宣公
(經二五)季孫宿如晉。
(経二五)季孫宿が晋に行った。
昭公(經三一)三年
昭公(経三一)三年
春,王正月丁未,滕子泉卒。
春、周暦正月丁未、滕子泉が卒した。
(經三二)夏,叔弓如滕。
(経三二)夏、叔弓が滕に行った。
(經三三)五月,葬滕成公。
(経三三)五月、滕成公を葬った。
(經三四)秋,小邾婁子來朝。
(経三四)秋、小邾婁子が朝見に来た。
(經三五)八月,大雩。
(経三五)八月、大雩(だいう・雨乞いの祭)を行った。
(經三六)冬,大雨雹。
(経三六)冬、大きな雹が降った。
(經三七)北燕伯款出奔齊。
(経三七)北燕伯款が斉に出奔した。
昭公(經四一)四年
昭公(経四一)四年
春,王正月,大雨雪。
春、周暦正月、大雪が降った。
(經四二)夏,楚子、蔡侯、陳侯、鄭伯、許男、徐子、滕子、頓子、鬍子、沈子、小邾婁子、宋世子佐、淮夷會於申。
(経四二)夏、楚子・蔡侯・陳侯・鄭伯・許男・徐子・滕子・頓子・胡子・沈子・小邾婁子・宋の世子佐・淮夷が申で相会した。
(經四三)楚人執徐子。
(経四三)楚の人々が徐子を捕らえた。
(經四四)秋,七月,楚子、蔡侯、陳侯、許男、頓子、鬍子、沈子、淮夷伐吳,執齊慶封,殺之。
(経四四)秋七月、楚子・蔡侯・陳侯・許男・頓子・胡子・沈子・淮夷が呉を攻め、斉の慶封を捕らえて殺した。
(傳)此伐吳也,其言執齊慶封何?為齊誅也。其為齊誅奈何?慶封走之吳,吳封之於防。然則曷為不言伐防?不與諸侯專封也。慶封之罪何?脅齊君而亂齊國也。
(伝)これは呉を攻めたのだが、なぜ斉の慶封を捕らえたと書くのか。斉のために誅討したと言うのである。どうして斉のために誅討したのか。慶封は呉に逃げ、呉は彼を防に封じた。では、なぜ防を伐つと書かないのか。諸侯が勝手に分封することを是としないからである。慶封の罪は何か。斉の国君を脅迫して斉を乱したことである。
(經)遂滅厲。
(経)続いて厲を滅ぼした。
(經四五)九月,取鄫。
(経四五)九月、鄫を奪取した。
(傳)其言取之何?滅之也。滅之則其言取之何?內大惡,諱也。
(伝)なぜ「取」と書くのか。滅ぼしたのである。滅ぼしたのなら、なぜ「取」と書くのか。魯国内部の大きな悪事は、隠し諱らなければならない。
(經四六)冬,十有二月乙卯,叔孫豹卒。
(経四六)冬十二月乙卯、叔孫豹が卒した。
昭公(經五一)五年
昭公(経五一)五年
春,王正月,舍中軍。
春、周暦正月、中軍を廃した。
(傳)舍中軍者何?復古也。然則曷為不言三卿?五亦有中,三亦有中。
(伝)「舎中軍」とはどういう意味か。古制に復したのである。では、なぜ三卿と書かないのか。五にも中があり、三にも中があるからである。
(經五二)楚殺其大夫屈申。
(経五二)楚がその大夫屈申を殺した。
(經五三)公如晉。
(経五三)昭公が晋に行った。
(經五四)夏,莒牟夷以牟婁及防茲來奔。
(経五四)夏、莒の牟夷が牟婁と防・兹を携えて奔って来た。
(傳)莒牟夷者何?莒大夫也。莒無大夫,此何以書?重地也。其言及防茲來奔何?不以私邑累公邑也。
(伝)莒の牟夷とは何者か。莒の大夫である。莒には大夫がいないのに、ここでなぜ記すのか。土地を重く見たからである。「及防兹来奔」と書くのはどういう意味か。私邑をもって公邑を累わさないのである。
(經五五)秋,七月,公至自晉。
(経五五)秋七月、昭公が晋から帰った。
(經五六)戊辰,叔弓帥師敗莒師於濆泉。
(経五六)戊辰、叔弓が軍を率いて𣸣泉で莒の軍を破った。
(傳)濆泉者何?直泉也。直泉者何?湧泉也。
(伝)𣸣泉とは何か。直泉である。直泉とは何か。涌泉である。
(經五五)秦伯卒。
(経五五)秦伯が卒した。
(傳)何以不名?秦者夷也,匿嫡之名也。其名何?嫡得之也。
(伝)なぜ名を称しないのか。秦は夷であり、嫡子の名を隠すのである。名を称するものがあるのはどういうことか。嫡子が君位を得た場合である。
(經五六)冬,楚子、蔡侯、陳侯、許男、頓子、沈子、徐人、越人伐吳。
(経五六)冬、楚子・蔡侯・陳侯・許男・頓子・沈子・徐の人・越の人が呉を攻めた。
昭公(經六一)六年
昭公(経六一)六年
春,王正月,杞伯益姑卒。
春、周暦正月、杞伯益姑が卒した。
(經六二)葬秦景公。
(経六二)秦景公を葬った。
(經六三)夏,季孫宿如晉。
(経六三)夏、季孫宿が晋に行った。
(經六四)葬杞文公。
(経六四)杞文公を葬った。
(經六五)宋華合比出奔衛。
(経六五)宋の華合比が衛に出奔した。
(經六六)秋,九月,大雩。
(経六六)秋九月、大雩を行った。
(經六七)楚薳頗帥師伐吳。
(経六七)楚の䓕頗が軍を率いて呉を攻めた。
(經六八)冬,叔弓如楚。
(経六八)冬、叔弓が楚に行った。
(經六九)齊侯伐北燕。
(経六九)斉侯が北燕を攻めた。
昭公(經七一)七年
昭公(経七一)七年
春,王正月,暨齊平。
春、周暦正月、斉と講和した。
(經七二)三月,公如楚。
(経七二)三月、昭公が楚に行った。
(經七三)叔孫舍如齊蒞盟。
(経七三)叔孫舎が斉に行って会盟に参加した。
(經七四)夏,四月甲辰朔,日有食之。
(経七四)夏四月甲辰朔、日食。
(經七五)秋,八月戊辰,衛侯惡卒。
(経七五)秋八月戊辰、衛侯悪が卒した。
(經七六)九月,公至自楚。
(経七六)九月、昭公が楚から帰った。
(經七七)冬,十有一月癸未,季孫宿卒。
(経七七)冬十一月癸未、季孫宿が卒した。
(經七八)十有二月癸亥,葬衛襄公。
(経七八)十二月癸亥、衛襄公を葬った。
昭公(經八一)八年
昭公(経八一)八年
春,陳侯之弟招殺陳世子偃師。
春、陳侯の弟である招が陳の世子偃師を殺した。
(經八二)夏,四月辛丑,陳侯溺卒。
(経八二)夏四月辛丑、陳侯溺が卒した。
(經八三)叔弓如晉。
(経八三)叔弓が晋に行った。
(經八四)楚人執陳行人於徵師殺之。
(経八四)楚の人々が陳の行人于征師を捕らえて殺した。
(經八五)陳公子留出奔鄭。
(経八五)陳の公子留が鄭に出奔した。
(經八六)秋,搜於紅。
(経八六)秋、紅で大蒐(大閲兵)を行った。
(傳)搜者何?簡車徒也。何以書?蓋以罕書也。
(伝)蒐とは何か。車徒を検閲することである。なぜ記すのか。おそらく稀であるから記すのである。
(經八七)陳人殺其大夫公子過。
(経八七)陳の人々がその大夫公子過を殺した。
