哀公
哀公(經一一)元年
哀公(経一一)元年
春,王正月,公即位。
春、周暦正月、哀公が即位した。
(經一二)楚子、陳侯、隨侯、許男圍蔡。
(経一二)楚子・陳侯・随侯・許男が蔡を包囲した。
(經一三)鼷鼠食郊牛,改卜牛。
(経一三)鼷鼠が郊祭の牛を食らい、改めて卜して牛を換えた。
(經一四)夏,四月辛巳,郊。
(経一四)夏、四月辛巳、郊祭を行った。
(經一五)秋,齊侯、衛侯伐晉。
(経一五)秋、斉侯・衛侯が晋を攻めた。
(經一六)冬,仲孫何忌帥師伐邾婁。
(経一六)冬、仲孫何忌が軍を率いて邾婁を攻めた。
哀公(經二一)二年
哀公(経二一)二年
春,王二月,季孫斯、叔孫州仇、仲孫何忌帥師伐邾婁,取漷東田及沂西田。癸巳,叔孫州仇、仲孫何忌及邾婁子盟於句繹。
春、周暦二月、季孫斯・叔孫州仇・仲孫何忌が軍を率いて邾婁を攻め、漷東の田と沂西の田を取った。癸巳、叔孫州仇・仲孫何忌が邾婁子と句繹で盟を結んだ。
(經二二)夏,四月丙子,衛侯元卒。
(経二二)夏、四月丙子、衛侯元が卒した。
(經二三)滕子來朝。
(経二三)滕子が来て朝見した。
(經二四)晉趙鞅帥師納衛世子蒯瞶於戚。
(経二四)晋の趙鞅が軍を率いて衛の世子蒯瞶を戚に入れようとした。
(傳)戚者何?衛之邑也。曷為不言入於衛?父有子,子不得有父也。
(伝)戚とは何か。衛の城邑である。なぜ衛に入ると書かないのか。父は子を有することができるが、子は父を有することができないからである。
(經二五)秋,八月甲戌,晉趙鞅帥師及鄭軒達帥師戰於栗,鄭師敗績。
(経二五)秋、八月甲戌、晋の趙鞅が率いる軍と鄭の軒達が率いる軍が栗で戦い、鄭の軍は大敗した。
(經二六)冬,十月,葬衛靈公。
(経二六)冬、十月、衛霊公を葬った。
(經二七)十有一月,蔡遷於州來。
(経二七)十一月、蔡は州来に遷った。
(經二八)蔡殺其大夫公子駟。
(経二八)蔡はその大夫公子駟を殺した。
哀公(經三一)三年
哀公(経三一)三年
春,齊國夏、衛石曼姑帥師圍戚。
春、斉の国夏・衛の石曼姑が軍を率いて戚を包囲した。
(傳)齊國夏曷為與衛石曼姑帥師圍戚?伯討也。此其為伯討奈何?曼姑受命乎靈公而立輒,以曼姑之義為固,可以距之也。輒者曷為者也?蒯瞶之子也。然則曷為不立蒯瞶而立輒?蒯瞶為無道,靈公逐蒯瞶而立輒。然則輒之義可以立乎?曰:可。其可奈何?不以父命辭王父命,以王父命辭父命,是父之行乎子也;不以家事辭王事,以王事辭家事,是上之行乎下也。
(伝)斉の国夏がなぜ衛の石曼姑とともに軍を率いて戚を包囲したのか。覇者の討伐である。これはどうして覇者の討伐なのか。曼姑は霊公の命を受けて輒を立て、曼姑の義に照らせばもとより蒯瞶に拒むことができた。輒とは何者か。蒯瞶の子である。ではなぜ蒯瞶を立てずに輒を立てたのか。蒯瞶は無道で、霊公は蒯瞶を逐って輒を立てた。では輒の義として立つことができるのか。答えて曰く、できる。なぜできるのか。父の命をもって祖の命を辞せず、祖の命をもって父の命を辞する、これは父の命が子に行われることである。家事をもって王事を辞せず、王事をもって家事を辞する、これは上に在る者が下に在る者に行われることである。
(經三二)夏,四月甲午,地震。
(経三二)夏、四月甲午、地震があった。
(經三三)五月辛卯,桓宮、僖宮災。
(経三三)五月辛卯、桓宮・僖宮が失火した。
(傳)此皆毀廟也,其言災何?復立也。曷為不言其復立?《春秋》見者不復見也。何以不言及?敵也。何以書?記災也。
(伝)これらはすでに毀された廟であるのに、なぜ「災」と書くのか。改めて立てられたからである。なぜ改めて立てたと書かないのか。《春秋》にすでに現れたものは再び現れないからである。なぜ「及」と書かないのか。対等だからである。なぜ記したのか。災害を記したのである。
(經三四)季孫斯、叔孫州仇帥師城開陽。
(経三四)季孫斯・叔孫州仇が軍を率いて開陽を築いた。
(經三五)宋樂髡帥師伐曹。
(経三五)宋の楽髡が軍を率いて曹を攻めた。
(經三六)秋,七月丙子,季孫斯卒。
(経三六)秋、七月丙子、季孫斯が卒した。
(經三七)蔡人放其大夫公孫獵於吳。
(経三七)蔡の人がその大夫公孫猟を呉に放逐した。
(經三八)冬,十月癸卯,秦伯卒。
(経三八)冬、十月癸卯、秦伯が卒した。
(經三九)叔孫州仇、仲孫何忌帥師圍邾婁。
(経三九)叔孫州仇・仲孫何忌が軍を率いて邾婁を包囲した。
哀公(經四一)四年
哀公(経四一)四年
春,王三月庚戌,盜殺蔡侯申。
春、周暦三月庚戌、盗賊が蔡侯申を殺した。
(傳)弒君賤者窮諸人,此其稱盜以弒何?賤乎賤者也。賤乎賤者孰謂?謂罪人也。
(伝)君を殺した者は、微賤な者であれば極めて「人」と称するのに、ここでは「盗」と称して「弑」を書くのはなぜか。微賤よりさらに微賤な者だからである。微賤よりさらに微賤とは誰を指すのか。罪人を指す。
(經四二)蔡公孫辰出奔吳。
(経四二)蔡の公孫辰が呉に奔った。
(經四三)葬秦惠公。
(経四三)秦恵公を葬った。
(經四四)宋人執小邾婁子。
(経四四)宋の人が小邾婁子を捕らえた。
(經四五)夏,蔡殺其大夫公孫歸姓、公孫霍。
(経四五)夏、蔡はその大夫公孫帰姓・公孫霍を殺した。
(經四六)晉人執戎曼子赤歸於楚。
(経四六)晋の人が戎曼子赤を捕らえ、楚に送った。
(傳)赤者何?戎曼子之名也。其言歸於楚何?子北宮子曰:「闢伯晉而京師楚也。」
(伝)赤とは何か。戎曼子の名である。なぜ「楚に帰す」と書くのか。子北宮子が言った、「晋を覇者とし楚を京師とすることを避けたのである」と。
(經四七)城西郛。
(経四七)西郭を築いた。
(經四八)六月辛丑,蒲社災。
(経四八)六月辛丑、蒲社が失火した。
(傳)蒲社者何?亡國之社也。社者封也,其言災何?亡國之社蓋掩之,掩其上而柴其下。蒲社災,何以書?記災也。
(伝)蒲社とは何か。亡国の社である。社は封土なのに、なぜ「災」と書くのか。亡国の社はおそらく覆われていて、上は覆い、下は柴で囲んであった。蒲社が失火したことをなぜ記すのか。災害を記したのである。
(經四九)秋,八月甲寅,滕子結卒。
(経四九)秋、八月甲寅、滕子結が卒した。
(經四十)冬,十有二月,葬蔡昭公。
(経四十)冬、十二月、蔡昭公を葬った。
(經四十一)葬滕頃公。
(経四十一)滕頃公を葬った。
哀公(經五一)五年
哀公(経五一)五年
春,城比。
春、比を築いた。
(經五二)夏,齊侯伐宋。
(経五二)夏、斉侯が宋を攻めた。
(經五三)晉趙鞅帥師伐衛。
(経五三)晋の趙鞅が軍を率いて衛を攻めた。
(經五四)秋,九月癸酉,齊侯處臼卒。
(経五四)秋、九月癸酉、斉侯処臼が卒した。
(經五五)冬,叔還如齊。
(経五五)冬、叔還が斉に行った。
(經五六)閏月,葬齊景公。
(経五六)閏月、斉景公を葬った。
(傳)閏不書,此何以書?喪以閏數也。喪曷為以閏數?喪數略也。
(伝)閏月は例によって記さないのに、ここでなぜ記すのか。丧事は閏月をもって数えるからである。丧事はなぜ閏月をもって数えるのか。丧事の数え方は略されるからである。
哀公(經六一)六年
哀公(経六一)六年
春,城邾婁葭。
春、邾婁葭を築いた。
(經六二)晉趙鞅帥師伐鮮虞。
(経六二)晋の趙鞅が軍を率いて鮮虞を攻めた。
(經六三)吳伐陳。
(経六三)呉が陳を攻めた。
(經六四)夏,齊國夏及高張來奔。
(経六四)夏、斉の国夏と高張が来て奔した。
(經六五)叔還會吳於柤。
(経六五)叔還が柤で呉と会した。
(經六六)秋,七月庚寅,楚子軫卒。
(経六六)秋、七月庚寅、楚子軫が卒した。
(經六七)齊陽生入於齊。
(経六七)斉の陽生が斉に入った。
