宗聖講義(曾子)・数をもって気を明らかにし河図生成の序
夫子前講河圖,為天地自然之數;其始終包萬物之生成,萬事之吉凶成敗;故易本此而示人以修養省存,趨避逆順之道,蓋莫非氣為之也。天地為萬物父母,言萬物必自天地始;而萬物之生成,得天地之氣,其數亦分天地之數。河圖溯物之生成,明五行所出;二氣所運,而以數示之,其旨深矣。
夫子は先に河図を講じて、それを天地自然の数と言い、頭から尾まで万物の生成・万事の吉凶成敗を涵盖するので、『易』はそれに依拠して人に心身を修養し・存養を省察しおよび吉凶に趨避し・順逆の取捨する道理を指示します。これら一切は説き尽くせばみな「気」が作用しているのです。天地は万物の父母であり、万物を講ずれば必ず天地から講じ起さなければなりません。そして万物の生成はすでに天地の気から得るので、それらの数もまた天地之数の中から分け出したものです。河図は万物の生成を追溯し、五行が何処より出づるか・陰陽二気が如何に運行するかを闡明して、数目をもってそれらを表示します。その用意は甚だ深いものがあります。
蓋氣無形而難言,數有名而可紀;故以數代氣,數之所在,即氣之所至;數之幾分,即氣之幾分;以數之分合,而知氣之變化;以數之順逆,而知氣之吉凶;其言數,皆言氣也。氣有精粗,有動靜;數有奇偶,有多寡;由數明氣,則生化之跡,無不知之;故河圖實以數示造化之本者也。
気は形状がなく、言語をもって説明し難いのです。数は名目があり、記録し得るので、すなわち数をもって気に代えます。数が在る所に、気はそこに至ります。数が几分を占めれば、気もまた几分を占めます。数の分と合を憑って気の変化を知り、数の順と逆を憑って気の吉凶を知ることができます。――ですからおよそ数を講ずるものは、講ずる所はすべて気です。気には精あり粗あり・動あり静あり、数には奇あり偶あり・多あり少あります。数によって気を明らかにすれば、生化の軌迹は知らないものがありません。ですから河図は実際には数をもって造化の根本を掲示するものです。
數之為用,自一至十;為一切數之本,無論何數,皆自此生化;故一至十之數,實包無盡數也;知其變化,不可盡於用;不知,則不得其用;數者能示變化,而通鬼神;夫數既出於氣,氣有陰陽,故數亦有陰陽;陽奇陰偶,陽屬天,陰屬地;以二者之分合,而萬有以生成變化;不獨五行也。
数の運用は、一から十までで、この十個の数は一切の数の根本です。どんな大きな数も、それらから生発変化して出ます。ですから一から十までの十個の数は、実際に無窮に多い数を包含します。それらの変化を得れば、用いても用い尽くせません。得なければ、それらの用処を得られません。数は変化を顕示し得るので、鬼神に通じます。数はすでに気より出、そして気に陰陽があるので、数にもまた陰陽があります。陽は奇数で、陰は偶数です。陽は天に属し、陰は地に属します。この両者の分と合を憑って、万有ははじめて生成変化を得るのであって、ただ五行のみならずです。
而五行為生變之始,故舉之以例萬物;五者生變,由數知之;必將數之奇偶,位之順逆;相合而生成,變化乃見;圖中之一三五七九,奇數順行;四二十八六,偶數逆行;而其合也,遂成一與六,二與七,三與八,四與九,五與十,各當其位;以生成水火木金土,依次列北南東西中;以示五者之所自出,本乎數之相得有合也;亦氣之相生有成焉耳。
五行は生化変動の開端です。ですからそれを挙げて万物の様板とします。五行が如何に生化変動するかは、数の上から知るので、必ず数の奇偶と方位の順逆を相配合して、生成の功が見出せ、変化が顕れます。河図上の一・三・五・七・九は奇数で、左旋の方向に依って順行します。四・二・十・八・六は偶数で、相反する方向に依って逆行します。両者が会合するに至れば、便ちに一と六と相配・二と七と相配・三と八と相配・四と九と相配・五と十と相配となり、各々応有の方位を占定し、もって水・火・木・金・土を生成し、依次に北・南・東・西・中の五つの方位上に排します。これは五行の来歴を顕示し、数の「相得」て「合有り」に本づき、すなわち気の相生して成就有ることを示します。
故知一之與六,兩數相得,而水之生成,得天地之氣若幾分也;火木金土皆然,皆由天地之氣,奇偶之數,恰相得而合也;故易曰:「一陰一陽謂之道」。數之順逆偕行,以循環始終;於是生化之道見焉。以奇偶之數,一陰一陽猶男女也;而夫婦之道,即人生之始;人以男女配偶,而生息無盡;數以奇偶配合,而生化無窮;此天地造化之妙也。
これによって知れば、「一」と「六」の二つの数は彼此相得て、水の生と成は天地の気の中から各々このように几分を取ったのです。火・木・金・土もまた同じく、みな天地の気・奇偶の数がちょうど相得て結合して成ったものです。ですから『繋辞伝』に「一陰一陽これを道と謂う」と言います。数には順行あり逆行あり、一同に運転して循環往復し、ここに生化の道理が顕現します。奇数偶数に就いて言えば、一陰一陽は一男一女のごとしです。そして夫妻結合の道はまさに人生の起点です。人は男女配偶に依って生養絶えず、数は奇偶配合に依って生化無窮です。これが天地造化の奇妙の処です。
故數之一三五七九,皆陽皆奇;二四六八十,皆陰而隅。二者相得有合,而五行生成;陽道虛,陰道實;陰統於陽。陽包其陰;皆自然配偶,各有其序;故奇數合偶數,仍為奇;奇數合奇數,反為偶;偶數合偶數,仍為偶;以見陽之統攝陰,而不可亢;陰之順承陽,而不可離;亢則害,離則乖;唯相得有合,而後成其生化也。
ですから数の中の一・三・五・七・九はみな陽に属し・みな奇数であり、二・四・六・八・十はみな陰に属し・みな偶数です。両者が相得て結合すれば、五行は便ちに生成します。陽道は虚であり、陰道は実です。陰は陽に統属し、陽は陰を包容し、みな自然然る配偶で、各々その次序があります。ですから奇数と偶数と相加えれば、結果は依然として奇数です。奇数と奇数と相加えれば、かえって偶数を成します。偶数と偶数と相加えれば、結果は依然として偶数です。これによって見れば、陽は陰を統攝して過亢すべからず、陰は陽に順承して背離すべからざるが見えます。過亢すれば禍害を生じ、背離すれば乖違を致します。ただ彼此相得て結合して、そうして後はじめて生化の功を成就します。
河圖之數,天地之本數也;其用自其變化而生。五行之物,萬物之根本也;其生化自其分合而成。蓋有天地而有萬物,有天地之大數,而後有萬物之數可紀;故有序有類有名,而後成其德;萬物並育而不相害,道並行而不相悖;此德之見也。此「道」字,即指一陰一之道,言二氣並行而不亂其序,則由有數也。
河図の数は天地の本数で、その功用は自身の変化の中から生じます。五行の物は万物の根本で、その生化は自身の分合によって成ります。天地有ってはじめて万物有り、天地の大数有って、そうして後万物の数は記録を得ます。これによって次序有り・類別有り・名称有り、そうして後はじめてその「徳」を成就します。『中庸』に「万物は並び育ちて相い害せず、道は並び行われて相い悖らず」と言うのは、これがすなわち「徳」の顕現です。ここの「道」の字は、指す所は「一陰一陽」の道で、陰陽二気が同時に運行してその次序を乱さざるを説くので、これはまさにその中に「数」有るがためです。
猶物之陳於室,高下遠近,各如其分;此數之所見也。人之智愚賢否,貴賤壽夭,各有其數,以定其分;而能守其分,安其數,是為知命;以命自天,知命者,安於天命之數,而不失其序;以順承天生我之德,而養育其中和之氣;是為明道。道不離二氣,知乎數而和於氣,則成道之士也。故易者,言數以明道,達命以知天者也。
これはちょうど器物が屋の中に陳設して、高低遠近が各々その分位に按ずるがごときで、これがすなわち「数」の日常の中の体现です。人の智愚・賢と不肖・貴賤寿夭は、各々その数があり、これによって各々の分位を定めます。自分の分位を守り・自分の数に安んずることができれば、これを「知命」と呼びます。命は天より出、命を知る人は天命の定めた数に安んじてその次序を乱さず、もって上天が我を生む徳に順承し、自身の中和の気を涵養します。これを「明道」と呼びます。道は陰陽二気を離れず、数を懂得してまた気と相和することができれば、あれはすなわち道を成す士です。ですから『易』という書は、数を講じて道を闡明し・命を通達して天を認識するものです。
夫易之言數,自河圖始;河圖之數,即易之數;如水火木金土五者,易之乾坤離坎震兌也;由用言之,則坎離坎震兌,分合水火木金四氣之象;而艮為土,此後天之卦也;若在先天,則乾坤震兌為四方,而坎離在中;其氣數各有所合也。以一六之水,為天地二氣初化;二七之火,三八之木,四九之金,五十之土,皆依次而生成者;陽生則陰成者,陰生則陽成。
『易』が数を講ずるのは、河図から始まります。河図の数はすなわち『易』の数です。たとえば水・火・木・金・土のこの五者は、『易』の中では乾・坤・離・坎・震・兌の諸卦に対応します。実際の運用に就いて言えば、坎・離・震・兌は分別に水・火・木・金の四気の象に配合し、艮は土に配します。これは後天の卦位の排法です。もし先天の卦位の中ならば、すなわち乾・坤・震・兌は四方に分居し、坎・離は中間に居り、それらの気と数は各々その配合があります。一と六が合して成る水は、天地二気の最初の化生です。二と七が合して成る火・三と八が合して成る木・四と九が合して成る金・五と十が合して成る土は、みな依次に生成するものです。およそ陽数が生を主るものは、すなわち陰数によってそれを成全し、陰数が生を主るものは、すなわち陽数によってそれを成全します。
二氣更互以生以成,五行於是出,萬物於是生;其生化之道,不離乎此圖之序;其賦與之命,不外乎此圖之數;數之所在,即二五之所分合;凡二五之所分合;凡屬後天之生物,莫不由此二五之分化也。數有終始,運行有序;命有善惡,道有先後;皆氣之所偏全有所合也。不合不生,故必合而有得也;此天地生化之妙用,亦世界自無入有之次第也。
陰陽二気が交互に作用し、一方が生を主り一方が成を主り、五行はこれによって生じ、万物はこれによって出生します。それらが生化する路数は、河図の定めた次序を離れません。それらが禀受する命分も、河図の列する数目を超出できません。数の在る所は、すなわち陰陽二気と五行がそこに分合する所です。およそ二気五行の分合の処は、およそ後天に属して生じる物は、この「二」と「五」の分化より来らないものはありません。数には始あり終あり、運行にはその秩序あり、命には善あり悪あり、道には先あり後あります。これはみな気に偏あり全あり・各々その配合有るが故です。結合しなければ生ぜず、ですから必ず結合してこそ得る所有ります。これは天地生化の妙用であり、また世界が「無」より「有」に入る先後の次第です。
數之所合,易卦而外,則乾支為最易知;以其習見習聞也。天乾之數,甲乙為木,丙丁為火,戊已為土,庚辛為金,壬癸為水,其數同也;地支之數,寅卯為大,巳午為火,申酉為金,亥子為水,辰戌丑未為土,其數合也。皆以五行分配,而相生相制;以成其生化之用,與圖相同;故易卦有納甲之義。
数の配合を講ずるに、易卦以外では、天干地支に数えて最も懂り易いものはなく、大家が平日見慣れ聴き慣れているからです。天干の数は、甲・乙は木に属し、丙・丁は火に属し、戊・己は土に属し、庚・辛は金に属し、壬・癸は水に属し、それらの配する数は相同じです。地支の数は、寅・卯は木に属し、巳・午は火に属し、申・酉は金に属し、亥・子は水に属し、辰・戌・丑・未の四支は土に属し、それらの配する数も彼此相合します。干支はみな五行に按じて分配し、彼此相生相剋して、もってそれらの生化の功用を成就します。これは河図と一致します。ですから易卦に「納甲」のこの一套の義例有るのです。
蓋卦象人或不知,而乾支則易知;乾支固無異於卦,皆以示氣之運行,二五之化合;或以卦示其象,或以乾支繫其名;其實皆出河圖,亦猶數算之代名也。因氣數不易記,故以之代,而便於習究也;如甲乙屬木,即震巽也;丙丁屬火,即離;庚辛屬金,即兌;壬癸屬水,即坎;戊已屬土。即坤艮也。
卦象は一般人が必ずしも懂らないが、干支は人人懂り易いです。干支は実は卦と両様なく、みな気の運行・陰陽と五行の化合を表示するために用いるものです。あるものは卦をもってその象を顕示し、あるものは干支をもってその名を繋ぎ、説き尽くせばみな河図より出で、ちょうど算学の中の代號のごときです。気数は記憶し易くないので、干支をもってこれに代えて、研習考究に便とします。たとえば甲・乙は木に属すれば、すなわち震・巽の両卦に相当します。丙・丁は火に属すれば、すなわち離卦に相当します。庚・辛は金に属すれば、すなわち兌卦に相当します。壬・癸は水に属すれば、すなわち坎卦に相当します。戊・己は土に属すれば、すなわち坤・艮の両卦に相当します。
而其為用則與此稍異;以乾納甲壬,示陽氣之初動;坤納乙癸,示陰氣之偕行;震巽以木而納庚辛,示木受制而後成用也;坎離納戊己,以水火之用成於土也;兌艮納丙丁,以金受火制,土為火生,各得其用也。故其數與原位異,此先後天之殊,體用之不同也;然此所納亦有異同,則用者取義不一也。
ただ納甲の用法は上のこの一套の五行帰属とやや同じからず、乾卦は甲と壬を納して、陽気が剛に発動することを表示し、坤卦は乙と癸を納して、陰気がこれと同行することを表示します。震・巽は本は木に属するのに、かえって庚・辛のこの二つの金干を納するのは、木が先に金の制約を受けて後はじめてその用を成すことを表示します。坎・離は戊・己のこの二つの土干を納するのは、水火の功用が土に依って成全されるからです。兌・艮は丙・丁のこの二つの火干を納するのは、金が火の鍛錬を受け・土が火によって生養されて、各々はじめてその用を得るからです。ですから納甲の配する数は原来の五行帰属の方位と同じでなく、これは先天と後天の区別であり、また体と用の不同です。ただ各家の納する所も互いに出入りがあり、あれは使用する人の取義が各々相同じでない故です。
如歸藏異乎連山,周易異乎歸藏;皆後天之用,非關先天之體用也;其義詳洛書中。河圖洛書一體一用,各有其指也;故在圖之數,方位相當;次序無亂,與伏羲之卦象同;而為一切數之根本,有不易者也。圖中之數,雖自一至九;而五十二數,卻在中心;故分數時,應分陽數一三七九,與陰數二四六八相對以合;另提五十二數為中心立極。
たとえば『帰蔵易』の納法は『連山易』と同じからず、『周易』の納法はまた『帰蔵』と同じからず、これらはみな後天の用法に属し、先天の体用と関わりなく、その中の道理は洛書を講ずるときに詳しく説きます。河図と洛書は、一方は体を主り一方は用を主り、各々その指向があります。ですから河図上の数は、方位が彼此相当し・次序が毫も紊乱せず、伏羲の画いた卦象と一致し、それは一切の数の根本で、更改すべからざるものです。図上の数は一から九に排しているけれども、「五」と「十」のこの二つの数は中心に安放されています。ですから数目を分列するときは、陽数の一・三・七・九と陰数の二・四・六・八を両々相対に配合し、別に五・十の両数を提出して中心とし、もって中極を確立すべきです。
依陰數逆行之例,與陰數之始四終六;則一三七九,與四二八六適恰相當;而生成之功見,生化之序明;而五十二數亦正相當。若不如是,則位與數失,陰與陽乖;不克生成萬物矣!故一三七九陽數,必順次行;四二八六陰數,必顛倒而逆行;此必然之理。人知陽數順行,而不知陰數逆行;遂不明數之大用,此惑也。
陰数逆行の成例に按じ、かつ陰数が「四」から起って「六」に止まるに加えれば、すなわち一・三・七・九と四・二・八・六はちょうど一一に対応します。一は四に対し、三は二に対し、七は八に対し、九は六に対し、ここに生成の功が顕現し、生化の次序もまた明白になります。中に居る五・十の両数も同じく各々その位を得ます。もしこのように排しなければ、方位と数目は位を錯え、陰と陽は乖違し、また万物を生出すこともできません。ですから一・三・七・九のこれら陽数は、必ず順序に按じて前行し、四・二・八・六のこれら陰数は、必ず顛倒して逆行します。これは必然の道理です。世人はただ陽数の順行を知って、陰数の逆行を知らず、ここに数の大用を明らかにできません。これは一大迷惑です。
夫使陰數亦如陽之順序而行,則一與二,三與四,五與六,七與八,九與十,相對而論,皆不能合;更何生成之功可言?蓋必一順一逆,一依次,一倒行;方能合其位,而成其用;而後一與四合,二與三合,七與八合,九與六合,五與十合,相得而皆有合;以成中極之數皆五也。故曰:「天數五,地數五。」五位相得而有合也。
仮に陰数も陽数のごとく順に次序に従って排すれば、すなわち一は二に対し、三は四に対し、五は六に対し、七は八に対し、九は十に対し、両々相較して、みな中極の数を合することができず、なお何の生成の功を談ずるに足りましょう。必ず一つが順行し一つが逆行し、一つが次序に按じ一つが倒れて走って、はじめて各々応有の方位に配上して、その功用を成就し得ます。このようにすれば、一と四が相合して五を得、二と三が相合して五を得、七と八が相合して十五を得、九と六が相合して十五を得、五と十が相合して十五を得、彼此相得てみな結合し得、湊り成す中極の数は「五」をもって准としないものはありません。ですから『繋辞伝』に「天数五、地数五、五位相得て各々合有り」と言います。
言合乎五,即合天地之心;在道言之,即合中和之德,示人執中用之道也;蓋數十而位五,唯五乃中;不得其五,即不得其中;不得其中,必有所偏;偏則害生,安能致生成之用?通天地之心哉。故五位之合,必依陰數逆行,而後得之也。
いわゆる「五」に合するとは、すなわち天地の心に合することです。道の角度から説けば、すなわち中和の徳に合することで、人に中道を執守し・其中を用いる方法を指示するものです。数は一共に十個あり、方位はただ五箇しかなく、ただ「五」だけが正中に居ります。この五を得なければ、すなわち「中」を得ず、「中」を得なければ、必ず偏斜する所有ります。ひとたび偏斜すれば禍害を生じ、またどうして生成の功を成就し・天地の心に通達できましょうか。ですから五つの方位の配合は、必ず陰数逆行の規矩に依って、そうして後はじめて得られるのです。
且陽順陰逆,氣之自然;逆之雲者,對陽順言;其實不過一往一復,一左一右而已。陰氣原與陽對行,陽左則陰右,陽先則陰後,陽升則陰降,自然而然,非圖之有異也;如晝夜寒暑,互相推移,而日歲以成;若同一途,則一氣獨用,不復有生化之功矣!故言數不明可證於象,以象之明見於目也。
さらに言えば、陽は順行し陰は逆行するのは、本来気の自然です。いわゆる「逆」とは、ただ陽の「順」に相対して言うので、実はただ一往き一回り・一左一右にすぎません。陰気はもとより陽気と対して走るもので、陽が左に往けば陰は右に往き、陽が前にあれば陰は後にあり、陽が上昇すれば陰は下降し、みな自然然るもので、河図の上に別に特別な安排があるのではありません。ちょうど昼と夜・寒と暑が互いに推移して、はじめて一日・一年を湊り成すがごとく、仮に両者が同じ一条の路を走れば、ただ一種の気が単独で作用するに留まり、再び生化の功はありません。ですから数を講じて明らかにできない処は、象の上で印証を得ることができます。象は明明白白に眼前に擺しているからです。
今就圖象證之,亦自可見;陽自一左旋至九,序位皆順;陰自四右旋至六,序位倒逆;而恰合一六、三八、二七、四九、五十,之五行數,不待移易;即此可知天地大數,不離陰陽生化之功,不外陰陽順逆之用;而萬物以生,萬事以立,其微妙固非難測者矣!
今すなわち河図に就いて印証すれば、また自ら明白に見えます。陽数は「一」から起って左に旋転して「九」に至るまで、位次はすべて順です。陰数は「四」から起って右に旋転して「六」に至るまで、位次はすべて倒れて逆行です。このようにして、ちょうど一と六・三と八・二と七・四と九・五と十のこの五組の五行の数を湊り成し、さらに挪動調整するを要しません。ただこの一点を憑ってすなわち知るべし、天地の大数は陰陽生化の功を離れず、また陰陽順逆の用を超出しません。万物はこれによって生じ、万事はこれによって立ち、その中の微妙は本来測知し難いものではありません。
河図
河図歌
天一生水,地六成之;地二生火,天七成之;天三生木,地八成之;地四生金,天九成之;天五生土,地十成之。
天数の「一」は水を生出し、地数の「六」はそれを完成します。地数の「二」は火を生出し、天数の「七」はそれを完成します。天数の「三」は木を生出し、地数の「八」はそれを完成します。地数の「四」は金を生出し、天数の「九」はそれを完成します。天数の「五」は土を生出し、地数の「十」はそれを完成します。この五組の数は五方に分居します。一六の水は北に在り、二七の火は南に在り、三八の木は東に在り、四九の金は西に在り、五十の土は中に居ります。毎一組はみな一奇一偶・一天一地の相配で、五行ははじめて各々生成します。
宣聖講義(孔子)・河図釈義
易傳曰:河出圖,洛出書,聖人則之。此言河圖洛書所由來也。天地之間,運行者氣,紀量者數,顯示者象,而主其中御之以合度者道。道兼神形,氣數則神之見也,象則形之呈也。凡天文地理,可紀可指可名者,皆不外此三類,而皆不離乎道。
『繋辞伝』に「河は図を出し、洛は書を出し、聖人これに則る」と言うのは、これは河図と洛書の来歴を講ずるものです。天地の間で、運行して息まないものは「気」であり、記量するに用いるものは「数」であり、顕現するものは「象」であり、そしてその中で主を為し・それらを駕御して法度に合せしめるものは、すなわち「道」です。道は神と形の両面を兼摂します。気と数は神の顕現であり、象は形の呈露です。およそ天文地理の中で記録し得・指認し得・命名し得るものは、この三類を出でず、しかもみな道を離れ得ません。
河圖者,天地自然氣數所賦,而成其自然之象也。蓋天地既奠,神形全具,有其氣者有其數,有其數者有其象。河圖之出,以象之顯也;其象之所示則數也,其數之所在則氣也。氣有陰陽,名曰兩儀,言既生成之後,必有此兩者之質,以為其成物之本也。兩儀化合,遂分為水火木金土五者之氣,名曰五行。
河図とは、天地自然の気数の賦与する所に依り、因而として形成した一種の自然の象です。天地がひとたび奠定されれば、神と形は便ちにすべて具備します。気有れば数有り、数有れば象有ります。河図の現出する所以は、象が顕露したからです。この象の指示する所は数であり、この数の在る所はすなわち気です。気は陰陽の両面に分かれて、「両儀」と称します。――これは天地が生成して後、必ず陰陽のこの二種の質性有って、もってそれが万物を化成する根本とするを説くのです。両儀が彼此化合して、ここに水・火・木・金・土の五種の気を分けて、「五行」と称します。
言兩儀既化,必有是五者流行其間,以辨其性而別其類,亦物之始成所秉者也。兩儀既見,五行乃名;二五構精,萬有始生,此屬天地萬物生生之本,莫之能外者也。五行之氣,因二為五,雖五仍二,然言其本質,必自五者始。後人或云為四,或云為三,其意大同,究不若別之為五,適合天地自然之氣與數。試證之河圖,可見其旨矣。
これは両儀がひとたび化合すれば、必ずこの五種の気がその間に流行して、もって事物の性質を分辨し・事物の種類を区別し、まさに万物が初めて成るときに禀受する所であることを説くのです。両儀が顕現して後、五行ははじめて名目有り、陰陽二気と五行の精と交構して、万有ははじめて産生します。これは天地万物の生生不已の根本で、例外し得るものはありません。五行の気は「二」(陰陽)より「五」に分かれ、五と言うと雖も、実は依然として二です。しかし事物の本質を講ぜんとすれば、必ずこの五者から説き起さなければなりません。後人には四種に分かつを主張する者有り、三種に分かつを主張する者有りますが、用意は大抵相同じ、ついに五種に分かつに如かずより貼切で、ちょうど天地自然の気と数に合します。河図を取って印証すれば、すなわちこの層の旨意を見出すことができます。
河圖之中,點畫成象,自一至十,各相連而不混,相離而不乖,其數之自然,足見其氣之自在也。氣之動也,以二氣之分合而後化,故生成之數,必屬於天地,天地者,二氣之所生也。物之生化,以五者為類,而水火木金土,以辨以名,以成其五行。水火木金土者,五行之所主也。故河圖之數,生成自天地,而名類止於水火木金土,而天下萬物莫不盡於是。
河図の中は点画を用いて図象を構成し、一から十に排して、彼此相連なり雑らず、彼此相分かれ乖離せず、数の排列のこのように自然なるは、気の自在流行を見出すに足ります。気はひとたび動けば、陰陽二気の分と合を憑って化生せねばならぬので、生数と成数は必ず天と地に帰属し、そして天と地はまさに陰陽二気の生ずる所です。万物の生化は五者をもって類とし、水・火・木・金・土をもって分辨し・命名し、もって五行を構成します。水火木金土は、まさに五行の各々主る所のものです。ですから河図の数は、天地より生成し、そして名目類別はただ水火木金土のこの五様に限るに、天下万物はそれらに囊括し尽くされないものはありません。
是故河圖之象,即天地生化終始之圖;其氣與數,即天下萬有分合變化之本,斯所以為天道之所見也。而聖人則之,因以明天道,以立天下萬物有生成變化之規,而述之為易,則河圖者易之所自仿也。易傳曰:「天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十。天數五,地數五,五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十,天地之數五十有五。」雲者,即河圖中之數也。
ですから河図の象とは、すなわち天地生化始終の図です。その気と数は、すなわち天下万有分合変化の根本で、これがすなわち天道の顕現した様子です。聖人はそれに取法して、拠って天道を闡明し、天下万物の生成変化のために規矩を立て、しかもそれを写して『易』と成したので、すなわち河図はまさに『易』の倣う所の対象です。『繋辞伝』に言います。天一地二、天三地四、天五地六、天七地八、天九地十。天数は五つ有り、地数は五つ有り、五つの方位は彼此相得て各々配合有り。天数を合計すれば二十五、地数を合計すれば三十、天地の数は總じて五十五。それの説く所は、まさに河図の中の数です。
河圖以天地統全數,以水火木金土分配各數,而建立天地萬物萬數之本,以明天下之物,莫不有數,莫非生成於天地,而得其氣與數以成其氣數。自河圖言之,則氣數者自然成形;自物言之,則氣與數皆出自天地。
河図は「天」「地」の二類を用いて全部の数目を統摂し、水火木金土を用いて各々の数を分配し、もって天地万物一切の数の根本を建立し、もって天下の物は数無きものは一つもなく、天地より生成せず・かつ天地の気と数を承受して自己の気数を構成しないものは一つもないことを説明します。河図のこちらの辺から説けば、気と数は自然に凝って形象を成します。万物のあちらの辺から説けば、気と数はすなわちみな天地より出ます。
蓋天地亦在此氣數中也。未有天地,氣數已具;既有天地,氣數周流,以成萬物。故氣數者,自天地以下,莫之能外也。今言河圖氣數溯始於天地,蓋自有象言之,即自天地建立以後,而推溯萬物生化所本、萬有氣數所由而已。
天地自体もまたこの気数の中に在るからです。天地がいまだ出現せざる前は、気数はすでに具備しています。天地がすでに出現すれば、気数は便ちに周流して息まず、もって万物を化成します。ですから気数というものは、天地以下、身をその外に置くこと能うものはありません。今、河図の気数は天地から追溯し起さねばならぬと説くのは、あれは「象有り」のこの一層に就いて説くので、すなわち天地が建立して後より算え起こして、上に推究して万物生化の依拠する根本・万有気数の由来する源頭に至るだけです。
圖中自天一至地十,為數之根本,亦生成之根源。天一生水,地六成之,則言水之生成之由來:以天之一,合地之六,而後水之生成始全;分之則水者得天之一以生,地之六以成。天生地成,是其氣之備天地也。
図中の「天一」から「地十」に至るは、数の根本であり、また生成の根源です。「天一は水を生じ、地六はそれを成す」とは、講ずる所はすなわち水が生より成に至る由来です。天数の「一」を取って地数の「六」に合して��そ、水の生成ははじめて完整と算えられます。分かちて説けば、水は天数の「一」を得て生じ、地数の「六」を得て成ります。天は生じ地は成す。見れば水のこの一物の気は天地兼備するものです。
天一地六,是其數之賅天地也,而水以成,此五行之一所自生也。火也、木也、金土也亦然,而土為其中心,故五十在中,水火木金四者,皆依乎土以立也。如一加五為六,故水為一六;二加五為七,故火為二七;三加五為八,故木為三八;四加五為九,故金為四九;土則五加五為十,故土為五十,此數所自合也。
天一と地六は、水の数が天地をみな包括して入れることを見るべく、水はこれによって成り、これがすなわち五行の一つの来歴です。火・木・金・土もまたみなこのとおりで、そして土は中心に居ります。ですから「五」「十」の両数は中央に排し、水火木金のこの四者はみな土に依托してはじめて立ち得ます。たとえば一加五すれば六を得るので、水は一と六に配します。二加五すれば七を得るので、火は二と七に配します。三加五すれば八を得るので、木は三と八に配します。四加五すれば九を得るので、金は四と九に配します。土はすなわち五加五して十を得るので、土は五と十に配します。これがすなわち各数の彼此配合する由来で――毎一つの生数はみな中央土の「五」を加えて、はじめてそれと相配する成数と変わります。
天之數五,一三五七九;地之數五,二四六八十;生之數五,一二三四五;成之數五,六七八九十。其分也皆五,五則中央之數,中而不偏,動而能和,中和天地之道,土之德也。故五行皆以五為其根,皆麗於土以為生,此自然之序也。天數之累為二十五,即一三五七九之和也;地數累為三十,即二四六八十之和也。
天数は五つ有り、一・三・五・七・九。地数は五つ有り、二・四・六・八・十。生数は五つ有り、一・二・三・四・五。成数は五つ有り、六・七・八・九・十。どう分かっても、毎一組はみな五つで、そして「五」はまさに中央の数で――中に居りて偏せず、動くこと能くまた和すること能し。中和は天地の道であり、またまさに土の徳性です。ですから五行はみな「五」をもって根とし、みな土に附着してはじめて生長を得ます。これは自然の次序です。天数を累加すれば二十五で、すなわち一・三・五・七・九の和です。地数を累加すれば三十で、すなわち二・四・六・八・十の和です。
二者雖分各半而數異,則即生有形之後,得天者不足,地者有餘也。天地之總和五十有五,即二十五加三十,以成天地生成全數,為大衍之數而餘五。五即中央之數,二氣之全,五行之本,為天地數之妙用,即河圖之中,天地之心也。明此五數之妙用,則通天地之數,直見天地之心,而萬物生化之序,無不明矣。
天数と地数は各々一半を占めると雖も、総数は相等しからず。これは有形の物が生じ出て後、天の一分を禀受するは総じて不足を嫌い、地の一分を禀受するはかえって余り有るを説明します。天地之数の総和は五十五で、すなわち二十五加三十で、天地生成の全数を湊り成します。『繋辞伝』の説く「大衍の数五十」に比べて、五を多出しています。この「五」はすなわち中央の数で、陰陽二気の完全体であり、五行の根本であり、天地之数の妙用の在る所であり、すなわち河図の中心・天地の心です。この「五」の妙用を明らかにすれば、すなわち天地之数に貫通し、直接に天地の心を見て、すなわち万物生化の次序もまた明白でないものはありません。
故一至十者,天地生成之數根;而五者,天地生成數之中極。此河圖四列各數,而獨以五十建立中極,其旨趣之微妙,有不盡矣。五位相得各有合者,言數各五而必合,始能致生化之用。如一天數也,生數也;六地數也,成數也,二數合而後水以成。
ですから一から十までは、天地生成の数の根です。そして「五」は、すなわち天地生成の数の中極です。河図は各数を四方に分列し、ただ五と十を用いて中極を確立し、その中の旨趣の微妙は説き尽くせません。いわゆる「五位相得て各々合有り」とは、天数地数が各々五つ有って、必ず両々結合して、はじめて生化の作用を発揮し得るを説くのです。たとえば「一」は天数であり、また生数です。「六」は地数であり、また成数です。この二つの数が結合して、水ははじめて成ったと算えます。
以合則前數化,新數成。一六既合,天地之氣已化,而水乃成。此由數之合也。水之成分,得天之一,地之六,故水中所含者屬天者一,屬地者六。天地既化,水數乃見。凡五行之生化皆然,皆由二氣之合也。五行亦有合矣。
ひとたび結合すれば、原先の数は便ちに転化し、新しい数は便ちに形成されるからです。一と六がすでに結合すれば、天地の気は便ちにすでに化生し、水はここに成形します。これは数の結合より来るのです。水の成分は、天より得るは「一」、地より得るは「六」です。ですから水の中の含む所は、天に属する部分は一、地に属する部分は六です。天地の気がすでに交化して、水の数目ははじめて顕現します。およそ五行の生化はみなこのとおりで、みな陰陽二気の結合によって成ります。五行の彼此の間にもまた各々結合有ります。
如水與木,木與火、火與土、土與金、金與水,各以其合而生化萬物,則各以其數之合,而生成新數,故變化至無窮焉。然二氣之合與分,恆相得;五行則或得或否,如水與火、火與金、金與木、木與土、土與水,皆相害相制而不相得,則數之因亦有相消相除相加相乘之異。其相得也,則生成之;其制害也,則克化之。
たとえば水と木・木と火・火と土・土と金・金と水は、各々相生の関係に按じて結合して万物を化生し、またすなわち各々数の結合に按じて新しい数を生成するので、変化ははじめて無窮無尽です。ただ陰陽二気は合すも分かつも、総じて彼此相得ます。五行はすなわち相得する有り・相得せざる有り、たとえば水と火・火と金・金と木・木と土・土と水は、みな彼此相害相剋して相得ません。ここに数は運算の上にもまた相消・相除・相加・相乘の分別有ります。相得するものは、すなわちそれを生成し、相剋相害するものは、すなわちそれを剋化します。
由其數驗之可知者也。故天一與地六合,一陰一陽,合乎道也。若天一與地二,則不則生成矣。若天一與天三,更無所生成,以其不相得而不能合也。故生化之序,必因相得而後合,合則生成之功見。不得則相反,反則變化之數成。
これらは数の上から検証すればすなわち知ることができます。ですから天数の「一」と地数の「六」が結合すれば、一陰一陽、道に合します。もし天数の「一」を取って地数の「二」に配すれば、すなわち生成し能わず、もし天数の「一」を取って天数の「三」に配すれば、さらに何をも生じ出すことができません。それらが相得しないので、結合し能わざるからです。見れば生化の次序は、必ず先に相得て後はじめて結合し得ます。ひとたび結合すれば、生成の功は便ちに顕現し、相得せざればすなわち反面に走向し、ひとたび反面に走向すれば、変化の数は便ちにこれによって形成します。
故天一至地十之數,實包舉天下生成變化之數,以至無盡,不可紀極,而莫外於合否二字。由是可見天地造化之源,萬物生成變化之序,皆在河圖中,展轉推求,以窮其氣數所至,則無不知之。如天一地十之數,實數之根;二氣者氣之本;五行者萬物生成之本,皆造化之始基。
ですから天一から地十までのこの十個の数は、実際に天下一切の生成変化の数を囊括し、ひいては無窮無尽・数えて勝ち得ざるに至るも、そして根に帰し底に究めれば「合」と「不合」の二つ字を外ならざるです。これによって見れば、天地造化の源頭・万物生成変化の次序は、すべて河図の中に在ります。輾転して推求し、気数の至る所を窮究して清くすれば、知らないものはありません。天一から地十までのこれらの数のごときは、実に一切の数の根であり、陰陽二気は気の本であり、五行は万物生成の本です。――それらはみな造化の最初の基石です。
天地人物之原質,由一而二而三,而後萬物以生以成,其道固昭昭矣。二者兩儀,三者兩儀合化五行是也。二五構精,妙合而凝,天地因縕,萬物化醇,此由三而生萬物也。故河圖天地之數,生成之本數也;五行分合之數,萬物所自生化之本也。
天地人物の原始の質料は、一より二に、二より三に、そうして後万物ははじめて生を得・成を得ます。この道理は本来明明白白です。いわゆる「二」とは、すなわち両儀です。いわゆる「三」とは、すなわち両儀が合化して成る五行です。『太極図説』に「二五の精、妙合して凝る」と講じ、『繋辞伝』に「天地絪縕して、万物化醇す」と講ずるのは、説く所はすなわち「三」によって万物を生出することです。ですから河図上の天と地の数は、生成の本数であり、五行分合の数は、万物の拠って生化する根本です。
由其位言之,則按乎天地之定序,南北東西方位,而相得者也。故一六以水居北,三八以木居東,二七以火居南,四九以金居西,五十以土建立中極,以應四方而通天地。此地為世界中心,憑之以測天地之生長萬物,所謂極也。天地之極,即數之中,即五也。
方位の上から説けば、河図は天地の固定した次序に按じて、南北東西の四方に配上して、各数をして彼此相得せしめます。ですから一と六は合して水を成して北方に居り、三と八は合して木を成して東方に居り、二と七は合して火を成して南方に居り、四と九は合して金を成して西方に居り、五と十は合して土を成して中極を建立し、もって四方に応接して天地を貫通します。この中央の地はすなわち世界の中心で、それを憑って天地が万物を生長するを測度し、すなわちいわゆる「極」です。天地の極は、すなわち数の中で、すなわち「五」です。
河圖言五十,洛書則僅言五,以五已足賅十。十即二五,天地根數,祇存純數,不必及其餘盈,故言五而土之數已足,不似水之必兼一六也。其所合也,往往因其生化見之,故一六之合,二七之合,皆孚自然之序。
河図は中央に「五」と「十」を標出し、洛書はただ一つの「五」のみを標します。五はすでに十を涵盖するに足るからです。十はただ二つの五に過ぎず、天地の根数はただ最も純粹のあの一つを保留して、必ずしも多出した部分を顧及するを要しません。ですからただ「五」を説けば、土の数はすでに足り、水のように必ず一と六を兼挙してはじめて可とするようではありません。各数の配合は、往々にしてそれらの生化の過程の中よりはじめて見出せるので、一と六の相合・二と七の相合は、みな自然の次序に符合します。
而五與二五之十,尤可見矣。若言五則十已見,雖三五四五,仍不失其五,故不必徵於成數,而已知土之數之為十五。蓋以天之五,地之十,合而言之為十五,去其十仍存五。此五數示土已足,其數雖一而內藏十矣。此為言數者所當知也。
そして「五」と二つの五の合して成る「十」の、この一層の関係はことさら明顕です。ただ五を説けば、十もまたその中に在ります。たとえ三つの五・四つの五でも、依然としてこの五を離れません。ですからさらに成数を征引するを用いずして、すでに土の数が十五なるを知ります。天数の五に地数の十を加えて、合すればすなわち十五で、あの十を減ずれば、依然として五を残すからです。この「五」を用いて土を表示すればすでに足り、それは表面上はただ一つの数に過ぎませんが、裏頭には十を蔵しています。これは数を講ずる人の当に知るべき所です。
河圖之數,以二數合而成一象,故十數合為五,以成水火木金土,唯其合也。有變化見焉。以六為成數之始,又地數也;九為天數之終,又成數也,二數實天地之主數。故易乾用九,坤用六。乾天也,陽也;坤地也,陰也。陽數用九,陰數用六,此中亦有自然之序存焉。
河図の数は、二つの数が合わさって一つの象を成すので、十の数が合併して五組となり、水火木金土を成就する。その要はすべてこの「合」の字にある。この結合があるからこそ、その中に変化が見出されるのである。「六」は成数の最初であり、また地数に属する。「九」は天数の最後であり、また成数である。この二つの数は実に天地の主数である。だから《易》では乾卦を「用九」、坤卦を「用六」と称する。乾はすなわち天で陽に属し、坤はすなわち地で陰に属する。陽数は九を取り、陰数は六を取るが、この中にもやはり一つの自然の次序がある。
試就河圖觀之,自北之陽數一始,轉東之三,南之七,西之九,與中央之五,其次自然順行,為一三五七九,是陽數始一終九。九則陽氣已極,曰老陽,亦曰純陽,故乾取之為用。再就圖之陰數觀之,陽終則陰始。陽數終於西之九,即交於同方之四;陰數自四始,轉而南之二,東之八,北之六,合中央之十,其次亦自然逆行,為四二十八六,是陰數始四終六。以六為至陰,陰氣亦極於六,故陰數用六。
試みに河図について見てみよう。陽数は北方の「一」から起こり、東方の「三」に転じ、さらに南方の「七」に至り、さらに西方の「九」に至り、中央の「五」を加える。この次序は自然に順行で、並べれば一・三・五・七・九となる。陽数は一に始まって九に終わることがわかる。九に至れば陽気は極に達し、「老陽」と称し、「純陽」とも呼ぶ。だから乾卦はこれを取って用を立てる。再び図上の陰数を見ると、陽が行き尽くせば陰が続いて起こる。陽数は西方の九で終わり、同じ方位上で「四」に渡る。陰数は四から起こり、南方の「二」に転じ、さらに東方の「八」に至り、さらに北方の「六」に至り、中央の「十」を加える。この次序は自然に逆行で、並べれば四・二・十・八・六となる。陰数は四に始まって六に終わることがわかる。六は最も陰で、陰気もまた六において極点に達する。だから陰数は六を取用する。
以與陽九相接而正相得。蓋以圖平列其數觀之,陽之數自一至九,陰之數自四至六,自成一環,不待移易。陽氣方終,陰氣即起;陰氣甫盡,陽氣即伸。陽老於西而陰即始於西,陰極於北而陽即始於北。二者相環相合,以成五行,周流無盡,以遂其生生不息之道。
六は陽数の九と連なり、ちょうど互いに得合う。図上の数を平らに広げて見ると、陽数は一から九まで並び、陰数は四から六まで並び、それぞれ一つの円環を成し、動かし調整する必要がない。陽気がちょうど行き終われば陰気が続いて興り、陰気がちょうど尽きれば陽気が再び伸びる。陽は西方で老境に至り、陰はちょうど西方で始まる。陰は北方で極点に至り、陽はちょうど北方で始まる。両者は環のように連なり互いに結合し、これによって五行を構成し、周流して尽きず、もって生々不息の道を成就する。
而天地以立,萬有以生,一切事物,於以循環變化,此則大氣自然之序,大道自存之規,莫之為而為,莫之致而至者也。唯聖人則之,而制為易以象其度。而因陰陽之盡,知乾坤之用在九與六,故取九六以代乾坤。全易無非由乾坤生,則全易之數無非自九六出。九在易即一,六在易即 , 與 即九與六。
天地はこれによって確立し、万有はこれによって生じ、一切の事物はここから循環変化する。これは大気自然の次序、大道本来の規矩であって、為す者なくして自然に成し、促す者なくして自然に至る。ただ聖人のみがこれに取法し、《易》を作ってその法度を写した。また陰陽がそれぞれ尽きるに至るのを知り、乾坤の取用が「九」と「六」にあると知ったので、九と六をもって乾坤を代表させた。《易》全体は乾坤から生じたにほかならず、それなら《易》全体の数もまた九と六から生じたにほかない。《易》において「九」とはあの切れない一条の陽爻であり、「六」とはあの中断する一条の陰爻である。この一陽一陰の二種の爻画が、すなわち九と六なのである。
故卦中有 者,名曰九,如初九、九二、九三、九四、九五、上九,是也。卦中有一者,名日六,如初六、六二、六三、六四、六五、上六,是也。人不知九六之來自河圖之數,而不明用九用六,與一之為九, 之為六何義,實由不習河圖,遂不解九六之為陽陰之主數。陽主九,陰主六,唯河圖中已明示之。易雖言九六,未指所出,後人莫能解。故河圖者,全易所本,欲明易象而忘河圖,宜其惝怳於文字間,而不得聖人取象之旨趣矣。
だから卦の中で陽爻はすべて「九」と称し、たとえば初九・九二・九三・九四・九五・上九であり、卦の中で陰爻はすべて「六」と称し、たとえば初六・六二・六三・六四・六五・上六である。人々は九と六が河図の数に由来することを知らず、それゆえ《乾》卦の「用九」、《坤》卦の「用六」が何を意味するかを理解できず、一画の陽爻がなぜ九と呼ばれ、一画の陰爻がなぜ六と呼ばれるかもわからない。これは実に河図を研習しないために、九と六がもともと陽と陰の主数であることを知らないからである。陽は九を主とし、陰は六を主とする。この一点は、ただ河図のみがすでに明白に指示している。《易》は九を言い六を言うが、その出処を明確には指さなかったので、後人は解を求める手がかりがなかった。だから河図は《易》全体の根本である。易象を理解したいのに河図を捨て置くなら、自然に文字の堆積の中で恍惚として、聖人が象を取った旨趣を得ることができない。
河圖之數,因陰陽之分合變化無盡,而萬物之氣數由此以見,全易卦爻皆由此推移轉變而來,以象天下萬物萬事。其始則仍是二氣五形而已。圖中之象雖寥寥,而生化之物不可紀極。不僅此也,就圖數之次序,而推及其未來與其過去,則天地未生之前,與世界變遷之例,皆可由此數以得之。蓋數者推之千萬無盡也,加減乘除而已,或分、或合、或奇、或偶,各致其用,用無窮則所生化亦無窮,要在知其用耳。
河図の数は、陰陽の分合によって変化が尽きず、万物の気数はこれによって顕現し、《易》全体の卦と爻はすべてここから推移転変して、天下の万物万事を象徴するのに用いられる。その起点を追究しても、所詮は陰陽二気と五行にすぎない。図上の象は寥寥たるものだが、それから生化するものは数え切れないほど多い。それだけではない。図上の数の次序に沿って、未来を推し及ぼし過去を遡れば、天地がまだ生成する前の状況、および世界変遷の規律をも、すべてこれらの数によって推し得る。数というものは、推衍すれば千々万々尽きることがないが、実は加減乗除にすぎない。あるいは分かれ、あるいは合し、あるいは奇を用い、あるいは偶を用い、それぞれその用を発揮する。用が無窮なら、生化するものもまた無窮である。要はそれを使いこなせるかどうかにある。
乾坤用九六為天地大用,亦數之總綱,由九六而生化者不可紀極,而不外乎中極,此圖中以五為中心也。試就陰陽各數直列之,一三五七九與四二十八六,兩者相偶而加之,其和皆五。此即天地之心,為陰陽二數之中極,亦陰陽二氣之中和。天以此立極,世以此立樞,萬物以此為紐,故並育不害,並行不悖,並生存往復不失其序。此神之所存,道之所見,而為易之中極者也。
乾坤が九と六を取用するのは、天地最大の功用であり、また数の総綱である。九と六から生化するものは数え切れないが、すべて「中極」の範囲を出ない。これが河図が五を中心とする所以である。試みに陰陽の各数を並べて列挙する。一・三・五・七・九と四・二・十・八・六を、二つずつ配して加えれば、得られるものは五か十五で、末位は一律に五に帰する。これが天地の心であり、陰陽二類の数の中極であり、また陰陽二気の中和である。天はこれによって中極を立て、世界はこれによって枢機を立て、万物はこれによって連結の紐帯とする。だからこそ一斉に生長して互いに妨害せず、一斉に運行して互いに背かず、一斉に生存往復してその次序を乱さない。これが「神」の寄るところ、「道」の現れるところであり、まさに《易》の中極のあるところである。
故陽者順行而奇,陰者逆行而偶,而皆集於中五,以為主宰之區,以行鬼神,而通變化,此所謂位之相得而有合者,以其建中立極,而不失其次也。河圖言數本乎氣,通乎道,實天地之精華,自然流露,而垂象於人,以示其例,非偶然所值者,亦非怪誕難稽者。
だから陽数は順行して奇となり、陰数は逆行して偶となるが、それらはみな中央の「五」に集まり、これを主宰の所在として、これによって鬼神を運行し変化を貫通する。これが《繋辞伝》のいう「五位相得て各々合有り」の意味である。中を建て極を確立しながら、それぞれの次序を乱さないからである。河図が数を講ずるのは、根源は気にあり、また道に貫通しており、実に天地の精華が自然に流れ出し、卦象を垂示して人に法則を指示したもので、偶然に遭ったものでもなく、荒唐無稽で稽考の術がないものでもない。
聖人則之,而易象以成,言道者之所宗,言數者之所本,即一切方術,亦莫不由是以為推衍之準,實人文所自始也。聖人在世感於天神,而圖乃見,圖為聖人出也。故欲深究圖之妙義,必自聖人所作之易求之。易者依圖為象,推衍其用,其例固繁,而其初則河圖之所見而已。
聖人がこれに取法して、初めて易象が形成できた。それは道を講ずる者の宗とするところ、数を講ずる者の依拠するところであり、あらゆる方術もまたこれを推衍の準縄としないものはなく、実に人類文明の起点である。聖人が世に在った時に天神に感通して、河図は初めて顕現した。言ってみれば図は聖人のために出たのである。だから河図の妙義を深く究めるには、必ず聖人の作った《易》の中に求めなければならない。《易》は図に依って象を立て、その用法を推衍したので、条例は確かに繁多だが、最初に遡れば、河図が示したそれらにすぎない。
