亜聖の講述(二)――孟子
易道兼體用,統神形者也;先天卦象,可用以釋道之真體;而明神天之德,成誠明之功;後天卦象,可用以釋道之大用;而明人物之生,成位育之德;合而言之,則內聖外王之道,大學之修齊治平,中庸之中和誠明,莫不在易中也!智者見之謂智,仁者見之謂之仁;以道無大小,所見者有大小耳。
易道は体と用を兼ね備え、神と形を統摂する。先天の卦象は道の真体を釈明するのに用いることができ、これによって神明と上天の徳を明らかにし、「誠明」の工夫を成す。後天の卦象は道の大用を釈明するのに用いることができ、これによって人と物の化生を明らかにし、天地を参賛し万物を位育する徳を成す。合わせて言えば、内聖外王の道、《大学》の修身・斉家・治国・平天下、《中庸》の中和・誠明は、いずれも《易》の中に在らざるはない。智ある者はこれを見て智と言い、仁ある者はこれを見て仁と言う。道自体に大小はなく、見る者に大小があるだけである。
易之初,有象無文;象則隨人所解,文則泥於一詮;故以象用,而不重文字也;易之後,兼象與文;象存其真,文釋其例;二者並重,則後天物事可見;從文明象,則先天性亦知;故易在後天藏體於用,猶寓神於形也。
易の初めは、卦象のみあって文辞がなかった。象は人のままに会得することができるが、文辞は一つの解釈に拘りやすい。だからその頃は象をもって用とし、文字を重んじなかった。易は後になると象と文を兼ねた。象はその真を存し、文はその例を釈明する。両者を並び重んじれば後天の物事が見え、文辞によって卦象に明らかになれば先天の性理もまた知ることができる。だから易は後天に至って「体」を「用」の中に蔵する。ちょうど神を形に寓するようなものである。
以人言之,其未生也,無神形可分;迨其既生,形著神隱,神在形中,未嘗無也;神主其真,形達其用;知覺運動俱全,而生育以見焉;易之為用亦然,卦爻形也,氣神也;明其卦爻,得知其氣;知氣始終,得知生化;故必從象求之。
人を例に言えば、まだ生まれぬうちは神と形とを分かつことができない。すでに生まれれば形が著われ神は隠れるが、神は形のうちにあり、ないのではない。神はその真宰を主どり、形はその用を達し、知覚・運動はことごとく備わり、生育の能が現れる。易の用もまた同じである。卦爻は形、気は神である。その卦爻を明らかにすればその気を知ることができ、気の終始を知れば生化を知ることができる。だから必ず「象」から求めなければならない。
一卦一爻,象也;合數卦爻,亦象也;總六十四卦,三百八十四爻,無非象也;皆有其氣,則皆有其神。故一易有一易之序:序之異者,象之異;象之異者,氣之異;氣之異者,神之異;神之異者,用之異;用之異者,生與化也,消與息也,往與復也,去與來也,變與不變,靜動也,生與無生,成敗也,吉凶悔吝之事也,從逆反側之道也,上下終始之行也,大小分合之情也。
一卦一爻は象である。数卦の爻を合わせて見るもまた象である。六十四卦・三百八十四爻を総べても象ならざるはない。いずれも気を有せば、いずれも神を有する。だから一つの易に一つの易の卦序がある。卦序が異なるのは象が異なるから、象が異なるのは気が異なるから、気が異なるのは神が異なるから、神が異なるのは用が異なるからである。用が異なるとは、生と化、消と息、往と復、去と来の異なり、変と不変、静と動の異なり、生と無生、成と敗の異なり、吉凶・悔吝のたぐいの事、従順と逆反、正面と反側のたぐいの道、上下・終始のたぐいの運行、大小・分合のたぐいの情である。
而皆歸於陰陽,辨於五行;存於二氣,通於微顯;孚於人天,以究其性情;探其數命,而致其德;立其道,此易之大用。有各易,而無不通;用各象,而無不達者也;智者察同,昏者察異;異其初,同其終也;何哉?為其不越於道耳。道之用或有異,其本大同;易雖多種,原始反終,則歸於一;一者道也,故曰:易以道陰陽,言由陰陽而歸於道;二者為一,此則易之真用也。
そしてこれらはみな陰陽に帰し、五行に辨えられ、陰陽二気のうちに存し、隠微と顕著の間に貫通し、人と天に孚(かな)い、万物の性情を推究し、その数と命を探り、もってその徳を致し道を立てる。これが易の大用である。各家の易は多けれど、通じないものはなく、用いる象は異なれど、達しないものはない。智ある者は同を察し、昏き者は異を察する。異なるはその初、同なるはその終である。何故か。道を越えないからである。道の用にはあるいは異があっても、その本は大同である。易は多种あれど、始を原め終に反れば一に帰する。その一とは道である。だから《荘子・天下》に「易は陰陽を道(い)う」とあり、陰陽によって道に帰すると言うのである。陰陽の二者を一とする、これが易の真の用である。
夫子以周易為本,而於各易略採其一二,列之於傳,明易之為用無二也;文王之易,所異於眾者,為其取象;極變化之例,明循環之道;言無道無往不復,而人事應之;人事無處不交,而天道順之;如人物生化,此往復也;氣候遞嬗,此交錯也;有陽必有陰,有陰必有陽,此交錯也;陰窮則陽生,陽盡則陰息,此往復也。
夫子は《周易》を本とし、各家の易から略して一二を採り、伝の中に列ねて、易の用に二つはないことを明らかにした。文王の易が衆と異なるのは、その取象にある。変化の条例を極め、循環の理を明らかにする。天道には往きて復らざるはなく、人事はこれに応ずる。人事に交わらざるところなく、天道はこれに順って行う。たとえば人と物の生生・化化はこれ「往復」であり、気候の迭(かわ)り替わりはこれ「交錯」である。陽あれば必ず陰あり、陰あれば必ず陽あり、これは交錯である。陰が窮まれば陽が生じ、陽が尽きれば陰が息ぐ、これは往復である。
日往則月來,寒往則暑來;一交一錯,而成紀焉;冬盡則春回,夜盡則朝回;一往一復,而成度焉;不得有失,有數可數;不得有差,有氣可候;天道如是,萬物亦然;故今之是者,昨之非;往之得者,來之失;此成則彼敗,早生則晚殺。
日が往けば月が来り、寒が往けば暑が来る。一交一一錯して綱紀を成す。冬が尽きれば春が回り、夜が尽きれば朝が回る。一往一復して度数を成す。失うことなし、数あるべくして数うべし。差うることなし、気あるべくして候うべし。天道がかくの如くなれば万物もまた然り。だから今の是は昨の非であり、往の得は来の失である。こちらが成ればかなたが敗れ、早く生ずれば晩(おそ)く殺す。
有見於前,必應於後;有開於舊,必復於新;日久則移,風久則改;滿者則傾,中者則側;昔之壯者今則老,今之微者後則盛;盛衰倚伏,成敗推移;吉凶無定時,悔吝無定位;生死相續,榮枯相聯;莫不自成循環往復之象,自合交錯來去之數;象數如是,卦乃應之;故文王之易,純取此義,而異乎各易也。
前に見えたものは必ず後に応じ、旧に開いたものは必ず新に復す。日久しくすれば移り、風久しくすれば改まる。満つれば傾き、中に居れば側く。昔の壮なる者は今は老い、今の微なる者は後に盛んとなる。盛衰は互いに倚り伏し、成敗は彼此に推移する。吉凶に定まった時はなく、悔吝に定まった位はない。生と死は相続き、栄と枯は相聯なる。ことごとく自ら循環往復の象を成し、自ら交錯来去の数に合う。象数がしかくなれば、卦もまたこれに応ずる。だから文王の易は純粋にこの義を取り、各家の易と異なるのである。
文王が易を作った時と義
夫文王作易,有為而作之也;當商紂無道,湯德既衰;暴政虐民,汙吏乾位;時非俗敝,上下交困;天怒民怨,神鬼同愁;文王身在憂囚,處地艱險;救民之志未已,切膚之痛且深;鑑諸天道之推遷,欲期人事之改革;故明志於易,易者變易也,言當變易之際,必有以處變易之道,而成變易之功。時之變易,即天之變易;天之變易,則人事不得不變易之,以順承天。
文王が易を作ったのは、為すところあって作ったのである。当時、殷の紂は暴虐無道で、湯の徳はすでに衰え、暴政は民を虐げ、汚吏は高位に乾(あ)ぐ。時は正からず俗は弊え、上下ともに困窮し、天は怒り民は怨み、神鬼もともに愁えた。文王は身を憂囚に置き、処するところは艱険であった。民を救う志は已まず、切膚の痛みはいよいよ深かった。天道の推遷を鑑察し、人事の改革を期して、志を易に明らかにしたのである。「易」とは変易の意。変易に際して必ず変易に処する道があってこそ、変易の功を成しうるというのだ。時勢の変易はすなわち天の変易であり、天が変易すれば、人事もまた変易せざるをえない。天に順承するためである。
故其取義重於鼎革二卦,而明變足以適道;撥亂反正,足以順天應民;故明易之道,以寓其教,而在以天時示人事之則;如秋冬肅殺,萬物皆殘;若不易以春和,則生機且息;如子夜暗澹,萬物同昧,若不易以朝陽,則大道莫明;此皆天之必變易者,而人事亦當應之;故卦象重在明變,變則通,通則道,而往復循環者,變之所由來;交錯消息者,變之所自至。
だから文王は義を取るにあたり《鼎》《革》の二卦をことさら重んじ、変革が道に適うに足ることを明らかにし、撥乱反正が上は天心に順い下は民意に応ずるに足ることを示した。それゆえ易道を明らかにして教化をその中に寓す。その要は、天時をもって人事の法則を示すにある。たとえば秋冬が粛殺すれば万物みな残り、春の和に易えなければ生機は息まんとする。たとえば子夜が暗淡なれば万物はともに昧(くら)く、朝の陽に易えなければ大道は明らかにならない。これらはみな天の必ず変易するものであり、人事もまたこれに応ずべきである。だから卦象は「変」を明らかにすることを重んじる。変じてこそ通じ、通じてこそ道に合う。往復循環は変の来るところ、交錯・消息は変の至るところである。
故綜論卦象之旨,不過明易之為易,而推衍其變;以教天下後世,知道在變;則變為道,不復以天不變,道不變為言;蓋變者、變而復於不變,非永變不亡也;故變亦道也。試當桀紂之時,果無湯武之變?天下尚有人類乎?故其變,天也;天之宜變,則變為天,豈悖天哉?故易道至文王為一大變,自商湯至紂,為數之窮,窮則變耳;而夫子之時,周德既衰,諸候僣竊;人民塗炭,政教乖違;以易言之,毋亦應變之世乎!故夫子取其義也。
だから卦象の旨を総論すれば、易が易であることを明らかにし、その変を推衍するに過ぎない。天下後世を教えるのは、「道」が変のうちにあることを知らせるためである。そうすれば変はすなわち道であり、もはや「天は変わらず、道も変わらず」との言を執ることはない。そもそも変とは、変じてまた不変に復ることであって、永遠に変じて止まないのではない。だから変もまた道である。試みに桀・紂の世に当たり、果たして湯・武の変革がなかったなら、天下にまだ人類があるだろうか。だからあの変は天である。天が変ずべきとき、変はすなわち天である。どうして天に悖(もと)ることがあろうか。だから易道は文王に至って一たび大きく変じた。殷の湯から紂に至るまで、数の窮まりであり、窮すれば変ずるのみである。夫子の時は、周の徳はすでに衰え、諸侯は僭窃し、人民は塗炭に陥り、政教は乖違した。易をもって言えば、まさに変に応ずべき世ではなかったか。だから夫子は文王のこの義旨を取ったのである。
乾坤に始まり坎離に終わる・未済を大終と為す
夫周易之用,雖重明變,亦非有背於伏羲之旨;伏羲之易,重常道,以道為本,而人事隨之;其用主常。文王之易,以用為本,其羲主變;然二者一也,一由上而下,一由下而上;文王以人事明天道,其終亦歸於天道;故變而不失其常,其卦序始乾坤,終坎離;始咸恆,終既未濟;仍以伏羲之序為本。
《周易》の用は変化を明らかにすることを重んずるが、伏羲の旨に背くものでもない。伏羲の易は恒常の道を重んじ、道を本として人事がこれに随う。その用は「常」に主(あら)す。文王の易は用を本とし、その義は「変」に主す。しかし両者は実は一つであり、一つは上より下へ、一つは下より上へというだけである。文王は人事をもって天道を明らかにし、その終りはやはり天道に帰する。だから変じてもその常を失わない。その卦序は乾・坤に始まり坎・離に終わり、下経は咸・恒に始まり既済・未済に終わる。やはり伏羲の卦序を本とする。
乾坤定位,故首上經;坎離代用,故終上經;乾坤交錯,故咸恆首下經;坎離往來,故既未濟終下經;合而言之,仍以乾坤為經,坎離為緯,與伏羲卦象同;分而言之,則多一交錯之用,即所以見其變也。
乾・坤は天地の位を定めるゆえに上経の首に列ね、坎・離は乾・坤に代わって用を起こすゆえに上経の末に殿る。乾・坤が交錯して咸・恒を成すゆえに咸・恒を下経の首に列ね、坎・離が往来して既済・未済を成すゆえに既済・未済を下経の末に殿る。合わせて見れば、やはり乾・坤を経(たていと)とし坎・離を緯(よこいと)として、伏羲の卦象と同じである。分かちて見れば、交錯の用が一層加わる。これがその「変」を示す所以である。
既未濟坎離二卦交錯,以終全易;而取未濟,不用既濟者;明人事雖合終分,雖交終離;以復於先天之不生不滅,猶本天道立言,為天道由無入有;雖人事紛紜,時時交錯,及其至也,終返其本來,有仍歸無;如首之乾坤定位,上下不侔;而終未濟之水火不相射,即伏羲八卦位次也;水自下,火自上;水火相離,天地大定;此由有反無之道,而不生不滅之觀;至此生機已息,天地終老;萬物入定,世界將傾。
既済・未済は坎・離二卦の交錯で、全《易》を終わらせる。末位に既済でなく未済を取るのは、人事は合しても終りには分かれ、交わっても終りには離れることを明らかにして、先天の不生不滅の境地に復するためである。これはやはり天道に本づいて言を立てたもので、天道は無より有に入り、人事は紛紜として時々交錯するが、その極に至れば終に本来に返り、「有」はなお「無」に帰する。冒頭の乾・坤定位は上下が侔(ひと)しくなく、結びの未済は水火が相射(あいせ)しない。これはまさに伏羲八卦の位次である。水は自ずから下り、火は自ずから上る。水火は互いに相離れ、天地はここに大定する。これは有より無に反る道であり、不生不滅の観である。ここに至って生機はすでに息ぎ、天地は終に老い、万物は寂定に入り、世界はまさに傾こうとする。
故全易之數,至此乃終;而出於乾坤者,仍歸之乾坤;成於陰陽者,仍分於陰陽;坎離不交,而一切同歸於盡;此未濟一卦,為天地大結束;而由生化言之,為生化之氣絕;由修持言之,則因緣之業淨;瞭然無礙,闊然無罣,空然無存;是則無聲無臭之時,而將同於上天之載;故曰大終,以人事無可再續也。
だから全《易》の数はここに至って終わる。乾・坤より出たものはなお乾・坤に帰し、陰陽より成ったものはなお陰陽に分かつ。坎・離は交わらず、一切はともに消尽に帰する。この未済の一卦が、天地の大結束である。生化から言えば生化の気の絶、修持から言えば因縁の業(ごう)の浄(きよ)めである。了然として障(さわ)りなく、闊然として罣(かか)りなく、空然として存するものなし。これは《中庸》のいう「声なく臭(におい)なし」の境地で、まさに上天の載するところに同じくならんとする。だから「大終」と称する。人事はこれ以上続けることができないからである。
夫人事既盡,易義自終;既無生化可言,更何交錯之跡;故曰:未濟。明其濟則為生,未生將何用哉?文王之易,主於用者也;未濟用窮,故全易至此盡矣;果有續者,則再來天地,仍循環於初始之乾坤,則又一太極矣!
人事がすでに尽きれば、易の義理も自ずから終わる。生化を言うべきものなく、さらに交錯の跡があろうか。だから「未済」と言う。「済」とは生の意である。まだ生生ぜざれば、何をもって用いようか。文王の易は「用」を主とする。未済は用が窮まるところだから、全《易》はここに尽きる。もし続くものがあるなら、それは再来の天地であり、なお最初の乾・坤へと循環して、また一つの太極となるのである。
此義與先天卦象,自乾至坤,各不相離,正同,如本宮卦,大終於歸妹,其羲亦然;以歸妹之象,地氣已盡;天地分離,與未濟之乾氣盡;水火分離,皆孤陰陽之象也;故傳曰:「未濟男之窮也,歸妹女之終也。」言此二卦,為二氣之大終;終則生化息,而易道盡;易以道陰陽,陰陽既盡,更何易道之存?故易之終,必終於二卦也。
この義は先天卦象が乾より坤に至るまで各々相離れない理と、まさに一致する。たとえば八宮の本宮卦が帰妹(きまい)に大終するのも、その義は同じである。帰妹の卦象から言えば、地気はすでに尽きて天地が分かれる。これは未済卦が乾気を尽くして水火が分かれるのと同じで、いずれも孤陰孤陽の象である。だから伝に「未済は男の窮、帰妹は女の終なり」と言う。この二卦は陰陽二気の大終であり、終れば生化は息み、易道もまた尽きる。易はもともと陰陽を道(い)うものであり、陰陽がすでに尽きれば、何の易道が存えようか。だから易の終わりは必ずこの二卦に終わるのである。
