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宣公

战国 · 公羊高 · 第33巻 / 44

(經二八六)冬,齊慶封來奔。

(経二八六)冬、斉の慶封が奔亡してきた。

(經二八七)十有一月,公如楚。

(経二八七)十一月、襄公は楚に行った。

(經二八八)十有二月甲寅,天王崩。

(経二八八)十二月甲寅、天子が崩御した。

(經二八九)乙未,楚子昭卒。

(経二八九)乙未、楚子昭が薨去した。

襄公(經二九一)二十有九年

襄公(経二九一)二十有九年

春,王正月,公在楚。

春、周暦正月、襄公は楚にいた。

(傳)何言乎公在楚?正月以存君也。

(伝)なぜ「公在楚」と書くのか。正月には国君を存問するからである。

(經二九二)夏,五月,公至自楚。

(経二九二)夏五月、襄公は楚から帰った。

(經二九三)庚午,衛侯衎卒。

(経二九三)庚午、衛侯衎が薨去した。

(經二九四)閽弒吳子餘祭。

(経二九四)閽人が呉子余祭を殺した。

(傳)閽者何?門人也,刑人也。刑人則曷為謂之閽?刑人非其人也。君子不近刑人,近刑人則輕死之道也。

(伝)閽とは何者か。門を守る者で、刑を受けた者である。刑を受けた者であるのに、なぜ閽というのか。刑を受けた者はすでに彼のような人ではないからである。君子は刑を受けた者に近づかない。刑を受けた者に近づくのは、死を軽んずる道である。

(經二九五)仲孫羯會晉荀盈、齊高止、宋華定、衛世叔齊、鄭公孫段、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人、小邾婁人城杞。

(経二九五)仲孫羯は晋の荀盈、斉の高止、宋の華定、衛の世叔斉、鄭の公孫段、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人、小邾婁人と会して杞を修築した。

(經二九六)晉侯使士鞅來聘。

(経二九六)晋侯は士鞅を派遣して聘問させた。

(經二九七)杞子來盟。

(経二九七)杞子が会盟に来た。

(經二九八)吳子使札來聘。

(経二九八)呉子は札を派遣して聘問させた。

(傳)吳無君、無大夫,此何以有君、有大夫?賢季子也。何賢乎季子?讓國也。其讓國奈何?謁也、餘祭也、夷昧也與季子同母者四,季子弱而才,兄弟皆愛之,同欲立之以為君,謁曰:「今若是迮而與季子國,季子猶不受也,請無與子而與弟,弟兄迭為君,而致國乎季子。」皆曰:「諾。」故諸為君者,皆輕死為勇,飲食必祝,曰:「天茍有吳國,尚速有悔於予身。」故謁也死,餘祭也立。餘祭也死,夷昧也立。夷昧也死,則國宜之季子者也。季子使而亡焉。僚者長庶也,即之,季子使而反,至,而君之爾。闔廬曰:「先君之所以不與子國而與弟者,凡為季子故也。將從先君之命與,則國宜之季子者也;如不從先君之命與,則我宜立者也,僚惡得為君乎?」於是使專諸剌僚,而致國乎季子。季子不受,曰:「爾弒吾君,吾受爾國,是吾與爾為篡也。爾殺吾兄,吾又殺爾,是父子兄弟相殺,終身無已也。」去之延陵,終身不入吳國。故君子以其不受為義,以其不殺為仁。賢季子則吳何以有君、有大夫?以季子為臣,則宜有君者也。札者何?吳季子之名也。《春秋》賢者不名,此何以名?許夷狄者不壹而足也。季子者所賢也,曷為不足乎季子?許人臣者必使臣,許人子者必使子也。

(伝)呉には君もなく大夫もないのに、ここではなぜ君があり大夫があるのか。季子を賢いと認めるからである。季子はどこが賢いのか。国を譲ったのである。彼はどのように国を譲ったのか。謁、余祭、夷昧と季子は同母の四人で、季子は年少ながら才能があり、兄弟は皆彼を愛し、皆彼を立てて国君にしようと思った。謁は言った、「今もし急いで国を季子に与えても、季子はやはり受けないでしょう。どうか子に与えず弟に与え、兄弟が順番に国君となり、そうして国を季子に渡しましょう」と。皆「よい」と言った。それで国君となる者は皆、死を軽く見て勇敢を表し、飲食には必ず祝禱して言った、「天がもし呉国を尚ほしいままにするなら、速やかに災禍をわが身に降してください」と。それで謁が死ぬと余祭が立ち、余祭が死ぬと夷昧が立ち、夷昧が死ねば国は季子に至るはずであった。季子は出使して外にいた。僚は長庶で、そのまま即位した。季子は出使から帰り、到着すると、彼を国君とした。闔廬は言った、「先君が子に国を与えず弟に与えたのは、みな季子のためであった。もし先君の命令に従うなら、国は季子に至るべきであり、もし先君の命令に従わないなら、わたしを立てるべきであり、僚がどうして国君になれようか」と。そこで専諸を遣わして僚を刺し殺し、国を季子に渡した。季子は受けず、言った、「あなたがわが君を殺し、わたしがあなたの国を受ければ、わたしはあなたとともに簒位したことになる。あなたがわが兄を殺し、わたしがまたあなたを殺せば、父子兄弟が互いに殺し合い、一生涯終わることがない」と。去って延陵に至り、終身呉国に入らなかった。それで君子は彼の受けないことを義とし、殺さないことを仁とした。季子を賢いと認めるなら、呉はなぜ君があり大夫があるのか。季子を臣とするなら、君があるべきである。《札》とは何か。呉季子の名である。《春秋》は賢者に対して名を称さないのに、ここではなぜ名を称するのか。夷狄に対して許可を与えても、一気に足るまで与えないのである。季子は賢いと認められた人であるのに、なぜ季子に対してまだ満足しないのか。人に臣たることを許すには必ず臣らしくさせ、人に子たることを許すには必ず子らしくさせるのである。

(經二九九)秋,九月,葬衛獻公。

(経二九九)秋九月、衛献公を葬った。

(經二九十)齊高止出奔北燕。

(経二九十)斉の高止が北燕に出奔した。

(經二九十一)冬,仲孫羯如晉。

(経二九十一)冬、仲孫羯が晋に行った。

襄公(經三十一)三十年

襄公(経三十一)三十年

春,王正月,楚子使薳頗來聘。

春、周暦正月、楚子は䓕頗を派遣して聘問させた。

(經三十二)夏,四月,蔡世子般弒其君固。

(経三十二)夏四月、蔡の世子般がその君固を弑した。

(經三十三)五月甲午,宋災,伯姬卒。

(経三十三)五月甲午、宋で火災があって、伯姫が亡くなった。

(經三十四)天王殺其弟年夫。

(経三十四)天子がその弟年夫を殺した。

(經三十五)王子瑕奔晉。

(経三十五)王子瑕が晋に出奔した。

(經三十六)秋,七月,叔弓如宋,葬宋共姬。

(経三十六)秋七月、叔弓が宋に行き、宋共姫を葬った。

(傳)外夫人不書葬,此何以書?隱之也。何隱爾?宋災,伯姬卒焉。其稱諡何?賢也。何賢爾?宋災,伯姬存焉,有司復曰:「火至矣,請出。」伯姬曰:「不可。吾聞之也:婦人夜出,不見傅母不下堂。傅至矣,母未至也。」逮乎火而死。

(伝)外の夫人は例によって葬りを記さないのに、ここではなぜ記すのか。これを痛ましく思うからである。何を痛ましく思うのか。宋で火災があって、伯姫がそこで死んだのである。なぜ諡を称するのか。彼女を賢いと認めるからである。どこが賢いのか。宋で火災があった時、伯姫はそこにいて、有司が報告して言った、「火が迫りました、お出でください」と。伯姫は言った、「不可です。わたしは聞きました、婦人は夜に出る時、傅と保姆が見えなければ堂を降りないものだと。傅は到着しましたが、保姆はまだ到着していません」と。そこで火に焼かれて死んだのである。

(經三十七)鄭良霄出奔許,自許入於鄭,鄭人殺良霄。

(経三十七)鄭の良霄が許に出奔し、許から鄭に入った。鄭人が良霄を殺した。

(經三十八)冬,十月,葬蔡景公。

(経三十八)冬十月、蔡景公を葬った。

(傳)賊未討,何以書葬?君子辭也。

(伝)賊がまだ討たれていないのに、なぜ葬りを記すのか。君子の措辞である。

(經三十九)晉人、齊人、宋人、衛人、鄭人、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人、杞人、小邾婁人會於澶淵,宋災故。

(経三十九)晋人、斉人、宋人、衛人、鄭人、曹人、莒人、邾婁人、滕人、薛人、杞人、小邾婁人が澶淵で相会したのは、宋の火災のためであった。

(傳)宋災故者何?諸侯會於澶淵,凡為宋災故也。會未有言其所為者,此言所為何?錄伯姬也。諸侯相聚,而更宋之所喪,曰:「死者不可復生,爾財復矣!」此大事也,曷為使微者?卿也。卿則其稱人何?貶。曷為貶?卿不得憂諸侯也。

(伝)「宋災故」とはどういう意味か。諸侯が澶淵で相会したのは、皆宋の火災のためである。会盟にはこれまで何のためかを書くことがなかったのに、ここで何のためかを書くのはなぜか。伯姫を記録するためである。諸侯が集まって、宋の失ったものを補償して言った、「死んだ人は復活できないが、あなた方の財物はまた戻ってきた」と。これは大事であるのに、なぜ身分の低い人を派遣したのか。実は卿である。卿であるのに、なぜ「人」と称するのか。貶すためである。なぜ貶すのか。卿は諸侯のために憂えてはならないからである。

襄公(經三一一)三十有一年

襄公(経三一一)三十有一年

春,王正月。

春、周暦正月。

(經三一二)夏,六月辛巳,公薨於楚宮。

(経三一二)夏六月辛巳、襄公は楚の宮で薨去した。

(經三一三)秋,九月癸巳,子野卒。己亥,仲孫羯卒。

(経三一三)秋九月癸巳、子野が卒した。己亥、仲孫羯が卒した。

(經三一四)冬,十月,滕子來會葬。癸酉,葬我君襄公。

(経三一四)冬十月、滕子が葬儀に来た。癸酉、わが魯の国君襄公を葬った。

(經三一五)十有一月,莒人弒其君密州。

(経三一五)十一月、莒人がその君密州を殺した。

昭公

昭公(經一一)元年

昭公(経一一)元年

春,王正月,公即位。

春、周暦正月、昭公が即位する。

(經一二)叔孫豹會晉趙武、楚公子圍、齊國酌、宋向戌、衛石惡、陳公子招、蔡公孫歸生、鄭軒虎、許人、曹人於漷。

(経一二)叔孫豹が晋の趙武、楚の公子囲、斉の国酌、宋の向戌、衛の石悪、陳の公子招、蔡の公孫帰生、鄭の軒虎、許の人、曹の人と漷で会合した。

(傳)此陳侯之弟招也,何以不稱弟?貶。曷為貶?為殺世子偃師貶,曰陳侯之弟招殺陳世子偃師。大夫相殺稱人,此其稱名氏以殺何?言將自是弒君也。今將爾,詞曷為與親弒者同?君親無將,將而必誅焉。然則曷為不於其弒焉貶?以親者弒,然後其罪惡甚,《春秋》不待貶絕而罪惡見者,不貶絕以見罪惡也。貶絕然然罪惡見者,貶絕以見罪惡也。今招之罪已重矣,曷為復貶乎此?著招之有罪也。何著乎招之有罪?言楚之託乎討招以滅陳也。

(伝)これは陳侯の弟である招だが、なぜ「弟」と称しないのか。貶めたのである。なぜ貶めたのか。世子偃師を殺したから貶めたのであり、経文に「陳侯之弟招殺陳世子偃師」とある。大夫どうしの殺し合いは「人」と称するのに、ここでは名氏を挙げて殺と書くのはなぜか。彼がここから国君を殺そうとしていると言うのである。いまだ「将に」に過ぎないのに、なぜ手ずから国君を殺した場合と同じ措辞を使うのか。国君と至亲に対しては「将に」は許されず、将にとあれば必ず誅討しなければならない。では、なぜ彼が殺したところで貶さないのか。至亲が殺されて初めて罪悪がとくに重くなるのであり、《春秋》は貶絶を待たずに罪悪が顕れるものは貶絶によらずに罪悪を顕し、貶絶して初めて罪悪が顕れるものは貶絶によって罪悪を顕す。(底本は「貶絶然然」で、「然后」の誤りか。)いま招の罪はすでに重いのに、なぜここでさらに貶すのか。招に罪あることを標明するのである。なぜ標明するのか。楚が招を討つと口実にして陳を滅ぼしたと言うのである。

(經一三)三月,取運。

(経一三)三月、運を奪取した。

(傳)運者何?內之邑也。其言取之何?不聽也。

(伝)運とは何か。魯国内部の城邑である。なぜ「取」と書くのか。従わなかったからである。

(經一四)夏,秦伯之弟針出奔晉。

(経一四)夏、秦伯の弟である鍼が晋に出奔した。

(傳)秦無大夫,此何以書?仕諸晉也。曷為仕諸晉?有千乘之國,而不能容其母弟,故君子謂之出奔也。

(伝)秦には大夫がいないのに、ここでなぜ記すのか。晋に行って官につかせたからである。なぜ晋に行って官につかせたのか。千乗の国を持ちながら同母の弟を容れられなかったので、君子はこれを出奔と称したのである。

(經一五)六月丁巳,邾婁子華卒。

(経一五)六月丁巳、邾婁子華が卒した。

(經一六)晉荀吳帥師敗狄於大原。

(経一六)晋の荀呉が軍を率いて大原で狄を破った。

(傳)此大滷也,曷為謂之大原?地物從中國,邑人名從主人。原者何?上平曰原,下平曰隰。

(伝)ここはもともと大鹵なのに、なぜ大原というのか。土地・物産は中原の名称に従い、城邑・人名は主人の名称に従う。原とは何か。上が平らなところを原といい、下が平らなところを隰という。

(經一七)秋,莒去疾自齊入於莒。莒展出奔吳。叔弓帥師疆運田。

(経一七)秋、莒の去疾が斉から莒に入った。莒の展が呉に出奔した。叔弓が軍を率いて運田の疆界を画定した。

(傳)疆運田者何?與莒為竟也。與莒為竟,則曷為帥師而往?畏莒也。

(伝)「疆運田」とはどういう意味か。莒と境界を画定したのである。莒と境界を画定するのに、なぜ軍を率いて行ったのか。莒を畏れたのである。

(經一八)葬邾婁悼公。

(経一八)邾婁悼公を葬った。

(經一九)冬,十有一月己酉,楚子卷卒。

(経一九)冬十一月己酉、楚子巻が卒した。

(經一十)楚公子比出奔晉。

(経一十)楚の公子比が晋に出奔した。

昭公(經二一)二年

昭公(経二一)二年

春,晉侯使韓起來聘。

春、晋侯が韓起を派遣して聘問に来た。

(經二二)夏,叔弓如晉。

(経二二)夏、叔弓が晋に行った。

(經二三)秋,鄭殺其大夫公孫黑。

(経二三)秋、鄭がその大夫公孫黒を殺した。

(經二四)冬,公如晉,至河乃復。

(経二四)冬、昭公が晋に行き、黄河に至って引き返した。

(傳)其言至河乃復何?不敢進也。

(伝)「至河乃復」と書くのはどういう意味か。進むことを敢えてしなかったのである。

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