说苑 · 第2巻
簡子有臣尹綽、赦厥。簡子曰:“厥愛我,諫我必不於眾人中;綽也不愛我,諫我必於眾人中。”尹綽曰:“厥也愛君之醜而不愛君之過也,臣愛君之過而不愛君之醜。”孔子曰:“君子哉!尹綽,面訾不譽也。”
簡子に臣の尹綽と赦厥がいた。簡子は言った。「厥は��を��して、進諫するとき必ず衆人の中ではしない。綽は私を愛さず、進諫するとき必ず衆人の中でする。」尹綽は言った。「厥が愛するのは君の醜で、君の過失を愛しない。臣が愛するのは君の過失で、君の醜を愛しない。」孔子は言った。「君子だな、尹綽は。面と向かって責め、誉めない。」
高繚仕於晏子,晏子逐之,左右諫曰:“高繚之事夫子,三年曾無以爵位,而逐之,其義可乎?”晏子曰:“嬰仄陋之人也,四維之然後能直,今此子事吾三年,未嘗弼吾過,是以逐之也。”
高繚が晏子のもとで官をしていたが、晏子は彼を逐った。左右が進諫して言った。「高繚は夫子に三年仕えて、まだ一度も爵位を与えなかったのに、彼を逐うのは義としてよいのでしょうか。」晏子は言った。「嬰は褊狭浅陋の人で、四維で繋ぎ止めなければ正せない。いまこの人が私に三年仕えて、まだ一度も私の過失を輔正しなかった。ゆえに彼を逐った。」
子貢問孔子曰:“賜為人下,而未知所以為人下之道也?”孔子曰:“為人下者,其猶土乎!種之則五穀生焉,掘之則甘泉出焉,草木植焉,禽獸育焉,生人立焉,死人入焉,多其功而不言,為人下者,其猶土乎!”
子貢が孔子に問うた。「賜は人の下に処りながら、人の下に処る道理をまだ知りません。」孔子は言った。「人の下に処るというのは、土のようなものだろう。種を下せば五穀が生じ、掘り開けば甘泉が湧き、草木がその上に植わり、禽獣がその上に育ち、生きた人がその上に立ち、死んだ人がその中に埋まる。功労は多いのに言わない。人の下に処るというのは、土のようなものだろう。」
孫卿曰:“少使長,賤事貴,不肖事賢,此天下之通義也。有人貴而不能為人上,賤而羞為人下,此奸人之心也,身不離奸心,而行不離奸道,然而求見譽於眾,不亦難乎?”
孫卿は言った。「年少が年長を役し、低賤が尊貴に仕え、不肖が賢に仕えるのは、天下の通る義です。ある人は貴であっても人の上に立てず、賤であって人の下になることを恥ずかしがる。これは奸心の人です。自身が奸心を離れず、行いが奸道を離れず、それでいて衆人に称誉されようと求めるのは、難しくないでしょうか。」
公叔文子問於史叟曰:“武子勝事趙簡子久矣,其寵不解,奚也?”史叟曰:“武子勝,博聞多能而位賤,君親而近之,致敏以愻,藐而疏之,則恭而無怨色,入與謀國家,出不見其寵,君賜之祿,知足而辭,故能久也。”
公叔文子が史叟に問うた。「武子勝が趙簡子に仕えて久しく、寵愛が衰えないのはなぜか。」史叟は言った。「武子勝は見聞が広く才能が多いのに、位は低賤です。君が彼に親しめば彼は極めて恭敬に順遜し、疎んじれば彼は恭敬して怨色がありません。入って国家を謀り、出て彼の寵は見えません。君が彼に俸禄を賜えば、彼は足るを知って辞します。ゆえに長く続くのです。」
泰誓曰:“附下而罔上者死,附上而罔下者刑;與聞國政而無益於民者退,在上位而不能進賢者逐。”此所以勸善而黜惡也。故傳曰:“傷善者國之殘也,蔽善者國之讒也,愬無罪者國之賊也。”
『泰誓』に言う。「下に附和して上を欺罔する者は処刑し、上に附和して下を欺罔する者は用刑する。国政に参与して民に益のない者は斥退し、上位にありながら賢人を挙げられない者は逐う。」これは善を勧め悪を黜するためです。ゆえに伝記に言う。「善人を傷つけるのは国家の残賊、善人を蔽うのは国家の讒人、無罪を誣告するのは国家の賊である。」
王制曰:“假於鬼神時日卜筮以疑於眾者殺也。”子路為蒲令,備水災,與民春修溝瀆,為人煩苦,故予人一簞食,一壺漿,孔子聞之,使子貢復之,子路忿然不悅,往見夫子曰:“由也以暴雨將至,恐有水災,故與人修溝瀆以備之,而民多匱於食,故與人一簞食一壺漿,而夫子使賜止之,何也?夫子止由之行仁也,夫子以仁教而禁其行仁也,由也不受。”子曰:“爾以民為餓,何不告於君,發倉廩以給食之;而以爾私饋之,是汝不明君之惠,見汝之德義也,速已則可矣,否則爾之受罪不久矣。”子路心服而退也。
『王制』に言う。「鬼神・時日・卜筮を仮借して衆人を惑乱する者は殺せ。」子路が蒲の県令となった。水災を防ぐため、百姓と春に溝洫を修治した。人々は苦しんだので、一人ずつに一簞の食と一壺の漿を与えた。孔子がこれを聞き、子貢を遣わして止めさせた。子路は憤然と喜ばず、夫子に会って言った。「由は暴雨が来ると思い水災を恐れ、人々と溝洫を修めて防ぎました。百姓は食べ物が乏しいので、一簞の食と一壺の漿を与えました。夫子は賜を遣わして止めさせました。なぜですか。夫子は由が仁を行うのを止め、仁を教えながら仁の実行を禁じます。由は受け入れません。」孔子は言った。「お前は百姓が飢えていると思うなら、どうして君に告げて倉廩を開いて彼らに食べさせなかったのか。お前が私物で饋贈するのは、君の恩惠を顕さず、ただお前の徳義を示すだけだ。すぐ止めればまだよい。さもなければお前はすぐ罪を受ける。」子路は心の中で服し、退いた。
卷三建本
巻三 建本
孔子曰:“君子務本,本立而道生。”夫本不正者末必倚,始不盛者終必衰。詩云:“原隰既平,泉流既清”。本立而道生,春秋之義;有正春者無亂秋,有正君者無危國,易曰:“建其本而萬物理,失之毫釐,差以千里”。是故君子貴建本而重立始。
孔子は言った。「君子は根本に力を尽くす。根本が立てば道は生じる。」根本が正しくなければ末梢は必ず歪む。始めが盛んでなければ終わりは必ず衰える。『詩経』に言う。「高地も窪地もすでに平らかに整い、泉流もすでに清い。」根本が立てば道は生じる。これが『春秋』の義です。正しい春があれば乱れた秋はなく、正しい君があれば危険な国はありません。『周易』に言う。「根本を立てれば万物に条理がある。毫厘を失えば千里を誤る。」ゆえに君子は根本を立てることを重んじ、端緒を立てることを重視するのです。
魏武侯問元年於吳子,吳子對曰:“言國君必慎始也。”“慎始奈何?”曰:“正之”,“正之奈何?”曰:“明智,智不明,何以見正,多聞而擇焉,所以明智也。是故古者君始聽治,大夫而一言,士而一見,庶人有謁必達,公族請問必語,四方至者勿距,可謂不壅蔽矣;分祿必及,用刑必中,君心必仁,思君之利,除民之害,可謂不失民眾矣;君身必正,近臣必選,大夫不兼官,執民柄者不在一族,可謂不權勢矣。此皆春秋之意,而元年之本也。”
魏武侯が呉子に「元年」を問うた。呉子は答えた。「国君は必ず端緒を謹むべきだということです。」「端緒を謹むとはどういうことか。」言った。「それを正しくする。」「それを正しくするとはどういうことか。」言った。「智を明らかにする。智が明らかでなければ、何によって正を見ようか。多く聴いて選ぶ。ゆえに智を明らかにする。ゆえに古の君は初めて政を聴き治めるとき、大夫は一言を進め、士は一面を見せ、庶人の謁見は必ず通達し、公族の請問は必ず答え、四方から来る人を拒絶しなかった。壅蔽しないと称すべきです。俸禄を分けるとき必ず及ばせ、刑を用いるとき必ず適中にし、君の心は必ず仁で、君の利を思い、民の害を除く。民衆を失わないと称すべきです。君自身は必ず正しく、近臣は必ず選び、大夫は兼官せず、治民の権柄を執る者は一族にいない。権勢を集中しないと称すべきです。これらはすべて『春秋』の意であり、また元年の根本です。」
孔子曰:行身有六本,本立焉,然後為君子立體有義矣,而孝為本;處喪有禮矣,而哀為本;戰陣有隊矣,而勇為本;政治有理矣,而能為本;居國有禮矣,而嗣為本;生才有時矣,而力為本。置本不固,無務豐末;親戚不悅,無務外交;事無終始,無務多業;聞記不言,無務多談;比近不說,無務修遠。是以反本修邇,君子之道也。天之所生,地之所養,莫貴乎人人之道,莫大乎父子之親,君臣之義;父道聖,子道仁,君道義,臣道忠。賢父之於子也,慈惠以生之,教誨以成之,養其誼,藏其偽,時其節,慎其施;子年七歲以上,父為之擇明師,選良友,勿使見惡,少漸之以善,使之早化。故賢子之事親,發言陳辭,應對不悖乎耳;趣走進退,容貌不悖乎目;卑體賤身,不悖乎心。君子之事親以積德,子者親之本也,無所推而不從命,推而不從命者,惟害親者也,故親之所安子皆供之。賢臣之事君也,受官之日,以主為父,以國為家,以士人為兄弟;故苟有可以安國家,利人民者不避其難,不憚其勞,以成其義;故其君亦有助之以遂其德。夫君臣之與百姓,轉相為本,如循環無端,夫子亦云,人之行莫大於孝;孝行成於內而嘉號佈於外,是謂建之於本而榮華自茂矣。君以臣為本,臣以君為本;父以子為本,子以父為本,棄其本,榮華槁矣。
孔子は言った。立身行事に六つの根本がある。根本が立ってから君子となる。立身处世には義があり、孝を根本とする。処喪には礼があり、哀を根本とする。戦陣には隊列があり、勇を根本とする。政治には条理があり、能を根本とする。居国には礼があり、継嗣を根本とする。生長才性には時令があり、力を根本とする。根本を固く置かなければ、盛んな末梢に従事してはならない。親戚が喜ばなければ外交に従事してはならない。事に終始がなければ多くの産業に従事してはならない。聞き記憶して言わなければ多くの談に従事してはならない。近くの人が喜ばなければ遠方の経営に従事してはならない。ゆえに根本に帰り近くを修めるのが君子の道です。天の生ずる所・地の養う所で、人より貴いものはない。人たるの道で、父子の親・君臣の義より大きいものはない。父の道は聖、子の道は仁、君の道は義、臣の道は忠です。賢父は子に対して、慈恵で彼を生み育て、教誨で彼を成し、その誼を培い、その偽を収め、時に適って彼を節制し、その施為を慎む。子が七歳以上になれば、父は明師を選び良友を選び、悪を見せず、小さいうちから善で浸し、早く感化させる。ゆえに賢子が両親に仕えるには、発言陳辞・応対は耳に違わず、趨走進退・容貌は目に違わず、形体を低くし身を軽んじて心に違わない。君子は両親に仕えて徳を積む。子は両親の根本で、押し退けて命に従わないことはない。押し退けて命に従わないのは、ただ両親を害する人だけです。ゆえに両親が安んずる所は、子はすべて供奉する。賢臣が君に仕えるには、官職を受けた日に、主上を父とし、国を家とし、士人を兄弟とする。ゆえに国家を安くし人民に利があることなら、その難を避けず、その労を恐れず、その義を成す。ゆえにその君もまた助けられてその徳を成す。君臣と百姓は互いに転じて根本となる。循環して尽きない。夫子も言った、人の行いで孝より大きいものはない。孝行が内に成って美名が外に布く。これを根本の上に建てて栄華が自ら盛んになるという。君は臣を根本とし、臣は君を根本とする。父は子を根本とし、子は父を根本とする。根本を棄てれば、栄華は枯れる。
子路曰:負重道遠者,不擇地而休;家貧親老者,不擇祿而仕。昔者由事二親之時,常食藜藿之實而為親負米百里之外,親沒之後,南遊於楚,從車百乘,積粟萬鍾,累茵而坐,列鼎而食,願食藜藿負米之時不可復得也;枯魚銜索,幾何不蠹,二親之壽,忽如過隙,草木欲長,霜露不使,賢者欲養,二親不待,故曰:家貧親老不擇祿而仕也。
子路は言った。荷が重く道が遠い人は、休む場所を選ばない。家が貧しく両親が老いた人は、俸禄を選んで官をしない。昔、由が両親に仕えた時、いつも藜藿の実を食べ、両親のために百里の外まで米を背負った。両親が亡くなった後、南に楚へ遊び、従う車は百乗、蓄えた粟は万钟、茵褥を重ねて座り、鼎を並べて食事した。もう一度藜藿を食べ米を背負う時に戻りたいと思っても、もう得られない。枯れた魚を縄で穿つ。あとどれほど虫に蛀まれずにいられるか。両親の寿命は、隙を越えるように速い。草木は生えたいと思っても霜露が許さず、賢者は奉養したいと思っても両親は待ってくれない。ゆえに言う、家が貧しく両親が老いたら、俸禄を選んで官をしない。
伯禽與康叔封朝於成王,見周公三見而三笞,康叔有駭色,謂伯禽曰:“有商子者,賢人也,與子見之。”康叔封與伯禽見商子曰:“某某也,日吾二子者朝乎成王,見周公三見而三笞,其說何也?”商子曰:“二子盍相與觀乎南山之陽有木焉,名曰橋。”二子者往觀乎南山之陽,見橋竦焉實而仰,反以告乎商子,商子曰:“橋者父道也。”商子曰:“二子盍相與觀乎南山之陰,有木焉,名曰梓。”二子者往觀乎南山之陰,見梓勃焉實而俯,反以告商子,商子曰:“梓者、子道也。”二子者明日見乎周公,入門而趨,登堂而跪,周公拂其首,勞而食之曰:“安見君子?”二子對曰:“見商子。”周公曰:“君子哉!商子也。”
伯禽と康叔封が成王に朝見し、周公に会って、三度進見して三度鞭打たれた。康叔は驚駭の色を見せ、伯禽に言った。「商子という者がいる。あれは賢人だ。あなたと彼に会いに行こう。」康叔封と伯禽が商子に会って言った。「この前、私たち二人は成王に朝見し、周公に会って三度進見して三度鞭打たれました。これはどういうことでしょう。」商子は言った。「二人で南山の南側を見に行ってはどうか。橋という名の木がある。」二人が南山の南側を見に行くと、橋がそそり立ち、充実して上を向いているのを見た。帰って商子に告げた。商子は言った。「橋は父の道だ。」商子はまた言った。「二人で南山の北側を見に行ってはどうか。梓という名の木がある。」二人が南山の北側を見に行くと、梓が勃然として充実し下に俯いているのを見た。帰って商子に告げた。商子は言った。「梓は子の道だ。」二人は翌日周公に会いに行き、門に入って小走りし、堂に登って跪いた。周公は彼らの頭を撫で、慰労して食事を与えて言った。「どこで君子に会ったのか。」二人は答えた。「商子に会いました。」周公は言った。「君子だな、商子は。」
曾子芸瓜而誤斬其根,曾皙怒,援大杖擊之,曾子仆地;有頃蘇,蹶然而起,進曰:“曩者參得罪於大人,大人用力教參,得無疾乎!”退屏鼓琴而歌,欲令曾皙聽其歌聲,令知其平也。孔子聞之,告門人曰:“參來勿內也!”曾子自以無罪,使人謝孔子,孔子曰:“汝聞瞽叟有子名曰舜,舜之事父也,索而使之,未嘗不在側,求而殺之,未嘗可得;小棰則待,大棰則走,以逃暴怒也。今子委身以待暴怒,立體而不去,殺身以陷父,不義不孝,孰是大乎?汝非天子之民邪?殺天子之民罪奚如?”以曾子之材,又居孔子之門,有罪不自知處義,難乎!
曾子が瓜を鍬いていた時、誤って根を切った。曾皙が怒り、大きな杖を取って彼を打った。曾子は地に倒れた。しばらくして意識を取り戻し、ふと起き上がり、進んで言った。「さきほど参は大人に罪を犯しました。大人が力を参を教えるのに費やされて、傷ついていないでしょうか。」屏風の陰に���いて琴を弾き歌った。曾皙に歌声を聞かせて、自分が無事だと知らせたかったのです。孔子がこれを聞き、門人に告げた。「参が来たら入れてはならない。」曾子は自分に罪がないと思い、人を遣わして孔子に謝罪した。孔子は言った。「お前は瞽叟に舜という子があったのを聞かないか。舜は父に仕え、彼を探して使おうとすれば側にいないことはなかったが、殺そうと求めても得られなかった。小さい鞭なら待ち、大きい鞭なら逃げて暴怒を避けた。いまお前は身を暴怒に任せ、立って離れず、身を殺して父を不義不孝に陥れる。どちらが大きいか。お前は天子の民ではないか。天子の民を殺すのはどんな罪か。」曾子の才に頼り、また孔子の門下にいたのに、罪があるのに自ら義に処ることを知らなかった。難しいことだ。
伯俞有過,其母笞之泣,其母曰:“他日笞子未嘗見泣,今泣何也?”對曰:“他日俞得罪笞嘗痛,今母力不能使痛,是以泣。”故曰父母怒之,不作於意,不見於色,深受其罪,使可哀憐,上也;父母怒之,不作於意,不見其色,其次也;父母怒之,作於意,見於色,下也。
伯俞に過失があり、母が彼を鞭打つと彼は泣いた。母は言った。「以前お前を打った時には泣くのを見なかったが、いま泣くのはなぜか。」答えた。「以前、兪が罪を犯して打たれた時は、痛みがありました。いま母の力は私を痛められません。だから泣きます。」ゆえに言う、父母が怒る時、意の上に発作せず顔色に表さず、深く自分の罪を受け、自分を哀れみ可憐にするのが上等。父母が怒る時、意の上に発作せず顔色に表さないのが次等。父母が怒る時、意の上に発作し顔色に表すのが下等。
成人有德,小子有造,大學之教也;時禁於其未發之曰預,因其可之曰時,相觀於善之曰磨,學不陵節而施之曰馴。發然後禁,則扞格而不勝;時過然後學,則勤苦而難成;雜施而不遜,則壞亂而不治;獨學而無友,則孤陋而寡聞。故曰有昭辟雍,有賢泮宮,田裡周行,濟濟鏘鏘,而相從執質,有族以文。
成人には徳があり、小子には造就がある。これが大学の教えです。まだ動かないうちに禁じるのを預といい、できる時に従うのを時といい、互いに見習って善くするのを磨といい、学習が節度を超えずに行われるのを馴といいます。動いてから禁じれば抵觸して勝てません。時機が過ぎてから学べば勤苦して成りにくい。乱雑に行い順わなければ壊乱して治められません。独りで学び友がいなければ孤陋寡聞になります。ゆえに言う、昭明の辟雍があり、賢明の泮宮があり、田里の大道の上で、済済鏘鏘、互いに従って質を執り、族人が文で集まるのです。
周召公年十九,見正而冠,冠則可以為方伯諸侯矣。人之幼稚童蒙之時,非求師正本,無以立身全性。夫幼者必愚,愚者妄行;愚者妄行,不能保身,孟子曰:人皆知以食愈飢,莫知以學愈愚,故善材之幼者必勤於學問以修其性。今人誠能砥礪其材,自誠其神明,睹物之應,信道之要,觀始卒之端,覽無外之境,逍遙乎無方之內,彷徉乎塵埃之外,卓然獨立,超然絕世,此上聖之所遊神也。然晚世之人,莫能閒居心思,鼓琴讀書,追觀上古,友賢大夫;學問講辯日以自虞,疏遠世事分明利害,籌策得失,以觀禍福,設義立度,以為法式;窮追本末,究事之情,死有遺業,生有榮名;此皆人材之所能建也,然莫能為者,偷慢懈墮,多暇日之故也,是以失本而無名。夫學者,崇名立身之本也,儀狀齊等而飾貌者好,質性同倫而學問者智;是故砥礪琢磨非金也,而可以利金;詩書壁立,非我也,而可以厲心。夫問訊之士,日夜興起,厲中益知,以分別理,是故處身則全,立身不殆,士苟欲深明博察,以垂榮名,而不好問訊之道,則是伐智本而塞智原也,何以立軀也?騏驥雖疾,不遇伯樂,不致千里;干將雖利,非人力不能自斷焉;烏號之弓雖良,不得排檠,不能自任;人才雖高,不務學問,不能致聖。水積成川,則蛟龍生焉;土積成山,則豫樟生焉;學積成聖,則富貴尊顯至焉。千金之裘,非一狐之皮;臺廟之榱,非一木之枝;先王之法,非一士之智也。故曰:訊問者智之本,思慮者智之道也。中庸曰:“好問近乎智,力行近乎仁,知恥近乎勇。”積小之能大者,其惟仲尼乎!學者所以反情治性盡才者也,親賢學問,所以長德也;論交合友,所以相致也。詩云:“如切如磋,如琢如磨”,此之謂也。
周の召公は十九歳で、正を見て冠を加えた。冠を加えれば方伯諸侯になれる。人が幼稚童蒙の時、師を求めて根本を正さなければ、立身して本性を保つ方法はない。幼小な者は必ず愚かで、愚かな人は妄行する。愚かな人が妄行すれば、自身を保てない。孟子は言った、人は皆食物で飢餓を治めることを知るが、学で愚を治めることを知らない。ゆえに良い材料は幼いうちに必ず学問に励んで本性を養う。いまの人が果たして己の才を磨き、神明精誠を致し、物の応験を見、道の要害を信じ、始終の端緒を観察し、外なき境を覧視し、方位なき内に逍遥し、塵埃の外に徘徊し、卓然として独立し、超然として世と隔絶できるならば、これが上聖の神遊する所です。しかし末世の人は、閑居して心を用いて思考し、琴を弾き書を読み、上古を追い眺め、賢大夫と交わることができない。学問講弁を日々自ら楽しみ、世事を疎遠にし利害を明らかにし、得失を算えて禍福を観察し、義を設け法度を立てて法式とし、本末を窮め事の実情を推究し、死して遺業あり、生きて栄名がある。これらはすべて人材が建てられることだが、それができないのは、苟且怠慢・懈惰堕落・暇な日が多いからです。ゆえに根本を失って名がない。学とは名を尊び身を立てる根本です。儀容形状が等しければ、外貌を飾る者が美しい。質性が同類なら、学問する者が智です。ゆえに砥礪琢磨は金ではないが、金を鋭くできる。詩書は壁のように立っていて��ではないが、心を磨ける。問を重ねる士は日夜奮起し、内心を磨き知識を増やして条理を分かつ。ゆえに身を処せば保たれ、身を立てて危なくない。士がもし深く明らかに広く察して栄名を垂れようと思いながら、問う道を好まなければ、智の根本を伐り智の源を塞ぐことになる。何によって身を立てようか。騏驥は速いが伯楽に遇わなければ千里を致せない。干将は利でも人力がなければ自ら断てない。烏号の弓は良いが矯正する具がなければ自ら任に堪えない。人材は高くても学問に従事しなければ聖に達しない。水が積もって河になれば蛟龍が生まれ、土が積もって山になれば豫樟が生まれ、学が積もって聖になれば富貴尊顕が至る。千金の裘は一匹の狐の皮ではなく、台廟の椽は一本の木の枝ではなく、先王の法は一人の士の智ではない。ゆえに言う、訊問は智の根本、思慮は智の道です。『中庸』に言う。「問うことを好むは智に近く、力を行うは仁に近く、恥を知るは勇に近い。」小を積んで大となれるのは、ほぼ仲尼だけでしょう。学は性情に帰り本性を治め己の才を尽くすため、賢人を親しみ学問するのは徳を増すため、交を論じ友を合わせるのは互いに招き合うためです。『詩経』に言う。「切るが如く磋るが如く、琢るが如く磨くが如し。」これを言うのです。
今夫闢地殖穀,以養生送死,銳金石,雜草藥以攻疾,各知構室屋以避暑雨,累臺榭以避潤溼,入知親其親,出知尊其君,內有男女之別,外有朋友之際,此聖人之德教,儒者受之傳之,以教誨於後世。今夫晚世之惡人,反非儒者曰:何以儒為?如此人者,是非本也,譬猶食谷衣絲,而非耕織者也;載於船車,服而安之,而非主匠者也;食於釜甑,須以生活,而非陶冶者也;此言違於情而行蒙於心者也。如此人者,骨肉不親也,秀士不友也,此三代之棄民也,人君之所不赦也。故詩云:“投畀豺虎,豺虎不食,投畀有北,有北不受,投畀有昊。”此之謂也。
土地を開墾して穀物を植えるのは、生を養い死を送るため、金石を磨き草薬を合わせるのは病を治すため、それぞれ家屋を建てて暑雨を避け、台榭を累ねて湿気を避けることを知る。入っては己の親を親しみ、出ては己の君を尊ぶことを知る。内には男女の別があり、外には朋友の交際がある。これが聖人の徳教で、儒者はこれを受けこれを伝えて後世を教えます。いま末世の悪人は、かえって儒者を非難して言う、儒を何に使うのか、と。こういう人は根本を非難するのです。譬えるなら、穀を食い絹を着ながら耕織する人を非難し、船車に乗って安穏としながら船車を造る工匠を非難し、釜甑で飯を食べそれに頼って生きながら陶冶する人を非難するようなものです。これは話が実情に背き、行いが心に蒙われた人です。こういう人は、骨肉は親しまず、秀士は交わらず、三代に棄てられた民、人君が赦さない者です。ゆえに『詩経』に言う。「彼を豺虎に投げ与えよ、豺虎も食わない。彼を北の辺に投げよ、北の辺も受けない。彼を上天に投げよ。」これを言うのです。
孟子曰:人知糞其田,莫知糞其心;糞田莫過利曲得粟,糞心易行而得其所欲。何謂糞心?博學多聞;何謂易行?一性止淫也。
孟子は言った、人は田に肥を施すことを知るが、心に肥を施すことを知らない。田に肥を施すのは、ただ畝に沿って粟を得るだけだ。心に肥を施すのは、行いを変えて欲するものを得ることだ。心に肥を施すとは何か。博学多聞である。行いを変えるとは何か。本性を専らにし淫欲を止めることです。
子思曰:學所以益才也,礪所以致刃也,吾嘗幽處而深思,不若學之速;吾嘗跂而望,不若登高之博見。故順風而呼,聲不加疾而聞者眾;登丘而招,臂不加長而見者遠。故魚乘於水,鳥乘於風,草木乘於時。
子思は言った、学は才を増すため、磨は刃を鋭くするためだ。私はかつて幽居して深く思ったが、学ぶほど速くはなかった。かつて背伸びして遠くを望んだが、高く登って見るほど広くはなかった。ゆえに風に順って呼べば、声を急がなくても聞く人は多い。丘陵に登って手を招けば、腕を長くしなくても見る人は遠い。ゆえに魚は水に乗り、鳥は風に乗り、草木は時令に乗る。
孔子曰:可以與人終日而不倦者,其惟學乎!其身體不足觀也,其勇力不足憚也,其先祖不足稱也,其族姓不足道也;然而可以聞四方而昭於諸侯者,其惟學乎!詩曰:“不僭不亡,率由舊章”,夫學之謂也。
孔子は言った。人と終日ともにいて倦まないものは、おそらく学だけでしょう。体は見るに足らず、勇力は人を怕れさせるに足らず、先祖は称揚するに足らず、族姓は称道するに足りない。しかし四方に聞こえ、諸侯に昭顕され得るものは、おそらく学だけでしょう。『詩経』に言う。「差い違えず、忘れず、旧い章程に従う。」これは学を言うのです。
孔子曰:鯉,君子不可以不學,見人不可以不飾;不飾則無根,無根則失理;失理則不忠,不忠則失禮,失禮則不立。夫遠而有光者,飾也;近而逾明者,學也。譬之如汙池,水潦注焉,菅蒲生之,從上觀之,知其非源也。
孔子は言った。「鯉よ、君子は学ばなければならず、人に会うには飾らなければならない。飾らなければ根がなく、根がなければ理を失い、理を失えば忠でなく、忠でなければ礼を失い、礼を失えば身を立てられない。遠く見て光があるのは飾りであり、近く見ていよいよ明るいのは学です。譬えば汚い水池に雨水が注ぎ込み、菅蒲がその上に生えているのを上から見れば、それが源でないと分かります。」
公扈子曰:有國者不可以不學,春秋,生而尊者驕,生而富者傲,生而富貴,又無鑑而自得者鮮矣。春秋,國之鑑也,春秋之中,弒君三十六,亡國五十二,諸侯奔走不得保社稷者甚眾,未有不先見而後從之者也。
公扈子は言った。国を持つ者は学ばなければならない。『春秋』において、生まれながら尊い者は驕り、生まれながら富む者は傲慢で、生まれながら富貴で鑑戒がなくて自ら得当した者は少ない。『春秋』は国の鏡で、『春秋』の中に君を弑したものが三十六、国を亡ぼしたものが五十二、諸侯が奔走して社稷を保てなかった者が多く、先に見て後に従ったことのないものはありません。
晉平公問於師曠曰:“吾年七十欲學,恐已暮矣。”師曠曰:“何不炳燭乎?”平公曰:“安有為人臣而戲其君乎?”師曠曰:“盲臣安敢戲其君乎?臣聞之,少而好學,如日出之陽;壯而好學,如日中之光;老而好學,如炳燭之明。炳燭之明,孰與昧行乎?”平公曰:“善哉!”
晋平公が師曠に問うて言った。「私は七十歳で学びたいが、すでに遅いのではないかと恐れる。」師曠は言った。「どうして火燭をともさないのですか。」平公は言った。「人臣たる者がその君を戯弄することがあろうか。」師曠は言った。「盲いた臣がどうしてその君を戯弄しましょう。臣が聞くに、年少にして学を好むは日の出の光の如く、壮年にして学を好むは日中の光の如く、老年にして学を好むは火燭をともす明るさの如し。火燭をともす明るさと、暗がりを摸って歩くのとどちらが勝れますか。」平公は言った。「よいなあ!」
河間獻王曰:“湯稱學聖王之道者,譬如日焉;靜居獨思,譬如火焉。夫舍學聖王之道,若舍日之光,何乃獨思火之明也;可以見小耳,未可用大知,惟學問可以廣明德慧也。”
河間献王は言った。「湯が聖王の道を学ぶ者を称えたのは、太陽のようです。静かに居て独り考えるのは、火のようです。聖王の道を学ぶことを捨てるのは、太陽の光を捨てて、独り火の明るさを考えるようなものです。小さいものしか見ることができず、大いなる智を求めることはできません。ただ学問だけが明德と智を広められます。」
梁丘據謂晏子曰:“吾至死不及夫子矣。”晏子曰:“嬰聞之,為者常成,行者常至;嬰非有異於人也,常為而不置,常行而不休者,故難及也。”
梁丘據が晏子に言った。「私は死んでも夫子に及びません。」晏子は言った。「嬰が聞くに、行う者は常に成し、歩く者は常に至ります。嬰は他人と違うのではなく、常に行い放さず、常に歩き止まない者です。ゆえに及びにくいのです。」
甯越,中牟鄙人也,苦耕之勞,謂其友曰:“何為而可以免此苦也?”友曰:“莫如學,學二十年則可以達矣。”甯越曰:“請十五歲,人將休,吾將不休;人將臥,吾不敢臥。”十五歲學而周威公師之。夫走者之速也,而過二里止;步者之遲也,而百里不止。今甯越之材而久不止,其為諸侯師,豈不宜哉!
寧越は中牟の鄙野の人で、耕作の労苦に苦しみ、その友に言った。「どうすればこの苦しみを免れられるか。」友は言った。「学に勝るものはない。二十年学べば顕達できる。」寧越は言った。「十五年でいたします。人が休もうとするとき、私は休みません。人が臥そうとするとき、私は敢えて臥しません。」十五年学び、周威公は彼を師とした。走る者は速いが二里で止まり、歩く者は遅いが百里でも止まらない。いま寧越の才が長く止まらなかったのだから、彼が諸侯の師となるのは当然ではないか!
孔子謂子路曰:“汝何好?”子路曰:“好長劍。”孔子曰:“非此之問也,請以汝之所能,加之以學,豈可及哉!”子路曰:“學亦有益乎?”孔子曰:“夫人君無諫臣則失政;士無教交,則失德;狂馬不釋其策,操弓不返於檠;木受繩則直,人受諫則聖;受學重問,孰不順成;毀仁惡士,且近於刑。君子不可以不學。”子路曰:“南山有竹,弗揉自直,斬而射之,通於犀革,又何學為乎?”孔子曰:“括而羽之,鏃而砥礪之,其入不益深乎?”子路拜曰:“敬受教哉!”
孔子が子路に言った。「お前は何を好むか。」子路は言った。「長剣を好みます。」孔子は言った。「問うのはそれではない。お前のできることに学を加えれば、どこに及ぶ者がいようか!」子路は言った。「学にも益があるのですか。」孔子は言った。「人君に諫臣がなければ政を失い、士に教える友がなければ徳を失う。狂馬は鞭を放さず、操弓は檠を離さない。木は墨縄を受ければ直く、人は諫を受ければ聖となる。学問を受け問を重んずれば、誰が成就せずにおれよう。仁を毀り士を悪めば、刑罰に近づく。君子は学ばなければならない。」子路は言った。「南山に竹があり、揉まなくても自ら直い。切って射れば犀革を貫く。どうしてまた学ぶ必要があるのですか。」孔子は言った。「括を装い羽毛をつけ、鏃を装って磨けば、入るのが一層深くないか。」子路は拝して言った。「敬って教えを受けます!」
子路問於孔子曰:“請釋古之學而行由之意,可乎?”孔子曰:“不可,昔者東夷慕諸夏之義,有女,其夫死,為之內私婿,終身不嫁,不嫁則不嫁矣,然非貞節之義也;蒼梧之弟,娶妻而美好,請與兄易,忠則忠矣,然非禮也。今子欲釋古之學而行子之意,庸知子用非為是,用是為非乎!不順其初,雖欲悔之,難哉!”
子路が孔子に問うて言った。「古の学を置いて由の心意に従って行ってもよいですか。」孔子は言った。「いけない。昔、東夷が諸夏の義を慕い、ある女子は夫が死ぬと内室で私に婿を招き、終身嫁がなかった。嫁がないのは確かに嫁がなかったが、貞節の義ではなかった。蒼梧の弟は妻を娶ってとても美しく、兄と交換するよう請うた。忠は確かに忠だが、礼ではなかった。いまお前が古の学を置いて心のままに行おうとするなら、お前が正しくないものを正しいとし、正しいものを正しくないとすることをどうして知ろう。始めから順わなければ、悔いようと思っても難しい!」
豐牆磽下未必崩也,流行潦至,壞必先矣;樹本淺,根垓不深,未必橛也,飄風起,暴雨至,拔必先矣。君子居於是國,不崇仁義,不尊賢臣,未必亡也;然一旦有非常之變,車馳人走,指而禍至,乃始幹喉燋唇,仰天而嘆,庶幾焉天其救之,不亦難乎?孔子曰:“不慎其前,而悔其後,雖悔無及矣。”詩曰:“啜其泣矣,何嗟及矣”?言不先正本而成憂於末也。
牆が厚く豊かでも基礎が痩せていれば、必ずしも崩れない。しかし流水や積潦が来れば、壊れるのは必ず先です。木の本が浅く根垓が深くなければ、必ずしも折れない。しかし大風が起こり暴雨が来れば、抜けるのは必ず先です。君子がこの国に住み、仁義を尊ばず賢臣を重んじなければ、必ずしも亡びない。しかし一旦非常の変故があれば、車は馳せ人は走り、指の間に禍が至る。これが喉を涸らし唇を焦がし、天を仰いで嘆息し、天に救いを願うのは難しくないでしょうか。孔子は言った。「事前に慎まず、事後に悔いる。悔いても間に合わない。」『詩経』に言う。「啜り泣いても、嘆息して何の用があるか。」これは根本を先に正さず末梢で憂患を成したことを言うのです。
虞君問盆成子曰:“今工者久而巧,色者老而衰;今人不及壯之時,益積心技之術,以備將衰之色,色者必盡乎老之前,知謀無以異乎幼之時。可好之色,彬彬乎且盡,洋洋乎安托無能之軀哉!故有技者不累身而未嘗滅,而色不得以常茂。”
虞の君が盆成子に問うて言った。「いま工匠は久しくやれば巧くなり、美色は老いれば衰える。いま人が壮年の時に及ばないなら、多く心智技芸の術を積み、衰えゆく美色に備えるべきです。美色は必ず老いる前に尽きるが、智謀は幼年と変わらない。愛すべき美色は彬彬として尽きようとし、洋洋として無能の躯体をどこに託すのか!ゆえに技芸ある者は身を累わさず未だ滅びず、美色は常に茂ることができない。」
齊桓公問管仲曰:“王者何貴?”曰:“貴天。”桓公仰而視天,管仲曰:“所謂天者,非謂蒼蒼莽莽之天也;君人者以百姓為天,百姓與之則安,輔之則強,非之則危,背之則亡。”詩云:“人而無良,相怨一方”。民怨其上,不遂亡者,未之有也。
斉桓公が管仲に問うて言った。「王者は何を重んずるか。」答えた。「天を重んじます。」桓公��顔を上げて天を見た。管仲は言った。「いう天とは、蒼蒼莽莽の天ではありません。人君たる者は百姓を天とします。百姓が親しめば安く、輔けば強く、議せば危うく、背けば亡びます。」『詩経』に言う。「人に良善なきは、一方で互いに怨む。」民が上の者を怨むなら、従って亡びないことは、かつてありません。
河間獻王曰:“管子稱倉廩實,知禮節;衣食足,知榮辱。”夫谷者,國家所以昌熾,士女所以姣好,禮義所以行,而人心所以安也。尚書五福以富為始,子貢問為政,孔子曰:富之,既富乃教之也,此治國之本也。
河間献王は言った。「管子が言うには、倉廩が充実して初めて礼節を知り、衣食が足りて初めて栄辱を知る、と。穀物は、国家を昌えさせ、士女を美しくし、礼義を行わせ、人心を安くするものです。『尚書』の五福は富を始めとし、子貢が政を問うと孔子は言った、彼らを富ませ、富んだ後に教えよ、と。これが治国の根本です。」
文公見咎季,其廟傅於西牆,公曰:“孰處而西?”對曰:“君之老臣也。”公曰:“西益而宅。”對曰:“臣之忠,不如老臣之力,其牆壞而不築。”公曰:“何不築?”對曰:“一日不稼,百日不食。”公出而告之僕,僕●首於軫曰:“呂刑云:‘一人有慶,兆民賴之。’君之明,群臣之福也,乃令於國曰:毋淫宮室,以妨人宅,板築以時,無奪農功。”
文公が咎季を見た。彼の廟は西の牆に近かった。公は言った。「誰が西に住むのか。」答えた。「君の老臣です。」公は言った。「西にあなたの住宅を広げなさい。」答えた。「臣の忠は、老臣の力に及びません。その牆が壊れても築きません。」公は言った。「どうして築かない。」答えた。「一日耕さなければ百日食べるものがありません。」公が出て御者に告げると、御者は車軫の上で頭を下げて言った。「『呂刑』に言う。『一人に善慶あれば、億万の民は彼に頼る』と。君の明は群臣の福です。」そこで全国に令して言った。宮室を過度に築いて人の住宅を妨げるな、牆を築くには時令に従い、農功を奪うな、と。
楚恭王多寵子,而世子之位不定。屈建曰:“楚必多亂。夫一兔走於街,萬人追之;一人得之,萬人不復走。分未定,則一兔走,使萬人擾;分已定,則雖貪夫知止。今楚多寵子而嫡位無主,亂自是生矣。夫世子者,國之基也,而百姓之望也;國既無基,又使百姓失望,絕其本矣。本絕則撓亂,猶兔走也。”恭王聞之,立康王為太子,其後猶有令尹圍,公子棄疾之亂也。
楚恭王に寵愛する子が多く、世子の位が定まらなかった。屈建は言った。「楚は必ず多く乱れる。一匹の兎が街を走れば万人が追い、一人が得れば万人は走らなくなる。名分が未定なら、一匹の兎が走って万人を乱させる。名分が定まれば、貪欲な者でも止まることを知る。いま楚は寵子が多く嫡位に主がない。乱はここから生ずる。世子は国の根基であり、百姓の期待です。国はすでに根基がなく、百姓を失望させる。根本が絶たれた。根本が絶たれれば撓乱し、兎の走るが如し。」恭王はこれを聞き、康王を太子に立てた。この後もなお令尹囲と公子棄疾の乱があった。
晉襄公薨,嗣君少,趙宣子相,謂大夫曰:“立少君,懼多難,請立雍;雍長,出在秦,秦大,足以為援。”賈季曰:“不若公子樂,樂有寵於國,先君愛而仕之翟,翟是以為援。”穆嬴抱太子以呼於庭曰:“先君奚罪,其嗣亦奚罪,舍嫡嗣不立而外求君子。”出朝抱以見宣子曰:“惡難也,故欲立長君,長君立而少君壯,難乃至矣。”宣子患之,遂立太子也。
晋襄公が亡くなり、継ぐ君は年少で、趙宣子が相となり、大夫に言った。「年少の君を立てると多難を恐れる。雍を立てよう。雍は年長で、秦に出居し、秦は大きいから外援に足る。」賈季は言った。「公子楽に及ばない。楽は国に寵があり、先君は彼を愛して翟に官させた。翟はゆえに外援にできる。」穆嬴が太子を抱いて庭中で呼んだ。「先君に何の罪があり、その嗣子に何の罪があるのか。嫡嗣を捨てて立てず、外に君を求めるとは。」朝を出て抱いて宣子に会いに行き言った。「災難を悪むがゆえに年長の君を立てようとした。年長の君が立ち年少の君が大きくなれば、災難が至ります。」宣子はこれを憂え、そこで太子を立てた。
趙簡子以襄子為後,董安於曰:“無恤不才,今以為後,何也?”簡子曰:“是其人能為社稷忍辱。”異日,智伯與襄子飲,而灌襄子之首,大夫請殺之,襄子曰:“先君之立我也,曰能為社稷忍辱,豈曰能刺人哉!”處十月,智伯圍襄子於晉陽,襄子疏隊而擊之,大敗智伯,漆其首以為酒器。
趙簡子が襄子を後継とした。董安于は言った。「無恤に才がないのに、いま彼を後とするのはなぜですか。」簡子は言った。「この人は社稷のために恥辱を忍ぶことができる。」後のある日、智伯と襄子が飲酒し、酒を襄子の頭に灌いだ。大夫が智伯を殺そうと請うたが、襄子は言った。「先君は私を立て、社稷のために辱を忍べると言った。どこに人を刺殺せよと言ったか!」十箇月後、智伯が襄子を晋晋陽に囲んだ。襄子は隊伍を疎開して彼を撃ち、智伯を大敗させ、その頭に漆を塗って酒器とした。
卷四立節
巻四 立節
士君子之有勇而果於行者,不以立節行誼,而以妄死非名,豈不痛哉!士有殺身以成仁,觸害以立義,倚於節理而不議死地;故能身死名流於來世,非有勇斷,孰能行之?子路曰:“不能勤苦,不能恬貧窮,不能輕死亡;而曰我能行義,吾不信也。”昔者申包胥立於秦庭,七日七夜喪不絕聲,遂以存楚,不能勤苦,安能行此!曾子布衣縕袍未得完,糟糠之食,藜藿之羹未得飽,義不合則辭上卿,不恬貧窮,安能行此!比干將死而諫逾忠,伯夷叔齊餓死於首陽山而志逾彰,不輕死亡,安能行此!故夫士欲立義行道,毋論難易而後能行之;立身著名,無顧利害而後能成之。詩曰:“彼其之子,碩大且篤。”非良篤修激之君子,其誰能行之哉?王子比干殺身以作其忠,伯夷叔齊殺身以成其廉,此三子者,皆天下之通士也,豈不愛其身哉?以為夫義之不立,名之不著是士之恥也,故殺身以遂其行。因此觀之,卑賤貧窮,非士之恥也。夫士之所恥者,天下舉忠而士不與焉,舉信而士不與焉,舉廉而士不與焉;三者在乎身,名傳於後世,與日月並而不息,雖無道之世不能汙焉。然則非好死而惡生也,非惡富貴而樂貧賤也,由其道,遵其理,尊貴及己,士不辭也。孔子曰:“富而可求,雖執鞭之士,吾亦為之;富而不可求,從吾所好。”大聖之操也。詩云:“我心匪石,不可轉也,我心匪席,不可卷也。”言不失己也;能不失己,然後可與濟難矣,此士君子之所以越眾也。
士君子に勇があり果敢に事を行う者が、それを節義を立てるためでなく、妄りに死んで不正な名を求めることに用いるのは、痛ましくないでしょうか。士には身を殺して仁を成し、禍害を犯して義を立て、節理に倚りて死地を計らない者がある。ゆえに身が死んでも名が来世に伝わる。勇と決断がなければ、誰が行えよう。子路は言った。「勤苦できず、貧に安んじられず、死を軽く見られないのに、『私は義を行える』と言う。私は信じない。」昔、申包胥が秦の庭に立ち、七日七夜哭き続けて遂に楚を存した。勤苦できなければどうしてこれができよう。曾子は布衣緼袍を着ても整わず、糟糠の飯・藜藿の羹を食べても飽きず、義が合わなければ上卿を辞した。貧に安んじられなければどうしてこれができよう。比干は死に臨んで進諫してますます忠で、伯夷叔斉は首は首陽山で餓死して志がいよいよ彰明になった。死を軽く見られなければどうしてこれができよう。ゆえに士が義を立て道を行うには、難易を論じて後に行い、身を立て名を成すには利害を顧みずして後に成る。『詩経』に言う。「あの人は、高大にして篤厚。」善良篤厚で修養激切の君子でなければ、誰が行えよう。王子比干は身を殺してその忠を成し、伯夷叔斉は身を殺してその廉を成した。この三人はみな天下���通達した士である。身体を惜しまなかったのか。義が立たず名が顕れないのを士の恥としたから、身を殺してその行を成したのです。これを見れば、卑賤貧窮は士の恥ではない。士の恥ずるところは、天下が忠を挙げても士がその中になく、信を挙げても士がその中になく、廉を挙げても士がその中にないことです。三者が身にあれば名は後世に伝わり、日月と並んで止まない。無道の世でも汚すことができない。ならば死を好み生を悪むのではなく、富貴を悪み貧賤を楽しむのでもない。その道に順いその理に循い、尊貴が己に至れば、士は辞しない。孔子は言った。「富が求められるなら、執鞭の士でも私はする。富が求められなければ、我が好む所に従う。」これが大聖の操守です。『詩経』に言う。「わが心は石ではない、転じられない。わが心は席ではない、巻くことができない。」これは己を失わないことを言い、己を失わずに後に共に難を渡れる。これが士君子の衆を超える所以です。
楚伐陳,陳西門燔,因使其降民修之,孔子過之,不軾,子路曰:“禮過三人則下車,過二人則軾;今陳修門者人數眾矣,夫子何為不軾?”孔子曰:“丘聞之,國亡而不知,不智;知而不爭,不忠;忠而不死,不廉;今陳修門者不行一於此,丘故不為軾也。”
楚が陳を攻め、陳の西門が焼けた。そこで降った民にそれを修めさせた。孔子が通り、軾に凭らなかった。子路は言った。「礼では三人を過ぎれば下車し、二人を過ぎれば軾に凭るとあります。いま陳の門を修める人は数が多い。夫子はどうして軾に凭らないのですか。」孔子は言った。「丘が聞くに、国が亡びても知らないのは不智、知って争諫しないのは不忠、忠であっても死なないのは不廉。いま陳の門を修める者はこれら一つもしていない。丘が彼らのために軾に凭らない所以です。」
孔子見齊景公,景公致廩丘以為養,孔子辭不受,出謂弟子曰:“吾聞君子當功以受祿,今說景公,景公未之行而賜我廩丘,其不知丘亦甚矣!”遂辭而行。曾子衣弊衣以耕,魯君使人往致邑焉,曰:“請以此修衣。”曾子不受,反覆往,又不受,使者曰:“先生非求於人,人則獻之,奚為不受?”曾子曰:“臣聞之,受人者畏人,予人者驕人;縱子有賜不我驕也,我能勿畏乎?”終不受。孔子聞之曰:“參之言,足以全其節也。”子思居於衛,縕袍無表,二旬而九食,田子方聞之,使人遺狐白之裘,恐其不受,因謂之曰:“吾假人,遂忘之;吾與人也,如棄之。”子思辭而不受,子方曰:“我有子無,何故不受?”子思曰:“急聞之,妄與不如棄物於溝壑,急雖貧也,不忍以身為溝壑,是以不敢當也。”
孔子が斉景公に会い、景公は廪丘を贈って供養としたが、孔子は辞して受けず、出て弟子に言った。「君子は功あって禄を受けると聞く��いま景公に遊説して、景公はまだ行わないのに廪丘を賜った。彼は丘を知らなさ過ぎる。」そこで辞して去った。曾子は破れた衣を着て耕していた。魯の君は人を遣わして封邑を贈り、言った。「これで衣服を整えてください。」曾子は受けず、使者は繰り返し行ったが、また受けなかった。使者は言った。「先生は人に求めたのではなく、人が献るのです。どうして受けないのですか。」曾子は言った。「臣が聞くに、人から受ける者は人を怕れ、人に与える者は人に驕る。たとえあなたに賜があっても私に驕らなくとも、私は怕れずにいられようか。」終始受けなかった。孔子はこれを聞いて言った。「参の言は、彼の節を保つに足る。」子思は衛に住み、緼袍で外側がなく、二十日に九度の飯しか食べなかった。田子方はこれを聞き、狐白裘を送り、受けないことを恐れて言った。「私は人に貸せば忘れ、人に与えれば捨てたようにする。」子思は辞して受けなかった。子方は言った。「私にあってあなたにない。どうして受けないのか。」子思は言った。「急が聞くに、妄りに与えるより物を溝壑に捨てるがよい。急は貧しいが、身を溝壑とすることは忍びない。ゆえに敢えて受けない。」
宋襄公茲父為桓公太子,桓公有後妻子,曰公子目夷,公愛之,茲父為公愛之也。欲立之,請於公曰:“請使目夷立,臣為之相以佐之。”公曰:“何故也?”對曰:“臣之舅在衛,愛臣,若終立則不可以往,絕跡於衛,是背母也。且臣自知不足以處目夷之上。”公不許,強以請公,公許之,將立公子目夷,目夷辭曰:“兄立而弟在下,是其義也;今弟立而兄在下,不義也;不義而使目夷為之,目夷將逃。”乃逃之衛,茲父從之。三年,桓公有疾,使人召茲父,若不來,是使我以憂死也,茲父乃反,公復立之以為太子,然後目夷歸也。
宋襄公兹父は桓公の太子で、桓公には後妻の子、公子目夷がいた。公は彼を愛した。兹父は公が彼を愛するので彼を愛した。目夷を立てたいと思い、公に請うて言った。「目夷を立てさせ、臣はその相となり輔佐させてください。」公は言った。「何故か。」答えた。「臣の舅は衛にいて臣を愛しています。もし終に立てば衛に行けず、衛との往来を絶ち、母に背くことになります。さらに臣は自ら目夷の上に処るに足りないと知っています。」公は許さなかった。強く請うと公は許し、公子目夷を立てようとした。目夷は辞して言った。「兄を立て弟が下にいるのは義です。いま弟を立て兄を下にするのは不義です。不義なのに目夷にさせるなら、目夷は逃げます。」そこで衛に逃げ、兹父は彼に従った。三年、桓公が病になり、人を遣わして兹父を召した。来なければ、私を憂いを抱えて死なせることになる。兹父はようやく帰り、公は再び彼を太子に立て、それから目夷も帰った。
晉驪姬譖太子申生於獻公,獻公將殺之,公子重耳謂申生曰:“為此者非子之罪也,子胡不進辭,辭之必免於罪。”申生曰:“不可,我辭之,驪姬必有罪矣,吾君老矣,微驪姬寢不安席,食不甘味,如何使吾君以恨終哉!”重耳曰:“不辭則不若速去矣。”申生曰:“不可,去而免於此,是惡吾君也;夫彰父之過而取美諸侯,孰肯納之?入困於宗,出困於逃,是重吾惡也。吾聞之,忠不暴君,智不重惡,勇不逃死,如是者,吾以身當之。”遂伏劍死。君子聞之曰:“天命矣夫世子!”詩曰:“萋兮斐兮,成是貝錦。彼譖人者,亦已太甚!”
晋の驪姫が献公に太子申生を讒した。献公は彼を殺そうとした。公子重耳が申生に言った。「これはあなたの罪ではない。どうして進んで弁解しない。弁解すれば必ず罪を免れる。」申生は言った。「いけない。私が弁解すれば驪姫は必ず罪になる。吾君は老い、驪姫がいなければ寝ても安らかでなく食べても甘くない。どうして吾君に遺憾を持たせて終わらせられよう。」重耳は言った。「弁解しないなら早く去ったほうがよい。」申生は言った。「いけない。去ってこれを免れるのは吾君を悪むことであり、父の過を顕して諸侯で美名を取る。誰が受け入れよう。入れば宗族に困り、出れば逃亡に困る。私の悪を重ねることだ。私が聞くに、忠は君を暴露させず、智は悪を重ねず、勇は死を避けない。こうして私は身で担う。」そこで剣に伏して死んだ。君子はこれを聞いて言った。「これは天命か、世子!」『詩経』に言う。「文様錯綜して、貝錦を織り成す。讒する人も、あまりに過ぎる!」
晉獻公之時,有士焉,曰狐突,傅太子申生,公立驪姬為夫人,而國多憂,狐突稱疾不出。六年,獻公以譖誅太子,太子將死,使人謂狐突曰:“吾君老矣,國家多難,傅一齣以輔吾君,申生受賜以死不恨。”再拜稽首而死。狐突乃復事獻公,三年,獻公卒,狐突辭於諸大夫曰:“突受太子之詔,今事終矣,與其久生亂世也,不若死而報太子。”乃歸自殺。
晋献公の時、狐突という士がいて、太子申生の傅をしていた。公は驪姫を夫人とし、国には多くの憂患があった。狐突は病を称して出なかった。六年、献公は讒言で太子を殺した。太子が死に臨み、人を遣わして狐突に言った。「吾君は老いて国は多難。傅がいったん出て吾君を輔佐してくれれば、申生は賜を受けて死して恨みなし。」再拝叩頭して死んだ。狐突は再び献公に仕えて三年、献公が亡くなった。狐突は諸大夫に告げて言った。「突は太子の詔命を受けた。いま事が終わった。長く乱世に生きるより、死んで太子に報いるがよい。」そこで帰って自殺した。
楚平王使奮揚殺太子建,未至而遣之,太子奔宋,王召奮揚,使城父人執之以至,王曰:“言出於予口,入於爾耳,誰告建也?”對曰:臣告之,王初命臣曰:“事建如事餘,臣不佞,不能貳也;奉初以還,故遣之,已而悔之,亦無及也。”王曰:“而敢來,何也?”對曰:“使而失命,召而不來,是重過也,逃無所入。”王乃赦之。
楚平王が奮揚を遣わして太子建を殺させた。まだ到らないうちに彼を逃がし、太子は宋に奔った。王は奮揚を召し、城父の人に彼を捉えて送らせた。王は言った。「話は私の口から出てお前の耳に入った。誰が建に告げた。」答えた。「臣が告げました。王は初め臣に命じた。『建に仕えることは私に仕える如く』と。臣は不才で二心を持てません。初めの命を奉じて帰ったので、彼を放ちました。事後に悔いても間に合いません。」王は言った。「お前は敢えて来た。何故か。」答えた。「使いを出て命を失い、召されて来ないのは、過を重ねることです。逃げても行く所がありません。」王はそこで彼を赦した。
晉靈公暴,趙宣子驟諫,靈公患之,使鉏之彌賊之;鉏之彌晨往,則寢門闢矣,宣子盛服將朝,尚早,坐而假寢,之彌退,嘆而言曰:“不忘恭敬,民之主也。賊民之主,不忠;棄君之命,不信。有一於此,不如死也。”遂觸槐而死。
晋靈公が暴虐で、趙宣子が屢々進諫した。靈公はこれを憂え、鉏之弥を遣わして彼を暗殺させた。鉏之弥は朝方に行き、寝殿の門がすでに開いていた。宣子は衣冠を整えて朝に登ろうとし、まだ早いので座して假寐していた。之弥は退き、嘆息して言った。「敬を忘れないのは民の主だ。民の主を害するは不忠。君の命を棄てるは不信。その一つあれば、死するに及ばず。」そこで槐に撞いて死んだ。
齊人有子蘭子者,事白公勝,勝將為難,乃告子蘭子曰:“吾將舉大事於國,願與子共之。”子蘭子曰:“我事子而與子殺君,是助子之不義也;畏患而去子,是遁子於難也。故不與子殺君以成吾義,契領於庭,以遂吾行。”
斉に子蘭子という者がいて、白公勝に仕えた。勝が発難しようとし、子蘭子に告げて言った。「国で大事を挙げよう。あなたと共にいたい。」子蘭子は言った。「私はあなたに仕えながらあなたと君を殺すのは、あなたの不義を助けることです。禍患を怕れてあなたを離れるのは、危難であなたを棄てることです。ゆえにあなたと君を殺さず、私の義を成すため、庭で頸を断ち、私の行を全うします。」
楚有士申鳴者,在家而養其父,孝聞於楚國,王欲授之相,申鳴辭不受,其父曰:“王欲相汝,汝何不受乎?”申鳴對曰:“舍父之孝子而為王之忠臣,何也?”其父曰:“使有祿於國,立義於庭,汝樂吾無憂矣,吾欲汝之相也。”申鳴曰:“諾。”遂入朝,楚王因授之相。居三年,白公為亂,殺司馬子期,申鳴將往死之,父止之曰:“棄父而死,其可乎?”申鳴曰:“聞夫仕者身歸於君而祿歸於親,今既去子事君,得無死其難乎?”遂辭而往,因以兵圍之。白公謂石乞曰:“申鳴者,天下之勇士也,今以兵圍我,吾為之奈何?”石乞曰:“申鳴者,天下之孝子也,往劫其父以兵,申鳴聞之必來,因與之語。”白公曰:“善。”則往取其父,持之以兵,告申鳴曰:“子與吾,吾與子分楚國;子不與吾,子父則死矣。”申鳴流涕而應之曰:“始吾父之孝子也,今吾君之忠臣也;吾聞之也,食其食者死其事,受其祿者畢其能;今吾已不得為父之孝子矣,乃君之忠臣也,吾何得以全身!”援桴鼓之,遂殺白公,其父亦死,王賞之金百斤,申鳴曰:“食君之食,避君之難,非忠臣也;定君之國,殺臣之父,非孝子也。名不可兩立,行不可兩全也,如是而生,何面目立於天下。”遂自殺也。
楚に申鳴という士がいて、家で父を養っていた。孝で楚国に聞こえ、王は彼に相位を授けようとしたが、申鳴は辞して受けなかった。父は言った。「王があなたを相にしたいのに、どうして受けない。」申鳴は答えた。「父の孝子を捨てて王の忠臣になる。なぜですか。」父は言った。「あなたを国で俸禄を得させ、朝廷に義を立たせれば、あなたは楽しみ私は憂いがない。あなたに相をさせたい。」申鳴は言った。「はい。」そこで入朝し、楚王は彼に相位を授けた。三年過ぎ、白公が乱を起こし司馬子期を殺した。申鳴はこれのために死に行こうとした。父は彼を止めて言った。「父を棄てて死ぬのはよいのか。」申鳴は言った。「官となる者は身は君に帰し俸禄は両親に帰すると聞く。いま子の身分を離れて君に仕えた。彼の難に死さずしてよいか。」そこで辞して行き、兵をもって白公を囲んだ。白公は石乞に言った。「申鳴は天下の勇士だ。いま兵をもって私を囲む。どうしよう。」石乞は言った。「申鳴は天下の孝子です。兵を率いて彼の父を劫して、申鳴が聞けば必ず来ます。機に乗じて彼と話しましょう。」白公は言った。「よし。」そこで彼の父を捕え、兵器で挟み、申鳴に告げて言った。「お前が私とすれば、楚を分けよう。お前が私としなければ、お前の父は死ぬ。」申鳴は涙を流して答えた。「初め私は父の孝子だったが、いま私は君の忠臣です。彼の食を食む者は彼の事に死し、彼の禄を受ける者は己の能を尽くすと聞く。いま私は父の孝子となれず、君の忠臣となりました。どうして身を全うできよう。」鼓槌を取り鼓を撃ち、そこで白公を殺した。彼の父も死んだ。王は彼に黄金百斤を賞した。申鳴は言った。「君の食を食んで君の難を避けるは忠臣ではない。君の国を安くして臣の父を殺すは孝子ではない。名は両立できず、行は両全できない。こうして生きて、何の面目で天下に立とう。」そこで自殺した。
齊莊公且伐莒,為車五乘之賓,而杞梁華舟獨不與焉,故歸而不食,其母曰:“汝生而無義,死而無名,則雖非五乘,孰不汝笑也?汝生而有義,死而有名,則五乘之賓盡汝下也。”趣食乃行,杞梁華舟同車侍於莊公而行至莒,莒人逆之,杞梁華舟下鬥,獲甲首三百,莊公止之曰:“子止,與子同齊國。”杞梁華舟曰:“君為五乘之賓,而舟梁不與焉,是少吾勇也;臨敵涉難,止我以利,是汙吾行也;深入多殺者,臣之事也,齊國之利,非吾所知也。”遂進鬥,壞軍陷陣,三軍弗敢當,至莒城下,莒人以炭置地,二人立有間,不能入。隰侯重為右曰:“吾聞古之士,犯患涉難者,其去遂於物也,來,吾踰子。”隰侯重仗楯伏炭,二子乘而入,顧而哭之,華舟後息。杞梁曰:“汝無勇乎?何哭之久也?”華舟曰:“吾豈無勇哉,是其勇與我同也,而先吾死,是以哀之。”莒人曰:“子毋死,與子同莒國。”杞梁華舟曰:“去國歸敵,非忠臣也;去長受賜,非正行也;且雞鳴而期,日中而忘之,非信也。深入多殺者,臣之事也,莒國之利非吾所知也。”遂進鬥,殺二十七人而死。其妻聞之而哭,城為之,而隅為之崩。此非所以起也。
斉荘公が莒を伐とうとし、五乗の賓を設けたが、杞梁・華舟はその中にいなかった。帰って食をしなかった。母は言った。「生きて義なく死して名なければ、五乗でなくとも誰があなたを笑わない。生きて義あり死して名あれば、五乗の賓はみなあなたの下にある。」急いで食して出発した。杞梁・華舟は同車で荘公に侍し莒に至った。莒人が迎え撃ち、杞梁・華舟は車を下りて搏闘し、甲士三百首を斬獲した。荘公は彼らを止めて言った。「お前たちは止まれ。斉を分けよう。」杞梁・華舟は言った。「君が五乗の賓を設けて、舟・梁がその中にいないのは、我らの勇を軽んじたからです。敵に臨み難に臨んで利で止めるのは、我らの行を辱めることです。深く入り多く殺すは臣の事で、斉国の利は我らの知る所ではありません。」そこで進んで搏闘し、敵軍を破り陣地に冲陥し、三軍は当たらなかった。莒城下に至り、莒人は地に炭を敷いた。二人はしばらく立ったが入れなかった。隰侯重が車右として言った。「古の士は、禍患を冒し難を経る者は、去り終に物のために死ぬ。来い、私を踏んで過ぎよ。」隰侯重は盾を持ち炭の上に伏した。二人は踏んで入り、振り返って彼を哭き、華舟が後に止まった。杞梁は言った。「あなたは勇がないのか。どうしてこんなに長く哭く。」華舟は言った。「どうして勇がない。この人の勇は私と同じだったのに、先に死んだ。ゆえに哀しむ。」莒人は言った。「お前たちは死ぬな。莒を分けよう。」杞梁・華舟は言った。「本国を離れ敵に帰するは忠臣ではない。長上を離れ賞を受けるは正行ではない。さらに鶏鳴に約束して日中に忘れるは信ではない。深く入り多く殺すは臣の事で、莒国の利は我らの知る所ではありません。」そこで進んで搏闘し、二十七人を殺して死んだ。その妻はこれを聞き哭き、城牆がそれによって崩れ、城角もそれによって崩れた。これは興すものではない。
越甲至齊,雍門子狄請死之,齊王曰:“鼓鐸之聲未聞,矢石未交,長兵未接,子何務死之?為人臣之禮邪?”雍門子狄對曰:“臣聞之,昔者王田於囿,左轂鳴、車右請死之,而王曰:‘子何為死?’車右對曰:‘為其鳴吾君也。’王曰:‘左轂鳴者工師之罪也,子何事之有焉?’車右曰:‘臣不見工師之乘而見其鳴吾君也。’遂刎頸而死,知有之乎?”齊王曰:“有之。”雍門子狄曰:“今越甲至,其鳴吾君也,豈左轂之下哉?車右可以死左轂,而臣獨不可以死越甲也?”遂刎頸而死。是日越人引甲而退七十里,曰:“齊王有臣,鈞如雍門子狄,擬使越社稷不血食。”遂引甲而歸,齊王葬雍門子狄以上卿之禮。
越の甲兵が斉に至った。雍門子狄はこれのために死ぬことを請うた。斉王は言った。「鼓鐸の音もまだ聞こえず、矢石もまだ交わらず、長兵もまだ触れていない。お前はどうして必ず死ぬのか。これが人臣の礼か。」雍門子狄は答えた。「臣が聞くに、昔、王が苑囿で獵し、左の車轂が鳴り、車右はこれのために死ぬことを請うた。王は言った。『お前は何のために死ぬのか。』車右は答えた。『それが我らの君に鳴ったからです。』王は言った。『左の車轂の鳴るは工師の罪だ。お前に何の関係がある。』車右は言った。『臣は工師が車に乗るのを見ていないが、それが我らの君に鳴るのを見た。』そこで頸を刎ねて死んだ。これがあったのを知っていますか。」斉王は言った。「ある。」雍門子狄は言った。「いま越の甲兵が至った。それが我らの君に鳴るのは、左の車轂より下ではないでしょう。車右は左の車轂のために死ぬことができた。臣は独り越の甲兵のために死ぬことができないのですか。」そこで頸を刎ねて死んだ。その日、越人は甲兵を帯びて七十里退き、言った。「斉王に臣あり。皆雍門子狄のようなら、越の社稷は血食を得られなくなる。」そこで甲兵を帯びて帰った。斉王は上卿の礼で雍門子狄を葬った。
楚人將與吳人戰,楚兵寡而吳兵眾,楚將軍子囊曰:“我擊此國必敗,辱君虧地,忠臣不忍為也。”不復於君,黜兵而退,至於國郊,使人復於君曰:“臣請死!”君曰:“子大夫之遁也,以為利也,而今誠利,子大夫毋死!”子囊曰:“遁者無罪,則後世之為君臣者,皆入不利之名而效臣遁,若是則楚國終為天下弱矣,臣請死。”退而伏劍。君曰:“誠如此,請成子大夫之義。”乃為桐棺三寸,加斧質其上,以■於國。
楚人が呉人と交戦しようとした。楚兵は少なく呉兵は多かった。楚の将軍子囊は言った。「この国を攻撃すれば必ず敗れる。君を辱め地を損う。忠臣は忍んでしない。」君に報告せず、兵を収め退いた。国郊に至り、人を遣わして君に報告して言った。「臣は死を請います!」君は言った。「子大夫の退走は、利があると思ってのことだ。いま確かに利がある。子大夫は死ぬな!」子囊は言った。「退く者が罪なければ、後世の君臣を為る者は皆不利の名に落ちて臣の退走を倣う。こうして楚はついに天下に弱く見られます。臣は死を請います。」退いて剣に伏した。君は言った。「果たしてそうなら、子大夫の義を全うさせよう。」そこで桐棺三寸を作り、斧質を上に加え、国中に(���本この字欠)した。
宋康公攻阿,屠單父,成公趙曰:“始吾不自知,以為在千乘則萬乘不敢伐,在萬乘則天下不敢圖。今趙在阿而宋屠單父,則是趙無以自立也。且往誅宋!”趙遂入宋,三月不得見。或曰:“何不因鄰國之使而見之。”成公趙曰:“不可,吾因鄰國之使而刺之,則使後世之使不信,荷節之信不用,皆曰趙使之然也,不可!”或曰:“何不因群臣道徒處之士而刺之。”成公趙曰:“不可,吾因群臣道徒處之士而刺之,則後世之臣不見信,辯士不見顧,皆曰趙使之然也。不可!吾聞古之士怒則思理,危不忘義,必將正行以求之耳。”期年,宋康公病死,成公趙曰:“廉士不辱名,信士不惰行,今吾在阿,宋屠單父,是辱名也;事誅宋王,期年不得,是惰行也。吾若是而生,何面目而見天下之士。”遂立槁於彭山之上。
宋康公が阿を攻め、単父を屠戮した。成公趙は言った。「初め私は知らず、千乗の国にいれば万乗は敢えて伐たず、万乗の国にいれば天下は敢えて謀らないと思っていた。いま趙が阿にいて宋が単父を屠る。ならば趙は自立するものがない。宋を誅しに行く!」趙は宋に入り、三箇月会えなかった。ある人は言った。「隣国の使者を借りて彼に会ってはどうか。」成公趙は言った。「いけない。隣国の使者を借りて彼を刺殺すれば、後世の使者が信じられず、節を持つ信が用いられなくなり、皆趙がそうさせたと言うだろう。いけない!」ある人は言った。「群臣と道路上の閑居の士を借りて彼を刺殺してはどうか。」成公趙は言った。「いけない。群臣と道路上の閑居の士を借りて彼を刺殺すれば、後世の臣が信じられず、弁士が顧みられなくなり、皆趙がそうさせたと言うだろう。いけない!古の士は怒れば理を思い、危くても義を忘れず、必ず行いを正して求めると聞く。」一年満ち、宋康公は病死した。成公趙は言った。「廉士は名を辱めず、信士は行を怠らない。いま私が阿にいて宋が単父を屠ったのは名を辱めた。宋王を誅しに行って一年満ちても得られなかったのは行を怠った。こうして生きて、何の面目で天下の士に会おう。」そこで彭山の上に立って枯死した。
佛肸用中牟之縣畔,設祿邑炊鼎曰:“與我者受邑,不與我者其烹。”中牟之士皆與之。城北餘子田基獨後至,袪衣將入鼎曰:“基聞之,義者軒冕在前,非義弗受;斧鉞於後,義死不避。”遂袪衣將入鼎,佛肸播而之趙,簡子屠中牟,得而取之,論有功者,用田基為始,田基曰:“吾聞廉士不恥人,如此而受中牟之功,則中牟之士終身慚矣。”襁負其母,南徙於楚,楚王高其義待以司馬。
仏肸が中牟の県で反し、禄邑を設け鼎を焼いて言った。「私とする者は封邑を受け、私としない者は烹る。」中牟の士は皆彼に附和した。城北の余子田基だけが後れて至り、衣を撩りて鼎に入ろうとし言った。「基が聞くに、義者は軒冕が前にあっても、義でなければ受けず。斧鉞が後ろにあっても、義のために死して避けない。」そこで衣を撩りて鼎に入ろうとした。仏肸は趙に逃げ、簡子は中牟を屠り、得て占め取った。功ある者を論じ、田基から始めた。田基は言った。「廉士は人を辱めないと聞く。こうして中牟の功を受ければ、中牟の士は終身愧る。」母を背負い、南に楚に遷った。楚王は彼の義を推し、司馬の礼で彼を遇した。
齊崔杼弒莊公,邢蒯瞶使晉而反,其僕曰:“崔杼弒莊公,子將奚如?”邢蒯瞶曰:“驅之,將入死而報君。”其僕曰:“君之無道也,四鄰諸侯莫不聞也,以夫子而死之不亦難乎?”邢蒯瞶曰:“善能言也,然亦晚矣,子早言我,我能諫之,諫不聽我能去,今既不諫又不去;吾聞食其祿者死其事,吾既食亂君之祿矣,又安得治君而死之?”遂驅車入死。其僕曰:“人有亂君,人猶死之;我有治長,可毋死乎?”乃結轡自刎於車上。君子聞之曰:“邢蒯瞶可謂守節死義矣;死者人之所難也,僕伕之死也,雖未能合義,然亦有志之意矣,詩云:‘夙夜匪懈,以事一人,’邢生之謂也。孟子曰:‘勇士不忘喪其元,’僕伕之謂也。”
斉の崔杼が荘公を弑した。邢蒯瞶は晋に使いして帰った。その御者は言った。「崔杼が荘公を弑しました。あなたはどうしますか。」邢蒯瞶は言った。「車を駆れ。入って死して君に報いる。」御者は言った。「君の無道は四隣の諸侯で聞かない者がいません。夫子が彼のために死ぬのは難しくないですか。」邢蒯瞶は言った。「よく言ったが遅い。早く私に言ってくれれば私は進諫し、聞かなければ離れられた。いま諫めず離れもしない。彼の禄を食む者は彼の事に死すと聞く。私はすでに乱君の禄を食んだ。どうして治世の君を待って彼のために死なれよう。」そこで車を駆って入り死んだ。御者は言った。「人に乱君あれば、人は彼のために死ぬ。私に治世の長官あれば、死なずにおれようか。」そこで辔を結んで車上で自刎した。君子はこれを聞いて言った。「邢蒯瞶は節を守り義に死したと称すべきだ。死は人の難しとするところ。御者の死は、義に合わないまでも志の意がある。『詩経』に言う。『朝夕懈らず、一人に仕える』と。これは邢生を言う。孟子に言う。『勇士は頭を喪うことを忘れない』と。これは御者を言う。」
燕昭王使樂毅伐齊,閔王亡,燕之初入齊也,聞蓋邑人王歜賢,令於三軍曰:“環蓋三十里毋入。”以歜之故,已而使人謂歜曰:“齊人多高子之義,吾以子為將,封子萬家。”歜固謝燕人,燕人曰:“子不聽,吾引三軍而屠蓋邑。”王歜曰:“忠臣不事二君,貞女不更二夫;齊王不聽吾諫,故退而耕於野。國既破亡,吾不能存,今又劫之以兵,為君將,是助桀為暴也,與其生而無義,固不如烹。”遂懸其軀於樹枝,自奮絕脰而死,齊亡,大夫聞之曰:“王歜布衣義猶不背齊向燕,況在位食祿者乎?”乃相聚如莒,求諸公子,立為襄王。
燕昭王は楽毅を遣わして斉を伐たせた。閔王は逃亡した。燕が斉に入ったとき、盖邑の人王歜が賢いと聞き、三軍に令して言った。「盖を環る三十里に入るな。」歜のためである。続いて人を遣わして歜に言った。「斉人はあなたの義を多く推す。あなたを将とし万家に封じよう。」歜は固く燕人を絶した。燕人は言った。「聴かなければ、三軍を率いて盖邑を屠る。」王歜は言った。「忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫に嫁がない。斉王は私の諫を聴かず、ゆえに退いて野で耕していた。国はすでに破亡し、私は保存できない。いま兵で劫して君の将とするのは、桀を助けて暴を為すことだ。生きて義なきは、むしろ烹られたほうがよい。」そこで身を樹枝に懸け、自ら力で頸を断って死んだ。斉が亡びた後、大夫はこれを聞いて言った。「王歜は布衣でも義で斉を背けず燕に向かわなかった。いわんや位にあり禄を食む者は。」そこで相集まって莒に至り、諸公子を求めて襄王に立てた。
左儒友于杜伯,皆臣周宣王,宣王將殺杜伯而非其罪也,左儒爭之於王,九復之而王弗許也,王曰:“別君而異友,斯汝也。”左儒對曰:“臣聞之,君道友逆,則順君以誅友;友道君逆,則率友以違君。”王怒曰:“易而言則生,不易而言則死。”左儒對曰:“臣聞古之士不枉義以從死,不易言以求生,故臣能明君之過,以死杜伯之無罪。”王殺杜伯,左儒死之。
左儒と杜伯は友好で、ともに周宣王の臣だった。宣王は杜伯を殺そうとしたがその罪ではなかった。左儒は王に争諫し、九度繰り返しても王は許さなかった。王は言った。「君を分かち友を異に見るのはお前だ。」左儒は答えた。「臣が聞くに、君の道が正しく友の道が逆なら、君に従って友を誅する。友の道が正しく君の道が逆なら、友を率いて君に背く。」王は怒って言った。「言を変えれば活かす。変えなければ殺す。」左儒は答えた。「臣が聞くに、古の士は義を枉げて従って死せず、言を変えて活を求めず。ゆえに臣は君の過を顕し、死を以て杜伯の無罪を証す。」王は杜伯を殺し、左儒はこのために死んだ。
莒穆公有臣曰朱厲附,事穆公,不見識焉,冬處於山林食杼栗,夏處於洲澤食菱藕。穆公以難死,朱厲附將往死之。其友曰:“子事君而不見識焉,今君難吾子死之,意者其不可乎!”朱厲附曰:“始我以為君不吾知也,今君死而我不死,是果不知我也;吾將死之,以激天下不知其臣者。”遂往死之。
莒穆公に朱厲附という臣がいて、穆公に仕えたが識られなかった。冬は山林に住み橡栗を食べ、夏は洲沢に住み菱藕を食べていた。穆公は危難で死んだ。朱厲附は彼のために死に行こうとした。その友は言った。「あなたは君に仕えても識られなかった。いま君が難に遭ってあなたが彼のために死ぬのは、およそよくないのでは。」朱厲附は言った。「初め私は君が私を知らないと思っていた。いま君が死んで私が死ななければ、やはり知らなかったことになる。彼のために死んで、天下の彼の臣を知らない者を励まそう。」そこで行って彼のために死んだ。
楚莊王獵於雲夢,射科雉得之,申公子倍攻而奪之,王將殺之,大夫諫曰:“子倍自好也,爭王雉必有說,王姑察之。”不出三月,子倍病而死。邲之戰,楚大勝晉,歸而賞功,申公子倍之弟請賞於王曰:“人之有功也,賞於車下。”王曰:“奚謂也?”對曰:“臣之兄讀故記曰:射科雉者不出三月必死,臣之兄爭而得之,故夭死也。”王命發乎府而視之,於記果有焉,乃厚賞之。
楚荘王が雲夢で獵し、科雉を射て得た。申公子倍がそれを奪い取った。王は彼を殺そうとした。大夫は進諫して言った。「子倍は己を惜しむ人です。王の雉を争うには必ず説法があります。王はしばらく考察してください。」三箇月を出ず、子倍は病死した。邲の戦いで楚は晋に大勝し、帰って功を賞した。申公子倍の弟が王に賞を請うて言った。「人に功あれば、車下で賞を受けます。」王は言った。「どういう意味か。」答えた。「臣の兄は旧い記を読み、科雉を射る者は三箇月を出ず必ず死ぬとありました。臣の兄はそれを争って得たので夭折して死んだのです。」王は府庫を開いて見るよう命じ、記に果たしてあった。そこで厚く彼を賞した。
卷五貴德
巻五 貴徳
聖人之於天下百姓也,其猶赤子乎!飢者則食之,寒者則衣之;將之養之,育之長之;惟恐其不至於大也。詩曰:“蔽芾甘棠,勿剪勿伐,召伯所茇。”傳曰:自陝以東者周公主之,自陜以西者召公主之。召公述職當桑蠶之時,不欲變民事,故不入邑中,舍於甘棠之下而聽斷焉,陜間之人皆得其所。是故後世思而歌誄之,善之,故言之;言之不足,故嗟嘆之;嗟嘆之不足,故歌詠之。夫詩思然後積,積然後滿,滿然後發,發由其道而致其位焉;百姓嘆其美而致其敬,甘棠之不伐也,政教惡乎不行!孔子曰:“吾於甘棠,見宗廟之敬也。”甚尊其人,必敬其位,順安萬物,古聖之道幾哉!仁人之德教也,誠惻隱於中,悃愊於內,不能已於其心;故其治天下也,如救溺人,見天下強陵弱,眾暴寡;幼孤羸露,死傷系虜,不忍其然,是以孔子歷七十二君,冀道之一行而得施其德,使民生於全育,烝庶安土,萬物熙熙,各樂其終,卒不遇,故睹麟而泣,哀道不行,德澤不洽,於是退作春秋,明素王之道,以示後人,恩施其惠,未嘗輟忘,是以百王尊之,志士法焉,誦其文章,傳今不絕,德及之也。詩曰:“載馳載驅,周爰諮謀。”此之謂也。聖王布德施惠,非求報於百姓也;郊望禘嘗,非求報於鬼神也。山致其高,雲雨起焉;水致其深,蛟龍生焉;君子致其道德而福祿歸焉。夫有陰德者必有陽報,有隱行者必有昭名,古者溝防不修,水為人害,禹鑿龍門,闢伊闕,平治水土,使民得陸處;百姓不親,五品不遜,契教以君臣之義,父子之親,夫婦之辨,長幼之序;田野不修,民食不足,后稷教之,闢地墾草,糞土樹谷,令百姓家給人足;故三後之後,無不王者,有陰德也。周室衰,禮義廢,孔子以三代之道,教導於後世,繼嗣至今不絕者,有隱行也。
聖人は天下の百姓を、赤子のように扱うのでしょう!飢える者には食べさせ、寒い者には着せ、彼を扶け養い、大きく育てて成長させます。ただ彼が成長に達しないことを恐れます。『詩経』に言う。「小さな甘棠、剪るな伐るな、召伯はかつてその下に止まった。」伝文に言う。陝より東は周公が主り、陝より西は召公が主る。召公が職を述べるに桑蚕の時に当たり、民事を変えたくなかったので邑中に入らず、甘棠の下に居て訟を聴き決断した。陝の間の人々は各々その所を得た。ゆえに後世は彼を思い歌誄し、善とした。ゆえにこれを言う。言って足りなければ嗟嘆し、嗟嘆して足りなければ歌詠する。詩は思いを積み、積みて充満し、充満して発する。発してその道に順いその位に至る。百姓はその美を嘆じ敬を致し、甘棠は伐られず、政教はどうして行われないことがあろう。孔子は言った。「私は甘棠から宗廟への敬を見る。」その人を崇めれば必ずその位を敬し、順応して万物を安くする。古の聖人の道に近い!仁人の徳教は、惻隠が中にあり、悃愊が内にあり、心に止まることができない。ゆえに彼は天下を治めるに、溺れる人を救うが如く、天下が強を以て弱を陵し、衆を以て寡を暴するのを見た。幼孤は瘦し弱り暴露し、死傷は俘られ囚われる。これを忍びず、ゆえに孔子は七十二君を経歴し、道が一旦行われてその徳を施せることを願い、民生が保全養育を得、衆民が郷土に安んじ、万物が熙熙として各々終わりを楽しむようにしたが、ついに遇わず、麟を見て泣き、道の行われず徳沢の周洽せざるを哀れみ、退いて『春秋』を作り、素王の道を明らかにして後人に見せ、恩惠を施し、忘れることがなかった。ゆえに百王は彼を尊崇し、志士は彼を法とし、その文章を誦して、いまに至って絶えない。徳が至ったのです。『詩経』に言う。「馳せ、駆け、遍く咨謀を求む。」これを言うのです。聖王が徳を布き恵を施すのは、百姓に報答を求めるのではない。郊望禘嘗は、鬼神に報答を求めるのではない。山はその高さに達すれば雲雨がそこから起こり、水はその深さに達すれば蛟龍がそこに生じ、君子はその道徳に達すれば福禄が彼に帰する。陰徳ある者は必ず陽報があり、隠行ある者は必ず昭名がある。古は溝防が修められず、水は人の害となった。禹は龍門を開き伊闕を闢き、水土を平治し、民をして陸地に住ませた。百姓は親しまず、五品は遜順せず。契は彼らに君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序を教えた。田野は修められず、民食は足りず。后稷は彼らに教え、土地を闢き荒草を墾し、土に肥を施し穀物を植え、百姓をして家給人足ならしめた。ゆえに三后の後代で、王と称さない者はいない。陰徳があるのです。周室が衰え、礼義が廃れ、孔子は三代の道を以て後世を教え、いまに至って継嗣の絶えないのは、隠行があるのです。
