滕文公(とうぶんこう)上
滕文公為世子,將之楚,過宋而見孟子。孟子道性善,言必稱堯舜。
滕文公世子と爲るに、將に楚に之かんとして、宋に過りて孟子に見ゆ。孟子性善を道ふ。言はば必ず堯舜を稱す。
世子自楚反,復見孟子。孟子曰:「世子疑吾言乎?夫道一而已矣。成覸謂齊景公曰:『彼丈夫也,我丈夫也,吾何畏彼哉?』顏淵曰:『舜何人也?予何人也?有為者亦若是。』公明儀曰:『文王我師也,周公豈欺我哉?』今滕,絕長補短,將五十里也,猶可以為善國。《書》曰:『若藥不瞑眩,厥疾不瘳。』」
世子楚に自りて反り、復た孟子に見ゆ。孟子曰く、「世子吾が言を疑ふか。夫れ道は一にして已む。成覸(せいかん)齊景公に謂ひて曰く、「彼丈夫なり、我丈夫なり。吾何ぞ彼を畏れんや」と。顏淵曰く、「舜何の人ぞや、予何の人ぞや。有爲の者亦若く是なり」と。公明儀曰く、「文王我が師なり、周公豈に我を欺かん哉」と。今滕、長を絕ち短を補はば、將に五十里に及ばん。猶ほ以て善國と爲る可し。《書》に曰く、「若し藥瞑眩(めいげん)せざれば、厥の疾瘳(ちゅう)ぜず」と。」
滕定公薨。世子謂然友曰:「昔者孟子嘗與我言於宋,於心終不忘。今也不幸至於大故,吾欲使子問於孟子,然後行事。」
滕定公薨ず。世子然友に謂ひて曰く、「昔者孟子嘗て我と宋に於て言ふ。心に於て終に忘れず。今も不幸大故(大喪)に至りて、吾子を欲して之を孟子に問はしめ、然る後事を行はん」と。
然友之鄒問於孟子。孟子曰:「不亦善乎!親喪固所自盡也。曾子曰:『生事之以禮;死葬之以禮,祭之以禮,可謂孝矣。』諸侯之禮,吾未之學也;雖然,吾嘗聞之矣。三年之喪,齊疏之服,飦粥之食,自天子達於庶人,三代共之。」
然友鄒に之きて孟子に問ふ。孟子曰く、「不も好かろや。親の喪や、固より自ら盡す所なり。曾子曰く、「生くるは事へるに禮を以てし、死するは葬るに禮を以てし、祭るに禮を以てす。可ならん、孝と謂ふに」と。諸侯の禮は、吾未だ之を學ばず。雖し然り、吾嘗て之を聞く。三年の喪、齊疏(さいそ)の服、飦(かゆ)粥の食、天子より以て庶人に達す。三代之を共にす」と。
然友反命,定為三年之喪。父兄百官皆不欲,曰:「吾宗國魯先君莫之行,吾先君亦莫之行也,至於子之身而反之,不可。且志曰:『喪祭從先祖。』」曰:「吾有所受之也。」謂然友曰:「吾他日未嘗學問,好馳馬試劍。今也父兄百官不我足也,恐其不能盡於大事,子為我問孟子。」
然友反りて命を復す。三年の喪と定む。父兄百官皆欲せず、曰く、「吾が宗國魯の先君之れ莫く行ひ、吾が先君亦莫く行ふ。子に至りて之を反せば、不可なり。且つ志曰く、「喪祭先祖に從へ」」といふ。曰く、「吾有所受けたり」といふ。然友に謂ひて曰く、「吾他日嘗て學問せず、馳馬して劍を試むるを好めり。今父兄百官我を以て足とせず。恐る、能く大事に盡さざらん。子我が爲に孟子に問へ」と。
然友復之鄒問孟子。孟子曰:「然。不可以他求者也。孔子曰:『君薨,聽於冢宰。歠粥,面深墨。即位而哭,百官有司,莫敢不哀,先之也。』上有好者,下必有甚焉者矣。『君子之德,風也;小人之德,草也。草尚之風必偃。』是在世子。」
然友復た鄒に之きて孟子に問ふ。孟子曰く、「然り。是れ他に求む可からざるなり。孔子曰く、「君薨ずれば、冢宰に聽く。飦粥を歠(せつ)して、面深墨たり。位に卽きて哭し、百官有司敢て哀ならざる莫し、先之を行ふ有り」といふ。上に好む所有れば、下に甚しき者有るに必ず。「君子の德は風なり、小人の德は草なり。草上(う)に風必ず偃す」と。是れ世子に在り」と。
然友反命。世子曰:「然。是誠在我。」五月居廬,未有命戒。百官族人可謂曰知。及至葬,四方來觀之,顏色之戚,哭泣之哀,弔者大悅。
然友反りて命を復す。世子曰く、「然り。是れ誠に我に在り」と。五月廬に居りて、命戒を未有らず。百官族人可なり、以て知ると曰ふ。葬に及びて、四方之を觀る。顏色の戚(せき)、哭泣の哀、弔する者大いに悅ぶ。
滕文公問為國。孟子曰:「民事不可緩也。《詩》云:『晝爾於茅,宵爾索綯;亟其乘屋,其始播百穀。』民之為道也,有恆產者有恆心,無恆產者無恆心。苟無恆心,放辟邪侈,無不為已。及陷乎罪,然後從而刑之,是罔民也。焉有仁人在位,罔民而可為也?是故賢君必恭儉禮下,取於民有制。陽虎曰:『為富不仁矣,為仁不富矣。』
滕文公國を爲るを問ふ。孟子曰く、「民事緩む可からず。《詩・豳風・七月》に曰く、「晝爾て茅を于(とり)、宵爾て綯(じょう)を索(つく)る。亟ぎて其の乘屋(じょうおく)して、其の始め百穀を播く」と。民之爲道や、恒産有る者恒心有り、恒産無き者恒心無し。苟くも恒心無くんば、放辟邪侈、爲す所無きなり。罪に陷るに及びて、然る後從りて之を刑す。是れ民を罔く。焉んぞ仁人位に在りて、民を罔くことを爲さんや。是故に賢君必ず恭儉禮下、民に取るに經(きょう)有り。陽虎曰く、「富を爲れば不仁、仁を爲れば不富」と。
「夏后氏五十而貢,殷人七十而助,周人百畝而徹,其實皆什一也。徹者,徹也;助者,藉也。龍子曰:『治地莫善於助,莫不善於貢。貢者校數歲之中以為常。樂歲,粒米狼戾,多取之而不為虐,則寡取之;凶年,糞其田而不足,則必取盈焉。為民父母,使民盻盻然,將終歲勤動,不得以養其父母,又稱貸而益之。使老稚轉乎溝壑,惡在其為民父母也?』夫世祿,滕固行之矣。《詩》云:『雨我公田,遂及我私。』惟助為有公田。由此觀之,雖周亦助也。
(孟子續けて曰く、)「夏后氏五十にして貢し、殷人七十にして助し、周人百畝にして徹す。其れ實に皆什一なり。徹は徹(通)なり、助は藉(しゃく)なり。龍子曰く、「地を治むるに助に善き莫し、貢に不善き莫し。貢は歲數年を校(こう)して以て常と爲す。樂歲は粒米狼戾(ろうれい)多く、之を取るを寡と爲さず。寡く取るに足らざる、非虐なり。凶年は其の田を糞(ふん)して足らず、則ち必ず滿を取る。民の父母と爲りて、民をして睊睊として、將に歲を終へて勤しみ、其の父母を養ふに贍らず、又貸して以て之を益さん。老稚をして溝壑に轉じて死なしむれば、惡に在りてか其の民の父母と爲らん。夫れ世祿は、滕固より之を行ふ。《詩・小雅・大田》に曰く、「我が公田に雨して、遂に我が私に及ぶ」と。惟れ助を爲して公田有り。此に由りて之を觀れば、雖し周亦助なり。
「設為庠序學校以教之:庠者,養也;校者,教也;序者,射也。夏曰校,殷曰序,周曰庠,學則三代共之,皆所以明人倫也。人倫明於上,小民親於下。有王者起,必來取法,是為王者師也。《詩》雲『周雖舊邦,其命惟新』,文王之謂也。子力行之,亦以新子之國。」
(孟子續けて曰く、)「設けて庠序學校に以て之を敎ふ。庠は養なり、校は敎なり、序は射なり。夏を校と曰し、殷を序と曰し、周を庠と曰す。學は則ち三代之を共にす。皆人倫を明らかにする所以なり。人倫上に明らかなれば、小民下に親しむ。王者興らん有らば、必ず來りて法を取らん。是れ王者の師と爲るなり。《詩・大雅・文王》に曰く、「周舊邦と雖も、其の命惟れ新なり」と。文王之を謂ふなり。子力を盡して行ひ、亦以て子の國を新たにせよ」と。
使畢戰問井地。孟子曰:「子之君將行仁政,選擇而使子,子必勉之!夫仁政,必自經界始。經界不正,井地不鈞,谷祿不平。是故暴君汙吏必慢其經界。經界既正,分田制祿可坐而定也。夫滕壤地褊小,將為君子焉,將為野人焉。無君子莫治野人,無野人莫養君子。請野九一而助,國中什一使自賦。卿以下必有圭田,圭田五十畝。餘夫二十五畝。死徙無出鄉,鄉田同井。出入相友,守望相助,疾病相扶持,則百姓親睦。方里而井,井九百畝,其中為公田。八家皆私百畝,同養公田。公事畢,然後敢治私事,所以別野人也。此其大略也。若夫潤澤之,則在君與子矣。」
文公使へり畢戰井地を問はしむ。孟子曰く、「子の君將に仁政を行はんとして、選擇して子を使す。子必ず勉めよ。夫れ仁政は必ず經界に自(まさ)らん。經界正しからざれば、井地鈞(ひと)しからず、穀祿平らがらず。是故に暴君汙吏必ず其の經界を慢る。經界旣に正ければ、分田制祿、坐して定む可し。夫れ滕壤地褊小と雖も、將に君子有らん、將に野人有らん。君子無くんば野人を治むる莫く、野人無くんば君子を養ふ莫し。請ふ、野に於ては九一にして助し、國中什一を以て自ら賦す。卿以下必ず圭田(けいでん)有り、圭田五十畝。餘夫二十五畝。死徙鄕を出でず、鄕田同井なり。出入相友(あいゆう)、守望相助け、疾病相扶持せば、則ち百姓親睦せん。方里にして井なり、井九百畝、其の中を公田と爲す。八家皆私百畝、同じく公田を養ふ。公事畢りて、然る後敢て私事を治む。以て野人を別つ所以なり。此れ其の大略なり。若し之を潤澤せば、則ち君と子とに在り」と。
有為神農之言者許行,自楚之滕,踵門而告文公曰:「遠方之人聞君行仁政,願受一廛而為氓。」文公與之處,其徒數十人,皆衣褐,捆屨、織蓆以為食。
有りて神農の言を爲す者許行、楚より滕に自りて、門に踵(しょう)して文公に告げて曰く、「遠方の人、君の仁政を行ふを聞きて、願はくは一廛を受けて氓(ほう)と爲らん」と。文公之に處を與ふ。其の徒數十人、皆褐を衣て、屨(くつ)席を織りて以て食と爲す。
陳良之徒陳相與其弟辛,負耒耜而自宋之滕,曰:「聞君行聖人之政,是亦聖人也,願為聖人氓。」陳相見許行而大悅,盡棄其學而學焉。
陳良の徒陳相と其の弟辛と、耒耜(らいし)を負ひて宋より滕に自りて曰く、「君の聖人之政を行ふを聞きて、是れ亦聖人なり。願はくは聖人の氓と爲らん」と。陳相許行に見えて大いに悅び、盡く其の學を棄てて學ぶ。
陳相見孟子,道許行之言曰:「滕君,則誠賢君也;雖然,未聞道也。賢者與民並耕而食,饔飧而治。今也滕有倉廩府庫,則是厲民而以自養也,惡得賢?」
陳相孟子に見え、許行の言を道ふて曰く、「滕君は則ち誠に賢君なり。雖し然り、未だ道を聞かざるなり。賢者は民と竝びて耕して食ふ、饔飧(ようそん)して治む。今も滕、倉廩府庫有るは、則ち是れ民を厲(がい)して以て自ら養ふ。惡に在りてか賢を得んや」と。
孟子曰:「許子必種粟而後食乎?」曰:「然。」
孟子曰く、「許子必ず粟を種ゑて然る後食ふか」。曰く、「然り」。
「許子必織布而後衣乎?」曰:「否。許子衣褐。」
「許子必ず布を織りて然る後衣るか」。曰く、「否。許子褐を衣る」。
「許子冠乎?」曰:「冠。」
「許子冠るか」。曰く、「冠る」。
曰:「奚冠?」曰:「冠素。」
曰く、「奚に冠るか」。曰く、「素に冠る」。
曰:「自織之與?」曰:「否。以粟易之。」
曰く、「自ら織りて之を易ふか」。曰く、「否。粟を以て之を易ふ」。
曰:「許子奚為不自織?」曰:「害於耕。」
曰く、「許子奚ぞ自ら織らざるや」。曰く、「耕を害す」。
曰:「許子以釜甑爨,以鐵耕乎?」曰:「然。」
曰く、「許子釜甑(ふそう)を以て爨(かし)ぎ、鐵を以て耕するか」。曰く、「然り」。
「自為之與?」曰:「否。以粟易之。」
「自ら之を爲すか」。曰く、「否。粟を以て之を易ふ」。
「以粟易械器者,不為厲陶冶;陶冶亦以其械器易粟者,豈為厲農夫哉?且許子何不為陶冶。舍皆取諸其宮中而用之?何為紛紛然與百工交易?何許子之不憚煩?」曰:「百工之事,固不可耕且為也。」
(孟子曰く、)「粟を以て械器を易ふるは、不爲(すなわち)厲(そこな)ふこと陶治を害せず。陶治亦其の械器を以て粟を易粟を易ふるは、豈に厲ふこと農夫を害するを謂らんや。且つ許子何ぞ陶治を爲さずして、皆其の宮中に於て取りて之を用ゐんや。何ぞ紛紛然として百工と交易す。何ぞ許子之の煩を憚(はばか)らざるや」。曰く、「百工の事は、固より耕して爲る可からざるなり」。
「然則治天下獨可耕且為與?有大人之事,有小人之事。且一人之身,而百工之所為備。如必自為而後用之,是率天下而路也。故曰:或勞心,或勞力;勞心者治人,勞力者治於人;治於人者食人,治人者食於人:天下之通義也。
「然らば則ち天下を治むるは、獨り耕して爲る可きか。大人の事有り、小人の事有り。且つ一人の身に、百工の爲す所備へば、若し必ず自ら爲して然る後之を用ゐれば、是れ天下を率ゐて路に奔せしむ。故曰く、或は心を勞し、或は力を勞す。心を勞する者は人を治め、力を勞する者は人に治めらる。人に治めらるる者は人を食(し)ひ、人を治むる者は人に食はる。天下之通義なり。
「當堯之時,天下猶未平,洪水橫流,氾濫於天下。草木暢茂,禽獸繁殖,五穀不登,禽獸偪人。獸蹄鳥跡之道,交於中國。堯獨憂之,舉舜而敷治焉。舜使益掌火,益烈山澤而焚之,禽獸逃匿。禹疏九河,瀹濟漯,而注諸海;決汝漢,排淮泗,而注之江,然後中國可得而食也。當是時也,禹八年於外,三過其門而不入,雖欲耕,得乎?后稷教民稼穡。樹藝五穀,五穀熟而民人育。人之有道也,飽食、煖衣、逸居而無教,則近於禽獸。聖人有憂之,使契為司徒,教以人倫:父子有親,君臣有義,夫婦有別,長幼有序,朋友有信。放勳曰:『勞之來之,匡之直之,輔之翼之,使自得之,又從而振德之。』聖人之憂民如此,而暇耕乎?
(孟子續けて曰く、)「當堯の時に、天下猶ほ未平、洪水橫流して、天下に氾濫す。草木暢茂し、禽獸繁殖し、五穀登(な)らず、禽獸人に偪(せま)る。獸蹄鳥迹の道、中國に交す。堯獨り之を憂へ、舜を擧げて之を敷治せしむ。舜使へり益火を掌(つかさど)らしめ、益山澤に烈(とも)して之を焚けば、禽獸逃匿す。禹九河を疏(そ)して、濟漯(さいたく)を瀹(やく)して海に注ぎ、汝漢を決して、淮泗を排して江に注げば、然る後中國得て食ふ可きなり。當是の時に、禹八年外に在り、三其の門を過りて入らず。雖し耕さんと欲せば、得乎。后稷民を敎へて稼穡し、五穀を樹藝(じゅげい)し、五穀熟れて民人育つ。人之爲道や、飽食煖衣、逸居して敎無くんば、則ち禽獸に近し。聖人有るを憂へ、契を使して司徒と爲し、敎へて人倫を以てす。父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り。放勳曰く、「之を勞し、之を來らしめ、之を匡(ただ)し、之を直し、之を輔け、之を翼して、自ら得せしめ、又從りて之を振德す」と。聖人の民を憂ふること此の如く、而る況んや暇耕さんや。
「堯以不得舜為己憂,舜以不得禹、皋陶為己憂。夫以百畝之不易為己憂者,農夫也。分人以財謂之惠,教人以善謂之忠,為天下得人者謂之仁。是故以天下與人易,為天下得人難。孔子曰:『大哉堯之為君!惟天為大,惟堯則之,蕩蕩乎民無能名焉!君哉舜也!巍巍乎有天下而不與焉!』堯舜之治天下,豈無所用其心哉?亦不用於耕耳。
(孟子續けて曰く、)「堯以て舜を得ざるを己が憂と爲し、舜以て禹皋陶を得ざるを己が憂と爲す。夫れ百畝之不易を以て己が憂と爲すは、農夫なり。財を人に分かち之を與ふるを惠と謂ひ、善を以て人を敎ふるを忠と謂ひ、天下の爲に人を得るを仁と謂ふ。是故に天下を以て人と易ふるは易く、天下の爲に人を得るは難し。孔子曰く、「大なる哉堯之君たる。惟れ天惟れ大、惟れ堯則ち之を則(の)る。蕩蕩乎民名づくる能はざるなり。君なる哉舜。巍巍乎天下有りて與(あずか)らず」と。堯舜の天下を治むる、豈に用ゐる所無くんば、亦耕に用ゐるのみならざるなり。」
「吾聞用夏變夷者,未聞變於夷者也。陳良,楚產也。悅周公、仲尼之道,北學於中國。北方之學者,未能或之先也。彼所謂豪傑之士也。子之兄弟事之數十年,師死而遂倍之。昔者孔子沒,三年之外,門人治任將歸,入揖於子貢,相向而哭,皆失聲,然後歸。子貢反,築室於場,獨居三年,然後歸。他日,子夏、子張、子游以有若似聖人,欲以所事孔子事之,彊曾子。曾子曰:『不可。江漢以濯之,秋陽以暴之,皜皜乎不可尚已。』今也南蠻鴃舌之人,非先王之道,子倍子之師而學之,亦異於曾子矣。吾聞出於幽谷遷於喬木者,末聞下喬木而入於幽谷者。《魯頌》曰:『戎狄是膺,荊舒是懲。』周公方且膺之,子是之學,亦為不善變矣。」
(孟子續けて曰く、)「吾夏を以て夷を變ずるを聞く、未だ夷に變ぜらるるを聞かざるなり。陳良は楚の産なり。周公仲尼の道を悅びて、北方に之きて中國に學ぶ。北方の學者、能く或は之に先んずる未有らず。彼所謂豪傑之士なり。子の兄弟之に事ふる數十年、師死して遂に之を倍(そむ)く。昔者孔子沒す。三年之外、門人治任(じん)して將に歸らんとす。入りて子貢に揖み、相嚮きて哭して、皆聲を失ふ、然る後歸る。子貢反りて室を場に築き、獨居ること三年、然る後歸る。他日、子夏、子張、子游、有若を以て聖人に似たり、以て聖人に事ふる禮之に事へんと欲して、曾子を強ふる。曾子曰く、「不可。江漢以て濯(あら)ふ、秋陽以て暴(ひ)る。皜皜乎尚(な)ほ已む可からざるなり」と。今也南蠻鴃舌(けんぜつ)之人、先王の道を非す。子倍いて師を叛きて之を學ぶは、亦曾子に異なり。吾聞く、幽谷に出でて喬木に遷るを聞く、未だ喬木を下りて幽谷に入るを聞かず。《詩・魯頌・閟宮》に曰く、「戎狄是膺(あつ)、荆舒是懲」と。周公方に之を膺す、子之を學ばんと欲すは、亦善變ぜざるなり」といふ。
「從許子之道,則市賈不貳,國中無偽。雖使五尺之童適市,莫之或欺。布帛長短同,則賈相若;麻縷絲絮輕重同,則賈相若;五穀多寡同,則賈相若;屨大小同,則賈相若。」曰:「夫物之不齊,物之情也;或相倍蓰,或相什伯,或相千萬。子比而同之,是亂天下也。巨屨小屨同賈,人豈為之哉?從許子之道,相率而為偽者也,惡能治國家?」
「許子の道に從へば、則ち市賈(しか)二ならず、國中僞無し。雖し五尺の童をして市に適かしめて、之を欺く莫し。布帛長短同じくんば、則ち賈相若(ひと)し。麻縷絲絮軽重同じくんば、則ち賈相若し。五穀多寡同じくんば、則ち賈相若し。屨大小同じくんば、則ち賈相若し」。曰く、「夫れ物の不齊は、物の情なり。或は倍蓰(ばいし)に相倍し、或は什百に相倍し、或は千萬に相倍す。子之を比して齊ひ、是れ天下を亂さん。巨屨小屨同賈なれば、人豈に之を爲さん哉。許子の道に從へば、相率ゐて而て僞を爲す。惡に在りてか國家を治めんや」と。
墨者夷之,因徐闢而求見孟子。孟子曰:「吾固願見,今吾尚病,病癒,我且往見,夷子不來!」
墨者夷之、徐辟に因りて孟子に見えんを求む。孟子曰く、「吾固より願はくは見えん。今吾尚病み、病愈えば、我且(まさ)に往きて見えん。夷子來る勿れ」と。
他日又求見孟子。孟子曰:「吾今則可以見矣。不直,則道不見;我且直之。吾聞夷子墨者。墨之治喪也,以薄為其道也。夷子思以易天下,豈以為非是而不貴也?然而夷子葬其親厚,則是以所賤事親也。」
他日、又求めて孟子に見えん。孟子曰く、「吾今則ち以て見えん。直からざれば、道見(あらわ)れず。我且つ之を直さんとす。吾聞く、夷子墨者なり。墨之喪を治むるや、薄を以て其の道と爲す。夷子思ふ、以て天下を易ふは、豈に以て非ざれば是れ貴からざると爲すや。然而夷子其の親を葬るや厚し。則ち是其の所賤を以て親に事ふなり」と。
徐子以告夷子。夷子曰:「儒者之道,古之人『若保赤子』,此言何謂也?之則以為愛無差等,施由親始。」
徐子以て夷子に告ぐ。夷子曰く、「儒者之道は、古人之「若(ひと)く赤子を保す」と。此言何の謂ぞ。之則ち以て愛差等無し、施親に由る」と。
徐子以告孟子。孟子曰:「夫夷子,信以為人之親其兄之子為若親其鄰之赤子乎?彼有取爾也。赤子匍匐將入井,非赤子之罪也。且天之生物也,使之一本,而夷子二本故也。蓋上世嘗有不葬其親者。其親死,則舉而委之於壑。他日過之,狐狸食之,蠅蚋姑嘬之。其顙有泚,睨而不視。夫泚也,非為人泚,中心達於面目。蓋歸反虆梩而掩之。掩之誠是也,則孝子仁人之掩其親,亦必有道矣。」
徐子以て孟子に告ぐ。孟子曰く、「夫れ夷子、信(まこと)に以て人之其の兄の子を親むる、若く其の鄰の赤子を親むるに爲すか。彼取る所有り。赤子匍匐(ほふく)して將に井に入らんとす。是れ赤子の罪に非ざるなり。且つ天之生物や、其の一本を使ふ。夷子二本の故なり。蓋し上世嘗て其の親を葬らざる者有り。其の親死するや、則ち擧げて之を壑に委ぬ。他日之を過ぎて、狐狸之を食らひ、蠅蚋(ようぜい)之を嘬(す)ふ。其の顙(ぬか)に泚(し)ありて、睨(げい)して視ず。夫れ泚は、人に非ざるなり、中心の面目に達するなり。蓋し歸りて虆梩(るいし)を反りて之を掩(おほ)ふ。之を掩ふこと誠に是なれば、則ち孝子仁人の其の親を掩ふも、亦道有らん」と。
徐子以告夷子。夷子憮然為閒曰:「命之矣。」
徐子以て夷子に告ぐ。夷子憮然(ぶぜん)として爲に間(かん)して曰く、「之を命ぜられり」と。
滕文公(とうぶんこう)下
陳代曰:「不見諸侯,宜若小然;今一見之,大則以王,小則以霸。且志曰:『枉尺而直尋』,宜若可為也。」
陳代曰く、「諸侯に見えざるは、宜しきに似たり。小然(ささやか)なるか。今一見えば、大なれば則ち以て王たらしめ、小なれば則ち以て霸たらしめん。且つ志曰く、「尺を枉げて八尋を直くす」と、似たり、以て爲す可きなり」と。
孟子曰:「昔齊景公田,招虞人以旌,不至,將殺之。志士不忘在溝壑,勇士不忘喪其元。孔子奚取焉?取非其招不往也,如不待其招而往,何哉?且夫枉尺而直尋者,以利言也。如以利,則枉尋直尺而利,亦可為與?昔者趙簡子使王良與嬖奚乘,終日而不獲一禽。嬖奚反命曰:『天下之賤工也。』或以告王良。良曰:『請復之。』彊而後可,一朝而獲十禽。嬖奚反命曰:『天下之良工也。』簡子曰:『我使掌與女乘。』謂王良。良不可,曰:『吾為之範我馳驅,終日不獲一;為之詭遇,一朝而獲十。《詩》云:「不失其馳,舍矢如破。」我不貫與小人乘,請辭。』御者且羞與射者比。比而得禽獸,雖若丘陵,弗為也。如枉道而從彼,何也?且子過矣,枉己者,未有能直人者也。」
孟子曰く、「昔齊景公田し、虞人を招くに旌(せい)を以てす。至らず、將に之を殺さんとす。志士溝壑に在るを忘れず、勇士其の元(こうべ)を喪ふを忘れず。孔子奚を取るや。取る、其の召する所に非ざれば往かざるを取る。其の召する所を待たずして往けば、何ぞや。且つ夫れ尺を枉げて八尋を直くするは、利を以て言ふなり。如かん、利を以てすれば、則ち八尋を枉げて一尺を直くして利は、亦爲す可きか。昔者趙簡子使へり王良と嬖奚乘りと爲さしめ、終日して一禽を獲ず。嬖奚命を反して曰く、「天下の賤工なり」。或以て王良に告ぐ。良曰く、「請ふ復た之を爲さしめん」と。強(し)めて後可なり。一朝して十禽を獲る。嬖奚命を反して曰く、「天下之良工なり」。簡子曰く、「我使ふ、女に專ら乘らしめん」と。王良を爲して謂ふ。良不可なり、曰く、「吾之を範して馳驅するや、終日して一を獲ず。之を詭遇(きぐう)して、一朝して十を獲る。《詩・小雅・車攻》に曰く、「其の馳驅を失はず、舍矢破きの如し」と。吾嬖習はず、小人に乘るを爲に。請。請ふ辭せん」と。御者且つ射者と比ぶるを羞ぢ、比ぶて禽獸を得る、雖し丘陵の若くんば、爲さざるなり。如かん、枉道而彼に從ふは、何ぞや。且つ子過ぎたり、己を枉ぐる者、未だ能く人を直くする有らず」と。
景春曰:「公孫衍、張儀豈不誠大丈夫哉?一怒而諸侯懼,安居而天下熄。」
景春曰く、「公孫衍、張儀、豈に誠に大丈夫ならずや。一怒して諸侯懼れ、安居して天下熄(そく)す」と。
孟子曰:「是焉得為大丈夫乎?子未學禮乎?丈夫之冠也,父命之;女子之嫁也,母命之,往送之門,戒之曰:『往之女家,必敬必戒,無違夫子!』以順為正者,妾婦之道也。居天下之廣居,立天下之正位,行天下之大道。得志與民由之,不得志獨行其道。富貴不能淫,貧賤不能移,威武不能屈。此之謂大丈夫。」
孟子曰く、「是れ焉んぞ以て大丈夫と爲さんや。子未だ禮を學ばずや。丈夫の冠る、父之を命ず。女子の嫁する、母之を命じて、往くに門を送り、之を戒めて曰く、「女の家に往きて、必ず敬し、必ず戒め、夫子に違ふ無かれ」と。順を以て正と爲すは、妾婦の道なり。天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ。志を得れば民之に由り、志を得ずんば獨り其の道を行ふ。富貴能く淫せず、貧賤能く移せず、武威能く屈せず。此れ之を大丈夫と謂ふ」と。
周霄問曰:「古之君子仕乎?」
周霄問ふて曰く、「古の君子仕ふるか」と。
孟子曰:「仕。傳曰:『孔子三月無君,則皇皇如也,出疆必載質。』公明儀曰:『古之人三月無君則吊。』」
孟子曰く、「仕ふ。傳曰く、「孔子三月君無くんば、則ち皇皇如也。疆(境)を出づれば必ず質(しつ)を載む」と。公明儀曰く、「古人三月君無くんば、則ち弔す」と。」
「三月無君則吊,不以急乎?」
「三月君無くんば則ち弔す、不以て急ならざるか」と。
曰:「士之失位也,猶諸侯之失國家也。禮曰:『諸侯耕助,以供粢盛;夫人蠶繅,以為衣服。犧牲不成,粢盛不潔,衣服不備,不敢以祭。惟士無田,則亦不祭。』牲殺器皿衣服不備,不敢以祭,則不敢以宴,亦不足吊乎?」
孟子曰く、「士之位を失ふは、猶ほ諸侯の國家を失ふがごとし。禮曰く、「諸侯耕助して、以て粢盛(しせい)を供へ、夫人蠶繅(さんそう)して、以て衣服を爲す。犧牲成らざれば、粢盛絜(きよ)からざれば、衣服備らざれば、敢て以て祭らず。惟れ士田無きは、則ち亦祭らず」と。牲殺、器皿、衣服備らざれば、敢て以て祭らず、則ち亦敢て以て宴せず。亦以て弔すに足らざるか」と。
「出疆必載質,何也?」
「疆を出づれば必ず質を載む、何ぞや」と。
曰:「士之仕也,猶農夫之耕也,農夫豈為出疆舍其耒耜哉?」
曰く、「士之仕ふるや、猶ほ農夫之耕するがごとし。農夫豈に疆を出づるを以て其の耒耜を舍てんや」と。
曰:「晉國亦仕國也,未嘗聞仕如此其急。仕如此其急也,君子之難仕,何也?」
曰く、「晉國亦仕國なり。未だ嘗て仕へる之急なるを聞かず。仕へる之急なる、君子之仕へ難きは何ぞや」と。
曰:「丈夫生而願為之有室,女子生而願為之有家。父母之心,人皆有之。不待父母之命、媒妁之言,鑽穴隙相窺,逾牆相從,則父母國人皆賤之。古之人未嘗不欲仕也,又惡不由其道。不由其道而往者,與鑽穴隙之類也。」
孟子曰く、「丈夫生而て願はくは之が爲に室有らん、女子生而て願はくは之が爲に家有らん。父母之心、人皆之有り。父母の命を待たず、媒妁之言を鑽穴隙(さんけつげき)して相窺(すかし)し、牆を踰えて相從せば、則ち父母國人皆之を賤とす。古人未だ嘗て仕ふるを欲せざりし、又其の道に由らずを惡む。其の道に由らずして往くは、鑽穴隙之類と與(ひと)し」と。
彭更問曰:「後車數十乘,從者數百人,以傳食於諸侯,不以泰乎?」
彭更問ふて曰く、「後車數十乘、從者數百人、以て傳食諸侯に於て、不以て泰ならざるか」と。
孟子曰:「非其道,則一簞食不可受於人;如其道,則舜受堯之天下,不以為泰,子以為泰乎?」
孟子曰く、「其の道に非ざれば、則ち一簞の食、人より受けず可からず。如かん、其の道なれば、舜堯之天下を受く、以て泰と爲さず。子以て泰と爲すか」と。
曰:「否。士無事而食,不可也。」
曰く、「否。士事無くして食ふは、不可なり」と。
曰:「子不通功易事,以羨補不足,則農有餘粟,女有餘布;子如通之,則梓匠輪輿皆得食於子。於此有人焉,入則孝,出則悌,守先王之道,以待後之學者,而不得食於子。子何尊梓匠輪輿而輕為仁義者哉?」
曰く、「子功を通じて事を易事せざれば、則ち有餘を以て不足を補ふ、則ち農夫有餘粟、女子有餘布有り。子如かん之を通ずれば、則ち梓匠輪輿(ししょうりんよ)皆食を子に得ん。此に人有り、入りて孝なり、出でて弟なり、先王の道を守りて、以て後の學者を待つも、而して食を子に得ず。子何ぞ梓匠輪輿を尊びて、仁義を爲る者を輕くんや」と。
曰:「梓匠輪輿,其志將以求食也;君子之為道也,其志亦將以求食與?」
曰く、「梓匠輪輿、其の志將以食を求めんとす。君子之道を爲るや、其の志亦將以食を求めんとするか」と。
曰:「子何以其志為哉?其有功於子,可食而食之矣。且子食志乎?食功乎?」
曰く、「子何ぞ其の志を以て言ふや。其れ子に於て功有りて、食す可きは則ち食す。且つ子食す、志を以てか、功を以てか」と。
曰:「食志。」
曰く、「志を以て食す」と。
曰:「有人於此,毀瓦畫墁,其志將以求食也,則子食之乎?」
曰く、「此に人有り、子の屋瓦を毀し、墁(まん)を畫(か)きて、其の志將以食を求めんとす。則ち子之を食すか」。曰く、「否」。
曰:「否。」
曰く、「然らば則ち子非ざるなり、志を以て食すは、功を以て食するなり」。
曰:「然則子非食志也,食功也。」
萬章問ふて曰く、「宋小國なり。今將に王政を行はんとす。齊楚惡みて之を伐つ。則ち如何」と。
萬章問曰:「宋,小國也。今將行王政,齊楚惡而伐之,則如之何?」
孟子曰く、「湯亳に居る。葛と鄰と爲す。葛伯放して祀らず。湯使へり之を問はしめて曰く、「何を以てか祀らざるや」。曰く、「供犧牲する無し」。湯使へり之に牛羊を遺らしむ。葛伯之を食らひ、又以て祀らず。湯又使へり之を問はしめて曰く、「何を以てか祀らざるや」。曰く、「供粢盛する無し」。湯使へり亳衆に往きて之を耕せしめ、老弱食を饋す。葛伯其の民を率ゐて、其の酒食黍稻有る者を要して之を奪ふ、授けざるは之を殺す。童子有り、黍肉を以て食を餉せば、殺して之を奪ふ。《書》に曰く、「葛伯餉を仇(あだ)とす」。此れ之を謂ふなり。其の此の童子を殺すを爲に之を征せば、四海之內皆曰く、「非ざるなり、富天下を欲するは、匹夫匹婦の爲に讎を復するなり」といふ。「湯の征始む、葛に自り」、十一征して天下に敵無し。東面して征せば、西夷怨み、南面して征せば、北狄怨み。曰く、「奚ぞ獨り予を後にせんや」といふ。民之を望むこと、若く大旱に雲霓を望むがごとし。歸市する者止まらず、芸(くさぎ)する者變らず。其の君を誅して其の民を弔ふ、若く時雨の降るがごとし。民大いに說ぶ。《書》に曰く、「徯てり我が君、君其の來れば罰無きなり」。「有攸臣せず惟れ臣、東に征して、厥の士女を綏(やす)んす。篚(ひ)に厥の玄黃を、我が周王に紹介して休みを見ゆ。臣附して大邑周」。其の君子實に玄黃を篚して其の君子を迎ふ、其の小人簞食壺漿を以て其の小人を迎ふ。民を救ふに於水火の中、其の殘を取るのみなり。《太誓》に曰く、「我が武惟れ揚う、彼の疆に侵て、則ち其の殘を取りて、殺伐張を用ひて、湯に於て光有り」と。不爲のみ、王政を行はざれば。苟くも王政を行はば、四海之內皆首を擧げて之を望みて、以て君と爲らんと欲す。齊楚雖し大、何ぞ畏れんや」と。
孟子曰:「湯居亳,與葛為鄰,葛伯放而不祀。湯使人問之曰:『何為不祀?』曰:『無以供犧牲也。』湯使遺之牛羊。葛伯食之,又不以祀。湯又使人問之曰:『何為不祀?』曰:『無以供粢盛也。』湯使亳眾往為之耕,老弱饋食。葛伯率其民,要其有酒食黍稻者奪之,不授者殺之。有童子以黍肉餉,殺而奪之。《書》曰:『葛伯仇餉。』此之謂也。為其殺是童子而徵之,四海之內皆曰:『非富天下也,為匹夫匹婦復讎也。』『湯始徵,自葛載』,十一徵而無敵於天下。東面而徵,西夷怨;南面而徵,北狄怨,曰:『奚為後我?』民之望之,若大旱之望雨也。歸市者弗止,芸者不變,誅其君,吊其民,如時雨降。民大悅。《書》曰:『徯我後,後來其無罰。』『有攸不惟臣,東征,綏厥士女,匪厥玄黃,紹我周王見休,惟臣附於大邑周。』其君子實玄黃於匪以迎其君子,其小人簞食壺漿以迎其小人,救民於水火之中,取其殘而已矣。《太誓》曰:『我武惟揚,侵於之疆,則取於殘,殺伐用張,於湯有光。』不行王政云爾,苟行王政,四海之內皆舉首而望之,欲以為君。齊楚雖大,何畏焉?」
孟子戴不勝に謂ひて曰く、「子欲して子の王をして善と爲らしめんとするか。我明らかに子に語らん。有りて楚大夫此に在り。其の子を欲して齊語す。則ち使ふ、齊人を傅して諸、楚人を傅して諸」と。
孟子謂戴不勝曰:「子欲子之王之善與?我明告子。有楚大夫於此,欲其子之齊語也,則使齊人傅諸?使楚人傅諸?」
曰く、「使ふ、齊人を傅す」。
曰:「使齊人傅之。」
孟子曰く、「一齊人之を傅す、衆楚人之を咻(きゅう)す。雖し日に撻して其の齊を求むるに、得る可からず。引きて之を莊岳(そうがく)の間に置くこと數年、雖し日に撻して其の楚を求むるに、亦得る可からず。子薛居州を謂ひて善士と爲し、使ふ、王の所に居らしめば、王の所に在る者、長幼卑尊皆薛居州ならば、王誰と不善を爲さん。王の所に在る者、長幼卑尊皆非薛居州ならば、王誰と善を爲さん。一薛居州、獨り宋王を如何せんや」と。
曰:「一齊人傅之,眾楚人咻之,雖日撻而求其齊也,不可得矣;引而置之莊嶽之間數年,雖日撻而求其楚,亦不可得矣。子謂薛居州,善士也。使之居於王所。在於王所者,長幼卑尊,皆薛居州也,王誰與為不善?在王所者,長幼卑尊,皆非薛居州也,王誰與為善?一薛居州,獨如宋王何?」
公孫丑問ふて曰く、「諸侯に見えざるは、何の義ぞや」と。
