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隠公

战国 · 公羊高 · 第1巻 / 44

隠公(経一一)元年

儒家典籍

初学は四書から入るのがよい。大学が綱を立て、論語が言を記し、孟子が展開し、中庸が収束する。続いて詩経・尚書・礼記と春秋三伝へ。荀子・春秋繁露・近思録・伝習録は、経学の外で儒学がどう語られてきたかを見る几道である。

隱公(經一一)元年

隠公(経一一)元年

元年春,王正月。

元年の春、周暦の正月です。

(傳)元年者何?君之始年也。春者何?歲之始也。王者孰謂?謂文王也。曷為先言王而後言正月?王正月也。何言乎王正月?大一統也。公何以不言即位?成公意也。何成乎公之意?公將平國而反之桓。曷為反之桓?桓幼而貴,隱長而卑,其為尊卑也微,國人莫知。隱長又賢,諸大夫扳隱而立之。隱於是焉而辭立,則未知桓之將必得立也。且如桓立,則恐諸大夫之不能相幼君也,故凡隱之立為桓立也。隱長又賢,何以不宜立?立適以長不以賢,立子以貴不以長。桓何以貴?母貴也。母貴則子何以貴?子以母貴,母以子貴。

(伝)「元年」とは何のことでしょうか。国君が治め始めた年です。「春」とは何でしょうか。一年の始まりです。「王」とは誰のことでしょうか。文王のことです。なぜ先に「王」と言い、後から「正月」と言うのでしょうか。王の正月だからです。なぜ「王正月」と言うのでしょうか。大一統を重んじるからです。なぜ隠公の「即位」を書かないのでしょうか。隠公の心意を成し遂げさせるためです。どうして彼の心意を成すのでしょうか。隠公は国を平定してから桓公に返そうと考えていました。なぜ桓公に返すのでしょうか。桓公は幼いけれど尊く、隠公は年長だけれど卑しく、その尊卑の差は微妙で、国人は誰も知りませんでした。隠公は年長でしかも賢いので、大夫たちは隠公を推して立てました。隠公がここで辞退して立たなければ、桓公が将来必ず立てるかどうか分かりませんでした。また桓公が立ったとしても、大夫たちが幼君を補佐できないことを恐れました。だから隠公が立てられたのは、もともと桓公のためだったのです。隠公は年長で賢いのに、なぜ立つべきでないのでしょうか。嫡子を立てるには年長によるのであって賢能によるのではなく、庶子を立てるには貴賤によるのであって年長によるのではありません。桓公はなぜ尊いのでしょうか。母が尊いからです。母が尊ければ、なぜ子も尊いのでしょうか。子は母によって尊くなり、母は子によって尊くなるのです。

(經一二)三月,公及邾婁儀父盟於眛。

(経一二)三月、隠公は邾婁の儀父と眛で盟を結びました。

(傳)及者何?與也,會及暨皆與也。曷為或言會,或言及,或言暨?會猶最也;及猶汲汲也;暨猶暨暨也。及我欲之,暨不得已也。儀父者何?邾婁之君也。何以名?字也。曷為稱字?褒之也。曷為褒之?為其與公盟也。與公盟者眾矣,曷為獨褒乎此?因其可褒而褒之。此其為可褒奈何?漸進也。眛者何?地期也。

(伝)「及」とは何でしょうか。「与」ということです。「会」「及」「暨」はみな「与」です。なぜある所では「会」と言い、ある所では「及」と言い、ある所では「暨」と言うのでしょうか。「会」は集まり会うようなもの、「及」は急いで赴くようなもの、「暨」は無理に付き従うようなものです。「及」はこちら側が欲したこと、「暨」はやむを得ないことです。儀父とは何者でしょうか。邾婁の国君です。なぜ名を称するのでしょうか。実は字を称しているのです。なぜ字を称するのでしょうか。彼を褒めるためです。なぜ褒めるのでしょうか。隠公と盟を結んだからです。隠公と盟を結んだ者は多いのに、なぜこの一事だけを褒めるのでしょうか。褒めるべき点があるので褒めるのです。彼の何が褒めるべき点なのでしょうか。次第に善に向かったことです。眛とは何でしょうか。相会を約束した地です。

(經一三)夏,五月,鄭伯克段於鄢。

(経一三)夏五月、鄭伯が鄢で段に勝ちました。

(傳)克之者何?殺之也。殺之則曷為謂之克?大鄭伯之惡也。曷為大鄭伯之惡?母欲立之,己殺之,如勿與而已矣。段者何?鄭伯之弟也。何以不稱弟?當國也。其地何?當國也。齊人殺無知何以不地?在內也。在內雖當國不地也。不當國雖在外亦不地也。

(伝)「克之」とは何でしょうか。彼を殺したことです。殺したのに、なぜ「克」と言うのでしょうか。鄭伯の悪を大きく書くためです。なぜ鄭伯の悪を大きく書くのでしょうか。母は段を立てたがったのに、自分は彼を殺しました。もともと与えなければ済んだことです。段とは何者でしょうか。鄭伯の弟です。なぜ「弟」と称しないのでしょうか。国の権勢を握っていたからです。なぜ地を記すのでしょうか。これも国の権勢を握っていたからです。斉人が無知を殺した時はなぜ地を記さないのでしょうか。国内でのことだからです。国内なら権勢を握っていても地を記さず、権勢を握っていなければ国外でも地を記さないのです。

(經一四)秋,七月,天王使宰咺來歸惠公仲子之賵。

(経一四)秋七月、周天子は宰咺を遣わして恵公・仲子の葬儀用の車馬を贈らせました。

(傳)宰者何?官也。咺者何?名也。曷為以官氏?宰士也。惠公者何?隱之考也。仲子者何?桓之母也。何以不稱夫人?桓未君也。賵者何?喪事有賵。賵者蓋以馬,以乘馬束帛。車馬曰賵,貨財曰賻,衣被曰襚。桓未君則諸侯曷為來賵之?隱為桓立,故以桓母之喪告於諸侯。然則何言爾?成公意也。其言來何?不及事也。其言惠公仲子何?兼之,兼之非禮也。何以不言及仲子?仲子微也。

(伝)「宰」とは何でしょうか。官名です。咺とは何でしょうか。名です。なぜ官名を氏とするのでしょうか。宰士だからです。恵公とは何者でしょうか。隠公の父です。仲子とは何者でしょうか。桓公の母です。なぜ夫人と称しないのでしょうか。桓公がまだ国君になっていないからです。「賵」とは何でしょうか。丧事には賵があります。賵はおそらく馬を用い、四馬と束帛です。車馬を賵といい、貨財を賻といい、衣被を襚といいます。桓公がまだ国君になっていないのに、諸侯はなぜ賵を贈りに来たのでしょうか。隠公は桓公のために立てられたので、桓公の母の丧を諸侯に告げたのです。ではなぜこの条を書くのでしょうか。隠公の心意を成すためです。なぜ「来」と言うのでしょうか。品が届いた時には丧事がすでに過ぎていたからです。なぜ「恵公仲子」と併せ称するのでしょうか。兼ねて贈ったからですが、兼ねて贈るのは礼ではありません。なぜ「及仲子」と言わないのでしょうか。仲子の地位が低微だったからです。

(經一五)九月,及宋人盟於宿。

(経一五)九月、宋国人と宿で盟を結びました。

(傳)孰及之?內之微者也。

(伝)「及」したのは誰でしょうか。魯国のこちら側の地位の低い者です。

(經一六)冬,十有二月,祭伯來。

(経一六)冬十二月、祭伯が来ました。

(傳)祭伯者何?天子之大夫也。何以不稱使?奔也。奔則曷為不言奔?王者無外,言奔則有外之辭也。

(伝)祭伯とは何者でしょうか。天子の大夫です。なぜ「使」と書かないのでしょうか。出奔したからです。出奔なのに、なぜ「奔」と書かないのでしょうか。王者には「外」がなく、「奔」と書けば王畿を外と見なす措辞になるからです。

(經一七)公子益師卒。

(経一七)公子益師が亡くなりました。

(傳)何以不日?遠也。所見異辭,所聞異辭,所傳聞異辭。

(伝)なぜ日を記さないのでしょうか。年代が遠いからです。目で見た時代には一つの措辞、耳で聞いた時代には一つの措辞、さらに伝聞の時代にはまた一つの措辞を用います。

隱公(經二一)二年

隠公(経二一)二年

春,公會戎於潛。(經二二)夏,五月,莒人入向。

春、隠公は潜の地で戎と会しました。(経二二)夏五月、莒国人が向に入りました。

(傳)入者何?得而不居也。

(伝)「入」とは何でしょうか。得たけれども居らないことです。

(經二三)無駭帥師入極。

(経二三)無駭が軍を率いて極に入りました。

(傳)無駭者何?展無駭也。何以不氏?貶。曷為貶?疾始滅也。始滅昉於此乎?前此矣。前此則曷為始乎此?托始焉爾。曷為托始焉爾?《春秋》之始也。此滅也,其言入何?內大惡,諱也。

(伝)無駭とは何者でしょうか。展無駭です。なぜ氏を書かないのでしょうか。貶すためです。なぜ貶すのでしょうか。国を滅ぼす端を開いたことを憎むからです。国を滅ぼすことはここから始まったのでしょうか。これ以前からありました。以前からあったのに、なぜここから始まりとするのでしょうか。ここを借りて端緒とするのです。なぜここを借りて端緒とするのでしょうか。これが《春秋》の始まりだからです。これは滅ぼしたのに、なぜ「入」と書くのでしょうか。魯国自身の大悪は隠すのです。

(經二四)秋,八月庚辰,公及戎盟於唐。

(経二四)秋八月庚辰、隠公は戎と唐で盟を結びました。

(經二五)九月,紀履緰來逆女。

(経二五)九月、紀の履緰が魯の女を迎えに来ました。

(傳)紀履緰者何?紀大夫也。何以不稱使?婚禮不稱主人。然則曷稱?稱諸父兄師友。宋公使公孫壽來納幣,則其稱主人何?辭窮也。辭窮者何?無母也。然則紀有母乎?曰有。有則何以不稱母?母不通也。外逆女不書,此何以書?譏。何譏爾?譏始不親迎也。始不親迎昉於此乎?前此矣。前此則曷為始乎?此托始焉爾。曷為托始焉爾?《春秋》之始也。女曷為或稱女,或稱婦,或稱夫人?女在其國稱女,在塗稱婦,入國稱夫人。

(伝)紀履緰とは何者でしょうか。紀国の大夫です。なぜ「使」と称しないのでしょうか。婚禮には主人を称しません。では誰を称するのでしょうか。父兄・師友を称します。宋公が公孫壽を遣わして聘礼を納めさせた時は主人を称しましたが、なぜでしょうか。措辞が尽きたからです。措辞が尽きるとはどういうことでしょうか。母がいないことです。では紀国には母がいたのでしょうか。答えは、いました。いたのに、なぜ母を称しないのでしょうか。母は外に通じることができないからです。外で女を迎えることは例によって記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。ここから自ら迎えなくなったことを譏刺するのです。自ら迎えないのはここから始まったのでしょうか。これ以前からありました。以前からあったのに、なぜここから始まりとするのでしょうか。ここを借りて端緒とするのです。なぜここを借りて端緒とするのでしょうか。これが《春秋》の始まりだからです。女子をある所では「女」と称し、ある所では「婦」と称し、ある所では「夫人」と称するのはなぜでしょうか。本国にいる間は女と称し、道中では婦と称し、夫の家の国に入れば夫人と称します。

(經二六)冬,十月,伯姬歸於紀。

(経二六)冬十月、伯姫が紀国に嫁ぎました。

(傳)伯姬者何?內女也。其言歸何?婦人謂嫁曰歸。

(伝)伯姫とは何者でしょうか。魯国の娘です。なぜ「帰」と書くのでしょうか。婦人の嫁ぐことを「帰」というのです。

(經二七)紀子伯、莒子盟於密。

(経二七)紀子伯と莒子が密で盟を結びました。

(傳)紀子伯者何?無聞焉爾。

(伝)紀子伯とは何者でしょうか。聞いたことがありません。

(經二八)十有二月乙卯,夫人子氏薨。鄭人伐衛。

(経二八)十二月乙卯、夫人子氏が亡くなりました。鄭国人が衛を攻めました。

(傳)夫人子氏者何?隱公之母也。何以不書葬?成公意也。何成乎公之意?子將不終為君,故母亦不終為夫人也。

(伝)夫人子氏とは何者でしょうか。隠公の母です。なぜ葬りを記さないのでしょうか。隠公の心意を成すためです。どうして彼の心意を成すのでしょうか。子が国君を務めきれないなら、母もまた夫人を務めきれないからです。

隱公(經三一)三年

隠公(経三一)三年

春,王二月己巳,日有食之。

春、周暦二月己巳、日食がありました。

(傳)何以書?記異也。日食則曷為或日或不日?或言朔或不言朔?曰「某月某日朔,日有食之」者,食正朔也;其或日或不日,或失之前,或失之後。失之前者,朔在前也;失之後者,朔在後也。

(伝)なぜ記すのでしょうか。異常を記すのです。日食はなぜあるものは日を記し、あるものは記さないのでしょうか。またあるものは「朔」と書き、あるものは書かないのでしょうか。「某月某日朔、日これを食らう」と書くのは、ちょうど朔日に食したからです。あるものは日を記し、あるものは記さないのは、前に偏ったり後に偏ったりしたからです。前に偏れば朔が前、後に偏れば朔が後です。

(經三二)三月庚戌,天王崩。

(経三二)三月庚戌、天子が亡くなりました。

(傳)何以不書葬?天子記崩不記葬,必其時也。諸侯記卒記葬,有天子存,不得必其時也。曷為或言崩或言薨?天子曰崩,諸侯曰薨,大夫曰卒,士曰不祿。

(伝)なぜ葬りを記さないのでしょうか。天子は崩を記して葬を記しません。葬期は定まっているからです。諸侯は卒も葬も記します。上に天子があって、自分の時日どおりには必ずできないからです。なぜあるものは「崩」と書き、あるものは「薨」と書くのでしょうか。天子を崩といい、諸侯を薨といい、大夫を卒といい、士を不禄というのです。

(經三三)夏,四月辛卯,尹氏卒。

(経三三)夏四月辛卯、尹氏が亡くなりました。

(傳)尹氏者何?天子之大夫也。其稱尹氏何?貶。曷為貶?譏世卿,世卿非禮也。外大夫不卒,此何以卒?天王崩,諸侯之主也。

(伝)尹氏とは何者でしょうか。天子の大夫です。「尹氏」と称するのはなぜでしょうか。貶すためです。なぜ貶すのでしょうか。世襲の卿を譏刺するのであり、世襲の卿は礼に合いません。外の大夫は例によって亡くなっても記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。天子が亡くなった時、彼は諸侯に対する主人だったからです。

(經三四)秋,武氏子來求賻。

(経三四)秋、武氏子が助丧の財貨を求めに来ました。

(傳)武氏子者何?天子之大夫也。其稱武氏子何?譏。何譏爾?父卒子未命也。何以不稱使?當喪未君也。武氏子來求賻,何以書?譏。何譏爾?喪事無求,求賻非禮也,蓋通於下。

(伝)武氏子とは何者でしょうか。天子の大夫です。「武氏子」と称するのはなぜでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。父が死んだのに子がまだ命を受けていないことです。なぜ「使」と称しないのでしょうか。丧中であって新君がまだ即位していないからです。武氏子が賻を求めに来たことをなぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。丧事は人に求めるべきではなく、賻を求めるのは礼に合いません。このことは下の者にも通じます。

(經三五)八月庚辰,宋公和卒。

(経三五)八月庚辰、宋公の和が亡くなりました。

(經三六)冬,十有二月,齊侯、鄭伯盟於石門。癸未,葬宋繆公。

(経三六)冬十二月、斉侯と鄭伯が石門で盟を結びました。癸未、宋繆公を葬りました。

(傳)葬者曷為或日或不日?不及時而日,渴葬也;不及時而不日,慢葬也。過時而日,隱之也;過時而不日,謂之不能葬也。當時而不日,正也。當時而日,危不得葬也。此當時何危爾?宣公謂繆公曰:「以吾愛與夷,則不若愛女;以為社稷宗廟主,則與夷不若女,盍終為君矣?」宣公死,繆公立,繆公逐其二子莊公馮與左師勃,曰:「爾為吾子,生毋相見,死毋相哭。」與夷復曰:「先君之所為不與臣國而納國乎君者,以君可以為社稷宗廟主也。今君逐君之二子而將致國乎與夷,此非先君之意也。且使子而可逐,則先君其逐臣矣。」繆公曰:「先君之不爾逐可知矣,吾立乎此攝也。」終致國乎與夷。莊公馮弒與夷。故君子大居正,宋之禍宣公為之也。

(伝)葬りはなぜあるものは日を記し、あるものは記さないのでしょうか。時期に至らないのに日を記すのは、急いで葬ったからです。時期に至らないのに日を記さないのは、怠って葬ったからです。時期を過ぎて日を記すのは、彼を哀れんだからです。時期を過ぎて日を記さないのは、葬ることができなかったと言うのです。時期どおりで日を記さないのは正例です。時期どおりなのに日を記すのは、葬れないことを心配したからです。この時期どおりで何を心配するのでしょうか。宣公が繆公に言いました。「私が与夷を好むことは、あなたを好むことに及ばない。社稷宗廟の主人となることは、与夷はあなたに及ばない。あなたは何としてもやり遂げて、この国君になってはどうか。」宣公が死に、繆公が立ち、繆公は自分の二人の子、荘公馮と左師勃を逐い、言いました。「お前たちが私の子であるなら、生きている間は相見ず、死んでも相哭するな。」与夷は報告して言いました。「先君が国を私に与えずあなたにお渡ししたのは、あなたが社稷宗廟の主人になれるからです。今あなたは自分の二人の子を逐って、国を与夷に渡そうとしていますが、これは先君の意ではありません。それに子が逐えるなら、先君もまた私を逐うべきでした。」繆公は言いました。「先君がお前を逐わなかった道理は、すでに知ることができる。私がこの位に居るのは、代理だ。」ついに国を与夷に渡しました。荘公馮が与夷を弑しました。それで君子は正に居ることを重んじ、宋国の禍は宣公が招いたのです。

隱公(經四一)四年

隠公(経四一)四年

春,王二月,莒人伐杞,取牟婁。

春、周暦二月、莒国人が杞を攻め、牟婁を奪いました。

(傳)牟婁者何?杞之邑也。外取邑不書,此何以書?疾始取邑也。

(伝)牟婁とは何でしょうか。杞国の城邑です。外で城邑を奪うことは例によって記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。ここから邑を奪い始めたことを憎むからです。

(經四二)戊申,衛州籲弒其君完。

(経四二)戊申、衛国の州吁がその国君の完を弑しました。

(傳)曷為以國氏?當國也。

(伝)なぜ国名を氏とするのでしょうか。国の権勢を握っていたからです。

(經四三)夏,公及宋公遇於清。

(経四三)夏、隠公は宋公と清で遇しました。

(傳)遇者何?不期也。一君出,一君要之也。

(伝)「遇」とは何でしょうか。約束がないことです。一方の国君が出かけ、もう一方の国君が彼を招いて相見ることです。

(經四四)宋公、陳侯、蔡人、衛人伐鄭。秋,翬帥師會宋公、陳侯、蔡人、衛人伐鄭。

(経四四)宋公・陳侯・蔡国人・衛国人が鄭を攻めました。秋、翬が軍を率いて宋公・陳侯・蔡国人・衛国人と会合して鄭を攻めました。

(傳)翬者何?公子翬也。何以不稱公子?貶。曷為貶?與弒公也。其與弒公奈何?公子翬諂乎隱公,謂隱公曰:「百姓安子,諸侯說子,盍終為君矣?」隱曰:「吾否,吾使修塗裘,吾將老焉。」公子翬恐若其言聞乎桓,於是謂桓曰:「吾為子口隱矣。隱曰:『吾不反也。』」桓曰:「然則奈何?」曰:「請作難,弒隱公。」於鍾巫之祭焉弒隱公也。

(伝)翬とは何者でしょうか。公子翬です。なぜ公子と称しないのでしょうか。貶すためです。なぜ貶すのでしょうか。隠公の弑に加担したからです。彼はどのように隠公の弑に加担したのでしょうか。公子翬は隠公に媚びて言いました。「百姓はあなたに安んじ、諸侯はあなたを好んでいます。あなたは何としてもやり遂げて、この国君になってはどうですか。」隠公は言いました。「私はしない。私は人に塗裘を治めさせ、あそこで老いを養おうと思う。」公子翬はこの言葉が桓公の耳に届くことを恐れ、そこで桓公に言いました。「私はすでにあなたのために隠公の口ぶりを探りました。隠公は『私は返さない』と言いました。」桓公は言いました。「ではどうすればよいか。」答えて言いました。「難を発し、隠公を弑してください。」鍾巫の祭祀の席上で隠公を殺しました。

(經四五)九月,衛人殺州籲於濮。

(経四五)九月、衛国人が濮で州吁を殺しました。

(傳)其稱人何?討賊之辭也。

(伝)「人」と称するのはなぜでしょうか。これは賊を討つ措辞です。

(經四六)冬,十有二月,衛人立晉。

(経四六)冬十二月、衛国人が晋を立てました。

(傳)晉者何?公子晉也。立者何?立者不宜立也。其稱人何?眾立之之辭也。然則孰立之?石碏立之。石碏立之,則其稱人何?眾之所欲立也。眾雖欲立之,其立之非也。

(伝)晋とは何者でしょうか。公子晋です。「立」とは何でしょうか。「立」の字を用いるのは、この人は本来立つべきでなかったことを示します。「人」と称するのはなぜでしょうか。衆人が彼を立てたという措辞です。では誰が立てたのでしょうか。石碏が立てたのです。石碏が立てたのに、なぜ「人」と称するのでしょうか。衆人が立てたいと思っていたからです。衆人が立てたいと思っていても、彼を立てるのはやはり正しくありませんでした。

隱公(經五一)五年

隠公(経五一)五年

春,公觀魚於棠。

春、隠公は棠の地で魚を捕るのを見ました。

(傳)何以書?譏。何譏爾?遠也。公曷為遠而觀魚?登來之也。百金之魚公張之,登來之者何?美大之之辭也。棠者何?濟上之邑也。

(伝)なぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。遠すぎるからです。隠公はなぜそんなに遠くまで魚を捕るのを見に行ったのでしょうか。「登来」してそれらを得たのです。百金に値する魚を、隠公は網で捕えました。「登来」とは何でしょうか。美め、事を大きく書く措辞です。棠とは何でしょうか。済水のほとりの城邑です。

(經五二)夏,四月,葬衛桓公。

(経五二)夏四月、衛桓公を葬りました。

(經五三)秋,衛師入盛。

(経五三)秋、衛国の軍隊が盛に入りました。

(傳)曷為或言率師或不言率師?將尊師眾稱某率師,將尊師少稱將;將卑師眾稱師,將卑師少稱人。君將不言率師,書其重者也。

(伝)なぜある所では「率師」と書き、ある所では書かないのでしょうか。将が尊く軍が多ければ「某率師」と称し、将が尊くて軍が少なければ将だけを称し、将が低微で軍が多ければ「師」と称し、将が低微で軍が少なければ「人」と称します。国君が自ら率いる時は「率師」と書かず、分量の重いほうを記すのです。

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