Libo

宗聖講述——曾子

清 · 陆宗舆 · 第6巻 / 14

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

古時象數,悉本河圖、洛書,是為易象之源。河圖負於龍馬,洛書呈於文龜;皆天地自然之象數,而聖人則之以演易;蓋所由來者遠矣!在天成象,在地成文,天地之象數,即由天地自呈於人前;神道之感應,為人道所昭彰;固上世常見之事。以地天猶通,神人時契;人習於道,無不通神;則神亦降其靈,資人以智,發人以道,非可異也;故圖書出,而人文以創;

上古の象と数は皆《河図》《洛書》に本づく。これは《周易》卦象の源頭である。《河図》は龍馬が負って出で、《洛書》は文亀が呈した。いずれも天地自然の象数で、聖人はそれらに取法して《周易》を推演した。その由来はまことに久遠である。《繋辞上》に「天に在りて象を成し、地に在りて形を成す」と言う。天地の象と数は、もともと天地が自ら人の前に呈したものである。神道の感応は人道を通して彰明される。これは上古においてもともとよく見られた事である。当時は天地の気がなお相通じ得、神と人とは時々契合した。人は道に熟習して、神に通ぜざるはなく、そこで神もまたその霊明を降し、人に智慧を与え、人に大道を啓発した。これは何ら詫異すべきことではない。だから《河図》《洛書》が一たび出れば、人類の文明はここに創立した。

天地之道見,而人道以明;人之有文化教育,皆始於天地自然之象數文章;雖神而明之,存乎其人;而溯源探本,則有所自矣!故圖書者,易象之袓;欲明易象,必明圖書;如木本水源,不得其故;則枝流莫可究詰,是以夫子曰:「五十學易」,言由圖書以窮象數也。天五地十,五十為天地中心;

天地の道が顕現すれば、人道もこれに隨って昭明となる。人類に文化教育がある所以は、皆天地自然の象数と文理に始まる。《繋辞上》が「神にして明らかにするは、其の人に存り」と言うとはいえ、源頭を遡り根本を探究すれば、つねにその来る所がある。だから《河図》《洛書》は《周易》卦象の始祖である。《周易》の卦象を明白にしようとすれば、必ず先に河洛二図を明白にせねばならない。これはちょうど樹に根があり水に源があるようなもので、その由来を明白にしなければ、枝葉と支流もまた追究する所がない。この故に孔子は《論語・述而》において「五十以て易を学ばば」と言った。まさに河洛二図より入って象数を窮究せよと言ったのである。《繋辞上》が「天五地十」と言うのは、五と十とがまさに天地の中心である。

天之道由此見,人道由此立。故五十為圖書之中數,猶易之太極也;太極在數曰一,在位曰中;在性曰至善,在氣曰純陽;為無始之始,萬有之宗;老氏之天下之母,即指此也;而其大包無外,廣盡萬類;故屬天地之中,亦天地所自成也。

天道はこれによって顕れ、人道はこれによって立つ。だから五と十とは河洛二図の中数で、ちょうど《周易》における「太極」のごとし。太極は数に就いて言えば一と称し、位に就いて言えば中と称し、性に就いて言えば至善と称し、気に就いて言えば純陽と称する。それは開端なき開端であり、一切存在の宗主である。《老子》の言う「天下母」と為し得るものは、正にこれを指す。それは広大にして外囲なく、一切の品類に遍く及ぶ。だから天地の中に属し、まさに天地がそれによって自然に生成する所以でもある。

數雖自一至九,而其宗則五與十;五十分列,則乾坤定位;五十合用,則大衍成形;故曰五曰十,或五十,皆數之本體,其化則用也;乾用九,坤用六,九六為乾坤之用;乾數極於九九,坤數包於六六;人之數七,艮也;其數盡於七七,此大衍之用四十九,指人道也;

数は一から九までとはいえ、それらの宗主は五と十である。五と十とが分列すれば乾坤の方位が定まり、五と十とを合わせて用いれば「大衍の数」の形制が成る。だから五と言い、十と言い、あるいは五十と言うのは、皆数の本体であって、それらの変化をこそ用と呼ぶ。乾卦は「用九」、坤卦は「用六」。九と六とは乾坤の用数である。乾数は九九八十一を極限とし、坤数は六六三十六を範囲とする。人の数は七で、艮卦に配属する。人の数は七七四十九を尽頭とする。これが「大衍の数」が実際に用いる四十九で、指す所はまさに人道である。

天地之道,由人而明;天地之數,由人而用;故大衍之數,以七七為用;而天地之數在其中矣。合則成用,分則為位;交錯則變化生,乘除則盈虛見;而其本始,莫外乎圖書之數也。河圖、洛書之象數,為自然象數;易之象數,則本圖書而推其變化之象數也;易與圖書有同異;但天地象數,終不外圖書所有者;

天地の道は人に依って初めて闡明され、天地の数は人に依って初めて施用される。だから「大衍の数」は七七四十九を用とし、天地の数はその中に包含されている。合すれば功用を成就し、分かれれば位次となる。彼此交錯すれば変化が生じ、乗除を加えれば盈虧が顕れる。それらの本始は、河洛二図の数に出ざるものはない。《河図》《洛書》の象数は自然に生成した象数であり、《周易》の象数は河洛二図に本づいてその変化を推衍した象数である。《周易》と河洛二図とには同もあり異もあるが、天地の象数は、終に河洛二図のすでに具えた範囲を出ない。

至其變化,雖推之無盡,仍不能有違於圖書之例;則由天地生成之數定,不可越也;自上而下,則二五賦形,而萬物以生;自下而上,則萬有歸一;由形返神;故圖書之數始一終九,五十在中;而二氣五行備具。其化生萬物,則以用言;以二五互交,推演為數;所謂二五構精是也。

それらの変化に至っては、推衍して無窮に至ることができても、なお河洛二図の条則に背くことはできない。天地生成の数がすでに確定していて逾越できないからである。上より下に見れば、陰陽二気と五行とが形体を賦与し、万物はこれによって生ずる。下より上に見れば、万有は一に復帰し、有形より神に返る。だから河洛の数は一に起り九に終り、五と十とが中に居り、陰陽二気と五行はこれによって完備する。それらが万物を化生するに至っては、「用」の上から言わねばならない。二気と五行とが交互に作用して推演し数を成す。これがいわゆる「二五構精」である。

故其數陽五陰五,陽以順行,陰以逆行;相交以生,相剋以變;而孤陰獨陽,則不生不變;易以乾坤交用,坎離相制;以成生克,而形變化;由數之用言,則陽者,一三七九順行,始一終九,其位在西;陰者,四二八六逆行,始四終六,其位始於西北;陽以九終交陰六,故陽數用九;陰數用六,九六相終始循環以生成變化;而五十主於中央,為天地中極;萬物樞紐。

だからこれらの数のうち陽は五つ、陰は五つある。陽は順行し、陰は逆行する。彼此相交して生じ、彼此相克して変ずる。もし孤陰または独陽であれば、生ずることも変ずることもできない。《周易》は乾坤交互を用とし、坎離が彼此制約して、これによって生と克とを成し、変化を顕す。数の運用に就いて言えば、陽数は一・三・七・九と順行し、一に始まり九に終る。終点は西方である。陰数は四・二・八・六と逆行し、四に始まり六に終る。起点は西北である。陽は九に至って終り陰の六と相交する。だから陽数は九を用とし、陰数は六を用とする。九と六とは首尾相続いで循環往復し、生成変化を完成する。そして五と十とは中央を主り、天地の中樞であり、万物の樞紐でもある。

此圖書象數之大概,即為易所本者;乾之用九,坤之用六;即準河圖之陰陽數也。觀河圖所列之數,作為環形;則一三七九,由北而東而南而西;而四二八六,則自西北而西南而東南而東北;亦環而終始,唯五十在中焉。

以上が河洛二図象数の大概であり、まさに《周易》が依拠する所のものである。乾卦の「用九」、坤卦の「用六」は、《河図》の陰陽の数を取り准したものである。《河図》が排列する数を見よ。もしこれを環形に排せば、一・三・七・九は北より東へ、東より南へ、南より西へ至り、四・二・八・六は西北より西南へ、西南より東南へ、東南より東北へ至る。これも環めぐって首尾相接し、五と十のみが中央に居る。

洛書亦然,不過其用有異,由方圓不同也;由北之一,東之三,則以接西之七,南之九,皆陽數也;其陰數,則西北六,東北八,西南二,東南四;亦由東南之四,西南之二,接東北之八,西北之六,相環以終始,正如河圖;而五在中焉,其不同者,圖屬先天,書屬後天;一體一用,一位一成,一位一時。故洛書之數,以相交而行;而河圖則相貫也。洛書之位,以東南與西北易數,而河圖則順逆依序也。

《洛書》もまたこのようである。ただ功用が異なるのみで、一つは方を取り、一つは円を取るからである。北方の一、東方の三より、西方の七、南方の九に接ぐ。これらは皆陽数である。陰数に至っては、西北の六、東北の八、西南の二、東南の四であり、これも東南の四、西南の二より、東北の八、西北の六に接ぎ、環めぐって首尾相接して、正に《河図》と同じく、五が中央に居る。二者の異なる所は、《河図》は先天に属し、《洛書》は后天に属すること。一つは体を主とし、一つは用を主とする。一つは位を講じ、一つは成を講じる。一つは方位を重んじ、一つは時序を重んずる。だから《洛書》の数は交叉して運行し、《河図》の数は一線貫串する。《洛書》の位次は東南と西北において数を互換し、《河図》は順行逆行各々その本来の次序に依る。

孚佑帝君疏述

河圖之數,本於天地生成之象;蓋自無入有,首為太極;一氣既動,兩儀以分;兩氣相蕩,五行以具;故河圖象之,其數自一至十;分為陰陽,陽奇陰偶,各得其半;而生化之本,必基於二氣之和;五行之分,即由於陰陽之變;其生化也,以一陰一陽相合而成;

《河図》の数は、天地生成の象に本づく。天地は無より有に入り、最も先には「太極」がある。一気が一旦発動すれば「両儀」が分立し、両気が互いに激蕩すれば「五行」が完備する。だから《河図》はここに象を取った。その数は一から十まで、陰陽の両類に分かれ、陽は奇数、陰は偶数で、各々半分を占める。生化の根本は、必ず陰陽二気の調和の上に立てられねばならない。五行の分立は、まさに陰陽の変化に由来する。そしてそれらの生化は、皆一陰一陽が彼此相合することによって成就するのである。

乃於是數中,以陰合陽,以陽合陰;天生則地成之,地生則天成之;故一至五為生數,六至十為成數;生成二數,各居陰陽之半;如將籌比算之,自左設陽籌,右之陰籌;則左數為一三五七九,右數為二四六八十,左右各半也;更將其配合之,為左設生數,右設成數;則左為一二三四五,右為六七八九十,亦各半也;皆以相得而合,而後有物生焉。

そこでこの十個の数のうち、陰をもって陽に配し、陽をもって陰に配する。天の生ずる所は地がこれを成就し、地の生ずる所は天がこれを成就する。だから一から五を「生数」と呼び、六から十を「成数」と呼ぶ。生数と成数とは各々陰陽の半分を占める。算籌をもって比擬すれば、左に陽籌を排し、右に陰籌を排すれば、左は一・三・五・七・九、右は二・四・六・八・十で、左右各半である。更に別の配法に換えて、左に生数を排し右に成数を排せば、左は一・二・三・四・五、右は六・七・八・九・十で、これも各々半分を占める。皆彼此相配相合して、そうして初めて物が生ずるのである。

故自左之一陽,合右之六陰,而水生成;左之三陽,合右之八陰,而木生成;自右之二陰,合左之七陽,而火生成;自右之四陰,合左之九陽,而金生成;更餘陽之五,合陰之十,而土生成,此為五行生成之次序也。其生與成,恰為相當之位;故其數相得,如一居左首,六居右首;

だから左の陽に属する一に、右の陰に属する六を配すれば水が生成する。左の陽に属する三に、右の陰に属する八を配すれば木が生成する。右の陰に属する二に、左の陽に属する七を配すれば火が生成する。右の陰に属する四に、左の陽に属する九を配すれば金が生成する。残る陽に属する五に、陰に属する十を配すれば土が生成する。これが五行生成の次序である。その中で生と成とはちょうど彼此相當の位置に居るので、両数が正に相配る。たとえば一は左の第一位に排し、六も右の第一位に排す。

故恰相得,猶子與午對也;是為配偶之定例也。因其位相當,而數相得;始有合,而見其生成之功;此一六居北,二七居南;三八居東,四九居西;五十居中,以既合而後同居;亦如人之夫婦也。故其位之相配以次,數之相得以序;雖有一二之殊,卻非父子,而為兄弟,不得視為水生火也。

だからそれらはちょうど相配り、ちょうど地支の「子」と「午」とが両々相対するがごとく、これが配偶の定例である。まさに位置が相當し数目が相配るからこそ結合があり、生成の効験が見える。そこで一と六とは共に北方に居り、二と七とは共に南方に居り、三と八とは共に東方に居り、四と九とは共に西方に居り、五と十とは共に中央に居る。皆先に相配合して、そうして初めて一処に同居する。人間の「夫婦」のようなものである。だからそれらの位置の相配にはおのずから位次があり、数目の相合にはおのずから順序がある。相隣る二組はただ一・二の数しか違わなくとも、彼此は父子の関係ではなく兄弟の関係であって、これを水が火を生ずると見なしてはならない。

然五行之數,亦為二氣之量數;如一六為水生成數,亦即水之量數;以陽一陰六,為其分也。其所差五數者,繫以五之前為生數,即生氣;其氣能生不主成,而成氣必自五以下;猶之日與夜也,非至日落,不得為夜;以生氣未盡,不見成氣;故一必與六合,不能與二三四五合也;一六既合,其次則屬二與七;二為陰,七為陽;二屬生,七屬成;陽多陰少,乃為火之成分;亦如水之一六合也,以下皆同。

しかし五行の数は、同時に陰陽二気の分量の数でもある。たとえば一と六は水の生成の数であり、すなわち水の分量の数である。その中に陽は一分、陰は六分を占める。これがその成分配比である。両者は五を差とするが、五以前の数は「生数」に属し、すなわち生気だからである。生気はただ生じるのみで成を主らない。成気は必ず五以後より算えねばならない。これは昼と夜のようなもので、太陽が山に落ちなければ夜と数え得ない。生気がまだ尽きなければ成気は顕れない。だから一は必ず六と相合せねばならず、二・三・四・五と相合してはならない。一と六とがすでに相合すれば、その次は二と七とに輪が回る。二は陰に属し、七は陽に属す。二は生に属し、七は成に属す。陽多く陰少なし。これが火の成分である。これは水の一六相合と同一の理で、以下の各行も皆同じである。

蓋五行之數字,包括數義;一示陰陽之成分,一示生成之先後次序,一示五行之量數,一示二氣之分合總數,一示二五之化成原數也;其義甚廣,而無不相通;實天地間至數,不得移易者也;如天一地二,謂之為陽陰次序可,謂之為天地氣分量數亦可;論五行生成,則次序也;論五行成分,則量數也;論生成次序,兼示陰陽量數;而以紀二五之精氣所行,與天地之形氣所積,莫不一致。

五行のこれらの数字は、幾層もの含義を包蔵している。一層は陰陽の成分配比を表し、一層は生成の先後次序を表し、一層は五行の分量の数を表し、一層は陰陽二気分合の総数を表し、一層は二気五行が化生して成った原始の数を表す。その含義は十分に広汎であり、しかも彼此無不に相通ずる。実に天地間の最も根本的な数であって、更改移易を容れない。たとえば《繋辞上》の言う「天一地二」は、これを陽と陰の次序と言うもよし、天地の気の分量の数と言うもよし。五行の生成に就いて言えば、それは次序であり、五行の成分に就いて言えば、それは分量であり、生成の次序に就いて言えば、また兼ねて陰陽の分量を表明している。これをもって二気五行精気の運行および天地形気の積聚を記録すれば、悉く一致しないものがない。

故河圖總數五十五,即由一六、二七、三八、四九、五十、相加之積;其屬天者二十五,即陽數之積;為最清輕之神,故居上而名天;其屬地者三十,即陰數之積;為重濁之精氣,故居下而名地;其實一陰一陽耳。其所間所差者五,此為元氣之未化者,雖在天地之中,卻非五十五數之內;

だから《河図》の総数は五十五で、正に一と六、二と七、三と八、四と九、五と十の各組の相加の総和である。そのうち天に属する二十五は奇数の和で、最も清く最も軽き神明の気なので、上に居りて天と称する。地に属する三十は偶数の和で、重濁の精気なので、下に居りて地と称する。帰する所を言えば、すなわち一陰一陽にすぎない。両者の間に相差ある五は、未だ化生しない元気で、それは天地の中に居るが、五十五という総数の内に計入されない。

蓋可以名而無名,可以數而無數;故為中氣,即陰陽之間所差之數,然先天初見生化,無序可紀,無量可數;有差而無差,有積而無積;蓋以陽陰之異,祇在動靜之間;原同一氣,因其動靜,而後有始數可知;然未遽定也,必待五行次第生成;五十五數確定之後,始知其屬天者幾,屬地者幾;不可以後天之數。名先天之氣。

それは命名し得るが定まった名なく、計数し得るが定まった数なし。だから「中気」と称し、すなわち陰陽の間に相差ある数である。ただし先天が生じ始めて生化のある時には、次序なくて記録すべからず、分量なくて計算すべからず。差ありと言うも実は差なく、積ありと言うも実は積なし。陰と陽の分別は、ただ一動一静の間にのみあるからである。もともと同じ一気で、動静の別によって、そうして初めて最初の数が知り得る。しかしその時には未だ即座に確定せず、必ず五行が順に生成し、五十五の総数が確定した後に、初めて天に属する者が幾ら、地に属する者が幾らかを知る。だから后天の数をもって先天の気を称呼してはならない。

先天祇一團渾然之氣,分之為二;始為兩儀,然無量可數也;其為量者,乃五行生成之後,因而量之,始有其名;當初生之時,祇宜名曰:一陰一陽之化合;一、一也,六、亦一也;二、一也,七、亦一也;推之二十五與三十,初無異量,皆屬同氣;不過既分已久,生成已見;其氣已化,其行漸成;而後前之一中,變為有數可紀,有量可量;

先天はただ一団の渾然として未だ分かれぬ気である。これを二つに分けて初めて「両儀」と呼ぶが、その時にはまだ計算すべき分量がない。いわゆる分量とは、五行が生成した後にこれに拠って衡量し、初めて名目のあったものである。最初に生じた時には、ただこれを一陰一陽の化合と称すべきである。一は一つの整体であり、六も一つの整体である。二は一つの整体であり、七も一つの整体である。ここから二十五と三十とに推しても、当初は分量上の差別はなく、皆同じ種の気に属した。ただ分かれた日が久しく、生成の跡象がすでに顕現し、気がすでに変化し、運行も漸く形を成したので、先の渾然の一の中に、初めて記録すべき数、衡量すべき量があらわれたのである。

如一六既成水,始有水成分可言;蓋以陰陽之偏,遂生差異之數;如冷與熱,升降異也,輕與重,上下殊也;於是有量有數,可以別其為何物;而物則因之更生他物,氣亦因之更化異氣,此後天數有一定者也。要知先天後天之分,本無多異;異者一有定,一無定;一有名有形,有象有數,故有定;一無名無形,無象無數,故無定;

たとえば一と六とが合して水を成し、初めて水の成分を言い得る。陰陽に偏多偏少のあることによって、差異の数が生ずる。冷と熱とは上昇と下降の不同であり、軽と重とは上に居ると下に居るの分別である。この時に至って初めて分量あり数目あり、これに拠ってそれが一体何の物かを分別できる。そして物はまたこれによって別の物を生じ、気もまたこれによって別の気を化す。これが后天の数に一定の標準のある所以である。先天と后天の分別は、もともと多くの差異があるのではないと知るべし。差はただ一つは定があり一つは定なきのみである。名あり形あり、象あり数あるがゆえに定あり。名なく形なく、象なく数なきがゆえに定なし。

而介乎先後天之間,為初見生化之跡者;則可有可無之間,或定或否之類也;其象數,以上言之,先天也;以下言之,後天也;故其象數可量而不可量,可紀而不可紀;此以在上下之中,有無之界;如數之一,如位之中,如物之極是也。河圖之數亦如是,其數屬後天之始,其象屬初生之物;其氣仍純,其數仍簡,乃能為一切之母;故天地數止於十,而積之成五十五;其中之五十二數,即代示五十全數;而最中之五,即代示先天之中氣;

先天と后天の間に居り、生じ始めて生化の痕跡を顕した一段に至っては、可もあり可もなきの間に介し、あるいは定ありあるいは定なしの類に属する。その象数は、上に言えば先天に属し、下に言えば后天に属する。だからこの段の象数は衡量し得るが衡量する所なく、記録し得るが記録する所なし。これはそれが正に上と下の中間、有と無の交界に居るからであって、数における「一」、位における「中」、物における「極」のようなものである。《河図》の数もまたこのようである。その数は后天の開端に属し、その象は初生の事物に属する。気はなお純粋で、数はなお簡明なので、一切の事物の母体たるを得る。だから天地の数は十に至るまでで、累ね加えて五十五となる。その中の五と十の二数は、五十の全数を代表する。最も中に居る五は、先天の中気を代表する。

先天中氣,本無五名;而名之五者,即由後天之五也;後天之五,亦主眾物,居中央,與先天同;故以其名先天之中氣。且因天地各五數,其積之差亦五,而生成之中數亦為五,天地之中心亦為五;故五者先後天之中位,亦先後天之中極;五為至中數,由其序言之,命曰一;由其量言之,命曰五;由其位言之,命曰極;由其方言之,命曰中;皆此數也。

先天の中気には、もともと「五」の名称はない。それに名を五と為す所以は、后天の五を借用したのである。后天の五もまた衆物を主宰して中央に居り、先天の中気と同じなので、すなわちこれをもって先天の中気を称呼する。さらに天数と地数と各々五つあり、両者累積の差もまた五であり、五行生成の中数もまた五であり、天地の中心も同じく五である。だから五は先天と后天に共通の中位であり、先天と后天に共通の中極でもある。五は最も中に居る数である。次序に従って言えば一と呼び、分量に従って言えば五と呼び、位置に従って言えば極と呼び、方位に従って言えば中と呼ぶ。指す所は皆この同一の数である。

故五者賅先後天之氣數,而獨立於其中者;且通先天中氣,立後天中極;謂之先天可,謂之後天亦可;以在後天直名曰土,實則土應有三個五;今僅曰中五者,即暗指先天之中氣矣!先天中氣,本無可名,無定居,無定方,無定形,無定數;而以五名之,以土位之,則以後天為主也,然此中氣,先後天同,而舉土亦可以代示中氣;因在後天五行,皆依於土而後成形;若無土,即無水火木金之質可見;

だから五という数は先天と后天の気数を総括して、独立して二者の中に居る。それは上は先天の中気に通じ、下は后天の中極を立てる。先天に属すと言うもよく、后天に属すと言うもよい。后天においては、それは直に「土」と称されるが、実は土は本来三つの五を有すべきである。いまただ「中五」と言うのは、まさに先天の中気を暗に指すのである。先天の中気は本来命名すべきものなく、定まった居所もなく、定まった方位もなく、定まった形体もなく、定まった数目もない。しかし「五」をもってこれを称呼し、「土」をもってこれを安置するのは、后天を主とする言い方である。しかしこの中気は、先天と后天とはもともと同一なので、「土」を挙げてもまた中気を代表し得る。后天において五行は皆土に依托して初めて形を成し得るからである。もし土がなければ、水・火・木・金の形質は顕現する所がない。

是五行必賴土以成物,亦猶人物必賴中氣以為生;其義同也。如河圖中五,視為後天之數,則屬五行土之生數;若視為先天之氣,則屬中極之氣;故由河圖一變為洛書,僅留此中五不移;由河洛一變為八卦,則連此中五亦隱;所謂:「易無體」,即隱此中五;而將土之成數,暗附於四方,與洛書同;此皆示中極之地,為先後天中氣所在;而先後天所以變,而不離其宗;生化,而不失其本;皆賴有此中五也。

見よ、五行は必ず土に依って初めて万物を成就し得る。ちょうど人と物とが必ず中気に依って初めて生存し得るごとく、道理は同じである。たとえば《河図》中央の五は、これを后天の数と見れば、五行中「土」の生数に属し、これを先天の気と見れば、中極の気に属する。だから《河図》が一変して《洛書》となる時、ただこの中五のみが留まって動かない。河洛の図が再び変じて八卦となる時には、この中五すら隠れ去る。《繋辞上》の言う「神に方なく易に体なし」の「無体」は、この中五を隠蔵して、土の成数を暗く四方に分附することを指し、その做法は《洛書》と同じである。これらは皆顕示する。中極のある所は、すなわち先天と后天の中気のある所であり、先天后天が変化し得てその宗を離れず、生化し得てその本を失わない所以は、全くこの中五があることによる。

故天地之差止五,而大衍與天地之積之差亦五;此五彼五,與先天之中氣,後天土之生數,皆二而一也;能通而一之,始能明生化之源,造化之機;天人之道,道器之途;莫不豁然貫通焉!夫子講義,特提出此五,以為讀者告,其旨至深切矣!

だから天数と地数の差はちょうど五であり、「大衍の数」と天地総数とを較べても、その差もまたちょうど五である。ここの五、あそこの五、先天の中気、后天の土の生数を加えて、見れば両様のようだが、実は同一の事である。それらを貫通して一と為し得て初めて、生化の源頭、造化の枢機を明白にし得る。天と人の道理、道と器の途径もまた、豁然として貫通しないものがない。孔子の講義が特にこの五を提出して読者に告げたのは、用意が極めて深切である。

先天之氣,無形無名,因其動靜而後生成五行;故生之數五,成之數五,合為十;猶先天之一也。先天之一分為十,又分為陰陽各半;更由其生成次序,分為生成各半;故生之初為一屬陽,其次為二屬陰;其次為三為四為五,以奇偶而分屬陰陽;皆生之數也,然生者初見之氣,必賴成者而後成物;

先天の気は形なく名ないが、動あり静あることによって、そうして初めて五行を生成する。だから生数は五つ、成数は五つ、合わせて十である。この十はなおすなわち先天のあの「一」である。先天の一は分かれて十となり、また分かれて陰陽各半となる。さらに生成の次序に依り、生数・成数各半に分かれる。だから最初に生ずるは一で陽に属し、その次は二で陰に属し、さらにその次は三・四・五で、奇偶に依ってそれぞれ陰陽に帰属する。これらは皆生数である。しかし「生」とは、ただ初現の気であって、必ず「成」に依頼して、そうして初めて具体の物を成就し得る。

故初成者六,屬地陰;其次七,屬陽;其次八九十,亦以奇偶而分陰陽,其次序恰與生數相得;故一與六合,二與七合,三與八合,四與九合,五與十合;而其生或成,亦以陰陽各得其一為序;故一六為水,則陽生而陰成之;二七為火,則陰生而陽成;其下木金亦然。至五與十,又屬陽生陰成;則陽占生者多之,陰居成者眾;以此為後天生化之大則,即必先陽而後陰也。

だから最も先に成するは六で、地に属し陰に属す。その次は七で陽に属す。さらにその次は八・九・十で、また奇偶に依ってそれぞれ陰陽に帰属する。それらの次序はちょうど生数と一々相配る。そこで一と六と相合し、二と七と相合し、三と八と相合し、四と九と相合し、五と十と相合する。そして生であれ成であれ、また陰陽各々その一を占めることを次序とする。一と六とを水とするは、陽が生に来り陰が成に来る。二と七とを火とするは、陰が生に来り陽が成に来る。以下の木と金もまた皆このようである。五と十に至っては、また陽生陰成である。こう算えてみれば、陽に属する者は「生」の一方に占めて多く、陰に属する者は「成」の一方に占めて多い。これをもって后天生化の大法則と為す。すなわち必ず先に陽あって後に陰あることである。

此生成之次序共五,而陰陽不等,其意實為深微;果將此中數提出,而不與四方之數並列,則陰陽始平。土雖為五行之一,且居生成之終;卻能獨承先天之氣,而為後天之根;其兼備五行之數,合陰陽之德者,實有自也;故自五行生成之後,其數已定,其量始明;而其為二氣之差,亦恰此五;因其兼備先後天之氣,而包含陰陽之德;恆能齊所不齊,足所不足;而在後天之五,等於先天之元氣;

生成の次序は共に五組あり、しかも陰陽の数目は等しくない。その中の用意は実に精深微妙である。もし中央のこの一組の数を提出して四方の数と並列しなければ、陰陽は初めて持平を算える。土は五行の一にすぎず、しかも生成次序の最後に排するのに、独自に先天の気を承接して后天の根柢となり得る。それが五行の数を兼備し陰陽の徳に合し得る所以は、実に由来がある。だから五行生成の後、数目はすでに確定し、分量は初めて明白となる。そして陰陽二気相差の数もまたちょうどこの五である。それが先天后天の気を兼備し陰陽の徳性を包含するので、つねに不斉なる者を斉しく調え、不足なる者を足すことができる。后天のこの五は、先天の元気に等しい。

作陰陽之中樞,物所資生,人所資育,初無限量;故在河洛之象,獨以之置於中央,而不與他數並列。且陰逆陽順之序,他數皆易其次,獨中五之次不移;明其為後天之極,即先天之精也;以數量言,屬後天者,本有多寡之殊,輕重之別;在先天則無殊無別,以皆一氣也;

それは陰陽の中枢となり、万物はそれによって生じ、人類はそれによって養われる。もともと限量がない。だから《河図》《洛書》の図象において、ただそれのみが単独に中央に安置され、他の数と並列しない。しかも陰逆陽順の排序において、他の数は皆位次を改換するのに、ただ中央の五のみ位次が移らない。これはそれが后天の終極であり、すなわち先天の精微であることを表明する。数量に就いて論ずれば、后天に属するものはもともと多と少の差別、軽と重の分際がある。先天においては差別と言う所なく、ただ同一種の気のみだからである。

後天之異,而必求其同,則亦唯此五是賴;其所差者亦恰是此五數,果欲齊其不齊,足其未足,亦唯以此劑之;此由後天觀測者也,苟明乎五行生成,原由二氣之有多寡輕重;若其無也,則所生同一物矣!故所生之異,在乎數之不同;而其不同,即所差之五。

后天にすでに差異があって、なお差異の中に同一を求めようとすれば、ただこの五に依るほかない。そして彼此相差する数目もまたちょうどこの五である。もし不斉なる者を斉しく調え、不足なる者を足そうとすれば、またこれをもって調剤するほかない。これは后天の一面より観測して得た結論である。五行の生成はもともと陰陽二気に多少あり軽重あることに出ることを知るべし。もしこの多寡軽重がなければ、生じ出す所は同一の物ばかりであろう。だから生ずる物が各々同じからざる所以は、数目が異なるにある。そしてこの異なるは、まさに相差するあの五である。

如以此中五調劑之,固可齊一;此係後天之例。以一陰一陽,而後為道。故河洛之後,變為大衍;其數始齊,若在河圖,猶陽少陰多;變為洛書,則陰少陽多;皆不齊。待易大衍,截長補短,而成各半之數;然大衍與河洛所差,亦皆此五數;以其恰合於中數,為陰陽之樞;故少則可加之。多則可減之;以歸於齊一。若其它數,則不得加減之也;

もしこの中五をもって調剤すれば、もともと斉一に調え得る。これは后天の通例に属する。必ず一陰一陽相配して、そうして初めて「道」となる。だから河洛の後にまた変じて「大衍の数」となり、数目はこれにて初めて斉整する。《河図》においては、なお陽少なく陰多し。《洛書》に変じては、また陰少なく陽多となる。両者とも斉わない。待つべきは《周易》の大衍の数が長を截り短を補い、初めて陰陽各半の数となる。しかし大衍の数と河洛の数とが相差る所も、皆この五である。それがちょうど中数に合し、陰陽の樞紐なので、少なければこれを加え、多ければこれを減じて、斉一に帰せしめる。もし他の数に換えれば、このように随意に加減することはできない。

河圖之數,原象也;洛書之數,變象也;大衍之數,例象也;言為後天生化之例,包含天地之數,而得陰陽之平者也;故日:大衍。衍者,演也;與古道字術近,即一陰一陽之謂道,由此而演其用,以明生化之例耳;故齊者,人齊之;演者,人演之;以便於推算耳。如歷之制閏,與歲月相齊也。

《河図》の数は原始の象、《洛書》の数は変動の象、「大衍」の数は条則の象である。いわゆる条則とは、それが后天生化の通例として、天地の数を包含し、また陰陽の均平を求め得たことを言うので、「大衍」と称する。「衍」とはすなわち推演で、古代の「道」の字の用法に近く、すなわち《繋辞上》の「一陰一陽之を道と謂う」の意である。これによってその功用を推演し、生化の条則を闡明するに用いるのみである。だからいわゆる「斉」は人がこれを調え斉しくしたものであり、いわゆる「演」は人がこれを推演したもので、推算に便にせんがためであり、ちょうど暦法に閏月を設けて節気と年月とを相斉しくするがごとし。

且大衍之數雖五十,而用則四十九;此中妙義,亦多未知;蓋本於象也。五十之象,雖陰陽各半;而其中一數,為二者共有;亦中數也。故用數止四十九,以陰陽分別數之,則各得二十五;若合數之,則各止二十四又半;故其用祇宜於合,不宜於分;苟分用時,則當更減去一數;即中數之一。而各二十四,於是陰陽之數始平均;

さらに、「大衍の数」は五十とはいえ、実際に使用するのは四十九のみである。この中間の妙義は多くの人が明白にしないが、実はそれは図象に本づく。五十という象は、陰陽各半を占めるとはいえ、その中に一つの数は陰陽が共有するもの、すなわち中数である。だから実用の数は四十九に至るのみである。もし陰陽を分かちて数えれば、各々二十五を得る。もし合わせて数えれば、各々二十四と半のみを得る。だからその用法は合に宜しく分に宜しからず。もし分かちて用いようとすれば、更に一つの数を減ずべきである。すなわちあの中に居る一で、そうすれば陰陽各々二十四を得て、数目は初めて平均する。

若一歲之月十二,氣侯二十四;以合日之行度,而月之三旬,有晦朔望上下弦,亦見月光者,止二十四日;上半月十二日,下半月十二日;為得日照時,餘日則無光;是陽之合於陰,亦止二十四,與陽之度數同;雖河圖象陰陽之數,共五十五;而至大衍之用,僅四十九;及其分用時,則止四十八;此由先天易為後天數之差也。

たとえば一年に十二の月、二十四の節気があり、太陽運行の度数に配合する。そして一月三旬の中に、晦・朔・望と上下弦とがあり、真に月光を見得るのも二十四日のみである。上半月十二日、下半月十二日、これらの日は月が日照を得、その余の日は光なし。見よ、陰と陽と相合するもまた二十四のみで、陽の度数と同じである。《河図》の象る陰陽の数は共に五十五だが、大衍の実際に用いる所に至っては四十九のみを残し、さらに分かちて用いる時を待てば、更に四十八のみを残す。これはまさに先天より后天に変じて生じた数目の差である。

其差者,因欲齊其不齊,足其未足;故恆截長補短,以劑於平;此後天之數,以平為歸;而陰必後陽,天必包地;日必先月,女必順男;此皆後天一陰一陽之道,由河圖變易而來者。河洛之數,則異乎是;天地之數不齊,陰陽之象各異;為其初化,各物未具;數量猶混,不如後天之朗然若定;規然不移者也。

これらの差数のある所以は、不斉なる者を斉しく調え、不足なる者を足そうとするがゆえに、つねに長を截り短を補って平衡に趨らせる。后天の数は「平」を帰宿とするので、陰は必ず陽の後に居り、天は必ず地を包み、日は必ず月に先んじ、女は必ず男に従う。これらは皆后天の一陰一陽の道理で、《河図》より変易して来たものである。河洛本身の数はこれと異なる。天地の数は斉整せず、陰陽の象は各々相同じない。当時は万物が生じ始めたばかりで、各様の事物が未だ斉備せず、数と量とはなお渾然として未分の状態に居り、后天のように明朗確定・規整不移ではないからである。

故在河圖之時,一六同級,二七等觀;三八如鄰,四九若親;五十為偶,皆自相得;不多不少,而以成其五行也;若既生成五行,次序已明,數量以定;始得其所差,而辨其數;再因其中數,而求其齊;於後天陰陽之道始明,生化之機乃定;故自河圖一變為洛書,再變為大衍;其數同而不同,與自太極兩儀四象八卦之變易,其例正同;八卦定而後後天之象見,大衍用而後後天之數明;

だから《河図》の段階においては、一と六とは同じく一級に列し、二と七とは等しく看待し、三と八とは隣居のごとく、四と九とは親眷のごとく、五と十とは配偶を結んで、各々皆彼此相配して多からず少なからず、これによって五行を成就する。五行すでに生成し、次序すでに分明、数量すでに確定して、これにて初めてそれらの差数を見、それらの数目を分別し得る。さらに中間のあの数に依って斉一を求める。この時に至って、后天陰陽の道理は初めて明白となり、生化の枢機は初めて確定する。だから《河図》より一変して《洛書》となり、再び変じて「大衍の数」となる。その数は相同じるようで実は相同じない。これは「太極」から「両儀」へ、「四象」へ、「八卦」へ至る演変と、条則がちょうど一致する。八卦確定の後に初めて后天の象が顕れ、大衍の数施用の後に初めて后天の数が明白となる。

本末始終,各有所紀;通而一之,推而化之;則數不盡數,象不盡象;是在精研其自來,而貫澈其有無耳。至於五行之生成,與夫先天元氣之初化;何以如是生成?及天地之數,何以分生與成。是皆造化之階,為自無入有經歷之級;其理微,其義深;初非一二言所可盡,茲就大略言之:夫先天之氣,光明純潔,密緻剛健;凝然不動,晶然透澈;本無可名,無可形;

本と末、始と終とは、各々その記載がある。それらを貫通して一と為し、推衍し開きて変化を加えれば、数は現有の数に止まらず、象も現有の象に止まらない。要は精心にそれらの来歴を研究し、徹底してそれらの有と無とを貫通するにある。五行が如何にして生成するか、先天元気が最初如何にして化生するか、なぜ偏にこのような生成方式なのか、および天地の数がなぜ生数と成数とに分かれたのか。これらは皆造化の階梯であって、無より有に入るに経歴する層級である。道理は精微にして含義は深遠なので、もともと三言両語の言い尽くし得る所ではない。いま大略を述べよう。先天の気は、光明純潔、緊密剛健、凝然として動かず、晶瑩として透徹し、もともと命名すべきなく形容すべきもない。

乃因含有熱性,溫氣氤氳,光流渾圓;以成其動,動則氣搖;先熱乃布,布則氣分;於是渾圓者漸漸變化,光明者漸漸暗然;此由動而生變,即由一而成兩之機也。故無極而太極,直一氣之轉移;動則有靜,陰陽始分;陰為陽化,陽為陰復;二者相施,兩儀乃判;其始判也,一陰一陽,猶甚純簡;以旋迴之故,交合乃成;故陰陽漸離,其氣時接;此則四象之漸成也。

ただその中に熱性を含み、温気は氤氳として弥漫し、光流は渾然として円転するので、動を形成した。一動すれば気は揺蕩する。熱がまず散布し、一散布すれば気は分化する。そこでもとより渾円なる者は漸く変化を起し、もとより光明なる者は漸く幽暗に転ずる。これがすなわち動によって変を生じ、すなわち一より二に化する契機である。だから「無極」から「太極」へは、ただ同一の気の転移にすぎない。動あれば静あり、陰と陽とはこれにて分立する。陰は陽の化する所、陽は陰の復する所。両者交互に施与して、「両儀」はそこに判分する。それらが判分し始めた時、一陰一陽はなお十分に純粋簡単であった。旋転回環することによって、交合が初めて形成を得て、そこで陰陽は漸く分離し、それらの気はまた時時相接する。これがすなわち「四象」が逐漸形成される過程である。

其太陽太陰,全然兩儀之象,是為水火之生;太者,言其大也;然非純陰陽也,以各得其多者為名;故水為天生地成,火為地生天成;斯為兩儀之後,四象之初;太陰太陽之所象也。繼之者,則少陽少陰,亦出於兩儀;而其所得者少,所成者弱,是為木與金;此木亦天生地成,金亦地生天成;四者既具,生成之氣未盡,於是土乃成焉。故土者、生成之末,而備兩儀之精;全後天之象;接先天之氣;此其生成之序也。然亦非如此簡單者,蓋氣蕩無停,精流不見;生機既啟,成數斯應;

その中の「太陽」と「太陰」とは、完全に両儀の象を承襲し、生成する所は水と火である。「太」と称するのは、それが得る分量の大きいを言う。ただそれらは純陰または純陽ではなく、ただ占める所の較多き一方に按じて命名するのみである。だから水は天生地成であり、火は地生天成である。これは両儀の後、四象の初であって、すなわち太陰太陽が象徴する所のものである。続いて出現するは「少陽」と「少陰」で、同じく両儀に出づるが、ただ得る分量が少なく成る力量が弱い。それが木と金である。木もまた天生地成、金もまた地生天成である。この四様すでに具備しても、生成の気はまだ尽きないので、土はこれに隨って生成する。だから土は生成の最後に排せられるが、両儀の精華を兼備し、后天の象を完成し、先天の気を承接する。これがそれらの生成の次序である。ただ実際の情形はかくのごとく簡単ではない。気は激蕩して停まらず、精は流転して見えない。生機が一旦開けば、成数はすぐさまこれに応和する。

天生於上,地乃應之;地生於下,天乃應之。以兩儀初分,力足精強,行走至速,各含生機,均有成德,此生彼成。如電與雷,不差毫黍。其分之為氣者十,生成各半,以與陰陽奇偶,相見而合。故水之生於陽也,而陰成之;火之生於陰也,而陽成之,其所應至捷也。

天の気がまず上にて発動すれば、地はすぐさま下にてこれに応ずる。地の気がまず下にて発動すれば、天はすぐさま上にてこれに応ずる。これは両儀が分判したばかりの時、陰陽二気の力量が充足し精純強盛で、運行極めて速く、各々皆生発の機能を含み、各々皆成就の徳性を具えていたからで、そこでこちらが生ぜばあちらが即座に成る。速きこと電と雷とが相隨うがごとく、分毫の差なし。二気の分化した気は共に十個の数で、その中の「生数」と「成数」とが各々半分を占め、ちょうど陰陽の奇数・偶数と両々相遇して結合する。だから水は陽気の生ずる所だが、陰気に依ってこれを成就せねばならない。火は陰気の生ずる所だが、陽気に依ってこれを成就せねばならない。一辺が生ぜば、他の一辺の感応は即座に至る。

然陽者,所生必陰;陰者,所生必陽。陽者下,而陰者上;陰者熱,而陽者涼;皆以動而變,得其反也。故天動生水而流於地,地乃成之;地動生火而炎於天,天乃成之。皆氣變自然而合,初無為之序,而自成序也。

しかし陽の生じ出す所は必ず陰に属し、陰の生じ出す所は必ず陽に属す。陽はもと上に在るが、それが生ずる水は下に流れる。陰はもと下に在るが、それが成す火は上に炎す。陰はもと寒を主るが、火は熱し。陽はもと熱を主るが、水は涼し。これらは皆気が一旦発動すれば転変し、転変の結果がちょうど自己の反面に走向するからである。だから天が発動して水を生じ、水は地に流注して、地がこれを成就する。地が発動して火を生じ、火は天に上炎して、天がこれを成就する。これらは皆気が自然に変化して後に相合したもので、初めに誰かが一つの次序を安排したのではないが、次序はおのずから形成された。

水火既生,其氣已弱,故木為陽之微,金為陰之微,氣自至焉。生成既眾,強弱皆見;精復其始,德返於初。於是土乃生成,而得氣獨全,以其值氣之復也。土生於天,成於地,與先天初生同,而土質厚德凝,為後天萬有之本。其氣全,其數中,此五行所獨有者,亦萬物所同母。

水と火とがすでに生成すれば、二気の鋒鋭はすでに耗弱したので、続いて生ずる木はただ陽気の微弱の余勢、金はただ陰気の微弱の余勢である。これは気勢が自然に衰减した結果である。生成の行数すでに多く、強弱の差別皆顕現するに及んで、精気は最初の状態に回復し、徳性も本原に返帰する。土はまさにこの時に生成し、独り完整の気を得た。それがちょうど気が本原に回復する時刻に当たったからである。土は天の生ずる所、地の成す所で、この点は先天最初の生成方式と同じである。ただ土の形質は厚重で徳性は凝聚し、后天一切の存在の根本となる。その気は完備し、その数は中に居る。これは五行の中で土のみが有するもので、それはまた万物の共同の母である。

故其用周於天地,利於四行;雖在生成之終,卻居後天之首,乃位中央而數中極。此其生化之妙,有非人之所能知;而後天生化無窮,莫不本於此土者,其得氣固不同也。先天生化之序,至土而止;而後生化之功,自土而成。是為先後始終之樞,恰當道器上下之紐,其為此世界之所貴者,自過於一切矣!

だから土の功用は天地に遍く及び、また水・火・木・金の四行を利益する。それは生成次序の末尾に排せられるが、后天の首位に居り、方位は中央に処し、数目は中極に居る。この生化の奥妙は、もともと人の全く測知し得る所ではない。しかし后天の生化は無窮無尽で、一つとして土を根本とせざるはない。まさにそれが禀受する気はもともとその余の四行と同じからざるがゆえである。先天生化の次第は土に至って止み、后天生化の功用は土より始まって完成する。土はこれによって先天と后天とを貫通し、開端と終結とを連接する樞紐となり、ちょうど形而上の「道」と形而下の「器」との間の接榫の処に居る。それがこの世の上において貴きは、自然一切を超過する。

故先後天之生化次序,均不同也,而皆以土為貫通之機。舍土則不獨後天之生化不成,既先天之生成,亦無由竟其用。故言後天與先天同異,必自土溯其根源;此天地萬物,莫不依土而後生存變化也。

だから先天と后天の生化次序は彼此同じからざるといえども、皆土をもって両端を貫通する関鍵とする。土を離れれば、ただに后天の生化が完成を得ないばかりでなく、先天の生成すらその功用を終始貫徹するすべがない。それゆえ凡そ后天と先天の同異を討論せんとすれば、必ず土の上より根源を追溯せねばならない。天地万物、一つとして土に依托して初めて生存し得、変化し得ざるものはない。

五行之氣,水本太陰,而根於陽;火本太陽,而根於陰;以所生之屬與所成異也。故水火木金,皆陰體陽用,陽體陰用;唯土則兼陰陽體用,以得氣全也。氣始動為陽生陰,既復則仍返於陽;氣之初行,為陰隨陽,既定則仍抱於陰。

五行の気に就いて言えば、水はもと「太陰」に属するが、根は陽の裏に扎している。火はもと「太陽」に属するが、根は陰の裏に扎している。これはそれを生ずる一方とそれを成す一方とが異なる気に分属するからである。だから水・火・木・金の四行は、皆陰をもって体とし陽をもって用とするか、あるいは陽をもって体とし陰をもって用とし、体と用とが両辺に分処する。ただ土のみが陰陽両方面の体と用とを兼有する。それが得る所は完整の気だからである。気が生じ始めて発動する時は、陽より陰を生じ、回復する時に及んではなお陽に返帰する。気が生じ始めて運行する時は、陰が陽に隨いて行くが、安定するに及んではなお陰に包抱される。

土之生成數,雖有陰陽,而五則備二氣;十又五之倍,亦陽之所用。故其體用兼二氣,以為後天之母,四氣之長。五行雖分,莫不依土而生變化;是土者,直二氣之精,五行之本,萬物之源也。按之易卦,以艮為土,故曰:「成始成終」。以居先天生成之終,為後天生化之始;在後天卦位,艮與坤對,在連山易序,艮為首位,即洛書之象。二八易位,亦以艮坤相易,以明後天之土代地之用,為生化之本也。

土の生数と成数もまた陰陽に分属する。生数五は陽に属し、成数十は陰に属する。ただ「五」の一個の数は、それ自体すでに陰陽二気を兼備している。そして「十」はまた五の倍数で、同じく陽の用に帰する。だから土の体と用とは皆二気を兼摂し、これによって后天万物の母、四気の長たるを得る。五行は五種に分かれるが、一種として土に依頼して初めて変化し得ざるものはない。見よ、土はまさに陰陽二気の精華、五行の根本、万物の本源である。《易経》の卦をもって対照すれば、「艮」卦をもって土に配属するので、《説卦伝》は艮を「成始成終」の卦と称する。これは艮が先天生成次序の終点に居り、また后天生化の起点であるからである。后天卦位において、艮は坤と両々相対する。そして《連山易》の次序において、艮は第一卦に列せられる。これは正に《洛書》の象に合する。《洛書》は《河図》に比して、二と八の二数が位置を互換したが、これもまた艮と坤とが互換したのであって、后天の土が地の職能に取代わり、一切生化の根本であることを表明する。

夫艮卦屬土,而異於坤之地也,乃能代坤之用,履地之位;其因氣之異,德之充也。在先天艮為山象,居西北隅;在後天則移東北,與坤對位,而其原位為乾所居。明後天之土,即先天之坤,足與天同功,與地同德,此連山易所以推為首也。後天之艮,當坎震之交,明生化之源;其成萬物終始者,即以其能代地而配天也。故艮在後天,非僅山之象,實土之總名也。

艮卦は土に属するが、坤卦の代表する地と同じからず。まさに同じからざるがゆえに、坤の職能を代行し、地の方位を占むるを得る。これはそれが禀する気に別あり、徳性また充盈するがゆえである。先天卦位において、艮は山の形象を取り、西北の一角に居る。后天卦位に至って、艮は東北に移り、坤と遥かに相対し、その元の西北の位は乾卦が占める。これはすなわち后天の土は実は先天の坤であり、天とその功を同じくし、地とその徳を同じくするに足ることを説明する。《連山易》が艮を推して首卦と為す所以は、道理がまさにここにある。后天の艮位は坎と震との交接の処に居り、生化の源頭を標明する。それが万物の終と始とを成就し得る所以は、それがよく地に代わり、よく天に配合するをもってである。だから艮は后天において、ただに山の象のみならず、実は土の総名である。

既以山言,亦對海洋而論,以出海面也。故其代地之德,多見於陸,而其象繫大陸也。因地之用,有陸水之別;而土之德,則見於陸;即水亦陸所載所防,而後成其用也。故五行之水,受制於土;而八卦之坎,與艮連居;其義至深切矣。

すでに「山」をもって艮を言う以上、山もまた海洋に対して言うものである。山は海面の上より突出するからである。だから艮が地に代わって顕示する徳性は、多く陸地に體現し、その象は実は大陸である。地の功用にはもともと陸と水の分別があり、土の徳性はただ陸地において顕現する。たとえ水であっても、陸地に依って承載し、堤防し、そうして初めてその功用を成就する。だから五行において、水は土の制約を受ける。八卦において、坎の方位は艮と緊隣する。この中の義理は極めて深切である。

土之在後天,實為一切主,無論何物,莫不因地以為生化;即空中之氣,亦附於地面而後殖;其它有形之物無論矣!凡生在天地間者,無能離土以存以變;不獨人物之生也,即植物等或無生之物,亦必賴土以存以變。此可以見土之德,為造化之本源所寄,亦即氣數之根株所在;故土之數五,實為萬數之基。

土は后天において、実に一切の事物の主宰である。何の物であれ、土地に凭借して生長変化せざるはない。空中の気すら、地面に依附して初めて滋長繁衍するのだから、他の有形の物は言うまでもない。凡そ天地の間に生する者は、皆土を離れて存在し得ず、変化し得ない。ただに人と動物が然るのみならず、植物の類すら、乃至生命なき者も、必ず土に依頼して初めて存在し得、変化し得る。これによって見れば、土の徳性はまさに造化本源の寄托の処であり、すなわち気と数の根柢の在る所である。だから土の数は「五」で、この五は実に一切の数目の基礎である。

而足通天地之用,為人物之權衡;是五者,等於一,言其用廣,而能通一切數也。在河圖證之,一六居北,二七居南,三八在東,四九在西,五十處中;四方之數,均仰中央,而其差皆此五;已可見此中數所寓,即中氣所存。

五の数は天地の功用を貫通するに足り、人と物を衡量する準則となる。「五は一に等し」と言うのは、その用途の広く一切の数目を貫通し得るに就いて言う。《河図》をもって印証せよ。一と六とは北方に居り、二と七とは南方に居り、三と八とは東方に在り、四と九とは西方に在り、五と十とは中央に処す。四方の数は皆中央に仰頼し、しかも每一方の両数相差は皆ちょうど五である。これによってすでに見える。この中に居る数の寄寓する所は、まさに「中気」の在る所である。

又以陰陽順逆言之,一三七九,由北而西;四二八六,由西反北;兩者循環,以相終始;五獨居中,以運其樞,不隨之移易。十以二五,亦同在中,皆氣之妙用,數之妙合也。故陰數皆逆,而十不動;由先天之本序言,則二四六八應為次,今以行之逆,故變四為首,六為終。

さらに陰陽の順行と逆行とより見れば、陽数の一・三・七・九は北方より順次に西方に転じ、陰数の四・二・八・六は西方より逆行して北方に回る。両者は循環往復して互いに終始する。ただ五のみが安んじて中央に居り、全体の樞紐を運転して、四方の数に隨いて遷移変易しない。十は二つの五なので、同じく中央に居る。これらは皆気の妙用、数の妙合である。それゆえ陰数は一律に逆行するが、「十」は始終動かない。先天本来の次序に按ずれば、陰数は二・四・六・八と依次排列すべきところ、いまそれが逆行するがゆえに、改めて四を起頭とし六を收尾とする。

六者為陰數始終之數,在成數為始,在用數為終。陽始一終九,陰始四終六;展轉相合,皆為五;亦即中數所寄,中氣所存也。一四同行,至九六相交;莫非五數,以明中氣之無不通也。五行之數,固如上述;先天後天各殊,即其方位,亦有此異。當五行之初見於數也,雖有南北東西之分,實則所指屬虛空之象。如以中國論,自當北為水,南為火,木居東,金居西,而土在中央;若合天下言之,則有不然。

六は陰数の中で首尾の意義を兼具した数である。「成数」においては最も先に排し、「用数」においては最も末に排する。陽数は一より起り九に止り、陰数は四より起り六に止まる。両辺を輾転相配すれば、得る所は皆「五」を離れない。一と四とを相加すれば正に五であり、九と六とを相加すれば十五で、なお五の倍数である。これもまた中数の寄托し中気の存留する所である。陽数の一と陰数の四とが並行して起り、直に行て九と六と相交するに至って止む。その間一処として五数に合せざるなく、中気が処なく貫通せざるなきを見るに足る。五行の数目はもともと上に言うがごとく、先天と后天とは各々相同じからず、連帯してそれらの方位もまたこのごとき差異がある。五行が最初数の上に顕現した時、南北東西に分かれたとはいえ、実は指す所は虚空の中の気象であって、地面上の実指ではない。もし中国を範囲として言えば、自然に北方は水に属し、南方は火に属し、木は東方に在り、金は西方に在り、土は中央に在る。しかし天下全体を合わせて言えば、必ずしも然らず。

蓋赤道南,則反其寒熱方位矣!此理原易明,蓋所云方位者,為其氣之所宜也。今以土為本,土之所在,當以大陸屬之。則凡赤道以北,大陸為多,而南則少;故當以北溫帶為中央,而順是以次南北焉。若果赤道南之大陸,則正與北反,即宜以南之北,當北之南,而反其五行之位。

赤道以南においては、寒と熱とに対応する方位はちょうど顛倒する。この道理はもともと明白にし難くない。いわゆる方位とは、気の宜しき所を言うのであって、地図上の固定の方向ではない。いますでに土を本とする以上、土の在る所は大陸に帰属すべきである。赤道以北は大陸多く、赤道以南は大陸少ないので、北温帯をもって中央と為し、さらにこれに順って次第に南と北とを分かつべきである。もし討論する所が赤道以南の大陸ならば、情形は正に北半球と相反するので、南半球の北方をもって北半球の南方と為し、五行の方位を悉く倒転すべきである。

蓋河圖五行,本無定方,僅有定位。上火下水,左木右金;若在北溫帶,則下為北,上為南;若移南溫帶,則下為南,上為北。此固就所居地而定,不過水與火對,金與木配,乃不易耳。更推言之,水雖居北,而中國北方皆陸;火雖在南,而中國南方多水;東方亦為水居,西方則多高地;是即按之吾國,亦難以物質求之。

《河図》の列する五行にはもともと固定の方向はなく、ただ固定の相対位置があるのみである。火は上に、水は下に、木は左に、金は右に在る。もし北温帯に身を処すれば、図の下方はすなわち北、上方はすなわち南である。もし南温帯に移れば、図の下方は南となり、上方は北となる。方向はもとより居る所の地に隨って定まる。ただ「水と火と相対し、金と木と相配す」という一層の関係は変わらない。さらに下に推せば、水は北に居ると言うが、中国の北方は全く陸地である。火は南に在ると言うが、中国の南方はかえって水が多い。東方もまさに大海の在る所であり、西方はかえって高原山地が多い。見よ、たとえ我が国の地形のみに按じて核対しても、具体の物質をもって五行の方位に坐実することは難い。

況水雖屬陰,而根於陽;火雖屬陽,而根於陰;是寒熱亦未盡水火之體用。木在山多,金出水內;東海無森林之地,西陲少金石之丱;則東西以配木金,亦非一定之理。故五方雲者,乃就氣而言;就先天之氣言,與一歲所合同;初非一一按之實物也。

ましてや水は陰に属しながら根は陽に在り、火は陽に属しながら根は陰に在る。見れば、寒・熱の二字のみを用いても水火の体と用とを言い尽くすに足らない。樹木は多く山上に長ち、金属は多く水中に産す。東海一帯に森林の地はなく、西部辺陲にも金石の鉱苗は少ない。然らば東方をもって木に配し、西方をもって金に配するのも、同じく一成不変の道理ではない。だからいわゆる「五方」は、気に就いて言うのである。しかも先天の気に就いて言うのである。それは一年の寒暑の推移と合するが、初めから一々実物をもって当て嵌めることを意図したのではない。

不然,春溫秋涼,冬寒夏熱,皆氣之變耳;物或隨之或否,不得以物執其說也。然若謂此言無定,而不信五行之說,則不可,蓋五行正同於二氣,無地無時不見之,其分別亦至明晰。如水之流下,火之炎上,與春夏之溫熱,秋冬之涼寒,皆一定不移者。雖至何地何時,仍可驗者;故其分別,得氣之殊,成象之異;實有至理,毫無可疑,不過學者宜會通其意,勿泥其辭。

もしこのように見なければ、春が温に転じ、秋が涼に転じ、冬が厳寒、夏が酷暑なのも、すべて気の変化にすぎず、具体の物はあるいはこれに隨いて変じ、あるいはこれに隨わず、個別の物をもってこの説に死に合わせることはできない。しかし、もし方位が固定しないがゆえに、五行の説すら信じようとしなければ、それもまた誤りである。五行は正に陰陽二気と同じく、処ところに在り時ところに在り、しかも分別は極めて明白である。たとえば水は必ず下に流れ、火は必ず上に炎し、春夏は必ず温熱、秋冬は必ず涼寒。これらは皆絲毫も移らない。どの地に到りどの時においても、なお検証できる。だから五行に分別のある所以は、禀する気が異なり成る象が各々異なるにある。ここに実に至理があって、毫も疑うべきなし。ただ学者はその意旨を融会すべく、その字面に拘泥すべからず。

貫徹其精,勿執其表;則天地之大,日月之明;山川之遙,草木之庶;無不可候其氣數,而得其類別也。故言五行,重在其生化之功,而探研生克之理;以求其象數,通乎天道耳。近世科學漸已近於是理之討論,果假以時日,讀吾中土之書,精以求精,自有會歸一途之日;

その精義を貫通すべく、その表相に執着すべからず。このようであれば、天地の広大、日月の光明、山川の遥遠、草木の繁多も、測候し得ざるはなく、その気と数とを測候し、これによってその類別を判定できる。だから五行を講ずるにあたり、重点はその生化の功用を体会し、進んで相生相克の道理を探研し、これを借りてその象と数とを求め、上は天道に通ずるにある。近代科学の討論はすでに漸くこの道理に接近している。もし更に時日を仮して、研究者に我が中土の典籍を読ましめ、精をもって精を求めれば、自然に殊途同帰の一日があろう。

蓋五行之說,乃古人探本生化之源;格物致知,窮理盡性;通天地鬼神之道,立人生修養之方;順吉凶禍福之常,為日用起居之則;固與科學之義同,初非惝況無據之談,迷離莫詰之論。故中國一切文物制度,無不准是而成;人倫綱紀,世道規範;以及醫卜之技,言行之箴;政教所成,禮法所制;初無不由是而出,所謂規法是也。

五行の説は、もともと古人が本を追い源を遡り、生化の根由を探究した学問である。それは《大学》の言うがごとき「格物致知」であり、《易経・説卦伝》の言うがごとき「窮理尽性」であって、天地鬼神の道理を貫通し、人生修養の方法を確立し、吉凶禍福の常規に順応し、日常起居の準則を制定する。これは科学の宗旨ともともと同じであって、決して恍惚として拠り所なき空談、迷離として究め難き玄論ではない。だから中国の一切の文物制度は、これに依拠して建立されざるはない。人倫綱紀、世道規範、乃至医術卜術の技、立言立行の箴、政教の成就、礼法の制定、初めにこれに由らざるはなかった。これがいわゆる「規法」である。

如天文之軌度,地理之紀程;各有規矩方圓,以應乎二五氣數;故欲深通古時文化,必先自易探索;而易之仿始河洛圖書,以準天地之道,明鬼神之德;其精義入神,初非言文所盡;今所論者,尚其大略耳;望世之讀者,更由是以深求之;庶乎有通於古,有造於今;而不獨中國文化之得傳,無負聖人之教矣!

たとえば天文上の軌道度数、地理上の里程記法は、各々一套の規矩方円があって、陰陽二気と五行の数とに対応する。だから古代文化に深入りして通暁せんと欲すれば、必ずまず《易経》より入って探索せねばならない。そして《易》はまた《河図》《洛書》に仿って起り、天地運行の道を取り准え、鬼神変化の徳を闡明するためのものである。その中の精微にして神に入る処は、もともと言語文字の言い尽くし得る所ではなく、今日講ずる所はまだ大概のみである。世の読者がこれによって更に深く追求し、ほぼ古人に通じまた今人に益あるを得んことを願う。かくすればただに中国文化が伝続を得るのみならず、聖人が教を立てた苦心をも孤にしないであろう。

又曰:天地之間,萬物並生;而所憑者,多在地土;則以土為後天生化之母,備五行之氣,而為兩儀之所合化也。其德全而用宏,居中而運眾;雖天之高,星辰之遠;日月之明,風雨之降;寒暑之往復,關於天時氣候者,若不在地;而莫不自地見其用也。

また言う。天地の間、万物は一斉に生長し、それらの凭借する所は多く土地に在る。見れば土は后天生化の母で、五行の気を兼備し、両儀が交合して化成したものである。土の徳性は完備し功用は宏大で、身は中央に居りて衆物を運使する。天のごとき高さ、星辰のごとき遠さ、日月の光明、風雨の降落、寒暑の往来、これら天時気候に属する事は、見れば皆地上に在らざるようだが、一つとして地上においてその作用を見るを得ざるはない。

地者,萬物之中樞;為一切氣數之機衡,生變之爐冶;而人亦隨之生長死沒,至於無窮;故後天之土,雖居五行之末,實策生化之源。而本數則五,故其用亦五;以五應天,則天數成,此十乾之為二五也;以五應時,則時令備,此歲序之分為五時也。

地は万物の中枢であり、一切の気と数の運転する機関と秤衡であり、生成変化の熔炉である。人もまたそれに隨って生長し死亡し、循環已まない。だから后天の土は五行の末位に排せられるが、実は生化の源頭を掌握している。土の本数は五なので、その用法も五に依る。五をもって天に対すれば天数が完備する。これが十天干の二つの五に分かれる所以である。五をもって時令に対すれば、一年の時序が完備する。これが歳序の五つの時段に分かれる所以である。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.

Hexagrams in this volume