述聖講述・子思
太極圖者,自易象溯而上之,乃示其初之象也。天地之生也,依是象以生成;更依是氣之推行變化,以生成萬物。其始則簡,其繼則繁;其本則合,其用則分;而實有定序與方位,有數量與名類,非無紀無序者也。
太極図は、《易》の卦象より上に追溯して、最初のあの一層の象を顕示するに用いる。天地の產生はこの象に依って生成し、此の後またこの股の気の推行変化に依って万物を生成する。それは初めは簡単で、後に初めて繁複となる。その本体は合一であるが、用いれば分化する。しかしその中には確かに一定の次序と方位、数量と名目類別とがあって、雑乱无章・綱紀なきではない。
蓋天地出於太極,其象固大,大則難考;人物生於天地,其形已小,小則易徵。徵其小,自得其大;以其生也同,而氣之行也一,不以大小有殊也。故言天者,必先求之人;言大者,必先求之小。物物有一太極,苟求之則自見,不疑為無征也。凡有生之物,皆同此氣行而化,皆同此太極之象者也。
天地は太極に出づ。その象は自然極めて大きく、大きければ考察し難い。人と物とは天地の間に生まれ、形体はすでに小さい。小さければ験証しやすい。小処より験証すれば、自然に大処の道理を得る。それらの生成方式は相同じく、気の運行もまた同一の套で、体積の大小によって分別あるではないからである。だから天を講ずれば、必ずまず人の身の上より求めねばならない。大を講ずれば、必ずまず小処より求めねばならない。每一件の物の裏に一個の太極あり。ただ求めるを肯んずれば自然に見るを得る。それの験証する所なしを疑うに及ばず。凡そ生命あるものは皆同じくこの股の気に依って運行し変化し、皆同じくこの太極の象を具備する。
太極者,至極也。古文「太」字同大,大者無與比擬,言獨有而絕無,不可復加也;故有大一、大初、大素、諸名,皆示其獨有無復加者。太極亦然:以至境不可復進,曰極;而極之不可復加,曰太極。蓋自是以上,無可擬也,故凡物自大極始。然大極者,不可作上下看,或左右看,以端為極也,祇宜作中心講;蓋極必有所立,必有其位,其處必至中也。
「太極」の意はすなわち至極である。古文において「太」の字は「大」と相通ず。「大」とは比擬すべきなきを指し、それが独一無二にして更に加え得るなきを言う。だから古書に「大一」「大初」「大素」これらの名目あるは、皆それの独一無二・復加すべきなきを表す。太極もまたこのようである。更に前の一歩に赴き得ざる境地に至るを「極」と呼び、この極はまた復加すべなし。これを「太極」と呼ぶ。ここより上に更に比擬し得るものなきがゆえに、万物は皆太極より始まる。ただ「太極」のこの極は、上下をもって作すべからず、左右をもって作すべからず、某一端をもって極と為すべからず。ただ「中心」と為して講ずべきのみ。極は必ず建立する所有り、必ずその位置あり。そしてこの位置は必ず正中に在る。
若無所立,不得謂之極,以無定也;無其位,不得謂之極,無所守也;非至中,不得謂之極,不可久也。唯有所立,則定於一而不二;唯有其位,則守於常而不失;唯其至中,則久於運用無所窮;故名之極,猶北辰之為北極也。天之極定於北辰,地之極定於南北極;而世界之極,則定於太極也,以至其極,無復與比故也。何以為至極無比?則以其所立雖定而無定,雖有位而無常位,雖至中而無常中;不似北辰之天極,南北端之地極也。
もし建立する所なければ、極と呼ぶ能わず。定準なきがゆえに。自己の位置なければ、極と呼ぶ能わず。守持する所なきがゆえに。正中に在らざれば、また極と呼ぶ能わず。長久なる能わざるがゆえに。ただ建立する所有るのみ、一に定まりて游移せざるを得。ただその位置あるのみ、常規を守りて失落せざるを得。ただ正中に居るのみ、長久に運用して窮竭せざるを得。だからこれを「極」と称す。ちょうど北辰の北極と称せらるるがごとし。天の極は北辰に定まり、地の極は南北両極に定まる。そして全世界の極は太極に定まる。この極処に至れば、更にそれと相比し得るなきがゆえに。なぜそれを至極無比と言うか。それが建立する所は確定なれどもまた固定せず、位置ありといえども固定の位置なく、中に居るといえども固定の中なきがゆえに。これはすなわち北辰のごとき天極、南北両端のごとき地極と同じからざるなり。
夫既曰極,而曰無常,豈非異於極之為極乎?曰:非無常也,言無常而有常耳。以隨所在而立,所至而位,所行而至中也;故曰無極之極,曰太極焉。夫有之與無,同用異途;上之與下,同名異方;神之與形,同生異類;道之與器,同用異勢。故天地既判,人物斯生;形神所分,陰陽乃別;此太極之為至極,恰介乎兩者之中也。
すでに「極」と呼び、またそれを無常と言うは、極の極たる所以に背くではないか。答えて曰く、真の無常ではなく、それの無常の中に自ずから常あるを言うのである。それは在る所に隨いて建立し、至る所に隨いて定位し、行く所に隨いて中に居る。だからこれを「無極の極」と称し、すなわち太極である。有と無とは、用処相同じくして途径同じからず。上と下とは、名義相同じくして方向同じからず。神と形とは、同じく生を受くれど類別同じからず。道と器とは、功用相同じくして形勢同じからず。だから天地が一たび分判すれば、人と物とは產生する。形と神とが一たび分かれれば、陰と陽とに区別ある。この二辺の中にちょうど挟むが極であって、太極は正にここに居る。だからそれを「至中」と言い、それに位置あり建立する所有りと言う。
由此以上,皆屬於無者、上、神者、道者,由此以下,則屬於有者、下者、形者、器者;兩者之中,乃為極,而太極乃居之,故曰至中,而有位,有所立也。然有既名,無未嘗無;下既分,上未嘗隱;形既生,神未嘗少;器既成,道未嘗亡;則兩者宛轉生化,遷變相隨,未嘗一日異。
ここより上は皆「無」に属し上に属し神に属し道に属す。ここより下は「有」に属し下に属し形に属し器に属す。両辺の当中がすなわち極で、太極は正にここに居る。だからそれを「至中」と言い、位置あり建立する所有りと言う。しかし「有」の名目はすでに成立したとはいえ、「無」は曽て真に消失せず。「下」はすでに分かれたとはいえ、「上」は曽て隠没せず。形体はすでに產生したとはいえ、神は曽て減少せず。器物はすでに造成したとはいえ、道は曽て亡失せず。見れば両辺は宛転として相生し遷流変化し、始終彼此相隨いて、曽て一日の分離あったことなし。
而極之為極,亦未嘗一時失其中與其位也;而亦未嘗執其中與位,執則失之;故有常而無常,故日物物有太極。取喻於小,足知其大;取譬於近,足證其遠;故太極者,極而非極,異乎物之兩端,天地之極也。果明乎此,可與言太極矣!
そしてこの極の極たる所以も、また曽て一刻もその中を失いその位を失わず。しかしそれは同じくこの中とこの位とを死守せず。一旦死守すればかえってこれを失う。だからそれに常ありてまた無常と言う。だから「物物に一太極あり」と言う。小処をもって比喻と為せば、大処を推知するに足る。近処をもって譬況と為せば、遠処を印証するに足る。それゆえ太極は極にしてまた尋常の極と同じからず。それは事物の両端に別あり、天地の極である。果してこの一層を明白にせば、便ち彼と太極を談ずべし。
夫太極之象,示天地之生成,生化之循環,陰陽二氣之遞嬗,萬物之生成變化,自無入有,自始至終,蓋無不包在象中也。故易之卦象,肇始於太極;而推溯萬有之源,亦唯太極。言物必始於有,言生成變化,必本於氣之動靜;太極為初有,而具動靜者也。故推而上之極於是,推而下之始於是;推而內之立於是,推而外之本於是。以是為宗,而後可以推及其它;以是為始,而後可以推至無盡。以天地之氣,通行而無所滯,故其為象也圓,為物也周流不窮,為用也無息不二;而太極為之極,以定其位,守其中,以御無盡,而行無窮。
太極の象の顕示する所は、天地の生成、生化の循環、陰陽二気の交替更迭、万物の生成変化、無より有に入り起点より終点に至る、これ一切は象の裏に包含せざるはない。だから《易》の卦象は太極に発端し、万有の源頭を追溯せんとすれば、またただ太極のみ。凡そ「物」を講ずれば必ず「有」より講じ起こし、凡そ生成変化を講ずれば必ず気の動静をもって根本と為す。そして太極は正に最初の「有」であり、また動静を兼具する。だから上に推せば尽頭はそれに在り、下に推せば起点はそれに在り、内に推せば根拠はそれに立ち、外に推せば本源はなおそれである。それを宗主と為して、そうして初めて他に推し及ぼすべし。それを開端と為して、そうして初めて無窮に推衍すべし。天地の気は流通して滞礙する所なきがゆえに、その象は円である。物としては周流して尽きず、用としては停息せず二致なし。そして太極はそれにこの極を立てて、その位置を確定しその中を守り、これによって無尽を駕御し無窮を運行す。
故天地不離其度,萬物不乖其序;而易之卦象,遂本是以立以成以用;始終於易,以盡其變化;而後天地之道以見,人物之數以明,鬼神之德以知;而後有形者適其生成,有氣者通其變化;合陰陽而歸於太和,匯萬類而統於太一,同萬行而期於至中;以言乎道,則道至矣!以言乎物,則理備矣!以言乎事,則情見矣!以言乎天下,無不咸宜;而行之無不得,守之無所失;是以為教之本,易之源;固非聖人莫之能知,亦非聖人莫之能言者矣!
だから天地はその度数を脱せず、万物はその次序に背かず。《易》の卦象は便ちこれに依拠して建立し成就し運用し、頭より尾まで《易》の裏に貫徹して、その変化を窮尽す。こうなれば、天地の道は初めて顕現し、人と物の数は初めて明白となり、鬼神の徳性は初めて知り得る。有形の物は初めて各々その生成を得、有気の物は初めて各々その変化に通ず。陰陽は合わせて「太和」に帰し、万類は匯ねて「太一」に統し、衆多の行事は同じく「至中」に帰す。道に就いて言えば、道はここに至って極まる。物に就いて言えば、理はここに至って完備す。事に就いて言えば、情実はここに至って顕露す。天下に就いて言えば、一処として合宜せざるなし。それに照らして為せば成らざるなく、それを守れば失わるることなし。だからそれは教化の根本、《易》の源頭である。これはもともと聖人ならざれば知るべきなく、聖人ならざれば講説すべきもない。
夫子於中庸述其義,曰:「時中」,於大學述其境,曰「至善」,曰「無所不用其極」,此「極」字與太極同一義;蓋有物必有則,有則必有極;太極為一切之極,凡在有者,皆有極;而凡有用者,皆必有此極;此即中庸「時中」之義也。簡名之曰:「道」。故傳曰:「一陰一陽之謂道」,而太極即自陰陽成;人生受命於天,而有性;性亦合於太極也。故曰:「成之者性」,性成於善,太極之行,至善也;故曰:「繼之者善」,此太極者統一切事物而言之者也。
夫子は《中庸》においてその意義を説明して「時中」と呼び、《大学》においてその境界を説明して「至善」と呼び、また「其の極を用いざるなし」と言う。この「極」の字は太極と同一の意である。物あれば必ず法則あり、法則あれば必ず極あり。太極は一切の極である。凡そ存在するものは皆その極あり、凡そ用処あるものもまた必ずこの極あり。これがすなわち《中庸》の「時中」の意で、簡単にこれを称呼すれば「道」と呼ぶ。だから《繋辞伝》に言う、「一陰一陽之を道と謂う」。そして太そして太極は正に陰陽より構成せらるる。人は生まれて天より命を領受し、これによって性あり。この性もまた太極に合するので、《繋辞》に「之を成すは性なり」と言う。性は善によって成る。太極の運行はもとより至善なので、《繋辞》はまた「之に継ぐは善なり」と言う。ここに講ずる太極は、一切の事物を統摂して言うのである。
非僅以一物名之,凡有名者,皆合於太極;不問其為物、為事、為道、為器、為形、為神也;苟可言者,必自太極始;有行有守者,必依太極以行以守之也。蓋太極之為道也,道之為一陰一陽也;無能外陰陽以生成,故無能離道,亦無不合於太極也;雖然,太極固自生成者;人之生成中,而不克明太極之道,則為忘生之本;聖人乃以教教之,使明其生;而易之義於是見也。
それはただ某の一件のものを称呼するに用いるのではない。凡そ名目ある者は皆太極に合す。それが物であれ事であれ道であれ器であれ形であれ神であれ、言い出し得る以上、必ず太極より言い起こす。凡そ行う所有り守る所有るも、また必ず太極に依って行い守る。太極はすなわち道で、道はすなわち「一陰一陽」だからである。陰陽を撇きて生成する能うなし。だから道を離るる能うもなく、更に太極に合せざるもなし。話はかくのごとくとはいえ、太極はもともと自行生成する。人はこの生成の中に生まれたとはいえ、太極の道を明白にし得ざれば、すなわち自己の生命の根本を忘れたのである。聖人はそこで教化をもって人を教え、人に己の何をもって生と為すかを明白ならしむ。《易》の意義もまたここに顕現する。
故易之溯太極,為制卦也,為以卦寓其教也;卦之所象,事事物物,皆道之所在;亦太極之所運行,無他物也;二氣之消長盈虛,以成天地間之生成變化;而易象之以示人耳,是易之教,盡在太極中,天地萬物原在太極中;故易不得外之以為教,人之求易之明,而不從太極始,將何以見易哉?故傳曰:「易有太極」,其一語也,鄭重之矣!
だから《易》が太極に上溯するは、卦を制作せんがためであり、また教化を卦の裏に寄托せんがためである。卦の象徴する種々の事物は皆道の在る所であり、また皆太極の運行の及ぶ所である。この外更に別のものなし。陰陽二気の消長盈虚は天地の間の生成変化を造成し、《易》はただそれを象徴し出して人に見せるにすぎない。見れば《易》の教化は全く太極の中に在り、天地万物ももともと太極の中に在る。だから《易》は太極を撇きて別に教化を立てる能わず。人が《易》を明白に求めんと欲して太極より入手せざれば、どうして《易》を見るを得んや。だから《繋辞伝》に「易に太極あり」と言う。ただこの一句のみにして、分量すでに極めて鄭重である。
伏羲八卦所自始,固溯源太極,而合乎河洛二圖者也。河圖以天地合化,生成五行;已分四方,即四象也。洛書以五行生變,而為九宮;四方之外,加為四隅;遂分列八方,即八卦之象也。中五者,太極本位;九宮名太乙本宮,太乙雖在中央,而以時行臨於八宮;故九宮皆有太乙至臨之時,而八方皆受太乙之氣;八卦之象亦然,由四象而分為八卦,虛其中以位太極;太極雖無象,其位固在;而其氣運行於八卦,則八卦皆太極之象;分則為八卦,合則一太極;此天地自然之象數也。
伏羲八卦の起源は、もともと太極に上溯し、同時に《河図》《洛書》の二図と相合す。《河図》は天地二気合化して五行を生成し、すでに四方を分かつ。これがすなわち四象である。《洛書》は五行生変して九宮を成し、四方の外に更に四つの角を加え、そこで分列して八方を成す。これがすなわち八卦の象である。中のあの「五」は太極の本位で、九宮においてはこれを「太乙本宮」と呼ぶ。太乙は中央に坐鎮するとはいえ、時序に按じて轮流して八宮に降臨す。だから九宮は皆太乙の来臨する時あり、八方も皆太乙の気を受く。八卦の象もまたこのようである。四象より分かれて八卦を成し、中間を空けて太極に位を安ず。太極は象なきとはいえ、その位置は確かに存在す。そしてその気は八卦の中に運行すれば、八卦は太極の象ならざるなし。分かちて見れば八卦であり、合わせて見れば一個の太極である。これは天地自然而然の象と数である。
太極何以無象?則以易之重在變,而推其用,故隱其體;以體為先天,非如後天之有形也;太極之為太極,言其氣之如是行,生化之如是成;不可以物擬之,故不象之也。然太極之氣,無時不在;所行之道,無地不至;其所生化者,自物見之;故列八卦,即有太極;太極自存八卦之中,見八卦即見太極。猶道不可見,而以德見之;神不可名,而以形名之。
太極はなぜ象なきか。《易》の重点は「変」に在り、その用を推演することを重んずるがゆえに、その体を隠蔵したのである。体は先天に属し、后天の物のごとく形あって見ゆるに似ず。太極の太極たる所以は、ただ気がかくのごとく運行し生化がかくのごとく完成するを言うのみで、具体の物をもって比擬し得ず。だからそれに象を立てない。しかし太極の気は時として在らざるなく、それの行く道は処として到らざるなく、それの生化する所は物の上より見出し得る。だからただ八卦を排出すれば、太極はその中に在る。太極はもともと八卦の中に存在し、八卦を見ればすなわち太極を見るに等しい。これはちょうど道それ自体は見えざるも、ただ徳を通してそれを見るごとく、神それ自体は名を呼び出し得ざるも、形体を借りてそれに名を与うるがごとし。
先天者,麗於後天;道者,存於器;得其一,則知其二;不待別求之也。故八卦之位虛太極,而八卦之用,皆太極之用也;以太極有名無位,有位無象;故易有用無體,非無體也,見用即知體,體在用中也;傳所謂:「神無方,易無體」者,即此義也。神者,指太乙之神;無方,無定方也;言太乙雖居中宮,而周行八方無定也;易無體,則極之不顯其象,而其用存於八卦;不獨八卦、六十四卦、三百八十四爻、皆有所用,皆太極之用也。用見而體藏,故曰:「無體」,後人不明此義,遂不解「無體」之謂何也。
先天は后天の上に依附し、道は器の中に存在す。その中の一辺を掌握すれば、便ち他の一辺を知るを得、更に別に尋ね求むるを要せず。だから八卦の方位は中間を空けて太極に留め、八卦の一切の作用は皆太極の作用である。太極は名あって位なく、位あって象なきがゆえに、《易》は用あって体なし。これは真に体なきではなく、用を見れば便ち体あるを知り、体はすなわち用の裏に蔵す。《繋辞上》の言う「神に方なく易に体なし」は、正にこの意を講ずる。「神」は太乙の神を指す。「無方」はすなわち固定の方向なきを言い、太乙は中宮に居るとはいえ八方を周行して定所なきを言う。「易に体なし」とは、すなわちこの極が自らの象を顕出せず、その用は八卦の中に寄存するを言う。ただに八卦のみならず、六十四卦、三百八十四爻、凡そ作用あるは皆太極の作用である。用は顕現して体は隠蔵す。だから「無体」と呼ぶ。後人はこの層の道理を明白にせず、そこで「無体」の一体何を指すかを弄じて懂えぬ。
夫天地之大,為神者一,為形者萬;為體者一,為用者萬;故有上下道器之殊。太極體道而用神,為名可名,而物不可擬;合之則一,分之則萬;皆此太極也。如:合天地,一太極也,而天地間萬物皆有太極在;道,一太極也,而天下萬物皆有太極在;太極不可得而象者,恐象之而人疑為物也;故雖有太極之圖,祇可視為虛擬之象,不得認為一物也;不得為物,而物皆有之。
天地はかくのごとく広大にして、「神」と為るはただ一個、「形」と為るは千万あり、「体」と為るはただ一個、「用」と為るは千万あり。そこで初めて形而上の道と形而下の器との分別あり。太極は道をもって体と為し神をもって用と為す。その名は称呼し得るが、その物は比擬する所なし。合わせれば一個、分かれば千万個で、しかも全くこの太極である。たとえば天地を合わせて見れば、一個の太極で、天地間の万物はまた各々太極をその中に有す。道は一個の太極で、天下の万物もまた各々太極をその中に有す。太極に象を立て得ざる所以は、一たび象を立てれば人が誤ってそれを件のものと為すを恐れるがゆえに。だから太極図あるとはいえ、ただこれを虚擬の象と看做すべく、一件の実物と当成すべからず。それは物と算え難いが、万物はまた皆それを含有す。
故易卦不列太極,而全易卦爻皆存之;伏羲一畫開天,豈非以一擬太極哉?則凡卦爻,莫非自此一來;固莫非太極之象,何事再象之乎?通者迖之,執者昧之,觀八卦之象,固無在而非太極,視人之能見得否耳。
だから《易》の卦の裏に単独に太極を列せず、全部《易》の卦と爻とは処々にそれを蔵す。伏羲が一画して天を開く、あの一画は正に「一」をもって太極に比擬したではないか。すでに然らば、凡そ卦凡そ爻は、この一画より来らざるなく、すなわち太極の象ならざるなし。何ぞ必ずしも更に別に一個の象を立てんや。通達の人は自ずからこの一層に到達し、拘執の人はこれに蒙蔽せらる。八卦の象を看るに、もともと一処として太極ならざるなく、ただ人の見出し得るや否やを看るのみである。
伏羲八卦講義
宣聖講義・孔子
伏羲畫卦,始於太極,已見前講。所畫八卦者,純本太極陰陽並行之象,及河洛五行九宮之圖者也。太極之陰陽兩儀,非同等同類各據一方者也,非守位不移者也,非分行不侔者也。其生也有序,化也有次,交也有多寡,行也有往復;一消一長,一降一升,非劃然兩截也;一盈一虛,一錯一綜,乃合而有得者也。
伏羲の画卦は太極より始まる。これは前にすでに講じた。彼の画いた八卦は、完全に太極陰陽並行の象および《河図》《洛書》五行九宮の図に依拠する。太極の分かつ陰陽両儀は、彼此対等同類にして各々一方を占むるがごとき簡単なものではなく、また各々その位を守りて固定不動でもなく、更に各々その道を走りて彼此毫も相干なきでもない。それらの生には先後の序あり、化には前後の次あり、交接には多寡あり、運行には往复あり。一消一長、一降一升、截然として両半に分かつではない。一盈一虚、一錯一綜、まさに彼此配合して初めて得る所有る。
故自陰之始,至陰之終,陽之消,至陽之息,皆遞為加減乘除,而象其氣之上下往復,皆序為東南西北,而分其數為奇偶盈虛。故其名有等,位有級,類有大小,象有經緯,以成其變化,而賅天地萬物之始終者也。故兩儀遞分為四,四象遞變為八,八卦於是成象矣,合之河洛亦恰同。
だから陰の起点より陰の終点へ、陽の消退より陽の生長へ、皆依次に加・減・乗・除式の推移を作して、気の上下往復を象徴するに用い、また東・南・西・北に按じて次序を排出し、それらの数を奇と偶・盈と虚とに分かつ。それゆえそれらの名称には等第あり、位置には級差あり、類別には大小あり、象には経あり緯あり、これによって各種の変化を成就して、天地万物の始と終とを皆包括す。そこで両儀は依次に四份に分かれ、四象は依次に八份に変じ、八卦はここに至って成象す。《河図》《洛書》をもって対照すれば、またちょうど一致す。
河洛之圖,由天地之數成五行,由五行之位變九宮;五行除中央則仍四象,九宮除中央則仍八卦也。中央者太極也。八卦以中央為虛,故列八方而虛其中,實則中央太極仍自在也。八卦之象,本於太極,合於河洛,而象天地萬物之生成變化者;生成無盡,變化無窮,八卦之用亦無垠也。
《河図》《洛書》のこの二図は、天地の数によって五行を構成し、更に五行の方位によって九宮に変ず。五行は中央を去ればなお四象であり、九宮は中央を去ればなお八卦である。中央のあの一位はすなわち太極である。八卦は中央を空位と為すので、ただ八方を排列して当中を空け出すが、実は中央の太極は依然として安んじて存在す。八卦の象は太極に根源し、また《河図》《洛書》と相合して、天地万物の生成変化を象徴するに用いる。生成に尽頭なく、変化に窮期なければ、八卦の用処もまた辺際なし。
易傳曰:「神無方,易無體。」此即指八卦之虛中位也。中為太極,元氣周流,主之者神,行無定方;太極為體,八卦成用,太極既虛,故曰無體。此八卦既立之後,用其變化,而至無盡;雖曰無體,體見於用,猶神之無方而無不在也。
《易伝・繋辞上》に言う、「神に方なく易に体なし」。これは正に八卦の当中の空け出したあの位置を指す。中央はすなわち太極で、元気はここに周流し、それを主宰するは神で、運行して固定の方向なし。太極は体で、八卦は用である。太極はすでに空け出されたるがゆえに、それを「無体」と言う。これは八卦が立定した後、その変化を運用して無窮に至るを言う。「無体」と言うも、体は用の中に顕現す。ちょうど神は固定の方位なきといえども、また在らざる所なきがごとし。
夫伏羲作卦之始,初無文字,卦象則象形之字也;其命名也,即象物之名。故□為乾象天,即天字;天之古文,即如□卦之象,象陽氣之聚於上也。□為象地,即地字,象地之形;地成於山水,其左為山,右為水,後人其狀為地也。□離為火,即火字也;火為旁實中虛,如□,後人變為火字,或作□,仍□象也。
伏羲が卦を作り始めた時、もともと文字はなく、卦象は実は象形の字であった。卦に命名するに、用いたのもすなわち象る所の物の名称である。だから乾卦☰は天を象徴し、それはすなわち「天」の字である。「天」の古文は、形状正に乾卦の象のごとく、陽気の上に積聚するを象徴す。坤卦☷は地を象徴し、それはすなわち「地」の字で、地の形状を摹写す。地は山と水とより構成し、左辺は山、右辺は水で、後人は便ちこの形状に照らして「地」の字を写した。離卦☲は火と為す。それはすなわち「火」の字である。火の形状は両旁実にして中間虚で、正に離卦のごとく、後人はこれを変写して「火」の字と為し、あるいは別の形体を写作するも、なお離卦の象である。
□為坎為水,即水字,象水之形,後人變為□,仍□象也。□為震為雷,象天下之電光流照,即雷字也,後人變□,仍□象所化。□為艮為山,象山在地面,高出於土,即山字,後人變為□,有作□者,仍□象也。□為巽為風,又為木,象風行天空,木枝葉分披,後人變為□,或□仍□象也。
坎卦☵は水と為す。それはすなわち「水」の字で、水流の形状を摹写す。後人は改めて別の形体を写すも、なお坎卦の象である。震卦☳は雷と為し、天下の電光の流動照燿するを象徴す。それはすなわち「雷」の字で、後人は写法を改変したが、なお震卦の象より化出したものである。艮卦☶は山と為し、山の地面の上に立ちて土より高出するを象徴す。それはすなわち「山」の字で、後人は改めて別の形体を写し、あるいはもう一種の様子を写すも、なお艮卦の象である。巽卦☴は風と為し、また木と為し、風の天空に吹行し樹木枝葉の紛披して下垂するを象徴す。後人は改めて別の形体を写し、あるいはもう一種を写作すも、なお巽卦の象である。
□為兌為澤,象水之在澤,如湖沼之類;後人以其從水出,變為□,象水之瀦,而後流之意;又為說言,象舌動而口啟也。此皆最初之字,象形者也;雖以去古久遠,遷變已多,不盡相同,而其意仍在。且坎離二象,仍如初也。坎之水,離之火,其象既似,其數亦同,則一覽可知者矣。因水火二者,陰陽之樞紐,天地之運用其自然之象,永古如斯,則字象亦不變也。況八卦明氣與數者也。
兌卦☱は沢と為し、水の窪地に積するを象徴し、ちょうど湖泊沼池の類のごとし。後人はそれの水より衍出したに因って、便ち改めて別の形体を写し、水の停聚して後に流出するの意を取った。兌はまた「説」と訓す。すなわち言说で、舌の一動すれば口便ち開くを象徴す。これらは皆最早の文字で、象形に属す。今年代より遠久とはいえ、形体の変遷すでに多く、すでに同じからざるものあるも、それらの本意は依然として保留せらる。しかも坎・離の二象は今に至ってなお当初と同じなり。坎の代表する水、離の代表する火は、それらの象すでに相似、その数また同じなれば、一見して知り得る。水火二者は陰陽の枢機であり、天地運用の中の自然而然の象で、亘古かくのごとし。だから字形すら曽て改変せざるなり。まして八卦はもともと気と数とを闡明するに用いるものである。
伏羲八卦講義・気数奇偶と四象の出づる所
氣有陰陽,數有奇偶,故天為陽奇,地為陰偶。其所生者陽則奇,陰則偶,亦如之。而陽卦多陰,陰卦多陽,明陰陽必交互而後見其用也。所謂自然之理,自致至焉,不假人為者也。試觀八卦之名及其字,即可以知其數與氣,其符合者純自然自在,非聖人所為也。
「気」に陰陽の分あり、「数」に奇偶の別あるがゆえに、天は陽に属してその数は奇と為り、地は陰に属してその数は偶と為る。天地の生じ出す一切もまたこの例に照らし、陽に属する数は必ず奇、陰に属する数は必ず偶である。しかし八卦の中、陽卦はかえって陰爻多く居り、陰卦はかえって陽爻多く居る。これは正に陰陽が必ず交錯互入して、そうして初めて功用を見出し得るを説明し、純陰純陽が孤立不動すれば作為する所なきを言う。これがいわゆる自然の理である。それは自らあの一歩に走到し、自らあの位置に到達し、人為の安排に仮手するを要しない。試みに八卦の名称とそれらの字形とを看れば、その中より各卦の数と気とを読み出し得る。名・形・数・気の四者は彼此吻合して、全く天然本有・自ずから在りてしかのごとく、聖人が意をもって造設し出したのではない。
八卦之氣數,生化之所繫,皆自四象來。如乾與兌,太陽也;坤與艮太陰也;坎與巽,少陽也;離與震,少陰也。陰生陽,陽生陰,二氣周流,循環無窮,其數則有先後,其位則有上下。屬於陽者,近天而數奇;屬於陰者,近地而數偶。天地者陰陽之總樞,故乾坤為父母;水火者陰陽之大用,故坎離為樞機。此四者居四方之正。震巽艮兌者,陰陽之變化,消息盈虛終始之事也,故四者在四偶,以輔翼其生化,而變通其氣數。此卦之有八,為天地萬物之總象也。
八卦の気と数とは、万物生成変化の繋がる所の関鍵で、それらは全く「四象」より推衍して来る。「乾」と「兌」とは太陽に出づ、「坤」と「艮」とは太陰に出づ、「坎」と「巽」とは少陽に出づ、「離」と「震」とは少陰に出づ。陰はよく陽を生じ、陽はよく陰を生じ、両気は周流して息まず、循環して窮尽なし。ただ流転の中、数には先後の別あり、位には上下の分あり。凡そ陽に属するは天に近づきて配する所の数は奇と為り、凡そ陰に属するは地に近づきて配する所の数は偶と為る。天地は陰陽の総枢紐なので、「乾」「坤」両卦を父母卦と称す。水火は陰陽最大の功用の在る所なので、「坎」「離」両卦を枢機と称す。この四卦は東西南北の四正位を占住す。「震」「巽」「艮」「兌」四卦の主する所は陰陽の変化で、消長盈虚・有始有終この類の事なので、四つの隅角に列して、乾坤坎離を輔翼して生化を完成せしめ、並びに気数を変通せしむるに用いる。卦のちょうど八個なる所以は、正にこの八個がすでに天地万物の総象たるに足るがゆえである。
伏羲八卦講義・卦象は簡にして推する所は繁し
夫伏羲作卦,以象明氣數生化者也。而生必有始,化必有終;有其氣,則有其物;有其數,則有其類。天地至大,萬物至眾,而約之於八卦。其所象者簡,而所推者繁;所舉者易,而所變者多,則由其用之不窮也。天地一陰陽也,萬物亦一陰陽耳,故萬物雖生化無盡,不得外於天地,即不得外於八卦也。八卦之始終可得言也,而變化不可測;八卦之名物可得類也,而遷移有無窮,此所以名之曰卦。言以一卦萬,以簡御繁,以易御眾,其為德不二,故能成其大也。此就八卦之名類氣數略言之耳。
伏羲の画卦は、卦象をもって気と数とが如何に生化するかを説明せんとする。凡そ生ずる所有れば必ず起点あり、凡そ化する所有れば必ず終結あり。あの種の気あれば、あの類の物あり。あの種の数あれば、あの類の族あり。天地は極めて広大にして万物は極めて衆多なるを、八個の卦の裏に収束す。それの取る象は簡約だが、それより推し出す事理は極めて繁复である。それの挙ぐる例は浅易だが、それより変じ出す情形は極めて多い。これはその功用の無窮無尽なるがゆえである。天地はただ一陰一陽に過ぎず、万物もただ一陰一陽に過ぎない。だから万物は縦に生化して止まざるも、天地の外に跳出し得ず、すなわち八卦の外に跳出し得ない。八卦の起訖は説き清め得るが、その変化は測り尽くせない。八卦の指す名物は帰類し得るが、その遷移は窮期なし。これは正にそれを「卦」と命名した所以である。いわゆる「一をもって万に卦る」とは、簡約をもって繁复を駕御し、浅易をもって衆多を駕御する。それの徳性は専一不二なので、その広大を成就し得る。以上はただ八卦の名目・類別と気数とに就いて略々一二を説くのみである。
伏羲八卦講義・八卦方位は《河図》に本づく
伏羲八卦,自象言之則包舉天地萬物之象,自數言之則納天下之數,自氣言之,則通二五之氣。其設象有物,制卦有則:物者天地生成之物,則者河洛太極之象。故卦有大小,地有方位,行有次序,有往來之度,有變化之形,有奇偶對待之數,有陰陽分合之情。故卦有名有義有位有時,有交合之類,變易之事,雖簡而不遺於物,雖繁而不乖於道,此其本於自然,成於固有者,非作者有意為之也。
伏羲の画いた八卦は、「象」より言えば天地万物の形象を包羅し、「数」より言えば天下一切の数を収納し、「気」より言えば陰陽二気と五行の気とを貫通す。すなわちいわゆる「二五の気」である。それは象を設くるに本ある所あり、卦を制するに拠る所あり。本とする「物」は天地生成の実物であり、拠る所の「則」は《河図》《洛書》と太極の象である。だから卦に大小の別あり、位に東西南北の定あり、行に先後の序あり、往来の度数あり、変化の形態あり、奇偶相対の数あり、陰陽分合の情状あり。それゆえ每一卦に名あり義あり位あり時あり、交合の類別あり、変易の事象あり。簡約とはいえ任何の一物をも遺漏せず、繁密とはいえ常道に背かず。これは皆自然に本づき固有に成るもので、作卦の人が私意に凭って安排し出したのではない。
如八卦之氣數,與河洛太極之圖合,自分陰陽,自成上下。乾為天而居上,坤為地而居下,此天地自然之位也。陽從天下,陰從地上,陰陽上下,天地以交,生成乃見,此河圖之象也。生成之數,首水次火:水以陰藏陽,火以陽包陰;水則潤下而隨陽升,火則炎上而隨陰降,陽左陰右。故離東坎西,以象日月:日為陽則東昇,月為陰則西出,其象亦天地自然者也。
八卦の気数は《河図》《洛書》および太極の図と完全に相合して、自然に陰陽を分かち自然に上下を形成す。「乾」は天と為して上位に居り、「坤」は地と為して下位に居る。これは天地本然の座次である。陽気は天より下降し、陰気は地より上昇し、陰陽は一上一下し、天地はこれによって交感し、生成の功は初めて顕現す。これがすなわち《河図》の呈現する象である。生成の数に至っては、まず水を説いて後に火を説く。水は陰の形体をもって陽を包蔵し、火は陽の形体をもって陰を包裏す。水性は潤下すれども陽気に隨って上昇し、火性は炎上すれども陰気に隨って下降す。陽は左に居り陰は右に居る。だから「離」は東に在り「坎」は西に在り、日月を象徴するに用いる。太陽は陽に属するがゆえに東方より升起し、月亮は陰に属するがゆえに西方より出現す。この象も同じく天地の自然に出づ。
天三生木,則陽氣切生於陰。陽在天為風,在地為木,風行於空,木生就上,故震在東北,巽在西南。陽息則陰消,陰虛則陽動,亦天地之氣自然分合也。地四天九,金以生成。金藏於山而耀其質,含英則靜而居地,飛光則動而近天。山乃厚藏,陽因陰用;澤乃流潤,陰以陽耀。故艮為山而居西北,以附於地;兌為澤而處東南,以麗於天。陰陽自分,方位以異,亦天地萬物自然之象也。
《河図》生成の数に依れば、「天は三をもって木を生ず」。これは陽気が緊接して陰の中より生発し出るのである。この股の陽気は天の上においては風と表現し、地の上においては木と表現す。風は虚空に行い、木は上に向かいて生長す。だから「震」は東北に居り、「巽」は西南に居る。陽気生長すれば陰気消退し、陰気虚弱すれば陽気発動す。これもまた天地の気の自然の分と合である。更に「地は四をもって金を生じ、天は九をもって之を成す」を見れば、金はこれによって生成す。金は山の裏に蘊蔵してその光沢を顕露す。含蓄英華の時は静なので地に居り、飛光閃燿の時は動なので天に近づく。山は厚重の収蔵で、陽は陰を借りて初めて用を起こす。沢は流動の潤沢で、陰は陽に凭って初めて輝を生ず。だから「艮」は山と為して西北に居り地に附着し、「兌」は沢と為して東南に処り天に附麗す。陰陽は各々分立して方位因りて同じからず。これも同じく天地万物自然の象である。
陽者從陽而樂交陰,陰者隨陰而喜順陽。天地既立其樞,六物因之而定;水火既分其用,四象由之而行。風雷震於東西,以成寒暑之令;山澤列於南北,以見生化之機。此八卦之方位有所定也。易傳曰,天地定位,山澤通氣,雷風相博,水火不相射。此指伏羲八卦之方位也。
陽に属するは陽に隨従するが、陰と交合するを楽しむ。陰に属するは陰に隨従するが、陽に順従するを喜ぶ。天地はすでに枢紐を立定せば、その余の六卦の象る物は便ちこれに隨って確定す。水火はすでに大用を分掌せば、四象は便ちそれらに依って運行す。風と雷とは東西に激蕩して、因りて寒暑の節令を成就す。山と沢とは南北に羅列して、因りて生化の括を顕現す。八卦の方位はかくのごとくして定まったのである。《易伝・説卦》に言う、「天地位を定め、山沢気を通じ、雷風相い博ち、水火相い射ざらず」。言う所は天と地とが各々上下の位を定め、山と沢とが二気互いに貫通し、雷と風とが彼此激蕩し、水と火とが並存して相い滅ぼさざる。これら数句の指す所は、正に伏羲八卦の方位である。
伏羲八卦講義・八卦次序は太極に本づく
至八卦之次序,則本於太極兩儀之象,而分陰分陽,順逆以相交,成往復循環之數,亦與河洛同。蓋太極之變易,河洛之生成,陰陽二氣,自生至老,自始迄終,有其序也;而以數紀之,則次序乃明。八卦亦然:乾為陽統,坤為陰統;乾數為九,紀陽之老,坤數為六,紀陰之終。此二氣之樞,為各數之宰。循環者由陰始,行陰者由陽起,故陽自上統下,陰自下統上;左之卦上統於乾,右之卦下環於坤,一順一逆,而成環行。
八卦の次序に至っては、すなわち太極と両儀の象に本づく。これによって陰を分かち陽を分かち、一順一逆に相交して、往復循環の数を構成す。この点もまた《河図》《洛書》と相同じ。太極の変易、河洛の生成は、説き詰めれば皆陰陽二気の初生より衰老へ、開端より終結への歷程で、その中におのずから次第あり。「数」をもってこれを記録すれば、次序は清らかなり。八卦もまたこのごとし。「乾」は一切の陽を統摂し、「坤」は一切の陰を統摂す。乾の数は九で、陽気の老を標記し、坤の数は六で、陰気の終を標記す。この両者は二気の枢紐であり、またその余の各数の主宰である。循環は陰より始まり、しかも陰の運行はまた陽に依って発動せねばならない。だから陽は上より下に統轄し、陰は下より上に統轄す。左辺一列の卦は上に向かいて「乾」に統属し、右辺一列の卦は下に向かいて「坤」に環帰す。一順一逆にして、一個の円環のごとき運行を合成す。
陰乃繼陽,陽乃交陰。故自乾數之,則次為兌,次為離,次為震,又次為巽,次為坎,次為艮,次為坤,以成一序,相貫而相得,莫見其盡也。蓋乾者純陽,靜則陰生矣;坤者純陰,動則陽生矣。以陽交陰,則生者必有死;以陰繼陽,則盈者必有虛。一往一來,一進一退,乃見其次序焉。故太陽有二,太陰有二,少陽少陰亦然,以有始則有終,有來則有往,其行之自至也。
陰は陽を接続し、陽はまた陰に交入す。だから「乾」より数え起こせば、依次「兌」、更に「離」、更に「震」、また次に「巽」、更に「坎」、更に「艮」、最後に「坤」と、かくのごとく排して一個の次序を成し、前後相貫して彼此相得、その尽頭を見ず。これは「乾」が純陽で、静まれば陰が生ずるからである。「坤」は純陰で、動けば陽が生ずる。陽をもって陰に交われば、生する者あれば必ず死する者あり。陰をもって陽に続けば、盈する者あれば必ず虚する者あり。一往一来、一進一退、次序は便ちその中に顕現す。だから太陽は両卦に配し、太陰は両卦に配し、少陽・少陰も各々両卦に配す。開始あれば終結あり、来るあれば往くあり。これは気が自らあの一歩に走到して自然に至達したのである。
觀其卦象,則自知之。如一日然:日午夜子定其樞,晨夕定其行,而自午至夕,自夕至子,自子至晨,自晨至午,氣有異同,數有進退,象有盈虛消長,此自然之理,非有所為也。故卦之次序亦象之。陰陽二氣,無一息之停,其序不亂;日月往來,無一時之失,其度不乖者,則由於有自然之次序也。
ただ卦象を観察すれば、自然に明白となる。これはちょうど一昼夜の運行のごとく、正午と子夜とが南北両端の枢紐を定住し、清晨と黄昏とが東西両端の行程を定住す。午より夕へ、夕より子へ、子より晨へ、晨より午へ、気に同あり異あり、数に進あり退あり、象に盈あり虚あり消あり長あり。これは皆自然の理であって、誰かが背後に操作するではない。だから八卦の次序もまたこの様子に照らして安排す。陰陽二気は一息の停歇なく、しかもそれらの次序は曽て錯乱せず。日月は往来して一刻の失約なく、しかもそれらの度数は曽て乖違せず。正にその中にもともと一套の自然の次序あるがゆえに。
故八卦成列,則次序見,而推之無盡,變之無窮,猶依此序,未嘗有差;以合天道,以類萬物,無不咸得,則序之效也。故有卦象,則有卦位以定其方,有卦序以定其行。方定則可守,行定則可遵;有守有遵,則可久可大。此易之道,大而無盡,久而不息者也。
だから八卦は一旦行列に排成せば、次序は顕現す。此の後如何に遠く推衍し如何に繁く変化するも、依然としてこの次序に依りて、曽て差錯を出さず。それをもって天道に会合し、それをもって万物に帰類すれば、切合せざるなし。これがすなわち「序」の功效である。すでに卦象あれば、便ち卦位あってその方向を確定し、卦序あってその運行を確定す。方位定まれば、便ち固守すべき準的有り。運行定まれば、便ち遵循すべき軌辙あり。守るあり遵うあって、初めて長久なり得、広大なり得る。《周易》の道の広大にして窮尽なく、悠久にして停息せざる所以の道理は、まさにここに在る。
伏羲八卦講義・卦象は気を象りて物を象らず
八卦之象物,雖有天地水火風雷山澤之名,然舉其類,不止此也。蓋物之生也日繁,氣之所賦,數之所同,有難盡舉,此則以其類而統之耳。如乾象天,以其純陽也,其數九,其氣陽,則凡類是者皆其屬也;他卦亦然,有是象者皆附是類。以象言之,不以物名之,故於所象之物名外,另為之名,非其不限於此物也。
八卦の象る物には、天・地・水・火・風・雷・山・沢これらの名目あるとはいえ、真に同類を挙出せんとすれば、遠くこの八様に止まらない。物類の產生は日に日に繁多となり、凡そ同一種の気を禀受し同一種の数を契合するは、実に一々に列挙し難い。だからただ類別に按じて統摂するのみである。たとえば「乾」は天を象るは、それの純陽なるを取るがゆえに。その数は九、その気は陽であれば、凡そこの一類に属するは皆それに統轄せらる。その余の各卦も同じく、凡そこの象を具備するは皆この一類に附入す。それは「象」に就いて言を立てるのであって、某の一件の実物に就いて命名するではない。だから象る所の物の名称の外に、別に一個の卦名を立てる。ここの一卦がただこの一様のものに局限し得るを言うのではない。
此□象天,於天之名外,別名日乾;□象地,於地之名外,別名日坤;示□不止象天地也,故別稱之為乾坤。他卦皆然,不可以名泥其象也。故曰象不曰物,猶之二氣,不曰氣,曰儀也。凡物之生成,皆有其氣數,則有所象;象何卦者屬何類,其多不可盡述,述其易見聞而名之。而恐人泥於名物,乃別名之;又恐人之不能推演其象,乃別述卦象於傳。雖所舉較多,實未盡也。
だから「☰」という符号は天を象り、「天」という名称の外に別に名を取って「乾」と為し、「☷」という符号は地を象り、「地」という名称の外に別に名を取って「坤」と為す。これをもってこの二つの符号の象る所が天地に止まらざるを表明し、これによって別に乾坤と称す。その余の各卦も皆このようである。名称に拘執して卦象の理解を妨げてはならない。だからそれを「象」と言いて「物」と言わない。ちょうど陰陽二気を「気」と呼ばず「儀」と呼ぶがごとし。凡そ物の生成には皆その気と数とあり、すなわち皆相応の象あり。某物がどの卦を象ればどの類に属す。これらの類目は多くして言い尽くし難く、ただ見聞しやすきを挑びて命名するのみ。また人の名物に拘泥するを恐れて、そこで別に卦名を立てた。更に人の卦象を推演せざるを恐れて、そこでまた《説卦伝》の裏において別に各卦の象を舖陳した。そこは挙ぐる所比較的多いとはいえ、実は依然として窮尽していない。
且天地間事事物物,生化無盡期,則分類無盡數,名不盡名,紀不盡紀。由其化合而得者,則自其所合之象合之;由其化分而來者,則自其所分之象分之,此在人之推之也。如八卦之象,固以天地水火風雷山澤之物名之,而八卦有分合而成者,則將自天地水火風雷山澤之分合而象之也。推之至六十四卦、三百八十四爻,各有所象,有所合,有所分,有所變化,其所得之事物,亦自其象推之,無不知也。
さらに天地の間の事事物物は、生化に終期なく、分類に定数なく、名目は取り尽くせず記録も記し尽くせない。凡そ化合より来たるは、それの合した幾つかの象より合わせて看る。凡そ化分より来たるは、それの分かれた幾つかの象より分かちて看る。これは人が自ら推求するに依る。たとえば八卦の象は、もともと天・地・水・火・風・雷・山・沢これらの実物をもって命名したが、八卦はまた彼此分合して別に新卦を成し得る。そうなれば、天地水火風雷山沢の分合の上より象を取らねばならない。一路六十四卦・三百八十四爻に推し至るまで、每一卦每一爻に各々象る所有り、合する所有り、分かつ所有り、変化する所有り、これより得た事物もまた皆その象の上より推知し得て、推し出せざるはない。
故易象以簡象繁,以少象眾,由其本推之,可無盡也。夫乾坤之名,與六十四卦之名,名其象耳,不可泥於物;物不止此名,而象則同。如陰陽之為物,可千萬以至無盡,而象同於兩儀;五行亦然,九宮亦然。凡同此氣數,同此生成者,皆同此象,或事或物,或隱或顯,或神或形,或過去,或未來,皆同在象中,皆得推而類之也。故象者象氣數也,非象物,物從而象之耳。故在□之卦曰乾曰天,不過名其卦而舉天以象之,非謂以□象天已也。其它皆作如是觀。
だから《易》の取象は、簡をもって繁を駕し少をもって多を象り、根本より推衍し開いて窮尽なきを得る。「乾」「坤」この二つの名称および六十四卦の名称は、皆ただ「象」に起こした名にすぎず、某の一件の実物に拘執すべからず。実物は遠くこの一個の名目に止まらざれども、それらの象は同じ一個である。たとえば陰陽は物として、千千千万から無窮に至り得るが、それらの象は同じく両儀に帰す。五行も然り、九宮もまた然り。凡そ気数相同じく生成方式相同じきは、皆同じく一個の象に属す。事であれ物であれ、隠であれ顕であれ、無形の神であれ有形の体であれ、すでに過ぎ去ったであれ未だ到来せぬであれ、全く象の中に涵括せられ、皆類に依って推求し得る。だから「象」の象る所は気と数であって、某の一件の実物を象るのではない。実物はただこれに隨って象せらるるのみである。それゆえ「☰」この一卦に対し、これを「乾」と称し「天」と称するは、ただこの一卦に名を起し、併せて「天」を挙げてこれを象るのであって、「☰」はただ天を象るにのみ用い得ると言うのではない。その余の各卦は皆この道理に照らして看るべし。
伏羲六十四卦講義
宣聖講義――孔子
伏羲作卦,以象天地萬物,而自無之有,自始至終,無不包舉。所制卦象,初不必皆有其物也,而物之生成者自合焉;初不必皆有其事也,而事之遷變者自孚焉。蓋本於氣化而推之也。合而言之,則卦有物;分而言之,物自物,卦自卦。且卦簡而物事繁,一卦不止一物一事也。故言物以象卦,言事以名卦,為自未達本,不可盡也。必由卦以象物以名事,而後推之無盡,所謂由本以及末也。
伏羲の画卦は、天地万物を象るに用いる。「無」より「有」へ、開端より終結へ、一つとしてそれに包挈せらざるはない。当初の制定した卦象は、必ずしも每一卦にまず一件の実物あってこれに対応したのではないが、天地の生成する物は自然にそれと相合した。また必ずしも每一卦にまず一椿の事情あってこれに対応したのではないが、人間の遷流変化する事は自然にそれと相符した。これは卦象がもともと「気化」の上より推衍して出たからである。合わせて言えば、卦の裏に物を含む。分かちて言えば、物は物、卦は卦で、両者は等同しない。まして卦少なく物事多し。一卦の涵む所は決して一物一事に止まらない。だからある者が具体の物をもって卦に比附し、具体の事をもって卦に命名するは、枝末より回头して根本を求むるので、永遠に説き周せぬ。必ず反対に、卦より物を象り、卦より事を名づけて、そうして初めて無窮に推衍し得る。これを「本によりて末に及ぶ」と呼ぶ。
伏羲首制八卦,以象天地水火風雷山澤,而天下之物與事未可盡也,乃重之以極其變,變之以通其化。變化既生,其用乃宏,而八者重之為六十四,六者重之為三百八十四,此皆本於八卦之變、三爻之化而成者也。卦雖盡於六十四,而卦之用未盡;爻雖盡於三百八十四,而爻之用無窮。以其變化之率言之,則適止於六十四卦、三百八十四爻也。
伏羲が最初に八卦を制作したのは、天・地・水・火・風・雷・山・沢を象るに用いるが、しかし天下の物と事とは遠くこの八個の窮尽し得る所ではない。そこで三爻卦を両々重畳して、その変化を窮尽し、また変化の中に会通を求めて、その生化を貫通す。変化が一旦產生すれば、卦の功用は宏大となる。八卦は相重じて六十四卦と為り、六爻は相因りて三百八十四爻と為る。これらは皆八卦の変・三爻の化より衍生し出た。卦は六十四に至って止むとはいえ、卦の用処は窮尽なし。爻は三百八十四に至って止むとはいえ、爻の用処は窮極なし。ただ変化の定率に就いて言えば、ちょうど六十四卦・三百八十四爻のこの数の上に止まったのみである。
蓋卦之為象三,以象天地人,各有陰陽,乃重之為六爻。六爻者,體用俱備,陰陽咸具之卦也,故卦成於六爻,天地人也。八卦之爻皆六,分陰分陽,而天地之氣以見。由六爻之變,而八卦成六十四卦,四十八爻成三百八十四爻,此皆自本推之末也。天地生成,自少而眾;人物生化,自簡而繁。雖有終始之殊,究無氣數之異,故八者變為六十四,四十八者變為三百八十四,皆自氣數之分合者也。
もともと一個の卦の基本結構は三画で、天・地・人のこの「三才」を象るに用いる。そして三才はまた各々陰陽両面あるがゆえに、これを加倍して六爻と為す。六爻の卦は体と用とが斉備し陰と陽とを兼具するので、卦は六爻に成ると言う。成す所は正に天地人である。八卦は重畳の後に每一卦皆六爻で、六爻の中に陰を分かち陽を分かち、天地の気はこれによって顕現す。六爻の変動を経て、八卦は六十四卦に拡がり、四十八爻は三百八十四爻に拡がる。これは皆根本より枝末に推すのである。天地の生成は少より多へ、人と物の生化は簡より繁へ。その間に先後終始の差別あるとはいえ、気数の道理は二致なし。だから八は六十四に変じ、四十八は三百八十四に変ず。全く気数の分と合とに出づ。
氣數分合,有綱有紀,有起有止;卦之與爻,有統有屬,有錯有綜,以象之也。八卦之分變而成六十四,由其卦象之推移可見者也。一卦所變為八,八八為六十四,故八卦為綱也。四十八爻之變為三百八十四爻,其象亦同,由卦之象見之也。蓋爻者卦之支體,卦變則爻隨之。爻始於□、□,即兩儀也。
気数の分合は雑乱ではない。総綱あり、条理あり、起点あり、終点あり。卦と爻との間もまたこのごとく、統轄するあり、隷属するあり、「錯」(陰陽互換)あり、「綜」(上下倒置)あり、これらの関係をもって象を取る。八卦は分化して六十四卦を成す。卦象の推移の上より見出し得る。一卦は各々八卦に変じ、八八相乗すれば便ち六十四なので、八卦は綱領である。四十八爻が三百八十四爻に変ずるも道理はこれと同じで、これもまた卦象の上より見出される。爻は卦の肢体で、卦が一たび変動すれば爻はこれに隨って変動するからである。そして爻は最初ただ陽爻「⚊」と陰爻「⚋」の二画のみ。これがすなわち両儀である。
積爻為卦,不離兩儀,故爻之變不出於□、□之推往移往復。卦以爻成,故爻變而卦亦隨之。以卦言,則爻隨卦變;以爻言,則卦以爻變,實則皆氣數之變也。如八卦自□變,而□自成,則由□變者,莫不由變也。六爻成卦,六位成章,故卦有六變,□六變,而成八卦,即□、□六八之數,合之為四十八爻。因其六位之易,而自有□之體。
爻を累積すれば卦と成り、累積の材料は始終両儀を出ない。だから爻の変化もまた陽画と陰画のこの両者の往来推移を外ならぬ。卦は爻より構成するので、爻が一変すれば卦もまたこれに跟って変ず。卦の角度より見れば、爻は卦に隨って変ず。爻の角度より見れば、卦は爻に因って変ず。実は両種の説法は皆同一の事を講ずる。すなわち気数が変じているのである。たとえば八卦は陽画より変じ出たが、陰画もまた自然にこれに隨って成る。然らば凡そ陽画の変ずる所に由るは、一つとして変に由らざるなし。六爻は一卦を構成し、六個の爻位は条理に排する。だから每卦に六重の変化あり、六変の後に八卦を成す。すなわち六と八と相乗する数で、合わせて共に四十八爻。正に六個の爻位が互易し得るがゆえに、卦体自体もまたこれに隨って確立す。
故以八變。八者,後天之木數,物之初生也,以象生化之序,故八卦之變亦盡於八。以其變化之序言之,則凡□者必變為□,□者變為□。自其三位之爻言之,則其變者自下之爻始,六位之爻亦然。故初變自下之爻,由下遞上,六變而至上位,與其對位本二者合之,則八變也。
だから每一宮は皆「八」をもって変の限数と為す。「八」は后天五行の中の木の成数で、物の初生を代表し、生化の次第を象徴するに用いる。それゆえ八卦の変化もまた八をもって止めりと為す。変化の次第に就いて言えば、凡そ陽爻は必ず陰爻に変じ、陰爻は必ず陽爻に変ず。三画卦に就いて言えば、変動は最下の一爻より始まる。六画卦もまた同様の道理である。だから第一変は初爻より起り、下より上に遞変し、第六次に変じて上爻に到る。さらに「対位」(游魂)と「本位」(帰魂)のこの二変を加えれば、合わせてちょうど八変となる。
故有一宮八卦之變象焉。其對位者,如天與地,水與火,雷與風,山與澤,皆正對也,亦陰與陽也。本位者,言返其本主也,如天之歸天,地之歸地,各復其本原,猶陰還陰,陽還陽也。故名對位曰游魂,反位曰歸魂。往者必復,終者仍始之道也,亦由氣至而自致也。故變終於不變,此變之常度也。
そこで每一宮に八個の卦の変象ある。いわゆる「対位」とは、天と地、水と火、雷と風、山と沢のごとき両々正しく相対待する関係で、すなわち陰と陽の対待である。いわゆる「本位」とは、それの本来の主人に返るを言う。ちょうど天は天に帰し地は地に帰して、各々自己の本原に回るがごとく、陰が陰に還帰し陽が陽に還帰するがごとし。だから対位のあの一変を「游魂」と呼び、返位のあの一変を「帰魂」と呼ぶ。去った者は必ず回り来る。終結の処は依然として開始である。これは天地の常道であり、また気が自らあの一歩に走到して自然に至達するのである。だから変は最後に至って不変に帰す。これは正に変化の常規である。
八卦之變以此而極於八,八八六十四卦,而其變已盡,其氣已極。盡則反始,極則復生,雖有變者,仍還於初,不必更推之也,故卦終於八八,而全易之卦已成矣。爻隨卦動,卦以爻成,卦盡則爻亦盡,卦終則爻亦終,此爻亦盡於八之四十八,而止於三百八十四爻,雖有變者,不更推之矣。夫數本於氣,循環無端,寧有終極?而曰盡者,言其一段也,如以三百六十五日紀一歲也,天地之數皆至是而更轉也,故卦爻盡焉,盡而未嘗盡也。
八卦の変化はかくのごとく八をもって極限と為し、八に八を乗じて六十四卦を得、ここに至って変化はすでに窮尽し気もまた頂に到った。窮尽すれば起点に返り、頂に到れば重新に生発す。たとえ更に変化あるも、依然として最初に回る。更に下に推すを要しない。だから卦は八八の数に終止し、全部《易》の卦はこれにて完備す。爻は卦に隨って動き、卦はまた爻に依って成る。卦が窮尽すれば爻もまた窮尽し、卦が終結すれば爻もまた終結す。だから爻も同じく八に四十八を乗ずるをもって限と為し、三百八十四爻に止まる。たとえ更に変化あるも、更に下に推さず。実は数はもともと気に出で、循環に起点なく終点もなし。何処に真の終極あらんや。いわゆる「尽」とは、ただその中の一段に就いて言うのみ。ちょうど三百六十五日をもって一年を記するがごとく、天地の数はここに到って重新に一輪を転ずるにすぎない。だから言う、卦爻に尽ありとはいえ、この「尽」は真の窮尽ではない。
