を抓れ、彼を斬れと言えば即ち彼を斬れ。」そこで士馬を選練するの日に至りて、護軍と各位の軍校は堂上に列坐し、監御史もまた坐れり。建は走卒を帶びて快步して堂下に至りて拜謁し、そこで堂に上がり、走卒は皆上がり、建は跪きて監御史を指して曰く「あの人を抓住せよ。」走卒は上前して彼を堂を拽下せしめたり。建は曰く「彼を斬れ。」そこで監御史を斬れり。護軍と各位の軍校は皆愕然驚駭し、何故なるを知らず。建はまた已に寫成の奏章を懷裏に有り、そこで上奏して皇帝に知らしめて曰く「臣が聞くに、軍法は武威を樹立して以て部衆を威服し、惡人を誅殺して以て邪僻を禁止すと。いま北軍監御史は公然と軍牆を鑿穿して以て商賈の利を求め、賣買して士と交易を為し、剛武の心・勇猛の意を樹立せずして、以て士大夫に表率を為さず。尤も理を失い公ならず。臣が聞くに、黃帝の理法に曰く『營壘牆壁は已に具備す。行走して正路に從わざるを、奸人と曰う。奸人は即ち殺せ』と。臣は謹みて已に彼を斬れり。死を冒して陛下に知らしむ。」制書に曰く「『司馬法』に曰く『國の儀容は軍中に入らず、軍の儀容は國中に入らず。』建に何の疑うべきあらん。」建はこれにより名声は興起し、後に渭城令に至りて、死せり。今に至るまで渭城になお彼の祠有り。

魯石公劍,迫則能應,感則能動,●穆無窮,變無形像,復柔委從,如影與響,如尨之守戶,如輪之逐馬,響之應聲,影之像形也,閶不及鞈,呼不及吸,足舉不及集。相離若蟬翼,尚在肱北眉睫之微,曾不可以大息小,以小況大。用兵之道,其猶然乎?此善當敵者也。未及夫折沖於未形之前者,揖讓乎廟堂之上而施惠乎百萬之民,故居則無變動,戰則不血刃,其湯武之兵與!

魯石公の劍は、逼近すれば即ち能く應對し、感有れば即ち能く發動し、穆穆として窮盡なく、變化して形象なく、柔順委随して、影子と回響の如く、多毛狗の門を守るが如く、車輪の馬を追逐するが如く、回響の聲音に應和するが如く、影子の形體を仿照するが如し。開闔するに撞擊するに及ばず、呼氣するに吸氣するに及ばず、脚は剛ぎ擡げて收住するに及ばず。相離れるは蝉翼の如く薄く、なお肱臂・鼻准・眉睫の如く細微の處所に在り、竟に以て大を以て小を計量し、小を以て大を比況する能わず。兵を用いるの道理は、ほぼまたこの如きか。これは敵人を抵擋するに善きなり。なお未だ成形せざるの先に於て敵人の衝鋒を折斷するに如かず。廟堂の上に於て揖讓して恩惠を百萬の民に施與し、ゆえに平時に變動なく、交戰するに必ずしも兵刃を血染せず。あれはほぼ湯武の兵か!

孔子北遊,東上農山,子路、子貢、顏淵從焉。孔子喟然嘆曰:“登高望下,使人心悲,二三子者,各言爾志。丘將聽之。”子路曰:“願得白羽若月,赤羽若日,鐘鼓之音上聞乎天,旌旗翩翻,下蟠於地。由且舉兵而擊之,必也攘地千里,獨由能耳。使夫二子為從焉!”孔子曰:“勇哉士乎!憤憤者乎﹗”子貢曰:“賜也,願齊楚合戰於莽洋之野,兩壘相當,旌旗相望,塵埃相接,接戰構兵,賜願著縞衣白冠,陳說白刃之間,解兩國之患,獨賜能耳。使夫二子者為我從焉!”孔子曰:“辯哉士乎!僊僊者乎!”顏淵獨不言。孔子曰:“回!來!若獨何不願乎?”顏淵曰:“文武之事,二子已言之,回何敢與焉!”孔子曰:“若鄙,心不與焉,第言之!”顏淵曰:“回聞鮑魚蘭芷不同篋而藏,堯舜桀紂不同國而治,二子之言與回言異。回願得明王聖主而相之,使城郭不修,溝池不越,鍛劍戟以為農器,使天下千歲無戰鬥之患,如此則由何憤憤而擊,賜又何僊僊而使乎?”孔子曰:“美哉,德乎!姚姚者乎!”子路舉手問曰:“願聞夫子之意。”孔子曰:“吾所願者,顏氏之計,吾願負衣冠而從顏氏子也。”

孔子は北に向かい游歷し、東に向かい農山に登り、子路・子貢・顔淵は跟隨せり。孔子は喟然として嘆息して曰く「高く登りて下を望むは、人をして心裏悲傷せしむ。二三子は各々お前たちの志向を説説せよ。丘は将に聽かん。」子路は曰く「白羽は月の如く赤羽は日の如く、鐘鼓の聲音は上は天に傳り、旌旗は翻飛して、下は地に盤繞するを得んを希望す。由は兵を起して往きて攻擊せん。必ず土地千里を開拓せん。ただ由のみ能く到る。あの兩位をして隨從を為らしめよ!」孔子は曰く「勇猛の士かな!憤激の人かな!」子貢は曰く「賜や、斉・楚が廣大の原野の上に於て會戰し、兩座の營壘は相對し、旌旗は相望み、塵埃は相接し、交戰して兵を構えるを希望す。賜は白衣を着て白冠を戴きて、白刃の間に於て陳説し、兩國の患を解除せんを希望す。ただ賜のみ能く到る。あの兩位をして我が隨從を為らしめよ!」孔子は曰く「善辯の士かな!輕飄飄の人かな!」顔淵は独り話さず。孔子は曰く「回!過來!お前は独り何の願わざる有るか。」顔淵は曰く「文武の事は、二子は已に説けり。回はどうして敢えて參与せん!」孔子は曰く「お前は謙卑にして、心裏贊同せず。只管に説け!」顔淵は曰く「回が聞くに、鮑魚と蘭芷は同一の箱子の裏に於て收藏せず、堯舜と桀紂は同一の國に於て治理せずと。二子の話と回の話は同じからず。回は明王聖主を得て往きて彼を輔佐せんを希望す。城郭を修筑するを用いず、溝池を逾越するを用いず、劍戟を鍛打して農器と為し、天下をして千年戰鬥の患なからしめん。この如くなれば、由は何ぞ必ずしも憤激して往きて攻擊せんや、賜は何ぞ必ずしも輕飄飄して往きて出使せんや。」孔子は曰く「美なるかな、徳や!盛美の人かな!」子路は手を擧げて問うた「夫子の意思を聽かんを希望す。」孔子は曰く「我が愿望するは、顔氏の計謀なり。我は願わくは衣冠を背負いて顔氏子に跟隨せん。」

魯哀公問於仲尼曰:“吾欲小則守,大則攻,其道若何?”仲尼曰:“若朝廷有禮,上下有親,民之眾皆君之畜也,君將誰攻?若朝廷無禮,上下無親,民眾皆君之讎也,君將誰與守?”於是廢澤梁之禁,弛關市之徵,以為民惠也。”

魯哀公は仲尼に問うた「我は小なれば則ち守り、大なれば則ち攻めんと欲す。あの道理は如何。」仲尼は曰く「もし朝廷に礼有り、上下に親有れば、民衆は多く皆君の畜養する所なり。君は将に誰を攻めん。もし朝廷に礼なく、上下に親なければ、民衆は皆君の仇敵なり。君は将に誰と守らん。」そこで澤梁の禁令を廢除し、關市の徵收を放松し、これらを以て民に對する恩惠と為せり。

文王曰:“吾欲用兵,誰可伐?密須氏疑於我,可先往伐。”管叔曰:“不可。其君天下之明君也,伐之不義。”太公望曰:“臣聞之先王伐枉不伐順;伐險不伐易;伐過不伐不及。”文王曰:“善。”遂伐密須氏,滅之也。

文王は曰く「我は兵を用いんと欲す。誰か以て伐つべきか。密須氏は我らに對して疑心有り。先に往きて伐つべし。」管叔は曰く「以て可ならず。其の君は天下の明君なり。彼を伐つは義ならず。」太公望は曰く「臣が聞くに、先王は邪曲を伐ちて順從を伐たず、險惡を伐ちて平易を伐たず、過分を伐ちて不足を伐たずと。」文王は曰く「よし。」そこで密須氏を伐ち、それを滅せり。

武王將伐紂。召太公望而問之曰:“吾欲不戰而知勝,不卜而知吉,使非其人,為之有道乎?”太公對曰:“有道。王得眾人之心,以圖不道,則不戰而知勝矣;以賢伐不肖,則不卜而知吉矣。彼害之,我利之。雖非吾民,可得而使也。”武王曰:“善。”乃召周公而問焉,曰:“天下之圖事者,皆以殷為天子,以周為諸侯,以諸侯攻天子,勝之有道乎?”周公對曰:“殷信天子,周信諸侯,則無勝之道矣,何可攻乎?”武王忿然曰:“汝言有說乎?”周公對曰:“臣聞之,攻禮者為賊,攻義者為殘,失其民製為匹夫,王攻其失民者也,何攻天子乎?”武王曰:“善。”乃起眾舉師,與殷戰於牧之野,大敗殷人。上堂見玉,曰:“誰之玉也?”曰:“諸侯之玉。”即取而歸之於諸侯。天下聞之,曰:“武王廉於財矣。”入室見女,曰:“誰之女也?”曰:“諸侯之女也。”即取而歸之於諸侯。天下聞之,曰:“武王廉於色也。”於是發巨橋之粟,散鹿臺之財金錢以與士民,黜其戰車而不乘,弛其甲兵而弗用,縱馬華山,放牛桃林,示不復用。天下聞者,鹹謂武王行義於天下,豈不大哉?

武王は将に紂を伐たんとし、太公望を召して彼に問うて曰く「我は交戦せずして勝利を知り、占卜せずして吉を知り、我が原有に非ざる人を役使し、これを為すに道有るかを欲す。」太公は答え曰く「道有り。王は衆人の心を得て、以て無道を圖謀すれば、即ち交戦せずして勝利を知れり。賢を以て不肖を伐てば、即ち占卜せずして吉を知れり。彼は彼らを害し、我は彼らを利す。たとえ我が民に非ずとも、また以て得て役使すべし。」武王は曰く「よし。」そこで周公を召して來りて問うて曰く「天下の事を謀劃する人は、皆殷を以て天子と當り、周を以て諸侯と當れり。諸侯を以て天子を攻むるに、取勝するに道有るか。」周公は答え曰く「殷は真に天子、周は真に諸侯なれば、即ち取勝の道理なし。どうして以て攻めんや。」武王は忿然として曰く「お前の話に説法有るか。」周公は答え曰く「臣が聞くに、礼を攻むるを賊と曰い、義を攻むるを殘と曰う。其の民を失い制度廢壞すれば即ち匹夫なり。王が攻むるは民を失いし人なり。どこに天子を攻むるあらんや。」武王は曰く「よし。」そこで部衆を發動し軍隊を擧げ、殷と牧野に於て交戦し、大いに殷人を敗れり。堂に登りて玉を見て、曰く「誰の玉か。」曰く「諸侯の玉。」即ち取りて諸侯に歸還せしめたり。天下はこれを聞きて、曰く「武王は財に對して廉潔なり。」室に入りて女子を見て、曰く「誰の女子か。」曰く「諸侯の女子。」即ち取りて諸侯に歸還せしめたり。天下はこれを聞きて、曰く「武王は女色に對して廉潔なり。」そこで巨橋の粟を發放し、鹿台の財貨金錢を散發して士民に與え、戰車を廢黜して不再び乘坐せず、甲兵を放松して不再び使用せず、馬を華山に放ち、牛を桃林に放ちて、以て不再び用いるを表示せり。天下の聞く者は、皆武王が天下に於て義を實行せりと曰う。豈に偉大ならずんばあらんや!

文王欲伐崇,先宣言曰:“予聞崇侯虎,蔑侮父兄,不敬長老,聽獄不中,分財不均,百姓力盡,不得衣食,予將來徵之,唯為民乃伐崇,令毋殺人,毋壞室,毋填井,毋伐樹木,毋動六畜,有不如令者死無赦。”崇人聞之,因請降。

文王は崇を伐たんと欲し、先に宣告して曰く「我が聞くに、崇侯虎は父兄を輕蔑侮辱し、長老を敬重せず、獄訟を審理して得當せず、財物を分配して均匀せず。百姓は力氣を盡くして、衣食を得ず。我は将に前來して彼を征討せん。ただ民のためのみ崇を伐つ。命令:人を殺するなかれ、房屋を毀壞するなかれ、井を填むなかれ、樹木を砍伐するなかれ、六畜を動かすなかれ。命令に照らさざる有れば死して赦さず。」崇人はこれを聞きて、そこで投降を請求せり。

楚莊王伐陳,吳救之,雨十日十夜晴。左史倚相曰:“吳必夜至,甲列壘壞,彼必薄我,何不行列鼓出待之。”吳師至楚,見成陳而還。左史倚相曰:“追之。”吳行六十里而無功,王罷卒寢。果擊之,大敗吳師。

楚荘王は陳を伐ち、呉は來りて救えり。雨は十日十夜にして乃ち放晴れり。左史倚相は曰く「呉は必ず夜に到來せん。鎧甲は排列し營壘は毀壞せば、彼らは必ず我らに逼近せん。何故隊伍を列好し鼓を撃ちて出擊して彼らを等待せざるか。」呉の軍隊は楚に至り、已に陣を擺るを見て即ち歸れり。左史倚相は曰く「彼らを追え。」呉は六十里を走りて功勞なく、王は疲憊し士卒は睡れり。果して彼らを攻擊し、大いに呉の軍隊を敗れり。

齊桓公之時,霖雨十旬。桓公欲伐漅陵,其城之值雨也,未合。管仲隰朋以卒徒造於門,桓公曰:“徒眾何以為?”管仲對曰:“臣聞之,雨則有事。夫漅陵不能雨,臣請攻之。”公曰:“善!”遂興師伐之。既至,大卒間外士在內矣,桓公曰:“其有聖人乎?”乃還旗而去之。

斉桓公の時、連綿たる大雨は一百天なり。桓公は漅陵を伐たんと欲せり。あの城は正に雨に赶上して、未だ合圍せず。管仲・隰朋は士卒を帶びて來りて門前に至れり。桓公は曰く「部衆を帶びて何を為すか。」管仲は答え曰く「臣が聞くに、雨が下れば即ち事有らんと。漅陵は能く雨を抵禦せず。臣は彼を攻めんを請う。」公は曰く「よし!」そこで兵を起して往きて伐てり。已に至りて、大部隊は外面の士が已に裏面に在るを發現せり。桓公は曰く「あそこにほぼ聖人有るか。」そこで旗幟を掉轉して離開せり。

宋圍曹,不拔。司馬子魚謂君曰:“文王伐崇,崇軍其城,三旬不降,退而修教,復伐之,因壘而降。今君德無乃有所闕乎?胡不退修德,無闕而後動。”

宋は曹を圍困し、攻めて下さざるなり。司馬子魚は君に對して曰く「文王は崇を伐つに、崇の軍隊は城を守り、三十天にして降らず。退きて教化を修治し、再び往きて伐てば、舊營壘に就きて投降せり。いま君の徳はおそらく欠缺する所有るか。何故退きて徳を修治せざるか。欠缺なければ然る後に行動せよ。」

吳王闔廬與荊人戰於柏舉,大勝之,至於郢郊,五敗荊人。闔廬之臣五人進諫曰:“夫深入遠報,非王之利也,王其返乎?”五將鍥頭,闔廬未之應,五人之頭墜於馬前,闔廬懼,召伍子胥而問焉。子胥曰:“五臣者懼也。夫五敗之人者,其懼甚矣,王姑少進。”遂入郢,南至江,北至方城,方三千里,皆服於楚矣。

呉王闔廬は荊人と柏擧に於て交戦し、大いに彼らに勝ちて、郢の郊外に至り、五次荊人を打敗せり。闔廬の臣五人は進諫して曰く「深く遠地に入りて往きて報復するは、王の利にあらず。王はなお返回するか。」五位の將領は自らの頭を割きて、闔廬は未だ��答せざるに、五人の頭は已に馬前に墜落せり。闔廬は恐懼し、伍子胥を召して來りて問うた。子胥は曰く「五個の臣は害怕了せり。五回打敗せられた人は、彼らの恐懼は甚だ厲し。王は姑且稍稍前進せよ。」そこで郢に入り、南は江に至り、北は方城に至り、方圓三千里は、原先皆楚に歸服する地なりき。

田成子常與宰我爭,宰我夜伏卒,將以攻田成子,令於卒中曰:“不見旌節毋起。”鴟夷子皮聞之,告田成子。田成子因為旌節以起宰我之卒以攻之,遂殘之也。

田成子は常に宰我と相争えり。宰我は夜に士卒を埋伏し、将に以て田成子を攻めんとし、士卒の中に於て令を下して曰く「旌節を見ざれば事を起すなかれ。」鴟夷子皮はこれを聞きて、田成子に告げたり。田成子はそこで旌節を為して宰我の士卒を發動して彼を攻めしめ、終に彼を殘滅せり。

齊桓公北伐山戎氏,請兵於魯,魯不與,桓公怒,將攻之,管仲曰:“不可,我已刑北方諸侯矣。今又攻魯,無乃不可乎?魯必事楚,是我一舉而失兩也。”桓公曰:“善!”乃輟攻魯矣。

斉桓公は北に向かい山戎氏を伐ち、魯に向かい兵を請えり。魯は與えず。桓公は發怒し、将に魯を攻めんとす。管仲は曰く「以て可ならず。我らは已に北方の諸侯に刑を用いたり。いままた魯を攻めば、おそらく以て可ならざらんか。魯は必ず往きて楚に事奉せん。これは我らが一擧にして兩頭皆失うなり。」桓公は曰く「よし!」そこで魯を攻むるを停止せり。

聖人之治天下也,先文德而後武力。凡武之興為不服也。文化不改,然後加誅。夫下愚不移,純德之所不能化而後武力加焉。

聖人は天下を治理するに、先に文徳を用い而して後に武力を用う。およそ武の興起するは、歸服せざる有るを以てす。文徳教化してなお改まらざれば、然る後に乃ち誅殺を加う。あの下愚にして改變すべからざる・純徳の能く教化せざる所に、然る後に乃ち武力をその上に加えたり。

昔堯誅四凶以懲惡,周公殺管蔡以弭亂,子產殺鄧析以威侈,孔子斬少正卯以變眾,佞賊之人而不誅,亂之道也。易曰:“不威小,不懲大,此小人之福也。”

昔、堯は四凶を誅殺して以て惡を懲治し、周公は管・蔡を殺掉して以て亂を平息し、子産は鄧析を殺掉して以て奢侈を威懾し、孔子は少正卯を斬じて以て衆人を改變せり。佞賊の人にして卻って誅殺せざるは、亂の道路なり。『周易』に曰く「小を威懾せず、大を懲治せざるは、これは小人の福なり。」

五帝三王教以仁義而天下變也,孔子亦教以仁義而天下不從者,何也?昔明王有紱冕以尊賢,有斧鉞以誅惡,故其賞至重,而刑至深,而天下變。孔子賢顏淵,無以賞之,賤孺悲,無以罰之;故天下不從。是故道非權不立,非勢不行,是道尊然後行。

五帝三王は仁義を以て教導して天下は改變せり。孔子もまた仁義を以て教導して天下は聽從せず。何故か。昔、明王は紱冕有りて以て賢人を尊重し、斧鉞有りて以て惡人を誅殺せり。ゆえに其の賞は極重く、刑は極深くして、而して天下は改變せり。孔子は顔淵を以て賢と為すに、以て彼を賞する無し。孺悲を以て賤と為すに、以て彼を罰する無し。ゆえに天下は聽從せず。これにより道は權なければ能く立たず、勢なければ能く行わず。道は尊重せられて然る後に乃ち能く實行せらる。

孔子為魯司寇,七日而誅少正卯於東觀之下,門人聞之,趨而進,至者不言,其意皆一也。子貢後至,趨而進,曰:“夫少正卯者,魯國之聞人矣!夫子始為政,何以先誅之?”孔子曰:“賜也,非爾所及也。夫王者之誅有五,而盜竊不與焉。一曰心辨而險;二曰言偽而辯;三曰行闢而堅;四曰志愚而博;五曰順非而澤。此五者皆有辨知聰達之名,而非其真也。苟行以偽,則其知足以移眾,強足以獨立,此奸人之雄也,不可不誅。夫有五者之一,則不免於誅。今少正卯兼之,是以先誅之也。昔者湯誅蠋沐,太公誅潘址,管仲誅史附裡,子產誅鄧析,此五子未有不誅也。所謂誅之者,非為其晝則功盜,暮則穿窬也,皆傾覆之徒也!此固君子之所疑,愚者之所惑也。詩云:‘憂心悄悄,慍於群小。’此之謂矣。”

孔子は魯の司寇を為り、七天にして即ち東觀の下に於て少正卯を誅殺せり。門人はこれを聞きて、快步して進みて入り、到る人は話さず。彼らの意思は皆一なり。子貢は後に至り、快步して進みて入りて、曰く「少正卯は魯國の有名の人なり!夫子は剛ぎ執政を開始す。何故先に彼を誅殺するか。」孔子は曰く「賜や、これはお前の能く及ぶ所にあらず。王者の誅殺する所に五種有りて、盜竊は其の中に在らず。一は心は明辯にして卻って陰險、二は話は虛假にして卻って善辯、三は行為は邪僻にして卻って堅定、四は心志は愚昧にして卻って駁雜廣博、五は錯誤に順順從して卻って潤澤動聽なり。この五種は皆明辯聰達の名声有りて、而して真ならず。もし虛僞を以て行事せば、其の智は以て衆人を轉移するに足り、強は以て獨立するに足り。これは奸人の中の雄傑、誅せざるべからず。五種の中の一種有れば、即ち誅せられんを免れず。いま少正卯はこれらを兼有す。ゆえに先に彼を誅殺せり。昔、湯は蠋沐を誅殺し、太公は潘址を誅殺し、管仲は史附里を誅殺し、子産は鄧析を誅殺せり。この五個の人は誅せられざるなし。所説彼らを誅殺するは、白天の搶劫盜竊・夜裏の牆を鑿り洞を打つを以てにあらず。皆傾覆の一類の人なり!これは本來君子の疑慮する所・愚人の迷惑する所なり。『詩経』に曰く『憂心は悄悄として、一群の小人に怨ぜらる。』これを言う。

齊人王滿生見周公,周公出見之,曰:“先生遠辱,何以教之?”王滿生曰:“言內事者於內,言外事者於外,今言內事乎?言外事乎?”周公導入。王滿生曰:“敬從。”布席,周公不導坐。王滿生曰:“言大事者坐,言小事者倚。今言大事乎?言小事乎?”周公導坐。王滿生坐。周公曰:“先生何以教之?”王滿生曰:“臣聞聖人不言而知,非聖人者雖言不知。今欲言乎?無言乎?”周公俛念,有頃,不對。王滿生借筆牘書之曰:“社稷且危,傅之於膺。”周公仰視見書曰:“唯!唯!謹聞命矣。”明日誅管蔡。

斉人王滿生は周公に見え、周公は出でて彼に見えて曰く「先生は遠道を屈尊して前來す。何を以て我を教導せん。」王滿生は曰く「內事を説くは內に在り、外事を説くは外に在り。いま內事を説くか。外事を説くか。」周公は彼を引きて進みて入れり。王滿生は曰く「敬謹して跟從す。」席位を鋪設せり。周公は彼を引導して坐らしめず。王滿生は曰く「大事を説くは坐り、小事を説くは倚む。いま大事を説くか。小事を説くか。」周公は彼を引導して坐らしめたり。王滿生は坐れり。周公は曰く「先生は何を以て我を教導せん。」王滿生は曰く「臣が聞くに、聖人は説かずして知り、聖人に非ざるはたとえ説くも知らずと。いま説かんと欲するか。説かざらんと欲するか。」周公は頭を低めて思念し、良久を過ごして、答えず。王滿生は筆と木牘を借りて寫下せり「社稷は将に危險ならん。これを胸前に貼れ。」周公は頭を擡げて寫きし所を見て曰く「是!是!謹みて命を聞きたり。」明日に管・蔡を誅殺せり。

卷十六談叢

巻十六 談叢

王者知所以臨下而治眾,則群臣畏服矣;知所以聽言受事,則不蔽欺矣;知所以安利萬民,則海內必定矣;知所以忠孝事上,則臣子之行備矣。凡所以劫殺者,不知道術以御其臣下也。凡吏勝其職則事治,事治則利生;不勝其職則事亂,事亂則害成也。

王者はどう在下を臨視して衆人を治理するを知れば、群臣は即ち畏服せん。どう言を聽きて職事を接受するを知れば、即ち蒙蔽欺騙せられざらん。どう萬民を安定便利するを知れば、海內は即ち必ず安定せん。どう忠孝を以て在上に事奉するを知れば、臣子の品行は即ち具備せん。およその以て劫殺せらるるは、道術を以て臣下を駕馭するを知らざるなり。およそ吏は其の職に勝任すれば則ち事は治理し、事が治理すれば則ち利は產生す。其の職に勝任せざれば則ち事は混亂し、事が混亂すれば則ち害は成就す。

百方之事,萬變鋒出:或欲持虛,或欲持實,或好浮游,或好誠必,或行安舒,或為飄疾。從此觀之,天下不可一,聖王臨天下而能一之。

百樣の方面の事は、萬般變化して鋒刃の如く出づ。あるいは虛を持守せんと欲し、あるいは實を持守せんと欲し、あるいは浮游を喜好し、あるいは誠信必行を喜好し、あるいは行為は安舒し、あるいは擧動は迅疾なり。これを以て看れば、天下は齊一すべからず。聖王は天下を臨視して能くそれを齊一せり。

意不併銳,事不兩隆;盛於彼者必衰於此,長於左者必短於右。喜夜臥者不能蚤起也。

心意は能く兩頭皆銳利ならず、事は能く兩頭皆隆盛ならず。あそこに於て盛なるは必ずここに於て衰え、左に於て長なるは必ず右に於て短し。夜に臥することを喜ぶ人は能く早く起きず。

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