宗聖講義
易道至微,包義至廣,仁者見仁,智者見智,易固具仁智矣,而見者則依人而殊。非貫通之,誠不明易之為易,而聖人之教不得全行於世,雖曰讀易無益也,故必先明易之本義。夫「易」者:賅象數以明氣,辨時位以明用,詳變化以明生,測順逆以明吉凶,徵名類以明動靜,驗二五以明終始本末,會天人以明性情道德。其含義無盡,致用不窮,其稱名不一,取類至廣,然有其始終焉:推事物之情,溯天地之道,以人立極,有其道也。故習易者有其例,不明其例,則莫知其旨,而例者,指象數也。
『易』道は極めて精微で、含まれる義理は極めて広博です。ですから『繋辞上伝』に「仁者はこれを見て仁と謂い、知者はこれを見て知と謂う」とあります。――『易』は本来仁と智を兼ね備えていますが、各人の見る所は人によって異なります。それを貫通させなければ、まさに『易』が『易』たる所以を明らかにできず、聖人の教化も世に完全に推行できず、さすれば『易』を読んでも益がないと言うべきです。ですから必ず先に『易』の本義を明らかにしなければなりません。いわゆる「易」とは、それは「象」と「数」を総括して気を明らかにし、「時」と「位」を分辨して用を明らかにし、変化を詳述して生生を明らかにし、順逆を推測して吉凶を明らかにし、名称・品類を検証して動静を明らかにし、「二」と「五」(陰陽二気と五行)を考察して始終本末を明らかにし、天と人を会通して性情道徳を明らかにします。それは含义に尽きることなく、用途に窮まりなく、名称は一種に止まらず、取る類は極めて広く、しかし自ずから緒頸があります。事物の情状を推究し、天地の大道に遡上し、人をもって準極を確立する、これがその路数です。ですから『易』を学ぶには「例」(通例・条例)が要ります。通例を明らかにしなければその宗旨に触れられず、そしていわゆる通例とは、象と数を指すのです。
象數者,圖畫文言之所示也。不先求於圖畫文言,則不明象數;不明象數,則不知易之本體及其變化。若拘拘於經文,兢兢於名類,此為文藝之事,而非以極深研幾也。如乾者,必先求其圖之所示,何以為□;必先考其爻之所名,何以為九;必先溯其氣之所始,何以為陽;必先察其道之所存,何以為天。皆必徵於象數而後知之。知之而後可言其德,可名其用,可數其變化,可質其所分合,可因例而明其爻之所占、文之所釋,而後經文可得而釋也。此凡習易者均當如此。夫子韋編三絕,所用心亦如此,決非徒誦其經,熟其訓詁,即足了事者。而講易之先,必自例始;例明而後通貫一切,庶無惑於經文之義;此為講易第一事。
いわゆる象と数とは、図画と文辞が顕示するものです。まず図画文辞の上から求めなければ、象数を明らかにできず、象数を明らかにできなければ、『易』の本体とその変化を知ることができません。もし経文に拘泥して名目・品類の上で斤々計較するだけなら、それは文芸の事であって「極深研幾」ではありません。たとえば「乾」卦では、必ず先にその図式の顕示する所が何か、なぜその卦画があのような形をしているか(原書ではここの卦画符号がすでに欠けている)を明らかにし、必ず先にその爻がなぜ「九」と称されるかを考察し、必ず先にその気がどこから始まるか、なぜ「陽」に属するかを遡り、必ず先にその道理がどこにあるか、なぜ象を「天」に取るかを審察しなければなりません。これらはみな象数の上から証を取らなければ知ることができません。知って後、はじめてその徳を説き、その用を称し、その変化を数え、その分合を質定するに及び、はじめて通例に依拠してその爻の占う所・文辞の解釈する所を明らかにし、そうして後経文を講解することができます。およそ『易』を学ぶ者はみなこのようになすべきです。孔夫子が『易』を読んで竹簡を貫く皮紐が三度切れたほどだったのも、用心がまさにここにあり、決して経文を暗誦し訓詁を弄通すれば済みというものではありません。ですから『易』を講ずる前に、必ず通例から手をつけなければなりません。通例が明らかになって、そうして後すべてを貫通し、経文の含义に困惑を感じるに至らないのです。これが『易』を講ずる第一の事です。
夫易自伏羲氏以後,象數卦儀,傳之既久,因其用不同,而取義有異;故有連山、歸藏、乾坤三易之分;實以一為三,非有他易也。連山首艮以明人道,夏代承用之;歸藏首坤,以重地道,商承用之;乾坤首乾,以尊天道,周承用之。以所首不同,故取義各異,正與夏正建寅,商正建丑,周正建子,其義一也。非歲序異,歲首異耳。故明人道者,以人為先;重地道者,以地為先;尊天道者,以天為先。實則易道備天地人,先後雖殊,場道不異,殊其用耳。
『易』は伏羲氏以後、象・数・卦・儀が流伝して久しく、用途が異なるゆえに取義にも差別が生じ、そこで『連山』『帰蔵』『乾坤』の三種の『易』の分があります。――実は同一の『易』を三つの様子に分けたのであって、別に他の『易』があるのではありません。『連山』は「艮」卦を首に居して人道を闡明するに用い、夏代がそれに沿いました。『帰蔵』は「坤」卦を首に居して地道を看重するに用い、商代がそれに沿いました。『乾坤』は「乾」卦を首に居して天道を尊崇するに用い、周代がそれに沿いました。首に居る卦が異なれば取義もそれぞれ異なり、これはまさに夏暦が寅月を歳首とし、商暦が丑月を歳首とし、周暦が子月を歳首とするのと同じ道理です。一年の次序が変わったのではなく、ただどの月を歳首とするかが変わっただけです。ですから人道を闡明する者は人を前に置き、地道を看重する者は地を前に置き、天道を尊崇する者は天を前に置きます。実は『易』道は天・地・人の三者を兼ね備え、先後は異なっても『易』道に差異はなく、異なるのはただ用法だけです。
周雖重天道,而兼二代之制,故文王重演坎離之卦,以合三為一,而同於乾坤之易;乾坤之易,伏羲固已立制,而坎離之易,則文王為之紹述者也。後人名之曰「先天易」「後天易」,其實一體一用耳。
周代は天道に側重しながらも、夏・商の二代の制度を兼ね採りました。ですから文王は改めて「坎」「離」の二卦を推演し、三家を合して一家とし、『乾坤』の『易』と相一致させました。『乾坤』の『易』は、伏羲が早くに体制を立てました。「坎離」の『易』に至っては、文王がこれに継述を加えて成したものです。後人はそれらを分けて「先天易」と「後天易」と名づけますが、実は一方が体を講じ一方が用を講ずるにすぎません。
蓋乾坤易、明位者也;坎離易、用時者也;雖次序不同,而其為易也無異。以乾坤之易,不能外坎離,坎離之用,亦不能不本乾坤;二者相參,而後變化以大,不獨二易以合用,即三易亦由是以同功。此坎離之易,包括乎一切,而為天地既奠以後所不可少者,以其用之廣,而變化之神也;此習易者必先知之。知其一而求其二與三,則三二皆歸於一,以一概易,名符義當。誠哉聖人之心,足以通天地,並日月矣!
『乾坤』の『易』は方位を講ずるもので、「坎離」の『易』は時用を講ずるものです。両者の次序は異なっても、『易』としては区別がありません。『乾坤』の『易』は坎離を撇き去ることができず、坎離の運用も乾坤を本とせざるを得ないからです。両者が互いに参合して、変化ははじめて宏大となります。ただこの二種の『易』を合わせて用いるだけでなく、三種の『易』さえもこれによって同じ功效を収めます。「坎離」の『易』が一切を包括し、天地奠定以後に欠くべからざるものとなったのは、まさにそれが用途広大で変化神妙なるがゆえです。これは『易』を学ぶ者が必ず先に知るべきことです。その中の一種を知って後、さらに他の二種を求めれば、三種・二種はついにみな「一」に帰します。この「一」をもって『易』を統摂すれば、名と義がまさに符合します。聖人の心思は実に了不起で、天地を貫通し日月に比肩するに足ります。
故文周之後,夫子必兢兢焉以祖述之,而為文以著其義;使伏農暨文周之業,永垂無盡,此則夫子贊易之微志也。夫易有數義焉:以其至易,本於太一也,故自無始至有始,推之無盡,無不可知,此一義也。以其不易也,立本於中,致用於極,中極不變,永執其中,其道乃久,故能行變化而無息,主生成而不測,此一義也。以其變易也,順天地之消息,應氣數之盈虛,與時遷移,其道莫窮;故能握化之鈞,得循環之道;唯通以變,因適而宜,此一義也。
ですから文王・周公の後、夫子は必ず小心翼々として彼らの事業を承述し、文字を写してその中の義理を彰顕し、伏羲・神農および文王・周公の功業を永遠に流伝させ絶えさせませんでした。これが夫子が『易』を賛述した深微なる用心です。「易」の字は幾層かの意思を含みます。第一層は「至易」(簡易)です。それは「太一」を本とするので、開端がない所から開端がある所まで、下へ推衍して無窮無尽、知るべからざるものがありません。第二層は「不易」です。それは根本を「中」の上に立て、作用を「極」の処に推し、中と極は恒常で変わらず、永遠にこの中を守ってこそその道が長久となります。ですから変化を推行して永く息まず、生成を主宰して測度すべからずです。第三層は「変易」です。それは天地の消長に順応し、気数の盈虚に因応し、時勢の推移に随い、道路は永遠に窮尽がありません。ですから造化の枢紐を握り、循環の規律を掌握できます。ただ通達してこそ変に応じ、適う所によって各々その宜を得るのです。
易之為道,有本末始終,有體用內外,包乎萬有,極乎無盡,推之無窮,而無為無不為。此至誠之德,中和之功,天人之所合,事物之所順;而明乎玄微,探乎繁嘖;至簡且易,至久且廣者也,此易之名與義也。
『易』の体現する道は、本あり末あり、始あり終あり、体あり用あり、内あり外あり、万有を包罗し、窮極に尽きず、推衍に完了なく、そして見たところ為すところがないようであって為さないところがありません。これはまさに『中庸』の言う「至誠」の徳・「中和」の功效であって、天と人の会合する点であり、万事万物が順遂を得る依拠です。それは玄妙精微の処を照明することもでき、繁雑紛紜の処を探索することもでき、極めて簡単容易でありながら極めて長久広大です。これが「易」という名称とその含义です。
至易之為象,上日下月,日月者,陰陽之所昭,而天地之道所見者也。以天之道,由日而明,地之道,由月以見;日月代行,天地不息,此坎離代乾坤為主,而水火成陰陽之用。此在體用既合,情性同見之時,而後知乎天地之道,曲成之妙者也。故明易者,必先明坎離之易,由下溯上,由外及內,由人及天,皆必然之序,不可臘者也。
「易」という字の構形の取象に至っては、上に一つの「日」があり、下に一つの「月」があります。日月は陰陽が昭示を得、天地の道が顕現を得る憑藉です。天道は太陽によって彰明され、地道は月亮によって見ることができます。日月が輪番に運行し、天地が生々して息まない、これがすなわち「坎」「離」が「乾」「坤」に代わって主位に居り、水火が陰陽の用を成就する所以です。体と用が会合し、情と性がともに顕現する時を待って、はじめて天地の道が「万物を曲成す」(『繋辞上伝』の語、委曲して周く万物を成就する意)の妙処を懂ることができます。ですから『易』を明らかにしようと思えば、必ず先に「坎離」の一路の『易』を明らかにし、下から上へ遡り、外から内へ深入りし、人から天に推し及ぼさなければなりません。これはみな必然の次第であって、級を越え等を躐してはなりません。
且日者元陽之象,其體亦太極之象,故為□、即□,亦中字之形也;太極之體一,為萬有之母,而易自太極始。日者生物之根,凡物不得日之光熱則不生,是日即生物之母。勿者,古文物字;上日下勿,示生生之象,亦明天下萬物自生之源。其取意固精,而為文卻顯。故知日月為易,則知天地以陰陽而神其變化,亦即知乾坤之易,以坎離而明其功用也。
さらに「日」について言えば、それは元陽の象で、その本体はすなわち太極の象です。ですからそれの取る符号(原書ではここの図形がすでに欠けている)は、まさに「中」の字の形状です。太極の本体は「一」で、万有の母であり、『易』はまさに太極から始まります。太陽は万物生長の根本で、およそ物は太陽の光と熱を得なければ生長できません。ですから太陽はすなわち物を生ずる母です。「勿」は古文の「物」の字です。「易」の字は上が「日」で下が「勿」で、生々已まざるの象を顕示し、また天下の万物が自ら生発する源頭を点明します。それが取る意は固より精妙ですが、字の造成はきわめて顕豁です。ですから日月が合して「易」の字を成すことを懂れば、天地が陰陽を憑って変化を神妙ならしめることを懂り、また『乾坤』の『易』が坎離に依ってその功用を彰顕することを懂るのです。
知□為易,則知天下萬物,莫不生於太一,育於元陽,而易之為教,莫外於溯萬有之始終,推萬物之生成長育,更由是以明天道人道之體用,及夫事物變化消息之數運也。故易辭雖簡,為義極宏,其道至深,為言必備。苟欲洞明其故,則固不外求之象數與文辭也;而易之象數,則盡乎形氣之精;易之文辭,則概乎義理之至。不深研而通其趣,則必有所滯;不廣征而匯其歸,則必有所失。此見仁見智之說,所由來也,習易者可不勉哉!
あの符号(原書ではここの図形がすでに欠けている)がすなわち「易」であることを懂れば、また天下の万物が「太一」に生れ「元陽」に養われないものがないことを懂ります。そして『易』が一つの教化として、万有の始終に遡上し、万物の生成长育を推究し、さらにここから天道人道の体と用、および事物が変化消長する数と運を闡明するに外なりません。ですから『易』の文辞は簡約でありながら含义は極めて宏大で、その道理は極めて深いのに措辞は必ず完備を求めます。もしその中の縁由を徹底的に明らかにしようと思えば、ついに象数と文辞の両方面から求めるに外なりません。『易』の象数は、形と気の精微の処を説き尽くし、『易』の文辞は、義理の極致の処を概括しました。深入りして研鑽してその中の意趣に通暁しなければ、必ず滞碍があり、広く証を取ってその総帰を帰納しなければ、必ず遺漏があります。これが「仁を見る者は仁と言い、智を見る者は智と言う」という説法の由来です。『易』を学ぶ者、どうして勉め力めないでいられましょうか。
夫易:明數者也,而數本乎氣,氣本於陰陽,陰陽本於太極,故太極為易之始。太極者,一也,其初無名無形,由元氣之凝而為光;光生氣,氣成形,形成質,故物之始生,必先有氣。斯氣也,流行天地之間,分合萬有之體,而不可見。
『易』は「数」を闡明する学です。そして数は気を本とし、気は陰陽を本とし、陰陽はまた太極を本とします。ですから太極は『易』の起点です。いわゆる太極とはすなわち「一」で、それは最初名もなく形もなく、元気が凝聚して光と化し、光が気を生じ、気が凝して形を成し、形が結して質となりました。ですから万物が生産を始めるとき、必ず先に気がありました。この気は天地の間に流行し、万有の形体を分合しながら、それ自体は見えません。
見其形質焉,因氣之分合多少偏全,而形質不齊,故數不等而象不一,求其象而後知其數,明其數而後辨其氣。氣有陰陽,數有奇偶,因分合而有四五,因偏全而有善惡;此氣之變化也。因生物之時地有多寡,因境遇之變遷而有大小;此數之消長也。因所受之殊,而形質有殊;因所合之異,而性情有別;此象之進退也。
人の見得るところはただ形と質だけです。気の分合に多少があり偏全があるゆえに、形質は参差不斉となり、ここに「数」は各々相等しくなく、「象」は各々相同じありません。先に象を求めて後はじめて数を知り、数を明らかにして後はじめて気を弁じ得ます。気は陰と陽に分かれ、数は奇と偶に分かれます。分合の不同により「四」(四象)と「五」(五行)があり、偏全の不同により善と悪があり、これは気の変化です。物を生ずる時間地点の不同により多少があり、境遇の変遷により大小があり、これは数の消長です。禀受する所の不同により形質に別があり、会合する所の不同により性情に異があり、これは象の進退です。
蓋氣自太極以下日分,分而仍合;故兩儀、四象、五行、皆以次名,數自太一以下,亦漸散,而仍復聚,故天一地二、至天九地十、推而五十、六十四、百四十四、二百一十六、而萬一千五百二十之數以別,象自太極以下,由氣數之推移變化,而諸物生成,名類日多,反覆日眾,以仍循環終始,故八卦六爻之互相乘除,太陰少陽之互相推化,以成萬物之形,類萬有之情,名萬事之制,而不可窮盡,此皆順乎生化之序,有不期然而然者。
気は太極から下へ一層一層に分かれ、分かれてもなお会するので、「両儀」「四象」「五行」の順次に立つ名目があります。数は「太一」から下へまた次第に散じ、散じてもなお聚まるので、「天一・地二」から「天九・地十」(『繋辞上伝』に記す天地之数)に至り、さらに推衍して大衍の数五十・六十四卦・一百四十四(坤策の数)・二百一十六(乾策の数)、一万一千五百二十(万物の数に当たる)に至るまで、各々分別があります。象は太極から下へ、気と数の推移変化によって種種の事物を生成し、名目・品類は日々に増多し、反復交錯は日々に繁密となり、それでもなお循環して始あり終ありです。ですから八卦六爻の間は互いに乗除し、太陰少陽の間は互いに推移転化し、もって万物の形体を構成し、万有の情状を区分し、万事の法度に命名し、永遠に窮尽がありません。これらすべては生化の次序に順い、意をもってそうするのではなく自然にそうなるのです。
故總而言之:則一生二,二生三,三生萬物,分而言之,則太極以下,氣數與象,各以類別,不可勝紀。以自上而下,則言之如此;如自下溯上,則必就其已見者征之,此求象為第一步。因象者於外,存於現在,耳之所聞,目之所見,手足之所執持者,固易為徵。徵其象則得其數與氣,而後因其例,以辨其吉凶福禍;循其時地,以辨其道德性情,而後行止有方,動定有則,而用乃著,而道乃彰,而後聖人立教之心可見矣!故習場莫先於象數,明象數莫先於例。易之明例,實習渴之下手處,故講易必自例始,以其已知,求未知也。
総じて言えば、すなわち『老子』の講じる「一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」です。分けて言えば、太極以下、気・数と象は各々類別に区分され、多くて記し勝れないほどです。上から下へ推せば、情形はこのようです。もし下から上へ遡ろうとすれば、必ずすでに顕現したものに就いて証を取らなければならず、このとき「象を求む」が第一歩となります。象は外にあり、当下に存在し、耳の聞き得る所・目の見得る所・手足の執持し得る所であって、本来験しやすいからです。象に証を取れば、その数と気を得ることができ、そうして後通例に依拠して吉凶禍福を分辨し、時と地に順って道徳性情を分辨します。この後、行動と静止に方向があり、動作と安定に法則があり、作用がはじめて顕現し、大道がはじめて彰明し、聖人が教を設けた用心も見ることができます。ですから『易』を学ぶに象数より先なるものはなく、象数を明らかにするに通例より先なるものはありません。『易』の通例を明らかにすることは、実に『易』を学ぶ下手処です。ですから『易』を講ずるには必ず通例から始めます。――すでに知る所をもってまだ知らざる所を求めるのです。
夫易自伏羲畫卦,分列陰陽以定其位,重為六爻以明其時;乾坤為體,易行其中,乾坤成列,易立於中,二者體用之分,時位之辨,相錯以行,相交以變,生生不已,變化無盡。故由八卦而成六十四,六爻而推至三百八十四,皆本一氣循環,二五互用,以成其象,以寓其數,以行其氣。
『易』は伏羲の画卦以来、陰陽を分列して各爻の位を確定し、三画を重ねて六爻を成して各爻の時を顕明にしました。乾と坤は本体であって、『易』はその中に運行します。『繋辞上伝』に「乾坤列を成せば、則ち易その中に立つ」とあります。乾坤の両者には体と用の分別・時と位の辨異があり、交錯して運行し、交合して変化し、生々已まず、変化無窮です。ですから八卦から演じて六十四卦を成し、六爻から推衍して三百八十四爻に至り、すべて一気の循環・陰陽と五行の交互の用に本づき、もってその象を構成し、その数を寄寓し、その気を運行します。
故太極既立,自生兩儀;卦象既成,自生爻象;自然推衍者也。由乾坤定位之易,而見卦位之序;由坎離中立之易,而見卦氣之時行,變化雖多,次序不亂,皆二五所生化,順乎天地萬物之次,而相交合五生成者也。故欲知生化之跡,必列象而觀之,此圖畫為所必重也。故習易必先將易之圖象,觀察明晰,如乾坤定位之圖等,一一列前;審其生化之序,及其推移之數,而後得其卦之由來,此固為第一事也。
ですから太極が一たび確立すれば、自然に両儀を生じ、卦象が一たび形成されれば、自然に爻象を生じます。――これはみな自然に推衍して出たものです。「乾坤定位」の一路の『易』からは、卦位の次序を見ることができ、「坎離居中」の一路の『易』からは、卦気が時に随って運行する情形を見ることができます。変化は衆多であっても次序は紊れず、すべて陰陽と五行の生化する所であって、天地万物の次第に順い、交互に配合して生成します。ですから生化の蹤跡を知ろうと思えば、必ず象を排列して観なければなりません。これが図画が必ず重視を受けなければならない所以です。それゆえ『易』を学ぶには必ず先に『易』の各種の図象をはっきりと見、「乾坤定位図」などを一々前に陳列し、その中の生化の次序および推移の数を審察して、そうして後はじめて各卦の由来を明らかにできます。これは本来第一の事です。
述聖講述――子思
讀易須先明易例:以其敷辭有定,陳象不二,必通其義,而後明其旨,必抉其情,而後達其用。如乾□,天也、父也、之例,必先熟記之,則卦中有乾象,或通乾象;及其比偶反類之象者,皆有孚於乾之義,即有類於乾之情,則其為象,必同於乾之物;如天也、父也、之類,此易示象之例,有不易者也。又如乾之卦辭「元享利貞」,其六爻之辭各異,而皆有其物與事以象之,則各卦中如有乾之辭,及其爻之辭,或比偶反類之辭,皆與乾通其義;必合對參之,以明其所指,而後知其辭之用,此易辭之例,必通解者也。
『易』を読むには必ず先に『易』の通例を明らかにしなければなりません。『易』は措辞に定規があり、陳べる象に曖昧がないので、必ずその含义に通暁してこそその宗旨が明白になり、必ずその情実を剔発してこそその用処に通達します。たとえば「乾」卦の卦画(原書ではここの符号がすでに欠けている)は天を代表し父を代表する、この一条の通例を必ず先に記憶し熟しなければなりません。さすればおよそ別卦の中に乾象を含むもの、あるいは乾象と相通ずるもの、およびこれと相比し・相偶し・相反し・相類する象は、すべて乾の含义に合し、また乾の情状に近く、ならばそれが取る象は必ず乾が象徴する事物と同じく、たとえば天・父の類です。これは『易』が象を示す通例であって、固定して変わりません。またたとえば乾卦の卦辞「元・亨・利・貞」は、その六爻の爻辞は各々相同じくないのに、すべて相応する物と事があって象徴を成します。ならば各卦の中に乾の卦辞が現れ、あるいは乾爻に相応する爻辞、あるいは相比・相偶・相反・相類する辞句があれば、すべて乾の義理と相通ずるので、必ず合わせて対照参看し、それらが指す所が何であるかを明らかにして、そうして後はじめてこれらの辞の用法を知ります。これは『易』辞の通例であって、必ず通盤に理解しなければなりません。
習易貴乎通,而用易在乎熟,苟執而不通,習而多忘,則何以窮天下之變,盡易道之蘊哉?蓋易者:以簡御繁,以顯探微者也,因其為用至廣,言文難備;為道至大,事物同賅,則不得不操其本,用其極,以不二之道,成不測之功;以至易之文,成至神之用,此所以僅六十四卦,三百八十四爻,而盡天下之事物與變化也。不先明此,則不能窺聖人制易之心,亦不能全易道之用,則雖治易終無益也。故貴在能熟其辭而通其象。
『易』を学ぶには貫通を貴び、『易』を用いるには純熟にあります。もし一端に死守して通達せず、学んでまた多くを忘れるなら、どうして天下の変化を窮究し『易』道の蘊含を窮尽できましょうか。『易』という書は、簡をもって繁を馭し、顕から微に入るものです。その用途が極めて広く、言語文字をもって言い尽くしがたく、その道理が極めて大きく、各種の事物を一括して包括するので、根本を把握して極処に用い、専一で雑らない道をもって測度すべからざる功效を成就し、極めて簡易な文字をもって極めて神妙な作用を成就せざるを得ません。これが、ただ六十四卦・三百八十四爻のみをもって、天下の事物と変化をすべて涵蓋する所以です。先にこの一点を明らかにしなければ、聖人が『易』を制作した用心を窺うことも、『易』道の作用を完整に発揮することもできず、さすればたとえ『易』を研究しても、ついに益がありません。ですから肝要なのは、その辞を読み熟し、その象を弄通できることです。
易之為用,有獨用者,有合用者,有對偶者,有推移者;有反逆相成者,有正順相制者,其類不一,其例至多;則可就其象驗之。如各卦各爻,均有獨用之例,而相合亦成其用。其對偶推移,順逆正反,則成其生克變化之用,此當就其成例測之。
『易』の用法には、単独に取用するもの、合わせて取用するもの、対になって相偶するもの、順に推移するもの、相反相逆して彼此成就するもの、相正相順して彼此制約するものがあり、種類は一様でなく、条例は極めて多く、みな象の上から検証できます。たとえば各卦各爻には、すべて単独に取用する通例があり、また彼此配合しても用途を成就します。対偶推移・順逆正反に至っては、相生相克・変化不已の用途を形成します。これらはみなすでにある成例に依って推測すべきです。
蓋乾坤二卦,各獨立而為天地父母;合則如泰否,其用不同,對偶推移,則如復姤遯臨之類;相生克以成變化,則如剝復損益既未濟之類,皆有定例可尋者也。至其比例交錯,由此通彼,由上化下,則如咸恆之乾坤,益損之離坎,各極其變而成其用,亦自成例;故必列象,觀其分合變化,驗其生克消息,而後得其用焉。
乾・坤の両卦が各自独立するときは天地・父母を代表し、両者が相合すれば『泰』『否』となり、用途は各々相同じありません。対偶推移に属するものは、『復』『姤』『遯』『臨』の類です。相生相克によって変化を形成するものは、『剥』『復』『損』『益』および『既済』『未済』の類で、いずれも一定の条例があり尋繹できます。それら比類交錯し、此より彼に通じ、上より下に化する情形に至っては、『咸』『恒』の両卦が乾坤より変じたもの、『益』『損』の両卦が離坎より変じたもののように、各々変化を極処に推してその用を成就し、また自ら通例を成します。ですから必ず象を排列して、それらの分合変化を観察し、それらの生克消長を検証して、そうして後はじめてそれらの用法を掌握できます。
故易有乾坤中立之序圖,有坎離上下之序圖,有其本宮變化之序,有依對偶推移之序,無非為極其用也。必先於其同以求其異,於其異以證其同,而後知其變化由來,生克消息之例也。是以習易,非僅釋文義,諳象一變為坎坎離上下之序圖,其原因如何?成用如何?而後知聖人易教之本旨,與吾人習易之何為。
ですから『易』には「乾坤中に居りて立つ」の序図があり、「坎離分かれて上下に居る」の序図があり、本宮の変化に依って排した次序があり、対偶推移に依って排した次序があり、いずれもその用途を極致に発揮するためです。必ず先に相同なる処からそれらの差異を探し出し、次に差異の処からそれらの相同を印証して、そうして後はじめて変化の由来・生克消長の条例を知ることができます。それゆえ『易』を学ぶのはただ文字義訓を解釈するのみならず、また卦象がなぜ「乾坤定位」から一変して「坎離上下」の序図となるか、その中の原因は何であり、成就する用途は何であるか(この句は原書の文字に脱誤があるようである)を明らかにしなければなりません。こうしてこそ聖人が『易』をもって教を設けた根本の宗旨、および我々が『易』を学ぶのは究竟何のためかを知ることができます。
易之八卦為綱,其所生化五十六卦為目,而乾坤二卦,又綱之綱,以各卦皆自是出,即萬物生於五行,五行成於二氣也。由其數言,八卦者生成之數,五十六卦則相生相制之數也,萬物雖眾,皆包於六十四卦,則一卦之分合變化,所賅者多矣!故必詳徵於爻。爻者本於乾坤之□、□,即數之九六也,無論何爻,不外□、□,即言萬物萬事,不出九六之數與陰陽之氣也。
『易』は八卦を綱とし、八卦から生化して出た残りの五十六卦を目とします。そして乾・坤の両卦はまた綱中の綱です。各卦がみなそれらから生ずるからで、ちょうど万物が五行に生じ、五行がまた陰陽二気によって構成されるようなものです。数の上から言えば、八卦は生成の数であり、五十六卦は相生相制の数です。万物は衆多であっても、すべて六十四卦の中に包含されます。ならば一卦の分合変化の涵蓋する内容はすなわち多くなります。ですから必ず爻の上に詳しく考察を加えなければなりません。爻は乾坤のあの二種の爻画符号に本づき、すなわち陽爻と陰爻(原書ではここの符号がすでに欠けている)であり、数の上ではすなわち「九」と「六」です。いずれの爻も、この二種を出ません。これはすなわち万事万物が九・六の数と陰陽の気を跳出られないことを言うのです。
由其合觀之,則變化無盡;由其分言之,不過天地所賦之一耳。故乾坤為天下之樞機,而□、□為天下之本氣;九六為天下之總數,實為生化之所始終者也。雖究其生化,有不可盡,而溯其本始,則不離於是。是即中庸所謂天地之道不二,而生物不測也。故易者:示天地萬物終始者也。無論何物何事,莫不包於易中,即溯無始,以迄天地之滅,皆由易象盡之矣!
それらを合わせて見れば、変化に窮尽がありません。それらを分けて言えば、また天地の賦与したあの「一」にすぎません。ですから乾坤は天下の枢紐であり、陰陽の二種の爻画(原書ではここの符号がすでに欠けている)は天下の根本の気であり、九と六は天下の総数であり、実に生化の起点と終点です。たとえその生化を推究して窮尽すべからずとも、その本原を遡って追うにはこれらを離れられません。これがすなわち『中庸』の言う天地の道は専一不二で、しかも万物を化育して測度すべからざる所以です。ですから『易』は天地万物の始より終に至るを顕示する書であって、いかなる物・いかなる事も、『易』に包含されないものはありません。たとえ上は開端なき処に遡り、下は天地毀滅の時に推しても、みな『易』の象をもって説き尽くすことができます。
如以六十四卦次第列之為圖,即足以示天地世界之終始,即自乾坤以迄既未濟,其推移轉換,實一世界自然之序,而縮言之,即一人終始生化之例。其為變化者,則有方圓圖與歲序圖,及八宮之序,皆與經中次序相證,以互為用:因大數雖有定例,而變化甚多;必合各圖而後知其變例。如後人京氏之八宮,焦氏之歲序,與邵氏所傳於道家之方圓圖,皆易中自具之例,為推其變化,以與經本次序相證者也。
もし六十四卦を次序に従って図に排すれば、天地世界の始終を顕示するに足ります。『乾』『坤』から『既済』『未済』に至るまで、その間の推移転換は、実に一つの世界が自然に演変する次序です。縮めて言えば、すなわち一人の人が生より死に至る、生化始終の範例です。変化を表現するものには、「方図」「円図」および「歳序図」ならびに「八宮」の次序があり、みな経文中の卦序と互いに印証し彼此を用となします。大きい数に定例はあっても、その中の変化は多いので、必ず各種の図を合わせて見て、はじめてその変例を知ることができます。後人の京房の八宮卦序、焦延壽の歳序、および邵雍が道家から伝えた方円図のごときは、みな『易』の中に本来ある条例であって、その変化を推演し、経本の次序と相印証するために用いられたものです。
故大之足以盡宇宙之象,小之足以合歲時之紀,即一人一地一時之事,亦由是足以占之,此則因天地生化自然之例,固如是也,即其變例,亦不出於各圖之序,由正證變,皆如指掌;故可以明知未來,通達既往,而盡其變化,致其用也。是易之象雖簡,而含義無窮,習易者必詳求之,始全其用;而其道總不外往復於六十四卦之內也,其變例為圖尚多,此舉其至要而已傅者耳。習易之先,務熟記之。
大きく言えば、それは宇宙の象を窮めるに足り、小さく言えば、一年四時の綱紀に合するに足り、一人・一所・一時の事に至っても、これに依拠して占断できます。これは天地生化の自然なる条例が本来このようであって、その変例さえも各図が排した次序を跳出ず、正例をもって変例を印証すれば、みな自分の掌を見るがごとく明白なので、明白に未来を予知し、通達に過去を了解し、その変化を窮尽しその用途を発揮することができます。見れば『易』の象は簡単であっても含义は無窮であり、『易』を学ぶ者は必ず詳しく探求して、はじめてその作用を完整に発揮できます。そしてその道理は総じて六十四卦の内に往来反復するを出ません。変例を表現する図はなお多くありますが、ここではただその最も緊要ですでに流伝したものを挙げるに止まります。『易』を学ぶ前に、必ずそれらを記憶し熟さなければなりません。
亜聖講述 孟子
夫子命將易經要義,先為講釋,俾讀易者深解古聖演易之旨;文周說易之心,庶明儒教傳易原由,而知堯舜以來歷聖授受之薪傳要義。夫易自文王重演,周公繼之,夫子集其大成;而經文大明,義理大著;讀易者宜將繫辭、說卦、序卦、雜卦諸章,與全經,俱明解無遺,然後得聖人演易之旨,及吾人習易之用也。
夫子は、まず『易経』の要義を一番講解し、『易』を読む者が上古の聖人が『易』を推演した宗旨・文王と周公が『易』を解説した用心を深く領会し、もって儒家が『易』学を伝授してきた来由を明らかにし、堯舜以来歴代の聖人が遞相に伝授したあの薪火の要義を知るようにせよと吩咐しました。『易』は文王が重ねて推演し、周公が続いて為し、夫子がその大成を集め、ここに経文は大いに彰明となり、義理は大いに顕着となりました。『易』を読む者は『繋辞』『説卦』『序卦』『雑卦』の各篇を全部の経文とともに一並びに解明して遺漏なからしめ、そうして後はじめて聖人が『易』を推演した宗旨、および我々が『易』を学ぶ実際の用処を領会できます。
四傳詳於易例,為輔翼易經之文,不讀四傳,不明易之為教也;故夫子於訂易時,特揭之,為易經參解以授弟子,俾明易之為易,故讀易必及四傳;易象至簡,卦辭亦略;欲通其用,舍先求之四傳,不能測其端倪。
『繋辞』『説卦』『序卦』『雑卦』という四種の伝は、『易』の通例を講じて極めて詳しく、『易経』を輔佐し羽翼する文字です。この四伝を読まなければ、『易』が一つの教化として究竟何であるかを明らかにできません。ですから夫子は『易』を删訂するにあたり、特にそれらを標挙して『易経』の参解として弟子に伝授し、人に『易』が『易』たる所以を明白にせしめました。それゆえ『易』を読むには必ず四伝に関わらなければなりません。『易』の象は極めて簡で、卦辞もまた甚だ簡略です。その用法を弄通しようと思えば、先に四伝から求めなければ、頭緒に触れることができません。
蓋易起於上古,為時久遠,文字未興,雖具其象,亦如河圖、洛書,僅演其點畫而已,經神農軒轅以迄唐虞,代有增易,文字既制,政教益明,於易象之下,均加之演詞以著其義。因初傳於語言,難留久逸,相習固有師授,而易代輒忘;相用固有成規,而易地輒異,以至於夏商二代,各沿所習,各本其制,而有連山之易,歸藏之易,其取用既殊,而為義亦不一矣!
『易』は上古に起源し、年代は久遠で、あの時は文字がまだ興起していませんでした。すでに卦象はあったとはいえ、また「河図」「洛書」のように、ただ点と画を並べ出したにすぎません。神農・軒轅黄帝を経て唐堯・虞舜に至るまで、代代に増補改動があり、文字が造られて後は、政令教化がさらに明白となり、各卦象の下に演繹の文辞を加えてその含义を彰顕しました。最初は口耳によって伝わったので、長く保存しがたく、師徒相授の伝承は固よりあったものの、一朝一代を改めれば容易に失伝し、使用は固より成規があったものの、場所を換えれば差異が生じました。夏・商の両代に至り、各々自ら習う所に沿襲し、各々自らの制度に依拠して、ここに『連山』の『易』と『帰蔵』の『易』ができ、取用がすでに異なれば、立てる義理も同じくなりませんでした。
至文王取而重演之,以成今傳之易,因恐後人疑其同異,忘其本來,始詳著其詞,以明其教,此四傅之作固為傳易為教者也。時代既殊,傳述又異;前之易者,徒存其象,今之詞者,乃備其文,故易道至周始昭,至夫子始定為經。
文王に至ってそれらを取って重ねて推演し、はじめて今日流伝する『易』となりました。後人が各家の異同に疑惑を生じ、その本来の面目を忘れることを恐れて、はじめて文辞を詳しく書き記してこの教法を闡明しました。――四伝の写作は、本来『易』を伝えるため、教を設けるためでした。時代がすでに異なれば、伝述も各々差異があります。従前の『易』はただ象を保存し、今の辞がはじめて文字を補い斉えたのです。ですから『易』道は周代に至ってはじめて彰明となり、夫子の手に至ってはじめて経典と定まりました。
夫子本文周之作,加以所習,而擴其義,敷詞具象,以次其序,明變著用,以列其圖,而後易之為易,有跡可尋,有文可讀,有圖可驗,有變化可征;不似前日之奧窈難稽,同異莫辨矣。故易教實成於夫子,而易義則備於四傳之文;欲知易者,必先知此,而後可進而求之也。
夫子は文王・周公の著作に依拠し、自ら学んだ所を加え、その中の義理を拡充し、文辞を鋪陳し卦象を具列して次序を排定し、変化を闡明し用途を顕示して図式を排列しました。この後、『易』が『易』たる所以は、はじめて蹤跡の尋ぬべく、文字の読むべく、図の験すべく、変化の考すべきものとなり、従前のように幽深で稽えがたく、異同を弁ずることなきに非ざりしものとはなりませんでした。ですから『易』教は実際に夫子の手で完成し、『易』の義理は四伝の文字の中に完備したのです。『易』を懂ろうとする者は、必ず先にこの一層を知り、そうして後はじめてさらに進んで探求できます。
易之起源,非乾坤也:蓋溯乾坤而上,則太極是也,然易有太極,是生兩儀之語,不見於經而見於傅;故必讀傅始知之也。易之為教,非言休咎已也,而在因休咎以悟性命,以道在人為性,易明人道,始於性善,「而繼之者善,成之者性」之語,亦詳傅中。
『易』の起源は乾坤ではありません。乾坤から上へ遡れば、それは太極です。しかし「易に太極あり、これ両儀を生ず」という句は経文に見えず『繋辞上伝』に見えます。ですから必ず伝を読んでこそ知ることができます。『易』は一つの教化として、またただ吉凶禍福を講ずるのみならず、吉凶禍福を借りて性命を体悟するにあります。道が人の身に落ちればすなわち「性」だからです。『易』は人道を闡明し、「性善」から講じ起こします。そして『繋辞上伝』の「これを継ぐ者は善なり、これを成す者は性なり」という句も、また詳しく伝の中に載せられています。
易之言數,始於圖書;自天一至地十,皆天地生成本數,而天一地二,大衍之數五十之語,亦在傳中;易之為用,以其變也;變始於錯綜參伍,以生化各卦:而參伍以變,錯綜其數之義,亦詳傳中。易之同異,在於序圖;以其本末始終,上下內外,各有其用,故有體有用,有同有異;而天地定位,帝出乎震,各方位序圖之說,亦詳傳中。
『易』が数を講ずるのは、「河図」「洛書」から始まります。「天一」から「地十」まで、みな天地生成の基本の数であって、『繋辞上伝』の「天一地二」および「大衍の数五十」という言葉も、またみな伝の中にあります。『易』に用がある所以は、それが変わり得るにあります。変化は「錯綜参伍」から起こり、もって各卦を生化します。そして『繋辞上伝』の「参伍をもって変じ、錯綜その数す」という意味も、また詳しく伝の中に載せられています。『易』の各家の異同は、卦序図に取决まります。本末始終・上下内外が各々その用処を持つので、体あり用あり、同あり異あり、そして『説卦伝』の「天地定位」の一節・「帝は震に出づ」の一節が講ずる各種の方位序図も、また詳しく伝の中に載せられています。
易之遞嬗,大別有三:時代以殊,名類遂異;如連山、歸藏之易,次序不同,即體用生化之序,與男女之別,消長之象;其類皆異,其名皆殊;而本宮變化,與序卦次第,及連山、歸藏之首末位次,亦皆詳傳中。
『易』の遞相の演変は、大体三種に分かれます。時代が異なれば、名目・品類もこれに随って異なります。たとえば『連山』『帰蔵』の二種の『易』は、卦序が異なれば、体用・生化の次第、および男女の区分・消長の象は、品類がみな同じでなく、名称もみな同じでなく、そして各卦の本宮の変化と『序卦』の次第、および『連山』『帰蔵』の起首と結尾の卦位次序も、またみな詳しく伝の中に載せられています。
至如易之門戶,八卦之本義,六十四卦之時氣,與天地人所象之名類;少長老幼之期,上下內外之位,皆自有所合。一歲之遷移,八方之分合;古今世界之終始,與人事吉凶禍福之占驗;莫不詳於傅中。若不熟於傳,則中智以下,決不能探天地之妙,測陰陽之神;而以達於性命之源,明於行止動靜之道矣!故傳之作,為教後人之習易也。
『易』の「門戸」、八卦の本義、六十四卦が各々当たる時令気候、および天・地・人が取象する名目品類、年少・年長・老年・年幼が各々対応する時期、上下内外が各々対応する位次に至っては、みな各々その相合する所があります。一年の中の節候の推移、八方の分合、古往今來の世界の始終、および人事上の吉凶禍福の占験は、詳しく伝の中に載せられないものがありません。もし伝に熟しなければ、中等の資質以下の人は、天地の奥妙を探り・陰陽の神奇を測ることは決してできず、もって性命の本源に通達し・行止動静の道理を明白にすることもできません。ですから伝の写作は、まさに後人に『易』を学ばせるためだったのです。
人求明易,不先明於傳文,是雖日讀經,恐無益於事;故夫子以其所得,指出其要,而集其義,為傳於經之前後,其循循誘人之心,足千古矣!雖其言得之先聖,非夫子一人所為,而其編訂之功,實為繼往開來之聖,讀者其毋負夫子之心焉爾。
人が『易』を明らかにするには、先に伝文を明らかにしなければ、たとえ日々経文を読んでも、おそらく用処はないでしょう。ですから夫子は自ら得た心得の要点を指出し、その中の義理を彙集して伝を編み、経文の前後に分列しました。彼が循循として善く誘い後人を教導した苦心は、千古に垂範するに足ります。これらの言葉は先代の聖人から得たもので、夫子一人の作ではないとはいえ、彼が編訂した功労は、実に前を承け後を啓く聖人の功です。読者はくれぐれも夫子のこの一片の心意に背いてはなりません。
且卦之象氣與數,必視其變化,而後得其未來,若僅執現象,則往復者不可知,將何以窮神知化哉?故通易必參全易之變化,非就一卦六爻之象,既足得其用也。又易者,因器明道者也,器可見,道不可見,必因有形以溯無形;有形者現具之象,無形則在無象之中,然棄有以求無,亦不得也:必求諸有而不執其有,方得其無焉,而非經文所盡也,必廣徵於先後天之圖,與本宮之序,及序卦之詞,而後知之,故必徵於傳文也。
さらに言えば、卦の象徴する気と数は、必ずその変化を見て、そうして後はじめて将来を推知できます。もし眼前の現象だけを捉えるなら、往復循環の道理を知る由もなく、どうして『繋辞下伝』の言う「神を窮め化を知る」に及び得ましょうか。ですから『易』に通暁するには、必ず全部の『易』の変化を参照しなければならず、一卦六爻の象に就いてその用法を掌握するに足るものではありません。さらに、『易』は器物を借りて大道を闡明するものです。器は見えるもの、道は見えないものですから、必ず有形を憑って無形を遡らなければなりません。有形なるものは当下に具在する象であり、無形なるものは無象の中に蔵れています。しかし「有」を丢き去って「無」を求めても、また求め得られません。必ず「有」の上から求めながら「有」に執着せず、はじめてあの「無」を得ることができます。これらは経文の講じ尽くし得る所ではなく、必ず広く先天・後天の図、および本宮の次序と『序卦』の文辞に証を取って、そうして後はじめて明白になります。ですから必ず伝文の中で証を取らなければなりません。
先後天の易と序卦本宮
如先後天之圖,不見於經;即就乾坤之序,亦不知其位。唯「天地定位」一節,言先天八卦之位;「帝出乎震」一節,言後天八卦之序,皆足以證經文之不及者。如乾坤之序,為今易所定,始於乾,終於未濟,此固讀經可知者。而其本宮之序,則不在經中,又非徵於傳文不可。傳有云:「歸妹,女之終也」,乃明本宮之始終。
たとえば「先天図」と「後天図」は、経文の中には画かれていません。ただ乾坤以下の卦序を見るだけでは、八卦が各々どの方位に居るかも見出せません。ただ『説卦伝』の「天地定位し、山沢気を通ず」の一節が講ずるのが先天八卦の方位であり、「帝は震に出で、巽に斉う」の一節が講ずるのが後天八卦の次序です。この二節はみな経文の説かなかった所を補い出すに足ります。卦の排列次序に至っては、今本『周易』の定めた所で、『乾』に起こり『未済』に終わり、これは本来経文を読めば知り得るものです。しかし八宮「本宮」の次序は経文の中になく、伝文の中から印証せずには得られません。『雑卦伝』に「帰妹は、女の終わりなり」と言う、この句はまさに八宮本宮の次序の起訖を点明しています。
蓋序卦之次序,本於後天八卦之生化,而為用也;本宮之次序,則本先天八卦之生化,而為體也。體靜象坤,故歸妹為坤道之盡;後天用陽,而動象乾,故未濟為乾道之終。二者終始各異,致用亦殊,而必由傳考之,始得明其故。不特此也,連山首艮,歸藏首坤,六十四卦之序各異,即方圓與歲序圖皆不一。凡由乾坤變化而生者,皆有定序,而經但就文王所定者列之;若不徵於傳,則他易圖皆不得知。不獨不備於用,而經中各爻辭,恆有取前各易之舊者,其義亦難索解。譬之「歸妹,女之終也」一語,苟不知八宮次序,終於雷澤歸妹,則其義將不解矣!
『序卦伝』の排す次序は、根源は後天八卦の生化にあり、「用」の一面に属します。八宮本宮の次序は、根源は先天八卦の生化にあり、「体」の一面に属します。「体」は静を主とし坤に象を取るので、八宮が『帰妹』に排到るや、すなわち坤道の尽きた所です。後天は陽をもって用とし、動を主として乾に象を取るので、『周易』が『未済』に排到るや、すなわち乾道の終点に至った所です。両者は一始一終、各々相同じくなく、用処も両様です。必ず『易伝』の中から査考して、はじめてその中の縁故を清楚にできます。これに止まりません。夏代の『連山易』は『艮』を首卦とし、殷代の『帰蔵易』は『坤』を首卦とし、六十四卦の排法は各々同じからず、方図・円図および歳時に配合する卦序図さえもみな一致しません。およそ乾坤の変化から生じた卦には、みなその固定の次第がありますが、経文はただ文王の定めたあの一種を列挙するのみです。もし伝文の中に印証しなければ、別の易図を知る由もありません。これはただ使用上の不完備に止まらず、経文中の各条の爻辞は、また往々にして『連山』『帰蔵』の旧来の説法に沿襲し、それらの含义は索解しがたいものです。「帰妹は、女の終わりなり」という句のように、もし八宮の次序が最後に雷沢『帰妹』に収まることを知らなければ、この句は根本的に講じ通せません。
以經文次序,明明終於末濟,與歸妹何涉?是則女終之義,實非取於今易者也。況一曰男,一曰女,對舉而言,即分屬乾坤二者。乾道成男,坤道成女,固有明解;而未濟之男窮,即指乾氣之盡;歸妹之女終,即指坤氣之盡。然序卦終以未濟,可見本乾道之始終也;本宮則本坤道,斯為不同。而不同者正其同也,由於先後天也,合之則同,分之則異,未有離體用為之者,故異仍同。
経文の次序に照らせば、はっきりと『未済』で終結しているのに、『帰妹』と何の関わりがあるのでしょうか。見れば「女の終わり」というこの一層の意味は、今本『周易』から取ったのではありません。いわんや『雑卦伝』は一句に「男」を言い一句に「女」を言い、両つ相対して挙げられているのは、まさにそれぞれ乾・坤の両卦に帰属することを分かつものです。『繋辞伝』に「乾道は男を成し、坤道は女を成す」とあり、もともと明白に講じています。『未済』の「男の窮」とは、乾気が尽頭に至ったことを指し、『帰妹』の「女の終わり」とは、坤気が尽頭に至ったことを指します。そして『序卦』が最後に『未済』に収まるのは、それが乾道の始終に依拠するからです。八宮本宮が依拠するのは坤道です。これが両者の異なる所です。しかしこの異なる所が、ちょうどその相同なる所です。それぞれ先天と後天に出るからです。合わせて見れば一つの事であり、分けて見て初めて両様となります。従来「体」と「用」を割裂して別に一套を立てられることはありません。ですから見たところ相異でも、実は依然として同一の道理です。
人之既生,神形同具,性情兩全,若分則死矣。然性情自別,神形亦殊,又不可混為一談。是以言易必廣徵其異,以歸於同。易之序卦為主,餘皆為參互之用;以餘合一,則異皆同,故易經但取其一,夫子亦仍之。而恐人之忘其餘也,則備述於傳,以為習易之助,俾讀者得會通之,而勿失其宗也。故傳者,習易所必先讀者也。
人はひとたび生まれれば、精神と形体がともに具わり、性と情の両面が備わっています。もしそれらを拆き分ければ、人は死にます。しかし「性」と「情」には本来分別があり、「神」と「形」もまた各々相同じくなく、混同して一つに論ずることもできません。ですから『易』を講ずるには必ず広く各家の差異を考察し、最後に同一の根本に帰結させなければなりません。易の卦序は『序卦』の定めた所を主とし、その余の各種の排法はみな取って参照し互いに証とします。その余の各種をすべてこの一種に収帰すれば、種種の差異もまたすべて一致に帰します。それゆえ『易経』はただその中の一種の排法を取り、孔子が経を訂する時も依然としてそれに沿いました。ただ後人がその余の排法を忘れることを恐れ、そこで『易伝』の中に一々記述して、易を学ぶ助けとし、読者が融會貫通して、易学の宗旨を失うに至らないようにしました。ですから『易伝』は、易を学ぶ者が必ず先に読まなければならないものです。
